本名=今 日出海(こん・ひでみ)
明治36年11月6日—昭和59年7月30日
没年80歳
神奈川県鎌倉市二階堂651 カトリック霊苑
小説家・評論家。北海道生。東京帝国大学卒。昭和16年第二次世界大戦に従軍報道班員として従軍。18年『比島従軍』を書く。戦後24年『三木清における人間の研究』『山中放浪』などを発表。『天皇の帽子』で25年度直木賞を受賞。43年初代文化庁長官となる。『チョップ先生』『吉田茂』などがある。

彼は天皇の帽子をかぶって以来全く無意識の裡に心境に変化を来した。彼のように平凡な生活を送っているものは、普段からどんな心境を持っていよう筈がない。だが彼は変った。芳子が寒いといおうが、暑いといおうが、貧しいと訴えようが、もう少し人並に遊びたいとほざこうが、馬耳東風になった。もう夫婦揃って白山上の植木市をひやかすではなく、家庭でも滅多に喜怒哀楽を面に表わすことはなくなった。何事があっても、「おおそうか」と頷くだけで、驚くことはなかった。養母が眠るが如き大住生を遂げた時、弥門は久し振りに泣いた。芳子は坊主の読経を聞きながら、時々夫の顔を見守った。さも(人間並に涙が出る間は未だ)大丈夫とでも思っているように。
駆け出すことも、急ぎ足に歩くこともなく、いつも平均に、悠然と歩き、決してわき見はしなかった。表情は穏やかになったが、同僚が気易く「成田君」と声をかけるのを躊躇する何かがあった。彼の顔から寂しさや悲しさを探し出すことは難かしい。言葉をかえていえば表情がなくなったとでも言うべきだろうか。
(天皇の帽子)
今日出海は、今東光の実弟であるが、東京帝国大学在学中から演劇に関わりはじめ、「文芸都市」「文学界」の同人となって評論や随筆なども書いた。パリには半年ほど暮らした。
戦時中は、陸軍報道班員としてフィリピン・マニラに従軍した体験を『山中放浪』などに著し、昭和25年には『天皇の帽子』で兄東光よりも早く直木賞を受賞した。
時の首相・佐藤栄作に請われ文化庁初代長官となり、芸術・文化の国際交流に多大の功績を残したが、昭和58年、学生時代からの親友小林秀雄を亡くし、生きることへの意欲が消え失せてしまった。翌年5月末、風邪に端を発してから急激に衰えを示すようになり、7月、鎌倉の道躰医院に入院。昭和59年7月30日のこの日、遂には帰らぬ人となった。
明るく機微に富んだ、明快な文体や社交的な人間性で知られ、翻訳家、劇作家、舞台演出家などとしても活動した今日出海の墓は、二階堂・瑞泉寺道の細い枝道を迷い込んだどん詰まりのカトリック墓苑にある。
正面には、すっくりと立った二本の杉の木が、森閑とした霊域を真っ直ぐに見据えていた。十字架を右肩に、永井龍男の揮毫による「今家」が刻された黒御影の石碑、〈墓参りも唯お辞儀だけで済むならいいが、大勢で行くのは出来るだけ避けるのが癖になって、墓には興味がない〉と書いていた作家の墓である。石畳の庭に積み木風に切石を組み合わせたシンプルな構成の墓碑は竹林のざわめきにも何等反応を見せなかった。
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