甲賀三郎 こうが・さぶろう(1893—1945)


 

本名=春田能為(はるた・よしため)
明治26年10月5日—昭和20年2月14日 
享年51歳(春照院能圓諦雲居士)
東京都世田谷区瀬田4丁目10–3 慈眼寺(真言宗)




小説家。滋賀県生。東京帝国大学卒。農商務省窒素研究所に技手として勤務の傍らコナン・ドイルに傾倒。大正12年から探偵小説を発表、『琥珀のパイプ』で注目される。昭和3年から作家生活に入り、江戸川乱歩らとともに活躍した。ほかに『支倉事件』、『姿なき怪盗』などがある。









 私は今でもあの夜の光景を思い出すとゾッとする。それは東京に大地震があって聞もない頃であった。
 その日の午後十時過ぎになると、はたして空模様が怪しくなって来て、颱風の音とともにポツリポツリと大粒の雨が落ちて来た。その朝私は新聞に「今夜半颱風帝都に襲来せん」とあるのを見たので役所にいても終日気に病んでいたのだが、不幸にも気象台の観測は見事に適中したのであった。気に病んでいたというのはその夜十二時から二時まで夜警を勤めねばならなかったからで、暴風雨中の夜警というものは、どうも有難いものではない。一体この夜警という奴は、つい一月ばかり前の東都の大震災から始まったもので、あの当時あらゆる交通機関が杜絶して、いろいろの風説が起った時に、焼け残った山ノ手の人々が手に手に得物を持って、いわゆる自警団なるものしたのが始まりである。
 
 白状するが、私はこの渋谷町の高台からはるかに下町の空に、炎々と漲ぎる白煙を見、足もとには道玄坂を上へ上へと逃れて来る足袋はだしに、泥々の衣物を着た避難者の群を見た時には、実際この世はどうなる事かと思った。そうしていろいろの恐ろしい噂に驚かされて、白昼に伝家の一刀を横たえて、家の周囲を歩き廻った一人である。

(琥珀のパイプ)



 

 時代においては江戸川乱歩の好敵手であったが、今となっては乱歩の名声に一歩遅れている感が無きにしも非ずの甲賀三郎。しかし探偵小説という分野に於いてはかつても今も多大な影響を与えつづけているのである。謎解きの面白さを主眼として「本格」という言葉を使いはじめたのも甲賀三郎。乱歩や横溝正史等のいわゆる「変革探偵小説」に対する「本格探偵小説」の一人者たる甲賀三郎はつねに探偵小説の正道を歩んできたのであったが、昭和20年2月、日本少国民文化協会公務のため、九州に赴くも、帰途の鈍行列車内で急性肺炎に冒され、途中列車切替えとなった岡山で下車。同市合同新聞社社長等の手配により13日、友澤病院に入院したのだが、14日午後2時14分、帰らぬ人となってしまった。



 

 東京で日本少国民文化協会公葬ののち、菩提寺の世田谷区玉川瀬田町の慈眼寺に埋葬された甲賀三郎。本堂左脇の参道を入ると赤い頭巾と前垂れの六地蔵。遠くに富士山がうっすらと望める国分寺崖線の丘にある墓域には多摩川から吹き上げてくる風が、カタカタと煩いほど卒塔婆を騒がせている。地蔵尊の斜め向かいに、西に傾きかけた強い日差しに背を向けて深い影を抱いた大振りの五輪塔、地輪に家紋の立ち沢瀉紋、春田家奥津城とある。円柱灯籠を左右に、昭和9年10月に春田能為建之の墓誌、昭和15年3月、旧制松本高校在学中の19歳の時、前穂高で遭難死した長男和郎とともに春田能為(筆名甲賀三郎)の名が妻道子と並んで刻されてある。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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