近藤 東 こんどう・あずま(1904—1988)


 

本名=近藤 東(こんどう・あずま)
明治37年6月24日—昭和63年10月23日 
享年84歳(天智院釈詩学奔放居士)
神奈川県横浜市戸塚区川上町916 東戸塚霊園合掌の郷


 
詩人。東京生。明治大学卒。大学在学中に春山行夫と詩誌『謝肉祭』を創刊。昭和3年鉄道省にはいる。同年『詩と詩論』創刊に参加。モダニズムの詩を発表。7年処女詩集『抒情詩娘』を発表。詩集『万国旗』『紙の薔薇』『百万の祖国の兵』などがある。







橋カラノ下リ勾配。黄包車ハ西瓜ノ種ダ。西瓜ノ種ハコムニストデハナイ。

黄浦江ノ靄ハ拳銃ヲ乱射シタ。ソヴイエエト領事館ノ窓ガ無数ニ散ツテ光ツタ。空色ノ軍艦ガ水兵ヲ吐瀉シタ。陸戦隊。透明ナ哨兵ハ一着ノ黄合羽デアアル。

ボクハ月夜ヲ感ジタ。月夜ヲ。レエニンノ月夜ヲ。寝台ノ中デ。女ハ白系ロシアノ食用薔薇。女ハ機関車ノヤウニオシカカツテ来タ。ボクハ轢死スル。

 (レエニンノ月夜)



 

 思想が弾圧される時代において、「詩のない時代」には詩を作らないのが真の詩人である。──と詩人の使命、姿勢を説いた。
 近藤東は、およそ人間の内部に存在するものを反抗する対象として、つねに詩によって闘う姿勢をとりつづけた典型的なモダニズム詩人の草分けであり、昭和前期にあっては、モダニズム詩の中心的存在であった。
 戦後は東京駅の助役も務め、定年退職するまで30数年、職員でもあった日本国有鉄道(略称国鉄、現・JR)を基盤とした勤労詩運動や朗読詩運動に力を注いでいた近藤であった。
 昭和63年10月23日、横浜・六角橋の自宅で肺がんのため亡くなった。近藤の蔵書は神奈川近代文学館に「近藤東文庫」として管理されている。



 

 低く高く、ラテン音楽の調べを奏でるような風の波。ザワザワと樹影が揺れている。そのたびに水気が抜けきり、黄ばんだり赤茶けたり、虫が食い散らかしたような桜葉が、強い陽を浴びた宙に舞い、散っていく。
 ゴルフ場に隣接する東戸塚霊園合掌の郷、阿弥陀像(過去仏)、釈迦像(現世仏)、弥勒像(未来仏)の白無垢仏「三世」の永代供養墓が見守る墓地にある昭和モダニズムの詩人・近藤東の墓碑、「詩」と、ただ一文字、簡潔にして清浄な趣のある墓であった。
 「石榴ノ花ガ咲イテ居タ ソノ影ガ私ノ部屋ヲ一枚ノ地図ニシタ」と詩集『紙の薔薇』、「午後」の一節が側面に刻されてある。風と枯葉と碑影、午後の距離、静止。——月はまだまだ出ない。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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