本名=小泉藤造(こいずみ・とうぞう)
明治27年4月4日—昭和31年11月27日
享年62歳(泉清院映誉瑞光藤雲居士)
京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町30 法然院(浄土宗)
歌人。神奈川県生。東洋大学卒。尾上柴舟に師事し、「車前草」「水甕」同人となる。大正11年「ポトナム」を創刊、主宰。立命館大学、関西学院大学の教授をつとめ、近代短歌史の研究に優れた業績を残した。歌集に『夕潮』『くさふぢ』『山西前線』、研究書に『明治大正短歌資料大成』『近代短歌史・明治篇』などがある。

生命ありてこの草山の草をしきこれのわが世の愛しくなれり
磯潮の朝の光にまむかひてつれ立ちくればよしきりの鳴く
はりつめし氷の中に金魚ゐて尾鰭ひろげて死にたるあはれ
昼の雨あかるく降る日やひそかなる嘆のありと人は知らざるむ
秋あさき山にむかひてなげかへるわが眼ににほふ桔梗の花
人間の姿あらはに崩れざるさまあはれなり春草の中に
かくありて過ぎゆく日日か雨後の坂路をひとりわがたどりつつ
行き行きて行き終る日にはなきならむ空流れ行くかすかなるもの
雪をふみいでてゆきしが白骨となりて還れり春あさき家に
暮れぐれの明るきなかに見ゆるもの今日の終の庭の木・石
大正9年の北陸中学校から昭和28年の関西学院大学教授に至るまでの三十数年間にも及ぶ教員生活の間、大正11年に「ポトナム短歌会」を創立して以来、歌集『夕潮』『くさふぢ』などを刊行して現実的新抒情主義短歌の神髄を明らかにしてきたのだが、昭和13年暮れに従軍歌人として前線に赴いて生死を超越した運命とも言うべき極致を詠歎した歌集『山西前線』の巻末の一首、ひたすらに戦争の悲惨さや反戦の願いを込めた歌〈東亜の民族ここに戦へり再びかかる戦なからしめ〉が戦後、教職者不適格の烙印のもと公職追放の対象となってしまった。数年後に追放解除はされたのだが、長男戦死の打撃から立ち直ることなく昭和31年11月27日の夕方近く、散歩の途中に倒れて病院に運ばれたのち脳出血のために急逝した。
洛東鹿ヶ谷の法然院山門に至る参道の手前右手の山側にある起伏にとんだ墓地には谷崎潤一郎、河上肇、九鬼周造、川田順などの古色とした墓があるのだが、その鬱然とした旧墓地を少し下った平地に拓かれた新墓地、稲垣足穂の墓もある墓地の入り口近くには〈あまつたふ月よみの光流れたりしらしらとして遠き草原〉と、大ぶりの自然石に刻された苳三の歌碑が見える。一周忌に妻桂子によって建てられた「小泉苳三墓」、側面には苳三に並んで昭和52年に死去した妻の法名も刻まれてあるが、戦死した長男の名は見当たらない。ゆるやかに迫りくる夕闇、不確かな逢魔が時の塋域に杉苔の庭、寒椿の生け垣が雨後のしめやかさに溶け込んで夢幻の光景を醸し出していた。
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