近藤啓太郎 こんどう・けいたろう(1920—2002)


 

本名=近藤啓太郎(こんどう・けいたろう)
大正9年3月25日—平成14年2月1日 
享年81歳(極楽院蜻蛉秋桜居士)
千葉県鴨川市貝渚2002―1 心巖寺(浄土宗)



小説家。三重県生。東京美術学校(現・東京芸術大学)卒。千葉県鴨川中学校で教師として勤務するかたわら、執筆活動を始める。昭和31年『海人舟』で芥川賞受賞。63年『奥村土牛』で読売文学賞受賞。ほかに『冬の嵐』『海』『微笑』『母子像』などがある。







 もちろん、人間の生命は何よりも大切だ。が、他人の生命よりは、自分の生命だ。そして、この世を生きてゆく上に、何よりも大切なのは金銭だと肝に銘じている自分ではないか。まだ、ここ二三日の損害で、自分の生命がどうこうなるというわけではない。しかし、それはここ二三日の単なる損害が問題ではないのである。己の永年の生活信条が、この事実によって根底からゆすぶられることの不安が、ナギにはたまらないのだ。そのくせ、どうにも勇から眼が放せない。するとまた、その事実によっていっそう不安が募つてくる。
 勇が死んだからと云って、自分の生命に何の関係があるのだろう。また、勇が死んだからと云って、別に悲しみを感じるわけでもない。前の家のおっかあが盲腸炎で死んだ時と同じことである。死なずによいものが死んだということと、また同時に見殺しにした親父に対する憤りがあっただけで、おっかあの死を悲しんだわけではないのである。……要するに、親でも子でもない他人の生命に何故こうも苦悩するのか。それとも、一見無関係にか見える他人の生命というものが、自分の生命に何か眼に見えない深いつながりでもあるのか。自分 で生きてゆく上に、他人の生命というものは、何か切っても切れない価値をもっているものなのか。他人の生命を無視して、自分だけで生きてゆけないものなのか。--しかし、ナギはいくら考えても、前の家のおっかあや勇の生命が、自分が生きてゆく上に関係があるとはおもえなかった。

               

(海人舟) 



 

 吉行淳之介、安岡章太郎、遠藤周作らとともに「第三の新人」と呼ばれた近藤啓太郎。父の不義の子であった啓太郎を育ててくれた養母と二人、終戦の翌年11月、見ず知らずの房州鴨川の漁村に都落ちしたのは、偏に啓太郎の「飲む、打つ、買う」と三拍子そろった放蕩のせいで窮地に追い込まれた末のことであった。一年ほどの漁師生活の後、鴨川中学校の図工教師となり、そのかたわら創作活動に入った。同僚教師であった寿美と結婚、昭和31年『海人舟』で芥川賞も受賞したが、痴呆症の母を看取り、『微笑』で描いた癌で闘病中の妻を看取り、平成4年2月に急性大動脈解離という大病で九死に一生を得た啓太郎であったが、平成14年2月1日午前2時、胃がんのため鴨川市八色の自宅波乱の生涯を閉じた。



 

 体調不良の合間を縫って遠出してきた房総の漁師町安房鴨川。近藤啓太郎が二十代半ばのころ住んでいた大浦や川口からもほど近い浄土宗心巖寺は鴨川漁港近くの磯村にあったものを昭和5年に現在地に移転開山したものであるそうな。晩秋のさわやかな風が吹き通る丘の上、境内からは市街や房総の海のきらめきが見える。歌人三ヶ島葭子の忘れ形見であった歌人倉片みなみ(鴨川が生地の古泉千樫門下の中島治太郎と結婚)の夫妻墓もある本堂裏の広大な墓地、近藤家の先祖墓は京都にあり、母の遺骨も納めていたのだが、妻寿美が亡くなった昭和48年、先々代住職との縁でここに墓を建てた。「啓坊さん」と呼んでくれた愛妻と慈しんでくれた養母とともに眠る「近藤家之墓」は朝の逆光に背を向けてたっている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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