本名=小林秀雄(こばやし・ひでお)
明治35年4月11日—昭和58年3月1日
享年80歳(華厳院評林文秀居士)
神奈川県鎌倉市山ノ内1367 東慶寺(臨済宗)
評論家。東京府生。東京帝国大学卒。昭和4年『様々なる意匠』が雑誌『改造』の懸賞評論二席に入選。次いで『志賀直哉』『私小説論』『ドストエフスキーの生活』などを発表。『ゴッホの手紙』で読売文学賞。『本居宣長』により日本文学大賞を受賞。『無常といふ事』『モオツァルト』などがある。

繰返して言はう。本当に、死が到来すれば、万事は休する。従って、われわれに持てるのは、死の予感だけだと言へよう。しかし、これは、どうあっても到来するのである。己れの死を見る者はゐないが、日常、他人の死を、己れの眼で確かめてゐない人はないのであり、死の予感は、其処に、しっかりと根を下してゐるからである。死は、私達の世界に、その痕跡しか残さない。残すや否や、別の世界に去るのだが、その痕跡たる独特な性質には、誰の眼にも、見紛ひやうのないものがある。生きた肉体が屍体となる。この決定的な外物の変化は、これを眺める者の心に、この人は死んだといふ言葉を、呼び覚まさずにはゐない。
(本居宣長)
〈死は背後からやってくる。沖の干潟にいつ潮が満ちるかと皆ながめてゐるが、実は潮は磯の方から満ちるものだ。(中略)自然は、生物の成長の準備をするが、ある時期が来れば死の準備をするであらう。〉(『青年と老年』)——。
まさに死ぬことへの協力のように、死の前の長い沈黙。近代文学批評の確立者であり、日本の知識人の苦悩に道筋をつけようと模索したのだったが、晩年はゴルフ一辺倒の生活になっていた。昭和57年3月末に体調をくずし、翌年1月早々発熱、3月1日午前1時40分、信濃町の慶応義塾大学病院において膀胱がんのため永眠。次の日、好きだった桜花が咲くのを見ることなく、鎌倉雪の下の終の棲家へと還っていった。
江戸の昔、縁切寺といわれた北鎌倉の東慶寺、寺地は山門から本堂、水月堂、松ヶ岡宝蔵を経て杉木立の墓苑へとただ一筋にながながと続いている。
小林秀雄が住職に頼んで崖下を削って設えた墓所。細々とした流れに石橋が架かっている。覆いかぶさっている楓の大木の下、塋域の全てが苔むしている。戦前に関西の骨董屋で見つけ、久しく自宅の庭に据えられていた鎌倉時代のものと推定される五輪塔、その水円に浮彫りされた仏像、点描画のようにチラチラと光る土墳の草の葉端。生前の激しい心を鎮めるように、穏やかで和らかな空気に包まれた懐かしい風景であった。
——〈徒然わぶる人は、如何なる心ならむ、紛るる方無く、唯独り在るのみこそよけれ〉。
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