青野季吉 あおの・すえきち(1890—1961)                    


 

本名=青野季吉(あおの・すえきち)    
明治23年2月24日—昭和36年6月23日 
享年71歳                
東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園13区25側9番


 
評論家。新潟県生。早稲田大学卒。大正4年読売新聞社に入社、争議を指導し解雇される。大正11年『心霊の滅亡』で認められ「種蒔く人」同人となり、第一次日本共産党に入党。13年共産党との関係を絶ち、「文芸戦線」の理論家として活動。『調べた芸術』『自然生長と目的意識』などがある。






 

 しかして作家が自己を探求し、自己を批判するといふことは、云ふまでもなく彼の生活を土臺にして行はれるのである。その生活に立って彼は自己を觀、人生を觀、且つ人間を創造するのである。一人の作家の全的な理解のために、彼の生活の知解が重要視されるのはそのためである。しかし作家の生活と云ふ場合には、彼の限られた現實生活ばかりでなしに、無限のひろがりをもつ可能的生活もふくまれることを忘れてはならない。人間はじっさいに只一つの現實生活しか營むことの出来ないやうに運命づけられてゐるが、可能的にはいくつもの生活を生きることが、出来るやうに造られてゐる。
特に優れた作家の場合においてさうである。
                                                          
 (散文精神の問題)

 


 

 〈わたくしは、作家や詩人になる野心も、まして批評家になる野心など、内にひそめてゐたわけではない。むしろさういふ存在として早くから自己を限定することを拒みつづけてゐた。そのまへに、先づ「人間になること」といふ觀念に支配されてゐたのだ〉という彼の青年期への感慨は、社会主義者として、文芸批評家としての存在を通しても、晩年においても、そのスタンスは純粋に変わることはなかった。
 昭和36年6月23日、東京信濃町の慶応義塾大学病院で胃がんにより没した青野季吉。初期プロレタリア文学運動の理論的な指導者の足跡は、今日にあっても消えてはいない。
 『愚者の夜』で昭和54年度芥川賞を受賞した青野聰は子息である。



 

 青野季吉はプロレタリア作家だが、山本七平、宮本百合子、伊藤整、壷井栄、豊田三郎、大江賢次、佐々木邦、角川源義、村上一郎、小川未明、久保栄、野口雨情、河井酔茗、有吉佐和子、徳田秋声など、主義主張は違えども、武蔵野の面影を遺すこの小平霊園の墓原に集い眠っている。
 細い道すじの先、松の大木を巻きながら焚き火の煙がたなびいている塋域には、何か、明日香の巨石を思わせるような粗々とした石塊が待ちかまえていた。自署を刻したプレートが埋め込まれて中央の円型の窪みはそのまま背後に飛び出しており、その塊の前には香立てのために小石が五、六個転がっていた。
 〈おのれを空しくせよ これおのれを失ふには非らず 全うする道なり〉。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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