會津八一 あいづ・やいち(1881—1956)                         


 

本名=會津八一(あいづ・やいち)
明治14年8月1日—昭和31年11月21日 
享年75歳(渾斎秋艸道人)❖八一忌・秋艸忌 
新潟県新潟市中央区西堀通3番町797 瑞光寺(曹洞宗)



歌人。新潟県生。早稲田大学卒。大正13年処女歌集『南京新唱』を刊行。昭和6年早稲田大学教授。20年空襲により罹災し、新潟に帰郷。21年「夕刊ニヒガタ」社長。『會津八一全歌集』で読売文学賞受賞。歌集『鹿鳴集』『山光集』、随筆集『渾齋随筆』などがある。






 

おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ

あめつちにわれひとりゐてたつごときこのさびしさをきみはほほゑむ

あらしふくふるきみやこのなかぞらのいりひのくもにもゆるたふかな
   
やまばとのとよもすやどのしづもりになれはもゆくかねむるごくと        

ひとのよにひとなきごとくたかぶれるまづしきわれをまもりこしかも    

わたつみのそこゆくうをのひれにさへひびけこのかねのりのみために (生涯最後の歌)

 


 

 43歳で死んだ若山牧水でさえ9000首の歌を遺しているのに、75歳まで生きた八一はわずか1036首の歌しか遺していない。近代歌人の中では寡作であったが、これは〈自分の気分が索める調子〉を実現するための作歌観からであったと聞いている。昭和31年、この年の夏になってからは、体の不調を語り、鬱々とした日々が続くようになった。11月16日、胃潰瘍で吐血して新潟医科大学病院に入院するが、病状は優れず、21日午後9時48分、冠状動脈硬化症のため息をひきとった。翌朝、晩年を過ごした南浜・秋艸堂に帰った遺体には自ら用意していた「南無阿弥陀仏」の袈裟がかけられた。遺骨は一周忌に瑞光寺の墓に納められたが、東京・練馬の法融寺にも分骨された墓が建てられた。



 

 冬の虹を見た。灰色にどよめく越後の荒海、波頭に落ち込んだ雲の合間に、幻覚のような光彩を滲ませていた。新潟市内の繁華街、三越百貨店から二、三筋離れた一角にあるこの寺の本堂右前に秋艸道人の墓はあった。一般の境内墓地は本堂の左手一帯にあるのだが、八一の墓のみが一基、特段の扱いを受けている。生前の八一は、自分の墓、歌碑について明確な意志表示をしていたというが、清新な庭風にしつらえた塋域は満足いく仕上がりになっているのであろうか。薄暗い寺の軒下に落ちた白椿の残り香、密やかにすりぬけていく光線を巻きつけて庭の木の葉がひらりと舞った。うすれゆく七色のアーチは砂塵の突風にゆらめいて、墓に背を向けた時、虹は消えた。

 


 

 

 

 

 

 

 

                        


 

 

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