阿部 昭 あべ・あきら(1934—1989)                        


 

本名=阿部 昭(あべ・あきら)
昭和9年9月22日—平成元年5月19日 
享年54歳(崇徳院昭誉文学居士)
神奈川県藤沢市鵠沼海岸7丁目1–7 本真寺(浄土宗)



小説家。広島県生。東京大学卒。ラジオ東京(現TBS)勤務をへて、文筆生活にはいる。処女作『子供部屋』で文学界新人賞、『千年』で毎日出版文化賞、『人生の一日』で芸術選奨新人賞を受賞した。芥川賞候補になること六度。『父たちの肖像』『言葉ありき』などがある。






 しかしその時ふっと私の唇をついて出かかったこの一とふしの言葉のおかげで、私は自分が永年心に感じていながらろくに考えもしないできた或る事柄に、あらためて突きあたったように思った。
 いやそうではない、と私は考え直したのだ。あの男の子はきょうという一日のことを完全に忘れ去るのではない。いったんは忘れるかもしれない。だがそれは他のどんな.一日にもまして強く思い出すために、しばらくは忘れたふりをするのにすぎない。そうして彼が何年か先のある日、どこかの海辺を吹きわたるつよい風のなかで、きょうという一日のしかもあの一分たらずの時間を、見知らぬ家の玄関先ですげなく追い返された瞬間と母親が、なにかつまらぬことでよその男に心を傷つけられた瞬間とを思い出すとき、彼は名前を知らないこの私の顔をもありありと思い出すのだ。しかもその記憶はよみがえったが最後、死ぬまでずっと彼につきまとうだろう。
 どうしてあんな何でもないような平凡な一日が、事あるごとにまっさきに思い出されるのか、大人の彼は当或しつづけて一 生を終るだろう。だがそれはその日が---私流に言えば----彼にとって「人生の一日」であったからだとでも言う他はない。
誰にもそういう一日があるにちがいないのだ。われわれの人生が、いつ、どこで、どんなふうにして始まったのか、われわれには知る由もなく、またわれわれが今日まで生きてきたすべての日々を心にしかと刻みつけているわけでもない。にもかかわらずそうした一種の漠々とした古い日常の彼方から、ある一日だけがめぎましくよみがえってくるのはなぜだろう。

(人生の一日)

 


 

 想い出すばかり、美しい海辺の松林は彷徨うほどに儚くも淋しい。砂を巻き上げる海風は今日もふるえているのだが、引地川や橋、少年の夢、別荘地、尼寺、初恋、失意の父や不幸な生涯を閉じた兄、鵠沼とともに歩んだ作品と54年の生涯すべてがあった湘南のこの地で平成元年5月19日、「内向の世代」の作家といわれた阿部昭は急性心不全のため、初夏の海風に乗って忽然と去っていったのだ。〈このつまらない海辺の町。三十何年、この波の音を聞きながら、夜は眠りにつき、朝は目を覚ました。ここはやっぱり僕のふるさとだ。この土地を、僕はどんなにか愛し、にくむ。〉と書いた鵠沼の地つづき、おわりの時に住まいした辻堂東海岸の家から。



 

 栄光と失地、葛藤を生んだ父も、不幸な生涯を終えた長兄も、父の死を〈涼しければ葬るに好しと尼寺を言ひてし人は風にねむれる〉と詠んだ阿部昭も、土地の人がみな尼寺とだけ呼ぶ夢想山本真寺というこの寺の一角、「阿部家之墓」に眠っている。数知れぬ色や匂い、おぼろ気に形を結ぶ記憶に残された全てを納めて。空には二羽のとんびがゆるやかな孤を描いて舞い、背後からの西日を浴びてゆったりと流れる時間。墓地脇の鉄路を「カンカン」という踏切音を響かせながら小田急電車が通るたびに、束の間の静寂は破られてしまうのだが、それでも湘南の海風が墓碑の廻りに優しい海香を運んでくれているように思うと、少しばかりの和りを憶えてなつかしくも幸福な一呼吸をしたのだった。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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