饗庭篁村 あえば・こうそん(1855—1922)                     


 

本名=饗庭与三郎(あえば・よさぶろう)
安政2年8月15日(新暦9月25日)—大正11年6月20日 
享年66歳(勧文院篁村清節居士)
東京都豊島区駒込5丁目5–1 染井霊園2種ハ8号16側



小説家・劇評家。江戸(東京都)生。ほぼ独学。明治7年読売新聞社に入り校正係から文才を認められ記者となる。『両国奇聞』で文名をあげ、19年小説『当世商人気質』などを発表。〈根岸派〉の主導者で、22年から23年にかけて小説集『むら竹』20巻を刊行。『走馬燈』『魂膽』などがある。






 

 朝には紅顔に誇れども夕には白骨となつて消えぬと伏鉦たゝいてチンと澄した和尚も腹が痛むとて俄かに買ひ藥を煎じさせ地震がすれば世直し萬歳楽それでも揺りが止まねバ跣足で庭へ駈け出して潰されぬ用心極楽へ田地の買置して釈迦如來に請判頼んだやうな顔つきでさへ斯くの如くに命は惜しきにまして況んや平生二一天作に屈托して其心構へなきもの卒去らばの際となれば狼狽周章牛分は己が氣で死を早やめるものぞかし光陰は走る箭の如くまた流るゝ水に似たり。

(当世商人気質)



 

 〈戯作者〉の時代から幸田露伴や坪内逍遙らの時代につながっていく変革の時代の代表的な作家であった。別号を竹の屋主人、龍泉居士、太阿居士、南傳二などと使い分け、ほぼ独学ではあったが、彼の和漢の学識を、春の屋主人坪内逍遥は式亭三馬、岩瀬京山、山東京伝、曲亭馬琴ら以上であったと記している。エドガー・アラン・ポーの作品を翻訳した初めての日本人でもあった。
 明治19年、下谷根岸(現・台東区根岸)に住まい、交友のあった岡倉天心や森田思軒、幸田露伴、須藤南翠らと「根岸党」(のち「根岸派」)と呼ばれたグループの中心人物であったが、大正11年6月20日午後2時10分、大阪朝日新聞のために『近松門左衛門の事』執筆中、東大久保の自宅で死去した。



 

 平成の時代に至っては「饗庭篁村」の名を知る人はほとんどいないと思われるが、幸田露伴が篁村と須藤南翠を〈明治20年前後の二文星〉と呼んだように、時代においては屈指の名家であった。しかし、篁村の小説は戯作者、江戸文学の系譜にあり、日々変革していく時代の流れに乗りきれずにあたら和漢の才能を腐らせ、本来の力量を存分に発揮することができなかった。
 ここ駒込、染井の里に広がる墓原の「饗庭篁村墓」、屈曲した石塊に彫られたその筆に、頑強な魂を見る思いがする。 酒と珍書には目がなかったという篁村も、訪れる者とてない薄ら寒い墓地の片隅では、珍書を相手に酒を楽しむのも飽きたことだろう。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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