梅雨まえの週末、キリッと刺すような早朝の陽を浴びた神戸の街並みは、目にも心にも眩しいものがありました。その前の週にも神戸行きを計画していたのですが、計画のずさんさから哀れ不首尾になり、今回改めて仕切り直しということになったもので、一層、心うきうき(墓参りにうきうきというのも変ですが)した気分になってしまいました。それというのも今回アップした「須賀敦子」と「白洲正子」は、六甲の山を挟んで表と裏に眠っていたからです。「須賀敦子の墓」の所在地は六甲の甲山墓園にあるとは知っていたのですが、この冬、一般に公開された旧白洲邸武相荘を訪ねた際、「白洲正子の墓」が三田市の寺にあることを知り、それではと二つの墓を訪ねる計画をたてたものの、なかなか思うように予定がとれず、今回やっと念願かなったというわけでもありました。
白洲正子の「かくれ里」や「十一面観音巡礼」は、かって和辻哲郎の「古寺巡礼」を携え、奈良を彷徨した戦前の学生のように、二十代の私にとっての旅の手引きとなっていました。それらによって越前の平泉寺や近江の木地師の村を訪ね、湖北・渡岸寺の十一面観音などにも巡り会うことが出来ました。後年は「掃苔録」の序文にふれた「西行」についての考察も強く印象に残っています。
須賀敦子については、名前と2、3の作品名しか知識がなく、今回はじめてそれらの作品にふれることが出来たのですが、彼女の卓越した語学力と繊細な感性、何よりも強い魂を持った詩的で香気のあふれる文章に、文壇デビュー後わずか十年で逝った彼女の意識の凝縮(特に「ユルスナールの靴」)をはっきりと感じることができました。
生まれたのは白洲正子の方が遙かに早い(白洲正子・明治43年1月7日/須賀敦子・昭和4年2月1日)のですが、同じ平成10年(須賀敦子・3月20日享年69歳/白洲正子・12月26日享年88歳)に二人は亡くなっています。ともに宗教に非常な関心を持ち、須賀敦子はキリスト教、白洲正子は仏教という違いはあっても、それぞれの作品には宗教がたいへん重く絡んでいます。須賀敦子は作家活動が短かったせいもあり、思いを十分に書き残すことが叶わず、不本意な死であったことでしょうが、白洲正子は「韋駄天のお正」と異名をとったように、生来の行動力にものいわせ、思いの全てを書き残し、十分な満足感があったのではないでしょうか。そのような二人が時、所を同じくして、六甲の山懐に眠っていることに深い感慨を覚えずにはいられません。
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