30年前に購入したチーク材の書棚は飴色も深みを醸し、時々の楽しさを写した家族写真のフォトスタンドが書籍の前に数点並んでいます。
先月からは逆立ちをした天使のマークがあるミルクキャラメルの黄色い箱と枯れ枝葉のついた大振りの蜜柑が飾られ、何やら奇妙な雰囲気になってきました。蜜柑の方は遠に食べ尽くしてしまった残党のようなもので水っ気もなくなり、しわしわの彩度を失った黄色い肌を晒しているのですが、なんとなく捨てられないままになっています。
大正8年春の古都奈良、博文館編集部員犬田卯(しげる)と住井すゑの出会いがありました。非凡な投稿少女の首実検を兼ねての約束でもありましたが、紐解けば深田久弥と北畠八穂の出会いのように、文学の糸には切っても切ることのできない運命的なつながりがあるようです。のち夫婦となった犬田とすゑの推進した農民文学運動は、犬田の死後、すゑによって引き継がれ、常陸なる「大地のエクボ」、牛久沼の畔に「橋のない川」を生み、被差別部落運動や反戦平和運動となって広がっていきます。すゑは90歳にして「橋のない川」第七部を平成4年9月5日に刊行、まだなお、第八部のしめくくりまでも準備していたようですが、以後、一行の文字をも書き付けることなく「橋のない川」第八部とのみ書かれた原稿用紙が書斎の机上に遺されました。
秘書役として「住井すゑ」の一切を仕切ってきた長女かほり夫妻は、今も絶えることのない来訪者の応対にいそがしい毎日を送っておられるようです。不意の訪問者にもかかわらず書斎にまで入れていただき、勉強会として使われている「抱樸舎」の案内さえ受けました。チョコレートとキャラメルが大好物で「すゑ」の歯は晩年には全て抜け落ちてしまっていたなどとという意外な話も聞かせていただきました。そんな「すゑ」を愛してやまない夫妻から「せっかく来ていただいたのですから」と帰り際にいただいた黄色いキャラメルの箱ひとつ。
「さまざまの墓石が乱調子に置いてある八坪ほどの墓地、ここからの眺めを、緒方はいつも美しいと思ふ。ここからの眺めは、東が塞がってゐるだけで、ほかは、三方とりどりに面白い。」----------尾崎家が代々神主として仕えていた宗我神社の100mほど西南にある墓地は「美しい墓地からの眺め」に書かれてあるとおりの風景でありました。酒匂川のむこうには小田原の街も霞んで見え、墓地の周りは蜜柑畑が取り巻いています。採り忘れられたたわわな蜜柑を眺めながら穏やかな日向ぼっこを楽しんでいると、今は主のない尾崎一雄宅の向かい、門札に「尾崎」とあった家の裏口から歩いてきた年配の女性が声をかけてきました。手にはスーパーのビニール袋に入った満杯の蜜柑。「どちらから?----先生の墓は右側の大きな石で-----」と、矢継ぎ早の言葉、おかげで知りたかったことのほとんどをなんなく聞きだすことができました。「暢気眼鏡」で一躍、愛読者の人気者になった「芳兵衛」さんは90歳を越され、病を得て現在療養中とのこと。お会いできなかったことはかえすがえすも心残りとなりましたが、軽やかになった気持ちとは裏腹に、手荷物となった蜜柑のありがたくも重かったこと。
更新をひかえてこの後記を書いている傍らの書棚に、何の縁もゆかりもない「尾崎一雄」「住井すゑ」の匂いを持ったキャラメルと蜜柑、かずかずの永い夜を経た物語の息吹をゆらめかせて、愛おしく並んで時を過ごしているのですが、急激に輝きを失ってしまった蜜柑を目にしていると、少しずつざわめきのような不安が募ってきました。
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