唐突ですが、私の最も好きな画家はポール・ゴーギャンです。
ゴッホに傾倒した時期もありましたが、長じてからは、なんといってもゴーギャンです。強烈な「悪」の匂いさえ放つ複雑な面貌に、いいしれぬ畏怖さえ覚えます。強欲とも思える熱い欲望、絶望に打ち震える死の翳り、陽光に輝く華々しい果実、青く沈む夜の闇、それぞれに一つの世界があり、時にして、背を向けた一人の人間が叫んでおりました。それは、ゴーギャンであり、あるいは魅入る私自身であったのかも知れません。
「文学者掃苔録」資料ファイルの最終ページ。差し込まれた一枚の紙は既に黄ばみ始め、紙面の一行目に「あとがき」と示してあります。
1897年1月18日、デンマークで一人の娘が死んだ。
「私の娘が20歳になった時のために」と附記された一冊の粗末な彼のノート、髪に花を挿したタヒチ娘が表紙に描かれた「アリーヌのための手帳」。第一ページに書かれた献辞に「私の娘アリーヌにこの手帳は捧げられる。夢のように脈絡もないきれぎれのノート、人生のようにすべて断片より成る。」とある。
しかし、娘アリーヌはこの手帳を読むことなく、19歳で死んだ。
彼は妻メットに無限の悲しみを送った。「私は自分の娘を喪った。私はもう神を愛さない。私の母と同じく、娘はアリーヌという名前だった。人は皆それぞれ自分流に愛する。或る人々には愛は棺を前にして燃え上がる、他の人々には……私は知らない。アリーヌの墓はそこにあるだろう、花を飾られて、見かけだけは。彼女の墓はしかし此処にある、私のすぐ側にある。私の涙は花だ、生きた花だ(福永武彦訳)」
希望を失った画家の遺作となるはずだった左右4.5メートル、天地1.7メートルのタブロー。青とヴェロネーズ緑色を帯びた風景の中央に果実を摘んでいる女、右下には横を向いて眠っている赤ん坊、左下にはうずくまり、頬杖をつく老婆が死を受け入れようとしている。全ては森陰の小川のほとりで起こったイブの一代記。
上部左右の隅はクローム黄に塗られ、右には画家の署名が、左には題辞が描かれている。
ポール・ゴーギャン----《我々は何處から来たか、我々とは何か、我々は何處へ行くか》
この後、何を書き続けようとしたのか、書き継ぐ言葉が見つからなかったのか、今は思い出すことができません。尻切れトンボのようなこの文章を時々読み返しているのですが、これ以上書き足すことができないまま、徒に時は至っています。
「文学者掃苔録」がこの先、どれほどかの歩みを綴り、400名を越え、やがて500名も過ぎ、600名に達するのは何時のことになるのでしょうか。いまだ道半ばというところですが、私自身が納得する、ある時点において、その総てを一冊の本にしたいと願っています。自費出版とかそういうことではなく、装幀、製本等、総て私個人の手による、生涯ただ一冊の特装本を。そして、その本の最終ページに「あとがき」が記してあるなら、それは私の「遺す言葉」に違いありません。
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