私の本棚にある一冊の本、表題は「野溝七生子というひと」。著者は矢川澄子。澁澤龍彦のかっての伴侶でもありました。
「死者っていったいどこに、どのようなかたちで存在しているのでしょう。」と野溝七生子に問いかけてから12年後、雪深い北信濃、こぶしの花が咲き始めた黒姫の里で自裁。彼女はこうも書く。「死はやはり終焉であり、寂滅でしかないのでしょうね。だからこそ煩悩からの解放であり救いでもあるわけで、またそうであってくれなければ困る。なぜってさもなければわたしたち、自殺することさえできなくなってしまいますものね。」
自裁の理由が何であったのか。あんなにも毅然と矜持を固守した野溝七生子の脆くも惚けた晩年の姿を垣間見ての恐れ、あるいは「黄昏」の曖昧不安な存在を否定し、「死」にいっさいの解放を委ねたのでありましょうか。
「秋」と「黄昏」を愛した吉田健一。密葬のとき、友人河上徹太郎は健一の愛したラフォルグの詩「はかない臨終」を詠みました。
彼が風邪を引いたのは、この間の秋だった。
或る美しい日の夕方、
角笛の嘆きに聞き惚れて遅くなったのだ。
彼は角笛の音と秋のために、
「愛の死」をするものもあることを示した。
もう彼が祭りの日に部屋に鍵をかけて、
「歴史」と閉ぢ籠もることもないだろう。
この世に来るのが早過ぎた彼は、おとなしくこの世から去ったのだ。
だから私の廻りで聴いてゐる人達よ、もうめいめい家へお帰りなさい。
青山二郎は中原中也を追悼します。
「中原が死んで、中原が色々の追悼文を書かれた。死んだ中原が、生き返へって、これを讀んだら、死んだ中原が、あの調子で、何んとぶうぶう言ふことだらう。併し死ねば、何を言はれようと、當人に開係したことではない。たとへば、野田書房が、あの様な名文を書かと、阿部六郎氏が、穴のあいた話をしようと、河上徹太郎が、立派に生きて居た中原を書き貫かうと、小林が追悼詩を書かうと、死んだ中原の知つたことではない。死んだ人間がうまい追悼文を書かれたり、あとで詩を賞められたり、生前の理解が深からうと、死んだ人間に何の意味があらう。色々の暮し方が、色々の生活を生み、色々の教養が、色々な褻術にたづさはらせるが、それに就て、怒りを感じる中原を失つたことは、ただただ一人の藝術家を失ったことであつて、残念これに過ぎたるものはない。」
青山や河上の友人、小林秀雄の晩年は小説も読まず、時評も書かなかったといいますが、その批判に対して痛烈な一文があります。
「ハア、もうごめんです。文士が口をひらけば小説小説と言ってゐる様な文壇は世界中にない。まるでフーテン病院だね。僕も長い間入院してゐたもんですよ。今に小説といふ病気は日本文士を食ひ殺すでせうよ。小説のために人生の目的や理想を認め、これをはっきり信仰して小説を書いてゐる文士が果して何人ゐるだらう。今日の小説の大流行には、健全な精神的動機がかけてゐる様に思はれてなりません。彼等が抱いてゐるものは、何かしら一種絶望的な力だ。まあそんな深刻な問題はともかくとして、芸術の世界も宏大なものだ。画でも音楽でも論じて、一つ健康でもとり戻してはどうかね。」
今回アップした「野溝七生子」の墓、野の草群に埋もれた観音像を思い浮かべていると、ふっくらとした指先が思いがけない機敏さで色々な形を紡いでゆく幼子の綾取りのように、とりとめもない「死」や「生」、「人生の目的」などというものが、交互に現れては消えていきました。
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