我々はどこから来たのか

我々はどこから来たかという問いに対して、「母親のお腹の中」という答えがあります。その場合「我々」というものを客観的に見て「人間」に置き換えているわけです。しかし、「我々」というのは1人称であり、主観的なものです。主観というのは自分の頭の中でどういうことが起きているかに関わることす。また、「我々はどこから来たか」という問いが意識的な活動である以上、この「我々」というものも意識活動です。つまり問題は、「我々はどこから来たか」などと意識的に考えてしまう我々はどこから来たのか、ということです。

個人としての我々は、意識的存在となる前は赤ん坊でした。赤ん坊は無意識的存在です。無意識的存在に意識が生じるのは自発的なことではなく、大人の影響です。大人の意識的活動が赤ん坊に伝わることによって、赤ん坊に意識が生じるのだと思われます。大人の意識的活動も前の世代から受け継いだものなわけですから、その起源が問題になります。

人類という集団としての我々が意識的存在になる前はサルのようなものです。「我々はどこから来たか」という意識的な問いが生じたのは、言語が生じた時だと思われます。サルのようなものであった我々が言語によって「我々は」と考えた瞬間から、我々はサルとは違うような気になります。さっきまでサルであった我々と、今はサルでない「我々」が違うもののような気がするので「我々はどこから来たのか」という疑問が生まれるわけです。

人類にとっての言語は、赤ん坊にとっての言語と違って外からやってきたものではないでしょう。つまり、我々の内側に生じたわけです。言語というのは抽象的な記号による世界の表現ですから、抽象化の能力が必要です。大脳という抽象化の器官が発達することによって人類の頭の中に言語が生じた時に意識的な自省が始まり、その時「我々」という概念も生まれたのだと考えられます。

個人としても集団としても、元々無意識の世界であったところに「我々」という概念が生じたわけですから、「我々」というのは無意識を母胎としているわけです。ところが、「我々」というのは「意識する我々」のことだと考えがちなので、「無意識の世界は我々には含まれない」ことになってしまいます。そうやって、自分の母胎である無意識を排除すると、「我々はどこから来たのか」という疑問が生じることになります。

無意識の世界も我々の一部であると考えると、それは身体的記憶としてここにあるわけですから、我々はどこかから来たわけではなくて、常にここにいるのだということになります。あるいは、我々は完全に主観的な無意識の世界から来たので、主観的な時間においてはそこに戻って行くのだとも言えます。また、睡眠のプロセスでも無意識的状態を経るので、そこに戻ることになります。といっても、「そこ」という場所がどこかにあるわけではありません。「そこ」というのは言わば影の世界であって、影の世界は比喩的にしか表現できないのです。我々はどこかからやってきたのではないのだ、ということになります。