生と死

Bさんが生きているのと死んだのとでは我々にとって何が違うでしょうか。Bさんは、生きていれば我々に対して何かを表現し、我々の表現に対して何かの反応をします。表現したり反応したりするのが人間関係というものであり、死んでしまえばそういう関係が失われるわけです。

Bさんが死んでしまっても、我々の中に記憶は残ります。我々の脳に残ったBさんの記憶は、物質的には我々の一部ですが、それと同時に、情報としてはBさんの一部でもあります。Bさんが生きて目の前に存在するときでも、我々にとってのBさんとは、Bさんとの関係に基いて我々が脳の中に再構成したイメージです。つまり、Bさんが生きていようと死んでいようと、我々が生きている限りその一部は情報として我々の中に存在するわけです。したがって、Bさんの死はBさんの存在が完全に失われることではありません。また、Bさんの一部が我々の中に存在するのと同様に、生きているBさんの中には我々の一部も存在するので、したがって、Bさんが死ぬことは我々の一部が失われることでもあります。

Bさんが死んでも、Bさんの一部は我々の中に残るので、完全な死はありえないことになります。Bさんの死が完全であるためには、Bさんの一部を記憶として持つ我々も死んでしまわなければなりませんが、我々が死んでしまえばBさんの記憶はどこにも存在しないので、「Bさんの死」も存在しません。

以上のように考えると、死とは「他人の中に情報としてのみ存在すること」です。一方、生とは「他人の中に情報として存在するとともに、他人の外に肉体として存在すること」と考えられるので、死は生の一部なわけです。なぜ生や死について考えるのに他人を媒介にしなければならないかというと、我々の生が自分の中だけで完結するものではないからです。我々の中には個人性と社会性が同時に存在しています。だから、村上春樹が「ノルウェイの森」に書いているように、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在する」ということになります。

死が生の一部であるなら、残りの部分は何でしょうか。生から死を引いた残りは「他人の外に肉体としてのみ存在すること」です。我々はその肉体に関する記憶を欠いているわけです。それは、死体です。死は「他人の中に記憶としてのみ存在すること」であって、死体の性質が死なのではありません。Bさんが死んでしまったとしても、我々がBさんを記憶している限り、その「死体」はBさんとして我々に働きかけます。完全な死というものは存在しないのです。死は肉体の状態ではなく、生の一部なので、肉体の状態としての死を明確に定義することはできないはずです。人間の肉体に生死の境界をつけようとすると、必然的に人格を無視することになるでしょう。

 → 死とは何か(その2)