現在とは何か

現在とは何でしょうか。現在を特定するには時間を意識する我々が存在しなければなりません。また、我々が時間を意識するとき、我々の意識はいつも現在にあります。我々は過去や未来のことも考えますが、その場合も「現在において考えている」ことに変わりはありません。つまり、現在というのは我々の意識の時間的な所在を表す言葉です。全く同じようなことが「ここ」についても言えます。空間を意識する我々が存在しなければ「ここ」という場所は特定できないし、我々が存在する場所は我々がどこにいようと「ここ」です。つまり、「ここ」は我々の意識の空間的な所在を表します。したがって、我々の意識は時間軸上の一点かつ空間内の一点(時空の一点)を占めるということになります。「意識=現在・ここ」ということです。

我々は空間内を移動して「ここ」に戻って来ることはできるが、時間軸上を行き来することはできない、ということになっています。それは本当でしょうか。確かに、我々は「ここ」から出発してあちこち移動した後、再びその場所に戻って来ることができますが、そこが前と全く同じ場所だと言えるのでしょうか。我々が移動している間には時間が経ちます。時間が経つというのは地球が動くということであり、「ここ」は前と同じ場所ではありません。時間が経ったのにもかかわらず「ここ」が前と同じ「ここ」であるというのは天動説です。時間が経っても静止しているような場所は存在しません。つまり、我々は「現在」に再び戻って来ることができないのと同様に、「ここ」に戻って来ることもできないのです。

そんな厳密なことを言う必要はない、「ここ」の様子は昨日と何も変わらないのだから「ここ」は昨日と同じ「ここ」であり、「ここ」に戻って来ることはできる、と考えることもできます。その場合は、何も変わらない以上「現在」は昨日と同じなのであって、我々は「現在」に戻ってくることもできることになります。何の変化もないのなら、時間の経過を考えることもできないからです。要するに「ここ」と「現在」、つまり空間と時間を分けて考えることはできないのです。

過去や未来はどうでしょうか。過去は我々の記憶として、未来は我々の予測として、どちらも現在において我々の頭の中にあります。つまり過去も未来も実際は現在の一部です。しかし、過去は既に確定しているが、未来は未だ確定していないように思えます。過去の記憶には確かなものもあるが、未来が予測通りかどうかは「未来」になってみなければわかりません。ところで、その記憶が確かであるというのは、どうしてわかるのでしょうか。記憶の内容が本当かどうかは、現実の世界で確認してみればわかりますが、実際に確認できるのは未来です。記憶の確かさは未来において確認されるのですから、記憶というのは未来の予測でもあるということになります。また、未来の予測にも確実なものがありますが、それは過去の経験の記憶に基いています。つまり、未来の予測は記憶の延長でもあるわけです。

そういうわけで、過去と未来は分けられず、どちらも現在の一部です。我々は現在の自分の中で「既に確定している」と思っていることを過去と呼び、「未だ確定していない」と思っていることを未来と呼んでいるだけなのです。

→ 時間論