主観と客観

近代化というのは文明的知識を人口の大半が共有するようになる過程であり、そこでは普遍的な知識に価値があることになります。常に客観的であることが良いことであるとされるわけです。客観というのは自分の外側にある価値観に従うことです。

現代社会において主観を追求することはあまり評価されません。文明社会の維持には客観性が必要なので、我々は客観的知識に基く行動が求められます。では、客観に基く行動が不都合な結果を招いたらどうなるでしょうか。その場合、その客観的知識を修正しなければなりませんが、客観的知識というものは勝手に修正できません。しかるべき専門的権威に書面(視覚言語)をもって修正を提案する必要があります。しかも、その提案は受け入れられるとは限りません。我々は自分で自分の行動基準を修正できないために、無力感を抱くことになります。

客観に基いて行動すると、自分ひとりでは客観を修正して不都合な結果を受け入れるということができません。つまり、専門的権威が客観的行動基準を修正してくれるまで、いつまでも不都合を招く行動を繰り返すことになります。その場合は、客観的な基準に従っているから正しいのだという幻想を抱いているわけです。それは無力感の裏返しであるとも言えます。

主観に基づいて行動すると、そのような無力感を避けることができます。行動の結果として不都合が生じたら、それを受け入れて自分の主観を修正すれば良いからです。現実というのは不都合として現れるものなので、主観を修正し続けることが現実との接触を保つということでもあります。結果によって行動を修正するのが責任というものです。主観的に行動することは行動基準を自由に修正できるということですが、主観的に行動して不都合な結果を受け入れなければ、主観は現実を離れた幻想に留まります。