文章について

養老孟司が「考えるヒト」に書いているように「言語は視覚と聴覚の領域が重なる部分に発生する」わけですが、言語にとって視覚と聴覚は同等ではありません。一人の人間が母国語を身に付ける過程でも、集団としての人類の言語の歴史においても、文字の獲得以前に言語は存在します。まず音声だけの言語があり、文字を獲得した場合には視覚言語も付け加わることになります。つまり、聴覚言語はある言語の全体を構成し得るが、視覚言語は聴覚言語に付随する形でしか存在しないといえます。

音声だけの言語はありますが、文字だけの言語というものはありません。視覚言語は背後に音声言語がなくては存在できないのです。文章というのは書かれた言葉、つまり視覚言語です。視覚言語は聴覚言語なしでは存在し得ないので「完璧な文章なんて存在しない」とも言えるわけです。どんな文章も、ある意味では存在しなくても構わないはずです。

ところで、視覚言語と聴覚言語の関係は文明と文化の関係と同じです。文明というのは視覚が生み出すものです。人間が脳の中の情報を脳の外に具現化するのが文明であり、巨大建造物や複雑な機械などがその産物です。一方、人間が外界との関係についての情報を(非視覚的に)内面化するのが文化です。その産物は手作りの品物や身体による表現ですが、本当の主役は職人や表現者です。彼等の技能は複雑な機械にも優るものであり、巨大建造物以上の感動を生むこともあります。

視覚言語が聴覚言語なしでは成り立たないように、文明も文化なしには存在できません。巨大建造物も複雑な機械も、それを作る人間の身体を制御する文化なしには存在できないからです。一方、文化だけが存在する社会はあり得ます。文明社会はそのような社会を「未開」と呼びますが、文化だけで存在できる以上、文明の方が文章と同様に「ある意味では存在しなくても構わない」のです。

情報の視覚的な具現化である文明の巨大さを支えるのは、視覚言語である文章(文書)だと思われます。文明も文章も「現在の人口を支えるため」存在しますが、本質的にはなくても構わないものなのですから、必要最小限にとどめることが肝心だと思われます。そして、文明や文章という意識的情報を最小限にとどめることで美しさ面白さが生まれると考えられます。