リラックスできないのはなぜか

お気楽に暮らすには? 電子書籍「お気楽論」

リラックスするというのは、意識と身体の連動を解くということだ。では、意識と身体の連動をやめるとどうなるかというと、「考えた通りにできない」とか「考えてもいないことをしてしまう」というようなことになる。ところが、意識の側から見ると「考えた通りにできない」のは失敗であり、「考えてもいないことをしてしまう」のは無意味である。つまり、意識と身体の連動を解くというのは、失敗や無意味を受け入れるということに等しい。

自分の行動を「失敗」や「無意味」というように否定的にとらえてしまうのは、それが「考えた通りではない結果」だからである。「考えた通りではない結果」を「考えたこと」を基準に見ると「失敗」や「無意味」というものになってしまう。しかし、自分の行動を「考えたこと」とは関係なく(つまりクールに)眺めてみれば、それはただの現実自分である。だから結局のところ、リラックスするというのは現実の自分を受け入れることである。

現実の自分を受け入れるのが簡単じゃないのは、失敗や無意味なことをしたくないからだ。失敗すると誰かに責められるかも知れないし、無意味なことをするとバカにされるかも知れない。だから、現実の自分というものを人に見せたくないわけである。では、我々を責めたりバカにしたりする「誰か」というのは一体どういう人なんだろうか。その人は、我々が失敗したり無意味なことをすると責めたりバカにするような人物である。その人は「失敗」や「無意味」が嫌いなわけだから、自分でもそういうことはしたくないだろう。ということは、その人もリラックスできない人だということになる。

我々がリラックスできないのは、失敗したり無意味なことをするのがイヤだからだ。しかし、我々は失敗することによって現実について何かを学ぶのだし、無意味に見えることの中にこそ創造の材料がある。失敗や無意味なことから何かを得ることができたとしたら、それらは失敗でも無意味でもなかったことになる。そして、自分の考えた通りでない行動が失敗や無意味ではなかったとすると、「自分の考えたこと」というのはあまりたいしたもんではなかったということが判る。さらに、失敗や無意味さをバカにする他人というものもあまりたいしたもんではないのだということも判る。だから、誰かにバカにされることを気にする必要はないのだ。それどころか、バカにされそうなことをやった方がリラックスできるのだ。

自分の考えがたいしたもんではなかったと判るのはおもしろくないが、自分の考えがたいしたもんではないというのは、自分の全てがたいしたもんではないというのとは違う。「意味を考える意識」だけの自分より、「意味なんか考えていない身体」も含めた自分の方が長い目で見れば大したもんなのだ、ということである。そのことさえ理解すればリラックスできるはずだが、それが解るには時間がかかるのだ。

 → リラックスと不安