否定と肯定

我々が何かを意識するときは、その何かに注意を集中してそれ以外の全てを無視しようとするのであり、意識されないものごとは否定されています。否定というのは何かの情報を意識の外に追いやることではないでしょうか。我々が意識できるものごとの範囲は限られているので、「それ以外の全て」というのは我々にとっての世界のほとんど全部です。我々が意識的に何かを正当化するときには、自分が世界全体を把握しているという前提に基いていることになります。また、意識は世界を抽象的に把握していますが、抽象とは具体的情報を捨てることです。我々の意識はものごとの一部に注目して残りの情報を捨てることにより世界全体を把握しているつもりになります。世界全体を把握しているつもりだからこそ、何かを否定することができるわけです。

しかし、意識的に把握された世界というのは抽象化された世界であって、意識が肯定的にとらえるのは更にその一部でしかありません。抽象化の際に捨てられる具体的情報や、意識されずに否定された情報は、無意識的情報となります。意識による肯定は常に否定をともない、意識によって否定されたものごとは抑圧されるということです。意識的思考における肯定は「ある前提と矛盾しない」という判断に基いているので、そこで否定された無意識的情報は矛盾の源となります。また、前提とは「過去の自分が肯定した情報」ですから、それに反する情報には自分にとってのも含まれます。

意識的思考による情報の肯定とは矛盾を排除することですが、行動による肯定は「情報に基いて行動してみる」ということです。我々は何らかの予測に基いて行動しますが、完全な予測というものは有り得ないので、目的を達成するためには試行錯誤しなければなりません。そのために必要な具体的情報には、矛盾した情報や過去の自分が否定した情報も含まれます。それらは意識が否定した無意識的情報です。つまり、行動によって肯定するためには、過去の自分を否定し矛盾や悪とみなしていた情報を受け入れる必要があります。そうすることによって発見があり自由になれるのだとも考えられます。

思考による肯定は無意識的情報を否定し、行動による肯定は無意識的情報を肯定するので、我々の思考と行動はなかなか一致しないわけです。一方、行動による否定は「意識的情報と無関係に行動する」ことといえます。それは暴力、狂気、犯罪といった無秩序であり、思考による否定が抑圧しようとするものを逆に解放するわけです。意識的思考に偏り過ぎると、無意識的情報を否定するために行動がうまくいかなくなり、その状態を脱するために逆に無意識的情報に偏ってしまい無秩序に至ると考えることができます。