キレるのはなぜか

最近の子どもがキレるのはなぜでしょうか。キレるということは、その直前までは我慢していたと考えられます。我々が我慢することとは何かというと「自分のやりたいこと」です。やりたくないことを我慢するはずがありません。では、なぜ自分のやりたいことを我慢していたのでしょうか。それは学校というところが「自分のやりたいこと」ではなく「やるべきこと」をするところだからです。

我々がなぜやりたいことを我慢してきたかというと「将来のため」でした。近代化や経済成長という従来の価値観は常に問題を将来に先送りします。しかし、近代化や経済成長はある程度達成されたので、我々は既に「将来」に到達したことになります。「将来」に到達してしまうと「将来のために我慢する」という価値観は崩壊します。つまり、今では学校的な我慢の目的がよくわからなくなってきたわけです。目的のはっきりしない我慢というのは人間をイライラさせます。そのイライラを解消するには新たな価値観を示さなくてはなりません。それをせずにさらに我慢だけを迫れば、イライラは反発となるでしょう。反発が自分のやりたいことに向かえばいいのですが、それがわからないのでキレて「やるべきこと」を否定するわけです。

キレた子どもは暴力を振るったりするわけですが、暴力を振るうことが自分のやりたいことだったのではないでしょう。「やりたいこと」がわからないので、とりあえず「やるべきこと」の反対の「やるべきでないこと」をやってしまったのだと思われます。自分のやりたいことを知るのは簡単そうで難しいことです。やるべきことというのは社会的要請による決まりごとですが、やりたいことは人それぞれです。やりたいことというのは自分で見つけるものであって、親や先生に教えてもらうことはできません。今までの学校というのは「やるべきこと」を身に付ける場なので、学校に通っているうちにやりたいことを我慢することが身に付きます。そして、我慢が身に付くとますます自分のやりたいことはわからなくなってしまいます。

子どもは価値観の崩壊を直観的に感じていると思います。古い価値観に基づく「やるべきこと」に反発して「やるべきでないこと」をやるのが暴力や学級崩壊であり、「やるべきでないこと」をやっても仕方ないと感じて「やりたいこと」を自分なりに探すのが不登校なのかも知れません。従来の価値観が崩れつつあるのだから、我々大人も新たな価値観を探す必要があります。それは子どもが自分のやりたいことを探す過程と重なるはずです。また、それは創造的過程であり、子どもに学べることも多いはずです。