暴力について

暴力とは何かを行動によって否定しようとすることだと思われます。暴力は現実の一部を「自分にとっての悪」とみなして物理的に否定しようとすることであり、自分と対立する秩序の破壊であると考えられます。ところで、とは自分の中にあって否定したい部分の投影です。外側の何かを破壊したとしても、自分の内側にあるものは消えないので、別のものに投影されることになり、暴力的衝動は消えないでしょう。

自己の一部を否定した状態が暴力を生むわけですが、ではなぜ自己の一部を否定しなければならないのでしょうか。それは我々が大きな社会に暮らしているからです。大きな社会では個人と社会という概念が矛盾するので、社会というものを成り立たせるためには個人の一部を否定して、個人を抽象的な人格として扱わなければなりません。そして、そのことを個人が受け入れた時、自己の一部を自ら否定(抑圧)しているわけです。

自己の一部を否定した場合、その部分についての制御を放棄することになります。制御を放棄された部分の自己というのは放置された無秩序であり、それが行動として現れたのが暴力です。暴力は社会に受け入れられないので、社会的要請を全面的に受け入れてしまった個人としては、自らのそのような一面をますます強く否定しなければなりません。強く否定するために、否定的価値を外部の存在に無理やり投影しそれを破壊しようとします。それはより強い暴力であり、さらに強く否定しなければならなくなります。つまり、個人が自己の一部を、社会に受け入れられないという理由で自ら否定すると、暴力的行動が循環的にエスカレートすることになります。

社会が個人の暴力性を完全に否定しようとすると、個人は暴力性を社会の外部に向けることになります。社会の外部とは社会に入る前の子供や、別の社会や、人間以外の自然などです。したがって、暴力を制御するには、社会的秩序に収まらない個人の中の無秩序を個人が自ら受け入れることが必要であり、個人の中に社会に収まらない部分が存在することを社会が認める必要もあるということになります。存在を認めることで初めて制御ということが可能になるからです。社会と個人の矛盾を単に排除しようとすると、かえって暴力は制御できなくなると考えられます。