社会はどこにあるか

社会というのはどこにあるのでしょうか。社会を構成する人々は色々なところにいるので、人々のいる場所全体に社会というものがあるのでしょうか。そうではなく、社会というのは複数の人間の持つ機能です。機能というのは対象(複数の人間)の中にあるのではなく、認識する側にあります。社会は社会というものを考える人の頭の中にあるわけです。

現代社会は個人によって構成されていることになっていますが、社会を構成する個人が頭の中で社会というものを考えるとややこしいことになります。「個人が社会を構成し、社会は個人の中にある」ということになって無限循環に陥るのです。これは、個人は大脳的概念であり、社会は(機能なので)小脳的概念だからです。個人と社会は大脳と小脳の不整合によって、常に矛盾します。社会というものを考えた途端、その人は完全な個人ではありえなくなるのです。

この矛盾が示すのは、社会は(完全な)個人によって構成されるのではない、ということです。社会を構成する人間は個人ではなく役割として存在するのです。役割とは仕事というような意味ではなく、他人に記憶されているということです。自ら固有の身体としてではなく、他人の記憶としての存在が社会を構成するのです。

しかし、現代社会は個人によって構成されていることになっていて、そこでは他人の記憶としての自己は軽視されます。ところが、大脳的な概念である個人が小脳的概念である社会の単位として機能することは原理的に無理です。そこで、他人の記憶としての自己の代わりに機能するのがお金なのです。