学級崩壊

小学校の教室で子供がじっと座って勉強しなくなり、いわゆる「学級崩壊」が起きているという。学校というところは子供に文明的知識を教えるところだったので、現代文明が行き詰まってきて文明的知識の価値が下がったことが「学級崩壊」なるものにつながるのだと思う。そもそも、子供にとって教室でじっと座って勉強することなんかが面白いわけがない。それを今まで100年位続けてこられたのは、子供も「そういうもんなんだろう」と思っていたからだ。そして、子供が「そういうもんなんだろう」と考えるのは、親や教師が「そういうもんだ」と確信しているからである。「大人が確信しているからには、そういうもんなんだろう」と子供は大人の言うことを信じていたのである。

「面白くなくても、学校ではじっと座って勉強するもんだ」と大人が確信していたのは、「そうやって辛抱していると、会社や役所に就職できるから」であり、「それが一番いい」と考えていたからだ。「辛抱していると会社に就職できる」ということや「それが一番いい」ということが本当かどうかは別にして、とにかく大人がそう確信していたという点が肝心である。しかし、日本経済の成長が終わり、「会社や役所に就職する」ということの印象が「それが一番いい」という感じではなくなってくると、「面白くなくても、じっと座って勉強するもんだ」という確信の根拠が崩れてくる。

「面白くなくても、じっと座って勉強するもんだ」という大人の確信は次第にあやふやになってきたが、「じゃあ、他にどうすればいいのか」という案はまだない。まだないので、とりあえず現状維持で「面白くなくても、じっと座って勉強するもんだ」ということにしておく。しかし、それを言っている大人には確信がなくて、子供はそういうことにはすごく敏感なのだ。自信のないことを他人に言って説得力があるわけがない。そういうわけで、「面白くなくても、じっと座って勉強するもんだ」などと言われても、子供は「そういうもんなんだな」と思えないのだろう。だから、子供は本来の「じっと座って勉強するのなんか面白くない」というところに戻ってしまったのだろうと思う。

今考えるべきことは「どうすれば子供が座って勉強するか」ではないと思う。それは子供にとって結構大変なことであり、確信を持って言われないと従えないようなことである。「他に思い付かないから」では納得しないだろう。「子供が座って勉強すること」の重要性に対する確信は持てなくなった以上、それをやらせることはもう無理なのだ。学校というのは子供を社会に適応させるためのもので、その社会が変化しつつあるわけだから、学校のあり方だって変わって当然だ。我々は今後の社会がどういうものになるのかを見ながら、そこで暮らす子供のために何を教えることができるかを考えなくてはならないのだと僕は思う。

僕の考えでは、これから生きていく上で大事なのは頭で覚えることではなく身体で覚えることだ。身体で覚えることというのは、じっと座って勉強するようなものではない。じっと座っていなくてもできる勉強というものを考えた方がいいと思う。じっと座っていなくてもできる勉強というのは、多分じっと座ってする勉強よりも面白いはずだ。一方、「じっとしている」ということだって大切である。じっと座っていなくてもできる勉強が面白くなってくると「もっと詳しく知りたいから本を読む」とか「細かい作業に熱中する」とか「もっとうまくやる方法を深く考える」という方向に進んで、子供は「じっとしている」ことも自ら身に付けるだろう。