自信とリラックス

「自信=自分を信じる」だとする。問題は信じるとはどういうことかである。信じるというのは「正しいということにする」というようなことだろう。何かを信じる時、我々はその何かをわざわざ「正しいということにする」わけだから、それが正しいのかどうかは解っていないのだ。正しいかどうか解らないことを、解らないにもかかわらず「正しいということにする」のが信じるということである。つまり、間違っているかも知れないことを勝手に正しいことにするのだから、信じるというのは常に「リスク込み」なのである。

自信がない時、我々は自分が正しいのかどうかが解らなくて、それが解ったら自信が持てそうな気がするものだ。だから、自分が正しいことを証明しようとしたり、正しいことは何かと考えたりしてしまう。でも、自分が正しいことを証明しても自分を信じることはできないのだ。証明されたとしたら、「正しいことにする」までもなく正しいわけだから、そこには信じる余地がない。そして、自信がない状態では「自分が正しいのかどうかが解らない」のだから信じる余地がある。自信がない状態というのは、自信を持つことができる状態なわけである。でも、そう考えたからといって、急に自信を持てるようになるわけではない。それはなぜだろう?

「正しいかどうか解らないが、正しいことにする」というのは、実は「客観的には正しいかどうか解らないが、主観的には正しいことにする」ということである。つまり、主観を重視するということだ。客観というのは目に見える形で他人に伝えられることで、主観は自分がどう感じるかである。だから、信じるというのは「他人にどう見えるかは知らないけど、自分にとっては正しいと感じる」である。自信というのは「他人はどうあれ、主観的には自分は正しいと感じる」ことだ。だから、自信を持とうと思ったら「自分の主観に基いて出来上がった自分」というものが必要になる。

「主観に基いて出来た自分」というのは「やりたいことをやっている自分」である。自信というのは、自分の正しさを証明することで得られるのではなくて、やりたいことをやることで生まれてくるものなのだ。それには自分のやりたいことは何かを把握しなくてはならない。では、やりたいことというのはどうすれば把握できるのだろうか。

まず第一に、やりたいことというのは、やるべきことではない。というのは、やるべきことをやるのは客観的に見て正しいことで、そこに主観は無いからだ。また、やりたいことは「やってはいけないこと」でもない。やってはいけないことも「やるべきこと」と同じように客観的に決まっているものだ。

やりたいことというのは多分「やらなくてもいいようなこと」、つまり無意味なことである。やりたいことというのは、無意味なことの中から主観によって探し出すものなのだ。それにはまず無意味なことを色々やってみる必要がある。つまり、無意味さというものを許容しなくてはならない。それはリラックスするということでもある。