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母の一生

2013.01.31. 掲載
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目次
1.はじめに
2.出生から結婚まで
3.結婚と家庭
4.家庭外の活動
5.療養
6.私にとっての母
7.運命・生きる価値
8.まとめ



1.はじめに

これまでに、母について、「母の歌」、「子を亡くした母の心」というタイトルでこのサイトに掲載して来た。その最後として、私の知っている母の一生を、私が受けた影響を中心にまとめておこうと思う。


2.出生から結婚まで

母 野村まさゑは、1910年(明治43年)8月8日、石崖久吉 と 石崖とよの長女として生まれた。父親は1919年(大正8年)、母が8歳の時、スペイン風邪で急死し、母親の女手一つで育てられた。

1927年(昭和2年)3月、兵庫県立淡路高等女学校卒業し、大丸百貨店秘書課に勤務、里見純吉専務の専属秘書を務めた。その頃の状況は、「母の歌」 の 「3.娘時代の母の歌」に詳しく書いている。

里見純吉専務は、大丸百貨店初代社長の下村正太郎に請われて大丸に入社し、後の二代目社長となった。大阪ロータリークラブの会長も歴任、クリスチャンでもあった。


3.結婚と家庭

1)年表

1935年(昭和10年)5月16日 母、野村偕爾と結婚
1936年(昭和11年)4月16日 長男 望 出生
1939年(昭和14年)7月28日 長女 順 出生
1941年(昭和16年)6月 父、香川県庁に赴任
1942年(昭和17年)3月20日 父、結核発病(父 32歳、母 32歳、望 5歳、順 2歳)
1944年(昭和19年)1月 父、兵庫県庁に転任(単身)
1944年(昭和19年)9月 高松から神戸へ転居
1944年(昭和19年)12月12日 次男 義 出生
1947年(昭和22年)5月27日 長女 順 死亡(順 7歳、父 36歳、母 36歳、望 11歳、義 2歳)
1948年(昭和23年)7月17日 母、結核発病(母 37歳、父 37歳、望 12歳、義 3歳)
1965年(昭和40年)7月14日 母、死亡(母 54歳、父 54歳、望 29歳、義 20歳)

2)結婚

父と母は尋常小学校の同級生で、級長・副級長だったと聞いたことがある。恋愛結婚で、1935年(昭和10年)5月16日に、郷里の福良自由メソジスト教会において結婚式を挙げた。父の家は祖父(私の祖祖父)の代からキリスト教信者だった。



図1.結婚記念写真


図2.結婚記念写真

3)歌

母は、女学生のころから歌が好きだったようだが、結婚してからも、家の中で母の歌声の絶えることはなかった。その詳細は「母の歌」に詳しく記載したので省略する。

4)夫婦

父と母は小学校の幼友達であり、婚約中よくドイツ映画やフランス映画を一緒に観たようだ。

父は、ペンと箸以外は手にしたことがなく、不器用で、手作業を低く見て、頭を使うことを高く見るタイプだった。反対に、母は器用で行動的、実行型であったが、九州帝大出の父を尊敬していて、雑用を頼むことは一切なかった。もちろん、頼まれても、父はできなかったに違いない。高松から神戸への転居の際も、引っ越しの作業は、妊娠7ヶ月の母がすべて一人で行ったのを覚えている。

小学5年から6年にかけて、私は父によく反抗したが、それを母は泣いて止めた。しかし、そのために夫婦仲が悪くなる様子はなかった。ただ、私が汁物好みで、父が汁物嫌いであるのを知っている母が、汁物をよく作ってくれて、それに文句を言う父のことばを聞き流していたことを覚えている。

5)こども

私は、小さい頃から、ものを壊すのが好きだったらしく、おもちゃはもちろん、家具とか品物をずいぶん壊したようだが、それでも叱られた記憶は全く無い。喧嘩相手の親が怒鳴り込んで来ても、それに取り合わず、私をかばった。本当は私の方が悪かったときなど、内心極まりが悪かった。

このように、私は母にあまり叱られたことはないが、一度、厳しく叱られたことがある。それは4〜5歳のころだった。母の財布からお金を、たしか五厘だったと思うが、盗んで近くの駄菓子屋で飴か何かを買った時のことだ。母は私を叱り、父の黒く太い帯で柱にしばりつけて、買物にいってしまった。大声で泣きわめいていると、隣のおばさんが、何ごとかと家の中に入ってきて、帯をはずしてくれたことがあった。

もう一つ、人参が嫌で、食べないと言って頑張ると、家の外に出されたことを覚えているが、ほかには叱られた記憶がない。

母はこどもを叱ることは少なかったが、よく仕事を手伝わせ、仕事をさせた。高松に住んでいたころは、井戸水を汲んで五右衛門風呂に水を満たす仕事とか、毛糸を巻く作業、母の肩たたきなど、神戸に戻ってからは、8歳の私に、家族5人が入る防空壕を作らせたりもした。

母が8歳の時にスペイン風邪で父親を亡くし、それ以来、母親を助けて大きくなったので、親の仕事を子が手伝うのは当然と思っていたのだろう。私は小さいころから作ることが好きだったので、そのような手伝いは喜んでしたが、肩たたきや糸巻きなどの単純作業は嫌で、足踏み式肩叩き器を作ろうと、いろいろ設計したことがある。

妹 順が亡くなってからは、弟の義を溺愛して甘やかすので、私は「義がおれば、僕なんかいなくてもいいんやろ!」と口走ったことがあった。長男として大事に育てられ、妹に嫉妬したことなどなかったのに、この時はじめて弟に嫉妬した。それは一度だけだから、それから母は意識して私に淋しい思いをさせなかったのだろう。

しかし、弟を甘やかすことはその後も続き、それを見ていて、自分が親になれば、こどもを甘やかすことはするまいと思った。実際に親となって、息子をずいぶん可愛がったが、どのような欲求でも認めるということをしなかったのは、この時の経験があるからだ。

母は何か私が良いことをする度に、「やっぱり兄ちゃんね」とほめてくれた。それは口ぐせのようでもあったが、妹や弟がそのようにほめられていた記憶はないので、私は特別だったのかも分からない。しかし、何でも自分に都合の良いように解釈する性格なので、あんがい、私の思い込みに過ぎないのかもしれない。いずれにしても、このことばから、私は人生でもっとも大きな影響を受けたのではないかという気がする。

こどもの頃、映画は父に連れられて観ることが多かったが、母と観た「巴里のアメリカ人」は、ミュージカルの楽しさを始めて教えてくれた忘れることのできない映画である。

ジーン・ケリーとレスリー・キャロンが主演するこの映画を、母と一緒に神戸元町のABCで見た。映画が始まると同時に、ショックと興奮で夢中になっていた。鮮やかな色彩、躍動、呆れるほど見事な踊りと歌、これがアメリカの映画というものだなと感嘆した。

恋が実りそうになって、嬉しくて嬉しくてたまらないという風情で、ジーン・ケリーが道を歩きながらス・ワンダフルを唄うのだが、それは驚きと同時に羨望でもあった。そして、嬉しい気持をストレートに表現することを、美しいと思った。

歌好きの母と一緒に、この素晴らしいミュージカル映画を観ることができたことを、嬉しく懐かしく思い出している。私が高校1年の夏のことだった。

6)妹 順の死

思いがけない妹 順の死は、母に非常な悲しみを与えた。その悲しみを綴った手記を、「子を亡くした母の心」のタイトルでこのサイトに載せている。

順が亡くなって1年ばかり過ぎたころ、母は結核を発病した。その6年前に父が結核を発病し、5歳と2歳の幼子を抱え、必死で看病をしていた母の姿をおぼろげながら覚えている。二階で寝ている父は、用があると階段に本を投げつけた。その音を聞くと、母は大急ぎで階段を駆け上って行く。そして、半年あまりで父は回復した。

その後、戦争は末期に進み、食糧事情も極端に悪くなり、敗戦後の混乱を経験したが、いずれも無事に乗り越え、家の前の広場でテニスに興じるほど母は丈夫だった。その母が結核を発病したのは、恐らく順の死の心労が一番の要因だったのであろう。


4.家庭外の活動

母は外向的で、行動的な人だった。その点では父と正反対である。結核から回復すると、家庭内だけに留まらず、家庭外でも活動するようになった。

1)PTA

1948年(昭和23年)ころから全国の学校にPTAが作られた。母はPTAの役員の一人に加えてもらったようだ。PTAの集いで母が歌った「かたたちの花」を聞いてファンとなった小学4年の同級生がいたことを、2004年のクラス会で知った。


図3.高羽小学校PTA役員 前列左から3番目が母、その隣が田林会長、荒尾校長


図4.左から荒尾校長、田林会長、4番目が母


2)県公舎でのお世話

県公舎は80戸あまりからなり、幾つかの戸数単位で自治組織があったようで、母はそのお世話をしていた。以下の回覧は、その一つである。私は母の書く文字が好きだった。


図4.母が書いた回覧


5.療養

1)病状

妹 順が亡くなって1年余りで、母は結核を発病して甲南病院に入院し、退院後も通院で気胸やストレプトマイシンなどの注射を受け、一旦は回復したが、その後再発し、亡くなる数年前からは、少し身体を動かしても呼吸困難になる状態だった。

2)生き方

そのような状態でありながら、母は一度も不安や愚痴をもらしたことがなく、暗いはずの病人が一番明るくふるまい、讃美歌を歌ってくれと私に頼むのだった。私が母に教えられた一番大きなことは、人生の最後をどのように過ごすかと言うことだったと思う。

3)信仰

母はキリスト教の家庭に嫁ぎ、自分も若い頃洗礼を受けたと聞くが、それほど熱心な信者であるとは思えなかった。病状が悪化し、自分の死を自覚するようになって、信仰が深くなって行ったのではないかと推測している。

病人である母が、家族の中で一番明るく生きたのは、信仰のせいばかりではなく、持って生まれた性格、8歳で父を失い、懸命に生きてきたという体験もまた大きく影響しているのだろう。

私は、宇宙の根源となるものの存在を信じるが、それは一つの宗教が説く神では決してない。だから、神を信じないと母に話したのだが、そう言う私を母は恐いと言った。その私に、母は何度も讃美歌を歌ってくれと頼み、それに応えて、歌うことができなくなった母のために、何度も歌った。


6.私にとっての母

ここまで、私が知っている母の一生をまとめてきたが、最後に、私にとって母はどのような存在だったのかをふり返り、まとめておきたい。

1)常に私を認めてくれた人

私は、少なくと小学校に入学したころから、母に叱られた記憶がない。しかし、普通世間一般のほめことばもなかった。私が何か良いことをしたときは、必ず「やっぱり兄ちゃんね」と言われた。それは高校生、大学生となっても同じで、私はそのことばに安心し、嬉しかった。

自分は母にほめられて育ってきたと思い、人にもそう話してきたが、賢い、偉い、上手、などのいわゆるほめことばではない。

いま考えてみて、「やっぱり兄ちゃんね」は、ほめことばではなく、私を信頼し、認めていることばだと思う。ほめられるよりも、信頼されていることの方が、当人には重く影響するのは当然だろう。

その母の信頼に対して、私もまた信頼を裏切らないようにという気持が心の深層に生じたのかも分からない。それが良循環したのかもしれない。

いずれにしても、このことばから、私は人生でもっとも大きな影響を受けたと思っている。父から「やっぱり兄ちゃんね」と言われたことはない。

2)歌う喜びを教えてくれた人

母は私に歌う喜びを教えようとして歌っていたのではなく、自分が歌いたいから、歌うのが楽しいから、歌っていたのは間違いないと思う。

それを見聞きして、私も歌う喜びを知ったというのが正確なのだが、簡単に、このように表現した。このことに関しては「母の歌」に詳述したので、省略する。

3)生き方を教えてくれた人

私が知っている母は、明るく快活で、活気があり、行動的だった。私は、そのような母が好きだった。

亡くなる前の数年間、母は寝たきりの状態だった。家庭は暗くなるが、その中で、母は愚痴をこぼさず、不安も漏らさず、家族の中で一番明るくふるまっていた。

私が母に教えられた一番大きなことは、人生の最後をどのように過ごすかと言うことだったと思う。

ここで、私が知っている普段の母の写真を、幾つか並べることにする。娘時代の写真家庭の外での写真と違って、ずいぶん温和な顔となっている。昔は結婚式の母の顔を好んだが、今は、自分の記憶にある普段の母の顔の方が好きだ。



図5.父と母 縁側で


図6.弟と母 家の外で


図7.ご近所の奥様方と 御影の豪邸の門前で


図8.親しい人と 県公舎で


図9.家の前で


図10.寝たきりになって

4)私を医学部に行かせた人

私が大学受験に医学部を選んだのは高校2年の春、結核に罹っている両親から懇願されたからで、それまでは工学部に行くつもりでいた。父に言われても進路を変えることは絶対にしなかった筈だが、病身の母に頼まれると、不本意ではあるが、断ることはできなかった。

12年前に小学校4年庄野学級のクラス会を持ったが、妹の死がきっかけで、私は医師になる決心をしたのだとほとんどの人が思っていたことを知った。妹を可愛く思ってきたことも、母が我が娘の死を嘆き悲しんだことも、その後間もなく、母が結核を発病したことも、皆の覚えている通りなのだが、私が医師の道に進んだきっかけは、そのような美談ではなかったのだ。

5)考えるよりも実行した人

母はいろいろ考えたり、心配するよりも、実行する人で、その点、父とは正反対であった。父は箸とペン以外を持ったことがなく、力仕事は皆目駄目で、頭を使うことが高等と思っていた。しかし、手紙一通を書くのに、母はその場でさっと書き上げるのに対して、父は一週間を要した。

正反対の性格は、案外相性が良いのかもしれない。私は、小学5年生のころから父に反抗し、その後も高校生のころまで、父を反面教師として生きてきたが、母は決して父の悪口を言わず、夫婦仲は良かった。二人は小学校で机を並べた仲、性格の違いはお互い承知で、惹かれあったのかもしれない。けだし、夫婦のことは、こどもにも分からないということなのだろう。

父はよく本を読み、博識で、私はそれを「歩く百科事典」と軽蔑した。母は読む本も少なく、実用的な「羽仁もと子著作集」などを読み、家計簿を付けていた。本好きは私も父と同じで、こどもの頃から今も続いている。しかし、対象は自分が関心のある分野に限り、教養のための書籍は選ばないところが、父と大きく異なる。

私は母の血を多分に受けているようで、行動、実行、実用を大事に思う性格である。しかし、最近になって反面教師としてではない父の影響も受けていることが分かるようになった。それは、このようなまとめを作る際にいろいろ考えるが、それが苦痛ではなくて非常に楽しいからだ。妻にも、父によく似てきたと言われる。

父のように、考えることが作ることよりも高等であるとは思わないが、この二つは対立するものではなく、別個の概念であろう。

母ではなく、父のことばが私の生き方に大きく影響したことが一度ある。

高校2年の夏のこと、家へ遊びに来た友人のN君が、人生設計や将来像についてはっきりした意見を話した。それを聞いて、母は非常に感心し、そのことを父に話した。

それに対して、父は、「小さく固まらない方が良い、回り道も必要」と言って、明確な将来像を持っていない私の方を評価してくれた。このことばは、以来、私のこころの中で生きている。

そのほか、たくさんの書籍、レコード、画集などを家の中に置いていたのも、母ではなく、父がしたことで、その恩恵を思うようになってきた。私が反発した父の話も、母からは聞けない類の話であり、素直に感謝すべきなのだろう。


7.運命・生きる価値

8歳で亡くなった妹、2歳から母の病気のため元気な母と過ごした経験が少ない弟、二人に比べて私はほんとうに幸運である。同じ親から生まれたのに、このように違う!

母も8歳で父親を亡くして育ち、36歳で我が子の死という悲しみを経験、その後は結核を発病し、54歳で亡くなった。運命はまこと不公平である。

運命は、私が若い頃からずっと考えて来た問題で、「心に生きることば第8章:運命」 と 「運命について」に私の考えたことを載せた。また、「東日本大震災から学ぶ」でも、因果応報は完全に否定されたと書いた。

今回、「母の一生」をまとめて、改めて運命を痛感したが、運命に対する考えに変わりはない。

8歳で亡くなった妹を思うと、生きる価値は何かと思わざるを得ない。この生きる価値について、私は20歳ころに考え抜いた時期があった。そして自分なりの結論を得て、その後の人生を生きてきた。そのことについては、「心に生きることば第9章:価値」にまとめているが、この「母の一生」をまとめた後も考えに変わりはない。

妹も、与えられた生命を、常に力いっぱい楽しんだのだと思う。それが生きる価値だと私は思っている。


8.まとめ

1.「母の歌子を亡くした母の心(手記)」とこれの、3回に分けて、母の一生をまとめた。

2.健康な時の母をよく知らない弟のためにと思ってまとめ始めたが、途中から、これは自分のためでも
 あることに気がついた。

3.まとめている内に、母や妹、弟のこと、それに自分のことまでが、より分かるようになった。

4.父についての、これまでの否定的な見方が、少し肯定的に変わった。このことを母は一番喜ぶのでは
 ないかと思う。

5.両親、同胞と比べて自分の幸運を痛感し、運命に感謝している。


<2013.1.31.>

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