健康と富と成功を得る方法をいかに立派に説いても、性の問題を無視しては完全とはいえない。というよりも、致命的と言ってよいほどの手落ちともいえる。
性愛それによってもたらされるところの悦びと幸福感は、心身両面の健康生活にとって極めて重要な要素を占めている。その事実を心霊治療家としての生きた体験から説明して認識していただくのが本章の目的である。
人間だれしも、何らかの偏見を多かれ少なかれ持っているものである。偏見のない完璧な人間というのは有り得ない。というのも、人間は所詮は生れ落ちてから今日に至るまでの教育と環境、遺伝、さまざまな人生体験によって形成されてきたものだからである。
そうなると、性の問題一つに絞ってみた場合、結局それも、あなたならあなたの生まれついた家庭、地方、国家の信仰上のしきたりや親のしつけ等によって大きく影響を受けているはずである。
私はこれからそういったしきたりや偏見、タブーの一切から離れて、全く新しい自由な観点から性を検討してみたいと思うのである。あなたもしばらくは一切の既成観念から離れて、虚心坦懐に私の意見に耳を傾けていただきたいのである。
第一に認識していただきたいのは、性にはこれが正常と言えるような基準又は標準は無いということである。
人間一人一人顔が違うように性欲の強さも千差万別であり、性的快感がもたらすところの真理的、感情的、知能的な効果もまた千差万別である。あなたがこれが正常だと思い込んでいるのは実はあなたにとっての正常を意味するのであって、それを他人に当てはめて批評するのは間違いである。
たとえば、体位の問題を取り上げてみても、かつてキリストの宣教師が太平洋諸島の布教に乗り出した時、男上位のいわゆる「正常位」を説いたら原住民はバカバカしいとばかりに大笑いしたという話が残っている。
原住民は原住民なりの楽しい体位があるわけであり、それを正常と思っているのである。
今でもそこの原住民は宣教師の説いた正常位のことを「宣教師体位」と呼んで笑いのタネにしているという。
この一例を見てもわかるように、ところ変われば品かわるのたとえで、性についての考えも小は地域により大は民族によってみな異なるのが実情である。性についての偏見を拭い去るには世界各地の性風習をあるがままに見ていくのが一番効果的のように思われる。
現代の文明国では一夫一婦制が当たり前のように考えられているが、歴史を見ればわかるように、古代はむろんのこと、つい近世まで、いずこの国でも一夫多妻が一般的であった。その例を中国に見てみよう。
西洋人はモーゼを文明の始祖のように考えがちであるが、モーゼの時代つまり今から五千年前には中国は西洋よりはるかに高度の文明を持っていた。すでに文字があり、すぐれた詩人や劇作家がいた。三千年前には絹織物を完成し、陶器の製造法を考案し、印刷術も発明していた。孔子のごとき大思想家が輩出して透徹した人生訓を残している。
その中国の性観念は至って単純で正直であった。つまり性は楽しむべきものである。が、度が過ぎると飽きがくるから、夫婦でいろいろと工夫をこらし勉強もしなくてはならない、というものであった。
男が妻をめとる。妻は夫を喜ばせるべく秘術をつくし、夫も妻に不満の残らないよう工夫する。仕事のうえでも孔子の教えを忠実に守って、夫は夫として妻は妻としての義務にいそしむ。
が、やがて子供が出来る。妻には母親としても仕事が付加されるから、夫に対する妻としての務めがおろそかになる。そこで二番目の妻をめとる。若くて元気だから夫は満足し、家事の手伝いもするから正妻も助かる。
が、その二番目の妻にもやがて子供ができる。すると男はあっさりと三番目の妻をめとる。妻としてではなく妾として何人かの女を置く者もいる。あるいは遊郭にハケ口を求める者もおろう。中国ではこうしたことが別に「悪い」ことではなく、トラブルの原因となることもなく、ごく当たり前のこととして認められていたのである。
趣きは少し異なるが、古代ギリシャにおいては男女ともに肉体美そのものを崇拝した。男性は観衆の前で一糸まとわず肉体を披露し、女性は腰のまわりにごく簡単なものをまとうだけでその肉感あふれる美を披露したものだった。
そこには淑女ぶった態度も恥辱心もない。ひたすら自分の肉体の美しさを自慢し、見る者はまたそれを賛美したのだった。
当然のことながら、この風習は性生活そのものにも反映し、肉体的か快楽を求める風潮が強かった。同性愛も盛んで、別に異常とはみなされなかった。
インドにおいても性の悦びを心ゆくまで楽しもうとする風潮は強く、古来、単なる動物的交接以上の楽しみを得るための工夫がなされてきた。
その指導書が、今では古典として残っている有名な『カーマ・スートラ』で、性生活におけるマナーやエチケットまで細かく指導している。今日ではいささか陳腐な感じも無いではないが、その説くところは至って健全で範とするに足るものが少なくない。
概して、欧米人はエチケットにはとても厳しい。かつて、アメリカでベストセラーになったものに、エミリー・ポストという女性の書いたエチケットの本があった。
社会生活を営む上でのエチケットとマナーを説いたものであるが、非常にくだけていて、全体的に自由主義思想が行きわたっている。その点、インド人のエチケットは固苦しく形式的な面が強いが、そのインドにおいて、世界的に有名なカーマ・スートラという性生活のマナーとエチケットの本が出たという事実は注目に値する。
人間生活において、性生活がいかに重要であるかを示しているとみてよい。
同じような傾向は日本においてもみられる。日本とインドその間に性思想の交流があった歴史も無いのに、両国は非常に似通ったものがみられる。
性は楽しむべきものであり、本来楽しいものなのだ。美味しい食事、心和ませる生け花、精神を落ち着かせる掛け軸などと同じように、人間生活を豊かにする要素として性を扱ってきた。遊郭が芸術の温床のような役割を果たしていた点は、日本的性観念を示す大きな特徴として注目してよい。
もう一つ、日本の風習で面白いのは男女が混浴する温泉場があることである。そこではヨーロッパ人が想像するように恥辱心を感じる者はひとりもいない。
それどころか、日本に来るヨーロッパ人までが平気で入るようになるというから不思議である。やはりそれが自然だからではなかろうか。
次にアラブにはインドのカーマ・スートラによく似た『香りの園』The Perfumed Garden という性愛の書がある。これも性の技法から作法、心掛けなどを説いたもので、なかなか高度な中身をもっている。その根本思想はやはり性愛を一種のレクリエーションと見なし、その悦びを素直に堪能すべきだというところにある。
もともとアラブ人は、男女の数が平均している社会では一夫一婦制が好ましいという考えを持っていた。が所詮、それは理想であって、一方において男の本能が許さず他方また妻が家事に追われて夫への配慮を忘れていくことが一夫一婦制の維持を困難にさせたというのが実情である。
戒律の厳しさで知られるユダヤは、その歴史を見ると厳しくなければならないそれなりの理由があったのである。ユダヤの戒律と言えばモーゼの十戒を思い出すが、当時のモーゼは実に非常に難しい問題をかかえていた。
奴隷として働かされていたイスラエル人を大挙してエジプトから脱出させたのはよいが、これを統率していくには奴隷根性を捨てさせ民族意識と誇りを持たせ、良い意味での闘争心を植えつけなければならない。
一方、土地は荒涼としていて太陽は灼熱のごとく照りつける。こうした環境の中ではまず第一に体力の無駄な消耗を防ぐことが要求される。次に一単位として家族の団結が要求される。ユダヤの戒律はこうした環境を背景として生まれたことを理解しなくてはいけない。
長い年月にわたって戒律にしばりつけられてきたユダヤ人は、その戒律の正当性をうんぬんするよりも、戒律を犯すことの罪意識の方が先に立つ。
たとえば姦通罪は姦通そのものが罪だという意識よりも、姦通によって出来るかもしれない子供が法律によってユダヤ人として認められないから困る、という意識の方が強いのである。子供は女が産む。そこで、ユダヤの法律は女に厳しく出来ていた。
姦通罪も女の方にだけ適用された。男には姦通罪はなかったのである。
南アメリカのアマゾンの奥地に面白い結婚の風習をもつ人種がいる。男が結婚年齢に達すると首長のところへ出頭する。すると、首長はその男の性格や能力を検討したうえで適当な嫁を探してやる。興味ぶかいのは、その嫁は決まって中年の未亡人だということである。
中年であるから家事はもとより性生活のテクニックも心得ているから、若いダンナは満足するにきまっている。いわば嫁が母親的役割を兼ねるわけである。
が、やがて年上である妻の方が先立つ時期が来る。するとまた首長のところへ行く。首長はこんどは若い嫁を世話する。
嫁は何ごとにつけ未経験だが、男はすでに万事に知恵と体験がある。若い嫁は男にリードされて心ゆくまで性の歓びを味わい、男の方は忘れかけていた青春のよろこびを呼び戻すことになる。いわばダンナが父親的要素を兼ねているわけである。
が、今度はダンナの方が先立つ時期がくる。すると、女は首長のところへ出向いて若いムコを世話して貰う。若いダンナは経験豊かな嫁にリードされて抵抗なく夫婦生活を営み、一方中年の嫁は若々しい男に、忘れかけていたものを呼びさまされることになる。
こうした風習が今日でもスムースに抵抗なく行われていると聞くが、私はこの種族は決して野蛮とは言えないと思うのである。
次に一転して禁欲主義の最右翼であるところのキリスト教に触れてみたい。
あるところにテントの製造を商売にしているサウロという男がいた。晩年になって南ヨーロッパからギリシャ諸島、小アジア、イタリア、スペインの各地を旅した。彼はてんかんの持病があり、また大の女ぎらいであった。歴史家の中には彼をインポ(性的不能者)だったとする者もおれば、ホモ(同性愛)だったとする者もいる。
このサウロが実は、キリストの有名な弟子パウロであり、キリスト教の性的戒律を生み出した人物である。この戒律は肉体的要望を〝悪〟と決めつけ、従って肉体的欲望の所産であるところの出生そのものが悪であり、結局人間の存在そのものも根源的には悪であるという思想に発している。
要するに人間は悪のかたまりであり、なかんずく性欲が諸悪の根源である。その悪が少しでも善に近づく道は禁欲生活であり、処女性であり、夫婦それぞれの貞節であり、裸体をむやみに人目にさらさないことである、という。ヨーロッパ人の性観念に罪悪感と恥辱心を注入したのはこうしたキリスト教的戒律である。
つまり、教会が信者に対してこの罪悪感と恥辱心を吹き込むことによって、教会とのつながりを保ち強化しようと努力してきたことが、信者の心に性交は本来いけないことという観念を植えつけてしまったのである。そして今日では、そのことがかえって諸悪の根源となってしまった感がある。
税問題の専門家であるカンフォート博士もその著書の中で「性というごく当たり前の自然現象を厄介な問題としてしまったその最大の責任はキリスト教にある」と断言している。
確かに、教会のこうした固陋な反進歩的教説は数多くの精神的ないし神経的な病気も生んでいる。特に、西洋諸国においては離婚をはじめとずる人間関係の破綻や不破は、その大半がキリスト教的戒律からくる罪悪感、不安感、挫折感といったものによって惹き起こされているといってよい。
実際の治療に当たっている私は、そういった根拠のない宗教的罪悪感や抑圧観念から病気になっている事実を、まのあたりに見せつけられている。だからこそ、右のようなことが断言できるのである。初めのうちは精神的ないし心理的なものでとどまっているが、やがて肉体にはっきり症状が出てくる。胃潰瘍、腫よう、片頭痛、関節炎、慢性的消化不良、喘息、吹き出物、そして癌。
本章のはじめのところで、私は一切の先入観、既成概念を棄て去って欲しいと要求したが、〝一切〟は無理としても、ここまで私の説に耳を傾けられたからには、あなたの性愛観にもかなりの変化をきたしていることを期待しよう。
そう期待したうえで、私はこんどは性のあり方について積極的立場に立って、人間の性生活はかくあるべきだ、という意見を述べてみたいと思う。ご批判はそのあとにしていただこう。
言うまでもなく性は本来悪ではない。目によって美しいものを鑑賞し、舌によっておいしいものを味わうと同じように、性器によって肉体の快感を味わうことは極めて自然なことであり、有難いことであり、これが自然にできることに感謝しなければならない。
これを罪悪感や過度な恥辱と結びつけるなどは、もってのほかというべきである。身体そのものが性的快感を味わうように出来ているのであるから、罪悪感や恥辱心から性行為を忌み嫌うというのは実に愚かなことである。
イヤ、私に言わせれば、性を否定することこそ神を否定することだと言いたい。性を抑制せんとする人たちがとかく病的なまでに精神的に歪められている事実が、その何よりの証拠だと思う。神は何ひとつ不要なものは与えていないはずである。
また具わっている道具は使うのが自然なはずである。
宗教的とは別に、生理的な面から性行為を有害視する人がいるが、これもまた大変な誤りである。精子も卵子も適度に消費するようにできている。生理的機能に異常のある場合は別として、正常な機能を備えた男女なら、欲するままに行動して決して害はない。
正常であれば害になる前に欲求が止まるはずである。少しぐらいの疲労は、若い健康な男女なら一晩熟睡すれば回復するはずである。
若者は自然な性行為を知るまでには、いろんな形で性の快感を味わい欲求のハケグチを求めようとするものである。その一つの現れが自慰行為であるが、これも至って自然な行為であり害も無い。大人になってからでも、これを性のハケ口として精神安定のために行うことは極めて賢明なことである。
ところがこの自慰行為においても、キリスト教的罪悪感に根差した有害説によって、どれだけ多くの若者が精神的に苦しい思いをさせられてきたか測り知れない。
つまり生理的に抑えようにも抑えきれなく自然な衝動によって行うのだが、その時の心理状態は悪いことをしているという罪悪感がつきまとい、それがかえって生理的にも悪影響を及ぼし、結局は精神的にも肉体的にも性のハケ口としての効用を少しも果たさないことになるのである。これほど愚かで罪づくりな話は無いと言っていい。
ある孤児院で興味ぶかい調査が行われた。そこの子供たちは当初は性行動についてあまり厳しい監視をされていなかった。それで殆ど全員が自慰行為の体験を持っていたが、ある時、実験的にその子供たちを二つのクラスに分け、一つのクラスではそれまでどおり自由に行動させ、もう一つのクラスには厳格な監視と説教を徹底させてみた。
やがて成人して社会へ巣立っていったあと、福祉員が追跡調査を行った。その結果は厳格に育てられたクラスの全員が何らかの精神的症状を訴え、中には精神病院に入院したほどの重症患者もいたが、一方自由に行動させたクラスには一人も病的症状を訴えるものはいなかった、ということだ。
自慰に次いで問題となるのは婚前交渉であろう。が、これについても私は自由な考えをもっている。これも自慰行為と同じで、性にめざめた若者が体験する自然な行動であり、正常な結婚生活に入るまでの段階的体験の一つと見るべきだろ思う。
少なくともこれを宗教的な意味での罪悪と決めつけるのはもっての外である。その根拠を説明しよう。
成人からみて何でもないことでも、若者にとってたまらない魅力の対象となるものが沢山ある。音楽、芸術、スポーツ、自動車、その他何もかもが新鮮な興味の源泉である。そしてその中に性というものが入ってくる。
素直に考えれば、若い男女がお互いの肉体の秘密を知りたいという衝動を覚えるのは自然である。これを暴行とか強姦とかいう形で体験するのはむろん罪悪であるが、愛し合っている者同士が心の関係から肉体の関係にまで発展していくのは極めて自然な成り行きであり、これは断じて罪ではない。
が、まったく問題がないわけではない。女性が妊娠した場合である。中絶は絶対に許されない。なぜなら霊的にみれば人間は母体に宿った時から事実上の地上生活が始まっているからである。母体から出て呼吸を始めた時を一般に誕生といっているが、実際には母体に宿った時が誕生なのである。
そうなると妊娠した以上は責任をもってその子を出産し育てあげる義務があることを、まず自覚しなくてはいけない。もしそれがイヤだというなら、妊娠しない工夫をすることである。つまり避妊である。
宗教家の中には避妊をも罪として禁止する人がいるが、これはナンセンスである。どうしても生まれてくる宿命を持った子なら、いかなる避妊法を講じても必ず妊娠してしまう。人間がそこまで心配する必要はない。
次に結婚後の問題に進もう。よく問題になるのが浮気であろう。もちろん単なる色好みによる浮気は許すわけにはいかない。が、
奥さんが余りに淡白すぎたり潔癖すぎたりして旦那の要求を拒否しすぎる場合は、たとえ旦那が〝外食〟しても奥さんは文句を言えた義理ではない。旦那の浮気を弁護するのではなくて、不自然な夫婦関係の副産物として、これはやむを得ない結果だと言いたいのである。
というのは、こんな時もし旦那があくまで貞節を要求され、それを正直に完うしようとすれば、よくよく出来た人間でないかぎり、精神的な面で不自然な反応があらわれ、ついには肉体的にも異常をきたすようになるにきまっている。
こんな時、お国柄によっては公然と二人目の妻を娶ったり、いわゆる二号さんを置いたりするところもあろうが、〝先進国〟ではそれが許されない。となると、当然の成り行きとして〝こっそり〟とやるほかないことになる。
霊的にまだまだ未熟な地球上においては、単なる法律や戒律によって形の上だけきれいごとを説くよりも、もっと肉体の自然な欲望を素直に認めて、その欲求を満たすための現実的な手段を講ずることの方が大切ではなかろうか。
よく考えてみると、一夫一婦制というのは男女の数がほぼ平均しているからそうなっている面が多分にある。考えてもみるがよい。もし男性の数が女性の半分とか三分の一とかになったら、どういうことになるか。逆に女性の数が極端に少なくなったら、どういう現象が生じるか。大方の想像は大体一致するはずである。
そういう面から考えても一夫一婦制というのは結婚形態としては数ある形態の中の一つに過ぎず、それも男女の数が平等な社会における便宜上の制度だということになる。
以上私は従来の性道徳観からみて、異論とも非道とも言える説を述べてみた。が、私自身はすこしもそうは思っていない。何となれば従来の性観念のよってきたる根源にさかのぼってみると、性的に不能または異常な一個の人間によって作られた戒律に発していることが分かったのである。
異常な人間の書いた掟に、どうして正常な人間が従わねばならないだろうか。従う必要もないし、第一従えるわけがないではないか。
それをムリして従わねばならぬと信じ込み、肉体的にも精神的にも不自然な努力を強いられて、古来どれだけ純真な若者あるいは成人があらぬ性的罪悪感に悩まされ、それが原因でどれほど多くの副産物的罪悪を生んできたことか。
現代人はこの点をよくよく反省し、厳正に見極めなければいけないと声を大にして叫びたい。
たしかに人間は肉体のみで生きているのではない。が、霊も肉体に宿って生活している以上、自然な肉体的欲求を押さえたり無視したりしては肉体そのものに不健康であるのみならず、ひいては精神的にも悪影響を及ぼし、結局は肝心の霊的進化も妨げることになる。このことを私は単なる理屈からではなく、多くの患者に接してそう結論せずにはいられないから言っているのである。
結論として言いたいのは、要は動機が一番大切だということである。動機が自然な欲求に発したものであれば、決して罪悪ではないということである。
この点は性の問題に限らない。人生百般みなそうであろう。人に迷惑をかけず、責任を自覚したうえであれば、何をやってもかまわない。罪悪感でもって人間を小さく縛りつけ、まともな性行為一つできないような、そんなだらしのない人間をこしらえるよりも、責任を自覚しながらノビノビと行動する人間に育てることの方がどれだけ立派か知れない。
そのためにはまず、あなた自身が従来の根拠のないタブーや迷信から脱し、人間の原点に立ち返ることが先決だと思うのである。