第4章 生命の源にプラグを差し込め
健康を取り戻す方法として私はこれまで二つの方法を紹介した。
一つは心の姿勢を変えることによって生理的バランスを回復するやりかた。
もう一つは心霊治療によって宇宙生命を注入してもらうやり方である。
そしてこれからもう一つ、第三の方法を紹介しようと思う。それは宇宙生命の源そのものに自らプラグを差し込んでエネルギーを摂取する方法である。
かりにあなたがいま新しい洗濯機を購入したとしよう。さて、まっ先にしなければならないことは何であろうか。そのとおり、まず使用説明書をよく読むことである。電源にプラグを差し込んでもヒューズが飛ぶ恐れはないか。
つまりボルト、アンペアに余裕があるかどうかを確かめる必要がある。また使用する水は普通の水でよいのか温水にする必要はないのか、セットの仕方はどうなっているのか、排水ホースはどちら側につないだ方が使いやすいか等々、実際に使用するまでに知らねばならないことがいろいろとある。
最近の洗濯機はなかなかよく出来ている。が、いくら性能がよくなっても、人体の巧妙さ精妙さにはとてもかなうものではない。世界最高のコンピューターでさえも、人体に比べればまるで子供のオモチャである。
そうなると、洗濯機の使用に先立っていろいろと知らねばならないことがあるように、人間についても正しい知識を持つ必要があるのは理の当然であろう。
そこで、これからひとまず人間とは何かについて私の説明をよく聞いていただきたいのである。
まず第一に知っていただきたいことは、肉体があなたではなく、また脳味噌があなたでもないということである。では自分とは一体何なのか。それは肉体と脳を使って自己を表現しているところの目に見えないあるもの、つまりスピリットなのである。
目に見えないからといって影も形もないものを想像してはいけない。肉眼に見えないというだけであって、霊眼をもってすれば立派に見える。
そのスピリットが肉体と脳をあやつって生活しているのが現実のあなたなのである。
これを逆に考える人がいる。つまり肉体や脳から精神が生じるのだというのであるが、それはちがう。あなた自身は肉体の誕生以前からスピリットとしてすでに存在していた。
それが肉体の(母胎内での)発生と同時に結合して今日に至っているのである。肉体は霊の道具であり脳はそのコンピューターだと思えばよい。言ってみれば、肉体は地上生活を送るための一時的な借りものにすぎない。
死というのはその肉体という道具が使えなくなった状態であって、宿っていた霊は昆虫が殻を脱ぎ棄てるように肉体から脱け出て、次元の異なる別の世界に生き続けるのである。といって決して新しい世界に行くわけではない。実際はもといた世界に戻るのである。
いきなり難しい話になってこんがらがる向きもあるかも知れないが、心の窓を広く開いて、ひととおり私の説に耳を傾けていただきたい。
これは私が勝手に考え出した説ではない。心霊学という新しい学問が最後の結論として打ち出した確定的な事実であるから、いたずらに疑ってかかるよりも、一日も早くこうした人間観に慣れることが得策である。そうすることによって、どれだけ人生観が変わることであろうか。ではもっと話を進めよう。
この世はいわば教育の場である。人間教育、魂の教育の場である。さきに述べたとおり、もともとあなたはスピリットの世界にいた。霊界でもいろいろと学ぶことはあるが、これだけは地上生活でないと学べないというものが必ずある。だからこそ、地球の存在価値もあるわけである。
あなたは魂の親であるところの守護霊や指導に当たってくれる霊たちのアドバイスをうけて、最終的に自分で地上行きを決心した。あなた自身が決めたのである。魂の永い永い進化の道程において、ぜひとも一度あるいは二度、あるいは幾度も幾度も地上生活を経験しておく必要があると判断したわけである。
具体的に言えば、例えば忍耐力に欠けているとか物質苦労が不足しているとか、あるいは人情の機微にふれることが少なすぎると感じて、そうしたものを補うには地上生活が一番適当であると判断したわけである。
やがて地上の一対の男女の間に愛が芽生え、母体に種子が宿る。その種子にあなたの霊、つまりあなたという個性を持った神の分霊が結合するのであるが、それに先立ってそれまでの一切の記憶の集積層をそっくり霊界にあずけることになる。
その記憶は再び霊界に戻った時に取り戻すことができるが、霊格の発達した人なら地上生活においても思い出すことができる。
さてあなたの辿る人生のコースは一コマ一コマがきちんと定められている。が、それにいかに対処するかはあなたの自由意思にまかされる。
それはちょうど学生時代にたとえれば、小学校六年間を同じ学校に通い同じ教科を同じ日数だけ学んでも、勉強するしないは本人の自由であるのと同じである。別のたとえで言えば、七日ごとに日曜日が訪れるのは万人に共通していることであり、暦にきちんと定められていることであるが、その日曜日に何をするかは本人の自由であるのと同じである。
人生という旅の道程において、あなたはいろいろな苦労に遭遇するであろう。それにいかに対処するかによってあなたの進歩の度合いがわかる。
ある時は必死に対処し、またある時は失意のドン底に落とされるかもしれない。そうした体験の一つ一つは実は神がセットした試練なのである。
つまり、あなたにとってそれが必要とみたからこそ神が与えるのである。その意味では失敗も苦労も病気も必ずしも直接あなたの責任とはいえないかも知れない。が、問題はそうしたことに対処するあなたの姿勢である。
たとえば、私をたずねてくる患者の多くは、開口一番、「私の人生は不幸の連続です」とグチをこぼす。これがまずいけない。自分一人が世の中で苦労しているかのように思い込むそのいじけた心の姿勢がいけないのである。
実際には誰にでもあることが、その人には苦痛に思えて不平不満が増す。が、つまりは神がセットしたテストに不合格だったということである。それも真剣に取り組まなかったから不合格となったまでである。
もちろん、時には誰かの援助を必要とするほど大きな苦難に直面する場合もあるであろう。大学にたとえれば専任の先生に質問しなければならないことだってある。
この複雑な人生においてどうしても援助をお願いしなければならない難題は幾らでも生じる。そんな時、その相談相手になってくれるのがあなたの背後霊なのである。
その背後霊は、実はあなたが霊界からこの現実界に再生する際に相談相手になった霊魂である。彼らはその高い霊格ゆえに、あなたが人生においていかなるコースをたどるかを前もって見通している。
したがってそれに対処するための方策もちゃんと心得てくれている。問題はいかにしてその霊魂と交信するかである。それでは次にその方法をお教えしよう。
今ある問題をかかえているとしよう。いろいろ努力してみたがどうもうまくいかない。
といっても、この際その問題は利己的なものでないことを前提にしよう。ロールスロイスが買いたいとかギャンブルでひと儲けしたいとか、あるいはもっと豪華な家に住みたいとか、そんな物理的な自分本位の欲望や野心は困る。
そういう性質の目的をかなえる方法については別に説くことにして、差し当たってここでは物質的野望は切り離していただきたい。物質的なものでなくても、あなたにとって切実な問題はいくらでもあるはずだ。
あなたはそれを解決しようとこれまで最善をつくしたつもりだが、ついにうまくいかなかったと仮定しよう。そのことでこれから背後霊にお願いするわけであるが、その方法は実は二章で紹介した精神統一の方法をもう一歩進めさえすればよいのである。
精神統一の方法について私はこう述べた。すなわち静かな部屋を選び、窓のカーテンを引いて薄暗くする。男性は上着を脱ぎネクタイをゆるめベルトをはずす。
女性は身をしめつけるような下着は着がえた方がよい。クツも脱いだ方がよい。すわり心地のよいイスでゆったりとくつろぐ。二章のところで述べたのはここまでであった。
さて、その状態であなたが今かかえている問題を声に出して述べる。人に話しかけるような調子でしゃべる。そして今まで、自分なりに最善をつくしてきたつもりだが、自分一人の手に余るのでよい知恵を授けていただきたい、とお願いする。
そうお願いしてから頭の中を空っぽにする。実はこれがなかなか難しい。何も考えまいとするとかえって余計な雑念が湧いてきて、それを払いのけようとするとますます絡んでくる。そんな時は何も考えまいとするよりも、いっそのことその逆をいって、あるひとつの考えに集中した方がよい。たとえば白いバラの花を想像してそのイメージに全神経を集中するのである。
バラの花はおそらく、あなたの人生の悩みには何の関係もないはずである。だからいいのである。悩みごとに関係のある事物はいけない。それが先入観となって背後霊からの通信を邪魔するからである。
そうやってバラの花のイメージを思い浮かべながら静かにしていると、身体がくつろいでくる。ウトウトと軽い眠りにおちいる人もいる。それでよい。やがてわれに戻ったら立ち上がって大きく伸びをして、身支度をキチンと整え、冷たい水を飲む。何とも言えないさっぱりとした気分になる。
これであなたは背後霊に心の窓を開いたことになる。言いかえると背後霊との間に心の触れ合いができたのである。この触れ合い(Commune)(コミューン)が大切なのであって、語り合い(Communication)(コミュニケーション)はかならずしも必要でない。
コミュニケーションは特殊な霊能がないとできないが、コミューンならだれにでもできる。またできるだけ多くその機会をもつ必要がある。いま説明したやり方がその一つであるわけである。
背後霊とのコミューンをもつと非常に気持ちがよくなり、イライラした緊張感がほぐれてくるのが普通である。それもそのはずである。今までかかえていた難問を背後霊にあずけたことになるからである。
が、その回答つまり背後の援助がいつどんな形であらわれるかはまったく予想がつかない。
二、三日するうちに人が変わったように考えが変わってしまうこともある。インスピレーション式に頭にパッと解決方法がひらめくこともある。なんの気なしにやり始めたことが、解決につながっていることもある。あるいは事情が急に変化しておのずと解決してしまうこともある。
いずれにせよ、背後霊からみてあなたにとって一番戒めなければならないのは、自分の欲にこだわって、こうして欲しいああして欲しいと、勝手な要求を出すことである。
卑近な例でいえば、どうしても大金がほしいという時に競馬の優勝馬を教えてほしいとか、近所に憎たらしい人がいていつもイヤな思いをさせられている場合、あの人がどこかへ移転するように取り計らってほしい、といった類の願いごとである。
常識的に考えて、程度の高い霊がこんな要求にまともに応じるわけはない。もし思った通りの事態になったとしたら、それはむしろ警戒を要することである。はたして真にあなたの幸福を思う霊の取り計らいであるかどうか、はなはだ疑問だからである。
最初に私が、背後霊に物事を頼む時は利己的な欲に発した時は切り離してほしいと述べたのはそのためである。
私も大きな問題にぶつかると背後霊におまかせすることにしている。私自身の身体を中心に綴った『The Healing Touch』が出版されるに至るいきさつは中々面白い経過をたどったのでそれを紹介してみよう。
私が心霊治療を始めて二、三年経った頃のことである。それまで何百人かの患者を手がけてみて、そういう人たちに一つの共通した要因があることを知った。すなわち真理を知らなすぎるということである。
たとえば、肉親を失って悲しむ。これは誰しも同じであり、人間である以上当然のことである。が、悲しみのあまり生理的バランスを崩し、あげくの果てに心霊治療を受けなければならないほどに至るのは、死後の存続という真理を知らないからである。
人間は死を一つの区切りとして、新しい世界に生まれ変わる。いわば幼稚園から小学校へ進学するのである。
それをなぜ嘆き悲しむのであろうか。私の知る限りでは、文明国の葬式はどれもこれもみな野蛮であり残酷であり、ある意味において滑稽このうえないと言いたいのである。
こうした内容の話を私は一人一人の患者によく話して聞かせてきたわけであるが、そのうちいい加減うんざりしてきて、ひとつ、これをまとめて一冊の本にしてみたらどうだろうかと思いはじめた。
ある晩方、タイプライターに向かった私はカバーを取りはずす前に、さっき述べたような要領で背後霊とコミューンのひと時をもち、私の考えを聞いてもらって援助をお願いしてみた。それからカバーを取りはずし、頭にうかぶままをタイプして出来あがったのが小冊子『死とは何か──悩める人のガイドブック』(巻末付録参照)である。
できあがるとすぐ、封筒に入れて心霊紙『ツーワ―ルズ』の編集長であるモーリス・バーバネル氏へ送り、よろしくご配慮ねがいたいと書き添えた。
短いものではあるが雑誌の記事としては長すぎるし、さりとて書物にするには短すぎたのであるが、それに対するバーバネル氏の返答は、簡潔にして明快であった。連載記事の一切を割愛して、一挙に掲載するというのであった。
予想したとおり大きな反響があった。死というものについて、いかに多くの人がガイドを必要としていたかが如実に実証されたわけである。出産についてのガイドブックは山ほどある。婦人科の医学書は実にくわしく書いてある。また人生のガイドブックも多い。
いろんな人生哲学がある。が、死の真相を説いた書物はまだ出ていない。それを私は書いたのである。やがて小冊子となって出版された。前おきが長くなったが、話はここから発展するのである。
バーバネルが編集長をしているツーワ―ルズ社はグレートクィーンストリートにあり、そこに有名なコンノートルームという、高級レストランや宴会場の集まった場所がある。
その一室での昼食会に一人の出版業者が出席していた。会が一段落した時、彼は息抜きにその向かい側にある心霊書店のショーウインドーをのぞき込んでいた。そこに例の私の小冊子も並んでいた。彼はそれを見て興味をひかれたらしく、すぐに買い求めた。
その翌日のことである。その男から電話があって、私に何か本を書いてみる気はないかという。私は直接彼と何回か面会して、いろいろと私の体験談や治療家となるに至る経過を話して聞かせた。すると彼は体験談を自叙伝風にしたものに心霊治療の話を加え、さらに例の小冊子に述べたような死の真相を付け加えて、一冊にまとめてほしいという。
私は直ぐにOKしてさっそく仕事に取りかかった。書きあがるとすぐ原稿をその出版業者に送った。ところがなかなか返事がない。それどころか、どうしたことであろう。
やがて原稿が送り返されてきた。曰く、内容は気に入ったが最終的に出版を引き受けてくれる人が見つからないのだという。つじつまの合わない言い訳である。結局、この人は宗教的偏見から出版を断ってきたに違いない。
この原稿はずいぶん時間をかけて書いた。それが事もあろうに、それを依頼した当人からヒジテツをくわされたのであるから、ショックでなかったと言えばウソになる。私は残念でならなかった。内容には自信がある。この種の本はまだ見かけたことがない。何とか出版したいと思った。
そこで私は静かな部屋で背後霊にお願いをした。どうかいい出版業者を世話してほしい・・・と。
その効果は二、三日後に早くも現れた。ある出版者の取締役と昼食を共にするチャンスにめぐまれた私は、抜け目なくその話を持ち出した。
すると、一度原稿を拝見したいというので早速お送りしたところすぐOKになり、ロンドンとニューヨークで同時発売の運びとなった。一九七〇年のことである。反響は予想した通り絶大であった。今でも読者から週に五十通から六十通の感謝状が届いている。
こうした背後霊の援助は、やり方さえ正しければ誰にも得られる。ちょうどに地上生活で電気をいろんなことに活用しているように、背後霊が生命力を活用してあれこれと面倒を見てくれるわけである。ただし、それがどんな形で現れるかは人間には予測できない。
霊的な働きについて人間がよく知らないからである。少なくともこの世にいるかぎり、背後霊に一切をおまかせするほかはない。
人間というのは決して一刻平等にできあがっていない。それぞれ霊的進化の程度が違っている。仮に、今ちょうど同じ時刻に二人の人間が誕生したとしよう。一人は動物的段階をやっと終えて人類としてはじめて地上に生を享けた。
もう一人はすでに何回かの地上生活を体験して高度な霊格を身につけている。成人してこの人は偉大な哲学者あるいは聖人といわれるような人になるかも知れない。が、前者は屠殺場の屠殺人としての生涯を送るかも知れない。
あなたも、今あなたがつき合っている仲間とは進化の段階が異なる。あなたの方が進んでいるかも知れないし、遅れているかも知れない。が、それはどうでもよい。要はあなたがこれまでに積み重ねてきた知識と体験をもとに、今何をするかである。
が、電気をいじくるのに前もって電気についての知識がないと危険が伴うように、心霊知識をよく身につけた上でないと霊的生命源にむやみにプラグを差し込むのは危険このうえない。心霊知識はこれが初めてという人は、ぜひ本章は最後まで読み通していただきたい。それを受け入れるか否かはそれからの問題である。
さて、煩雑な日常生活を忘れて静かに精神統一をすることは、背後霊との触れ合いの機会を与え、必要な援助を受け、生命力を流れ込ませることになる。
触れ合いに成功したあとの気持ちはさわやかそのものである。一度その味をしめると悩みというものから縁が切れる。自我へのこだわりを棄てるからである。悩みこそが体内の生理的バランスを崩す大敵であることはすでにのべた。
それがきれいに消えてしまうのであるから、緊張がほぐれ、バランスが回復すると同時に、精神的に生まれ変わったような気分になるのも当然であろう。
この精神統一を少なくとも一日一回行い、同時に先に述べた〝心の姿勢〟に気をつければ驚くほど元気になり爽快になる。これを繰り返すうちに、やり方にこだわらなくなる。
さきに白いバラを想像して意念を集中しろといったが、その必要が無くなる。次に時と場所にこだわらなくなる。いつでもどこでも、たとえば仕事場でも列車の中でも、まわりの世界から遮断し、魂の奥深くもぐりこむことができるようになる。
つまり生命の源に、いつでもどこでもプラグを差し込むことができるようになるわけである。
背後霊というのは我欲から出た要求でなければ何でも聞いてくれる。要求を妥当と見ると、それに必要な処置をいろいろと講じてくれる。電気工事夫が配線をしてくれるのと同じ要領で、生命の源と連結しスイッチをまわし、必要な生命力が流れ込むように工面してくれる。
こんな素晴らしい話はないのだが、人によってその受け取り方はまちまちであろう。宇宙の生命力うんぬんも結構だが、とにかく金さえあれば何も文句をいわんという人もいるであろう。ひたすら商売繁盛を祈ってわき目もふらず邁進している人もいるであろう。
そういう人にとっては取引が大きくなることが成功にほかならないであろうし、またある人はロールスロイスに乗れるようになることが何よりも成功のシンボルであるかも知れない。庭付きの豪華な家、プール付きの大邸宅、こうしたものにあこがれてコツコツと働いている人も多い。
が、ここで思い出していただきたい。いったい自分がこの世に生を享けた目的は何だったのか。霊格を高めること、つまり魂の進化のために必要な体験を積むべく生まれてきたのではなかったのか。
物的要求のために邁進するのも結構であるが、人生の週末を迎えると、人間は誰しも一体何のために生きてきたのだろうかと思うものである。その時、山ほどの財産を貯えたことに満足する者はまずいない。大邸宅で往生できることをこのうえない冥利と感じて死んでいく人間もいない。むしろそういう人ほど、人生のむなしさを痛感するものである。それも当然であろう。なんとなれば、人間は所詮は霊的存在だからである。
では、人間は何に一番生き甲斐を見いだすのだろうか。それは、自分という一個の人間がこの世に生きたことによって少しでも人のためになったということである。言いかえると人の霊的進化のうえで自分の存在が少しでも役に立ったということである。
つまり他人にとっての自分の存在価値が、この世での自分の存在価値を決定づけるのである。
毎日の生活の視点をそこに置きかえてみるとよい。あなたの人生はガラリと様相を一変するに違いない。くだらぬことにあくせくしなくなる。張りつめた気持ちがゆったりとしてくる。そして何よりも大きな変化は、死を恐れなくなるということである。
死という現象は少しもこわいものではない。痛みも不快感もない。気がついてみると自分が、本当の自分が肉体の上にただよっている。両者は銀色に輝く一本の紐でつながっている。
その紐は呼吸をしているかのように脈うっているが、やがて力を失いどこかへ消えてしまう。肉体の顔に白い布が置かれるのはこの時である。
あなたは死んだ。が、実際に死んだのはあなたの肉体であって、あなた自身、本当のあなたは銀色のモヤの中を上昇していく。やがて背後霊が迎えに来て、手を取って案内してくれる。案内されたところには、生前あなたと縁が深かった人たちが待っている。
そのうちモヤが晴れて、一面煌々たる色彩ゆたかな世界が広がる。あなたは地上生活を卒業したのである。
それから何週間、何ヶ月、何年、何百年、何千年後のことかは分からない。ある日のこと、指導霊が真剣な顔つきであなたを呼ぶ。あなたは黙って座る。すると目前にまるでテレビで見るように、あなたのそれまでの生活の一切が映し出される。
良かったこと悪かったこと、バカげたこと真面目なこと、何もかもが映し出される。何一つ隠すことができない。その場を逃げ出そうにも逃げられない。ただじっと見つめているほかはない。
画面が終わった。こんどはそれを分析検討しなければならない。みずから求めて地上へ行った当初の目的は達成されたのであろうか。次はどうすべきだろうか。もう一度地上へ戻るべきか、それとも一段高等な別の世界へ挑戦してみるべきだろうか。
霊界に留まって誰かの背後霊として働く方法もある。が、いずれを選ぶにしても決定権はあなたにある。指導霊のアドバイスはある。が、最終的に結論を出すのはあなた自身である。
その結論をいま出したとしよう。あなた自身はこれこそ自分の成長にとって最適と思うコースを選び、その機の熟するのを待つ。やがてその時期が訪れた。あなたは霊界の友人知人にしばしの別れを告げる。そしてそれまでの記憶の一切が拭い去られる。
時を同じくして地上の一対の男女に愛の炎が燃え、生命の種子が芽ばえる。そしてその種子にあなたが宿ることになる。
あなたがこの度の人生において天才となるか低能児となるか、有名人となるか平凡な生活を送るか、こうしたことはこの時点においてすでに決定づけられているのである。が、そのいずれになるかが問題なのではない。その人生を如何に生き抜くかが大事なのである。
話が少しわきへそれたように思われるかも知れないが、決してそうではない。本章は生命の根源についての話である。その根源についていくらかでも知り、その活用法を知ることは当然必要である。
もっとも、私の話をどう受け取るかは人によって異なるであろう。霊魂の世界が実在するという点についても、あっさり認める人もあれば厳然たる証拠を出さなくては信じられないという人もいるであろう。私はそういう人を決して非難はしない。
むしろ私は、納得のいくことだけを信じなさい、証明されないものは信じなさるなと言いたいのである。大見得を切った言葉のように響くかも知れないが、これまで述べてきたことに関して、私は十分自信をもっているつもりである。
では心霊治療の真実性は何が証明するのか。それはほかでもない、心霊治療によって病気が確実に治っているという事実そのものである。
私はかつて宣伝というものをしたことがない。なのに、次から次へと患者が来る。これは治った人が宣伝してくれるからである。理屈で心霊治療の説明をするよりも〝治った〟という厳然たる事実が人を動かしているのである。
精神統一による心の姿勢の改造についても、理屈をこねて疑ってかかるまえに、一度自分でやって見ることである。証拠となる臨床記録なら山ほどある。が、疑ってかかる人には治療例を並べてみてもダメに決まっている。とにかくやってみることである。やってみて、もし何の効果も感じなければ信じなければよいのである。
が、何の効果もないことを私が人にすすめるだろうか。私自身は心身ともにすこぶる健康である。健康法を人にすすめねばならない義務も必要性もない。健康法を必要としているのはあなた自身ではないか。
死後の存続というのは確かに破天荒とも言うべき重大事であり、今ただちに納得できなくてもやむを得まい。初めて聞いてすぐに納得のいく性質のものでないからである。
が、今私はその事実を前提として話を進めているのであるから、とにかくここでは、それを事実として認めていただこう。あなたは永遠に生き続けるのである。
ということは、あなたは死なないということである。たとえ肉体は死んでも、あなたの個性はそのまま別の世界に生き続けるということである。この事実の重大さにお気づきであろうか。その死後の世界にこそ生命の源が実在するのである。
私のいう心霊治療とは、その根源の世界との連繋作業によって治療するやり方なのである。死後もなお医学を勉強している人々が、私の身体を通じて生命力をこの世に送ってくれるのである。その意味で私も一種の霊媒である。
霊媒にもいろいろある。私の場合は生命力あるいは治療エネルギーを中継する役であるが、知識や情報やメッセージなどを中継する役の人もいる。
ふつう霊媒というと暗い部屋で手足を椅子に縛られて、そのまわりで物体が飛んだり跳ねたり気味の悪い物音がしたりする人のことを想像しがちであるが、これも霊媒には違いないが、先に述べた霊媒とは根本的に性質が異なる。
今その詳しい説明をする余裕はないが、ひと言だけつけ加えると、霊媒となる人のタイプというものは別にきまっていないということである。
大柄であるとか小柄であるとか、金持ちであるとか貧乏であるとか、教養があるとか無学文盲であるとか、そう言った違いは別に関係ないということである。
では何によって霊媒を評価したらよいのか。よい霊媒と悪い霊媒はどこで見わけたらよいかということになると、私は躊躇することなく、その人の奉仕的精神の程度によると言いたい。つまり私利私欲に走る人、生意気な人は霊能も大したことはなく、事が事だけに危険性がある。そんな霊媒にすぐれた背後霊がつくはずがないのである。
そこで私が(妻と共に)初めて霊能者を訪ねた時の体験談をしよう。霊媒の名はエステル・ロバーツといい、女性の霊媒であった。通された部屋は小さな部屋で、カーテンもなく普通の明るさであった。
妻も私も女史とは一面識もない。女子はひじ掛け椅子に腰かけ、時おり耳をすまして霊の声を聞くようなしぐさをしながら、ごく普通の態度で話す。
その時女史が口にした話題はかつて誰にも話したことのない、妻さえ知らない戦時中の出来事で、私自身も永年忘れていたことであった。その出来事というのはこうであった。
戦場での話であるが、ある作戦を開始するに当たって、私が行くべきか、誰かほかの者が行くべきかで意見が分かれた。そして最終段階で一人の将校が行くことにきまった。
ところが、その将校は敵弾に当たって帰らぬ人となったのである。私はむろん無事だった。が、私が行くべきだったという気持ち、そして私が行っておれば恐らく私が死んだはずであろうという考えが私に頭から消えなかった。その将校は親友であり、入隊以来ずっと起居を共にしてきた男であった。
女史はその将校の容貌、姿恰好、軍服などを細かく説明し、敵弾にやられた時の状況まで描写した。そしてさらに将校からの伝言をこう伝えた。
「あの時のことを君が悔やむことはない。僕は死ぬべくして死んだのであって、君はあの時は死ぬべき人間ではなかったのだ。君には何一つ責められるべきところはない。と。
私にとって、この伝言は他にいかなる心霊現象にもまして死後の存続という事実の強力な証明となった。
その後さらにいくつかの体験をして、今では私にとって死後の存続は信じる信じないの問題ではなく、あたりまえの事実となってしまった。
死をすべての終わりと思いながら空しい人生を送るか。それとも私のように死後の世界の存在を当たり前の事実として、その知識の上に力強い人生観をうち立てるか。その差はあまりに大きすぎるとは思われないだろうか。
まったく無知のままでいるのも気の毒であるが、こうして私の体験を読むことによって、こんなにすばらしい真理があることを知ったあなたが、それを単なる一片の知識としてしまっておくのもまた実にもったいない話である。
あなたもみずから体験してみてはどうであろうか。そう、生命の源に自分でプラグを差し込んでみることだ。
第5章 成功へのカギ
本章をお読みになるまえに、これまで四章にわたって私が紹介した健康法を一度確かめてみられるようお願いする。
欲を言えば本書を一旦最後まで通読してから、もう一度第一章から第四章までを読み返されると一番効果があるのであるが、それも大変であろうから、せめてこれまで私がお勧めした健康法のうち、一つでも実際に体験してみていただきたい。成るほどと思われること絶対にうけあいである。
健康を損ねておられる方はどこか違ってきたことを感じられるであろうし、特に病気らしい病気をしておられない方でも、今までにない元気が出てくることに気づかれるはずである。元気が出ると何かやりたい気持ちが湧いてくる。
そこが大切なのである。そのやる気こそが実はこれから私が解き明かそうとしている成功へのカギの原動力なのである。
さて、過ぎてしまったことでいつまでもクヨクヨしないこと、これはすでに述べた。済んだことは済んだこと、きっぱりと割り切らなくてはいけない。悔恨、無念、腹の虫がおさまらないといった精神状態は何のたしにもならない。
それどころか、実際には恐ろしいほど破壊的な影響を及ぼしているのである。過去を振り返るのは、そこから何かを学びとる時だけでよい。あなたは次に列記するようなグチをこぼしたことはないだろうか。胸に手を当ててよく反省みてみていただきたい。
「何をやってもうまくいかない。これ以上やって何になる」
「オレには失敗と不運がつきまとっているようだ」
「オレは要するに運がないんだ。とにかくまずいことが起きるようになっているんだ」
「またヤラれた。もう二度と人を信用しないぞ」
「オレは成功しないように出来てるんだ。失敗するように出来てる人間なんだ」
「どうも人とうまくやっていけない。自意識過剰なんだ」
「自分は人とうちとけるということができない。これはどうしようもない生まれつきの性格なんだ」
「あのことさえなかったら絶対に成功していたんだが・・・」
こうしたグチや後悔は仕事で失敗した者がよく口にするのであるが、あなたはいかがであろうか。正直に反省してみていただきたい。そして、確かにこれはよく口にしていると思われるものに印を付けてみていただきたい。
実はそれがあなたの成功しない原因を象徴的に示しているのである。つまりそんな弱気なグチをこぼすようでは、成功は決して訪れてこないと見ていただきたい。
そのグチをよく検討してみるがよい。そんなグチを言うべき根拠が果たして実際にあるだろうか。どこにもないはずである。結局、あなたは事実を口にしているのではなくて、あなた自身の心の姿勢がそういうグチとなって反映しているのである。
心の姿勢ひとつで病気にもなるし、重病から回復することもあることはすでに述べた。が、心の姿勢の及ぼす影響はそれだけに止まらない。心掛け一つで環境も変え、対人関係で相手を操ることも出来る。
それには、病気治療の時と同じように二つのエネルギー源を利用する。一つはあなた自身の内部にひそむエネルギーに喝を入れる方法であり、いま一つはあなたのまわりに充満する生命の根源にプラグを差し込む方法である。
この二つの方法を一つのたとえ話によって説明してみよう。
ここに二人の男がいるとしよう。年齢は三十半ば、二人の子持ちである。二人とも新しい仕事を始めたが思うようにいかず、銀行からの借金が増え続けている。やがて銀行から通知が来た。ローンがオーバーぎみなので、事情を聞きたいから出頭願いたいという。来るものが来たわけである。二人はたまたま同じ職業に従事し、似たような条件下で四苦八苦しているところである。ところが銀行へ出頭した時の態度がまるで違うのである。
最初に出頭したA氏は神経質である。仕事の腕は悪くないのだが自信というものを持ち合わせない。相談室に通された彼は終始うつむきソワソワして、まともに担当者の顔が見られない有様である。
「すみません」を連発するばかりで、今後の見通しもアイデアも示さない。ついに銀行側から資金援助の打ち切りを宣告されて、スゴスゴと引き下がった。
そのあとに出頭したB氏はなかなかのやりてである。今は確かに苦しいが、六ヶ月以内に何とか返済のメドをつける自信を持っている。手持ちの資金のすべてを項目別に明示し、現在の手持ちの仕事を列記して差し出し、担当者に一つ一つ説明していく。
そして仕事をもっと増やし、規模を拡大し、得意先を広げるためのプランを話して聞かせる。さらに銀行側に助言依頼人を世話するようにたのむなど、積極的な姿勢を見せる。
こうなると銀行側も資金援助を打ち切るはずはない。それどころか、返済期日の延長というオマケまでつけてくれた。
おそらくA氏は事業の失敗を銀行からの援助打ち切りのせいにするであろう。銀行が援助を打ち切らなかったら大丈夫なはずだ。運が悪いとこんなことになってしまう。何をやってもダメだ・・・といった調子である。
その点、B氏は成功の秘訣を心得ている。グチもこぼさないし弁解もしない。事実をありのまま見つめ、必要な手をドシドシうっていく。その積極的な姿勢が、銀行側を動かしたわけである。こういう人は成功への軌道に乗った人である。どうしても成功せずにはおかない人である。
成功にも軌道がありパターンがある。そのパターンにはまらない人は決して成功しない。そしてそのパターンの第一条件がこのB氏のような積極的実行力なのである。
物事がうまくいかない時、その対応策をアレコレ考えるのも結構であるが、考えたらすぐさま実行に移す行動的姿勢の方がもっと大切である。
実際問題として完全な失敗というものはそうやたらにあるものではない。大抵が一時的な行き詰まりであり、軽いつまずきにすぎない場合が多い。従って積極的に打開策を講ずれば、きっと道は開かれるはずである。
弱気が一番いけない。転んだらすぐ起き上がり、ホコリを払って再び歩み出すのである。その実例として、現在ある生命保険会社の社長にまでなっている一セールスマンの若き日の苦労話を紹介しよう。
彼は生命保険会社の外交員としてスタートした。誰しも自分の仕事を一番難しいと思うものであるが、セールスマンという職業ほど難しい仕事はない。
一度やってみられるとよく分かる。体力と神経の両方をすり減らしながらどこというあてもなく歩きまわり、あげくのはてに一本の契約もとれないということが多い。これほど根気と勇気のいる仕事はない。彼も一日中歩きまわった。
脈のありそうな家に何度も足を運び、これはと思った所には真夜中にも尋ねたこともある。
が、数ヶ月を経たころには彼はすっかり体力と神経を消耗していた。そしてホテルに泊まった。ある日、幻滅と悲哀に耐え切れなくなって、もうこれ以上セールスをやめようと決心した。その時ふと考えた。仲間にはすごい奴がいる。
面白いほど契約を取り、高級車を乗り回し、立派な邸宅をかまえ、結構このうえない生活を送っている。自分のセールスの仕方にどこか間違いがあるに違いない。
そう思った彼は机に向かってカバンから書類をとり出し、数は少ないがこれまで成功した時の状況をノートにまとめてみた。少ないけど成功したという事実に変わりはないではないか。よし、これを分析して自分自身の成功のパターンを引き出し、それを他の見込み客に当てて行けばよいのだ。彼はそう考えた。
分析に手間はかからなかった。結局彼が引き出したパターンは、客がオーケーした時は最初に訪ねた時か二回目ということであった。つまり二回目以降は何度訪ねてもムダだということである。彼は努力家であり根気強い。
それが何度でも訪ねてみるしぶとさの原動力であったわけであるが、セールスに関するかぎり、二度訪ねてダメな客はそのあと何度訪ねてもムダだということがわかった。
幻滅と挫折感が強いのは同じ人を今度こそはとしつこく訪ねすぎるところからきていることがわかった。多い時は六回も足を運び、しかも断られている。
こう分析して、彼は一抹の光明を見る思いがした。やる気が出てきた。「これからは二度で勝負しよう。二度訪ねてダメだったら、リストから抹消していこう」彼はそう決心して床についた。
彼の考えは見事に当たった。一軒を二度以上訪ねないということは、新しく訪ねる家が増えることを意味する。また二度しか訪ねまいという決心は二度までに何とかオーケーさせようという意気込みを生むことになる。彼はその意気込みでドンドンまわった。
やがて成績がうなぎ上りに上昇していった。そしていつの間にかトップにおどり出た。今その彼は、世界屈指の生命保険会社の社長となっている。
この実話には生きた教訓がある。仕事がうまくいかない時は、なぜうまくいかないかを分析検討してみることが第一だということである。どこかに間違いがあるからこそうまくいかないのであるから、それをいち早く発見して是正していくことである。
自己弁護してはいけない。グチをこぼすのはなおいけない。実行あるのみである。
失敗者によくあることであるが、自分のやり方のどこが悪いかを知りながらそれに対処するための手段を講じない人がいる。これでは何にもならない。分析してみて、成るほど自分のやり方には無駄が多いことを知る。
正直に欠点を認めたまではよいが、それに続く行動がない。おまけに「どうしたらいいかわからない」などとグチる。わからないのではない。積極的行動に出る姿勢がないのである。
とにかく思いついたことを積極的に行動に移す。はたしてそれが効を奏するかどうかにこだわってはいけない。今すぐ立ち上がって何かを始めることである。
〝行動〟こそ失敗への最良の矯正手段である。自分を取り囲む情勢がいかに暗雲低迷していても、姿勢だけは常に積極性を失ってはいけない。弱気になってはいけない。たとえば金を借りた相手が気にかかって仕方がない時は、逆に思い切ってその人に会いに行くがよい。
会って、堂々たる態度で将来の楽観的見通しを述べるがよい。健康と幸福と成功、この三つをあなたの態度から感じ取らせるのである。健康へのカギといっしょで、たとえ見せかけであっても明るく振る舞うことが、やがて幸運を呼ぶことになる。
運はあるとかないとかいう性質のものではない。呼び寄せるものなのである。このことを忘れてはいけない。言いかえれば、幸運はあなた自身が生み出すものなのである。
「あいつは運のいい奴だ。運よく成功する条件が揃っていたんだ」
こんなことを言う人がいるが、これも失敗者のグチである。自分はたまたま成功の条件が整っていなかったから失敗したのだと弁解したいのであろうが、他人の成功も自分の失敗もことごとく運のせいにするようでは、そこには努力も進歩の余地もなく、したがって成功する気づかいは毛頭ないことになる。
運が良いかに見えたその男は、おそらく人知れず仕事に必死になっていたはずである。仮に保険のセールスマンだとすれば、寝ても覚めても保険のことを考えていたであろう。
食事をしている時もコーヒーで一服している時も、あるいは集会で同僚と談笑している時も、電車に乗っている時さえも、保険のことを考え保険の話をしていたかも知れない。そのひたむきな努力が幸運を呼ぶ大口のお得意さんに行き当たる。
それがキッカケで次から次へと面白いほど契約が取れる。かくして彼は成功者となった。これを側から見て運のいい奴だというのは、努力することを知らない人間の情けない言い訳というべきである。
失敗したくないのなら、成功者となりたいのなら、何でもいいから今すぐ実行に取りかかることだ。欲望は成功を呼びよせ、不安は失敗を招く。このことをしっかりと心に銘記しなくてはいけない。
イヤ、一切の消極性を排除するというモットーからすれば「不安は失敗を招く」という言い方も排除すべきかもしれない。欲望は成功を呼びよせる。難しい理屈はいらない。
文字の通り、言葉の通りなのである。欲しいと思えばそれが手に入るというのである。むろん一生懸命でなければいけない。寝ても覚めてもそのことが脳裏から離れないようでないといけない。
と同時に、欲望の動機にも注意が必要である。利己的な欲や他人対する悪意に発したことは絶対に避けなければならない。道徳的見地からみて、何ら恥じることのないものであれば、一心に念じて行動すれば必ず成功が得られるはずである。
私は今あえて「念じて行動すれば」という言い方をした。念じただけではダメだというのである。行動に移らなくてはいけないというのである。夢も願いもただ心に抱いただけでは実を結ばない。それ相当の行動が伴って初めて実現されるのである。
では、これまで述べたことをまとめてみよう。失敗した時自分はどんな言い訳や弁解をしているかをよく反省して、以後、それを絶対に口にしないことを自分に誓うこと。
過去のいきさつは一切忘れて教訓だけを胸にしまっておくこと。仕事がうまくいかない時はその原因を分析して、自分のやり方のどこが間違っているかを見届けること。次に自分の目標を定めてそれを強く念じ、かつ行動すること。
以上がこれまで私が述べてきたことの要旨である。ではこれからどうしたらよいのか。
行動、行動というが、どんなことをしたらよいのか。それをこれから述べようというのである。
ひと言で言えば「人を動かし事をあやつることを始める」のである。もうこれからは手をこまぬいて事態の進展にまかせるようではいけない。自分が事を起こし、人を動かすことを考えなくてはいけない。それが出来るのである。
やればできるのである。が、それにはそれなりのコツがある。それをこれから紹介しよう。
先に私は「欲望は成功を呼びよせる」と述べたが、本当は「行動に結びついたチャンスを通じて」という言葉を挿入すべきところである。
ただあまり文句が長くなると口調が悪くなるので、あのよう述べたわけである。で、その行動に結びついたチャンスを通じてというのを、これから説明しよう。
まず目標をしっかり定めていただこう。といっても、あまり飛躍しすぎてはいけない。
セールスマンであると仮定した場合、さっきのアメリカの生命保険会社の社長となったセールスマンの話を読んで、よしオレも社長になってやろうなどと思うこと自体は悪いことではないが、物事には順序があり階梯がある。
社長という地位は差し当たっての目標とするには飛躍しすぎている。まずあなたは現在の担当地区での成績をトップにすることを目標にしてはどうであろう。
目標をそうきめたら、今度はその目標を心に焼きつけなくてはいけない。そのための方法としては、毎朝それを声に出して自分に言って聞かせるのが一番よい。
「オレはオレの地区でトップになってみせるぞ」と。
次にセールスの商品をよく勉強することが大切である。ただ売りまくればよいというものではない。セールスの本質は結局は自分自身を売ることである。その自分自身が商品についてあいまいな知識しか持ち合わせないようでは、人の心を動かすことはできない。
はっきりとした詳しい知識をもち、まず自分自身がその商品にホレて、ホントにいい品だと思うようでなくてはいけない。
さて以上の二点について万全を期したあなたは、昨日とはまったく違ったセールスマンに生まれ変わっている。まず第一に目標がはっきりしている。地区で最高成績を収めることである。次に商品知識が完璧である。あなたは自分の商品にホレている。
この二つの条件を揃えたあなたは、セールスの態度にもそれを反映させなくてはいけない。ピリッとひきしまり、それでいて楽観的、積極的でなくてはいけない。
さあ、いよいよあなたは客を訪問する段階となった。ドアをノックする。が、ちょっと待っていただこう。客に会う前にもう一つ注意しておきたいことがある。それは、商品を売ろうとしてはいけないということである。
「じゃあ客に会って何をするんだ。売るのが商売ではないか」そうおっしゃるかもしれない。ごもっともである。
が、実にそこにセールスのコツがあるのである。たしかに買っていただく、あるいは契約していただくのが最終の目的ではあるが、最初から「買わせよう、契約させよう、判をつかせよう」とする姿勢を見せるのはヘタなやり方である。
では何から始めたらよいか。まず相手がどういう人であるかを知り、同時に自分という人間を知ってもらうことである。そのために何でもいいから話を始める。
そしてその話を通じて相手が何に一番興味をもっているかを知り、それに話しを合わせていくのである。すると人間は妙なもので、自分に素直に興味を示してくれると、変わって自分の方から相手に興味を示したくなるものである。
かくして、商品を離れて人間的親しみと懐かしさを感じるようになる。あなたは人を動かしたのである。
いきなり商人的態度に出られると、誰しも警戒的態度をとるものである。するとそこに売手と買手の対立関係が生じる。それではいけない。まず人間的な信頼関係を抱かせる──これがセールスの第一のポイントである。
いまセールスマンの仕事を例に取り上げたのはたとえ話として一番説明しやすいからで、同じことはどんな仕事についても言える。つまり相手に対して素直に興味を示すことが、相手を動かす一番のコツなのである。
自分に関心を示されて嬉しく思わない人はいない。その嬉しい気持ちがあなたに対する態度に反映して、あなたの喜びそうなことをしてあげたいという気持ちを起こさせる。
態度や物腰というものは恐ろしいほど伝染性の強いもので、たとえば和やかな笑い声に包まれた部屋の中で、一人だけしかめ面をするのはまず困難である。葬式の最中に楽しい顔をするのも容易なわざではない。これと同じで、人間は相手の態度しだいでどうにでも気持ちが変わるものである。あなたが気持ちの良い態度で相手に関心を示せば、かならず相手も気持ちよくあなたと、あなたの仕事に関心をもつはずである。
日頃からよく顔を合わせる人に、どんな些細なことでもいいから親切を施すことである。きっと相手からうれしいことが返ってくるはずである。直ぐに返ってくるとは限らない。何をするにもそれなりのチャンスが必要だからである。が、
そうしたお返しを予期するのではなく、そうすることが健康的であり自然の理法にかなっているからという心構えで親切を施すのである。おそかれ早かれ、あなたの蒔いた幸せのタネが至るところで芽を出し、実を結び、成功への大きな基礎を築いてくれる。
人それぞれに異なった生活環境があるから、具体的にどうすればよいかは人によって異なる問題であり、一概には言えない。が、いかなる環境であれ、根本的に共通した原則がある。
まず第一に大切なことは、今まで仕事がうまく行かなかったのは日頃のあなたの心の持ち方のどこかに間違いがあったからであることを反省して、この日を境として、心の姿勢を大改造することである。物の考え方、やり方を根本的に改めることである。
次に大切なことは生活および仕事にはっきりとした目標をもつことである。とりとめのない生活、漫然とした仕事は人間をだらけさせる。かといって、大それた目標をもつのも感心しない。階段を一歩一歩登るように、いまより一段上に目標を定める。
次にその目標を、毎朝、自分に言って聞かせ、意識をそのことに集中する。成就するまでは、どんなことがあっても変えてはならない。かくして目標を心に念じながら一日を開始するのであるが、それが生活上のことであれ仕事上のことであれ、一つ一つの言動が直接その目標に結びついていなければならないということはない。
目標を達成する手段はいろいろあろうが、絶対に欠かせない条件は人との接触をなるべく多く持つということである。
接触するということは必ずしも面と向かって会うことを意味しない。電話をかけるのも接触であるし、手紙を書き送るのも接触である。が、直接会うに越したことはない。
もっとも、できるだけ多くの人と接触しろといっても、全く無関係の人と接触する必要はない。差し当たってあなたと生活上ないし仕事上でつながりのある人と接触すればよい。接触して明るく気持ちよい態度で対話をもち、些細なことでもよいから相手がよろこぶようなことをしてあげる。あるいは話してあげる。
その時、目標を意識してはいけない。商売根性から出た見せかけの善意であってはいけない。目標は毎朝出がけに言い聞かせてあるから、潜在意識に深く刻み込まれているはずである。それが無意識のうちに相手を動かし、成功への地ならしをしてくれている。
だからあなたは、人に会った時はひたすら相手に善意を施すことだけを考えればよい。
大きい小さいは問題ではない。いわゆる〝小さな親切〟でもいいし、大きくて自分の手に負えそうにない問題でもいい、真剣に相手の身になって努力してあげることである。
かくして一日が終わる。何だか一日中本来の目標とは関係のないことばかりしたような気がするかも知れない。が、それでいい。あせってはいけない。目先の欲に走ってはいけない。毎日そうすることに大きな成功へのタネ蒔きをしているのである。やがて機が熟すれば芽を出し、思いもよらない幸運を呼び寄せてくれるに相違ない。願ってもないチャンスが次々と訪れ、仕事が、そして生活全体が面白いほど順調に運ぶようになる。
そして、やがて最初の目標が達成される。そうしたら目標をもう一段高いところに掲げ、前と同じようにそれを毎朝自分に言って聞かせて、潜在意識に強く印象づけてしまう。あとは今述べたとおりのパターンに従えばよい。
即ち、なるべく大勢の人に接触して相手に善意の施しをする。するとその善意が幸運となって、あなたのもとに舞い戻ってくる。仕事がうまくいく。目標が達成される。また一段高い目標に挑戦する。
こうしているうちに最後の大目標まで到達する。
成功したあなたを見て人は言うかもしれない。
「あいつは運のいい奴だ。たまたま成功する条件が揃っていたんだ」と、かつてあなたが失敗を重ねた時に口にした言葉だ。
が、あなたは決してたまたま運がよかったのではない。努力が幸運を呼んだのだ。それはあなたと私が一番よく知っている。
第6章 財運を招くコツ
人間誰しも金持ちになりたいと思う。もう少しお金があれば、生活がラクになるのだが・・・そう思っている人が大部分であろう。本章はそういう人のために書いてみる。
従ってもしあなたが現在の生活に満足し、別に金持ちになりたいとも思わないなら、本章は飛ばしていただこう。あなたには無意味だからである。
皮肉でなしに、あなたは本当に幸せな方である。つつましく収入の範囲内の生活に満足し、それ以上の物的要求もなく、贅沢も求めない。これは一種の悟りであり、そこまで悟った人には本章はおろか本書を読まれること自体が無意味かもしれない。
が、私が日ごろつき合っている人の中には残念ながら、その様な悟りを開いた人はまず見当たらない。大抵の人が少しでも多くの金がほしいと思っている。
むろんその動機は人によってさまざまである。方々を駆けまわる忙しい仕事をしている人は車を欲しがり、わずかな年金で暮らしている孤独な老人はテレビを欲しがる。こうした人がもう少し金があればと思うのは当然であり、欲が深いと決して言えない。
一方贅沢な欲望をもった人もいる。三台も車をもっている人が今度はヨットがほしいとか、奥さんがダイヤモンドのネックレスが欲しがったりすることもある。贅沢ではあるが、もっと金がほしいという点では同じである。
さて本章は「財運を招くコツ」と題してあるが、これを「金をつくるコツ」としなかったことには理由がある、金はつくろうとしてつくれるものではなく、来るべき人のところに自然に集まってくるものだからである。
ニセ札づくりはなるほど金を作ってはいるが、これは意外にコストが高くついて割の合わない商売らしい。おまけに見つかったら更に高くつく。造幣局も金をつくってはいるが、自分のふところに入るのは雀の涙ほどである。月給袋を手にして情けなく思う御仁もあるに違いない。
冗談はさておいて、ここで金というものが一体いかなるものであるかを考えてみたい。例によってたとえ話で行こう。
あなたが今、小さな島で暮らしているとしよう。島には山から絶え間なく清流が湧き出て、海へ注いでいる。それが島での唯一の水源だとしよう。
さて生きていくためには作物をつくらなければならない。そのためには水がいる。そこであなたはその川から水をひくことになる。コツコツと堰をつくりミゾを掘り、ようやく田畑を潤すのに成功した。近所の人たちも同じようにして自分の田畑に水をひいた。
ところが中には怠け者がいて、堰をつくろうとせず。ミゾを掘ろうとしない。当然の結果として田畑は枯れ収獲はゼロとなる。
一方には欲ばりもいる。必要以上に大きな堰をこしらえ、水路になみなみと水をたたえ、その余った水は貯水池をこしらえて貯える。そのうち近所の怠け者を雇って田畑を耕させる。やがて隣接する田畑を買い占め、その地主を労働者として雇う。
こうして数少ない金持ちがやがてその島の土地の大半を所有するようになる。こうした人たちがいわゆる有産者階級を構成し、そしてあなたのように自分の土地を守り、つつましく真面目に生活している人が中産階級を構成することになる。
金というのはこの話でいえば水のようなものである。金は天下のまわりものといわれるように、あなたのまわりを水のように流れているのがお金である。
水が無くなったからといって雨を降らせるわけにもいかないように、金が足らないからといって自分でこしらえるわけにはいかない。
が、水を田畑に引くように金の流れを幾らかでもあなたの方へひくことはできる。
その引く分量が多くて有り余るほどであれば金持ちということになるし、少なすぎる時は貧乏となる。ではどうすれば欲しいだけの金を自分の方へ引き寄せることができるかということになるが、その前にあなたは一体なぜ金が欲しいかをよく反省してみる必要があるように思う。まずそれから始めよう。
大げさに言うと、今の世の中で金を使わずにいるということは至難の業である。朝起きて夜寝るまで、何を見てもどこを見ても、そこには必ず宣伝がある。
手を変え品を変えて財布の紐をゆるめさせようとしている。朝起きて新聞を開く、どのページにも宣伝がある。全面を使ったすごい広告もある。一歩外へ出ると目に耳に、否応なしに宣伝が入ってくる。雑誌を買って開いて見えると、至るところに広告が出ている。
帰宅してテレビのスイッチを入れると、これまたコマーシャルの連続である。
よく見ると、なるほど広告宣伝されているものは家にあるものより上等だし、きれいだし、便利そうである。二十四回払いだの三十回払いだのと長期の分割払いになっている。
頭金も実に安い。中には頭金不要というのもある。クレジットをご利用くださいというのもある。要するに品物は今すぐお手もとに、お支払いはあとでという条件を最高の売り物にして宣伝するから、つい買ってみようかという気にもなる。
昔と違って、今では広告宣伝も一つの科学的技術となりつつある。心理学にもとづいて消費者心理を細かく分析し、それを巧みに利用して買いたい気持ちを起こさせる。
第一に、いま家にあるものが古くさく思えるようにする。
第二に、あんなものもあって悪くないなと思わせる。
そして第三に、それを買うことによって充実した生活、本当の幸福、あるいは楽しい性生活が保証されるような気持ちにもっていく。
こうした巧みな宣伝の洪水のなかにあって、かりに気持ちのどこかで「無理に買わなくてもいいじゃないか」と思っていても、ほんとはそれを買う金がないのだという現象に気づくと、やはり面白くない。
現代はまさに物質崇拝の世の中である。人生の成功不成功が物によって計られる時代である。たとえば高級車をもつことが成功のシンボルとされる。豪華な家、豪華な衣服、なんでも豪華なのが成功を象徴する。バカンスを楽しむ場所にも格があるらしい。
一年に何回行くかも問題になるらしい。子供の通う学校も格付けされている。室内装飾品が豪華なこと、庭園が大きいこと、プールがあること、ヨットをもっていること、地中海に別荘をもつこと等々、数え上げたらキリがない。
これに加えて銀行預金の額、不動産の大小がまた人間を格付けする。金に糸目をつけない剛毅な男がいい男とされる。こういう人を金持ちといい、自分でもそう自認する。
さて、こうした世の中にあってあなたが金持ちになりたい、あるいはもう少し金がほしいと望むことを、私は決して悪いことだとは思わない。そう思わせるような世の中になってしまったからである。
が、願わくばあなたにだけはそうした欲を適度におさえる自制心が備わっていることを期待したいものである。なぜなら、足れるを知ることこそ幸福への唯一の道だからである。自制心を失ったが最期、人間の欲望は際限を知らない。
事をもつ。結構なことである。が、一家に一台で十分な筈なのに奥さんが自分の車を欲しがる。仕方なしに買ってやる。さあ、こうなったらもはや価値や便利さの問題でなくなり、見得の問題となる。
そのうちロールスロイスが欲しくなる。次は外国製のスポーツカーにしてみたくなる。
近所の誰それがマジョルカ島へ遊びに行ってきたと聞くと、ならばウチはジャマイカにでも行かないと気持ちがおさまらない。隣の家が21インチの白黒テレビを買った。さっそく21インチのカラーテレビを買いに行く。
こうして買いたいだけ買い、使いたいだけ贅沢三昧をした挙句のはてに、長者番付のトップになってみたいという他愛もない欲望のとりこになる。百万の単位から千万の単位を目指し、それが達成されると今度は億の単位をめざす。
私はこうした人たちを気の毒な人種だと思う。一種の中毒患者だからである。必要があって金を貯めているのではない。ただ金にとり憑かれているのである。さっきの水のたとえで言えば、他人の迷惑も考えず、むやみやたらに自分の田畑に水をひき貯水池に貯えているようなものである。
金は天下のまわりもの。必要な人のところに必要なだけ出まわっておればよいのである。その流れに勝手に堰を築き、必要以上に自分のふところに溜め込む。その他愛なさに気がつかないのが私には気の毒に思えるのである。
実際問題として貧乏ほど気楽なものはない。いわゆる足れるを知る心境になり、無いものは無いで済ませる生活術を心得さえすればそれで済む。他人に迷惑をかけることもない。
これに反しお金というものは、それをもつことによって、さまざな誘惑と戦わねばならなくなる。
ここで思い出していただきたいのであるが、あなたは魂の進化の修行場としてこの地上生活を選んで生まれて来たのである。その見地からすれば一旦金を手にした以上、それをいかなる目的に使用するかがあなたの価値を決定づけてしまうわけである。
富はいわゆる諸刃の剣である。使い方を誤ると、自分自身を傷つけなかねない危険性がある。ところが大抵の金持ちは財産の確保と隠匿に必死になる。たとえば金融業を始めたり、相続税を免れんがための税法上の勉強を始めたりする。
何のためにそうまでするのかといえば、自分の死後も家族が贅沢な暮らしが出来るようにとの親心かららしい。まったく余計な親心というものである。
世の親はとかく息子に自分の仕事をつがせたがるものである。何度も言うように、人間は一人一人進化の程度が違う。子供の方が親よりよほど進化している場合もある。
そんな場合、自分が続けてきた金儲けと、それにまつわるあくどい商根を息子に受け継がせようとしても、本人はおそらく有難がらないだろうし、反発するかもしれない。
その逆の場合、つまり息子が人類に進化したばかりの幼稚な霊魂である場合は、気狂いに刃物のたとえに似て、もてあました金で何をしでかすかわからない。金は多ければ多いだけ、持つ者の責任も大きくなるはずのものである。が、残念ながらその辺を心得た億万長者を私は知らない。
金は着実に人の心を蝕む。そのおそろしさを悟るまでは巨額の金は持つべきではない。
さて、なぜ金がほしいかの命題に戻ろう。幸いにしてあなたは金の価値の限界を心得ているとしよう。痛いほど金の恐ろしさを知っている。だから、あなたの場合は真実もう少しだけ余分の金が欲しいというに過ぎない。結構である。が、
たとえ金の恐ろしさを知るあなたでも、少額とはいえ一旦金儲けに着手することは導火線に点火するようなものであり、その爆発によって他人に、そして自分自身に、思わぬ被害を与える危険性が多分にある。
そこで、点火に先立って何のために金が要るのかという点を、今一度点検してみる必要がある。つまり金儲けの動機である。
そのために、次に述べる私の提案を忠実に実行していただきたい。まず紙と鉛筆を用意していただこう。次にこの節の切れ目のところで一旦本書を閉じていただこう。
閉じてから静かに瞑目して、一体自分はいまなぜ金が欲しいのか、その動機を思いつくままに記していただきたい。欲しいものを書くのではない。なぜそれがほしいかを正直に書きだすのである。では本を閉じていただこう。
いかがであろう。うまく書けたであろうか。こればかりはあなた自身の問題であるから、私はただ信じるほかはない。よろしい、正直に書かれたものと信じよう。では続いて、それを次の尺度で合否の判定を下していただきたい。
すなわち、その動機に道義的にやましいところはないか、そして誰かあなた以外の人の幸せに少しでも役立つものであるかどうか。
この判定に合格すれば、これから私が述べる金儲けのコツも存分に威力を発揮するが、やましいところがあったり、他人に迷惑を及ぼしかねない危険性をはらんでいる場合は決してうまくいかない。が、ともかくあなたはこの動機テストにパスしたとして話を進めよう。
さあ、これからいよいよ金儲けに精を出すわけであるが、ものには必ず準備というものがいる。毎日のように練習しているスポーツ選手でも必ず準備運動を怠らない。金儲けも同じである。その第一は罪悪感を捨てること、つまりお金、ゼニ、富といったものについて抱いてる汚いという感覚を拭い去ることである。
古来いずこの国でも貧乏人は清いもの、金持ちはけがらわしいものとする傾向がある。
子供の頃に読んだ童話や物語に出てくる金持ちは大抵悪い人、意地悪な人で、まじめで勤勉な人はみな貧乏人と相場が決まっている。善良な大地主の話は出てこないのである。大抵貧乏な小作人に対して横暴な限りをつくす極悪人に仕立ててある。
こうしたことも手伝って、われわれはとかく金銭というものに対して一種の罪悪感というものを抱いている。そして金儲けを目的とした仕事をする人々を軽蔑する傾向がある。
が、こうしたことは誤った先入観がそうさせるのであって、金儲けそのものは動機さえ正しければ決して悪いことはない。人間は元来病気するようにはできていない。病気になるのは心がけが悪いからだと言うことは前に述べた。
私はこれとまったく同じことが貧乏についても言えると思うのである。すなわち、人間はもともと貧乏するように出来ていない。貧乏するのはどこか心がけに間違ったところがあるからであって、心がけを正して努力すれば、人に迷惑をかけるほどの貧乏はしなくて済むはずである。
今も言ったように貧乏というのは心の姿勢の反映である。貧すれば鈍するというように、一度貧乏すると原因をすべて環境のせいにして、何とかしようとする気力を失いがちである。そして所詮オレは金には縁のない男なんだとあきらめてしまう。
貧乏するように生まれついているのだと決めつけてしまう。
愚か者とはこういう人のことである。金との縁を妨げているのは、その情けない無気力の姿勢にあることを知らない愚か者である。あなたは絶対に、このような考え方に陥ってはいけない。
金は自分から呼び寄せるものである。そのコツをこれからお教えしようというのである。
これであなたは準備運動を終わった。〝カネを稼ぐ〟ということへの余計な気がねをかなぐりすてた。自分は貧乏に生まれついているのだというあきらめの心境からも脱した。二度とこの二つの愚かな考えのとりこにならぬよう気をつけねばならない。
さて、いよいよ金儲けに取りかかるのであるが、成功のコツのところでも述べたように、目標はまず手ごろなところから始めよう。一度に大金を稼ごうとしてはいけない。
金儲けにも時間と努力がいる。途中であきらめるようなことになってもいけないから、比較的ムリのない額から始めるがよい。その額は自分のおかれた境遇に合わせて決めることである。決めたら、それをカードに楷書で次のように書き留める。
「何が何でも百万円を呼び寄せてみせる」
百万のところを五十万とでも一千万とでもするがよい。書いたらそのカードをふところにしまっておいて、朝起きた時と夜寝る前の二回、声に出して読み上げる。そうすることによって、あなたの目的が潜在意識に深く刻み込まれるのである。
が、これと一緒に、もう一つ潜在意識に刻み込まねばならないものがある。それは百万なら百万の金が現実に手に入った時のドラマチックなシーンである。例えば銀行の係の者から「おめでとうございます。ついに百万に達しましたョ」と言われて握手を求められているシーン。あるいは自宅で山と積まれた札束を一枚一枚ていねいに数えている。
数え終わって奥さんを呼ぶ「おい、とうとう百万になったぞ」そのほかどんなシーンでもいいが、大事なことは具体的で、しかも単純であること。そして一度決めたらそのシーンを絶対に変えないことである。
そのシーンをさっきのカードを読み上げるごとに思いうかべ、カードとシーンとが反射的に一体となるように潜在意識にたたき込むのである。
これが習慣となりきったら汽車の中でもバスの中でも、車を運転している時でも、あるいは机に向かっている時でも、そっと脳裏に思いうかべてはヤル気を鼓舞していくのである。
次にしなければならないことは、成功のカギの場合と同じように、出来るだけ多くの人と接触することである。電話や手紙も悪くはないが、なるべくならじかに接触することである。相手はかならずしも金持ちとか実力者でなくてもいい。何でもない人との接触が大きなチャンスにつながることもある。
ただ注意しなければならないのは、誰に会うにしろ、相手を利用してやろうという魂胆をもたないことである。ではどんな心掛けで接すべきか。
それは成功のカギのところでも述べたように、どんな些細なことでもよいから、いい事をしてあげようという心掛けである。郵便切手を売っているところがわからなくて困っている人に、ていねいに教えてあげることもいい事である。
タクシーへの合図の仕方がまずくて、なかなか止められずオロオロしている老人に代って、タクシーを止めてやることも善行である。駐車場を探している人に、最寄りの駐車場の名前と場所をメモして教えてあげるのも善行である。車輪の取り替えをしている人に手を貸すのもまた善行である。
こうした善行を積み重ねていくうちに、やがてそれが醗酵し、潜在意識に刻み込まれた目的を実現する方向へ働きはじめる。やがて初期の目的が達成される。達成したら次の目的を一段と高いところに定める。
それが達成されたらまた一段と高くする。そうやって少しずつ目標を大きく高くしていく。
こんなことで本当に金儲けができるのかと思われる方がいるかも知れない。大丈夫、きっと金の方からあなたの方へやってくるようになる。何はともあれ、自分で試してみることである。一銭の元金がいるわけでもなし、やって損をするものでもない。
要は金の使い道にやましいところがなければ、私が述べた通りの手順を忠実に実行することである。
では本章の締めくくりに、その手順をまとめて箇条書にしてみよう。
一、金銭に対する罪悪感や蔑視思想をすてる。
二、動機にやましいところがないことを確かめる。
三、儲ける金額を定めてカードに書き記す。
四、その金を現実に手にしたシーンを想像する。
五、そのシーンと金額とを朝と晩の二回、慣れてきたら折あるごとに想起して、潜在意識に焼き付ける。
六、人との接触をできるだけ多くする。
七、接触する人に少しでもよいことをしてあげる。