『死』とは何か ── 悩める人へのガイドブック
M・H・テスター(著)
近藤 千雄(訳)

『死』とは何か ── 悩める人へのガイドブック
いま、かりに医学関係の図書館へ行って婦人科のコーナーを一覧されるとよい。そこには出産についての書物がところ狭しと並んでいる。医学の専門書ばかりではない。

われわれ門外漢──門外婦人とでも言うべきか──のための本も大変な数である。それに加えて最近では至るところで婦人のための講演があり、診察所(クリニック)があり、テレビ番組がある。

人間の誕生については驚くべき段階まで研究が進んでいると言える。テキストあり、専門家あり、伝統あり、おまけに無責任な説まである。

さて、無事出産の過程を経てこの世に出てくると、こんどは、いかに生きるかについての資料が揃っている。活字だけでなく、目にも見せてくれる。最近出版された人生の書をちょっと拾ってみても──

The Power of Positive Thinking(人を動かす)、How to Live 365 Days a Year(一年三六五日をいかに生きるか)、How to Stay Alive All Your Life(生涯を生き生きと暮らす法)、How to Stop Worrying and Start Living(悩みを忘れて生きる法)等々がある。

地球を破壊するか、それとも無節操な快楽の場にするか、そんなことに躍起になっているように思える今の時代に、こうした真面目な人生指南の書が次々と出て来ることは注目すべきことではある。

もっとも、難解な人生哲学ならいつの時代にもあった。が、そうした哲学書は神学者か大学出のエリートが読むものと相場が決まっていた。

また誰しも何らかの人生の書に接する時期はあるもので、バイブルなどもある意味では人間の生き方を説いた書であり、かつては(西洋の)どこの家庭でもこれを人生訓として父親が読んで聞かせたものである。

今日の人生訓と異なるのは、最近のものが平易な日常語で書かれていて、誰にでも理解できるという点である。実際それは徹底して大衆を相手に書かれているのである。

これでおわかりの通り、今やわれわれは、この世にいかにして生まれいかに生きるかについては、ありとあらゆる知識を手にしたと言えよう。が、いかにして死ぬか、についてはなぜかまだ一冊もお目にかかっていない。

一冊もないというのは語弊があろう。死とは何かという問題を扱った書物があることは私も認める。がそれはみな宗教家の書いたものである。

宗教家というのは、まず第一に宗教的理論に終始するという点、第二にいかなる教えもその人の宗派的教説から離れることを許されないという点、この二点において徹頭徹尾一つのワクの中に閉じ込められている。

しかも大方の宗教は古くさい罪と罰の教義の上に成り立っている。真面目に生きておれば報われ、悪いことをすると罰せられるというのである。が現実にはかならずしもそうでないから、それは死んでから裁かれるのだと言い出す。すなわち、まじめにしておれば天国へ行き、悪いことをすればかならずや地獄へ行くのだ、と。

こうしたいい加減なハッタリ理論は当然正常な思考を歪めてしまう。宗教家は天国と地獄、罪と罰の理論からしか死の問題を扱えないのである。

私は書物を読んでいていつも感じるのであるが、本当によくわかった人が書いたものは平易な文体で書かれていて、しかも要を得ている。実に分かりやすいのである。が、

よく知りもせず書いた人の本は文章が冗漫で読みにくく、しかも自分で用語をこしらえるので、ふだん理解している意味で読んでいくと理解出来ないところが出てくる。読み終ってみると、読み始める前よりも一層分からなくなっている、といったことになる。

死についての信頼のおける本が出ない本当の理由は、それを書く人が一度も死を体験したことがないということに尽きる。その内容は勝手な推測か、さもなくば他の理論家の諸説の取り合わせにすぎない。

こうなると、平凡人が死について迷うのも無理はない。年を取り、死が近づいてくると、おくればせながら何か死後の保証のようなものが欲しくなる。神なんかいるものかと大きな口を利いていた人が、いそいそと教会へ通い始めるのもそのあらわれである。

慈善事業に寄付したりするのもそのためである。そして、いいおじいちゃん、あるいはおばあちゃんと言われるように努力しはじめる。

それもこれも、六、七十年にわたって人の迷惑も考えずに必死に生き抜いてきたガムシャラな人生が、そうしたわずか二、三年あるいは数年の〝立派な行い〟によって、そのまろやかな温かさの中に忘れ去られてしまうことを祈ればこそなのである。

もうそろそろ死への手引書があってもよい時代である。それもお座なりの宗教的教説にしばられず、陳腐な神学者流の理論から完全に脱却し、しかも実際に死を体験した人間──霊界のスピリット──によって書かれた死の参考書が必要なのである。

死ぬということは生きるということとまったく同じように重大な問題である。しかもそれがあなた自身にも日一日と迫ってきている。アイスランドへの案内書を読んでも、行きたくなければいかなくてもよい。結婚についての本を読んでも、生涯独身で通したければそれでもよい。

が、死だけはそうはいかない。かならず通過しなければならない重大な関門である。ならば本書を買われたお金も決して無駄ではないであろう。

第1節 自分とはいったいなんだろう
あなたがまず第一に実行しなければならないことは、長い間あなたを混乱させてきた幼稚な教えを捨て去ることである。死について教えこまれてきた先入観を一切合切洗い落とすことである。天国も地獄も忘れよう。

天国へ行くとハープを弾きながら性を知らない乙女に世話をしてもらうとか、反対に地獄へ行くと悪魔によって焼かれたりいじめられたりするとか、そんな子供だましの観念を拭い去ってしまおう。

さらに、〝最後の審判〟の教えも忘れてしまおう。要するに聖典経典の類を忘れてしまうのである。そして死というものを一度も考えたことのない自分に戻るのである。さらにこんどはその前、つまり生まれる瞬間の自分に戻ってみよう。そしてさらにその前に、母親の胎内に宿った時に戻ってみよう。

そして更に・・・

こうして原初に立ち帰るのである。一体自分とは何だろう。この肉体だろうか。いや違う。肉体は確かに便利な道具ではある。歩く。しゃべる。歌う。車を運転する。が肉体そのものがそうしているのではない。そうしたことをさせる何かが内部にある。

その何かが〝精神〟である。ではこの精神が自分そのものだろうか。いや、やはり違う。

精神は肉体を操る、いわばコントロール・ルームのようなもので、そこから筋肉や各種の腺に指令を発しているのである。

脳もあなたの一部である。器官の中で最も複雑で最も重要な機関である。が、その脳をとり出してビンの中で保存することも出来る。やはり脳も身体の一部にすぎないことがこれでわかる。肉屋さんへ行けば動物の脳味噌を売っているし、それを買って食べる人もいる。

実はこうしたものとは全く別に、第三の要素があって、それが肉体と精神とともにあなたという一個の人間を構成しているのである。その第三の要素がスピリットである。

そのスピリットこそあなた自身である。地上においてはそのスピリットが肉体と精神をまとって生活しているのである。

ではその証拠を見せてくれ──あなたはそうおっしゃるかもしれない。スピリットを見せろとおっしゃるかもしれない。が、スピリットは人間の目には見えないのである。ここに一人の人間がいる。衣服をはぎとれば肉体が見える。頭にドリルで穴を開ければ脳味噌が見える。がスピリットはどこにも見当たらない。

死体をごらんになったことがあるだろうか。衣服を脱がせて解剖してみても、もうその人はそこにはいない。ただの抜け殻。肉と骨と繊維の固まりにすぎない。放っておくとすぐに腐敗するので穴を掘って埋めるか焼却してしまわねばならない。

その死体がその人そのものだったのだろうか。その肉のかたまりが愛し、よろこび、音楽を作曲し、名句を吟じ、発明し、想像力を働かせ、理論をたて、異性に求愛したのだろうか。

誰にもそうは思えない。何か大切なものが失われている。つまりスピリットが抜けているのである。つまりその肉体は死んだのである。

人間は肉体と精神とスピリットの三つの要素から出来上がっている。

そのことをしっかりと認識していただきたい。この地上を旅するための道具にすぎない肉体、その肉体をコントロールするメカニズムとしての精神、そしてその肉体と精神の両者に生命を付与し、一個の生命体としての存在を与えているスピリット。この三つである。

死に対して消滅するのは肉体だけである。スピリットは絶対に死なない。〝自分〟は絶対に失くならないのである。つまり究極のあなたという存在はスピリットそのものであり、それが肉体という物質体を通して六、七十年の地上生活で自分を表現しているのである。

第2節 なぜこの世に生まれて来たのか
実はこの世とはまったく別の世界が存在するのである。スピリットの世界である。あなたはそこからやってきた。そしてまたそこへ戻っていくのである。この世と違うと言っても時間とか距離的に違うのではなくて、物理学でいうところの振動の波長が違うのである。

かりにリップ・バァン・ウィンクル(日本の浦島太郎と同じアメリカの伝説上の人物)が百年後のいま地上に戻ってきたとしよう。そこであなたはこう教えてあげる。

「あなたの身のまわりには無数の音楽が流れているんですョ。交響曲あり、ダンス音楽あり、行進曲あり、歌もあるし、喋っている人もいる、劇もやっています」と。

それを聞いたリップは多分あなたを気狂い扱いするであろう。そこであなたは、やおら、ポケットからトランジスタラジオをとり出してスイッチを入れる。なるほど、いろんな音楽が聞こえる。リップはキツネにつつまれた気分になるであろう。

実はスピリットの世界もこれと同じなのである。われわれの身のまわりに常に存在している。ただ波長が異なるために感じられないだけである。従ってそれを感じとろうと思えば、トランジスタラジオのような特殊な受信機が必要である。それがいわゆる霊能者または霊媒と呼ばれている人たちである。

私はいまガイドブックを書いているのであって専門書を書いているのではない。あまり入り組んだことは述べない。スピリチュアリズムの専門書ならたくさん出ているから、細かいことはそちらにお願いして、私はただ案内するだけに留めたい。

スピリットは常に進化を求めて活動している。このためには経験と教育と悟りが必要である。地上というところは地上でなければ得られない特殊な体験を提供するところである。言ってみれば特別の教育施設、それもきわめて基礎的な教育を受ける場である。

あなたがこの地上に来たのはその教育を受けるためである。あなたの魂の進化の今も段階で必要とする苦難と挑戦とチャンスを求めてやって来たのである。

地上生活中は霊界から何人かのヘルパーが付く。いわゆる背後霊である。あなたと同じ系統に属するスピリットで、困難や悩みに当たってアドバイスをしてくれたり慰めてくれたり援助してくれたりする。

実はあなたがこの世に来るに際しては、その背後霊(となるべき仲間)と一緒になって地上で辿るべき行程と体験について検討し、最終的にあなた自身がこれだと思う人生を選んだのである。

その仲間たちはあらかじめ地上を霊界から調査して、あなたの霊的成長にとって適切な体験を与えてくれるコースを選んでくれている。あなたが得心がいくと、いよいよその仲間たちに別れを告げる。これはあなたにとっても仲間たちにとっても悲しみであろう。

というのは地上生活中も背後霊として援助するとは言っても、その意識の疎通は肉体によってずいぶん制限されるからである。

やがてあなたは一種の睡眠状態、死にも似た深い昏睡状態に入る。地上では両親となるべき一対の男女が結ばれる。やがて女性の胎内で卵子が受精する。その瞬間をねらって、あなたというスピリットがその種子に宿り、まず胎内生活を始める。

ここでちょっと横道にそれるが、いま世界で問題となっている堕胎について一言述べてみたい。いま言った通りスピリットは受胎の瞬間に宿る。従って、いわゆる産児制限は悪いことではない。受胎していない時はまだスピリットでないからである。が、

いったん受精(妊娠)したら、すでにそこに生命が宿っていると考えねばならない。

それ故に堕胎は一種の殺人行為と考えねばならない。生命を奪う行為だからである。胎児は九ヶ月に亘って母体のぬくもりと気楽さの中で成長する。そして十ヶ月目に大気中に生まれ出て、独立した生活を営むようになるわけであるが、人間としての生命はすでに受胎の瞬間から始まっているのである。その瞬間に霊界から地上に移行するのである。

われわれ地上の人物は子供が誕生すると喜ぶ。そして死ぬと悲しむ。当り前と思うかも知れないが、霊界ではそれが逆なのである。人間界へ子供が誕生した祭、霊界では悲しみを味わっている。なぜなら人間界への誕生はすなわち霊界への別れだからである。

反対に人間が死ぬと霊界では喜びがある。なぜなら仲間と再会できるからである。


さて話を戻して、あなたがこの世で送る人生は、あなた自身が自分の教育にとって必要とみて選んだのである。仲間のアドバイスや援助はあっても、最終的には自分で選んだのである。従って責任はすべて自分にある。

苦難に直面したり病気になったり、大損害を被った人は私にこんなことを言う。

「どうして私はこんな目に遭うのでしょうか。私は真面目に生きてきたつもりです。人を傷つけるようなことは何一つしていません。なのになぜこんな苦しい目に遭わねばならないのでしょう」と。

実はその苦しみがあなたにとっての教育なのである。溶鉱炉で焼かれる刀はそれを好まないかも知れない。がそうやって鍛えられてはじめて一段と立派な刀となるのである。苦しみ悩んではじめて霊的に成長し、この苦難を乗り越えるだけの力が身につくのである。

そんな不平を言う人とは対照的に、苦しみを神の試練と受け止めて感謝する人もいる。苦難こそ自分を鍛えるのだと心得、そうした神の試練を受けられるようになった自分をむしろ誇りに思うのである。

要するに地上生活は勉強なのである。人生が与えるさまざまな難問を処理していくその道程においてどれだけのものを身につけるか、それがあなたの霊的成長の程度を決定づけるのである。さらにどれだけ高度なものに適応できるかの尺度ともなるのである。

第3節 自由意志はあるのだろうか
人間にはある限られた範囲内での自由意思が許されている。この自由意思と宿命についてはとんでもない説が横行している。まず一方には東洋の神秘主義者が主張する徹底した宿命論がある。

人生はすでに〝書かれてしまっている〟── つまり人の一生はその一挙手一投足に至るまで宿命的にきまっており、どうあがこうと、なるようにしかならないのだと観念して乞食同然の生活に甘んじる。

もう一方の極端な説は、何ものをも信じない不可知論者の説で、何でも〝自分〟というものを優先させ、他人を顧みず、人を押しのけて生きていく連中である。物事の価値をすべて物質的にとらえ、「これでいいんだよ、きみ」とうそぶく。

両者とも完全に事実を捉えそこねている。まず宿命について考えてみよう。かりにヨーロッパの白色人種として生まれたとしよう。これだけは変えようにも変えられない。

黒人に生まれる可能性もあったし東洋人に生まれる可能性もあった。が現実は長身で細身で色白、そして青い目をしている。両親の系統の遺伝的特質も少しずつ受けている。これもどうしようもない。

また、あなたはこの二十世紀に生を享けた。できることなら十六世紀に西洋のどこかの王室の子として生まれたかったと思うかもしれない。がどうしようもない。そうした条件のもとであなたは今という一つの時期にこの世に生を享けている。

寿命の長さも決まっている。どんな人生を送るか、その大よその型も決まっている。また苦難の内容──病気をするとか、とんでもない女と結婚するとか、金銭上のトラブル、孤独、薬物中毒、アルコール中毒、浮気──こうしたこともみなあらかじめわかっている。

あなたがいよいよ母体に入って子宮内の受精卵に宿った時、それまでのスピリットとしての記憶がほぼ完全に拭い去られる。ただし地上生活中のある時期に必ず霊的自我にめざめる瞬間というのがある。これもわかっている。

宇宙は因果律という絶対的な自然法則によって支配されている。従って自由意思はあってもその因果律の支配から逃れることはできない。水仙の球根を植えれば春になると水仙の花が咲く。決してひまわりやチューリップは咲かない。自分の指を刃物で切れば血が出る。それもどうしようもない自然法則である。

それは極めて単純な法則である。科学も哲学も生命そのものも、この因果律という基本原理の上に成り立っている。それが地上生活を支配するのである。大切な行為にはかならず反応がある。あなたの行為、態度、言葉、こうしたものはいわば池に投げ入れた石のようなもので、それ相当の波紋を生じる。

さきに、地上に生まれるに際して霊的記憶が拭い消されると言ったが、実際はわずかながら潜在意識の中に残っているものである。それが地上生活中のどこかで、ふと顔をのぞかせることがある。その程度は人によって異なるし、霊的進化の程度にもよる。

たとえば、ひどい痛みに苦しんでいるとする。仮に骨関節炎だとしよう。これは医学では不治とされている。さんざん苦しんだあげくに、ある心霊治療家を知って、奇蹟的に治った。うれしい。涙が出る。感謝の念が沸き出る。

実はその時こそあなたが真に目ざめた時である。この機に、その感謝と喜びの気持ちでもって、自分に奇蹟をもたらしてくれた力は一体何なのか、人間はどのように出来上がっているのか、信仰とは、幸福とは、と言ったことを一心に学べば、その時こそあなたにとっての神の啓示の時なのである。

こうした体験はそうやたらにあるものではないが、もっとよくある例としては、仕事の上で右と左のどっちの道を取るかに迷っている時が考えられる。

道義的には右をとるべきだが、そうすると金銭上は大損をする。左を取れば確実に大金が入るが、それは人間として二度と立ち戻れない道義的大罪を犯すことになる。といった場合もあるであろう。神の啓示に耳を傾けるか否かの決定的瞬間である。

さらにもっと日常的な例では、自分自身は厳寒の厳しさをもって律しても、他人には温かい寛容と忍耐をもって臨む、その選択の瞬間に神の啓示のチャンスがある。

因果律は絶対に変えられない。歪めることも出来ない。無視することも出来ない。

このことをしっかりと認識し、自分の道義心に照らして精一杯努力し、困難を神の試練と受け止め、ここぞという神の啓示の瞬間には、たとえ金銭的には得策でなくても、道義的に正しい道を選ぶのである。

生まれた土地、時代、遺伝的特質、人種──こうしたワクの中で、あなたにも自由意思が与えられているのである。

第4節 悪いことをするとバチが当たるか
罰にもさまざまな意味がある。みんなと同じことが許してもらえないというのも罰であろう。たとえば他の友だちがお菓子を貰ったのに自分だけ貰えないという罰がある。

学校で弱い者いじめをしているうちに次第にみんなから嫌われて友だちがいなくなる。これも罰を受けたのである。良心の呵責も罰である。良心に背く行為をして「悪いことをしてしまった」という気持ちが嵩じて心身ともに病的状態に陥ることがある。

思考力を具えた成人が過ったことをすると、それ相当の苦しみを味わう。これは因果律の働きである。たった一度の過ちが人生を歪め、何をやってもうまくいかない。

良心が痛み、心穏やかな日が一日としてない。晩年になってわが人生が惨めで迷いの連続であったこと知る。何のために生まれて来たのかもわからないということになる。

反対に良い行いは気分を和ませ、すっきりとして気分も晴れやかである。その気持ちがまわりの人々にも好感を与え、何もかもうまく行く。晩年にわが人生を振り返って、充実した幸せな人生であったと思う。

善か悪か、正しいか間違っているかの判断は生涯つきまとう問題である。正しく生きれば充実した幸せな人生となるし、過ちを犯すと無味乾燥な人生に終わる。

現代の精神科医はいろんな理屈をこねるようであるが、善悪は厳然と存在し、霊的に成長するほどその感覚が鋭くなるものである。

過ちを犯さない者はいない。が、ある一定の条件下において何が一番正しいかを判断することは誰にでもできる。たとえば、いま盛んに行われている生体解剖と動物実験は残酷な行為であり間違っている。

道義的に間違った行為が医学的に正当化されるわけがない。人をだます。ウソをつく。約束を破る。これらはみな悪である。仕事においても真っ正直でなければいけない。道義的に間違ったことが仕事の上で正当化されるわけがない。

毎日の人と人との関係において、各自の道義の鑑に照らした行動の規範というものを維持することは可能である。それを過ると人生が無意味で空虚になる。あなたが求めようとしたものが逆にあなたを蝕んでしまう。そこに因果律の働きがある。

そこであなたは尋ねるであろう。死んであの世へ行ったら私は地獄へ送られて苦しめられるだろうか。最後の審判の日に地上で犯した罪状を読み上げられ、善い行いの分を差し引かれて刑を言い渡されるのだろうか、と。

そんなことは絶対にない。が、次のようなことは必ず体験させられる。まず、あなたを霊界から援助してくれた背後霊とともに地上生活を振り返る。

正しかったことも間違っていたことも細大もらさずビデオのように再現され、この判断は正しかったが、ここはいけなかった。ここでこんなことをしたから、こうなったのだ、といった調子で背後霊から説明を受ける。

それから背後霊と話し合って、もう一度高い世界へ挑戦するか、それとももう一度地上生活を体験するかを判断する。もし再度地上に戻ると決まったら、しばらく休息を取り、精神統一をしながら調整する。

やがて準備が整う。指導霊の協力を得て新しい地上生活のパターンを選ぶ。それまでに何世紀も経っていることもある。いよいよ準備が到来すると、前と同じように深い昏睡状態に入り、それまでの一切の記憶を棄てて地上の一女性の胎内へと入っていく。宇宙学校の第二学期が始まったのである。

第5節 自殺と死産と幼児の死について
地上に生を享けた時、すでに寿命の長さがきまっている。その寿命がつきないうちに不自然な方法で生命を断つと、その埋め合わせをするために再び地上に戻ってこなければならない。

自殺をするのに勇気は要らない。自殺は実は臆病者のとる手段である。くじけず生き通すことこそ勇気がいるのである。自殺は何の解決にもならない。自殺者は本来なら生きるべきであった失われた年数を生きるために再び地上に戻ってくることがある。

死産とか若死にするのはこうしたケースである場合がある。

死ぬということを刑罰のように考えてはいけない。死は次の世界へのステップにすぎない。死亡証明書はいわば宇宙学校の卒業証書のようなものである。学生が大学を出て社会生活に入るように、地上という学校を卒業して次の世界へ進む、その関門にすぎない。

いざ卒業となると誰しもそれまでの学校生活に後ろ髪を引かれる思いがするように、他界入りした人間はしばし地上生活に思いが残る。しかし前進するほかない。さまざまな思いも、新しい世界の物珍しさと自由の中に、いつしか忘れ去られていく。

地上に生まれてくるスピリットの中には、ホンのわずかな体験しか必要としない者もいる。従って若死にする者のすべてが前世に自殺したものと考えてはいけない。

高級なスピリットが子供の生活を体験しにやってくることがよくあるのである。そういう子は愛らしさと純真さとやさしさに光り輝いて見える。

第6節 背後霊とは
人間にはかならず複数の指導霊がついている。知識と体験を積んだスピリットで、地上生活を送る人間を陰から指導援助してくれる。

その中には本人の親戚に当たる人、たとえば祖父などが要る場合もあるし、数世紀も前に他界した霊で、特殊な体験を生かして指導に当たることになった者もいる。いずれにしても、そのスピリットたちとはこの世に生まれる前は霊界で一緒だった仲間である。

地上生活中ずっと面倒を見て、地上を去る時も真っ先に迎えてくれる。

背後霊とはいろんな形で連絡が取れているのであるが、普通の言語による連絡はできない。それだけ連絡路が狭められているのである。

例えば背後霊はあなたの脳裏にある考えを吹き込んだり、あなたの悩みを解決してくれそうな人のところへ案内したり、その他いろんな手段を講じて援助する。どこでどういう援助があってこうなった、といったことは霊能者には分かるが、普通の人間にはわからない。

その霊能者、ときに霊媒とも呼ぶが、これはスピリットと直接交信する能力を具えた人のことで、中には入神状態でやる人もいる。いわば深い睡眠のような状態に入り、その間に背後霊の一人がその身体を使って話をする。

〝霊を呼びよせる〟などと言う人がいるが、実際には霊の方から人間に交信を求めてやってくるのである。人間側としては交霊会にでも出席して通信を待つほかはない。

しかし間接的な通信なら日常生活において出来ないことはない。波長を整えることによる方法である。ラクな服装で安楽イスにでも腰掛ける。部屋は薄暗く静かにして、外部から邪魔されないように配慮する。ネクタイをはずし襟を開き、上着を取り、靴を脱いでゆったりとした気分になる。そして目を閉じてゆっくりと呼吸をする。

その状態が背後霊にとってあなたと交信するのに最も望ましい状態である。その状態をしばらく続ける。二十分くらいたって何の変化もなくてもあきらめてはいけない。そのまま寝入ってしまってもかまわない。大切なのは悩みを忘れてしまうことである。

リラックスして夢心地になることである。こうしたことを何度か繰り返しているうちに、ある時ふと緊張がほどけて、ある考えが外から飛び込んでくるようになる。それですんなり難問が解決したり見通しが立ったりする。背後霊のおかげである。

第7節 死ぬときはどんなふうになるのか
寿命が尽き、いよいよ死ぬ時期が近づくと、一種の緊張の弛みを感じる。苦痛も不快感も消える。そのうち肉体からふわっと浮き上がるような感じがする。アドバルーンのような感じである。ふと下を見ると自分(の肉体)が横たわっている。

その肉体と本当の自分とは細い銀色のようなもので繋がっている。それがいきいきとした光輝を発しながら鼓動している。これがいわゆる玉の緒、生命の糸(シルバーコード)である。

上昇するにつれてその紐が伸びて細くなり、同時に光輝も薄くなって、ついには消えてしまう。紐も見えない。その時あなたは死んだのである。しばらくは浮いたままの状態で下を見おろしている。気分は良く、ラクである。

やがてさらに上昇して灰色のモヤの中を通っていく。するとそこに仲間たちが待っている。地上時代の背後霊である。笑顔で迎え握手をする。そして一緒にモヤの中を通り抜けていく。そこが死後の世界である。

スピリットの容姿はその人の最盛期の相をしている。一人ひとりみな違う。四十代の働きさかりの姿をしている男性もおれば、二十代の最高に美しい容姿をしている女性もいる。人間が死んであの世へ行くと、みなそれぞれの最高の容姿に変わっていく。

老人はシワが消えて絶頂期の相になる。そしてその相をずっと維持する。ただ変化するのは霊的成長とともにオーラの輝きが増すということだけである。

子供であれば地上でいう成人の段階まで霊界で成長する、もちろん縁ある人と再会し先に死んでいった友達とも逢える。すっかり成長すると、今度は地上からやってくる人たちの案内や指導の役をしたりする。そしてある時期が来ると、もう一段高い世界へと進んで行く者もあれば、もしも物質体験が不足しているとみれば、さきに述べた順序を経て再び地上へと戻ってくる。

第8節 霊界にも結婚生活があるか
死後の世界では肉体がなく、従って肉体的欲望つまり性欲がない以上、地上でいうところの結婚はない。愛によって結ばれて共に暮らすということが霊界の結婚であり、そういう形態は地上でもないことはない。

性欲に起因する肉体的交渉も一種の愛の形態ではあるが、地上にしろ霊界にしろ、結婚の真の形態は二人の人間の間の霊的親和力による一体的生活をいう。

従って地上で夫婦であった者が他界した場合、両者の間に真の愛があれば──というより真の愛が存在する時にのみ、両者は霊界でも一緒に生活することができる。

かりに片方が先に他界した場合は、地上に残った配偶者を霊界から見守る。そしてその配偶者が地上を去ると出迎えて再び一緒の生活を始める。

ただしそれは真の愛によって結ばれた二人の場合である。愛こそが判断の基準である。

教会で結婚式を挙げようと回教の寺院で挙げようと、あるいはただの入籍だけで済まそうと、そんなことは何の関係もない。二人の間に親和力が存在すれば、つまりもともと一つの魂が男女に別れてこの世に生まれた場合であれば、両者の結婚は二つの魂が一つに結合されることであり、これなら死後も一体のままである。

もしもその親和力の関係が存在しない場合は霊界では必ず別れ別れになる。たとえば友情によって結ばれていても生活は別々になる。

では離婚して別の人と結婚した場合はどうなるかということになるが、答えは簡単である。魂の親和力による結合は一度しかあり得ないのであるから、地上で何度結婚しようと、霊界で真の魂の相手を見つけて、そこで結ばれるのである。

第9節 死ぬ前にどんな準備をしたらいいか
何も準備などする必要はない。大急ぎで慈善事業に寄付したり、急に真面目な顔して教会へ通いはじめたり、あるいは聖人君子のようないいカッコをしても何にもならない。

死後を恐れるからそんなことをするのである。永遠の火あぶりの刑がこわくて善行を施すのは愚かである。神と取引しようとしても無駄である。死にそなえる方法はただ一つ──自分の道義心に忠実に生きること、これしかない。

世界の宗教の歴史を紐解いてみるとよい。いつの時代のどの国にも、かならず霊覚を具えた指導者が出て人の道を説いている。キリストの山上の垂訓、モーゼの十戒、マホメットのコーラン、どれを読んでも必ず共通したものが流れている。すべての宗教、全ての思想に共通した黄金律がある。細部では相違点もあろうが、驚くほど多くの共通点を見いだすはずである。

その黄金律を自分で見いだすことである。自分で勉強し、さきに説いたように、背後霊に対し無欲になりきって指導を仰ぐことである。自分にとってどう生きるのが一番正しいか、それ自ら判断し自ら実行することである。

神も仏も信じず、贅沢三昧の暮らしをしている億万長者を見て、あんな人でも成功しているではないか、などと思ってはいけない。金は確実に魂を蝕む。

あなたが羨ましがっている人は、もしかしたら冠状動脈血栓症を患い、子供がなく、その気晴らしに贅沢三昧をしている気の毒な人かも知れない。霊界へ行ってから地上生活がほとんど無意味だったことを知るであろう。むしろ哀れむべき人なのである。

それよりもむしろ、質素ながら満ち足りた生活を送っている人々、きちんとした夫婦生活を営み、子供に囲まれ、友人にめぐまれ、すすんで他人のために心を砕き、悲しみに沈む人を慰め、人を勇気づけることのできる人。心にぬくもりをもった人。霊的真理にめざめた人。そういう人にこそ目を向けるべきである。

死ぬということは実は楽しい冒険であり、右のような魂の目覚めた人こそ堂々と、そして平然と、その冒険に挑戦できる人である。はたしてあなたはどうであろうか・・・。