第1章 なぜ病気になるのか
「自分はどうしてこんな目に合うのだろう。真面目に生きてきたつもりだ。間違ったことは何一つしていないはずだ。なのになぜ病気にならなきゃいけないんだ。なぜこのおれが・・・」

ごもっともである。なぜであろうか。その原因究明にとりかかるまえに、病気というものについて一つだけはっきりさせておきたいことがある。それは、病気というものは決してバチが当たってなるものではないということである。

子供のころ、おとぎ話やお説教の中で聞かされた迷信めいた話が、大人になっても潜在意識の中に以外に根強く残っていて、それがいろいろなコンプレックスを生むことがあるものである。

交通違反の点数制ではないが、何か人間の言行にも一定の点数があって、それをオーバーすると病気になるとでも思っている人がいるらしい。そんな人の頭の中には子供のころに見た白衣をまとった長老が今も控えていて、こう語りかけるのである。

「コレコレ、お前は日曜日に教会へ行かなかったな。妹にいじわるをしたな。お父さんに口ごたえをしたな。寝る前にお祈りをしていないな。もういかん。お前をハシカにしてやる。よいな」と。

が、こうしたバチ当たり的な因果関係は絶対にないことを、まずはっきり認識していただきたい。

病気はバチが当たってなるものでは決してない。そうではなくて、病気になるようなちゃんとした原因があって病気になっているのである。

心配ごとが絶えないと胃潰瘍になる。原因は心配であり、その結果が胃潰瘍という形で現れたのである。心の平静を失ってイライラしたり、明朗さを失ってふさぎ込んでしまう。そうした心の異常が病気を生むのである。

それをバチが当たったのだと言いたいのなら、バチを当てたのは当の本人に他ならない。たとえ話でわかりやすく説明してみよう。

たとえばハイウェーをドライブしていて車がパンクしたとしよう。幸いスペアを用意していたし道具も備えてあったので、わけなく取り換えて再び車を走らせた。ところが間もなく、そのタイヤが外れて転覆事故となった。これはバチがあたったのだろうか。

とんでもない。ナットの締め方が足らなかったのである。それが原因であり、結果が事故となったにすぎない。ところがそれだけではどうも気持ちがおさまらない。

出がけに靴のヒモが切れたのが原因だとか、途中で霊柩車を見たのがいけなかったとか、あれこれと昔からの迷信に適当な理屈をつけては後悔し、ふさぎ込んでいく。そして立派な病人になっていく。

ただの事故でこの程度である。これが人をはねようものなら、どんなことになるかおよその想像はつくであろう。

大部分の病気はこうした感情によって引き起こされているのである。なるほど、痛みや不快感はまぎれもなく身体的症状である。胃潰瘍になれば胃が痛む。これは胃壁の筋肉がひきつるからである。が、今日では胃潰瘍のそもそもの原因は、精神的なストレスであるというのが常識である。

胃潰瘍に限らない。大部分の病気がそうなのである。むろんこれは大ざっぱな言い方である。もしもあなたが今入院中であれば、

「冗談じゃない。この痛みがなんで精神的なものか!」と思われるであろう。ごもっともである。

が、私が言わんとしているところをよく理解していただきたい。精神的なストレスがどういう過程をへて身体上の病気を引き起こすかを次に説明してみよう。

人間の身体はきわめて複雑はメカニズムをしている。これまで人類が発明した機械工学、電子工学のすべてが体内に収められているといってもよい。現代の花形のコンピューターなども人体のコンピューターに比べればまるでオモチャのようなものである。それほど精巧なコンピューターが人体を支配してる。

が、その働き、つまり人体の機能について、人間はいまだに驚くほど無知である。それでもはっきりしていることは幾つかある。ホルモンなどの分泌物のバランスが精密に保たれていること、糖分が過剰になると糖尿病になること、赤血球が不足すると貧血を起こし、血圧が下がりすぎると死亡する、血液の凝固が高まりすぎると血栓症を引き起こす、等々。

人体のこうした生理上のバランスは化学物質のように過敏である。首筋が硬直すると頭痛をひきおこす。筋肉を被っている皮膜がけいれんを起こすとリュウマチになる。要するに人体のあらゆる部分のバランスが保たれている状態が健康なのであって、少しでもそれが崩れると何らかの病的症状が現れる。

では、なぜバランスが崩れるのか。あなたが最初に投げかけられた疑問──自分はなぜこんな目にあうのだろう、という問いに対する答えを求めることにしよう。

たとえ話から始めよう。

さっきからあなたは揺り椅子に腰かけて、のんびりと書物を読んでいたとしましょう。そのうち心地よい眠気を催して寝入ってしまった。が、やがて突如として目をさました。あたりはまっ暗である。部屋にはあなた一人しかいない。

たしか物音で目をさましたはずである。街灯が通路を通って部屋の中までうっすらと影を運んでいる。よく見ると一人の男がピストルを手にして立っているではないか!

あなたは恐怖のどん底におちいった。動機が早鐘のように打つ。冷汗が背筋を気味わるく流れおちる。こんな時、あなたの体内ではアドレナリンという物質が急速に高まっていく。

また血球の数が異常に増えていく。血圧が一気に百ばかりハネ上がる。胃の幽門が閉鎖される。こうした変化はことごとく外敵からの攻撃に備えて、人体の指令室からの命令に従って生じているのである。

間もなく一台の車が通りかかり、そのヘッドライトによって一瞬部屋が明るくなった。瞬間その人影の正体がわかった。何のことはない。通路に置いてある彫像の影だったのである。ピストルに見えたのはそれに立てかけてあったステッキの持ち手だった。目をさまさせた物音は猫の仕業であった。

「こん畜生め! 人さわがせをしやがる!」

あなたはニガ笑いをしながら明りをつけ、ウィスキーでもひっかけてからタバコに火をつけ、再び本を読み始める。この時あなたの身体は自動的に休めの指令を発している。

バランスが一瞬のうちに取り戻される。動悸はおさまり、脈はくも正常に戻り、全身の緊張がほぐれ、血球の異常増加も止まり、凝結度も血圧も正常値にさがる。呼吸も静かである。かくして身体に平和が戻った。

これは極端なたとえであって、こうした事態はやたらにあるものではない。あったら大変である。時たまであればこそ、異常な生理現象もすぐに正常に戻るわけである。が、かりにこれに似たことが毎日のように、あるいは一日に何度となく生じたらどうであろう。恐怖でなくてもいい。カンシャクのようなものでも同じである。

たとえばあなたが有能なビジネスマンだとしよう。朝出勤してまず机の上に積まれた手紙に目を通す。その一通に契約破棄が通告してあった。あなたの会社にとってそれはどうしても破棄されては困る大切な契約である。すでにそのために銀行から多額の融資を受けている。

驚きが次第に怒りに変わってきた。

「畜生! オレを何だと思ってやがるんだ! ようし見てろ。思い知らせてやる」

そう思いながら、すぐさま秘書に命じて手紙の用意をさせる。顔が赤らんでいる。動悸が大きくなってきた。全身に異常事態発生の警報が鳴りわたる。血圧が上がる。凝結度が高まる。そのほか、前の例で述べたような生理現象が次から次へと生じる。

手紙を書かせたあとタバコに火をつけ、コーヒーを飲み、イスに腰かけて、憮然とした表情で考え込む。

その間わずか数分のことであるが、グッタリ疲れをおぼえる。

こうしたことが一日数回あったとしよう。そして、こんな日が一カ月に何回かあったとしよう。一年では何百回にもなるであろうし、それを何十年も続けていると、たとえば血液の凝固性が慢性的に高まってしまう。

つまり凝血因子が血中に残るようになり、それが凝結して血液の流れを阻害するようになる。いわゆる血栓症である。また、血液がしょっ中はげしく上下するために血管が弾力性を失い、カッとなった時などに疲れて出血する。いわゆる脳溢血である。

これは精神的な例であって、これで死に至る人は少なくないが、死に至らない人がいわゆる病人となるわけである。

胃潰瘍などがそのもっともよい例である。心の不安定が胃液の分泌を狂わせ、胃酸が出すぎて絶えず胃壁を刺戟するために次第にただれてくる。これを胃潰瘍と言うのである。

こうした感情によってひき起こされる病気が全体の何パーセントを占めるかは正確には言い難いが、ある医者は九十五パーセントという数字を出している。

以前わたしは胃病の臨床記録を見せてもらったことがある。一般開業医から送られてきた細かい診察記録を分析したものであるが、それによると胃の病気の七十五パーセントが感情的な原因からきていることが分かった。

また、頭痛とか倦怠感、便秘、めまい、ノドの炎症、腹痛、首筋や背中の痛みなどは殆どが感情的なものに起因しているといっていいらしい。

はっきりとした数字を出す専門家もいる。疲労倦怠感は九十%、便秘は七十%、頭痛は八十五%、ノドの炎症は九十%、胃の膨満感(ガスの発生)は九九・五%が感情によるという。

医大などで使用するテキストにはほぼ千種類に及ぶ病名が記載されており、学生はこれをマル暗記させられるのであるが、病名はそんなにあっても、その大半の原因はただ一つ感情だというわけである。

要するに精神の不安定が生理的なバランスを崩し、それがさまざまな病的症状を生んでいく。痛む、むかつく、疲れやすい、関節が凝る、そのほか、できもの、機能不全、便秘、ノイローゼにも似た不快感、といったような日常聞き慣れた症状が次々と出てくる。

が、誰が悪いのでもない。何が悪いのでもない。あなた自身の心構えが悪いのである。

身体の整理的バランスをコントロールしている中枢は幾つかあるが、中でも一番重要な働きをしているのが脳下垂体である。大脳の下部に位置し、エンドウ豆ほどの大きさである。これが警報に対して一番敏感に反応を示すが、意識的にコントロールすることはできない。

そのことは内臓器官につても言えることである。手を握りしめたり開いたりすることは意識的にできるが、心臓の機能はそれができない。つまり脈拍とか血圧といった、生理上のバランスを保持するための機能を意識的に変えることは不可能なのである。

ましてや、そういった機関を管理している脳下垂体のような中枢機関は意識的にはどうしようもない。

たとえば今、何かで大失敗をして気落ちしているとしよう。こんな時「なにをクヨクヨしているか。案ずることはない。そのうち思いがけないことが起きて、きっとうまく行くさ」と自分に言い聞かせても気分は一向に晴れないであろう。

あるいは頭がズキズキ痛む。首筋が凝っているからだということはわかっていても、その凝っている筋肉に向かって、「ラクにしろ!」と命じても始まらない。

「ではわたしの場合はどうなのでしょう。わたしはめったに腹を立てないし、こわい目にあうこともないのですが、それでも何かと病気がちです」

こんな読者もおられるであろう。が、怒りとか恐怖心ばかりが病気の原因なのではない。ほかにも不健康な悪感情はたくさんある。その代表とも言うべきものが〝不安〟である。

われわれ地球人は今まさに〝不安の時代〟に生きている。第二次世界大戦後も小規模とはいえ戦火の絶え間がない。地上が平和でない証拠である。世界では戦慄すべき核兵器の生産競争が際限もなくエスカレートし、それがひいては世界経済を圧迫している。

第三次世界大戦への不安が日ましに現実性を帯びてきている。一たび大戦となろうものなら、二十四時間以内に地球全土を廃墟と化すに十分な兵器が貯えられているといわれる。現在の人類はその危険を完全におさえ切るほど大人になりきっていないし、その能力があるとも思えない。

もしかしたら故意にではなく、うっかりして国境を侵犯した行為に対してコンピューターが核兵器発射の命令を指示するかもしれない。そうなったら一瞬のうちに大量殺人が行われる。

今、アメリカや西洋諸国ではヒッピーのような若者がわけのわからぬ儀式や偶像崇拝に夢中になっているが、二十歳になるその一人がこんなことを私に言ったことがある。

「オレたちはョ、しょせん三十まで生きられっこねェのさ」

要するに「はたして自分は生き永らえることができるか」というのが現代の人類に共通した大きな不安なのである。

また、こうした不安に加えて、唯物的商業主義が生み出すさまざまな煩わしさも病気の諸因となっている。新聞、雑誌、テレビなどが次から次へと魅力的な広告宣伝をやる。警戒しているつもりでも、やはり以前に比べると買わないでいいものを知らないうちに買わされている。

カラーテレビを買って大喜びしたのはついこの間のこと、今では二代目、三代目を買い込んでいる。買うために貯金をする必要もない。「お持ち帰りは今、お支払いはボーナス時で結構」とくるから、つい気楽に買ってしまう。

冷蔵庫しかり、洗濯機しかり、クーラーしかり、セントラルヒーティングしかり、衣服などもシーズン毎に新しいものを買わされる。海外旅行も、しない者は時代遅れのような感じがして、つい行ってしまう。

しかし常識的に考えて、こうした出費が全部きれいにまかなえるはずはない。揃えるものは揃え、やりたいことをやったあとに残るものは赤字である。ローンという負わずもがなの重荷を背負い、赤字を埋めるための煩わしい戦いが始まる。これはおそらく誰しも身に覚えのある気苦労の最たるものであろう。

かくして、果たして何歳まで生き残れるかという未来への不安に加えて、その日その日の金銭的な気苦労が重なるわけであるが、これにさらにもう一つの病的不安が加わる。すなわち〝過去への後悔〟である。

人間誰一人として過ちを犯さない人はいない。それ自体は少しも悪いことではない。否、むしろ失敗とは、いわば人生勉強を自学自習しているようなものであって、その意味で失敗のない人には進歩はないと言ってもよいであろう。

が、失敗してそこから何かを学びとる態度と、失敗をくやみ、ふさぎ込んでしまうのとでは大いに違ってくる。失敗から生ずる不安と恐怖、こうした感情は体内に複雑な不調和音を鳴りひびかせ、正常なコンピューターの働きを徐々に狂わせていく。

調和を乱す悪感情は他にもまだまだ沢山ある。うぬぼれ、どん欲、肉欲、いやしさ、ねたみ、怠惰、これに前に述べた怒りを加えて、神学では〝七つの大罪〟と呼んでいるが、何も神学流にむずかしく考えることはない。要するに自然への反逆と考えればよいわけで、これらの不自然の繰り返しが病気という不自然な結果を生む。これをもう一つ別なたとえで説明してみよう。これは実際にあった話である。

あるアメリカの開業医が忙しい毎日を送っていた。それまで頼りにしていた看護婦が結婚してやめてしまったからであるが、代わりの看護婦がなかなか見つからない。反対に患者の方は一向に減らない。オーバーワークを重ねているうちに、ついに肩の組織炎を生じてしまった。

有能な医者だから組織炎が単なる筋肉のケイレンにすぎないこと、それもほとんどが感情的に誘発されるものであることを熟知していた。が、理屈はわかっていても思うようにはならなかった。いつしか、いけないと思いながらも痛み止めを常用するようになった。

が、ある時面白い事実に気がついた。思い切って午後を休診にして魚つりに行ったときのことである。釣り糸をたれてノンビリと構えている間はまったく痛みを覚えないのに、家路について我家に近づくにつれて、次第に痛みを感じ始めるのである。

何ごとも学問的に分析しないと気がすまない彼は、こんど釣りに行く時どの辺りから痛みが止まるかを確かめることにした。その日は朝から痛み止めを服用せず、じっと我慢して、いつどこで痛みが止まるかを注意していた。

やがて急に痛みが消えた。それまでの激痛がウソのように消えている。彼はすぐにハンドルをまわしていま来た道をもどってみた。すると千メートルもいかないうちにまた激痛が戻った。

彼は正確な位置をつきとめようと、またハンドルをまわして逆戻りしてみた。すると二、三分も行かないうちに痛みが消えた。彼はそれを何回か繰り返して正確な位置を確かめ、あたりを見渡した。そこは郊外のハイウェーで、彼の車以外は一台も走っていない。

見わたすかぎり草原が広がっている。と、一つの看板が目に入った。それには〝州境界線〟としるしてあった。

結局こういうことだったのである。アメリカでは州ごとに担当地区がきめられているので、彼にとってその州境界線を越えたとたんに〝ここはもう自分の担当区域ではない〟という意識が働いて、無意識のうちに責任からの重圧から解放されていたのである。

これが再び境界線に入ると潜在意識が担当医師としての責任感を意識して、それが反射的に組織炎を誘発していたわけである。

では、原因がそうとわかって彼の痛みが消えたかというと、そうはいかなかった。

単なる知識だけではこの種の病気は治らない。そのうちに看護婦が見つかってラクにはなったが、仕事に対する責任感と重圧感は抜け切れず、相もかわらず釣りに行った時以外は激痛に悩まされた。

特に重病患者を診る時や看護婦が休暇をとって休んだ日などはひどい痛みを覚えるという。

ここであなたが落たんするには及ばない。これを解決する方法はちゃんとあるのである。それは次章で述べるとして、ここではとにかく、病気の大半が感情的ないし神経的なものによって誘発されているということを認識していただきたいのである。

自分に限ってそんなことはない。などと言う考をまずかなぐり捨てて、静やかにひややかに自分自身をよく見つめなおしていただきたい。きっとどこかに気持ちの上でひっかかりがあることに気づかれるはずである。

外科的な病気も例外ではない。概してわれわれは肉体そのものの健康管理にあまり真剣ではない。運動らしい運動をしない。良くないと言われる食べものでも平気で食べる(食生活については第十一章でくわしく述べる)

衛生観念もまだまだ低い。生活環境がきわめて不自然である。こうした悪条件の中で、肉体機能が健全に働くはずはない。

昔の人のように、仕事で馬を乗りまわすことがない。筋肉労働が少ない。旅行するにも自動車か汽車の中でじっと座っているうちに目的地に着くので、歩くということがない。こうした生活は次第に人体の背骨の下部を弱めるので、少し立ち続けたり、たまの休みに遊び過ぎると、すぐに腰の部分に痛みを覚えるようになる。

単なる筋肉の痛み程度ならまだよいが、これが進行するといわゆるヘルニアとなる。
これも日常生活の自然な動きで元に戻ることが多いが、精神上のストレスが重なると筋肉に異常な緊張を与え、背骨の並びに狂いが生じてくる。

するとこれが坐骨神経を圧迫する。いわゆる坐骨神経痛というのがこれである。この神経は脚から足の先まで通っているので、悪化すると足の先がマヒするようになる。

病院へ行くときまってやってくれるのが、背骨を引っ張る治療法である。背骨をひき伸ばしているうちに、はみ出ている骨が元に戻るという理屈でやるわけであるが、なかなか理屈どおりにはいかない。やがて手術というコースをたどることになるが、手術しても一向に治らない場合が多い。

ヘルニアは最近急激に増えてきた病気で、外科的な病気としてそれなりの療法がいろいろと試みられているが、その要因は精神的なストレスにあるのであるから、初期の段階において、そのストレスつまり精神上のしこりを取り除いてやることが一番大切である。

私も治療家の一人としてこの種の患者を扱うことが多く、今ではちょっとした専門家のような格好になっているが、私の診たところでは純粋に外科的なもの、たとえばゴルフなどで腰をひねりすぎるといった原因からくるものも皆無ではないが、大抵はそう言った外因に精神的なストレスが加わって悪化させている。

いま外因に精神的ストレスが加わるといったが、形の上でそうした経過をたどっていても、実際には精神的なものが骨の異常そのものを直接誘発している場合もある。最近見た患者でこんなのがある。

この患者はハンディが7という相当なゴルファーであるが、難しい位置からのドライバー・ショットの時に腰がギグッときた。私のところへ来た時は、左右のおしりの位置がずれるほどに狂っており、ビッコをひき痛みに顔を歪めていた。

治療しながら私は例によって精神的な誘因を確かめるべく日常生活や仕事のことをいろいろと聞き出してみた。すると素直に白状した。最近は難しい仕事が重なって毎日のように仕事を家に持ち帰る日が続き、ゴルフをしていた時も、外見とはおよそ正反対に、頭の中は仕事のことで緊張しきっていたというのである。

結局、そうした緊張が腰の骨に異常をきたした要因であることを説いて聞かせたのだった。

病気の原因にはいろいろある。遺伝的なものもあるし先天性の欠陥もある。戦争、交通事故といった不可抗力の原因もある。こうしたものについては後で説くことにして、ここではとにかく、病気の大半が精神的なものからきている事実を素直に認めていただきたいのである。

もし認められないのなら、かかりつけの医者にその点を確かめてみるのもよかろう。その点がすっかり得心がいってから、次の章へ進んでいただきたいと思う。

第2章 健康へのカギ
健康こそは生きがいある人生の源泉である。かの米国の大思想家エマーソンもその著『処世訓』の中で「健康こそ第一の財産なり」と言っている。

健康を損ねると、あなたの生活能力は間違いなく半減する。肉体のみならず精神的にも半減する。せっかくの成功のチャンスをみすみす逃し、あるいはチャンスをチャンスと気づかずに見過ごしてしまうことにもなる。社会的にも商売上でも、いわばただの通行人となってしまう。

つまりそこに楽しいことがあるのに、あるいは絶好のチャンスが来ているのに、それと気づかずにボサーッとして通り過ぎてしまう。

健康であれば、何でもやってみたくなる。やってみると出来る。逆に不健康であれば、簡単なことでも面倒くさく思える。ちょっとした問題が生じても大へんな難題のように思えて、尻込みしてしまう。

現代人はこうした不健康状態を、インフレや重税のように、半ばあきらめの心境で受け止める傾向がある。ブツブツ文句は言うが、それを解決するキメ手を知らない。

インフレと重税──この二つの大きな社会的病気は、物質万能主義的な考え方にその病根があることは歴史家の認めるところである。が、個人としてはそれをどうしようにも問題があまりに大きすぎる。

従って文句をいいながらもあきらめの心境で何とか生きていくのは致し方ないかも知れないが、自分の病気をあきらめの心境で放っておくのは愚かである。

病気は方法次第でかならず治るんである。そのカギをこれからお渡しするから、それを自分でカギ穴に差し込んで、健康への扉を開いていただきたい。

前章で繰り返し述べたように、病気の大半は感情によって誘発されている。感情が動揺すると体内のコンピューターが指令を発して、生理作用を調節しようとする。この作用は意識的にやろうとしても出来るものではない。これは体内の特殊な暗号によって行われるのである。

ではその暗号とは何か。それがあなたの〝心の姿勢〟なのである。

かりにあなたが〝恐れ〟の姿勢をとると、コンピューターは「休め」の状態から、大急ぎで「防御体制」の指令を発し、みるみるうちに生理現象が変化する。腹をたてた場合も同じである。みるみるうちに顔が赤くなり、目がつり上がり、唇が震え出す。

うっかり口をすべらした事柄や中傷によって相手を激怒させることもあるし、自分が中傷されている状態を心の中で勝手に想像しただけでもムラムラと憎しみを覚え、身体が熱くなることもある。そうした激しい感情による生理変化は驚くほど早い。

最近こんな例があった。

それはそれは仲むつまじい夫婦があった。ことに旦那さんは奥さんが可愛くてしかたがなく、生活のすべてが奥さん中心に動いているといってもよかった。

ところがその奥さんが、事もあろうに、他の男性とかけ落ちしてしまった。「永久に戻る気持ちはありません」と書き置きがしてあった。その日まで日焼けして見るからにたくましい頑健そのものだった旦那が、その書き置きを読むなり全身の力が抜けてしまい、寝込んでしまった。やがて病院へ運び込まれた。

診察してみると、驚いたことに早くも全身に病的表情が現れていた。まず胃がひどいけいれんを起こす。何一つ食べられない。水を一口飲んでも七転八倒の苦しみとなる。ひどい頭痛が続く。四十度近い体温が一向にさがらない。

血圧は一三五の正常値から二四〇までハネ上っている。大小便の失禁が続く。全身に発疹が出る。もう死んでしまいたいと思う。現に死にそうなところまで行った。

何がこの男をこんな無残な状態に追い込んだか。ほかでもない。死ぬほど愛していた妻に裏切られたという精神的ショックが一瞬のうちに健全な生理的バランスを打ち崩してしまったのである。精神的ショックによる反動は実に早い。

今の今まで健全そのものだったこの男も、妻に裏切られたと思ったホンの数秒のうちに、重病人となってしまったのである。
がしかし、崩れるのも早いが回復するのもまた実に早い。

ある女性が勤め先から疲れ切って帰ってきた。仕事が気に入らないし、毎日毎日同じことばかりさせられてウンザリしている。今日もまた、クシャクシャ気分で返ってきた。

早く風呂に入り、軽い食事をとって一刻も早く寝床に入りたいと思っているところへ電話が鳴った。ボーイフレンドからである。コンサートへ行こうという。彼女の大好きな俳優によるショーもある。コンサートの後パーティがあって、その俳優に会うこともできるから、ぜひ行こうという。三十分後に彼氏が誘いにきてくれることになった。

コンサートは素敵だった。パーティでは大好きな俳優とダンスができた。夢見る心地である。パーティは夜中の二時まで続いた。帰宅した時もまだ興奮がさめやらず、一晩中踊っていたい気持ちであった。

なんという変わりようであろう。昨日の夕方、疲れきって帰宅し一刻も早く寝たいと思っていた彼女に、何がこんな元気を吹き込んだのだろう。どこから舞踏会へ行くエネルギーを得たのであろうか。

カラクリは至って簡単である。要するに心の姿勢が変わったのである。彼女は今の今まで疲れ切っていた。そんな時の体内のコンピューターは「疲れているから早く休息しろ」という指令を発している。

これを受けた神経中枢は代謝速度を落とし、暖かい風呂と軽い食事の後すぐに寝る態勢を整えている。そこへ彼氏から電話がかかり、パーティへ誘ってくれた。そのよろこびが一瞬のうちに生理作用を変えてしまった。

それまでの疲れと憂うつと不満が一変して、興奮と期待とよろこびになった。表情に生気が満ちあふれている。コンピューターが「疲れているから休息しろ」の指令から「新しい場所へ行くからスタミナと笑顔を用意しろ」に切りかわっているのである。

その指令に従って代謝が活発となり、夜中の二時まで踊り続けても疲れを感じなかったわけである。

こうして例を見てもわかるように、健康へのカギはただ一つ、あなたの〝心の姿勢〟にあるのである。身体のコンピューターは頭脳で操作するのではない。願いによっても操ることはできない。うれしいとか悲しいとか面白いといった、きわめて原始的な感情によって左右されているのである。

悲しい報せで病気になり、うれしい知らせでいっぺんに元気になる。

一例をあげると、自分の投資している会社が倒産したという知らせで床に伏すかと思うと、宝くじが当たったという知らせで病気などどこかへふっ飛んでしまう。

かりに今、あなたが家でソワソワしながら知らせを待っているとしよう。やがて電報が届いた。不幸な知らせである。とたんに胃のあたりがキリリと痛みはじめた。足の力が抜けてソファに座り込んでしまうだろう。

反対にうれしい知らせ、たとえば「長男無地誕生」といった知らせであれば、大の男が飛び上がって「バンザイ」を叫ぶかもしれない。世の中が急に明るくなったような気がして、何をやっても楽しくて仕方がない。

こんな風に悪感情は身体機能の不調和をもたらし、それが病気の原因となる。ところが反対に、明るい感情は調和を保ち、あるいは乱れた調和を回復させる。その状態が健康というわけである。

「おっしゃることはよく分かるが、うれしい知らせをそう毎日毎日待っているわけにもいくまい」

こうおっしゃる方があるかも知れない。

それは確かにそうなのだが、いま私はそういった各別のうれしいことがなければ、健康になれないと言おうとしているのではない。毎日の生活は今まで通りでいいのである。

何一つ変える必要はない。ただ変えなければいけないのは、あなたの心の姿勢だと言っているのである。この点が大切なところなので、よく認識していただきたい。逆境において勇敢であれと言っているのではない。口をへの字にむすんで頑張れと言っているのでもない。あなたのかかえている悩みが下らぬことだと軽く見ているわけでもない。

私は悩みごとや心配ごとのない人生を夢想するほど単純な人間ではない。人それぞれに何らかの悩みやかかえていることは百も承知である。

問題はその悩みや心配ごとに対するあなたの心の姿勢が楽観的、積極的、希望的であるか、それとも悲観的、消極的、絶望的となるかである。

後者の姿勢をとった時、そこに現れる感情はすべて正常な生理的バランスを破壊するものばかりである。すなわち心配、怒り、我欲、ねたみ、偏狭、貪欲、肉欲、高慢、うらみ、恐怖、ざっとこんなところが挙げられる。

このうちどれ一つをみても、あなたを病気にし、あるいは場合によっては死に到らしめかねない恐ろしい感情であることを知らねばならない。

かくして健康への第一のカギはまずあなたの日常における心の姿勢を楽観的、積極的、希望的な方向へ切り替えることにある、ということになる。

ではいかにして切り換えるか。何十年にもわたって維持されてきた姿勢がそう簡単に切り替えられるものでないことは、私も先刻承知である。その最低とも言うべき方法が、今はやりの鎮静剤の使用である。

これは最近では、一つの社会問題となりつつあることなので、読者もよくご存知のはずである。英国の例で言うと、鎮静剤の処方を受ける人の数は年平均なんと四五〇万人にのぼる。これは病院へ行って処方を受けた人の数であるから、これ以外に薬局で手に入れる比較的軽い鎮静剤を使用している人の数を加えると、その数字は見当もつかない。

さらにアルコールという名の鎮静剤もある。が、いずれにしても所詮は一時しのぎの、紛らわしの手段にすぎない。

心の姿勢を変えるのに、そんな薬やアルコールはいらない。自分の意思の力で変えることができるのである。その秘訣、いわば健康へのカギを回す秘訣をこれから伝授しようというわけである。

これさえ身につけば、ケンカっぽい性格が優しい性格となり、怒りっぽい人が静かな男となり、敵意が愛情にかわり、偏狭さが大らかさにかわるはずである。

その秘訣とは、人間の心はたとえ事実はそうでなくてもそうだと言い聞かせればそのような反応を示すという、この特徴を応用することである。

ここで話をすすめる前に、これまで学んだことをザッと反復してみよう。人体の生理的バランスは一種のコンピューターによって管理されている。その指令は〝思考〟とは関係のない独特の暗号によって伝達される。

その暗号がとりもなおさず〝心の姿勢〟なのである。そしてその姿勢、つまりうれしいとか、楽しいとか、イヤだとか、憎らしいといった感情は、かならずしも実際の現実とはつながっていなくてもよいというところが大切な点である。

始めのところであげた例で、物音で目を覚ましたあなたがピストルを手にした人影におびえる話をしたが、ピストルも人影もあなたの幻影にすぎなかった。また他人が自分の悪口を言っているのではないかという単なる猜疑心が身体を熱くするほど興奮させ、唇を震わせる話もした。これらはみな、実際の事実とはなんらかかわりはない。

このように、人間の生理的機能は実際の事実がどうであろうと、心がそれに対してどういう姿勢をとるかによって、健全なバランスを強化することにもなり、逆に崩すことにもなる。

そこで、つとめて明るく積極的な姿勢をとるように心がければ、病気にならないという理屈になる。しかもその姿勢は、みせかけであってもよいというのである。実際に楽しいことがなくてもよい。ほんとに楽しい身体と感じなくてもよい。

わざとでよいから楽しく振る舞い、楽しい気分にもっていく。すると、コンピューターは「楽しいぞ」という暗号を中枢に送り、そこから連鎖的に健康な生理的反応が生じる。ここがミソなのである。

こうした事実のもつ意味の重要さを、よくよく認識していただきたい。子供だましのような単純なことだが、その意味するところはきわめて重大である。これを逆に見れば、重大な意味をもつが事実は至って単純ということでもある。

とにかく、その単純な事実のウラに健康と富と成功のカギが秘められているのである。

あなたはいわば俳優になったつもりで、幸せな人間の役を演じればよい。そうすれば実際に幸福な人間になれる。元気はつらつたる人間の役を演じればよい。やがて本当に元気はつらつな人間になっていく。冷静な人間の役に徹すればよい。いつしか少々のことでは腹をたてない人間になっているであろう。

体調が思わしくなく、いつも憂うつで、なおかつ私の言うことが信じられないという方は、とにかく一度ためしてみてはいかがであろう。だまされたつもりで、次に私が言うとおりにしてみられたい。

人に見られては恥ずかしかろうから、風呂場にでも入ってカギをかけていただこう。風呂場には大抵鏡がある。その鏡に向かって一つの名演技を演じていただこうというのである。内心バカバカしいと思っていてもかまわない。

大切なのは頭で考えることではなくて、あなたの心の姿勢であり態度なのである。それがワザとであってもいい。ミセカケであってもいい。とにかくそう振る舞えばよいのである。

さて、ではこう振る舞っていただこう。今、あなたのもとに素晴らしい知らせが舞い込んだとしよう。何でもよい。とにかくうれしい知らせである。あなたは全身が熱くなるほどうれしくなってバンザイを叫ぶ。

「やった! ついにやったぞ! これでオレの未来は万々歳だ。ようし、やるぞ!」

満面に笑みを浮かべ、子供のように全身でうれしさを表すのである。決してやさしいことではない。最初のうちはアホらしいやら照れくさいやらで、思うようにいかないかも知れない。が、とにかく私を信じて一日に一回でいいから、こうしてうれしさ一ぱいの人間の役を演じてみることである。その日一日、きっといつもと違った雰囲気を感じるようになるはずである。それが効果の現れ始めた証拠である。

これを続けていくうちにいつしか憂うつさを忘れ、体調が整っていくのを知るはずである。胃潰瘍の人であれば、激痛を忘れている時が多くなる。頭痛もちの人であれば、頭痛をすっかり忘れている日があることに気がついて、びっくりするはずである。

「では、これで一切の病気が治るか?」

と問われれば、差し当たってノーと答えざるを得ない。なんとなれば、今は、私は感情から誘発された病気を主体に話しを進めているのである。しかもその種の病気が、全体の九五パーセントを占めているというのである。感情に関係なく生じている病気についてはあとで述べよう。

では伝染病の病気はどうか。これもいま述べた方法でやれば必ず防げる。というのは伝染性のものでも、実際には普通の病気以上に気の持ち方が影響しているからである。カゼがその一番よい例である。

年中カゼをひいている人がいるかと思うと、何年もカゼ一つひかない人もいる。何が原因でこんな違いが生じるのであろうか。カゼのビールスに好き嫌いがあるのだろうか。

ある意味ではそうだともいえる。が、その好き嫌いとは意識的に選り好みしているのではなくて、ビールスの繁殖しやすい体質と繁殖しにくい体質とがあるということである。

ではビールスの繁殖しやすい体質とはどんな体質で、ビールスを受け付けない体質とはどんな体質を言うのか。これも実はほかならぬ生理的バランスの問題である。

生理的機能がバランスよく活発に働いている時には、ビールスが侵入しても繁殖できずに死んでしまう。反対にバランスが乱れていると、活発に繁殖してカゼの症状をひきおこす。そしてなかなか回復しない。

そのことは医者という職業をみればよくわかる。医者は一日に何十人という患者に接している。その中にはひどい伝染性の病気を持ってくる人もいるであろう。とことが、医者が患者から病気をもらうということはめったにない。

それは医者が病気を恐れないどころか、治してあげようという気構えで対するからであり、同時にまた一日中忙しくしているからでもある。

私もその一人である。特に私の場合は、医学的に〝不治〟とされた人がほとんどであり、重病人が少なくないのであるが、かつて患者から病気をうつされたという経験はたったの一度もない。

何かと病気がちな人は実は何が悪いのでもない、誰が悪いのでもない、自分自身の心の姿勢に誤りがあることをまず認識しなくてはいけない。そんな人は今日から、イヤ今すぐに心を明るく愉快に、そして活発にする努力を始めなくてはいけない。

そのやり方はすでに述べた。始めから楽しくなれなくてもよい。そう振る舞うのである。人に失礼なことをされても笑って返すことである。腹の立つようなことを言われても、グッとこらえて、つとめて平静を装うことである。

人を恨まないことである。イエスは「右の頬をぶたれたら左の頬も出しなさい」と教えた。これは実際にぶたれた時のことを言っているのではない。

どんなイヤなことを言われ苦るしめられてもそれに反抗せず、相手の気がすむようにさせてやりなさいという意味である。なかなか実行できないことではある。がしかし、その努力はきっとあとで報われるはずである。

また病気を意識しないことである。朝、近所の人から、
「やあ、お早う。どうです調子は?」

と聞かれたら、どんなに具合がおかしくても、
「ありがとう快調です。今日素晴らしい一日になりそうです」

とでも答えることである。もしこれを、
「イヤ、どうも調子が変なんですョ。カゼでもひいたんじゃないかとおもうんです」

などと答えようものなら、そのまま立派なカゼになってしまう。そんな弱気な姿勢の人の身体では、ビールスは喜んで繁殖する。

前に私は女房に逃げられて全身ガタガタになった男の話をしたが、これなどは人間が気の持ちよう一つでどうにでもなる典型的な例である。とにかく人間は感情の動物であり、精神的ショックに弱く出来ている。ならばその逆を行って精神をきたえ、ささいなことに動じない姿勢を作り上げれば、生理的バランスを常に健全に保てるはずである。

何かあるとすぐに動揺し、自分で自分がコントロールできなくなる人は、次に簡単な精神修養法をお教えするからぜひ実行していただきたい。

ホンの数分間でいいから静かにしていられる部屋を選び、上着をとって横になる。安楽椅子に腰かけるのもよい。男性はネクタイをゆるめ、ベルトをはずす。

女性であれば、身体をしめつけるような肌着をとる。次に明るさは大なり小なり刺戟性があるのでカーテンで部屋を薄暗くする。左右の手を重ね、足を交差させ、目を閉じ、眼球の力を抜いて動きにまかせる。

この状態で深呼吸をする。ゆっくりと吸い込み、ゆっくりと吐き、吐いたあと、次に吸い込むまで少し間を置く。これを数分間くりかえす。以上である。

これが精神を落ち着かせる最上の方法である。というのも、こうした所作によって身体のコンピューターは〝休め〟の指令を発し、生理機能が調和をとりもどすのである。

これで、あなたはいわば落ち着いた冷着な人間のマネをしたわけである。それでよいのである。これを必要と思った時に、何回でも繰り返すことである。そのうちこれが習性となり、本当に落ち着いた人間になっていく。

もともと人間の身体というのは自然に回復するようにできているのである。これを自然治癒力とか自然良能といっている。外科治療の一切と内科治療のほとんど全部が、この自然治癒力の存在を前提として成り立っている。

例えば外科医が手術をする時、あとで切り口を縫い合わせれば必ずもとのように引っ付くことを信じているからこそ、安心してメスをいれることができるのであって、これがもしも確かでないとしたら外科医術は根底から崩れてしまう。

内科とて同じである。大部分の病気は患者をベッドに寝かせ、ストレスをできるだけ少なくし、気を使わせないように、そして身体が冷えないようにしてやるなど、自然治癒力の働きやすいようにしてやるだけのことであって、薬は補助的にその治癒力を促進させたり症状を軽くすることを目的としたものである。薬そのものが治すのではない。

この自然良能は、驚くほどの潜在力をもっている。病気がなかなか良くならない場合は、その働きを妨げているものがあるからであって、障害を取り除いてさえやればメキメキとよくなる。

その端的な例が傷口の治療である。ケガをすると、その傷口を治療するために身体自身が万全の処置をとるようにできている。血球その他、その治療に必要な化学物質が瞬時のうちに生産されてドシドシ現場に送られる。

その際人間にしてやれることといえば傷口を清潔にして有毒な細菌の感染を防いでやることぐらいであって、人体に具わっている自然良能の仕組みは遠く人知の及ぶところではない。

かりに熱が出たとすれば、それが毒素を燃焼させるためである。肝臓や腎臓も老廃物を取り除いたり解毒したりする仕事を四六時中絶え間なく行っている。こうした自然治癒力をスムーズにそして最大限に発揮させる条件が、肉体的には生理的バランス、精神的には明るく積極的な心の姿勢だというのが私の主張なのである。

かくして本章をまとめると、健康へのカギは、あなたの肉体的生理はあなたの心の姿勢に応じて変化するという事実であり、このカギをまわす秘訣は、肉体はみせかけの心の姿勢にも反応を示すという事実である。

これを活用すれば、たとえ面白くなくても愉快に振る舞うことによって生理を活発にし、淀んでいる自然治癒力を発揮させるという理屈になる。

要は実行してみることである。一度にうまくできなくても、繰り返し練習してみることである。やがてこれが習慣的な性格をつくりあげていく。習いが性となるのである。

今やあなたは健康へのカギを手にされた。それをどう使うかはあなた次第というところまで来ているのである。

第3章 心霊治療家の仕事
私は心霊治療家である。別にユニークな存在と言うほどのこともない。

私の所属する英国心霊治療家連盟には、何万人という治療家が登録している。その大部分は、本職つまり生計を立てるための仕事を別にもち、余暇を利用して治療を施している人が多い。

そう言う人は治療費は取らない。心霊治療は万人にわけへだてなく施さるべきものだと信じているからである。むろん地方には、これを職業として専門的に営業している人もいる。それはともかくとして、一体心霊治療とはどんなものなのか。はたして本当にきくものなのかどうか。そんな点を取り上げてみたいと思う。

私のことを信仰治療家だという人がいる。が、私はあくまで心霊治療家である。心霊治療と信仰治療とはまるきり原理がちがう。まずその区別をはっきりさせてから、本論に入りたいと思う。

第二章で述べたように、人体には自然治癒力というものが具わっている。つまり心理的および生理的条件さえ整えば、大抵の病気やケガは自然に治ってしまうようにできている。

それを良い方に促進させるのも感情であれば、それを阻止して悪化させるのもまた感情である。かならず良くなると信じている人は、もう大して永生きできないと思い込んでいる人に比べて、治る可能性がはるかに高い。

このことは大抵の医者も看護婦もよく承知しているので、患者に接する時はかならず良くなるという気持ちにさせることこそ回復への重大な第一歩と心得ている。これを単に第一歩に留めず、それが全てであると信じているのが信仰治療である。

つまり信仰治療家は治るという信念を吹き込みさえすればいかなる病気も治るのだと信じ、そのためにいろいろなテクニックを用いる。患者に初めて対面する時の態度にも細かい計算がある。

まず患者を圧倒し、すごい人だという印象を与えて全幅の信頼をかち取る。患者はその人のそばにいるだけで治るような気がしてくる。

続いてその気持ちを一層もり上げるために、厳かな雰囲気のうちに儀式を行う。立派な法衣をまとう人もいる。厳粛に飾られた祭壇があり、ズラリと並ぶローソクに火がともされ、聖歌が流れて、ムードはいやが上にも盛り上がる。その中で、恍惚たる表情の祈祷師が何やら語りはじめる。

前もってこの療法による奇跡的治癒の数々を聞かされている患者は、こうして宗教的ムードの中で感激の念を禁じ得なくなる。医者に見放され、自分に自信を失い、絶望の淵にいる者が多いだけに、こうしたやり方で喜びと希望の念が呼びさまされ、奇蹟的に良くなる例は確かに少なくない。

が、この療法には多くの欠点がある。よく指摘されることは、いま説明したようにその回復が強烈なムードの中で得られたものだけに、一旦そのムードから覚めてしまうと、また病状がぶり返すことが多いということである。

早い人は家に帰ったとたんに調子が悪くなる。二、三日しておかしくなる人もいる。当然また治療してもらいに行く。たしかに良くなる。が、家に戻るとまたおかしくなる。

こうしたことを繰り返していくうちに、患者は次第に真相に目ざめはじめ、本当の治癒ではなかったのだと知って絶望感に襲われることになる。

が、この療法の最大の欠点は、一度そうしたハデな療法を受けると、心霊治療のような地味なやり方を物足りなく感じるようになることである。同じ信仰治療と言っても、いろいろと種類があってひと通りではない。

さあ立ち上がって歩いてごらん式の暗示的なもの、〝ブーズー教〟という宗教にまで発展しているまじない式のものなどいろいろあるが、すべてに共通しているのは人間のもつ想像力を利用している点である。

それ自体はけっして悪いことではない。私が前章で心の姿勢を変える方法として述べたのもやはり想像力を活用しているのであるが、私のやり方が日常生活を通じて徐々にではあるが自らの力で積極的に改革していくのに対して、信仰治療の場合は強烈なムードの中で暗示を受けて、一時的に幻惑されるにすぎない点に問題がある。

フランス西部のピネレー山脈の麓にルールドという町があり、そこに有名なほら穴がある。そのほら穴の中の泉に浸ると病が治るという信仰があり、そこに聖母マリアが出現したというのでマリアの聖堂まで建立して世界的に有名になってしまった。

毎日のように各地から大勢の病弱者が訪れていて、中には確かに奇蹟的に治っている人もいるらしいが、その数は〝ルールドの奇蹟〟として有名になって以来のものを全部含めても、心霊治療家が一ヶ月に治している数ほどにしかならない。

さて私は心霊治療家である。信仰治療家ではない。私は何一つ手の込んだことはしない。いたって地味である。患者が訪ねて来ると静かな部屋へ案内する。治療室などと言う特別な部屋は要らない。静かでさえあればそこが治療室になる。

自宅であれば客間を使い、ロンドンの勤務先(心霊出版社ツーワ―ルズ)の応接室でやることもある。治療中に体温が上がるので、大抵シャツをめくり上げネクタイをゆるめ、いたってラフな恰好で治療にあたる。

さて患者に腰かけていただいてから、病状について説明していただく。前もって申し込みの手紙で大よその病状は知らされているのであるが、治療を始めるに当たって、今一度初めから詳しく経過を聞かせてもらう。そのわけはあとで述べるとしよう。

部屋はこれといって宗教的な感じのする装飾はしていない。ローソクを灯すこともしない。香を焚くわけでもない。聖歌を流すこともしない。むろん法衣も無ければ祭壇もない。自宅の場合は友人が訪ねてきた時と何ら変わりはないし、勤務先の場合は一人の顧客を接待するのと少しも変わらない。

私は患者に向かってこう説明する。私は心霊治療家であって、一般の医師の資格はもっていない。また皆さんから依頼されるままに治療を施すのであって、これを職業としてやっているのではない。従って、治療費は一銭もいただかない。

しかし同時に、一般の医者のように治療に関して何一つ保証はうけあえないから、治るか治らないか試してみるくらいの気持ちでいてほしい。

治れば結構なことで私もうれしいが、治らなくても元々と思っていただきたい。どうしても謝礼がしたいというのでしたら、そこにある献金箱へ入れてくださればよい。慈善事業への寄付に使用させていただきます。といった内容である。

そんなそっけない態度は治療を施す立場の人間としての温かみと同情に欠けるかの印象を与えるかも知れないが、実は私のような心霊治療家のところへ来る人の大半は現代医学に見放された、いわば不治の病を抱えた人ばかりである。

鼻かぜやハシカなどでやって来る人はいない。方々の医者をあるきまわり、さんざんいじくられ、薬をあびるほど飲まされ、あげくの果ての「これはあなたの持病と思って我慢していただくほかありません」と冷たくあしらわれた人たちなのである。

つまり最後の頼みとして、私のもとに来ているのである。その中にはかつて私が治してあげた人から聞いてきた人もいる。あるいはかつて私自身が心霊治療によって奇蹟的に救われた体験を綴った拙著『The Healing Touch』を読んで駆けつけた人もいる。

いずれにせよ、もはやカッコいい話やお上手などで動かされる人たちではない。私はそう言う人に、縁あって私のもとに神が連れてこられたのだという真剣な気持ちで接するのである。

さて患者の病状を聞き、私の考えを話してから、いよいよ治療にかかる。まず上着を取ってもらい、背もたれのない丸い椅子に腰かけていだく。次に私の右手をひたいに左手をエリ首のところに当てがう。

私は音楽が好きなので、患者の気分をほぐす目的で音楽を流すこともある。決して宗教的ムードを出すためではない。その証拠に私がかける音楽はモダンジャズからクラシックまで種々さまざまである。

さて、そうしたくつろいだムードの中で私自身は、実は通常意識から潜在意識へとスイッチを切り換えている。治療をやり始めの頃はこれに十分から十五分もかかったが、今では二、三分でできる。その心理的操作の感覚は言葉では説明しにくいが、強いて言えば、うつらうつら白日夢を見ているような心地とでも言えようか。

もっとも、決して夢を見ているわけではい。通常意識が空っぽになり、浅い入神状態にあるのだと思われる。その間は部屋の様子や患者の存在を忘れており、やがてその状態から目覚めた時、患者を見て一度どこかで会ったような人だなどと、錯覚を覚えることがある。

私がそうやって通常意識を休めている間に、私の身体を伝って何やら不思議なエネルギーが流れるのがわかる。その様子はとても言葉では説明できそうにない。また私から時間の観念が消え失せてしまう。治療に何分かかったか、さっぱり分からない。

ときとして右手に振動を感じることがあり、熱を覚えることもある。そんな時は全身が熱くなる。ネクタイをゆるめ、シャツをめくり上げるのはそのためである。

こうして右手をひたいに左手をエリ首のところに当てた恰好でしばらくするうちに、私の手はその人の一番悪い箇所にひとりでに移動しはじめる。悪い箇所とはかならずしも痛い箇所ということにはならない。

ヘルニアなどの場合、坐骨神経を圧迫して足先がしびれることがあり、患者はしきりにその痺れを口にされるが、私の手はその根本原因であるところの腰の部分に行く。

治療に要する時間は正味十分程度である。病状を聞いたり入神状態に入るに要する時間等を入れると三十分ほどにもなるであろうか、霊的な治療は入神中のほぼ十分間に行われるようである。

前に述べたように、私は治療の前にもあとにも何一つ有難いお話しはしない。にもかかわらず、大抵の患者は治療のあと感激の涙を流す。男女の別、地位の上下に関係ない。今でも印象に残っている例としては、五十才位の教養豊かな男性が私の足元にしがみついて思い切り泣いたことがある。女性などは顔をクシャクシャにしてしまう。

そんなわけで、前もってテッシュペーパーを山ほど用意することにしている。むろん中には泣かない人もいる。ただじっとすわって心の静寂の中に浸っている人もいる。

いずれにしても、こうした反応は私が演出して盛り上げたムードのせいでない点に注意していただきたい。まわりには何一つ宗教的装飾はないし、有難いお話をするわけでもない。ごく普通の雰囲気の中で起きているのである。

さてそうした感激の嵐がおさまったころ「いかがですか」と尋ねてみる。ただの一回の施療で痛み、こり、その他の病的な症状があとかたもなく消えている人もおれば、まだ幾分残っている人もいる。そんな場合は大抵一週間後にもう一度来て頂く。

また全然変化を感じない人もいる。心霊治療をやり始めた頃はこんな患者に出あうとガッカリしたものであるが、のちにそれが決して失望すべきことでないことを知った。

というのは、施療直後に何の変化のない人でも、二、三日のちに急に快方へ向かう人が非常に多いことがわかったのである。また急速な回復は認められなくても、体力が増し苦痛がラクにしのげるようになりました。という便りをいただくこともある。

このように心霊治療にはあとからじっくり効き目が出てくることがよくある。なぜか、それは心霊治療の原理を知れば納得のいくことである。それを次に紹介しよう。


まえがきの中で述べたことだが、われわれの身辺には生命力が充満している。宇宙エネルギーと呼んでもいいし、宗教的に神と呼んでもよい。自然界を研究すればするほど、この生命力のすばらしさに感嘆せずにはいられなくなる。

雪の花びらを顕微鏡でのぞいても、あるいは夜空を望遠鏡でのぞいても、その緻密さ、その広大さ、そして何よりもその美しさに心をうたれない人はないはずである。

ダイヤモンドの構造の美事さ、野辺に咲く花の可憐さ、生体の機能の不思議さ、水に泳ぐ魚、空に飛ぶ鳥、四季のうつりかわり、汐の干満、人間の脳の複雑さ、赤ん坊の完璧さ、どれ一つ取ってみてもその神秘性に感嘆せずにはいられない。

つまり、そこに創造主〝神〟の存在を意識せずにはいられないのである。

神とは要するに宇宙のデザイナーのことである。完璧なデザインがあるからには、それを創り出したデザイナーがいるはずである。そのデザインたるや単なる机上の青写真ではない。一糸乱れぬ因果律に従った創造があり発展がある。

その創造発展を推進していく強大なパワーがまた存在する。それが宇宙に充満しており、それが病気を治してくれるのである。

「では、その生命力とやらを見せてくれまいか」
こうおっしゃる方があるかも知れない。が、現代人はこんな幼稚な質問をしてはいけない。生命力は目に見えるものではない。感受するものである。要は、それを感受する装置の問題である。

仮に浦島太郎が竜宮からこの現代に帰ってきたとしよう。誰かが音楽の話をする。浦島太郎はその音楽とやらを見せてくれないかと言うであろう。あなただったらこの際どう説明するだろうか。

私だったらポケットからトランジスタラジオをとり出し、

「いいですか、音楽というのは目に見えるものではなくて耳で聞くものなのです。音楽は私たちの身のまわりに常に存在するのですが、普通の耳では聞けません。それを受信する特殊な装置がいるのです。それがこれです。このボタンを押すと装置が働いて音楽を受信して、私たちの耳に運んでくれるのです。ホラ、いいですか、いま聞こえてきますよ」と。

心霊治療家としての私はいわばこの受信装置のようなものである。まわりに遍在する生命力を受け入れて、その波長つまり強さ、電気で言えばボルトを調節して患者に注入するのである。その生命力が補質的にいかなるものかは私自身もよく知らない。

それは電気というものがどんなものかよく知らずにいるのと同じである。知らなくてもいい。要はそれを正しく活用すればよいのである。

もしも私が暗い部屋にいて、誰かになぜ電灯をつけないかと聞かれ、
「イヤ、この目で電気を見たこともないし知識もないもんだから」

とでも答えようものなら、笑いものにされるであろう。電気の本質を知らなくても、スイッチを押すことさえ知っておればことは足りるのである。もう少し電気のたとえ話を進めてみよう。

今ここに三つの部屋があるとしよう。どの部屋も中はまっ暗である。

第一の部屋の人は電気屋を呼んで電源にスイッチを入れてもらったまではよかったが、ソケットに電球を入れることを知らない。暗い暗いと文句ばかりをいいながら暮らしている。

二番目の部屋の人はちゃんと電球をつけてから電源のスイッチを入れてもらった。やがてぱっと明るくなって部屋中が光であふれた。当たり前のはなしであるが、最初の人に比べれば幸せ者である。

だが三番目の部屋の夫婦はもっと賢明である。主人は電気についての学識がある。アンペアを調べた上で自分はラジオでクラシックを聞きフランス語講座を勉強する。一方奥さんの方は電気ミシンで縫物に精を出す。

三つの部屋には同じ電流が流れているのである。が、その利用の仕方はこのように三者三様、ムダにしている者もあれば大いに活用している者もいる。電気屋は電源にスイッチを入れるまでが仕事であって、その電気を何に使用するかは知ったことではない。そこでそういった面での指導者がいてくれると助かる。

第一の部屋の人のように電気についてまったく無知な人は電球の取り付け方を教えてやる。いっぺんに部屋が明るくなって大よろこびである。

第二の部屋の人には、トースターだとかヒーターといった電気製品があることを教えてやればよい。電気とはかくも重要なものかと有難がるであろう。

第三の部屋の夫婦にはテープレコーダーなどの利用法を教えてやれば、ラジオ講座の録音ができて勉強が一層効果的になるであろう。

こうしたたとえ話はそっくりそのまま心霊治療にも当てはめることができる。電気に相当するのが生命力であり、電気屋は治療家であり、指導する人は背後霊ということになる。

背後霊と聞いて驚かれるかもしれないが、心霊治療にはかならず霊魂が背後に控えていて指導に当たっている。スピリットが働きかけると、治療家は誰かが自分の肉体に侵入して自分自身がわきへ押しやられたような感じを受ける。

私がはじめてそれを体験した時は異様な感じがしたが、しかし決して〝不自然〟なものではなかった。今では治療の一つの重要なプロセスとして受け入れている。もっとも、治療家のすべてが同じプロセスをへるとは限らないが・・・。

さて、そうした心霊治療能力を具えていても治療家自身にはその活用方法のすべてがわかっているわけではない。つまりこの病気はこうすればよいといった個々の治療法は治療家自身にはわからない。

それはさっきの電気のたとえ話の中の電気屋のようなもので、部屋に電流が通じるようにしてあげるまでが彼の仕事で、その電気を何に使うかは関知するところではない。

そこでその〝無知〟な治療家に代ってスピリットが有効な活用方法を考えるわけで、大抵複数のスピリットがこれに当る。私の場合は一人の指導者格のスピリットがいて、必要に応じて各分野の専門家をつれてくるようである。

内科、外科、神経科、整形外科等々、それぞれみな違う霊がいるらしい。もっとも私の方でいちいち存在を感知しているわけではない。時によってはまったく無意識のうちに終わることもある。

患者の中には治療直後はなんの変化も感じなかったが二、三日後に目に見えてよくなったという人がいるが、こういう場合は私の背後霊が訪問して本人の知らぬうちに治療をしているのである。

また患者によっては、誤った信仰のために心霊治療というものに対して、潜在的に拒絶反応のようなものを持っている人がいる。言うまでもなくキリスト教的信仰が大半を占めるが、中でもいちばん多いのが、教会以外での治療はすべて悪魔のそそのかしによるものだという信仰である。

理性的に考えればバカバカしい話であるが、子供の頃の無地の心にしみ込んだ信仰は恐ろしいもので、成人してからいろいろな障害となる。

そんな場合、背後霊は待機してじっと様子をうかがっているようである。そして、何かの拍子、たとえばそうした潜入観念のほぐれた熟睡中などに、一気に治療エネルギーを注ぎ込む。

患者は朝目が覚めてみると、ウソのようによくなっているので、びっくりして私に知らせてくる。が、私はこうした例はたびたび体験しているので別に驚かない。それが心霊治療の妙味でもあるからである。

治り方が薄皮をはぐようにゆっくりとしているタイプもある。これにもやはり背後霊の配慮があるのである。というのは、患者によってはあまり急激な回復がかえってショックとなって逆効果をきたす場合もある。

そんな時、背後霊は患者の体調に合わせて治療エネルギーを少しずつ注入し、全身の代謝機能の回復を待つ。やがてもう大丈夫という線まで回復したところで、一気に全快へともっていく。

さて同じ心霊治療でも、今まで説明したのとはまったく別のタイプの治療法がある。遠隔治療というのがそれである。つまり遠く離れた場所にいる患者に治療を施すのである。

遠隔治療という言葉をはじめて聞いた時は私も疑問に思ったのであるから、読者が疑問に思われても不思議はない。例によってたとえ話でわかりやすく解説しよう。

最近のオリンピックは宇宙中継されるようになったが、地球の裏側で行われている競技がどういう仕組みで画面に映るのであろうか。細かい専門的なことは別として、テレビカメラによって撮られた映像が分解されて宇宙衛星に送られ、そこから世界各地の中継所に送られ、そこで中継された電波を各家庭のアンテナがキャッチして画面に映し出すわけである。

こうしたことはかつてのラジオ時代には想像も及ばなかったことであるが、それが今では現実となっている。しかも、われわれ人間自身が考え出したことなのである。自然法則の操り人形にすぎない人間でも、これだけのものを考え出した。

ならば、この大宇宙を創造した神に遠隔治療くらいの芸当ができないはずはないではないか。要するに、私なら私という治療家を中継所として、治癒エネルギーを患者に送るわけである。具体的に説明しよう。

患者から一通の手紙が届く。差出人は一六〇キロ離れたところに住んでいる。寝たきりでお訪ねできないので、遠隔でお願いしますと書いてある。私はその手紙を両手で持って精神を統一する。すると背後霊が私を通じて患者の存在位置と様態を察知する。

続いて治癒エネルギーを送る。といっても患者の性格によっては、治療を受け入れる条件が整うまで待つこともある。

いずれにせよ効果は確実に現れる。感謝状が週に数十通に及ぶことからもそれが察していただけると思う。一、二週間前までは一歩もベッドから離れられなかった人が、直接出向いて礼に来られることもある。私などはまだ数の少ないほうである。

治療家によっては、週に何百通もの礼状を受け取る人もいる。英国全土を合計すると、おそらく週に何千人もの重症患者が完全に治癒している計算になる。驚くべき事実である。

念のために付言するが、遠隔治療は単なる祈りや気のせいで治っているのではない。治療家と背後霊との連繋のもとに行われる入念な施療の結果なのである。祈りも確かに威力を持っている。私はそれを否定するつもりはない。ただ心霊治療に関する限り祈りは必要ではないしむしろ治療を妨げることにもなりかねないことを指摘しておきたい。

少し前こんなことがあった。郊外に住む知り合いの婦人から電話があり、

「娘の病気が一向によくならず、もしかしたら自殺もしかねない状態なのです」という。
娘さんの家は私のところからさほど遠くもなかったので、さっそく行ってみた。なかなか立派な屋敷に住み二人の子供がいて、外観はいかにも仕合わせそうに見える。

ところがその娘さんというのは母親に似てひどい神経過敏症で、極度に張りつめた毎日を送っている。そこへもってきて脛骨脱臼症で四六時中首に包帯を巻いている。

むろん医者にみてもらってはいるが一向によくならない。四六時中痛む。いっそのこと死んでしまおうと思いつめるようになっていた。そこへ私が訪ねた。私を見るなり彼女はこう言い放った。

「何しに来たの。あんたに何ができるというのヨ。信仰治療ならとっくに都会でやってもらったわ。牧師に出来ないことをなんであんたが出来るのヨ」

牧師の悪口を言うわけにはいかない。少しやりづらかったが、何とか説得して治療を施してみた。効果は確かにあった。今ではずっとよくなっている。しかし私の観るところでは、彼女の母親の存在が彼女の生活を大きく邪魔しているように思える。

信仰というものについてこの母親が考えを根本から改めないかぎり、全治することはムリのように思える。

この例でもわかるように、病気は信仰だけで治るものではない。もし治るのだったら「神さまなにとぞこの痛みを取り除いてください」と一心に祈れば事足りるはずである。と同時に、信仰心というものを持ち合わせない赤ん坊や幼児は治らないことになってしまう。

心霊治療はこれとはまったく異なる。それはあなたのまわりに存在する宇宙エネルギーを取り入れ、それによって身体のもつ自然良能を賦活した生理的バランスを回復させるやり方であって、どこにも摩訶不思議的要素はない。

ただその治り方に奇蹟といえるほど瞬間的なものがあることは事実である。しかし一方、薄皮をはぐように遅々とした治り方を示すこともある。

いずれにしても、その治癒の原因が身のまわりに常に存在している宇宙エネルギーを活用している点は同じである。次章では、そのエネルギーをあなた自身で活用する方法を伝授しようと思う。