アラン・カルデック(霊の書)
スピリチュアリズムの真髄「思想編」

アラン・カルデックの生涯と業績
カルデックは本名をイポリット=レオン=ドゥニザール・リヴァイユといい、一八〇四年にフランスのリヨンで生まれている。アラン・カルデックというペンネームは、いくつかの前世での名前の中から背後霊団の一人が選んで合成して授けたものである。

家系は中世のいわゆるブルジョワ階級で、法官や弁護士が多く輩出している。初等教育はリヨンで修めたが、向学心に燃えてスイスの有名な教育改革家ペスタロッチのもとで科学と医学を学んだ。

帰国して二十八歳の時に女性教師と結婚、二人で新しい教育原理に基づいた私塾を開設する。が、偶発的な不祥事が重なって、塾を閉鎖せざるを得なくなり、リヨンを離れ、幾多の困難と経済的窮乏の中で辛酸をなめる。が、その間にあっても多くの教育書や道徳書をドイツ語に翻訳している。

その後名誉を回復して多くの学会の会員となり、一八三一年にはフランス北部の都市アラスの王立アカデミーから賞を授かっている。一八三五年から数年間、妻とともに自宅で私塾を開き、無料で物理学、天文学、解剖学などを教えている。

スピリチュアリズムとの係わり合いは、一八五四年に知人に誘われて交霊会に出席したことに始まる。そこでは催眠術によってトランス状態に入ったセリーナ・ジェイフェットという女性霊媒を通して複数の霊からの通信が届けられていた。

すでにその通信の中にも“進化のための転生”の教義が出ていて、一八五六年にはそれがThe Spirits 'Bookのタイトルで書物にまとめられていた。が、その内容にはまだ一貫性ないし統一性がなかった。それが本格的な思想体系をもつに至るのは、カルデックがビクトーリャン・サルドゥーという霊能者が主催するサークルに紹介されて、そこで届けられた通信の中で、カルデックが本格的な編纂を委託されてからだった。それが同じタイトルで一八五七年に出版され、大反響を呼んだ。

このように、カルデックは霊界通信によってスピリチュアリズムに入り、当初は物理的心霊現象を軽視していた。さらに、スピリチュアリズム史上もっとも多彩な現象を見せたD・D・ホームと会った時に、ホームが個人的には再生(転生)説を信じないと言ったことで、ますます物理現象を嫌うようになった。

その後カルデックも物理現象の重要性に目覚める。「霊媒の書」がその証と言えるが、フランスでの心霊現象の研究は、カルデックの現象嫌いで二十年ばかり遅れたと言われている。

一八六九年に心臓病で死去。六十五歳。遺体はペール・ラシェーズ墓地にあり、今なお献花する人が絶えない。

業績は多方面にわたり、多くの学術論文を残しているが、著書としてはThe Spirits 'Book(本書)、The Mediums 'Book(「霊媒の書」)の他にHeaven and Hell(天国と地獄)、The Four Gospels(四つの福音書)など、スピリチュアリズム関係のものが多い。

編者まえがき
これまでに明かされたいかなる法則によっても説明のつかない現象が、今、世界各地で発生している。そしてその原因として、自由意志をそなえた見えざる知的存在の働きかけがクローズアップされてきている。

理性的に考えれば、知的結果には知的原因があるはずである。事実、さまざまな事象から、その知的存在は物的符丁を使用することによって人間と交信することが可能であることが証明されている。

その知的存在の本性を追求してみると、かつては我々と同じく地上で生活したことがあり、肉体を捨てたあと霊的存在として別の次元の世界で存在し続けていることが分かってきた。かくして霊の実在ということが厳然たる事実となってきたのである。

その霊の世界と地上世界との間の交信も自然現象の範疇に属し、そこには何一つ摩訶不思議はないことが分かっている。その交霊の事実は世界のいずれの民族にも、そして又いつの時代にもあったことが史実として残っているだけでなく、今日では一般的でごく当たり前のこととなりつつある。

その霊たちが断言するところによると、大霊が定めた死後存続の事実の世界的規模での顕現の時節が今まさに到来し、大霊の使徒でありその意志の道具である彼らの使命は、新しい啓示を通して、人類の霊的革新の新時代を切り開くことにあるという。

本書は、その新しい啓示の集大成である。これまでの一宗一派の偏見と先入観を排除した理性的哲学の基盤を確立することを目的として、高級な霊格をそなえた霊団による指導と指令によって書き上げられたものである。その中には霊団の意図の発現でないものは一切ない。また、項目の配列とそれに付したコメント、さらには、ところどころで採用した表現形式は、本書の刊行を委任されたこの私の責任において工夫したものであるが、いずれに関しても霊団側の是認を受けている。
本書上梓に参画してくれた霊団のメンバーの多くは、時代こそ違え、かつてこの地球上に生をうけ、教訓を説き、徳と叡知を実践した人たちであることを自ら認めている。その名を歴史に留めていない人物も少なくないが、その霊格の高さは、教説の純粋さと、そうした高名な歴史上の人物との一致団結ぶりによって、十分に立証されている。

では本書の編纂開始に際してその霊団の総意として寄せられた、私への激励を込めたメッセージを披露させていただく。
アラン・カルデック


カルデックへの、霊団からの激励のメッセージ
我々との協調関係のもとに行うこの仕事に着手するに当たって、そなたに対して熱誠と忍耐とを要請したい。これは実質的には我々の仕事だからである。これから編纂される書物の中に、全人類を愛と慈悲の精神において一体たらしめる新しい殿堂の基盤を構築したいと思う。完成後それを世に出す前に我々がその全編に目を通し、誤りなきを期したい。

質(ただ)したいことがあれば遠慮なく呼び出すがよい。いついかなる時でも力になるであろう。すでに明かしたごとく、我々には大霊から割り当てられた使命があり、本書の編纂はその使命の一端にすぎない。

これまでに明かした教説の中には、当分はそなたの内に秘しておくべきものもある。公表すべき時期が到来すれば、さよう告げるであろう。それまではそなた自身の思考の糧として、じっくり温めておくがよい。課題として取り扱うべき時期が到来した折に理解を容易にするためである。

巻頭に我々の描いたブドウの蔓(つる)の絵を掲げてほしい。これは、創造主による造化の仕事の象徴である。身体と霊を象徴する要素が合体している図である。蔓が身体を表し、樹液が霊を表し、ブドウの実が両者の合体を表す。人間の努力は樹液という潜在的資質を呼び覚ます。すなわち、努力によって獲得される知識を通して、身体が魂に潜在する霊的資質を発達させるのである。

これより先そなたは、敵意に満ちた非難に遭遇することであろうが、それによって怯(ひる)むようなことがあってはならぬ。とくに既存の悪弊に甘んじて私利私欲を貪(むさぼ)る者から、悪意に満ちた攻撃を受けることであろう。

人間界にかぎらぬ。同じことを霊界から受けることもあろう。彼らは物的波動から抜け切らずに、憎しみと無知から、スピリチュアリズムへの疑念のタネを蒔き散らそうと画策する。

神を信じ、勇猛果断に突き進むがよい。背後より我々が支援するであろう。スピリチュアリズムの真理の光が四方に放たれるようになる時節も間近い。

全てを知り尽くしたかに自惚れ、全てを既存の誤れる教説で片付けることで満足している者たちが真っ向から抵抗するであろう。しかし、イエスの偉大なる愛の原理のもとに集(つど)える我々は、あくまでも善を志向し全人類を包摂する同胞愛の絆のもとに結ばれている。用語の差異についての下らぬ議論をかなぐり捨てて、真に価値ある問題へ向けて全エネルギーを注いでいる。地上時代の宗派の別を超えて、高き界層の霊からの通信から得られる確信にはいささかの相違もないのである。

そなたの仕事を実りあるものにするのは、一(いつ)に掛かって忍耐である。我々が授けた教説が本書を通して普及し、正しく理解されることによってそなたが味わう喜びは、また格別なるものがあろう。もっとも、それは今すぐではなく遠い未来のことかも知れぬが……

疑り深き人間、悪意に満ちた者たちがバラ撒くトゲや石ころに惑わされてはならぬ。確信にしがみつくことである。その確信こそが我々の援助を確かなものにし、その援助を得てはじめて目的が達成されるのである。

忘れてはならぬ。善霊は謙虚さと無私無欲の態度で神に奉仕する者にのみ援助の手を差し延べる。霊的なことを世俗的栄達の足掛かりにせんとする者は無視し、高慢と野心に燃える者からは手を引く。高慢と野心は人間と神との間に張りめぐらされる障壁である。それは天界の光線を見えなくする。光の見えぬ者に神は仕事を授けぬということである。

第1部 根源

第1章 神とは
第1節 〈神と無限〉
――神とは何でしょうか。

「神とは至高の知性――全存在の第一原理です」

――無限というものをどう理解すればよいでしょうか。

「始まりも終わりもないもの、計り知れないもの、知り尽くし得ないもの、それが無限です」

――神は無限なる存在であるという言い方は正しいでしょうか。

「完全な定義とは言えません。人間の言語の貧困さゆえに、人間的知性を超越したものは定義できません」

第2節 〈神の実在の証拠〉
――神が存在することの証拠として、どういうものが挙げられるでしょうか。

「地上の科学的研究の全分野における大原則、すなわち“原因のない結果は存在しない”、これです。何でもよろしい、人間の手になるもの以外のものについて、その原因を探ってみられることです。理性がその問いに答えてくれるでしょう」

――神の実在を人類共通の資質である直観力で信じるという事実は何を物語っているのでしょうか。

「まさに神が実在するということ、そのことです。なんとなれば、もしも実在の基盤がないとしたら、人間の精神はその直観力をどこから得るのでしょうか。その直観力の存在という事実から引き出される結論が“原因のない結果は存在しない”という大原則です」

――神の実在を直観する能力は教育と学識から生まれるのでしょうか。

「もしそうだとしたら原始人がそなえている直観力はどうなりますか」

――物体の形成の第一原因は物質の本質的特性にあるのでしょうか。

「仮にそうだとしたら、その特性を生み出した原因はどうなりますか。いかなる物にもそれに先立つ第一原因がなくてはなりません」

――造化の始源を気まぐれな物質の結合、つまりは偶然の産物であるとする説はいかがでしょうか。

「これまた愚かな説です。良識をそなえた者で偶然を知的動因とする者が果たしているでしょうか。その上、そもそも偶然とは何なのでしょう? そういうものは存在しません」

――万物の第一原因が至高の知性、つまり他のいかなる知性をも超越した無限の知性であるとする根拠は何でしょうか。

「地上には“職人の腕はその業を見れば分かる”という諺があります。辺りをごらんになり、その業から至高の知性を推察なさることです」

第3節 〈神の属性〉
――神の根源的本質は人間に理解できるでしょうか。

「できません。それを理解するための感性が人間にはそなわっていません」

――その神の神秘はいずれは人間にも理解できるようになるのでしょうか。

「物質によって精神が曇らされることがなくなり、霊性の発達によって神に近づくにつれて、少しずつ理解できるようになります」

――たとえ根源的本質は理解できなくても、神の完全性のいくばくかを垣間(かいま)見ることはできるでしょうか。

「できます。いくばくかは。人間は物質による束縛を克服するにつれて、神性を理解するようになります。知性を行使することによってそれを垣間見るようになります」

――神とは永遠にして無限、不変、唯一絶対、全知全能、至上の善と公正である、と述べても、属性の全てを表現したことにはならないでしょうか。

「人間の観点からすればそれで結構です。そうした用語の中に人間として考え得るかぎりのものが総括されているからです。

ですが、忘れてならないのは、神の属性は地上のいかなる知性をも超越したものであり、人間的概念と感覚を表現するだけの地上の言語をもってしては、絶対に表現できないということです。

神が今述べられたような属性を至高の形で所有しているに相違ないことは、人間の理性でも理解できるはずです。そのうちの一つでも欠けたら、あるいは無限の形で所有していないとしたら、神は全てのものを超越することはできず、従って神ではないことになります。全存在を超越するためには神は森羅万象のあらゆる変化変動に超然とし、想像力が及ぶかぎりの不完全さの一つたりとも所有していてはなりません」

第4節 〈汎神論〉
――神は物的宇宙とは別個の存在でしょうか、それとも、ある一派が主張するように、宇宙の全エネルギーと知性の総合体でしょうか。

「もしも後者だとすると、神が神でなくなります。なぜなら、それは結果であって原因ではないことになるからです。神は究極の原因であって、原因と結果の双方ではあり得ません。

神は実在します。そのことに疑いの余地はありません。そこが究極の最重要ポイントです。そこから先へ理屈を進めてはいけません。出口のない迷路へと入り込んでしまいます。そういう論理の遊戯は何の益にもなりません。さも偉くなったような自己満足を増幅するのみで、その実、何も知らないままです。

組織的教義というものをかなぐり捨てることです。考えるべきことなら身の回りにいくらでもあるはずです。まず自分自身のことから始めることです。自分の不完全なところを反省し、それを是正することです。その方が、知り得ようはずもないことを知ろうとするよりも、遥かに賢明です」

――自然界の全ての物体、全ての存在、天体の全てが神の一部であり、その総合体が神であるとする、いわゆる汎神論はどう理解すべきでしょうか。

「人間は、所詮は神になり得ないので、せめてその一部ででもありたいと思うのでしょう」

――その説を唱える者は、そこに神の属性のいくつかの実証を見出すことができると公言します。例えば天体の数は無限であるから神は無限であることが分かる。真空ないしは虚無というものが存在しないということは、神が遍在していることの表れである。神が遍在するがゆえに万物は神の不可欠の一部である。かくして神は宇宙の全ての現象の知的原因である、と。これには何をもって反論すべきでしょうか。

「理性です。前提をよく検討してみられるがよろしい。その不合理性を見出すのに手間は掛かりません」

第2章 宇宙を構成する一般的要素
第1節 〈物質の根源的要素〉
――人類は物質の根源的要素についていつかは認識することになっているのでしょうか。

「いえ、地上には人間に理解できないものがあります」

――現在のところ人間には秘密にされていることも、いずれは理解できるようになるのでしょうか。

「魂が純化される度合いに応じてベールが取り払われて行きます。が、ある一定レベル以上のものを理解するには、これまでに開発されていない能力が必要となります」

――人間は科学的探求によって大自然の秘密をあばいて行けるでしょうか。

「科学的研究の才覚は人類の各方面における進歩のための手段として授けられたものです。しかし、現段階における才覚の限界を超えることはできません」

――そうした限界を超えた問題、つまり五感の範疇を超えているがゆえに通常の科学的研究の領域に属さない問題に関して、高級霊界からの通信を受けることは許されるでしょうか。

「許されます。それが有用であるとの判断が下されれば、神は科学では無力とみた範囲のことについて啓発を授けられます」

第2節 〈霊と物質〉
――物質は神と同じく永遠の過去から存在しているのでしょうか、それとも、ある特定の時期に創造されたのでしょうか。

「神のみぞ知る、と申し上げておきましょう。ただ、一つのヒントとして、人間の理性でも十分に推理できることを申し上げれば、無始無終の存在である神が一瞬たりともその活動を止めたことはないということです。その活動の始まりを限りなく遠い遠い過去まで溯っていっても、神が一瞬たりとも無活動の状態になった時期があったことを想像することはできません」

――物質とは一般に“広がりがあり”“五感に印象を与え”“貫通できないもの”と定義されておりますが、これで正しいでしょうか。

「人間の観点からすれば正しいと言えます。知り得たものを基準に定義するしかないからです。しかし、物質は人間がまだ知らずにいる状態でも存在できます。例えば人間の感覚で捉えられないほど霊妙な状態で存在し、それでいて物質の範疇に属します。もっとも人間にはそうは思えないでしょうけれど……」

――では、そちら側からはどう定義されますか。

「物質とは霊をつなぎ止めるもので、同時に霊に仕える道具であり、霊の働きかけによって活動するものである、と」

――霊とは何でしょうか。

「宇宙の知的根源素です」

――その究極の本性は何でしょうか。

「霊の本性を人間の言語で説明することは不可能です。人間の感覚には反応しませんから“もの”とは言えないでしょう。しかし我々にとっては“もの”です」

――霊は知性と同義ですか。

「知性は霊の本質的属性の一つです。が、両者は一つの根源素として融合していますから、人間にとっては同一物と言ってよいでしょう」

――霊は物質とは別個の存在でしょうか、それとも、ちょうど色彩が光の特性の一つであり音が空気の特性であるように、物質の特性の一つにすぎないのでしょうか。

「霊と物質とは全く別個の存在です。しかも、物質に知的活動を賦与するためには霊と物質との合体が必要です」

――その合体は霊自体の表現にとって必要なのでしょうか。

「人間にとっては必要です。なぜなら、人間は物質と離れた状態で感識するような有機的構造にはなっていないからです。現段階での人類は物質から独立した次元での感覚をそなえていません」

――物質のない霊、霊のない物質というものが考えられるわけでしょうか。
「もちろんです。ただし観念上のことですが……」

――すると宇宙には霊と物質の二つの要素が存在することになるのでしょうか。

「その通りです。そしてその両者の上に神すなわち万物の生みの親である創造主が君臨しています。この三つの要素が生きとし生けるもの全ての原理、言わば普遍的三位一体というわけです。

しかし、物質には霊との接着剤的媒介の役目をしている普遍的流動体が付属しています。物質と霊との質的差異が大きすぎるために、霊が物質に働きかけるための中間的媒介物が必要なのです。その観点から見るかぎり流動体は物的要素の中に入りますが、いくつかの点で霊的性質もそなえています。これを物質の範疇に入れるのであれば、霊も物的範疇に入れてもよいほど物的性質をそなえています。つまりは中間的存在ということです。

その流動体が物質の特性とさまざまな形で結合し、霊の働きかけを受けて、ご存じの心霊現象を演出しているわけです。それとて可能性のほんの一部にすぎません。この原始的ないし基本的な流動体は、そのように霊が物質に働きかけるための媒体であって、この存在なくしては物質は永久に他の存在と離れたままの存在でしかなく、重量を有するがゆえに(霊の働きかけによって)生ずるさまざまな特性を発揮することはできないでしょう」

――その流動体は我々のいう電流と同じものでしょうか。

「今の回答の中で物質の性質を無数の形で結合すると申しました。地上界でいう電気とか磁気といったものもその流動体の変化したものです。が、厳密に言えば、普遍的流動体はそうしたものよりも純度が高く、霊妙で、それ独自の存在を有していると考えてもよいでしょう」

――霊も“もの”であるからには、これを“知的物体”と呼び物質を“不活性の物体”と呼ぶ方がより正確ではないかと思うのですが……

「用語の問題は我々にとってはどうでもよろしい。人間どうしで通じ合えるような用語をこしらえることです。地上の論争の大半は、五感に反応しないものに関して地上の言語が不完全であるために、用語について共通の同意が欠けていることから生じています」

――密度は物質の本質的属性でしょうか。

「そうです。ただし人間がいう物質の属性であって、普遍的流動体としての物質の属性ではありません。この流動体を構成する霊妙な物質は人間には計量できません。にもかかわらず地上の物質の基本的要素です」

編者注――地上の物質の密度も、あくまでも相対的なものである。天体の表面からある一定の距離以上まで離れると“重量”はなくなる(無重力状態)。“上”とか“下”がなくなるのと同じである。

――物質は一つの要素から成っているのでしょうか、それとも複数の要素で構成されているのでしょうか。

「一種類の基本的要素でできています。とは言え、単純に見える物体も実際は基本的元素そのものでできているのではありません。物体の一つ一つが根源的物質の変化したものです」

――物質のさまざまな特性はどこから生じるのでしょうか。

「各種の基本分子が合体したり、ある条件の作用を受けたりすることによる形態の変化によって生じます」

――その観点から言えば、各種の物体の特性、芳香、色彩、音色、有毒か健康に良いかといったことも皆、たった一つの基本的物質が変化したその結果にすぎないことになるのでしょうか。

「まさしくその通りです。そして、そうしたものを感知するように出来あがっている器官の機能のおかげでもあります」

――同じ基本的物質がさまざまな形態に変化し、さまざまな特性をそなえることが出来るわけでしょうか。

「その通りです。そして“全ての中に全てが存在する”という格言はその事実のことを言っているのです」

――その説は、物質の基本的特性は二つしかない――力と運動であるとし、その他の特性は全て二次的な反応にすぎず、その力の強さと運動の方向によって違ってくる、という説を支持しているように思えますが、いかがでしょうか。

「その説自体に間違いはありません。ただし、それにさらに“分子の配列の形態によって”という条件を付け加えないといけません。例えば不透明な物体が分子の配列しだいで透明になり、その逆にもなることはご存じでしょう」

――物質の分子には形態があるのでしょうか。

「あります。そのことに疑問の余地はありませんが、人間の感覚器官では確認できません」

――その形態は一定不変ですか、それとも変化しますか。

「原始的基本分子は不変ですが、基本分子の団塊である副次的な分子は変化します。地上の科学で分子と呼んでいるものは副次的なもので、まだまだ基本分子とは程遠いものです」

第3節〈宇宙空間〉
――宇宙空間は無辺でしょうか、それとも限りがあるのでしょうか。

「無辺です。もしもどこかに境界があるとしたら、その境界の向こうは一体どうなっているのでしょう? この命題は常に人間の理性を困惑させますが、それでも、少なくとも“それではおかしい”ということくらいは理性が認めるはずです。無限の観念はどの角度から捉えてもそうなります。人間の置かれている条件下では絶対に理解不可能な命題です」

――宇宙のどこかに絶対的真空というものが存在するのでしょうか。

「いえ、真空というものは存在しません。人間から見て真空と思えるところにも、五感その他いかなる機器でも捕らえられない状態の“もの”が存在しています」

第3章 創造
第1節 〈天体の形成〉
――物的宇宙は創造の産物でしょうか、それとも神と同じく永遠の過去から存在し続けているのでしょうか。

「もちろん宇宙がみずからをこしらえるはずはありません。もしも神と同じく永遠の過去からの存在であるとしたら、それは神の業(わざ)ではないことになります」

――どのようにして創造されたのでしょうか。

「有名な表現を借りれば“神のご意志によって”です。神が“光よあれ”と言われた。すると光が生まれた。この“創世記”の言葉以外に、全能の神のあの雄大な働きをうまく表現したものはありません」

――天体が形成されていく過程を教えていただけませんか。

「人間の理解力の範囲内でこの命題に答えるとすれば、空間にまき散らされた物質が凝縮して天体となった、と表現するしかありません」

――彗星は、天文学で推測されている通り、その物質の凝縮の始まり、つまり形成途上の天体なのでしょうか。

「その通りです。ただし、彗星にまつわる不吉な影響を信じるのは愚かです。すべての天体には、ある種の現象の発生にそれぞれの役割分担があります」

――完成された天体が消滅し、宇宙のチリとなって再び天体として形成されるということはありませんか。

「あります。神は、天体上の生き物を新しく作り変えるように、天体そのものも新しく作り変えます」

――天体、たとえばこの地球が形成されるのに要した時間は分かるでしょうか。

「それは我々にも分かりません。創造主のみの知るところです。いかにも知っているかのごとき態度で長々と数字を並べたりするのは愚か者のすることです」

第2節 〈生命体の発生〉
――地球上の生物はいつ頃から生息するようになったのでしょうか。

「天地初発(あめつちはじめ)の時は全てが混乱の状態で、あらゆる原素が秩序もなく混じり合っていました。それが次第に落ちつくべき状態に落ちつき、その後、地球の発達段階に応じて、それに適合した生物が出現して行きました」

――その最初の生物はどこから来たのでしょうか。

「どこからというのではなく、地球そのものに“胚”の状態で含まれていて、発生に都合のよい時期の到来を待っておりました。地球の初期の活動がようやく休止すると、有機的原素が結合して地上に生息するあらゆる生物の胚を形成しました。そして各々の種に生気を賦与する適切な時期の到来まで、その胚はさなぎや種子と同じように、不活性の状態で潜伏していました。やがてその時期が到来して発生し、繁殖して行きました」

――その有機的原素は地球が形成される以前はどこに存在していたのでしょうか。

「言うなれば流動体的状態で空間や霊界、あるいは他の天体に存在し、新しい天体での新たな生命活動を開始すべく、地球の造成を待っておりました」

――今でも自然発生しているものがあるのでしょうか。

「あります。ですが、潜在的には胚の状態で以前から存在しているのです。その例なら身のまわりに幾らでもあります。例えば人間や動物の体には無数の寄生虫が胚の状態で存在していて、生命がなくなると同時に活動を開始して腐敗させ、悪臭を放ちます。人間の一人一人が、言うなれば“眠れる微生物の世界”を内部に含んでいるのです」

第3節 〈人類の発生〉
――ヒトの種も有機的原素の一つとして地球に含まれていたのでしょうか。

「そうです。そして創造主の定めた時期に発生したのです。“人間は地のチリから造られた”という表現はそこから来ています」

――そのヒトの発生、および地上の他の全ての生物の発生の時期は確認できるのでしょうか。

「できません。あれこれと数字を並べる霊がいますが、何の根拠もありません」

――人類の胚が有機的原素の中に含まれていてそれが自然発生したとなると、今でも(生殖作用によってでなく)自然発生的にヒトの種が誕生してもよさそうに思えるのですが……

「生命の起原のことは我々にも秘密にされております。ただ断言できることは、最初の人類が発生した時に、すでにその内部に、その後の生殖活動によって繁殖していくために必要な要素を全て所有していたということです。他の全ての生物についても同じことが言えます」

――最初の人間は一人だったのでしょうか。

「違います。アダムは最初の人間でもなく、唯一の人間でもありません」

――アダムが生きていた時代を特定できますか。

「大体“創世記”にある通りです。キリストより四〇〇〇年ほど前です」

編者注――アダムという名で記録にとどめている人物は、当時地球上を襲った数々の自然災害を生き抜いた幾つかの人種の一つの長であろう。

第4節 〈人種の多様性〉
――地上の人種に身体的ならびに精神的な差異が生じた原因は何でしょうか。

「気候、生活形態、社会的慣習などです。同じ母親から生まれた二人の子供でも、遠く離れた異なる環境条件のもとで育てられると、それぞれに違った特徴を見せるようになります。とくに精神的には全く違ってきます」

――人類の発生は一カ所だけでなく地球上の幾つもの地域で行われたのでしょうか。

「そうです。それも、幾つもの時代に分けて行われました。このことも人類の多様性の原因の一つです。原始時代の人間はさまざまな気候の地域へ広がり、他の集団との混血が行われたので、次々と新しいタイプの人類が生まれて行きました」

――その違いが種の違いを生んだのでしょうか。

「それは断じて違います。全ての民族で人類という一つの家族を構成しています。同じ名前の果実にいろいろな品種があっても、果実としては一つであるのと同じです」

――人類の始祖が一つでなく地球上で幾つも発生したということは、互いに同胞とは言えないことになるのではないでしょうか。

「創造主とのつながりにおいては全ての人種は一つです。同じ大霊によって生命を賦与され、同じ目的に向かって進化しているからです。人間はとかく言葉にこだわり、表現が異なると中身も異なるかに解釈しがちですが、言葉というのは不十分であり不完全なものです」

第5節 〈地球外の生息地〉
――宇宙空間を巡っている天体の全てに知的存在が生息しているのでしょうか。

「そうです。そしてその中でも地球は、人間が勝手に想像しているような、知性、善性、その他の全般的な発達において、およそ第一級の存在ではありません。数え切れないほど存在する天体の中で地球だけが知的存在が生息する場である――神は人類のために宇宙をこしらえたのだと豪語する者がいるようですが、浅はかな自惚れもここに極まれりという感じです」

――どの天体も地質的構成は同じなのでしょうか。

「同じではありません。一つ一つが全く違います」

――あれほどの数の天体がありながら、その組成が同じものが二つとないとなると、そこに生息している存在の有機的組成も異なるのでしょうか。

「当然です。地上でも魚は水の中で生きるようにできており、鳥は空を飛ぶようにできているのと同じです」

――太陽から遥か遠く離れた天体は光も熱も乏しく、太陽が恒星(星)の大きさにしか見えないのではないでしょうか。

「あなたは光と熱の源は太陽しかないとでも思っていらっしゃるのですか。また、ある天体上では電気の方が地上より遥かに重要な役割を果たしている事実をご存じですか。そういう世界でも地球と同じように眼球を使って物を見ているとでも思っていらっしゃるのですか」

第4章 生命素
第1節 〈有機物と無機物〉
――物質の原素を合体させる力は有機物の場合も無機物の場合も同じものですか。

「同じものです。親和性の法則は全てに同じです」

――有機物と無機物とではどこが違うのでしょうか。

「物質でできている点は双方とも同じです。が、有機物においてはその物質が活性化されています」

――その活性化の原因は何でしょうか。

「生命素との一体化です」

――その生命素は何か特殊な作用因子の中に存在するのでしょうか、それとも組織をもつ物体の一要素にすぎないのでしょうか。つまり、それは原因なのか結果なのかということです。

「両方です。生命というのは物質へのある因子の働きかけによって生じた結果です。しかしこの因子も、物質がなければ生命を生み出すことはできませんし、物質もこの因子の働きかけなしには活性化されません。生命素はそれを受け止めて一体化するものに生命を賦与するということです」

――これまで私は霊と物質が宇宙の二大主要構成要素であると思っておりました。この生命素は第三の要素なのでしょうか。

「宇宙を構成する不可欠の要素の一つであることは論をまちません。しかし、その源は普遍的物質の変化にあります。その目的に即して変化したものです。人間にとっては酸素や水素と同じく原素ですが、究極の要素ではありません。人間に知られている原素は全て、究極の原素のように思えても実質は基本的流動体の変化したものです」

――今のご説明ですと、活力というのはそれ自体が独立した因子ではなく、普遍的流動体の特殊な要素で、それがある種の変化を遂げたものということになりそうですが……

「その通りです。これまで述べたことを結論づければ当然そうなります」

――その生命素は人間に知られているあらゆる物体に内在しているのでしょうか。

「その源は普遍的流動体にあります。いわゆる磁気流とか電流と呼ばれているものが活性化されたものです。霊と物質との中間的存在です」

――生命素は有機的存在の全てに共通したものでしょうか。

「同じものですが、種によって変化が加えられています。動きと活動の原動力となっているのがその生命素で、その点がただの物質とは異なるところです。物質も動きますが、自発的な動きではありません。物質は動かされるもので、動きを生み出すことはありません」

――活力はその生命素の不変の属性なのでしょうか、それともその活力を生み出している器官の働きによるのでしょうか。

「活力は生命素が物体とつながることによって初めて生じます。さきほどこの因子(生命素)は物質がなければ生命を生み出せないと申し上げたはずです。生命の生産には両者の合体が必要です」

――生命因子が物体と合流しないうちは活力は潜在状態にあると考えてよろしいでしょうか。

「その通りです」

第2節 〈生と死〉
――有機体の死の原因は何でしょうか。

「器官の活力の枯渇です」

――その死を機械が故障して動きが止まった状態になぞらえるのは正しいでしょうか。

「いいでしょう。機械が故障すれば動きが止まります。身体が病に冒されれば生命は引っ込みます」

――心臓病による死亡率が他の臓器よりも高いのはなぜでしょうか。

「心臓は生命を生み出す器官です。ですが死をもたらすのは必ずしも心臓の病気だけではないでしょう。心臓は身体という機械を動かす必須の機関の一つにすぎません」

――有機体の身体と生命素は死後どうなるのでしょうか。

「身体は分解して新しい物体の構成要素として使用されます。生命素は普遍的流動体の海の中へ帰ります」

第3節 〈知性と本能〉
――知性は生命素の属性ですか。

「違います。その証拠に、植物は生命を有しながら思考力はありません。有機的生命を有するのみです。知性と物質との間には何の依存性もありません。ただし、物体は知性がなくても存在できますが、知性は物的器官を通じないと意思表示ができません。活性化された物質(肉体)が霊と一体となって初めて知的活動が可能となります」

編者注――それゆえ地上の存在物は三つに大別できる。第一は、物質のみの不活性の存在で、生命も知性もない、無機物の世界。第二は、物質でできた身体と活力を有するが、知性を持たない、動植物の世界。そして第三が活力ある身体と、思考力を生み出す知的原理をそなえた人類。

――知性の始源は何でしょうか。

「普遍的知性です」

――こういう定義はいかがでしょうか。すなわち、知的存在は各自が普遍的始源から知性の一部を引き寄せ、引き寄せつつ吸収し、同時に生命素も吸収する、と。

「そういう定義はおよそ真相から離れています。知性というのは各自その分に応じて授けられる能力で、精神的個性の一部を形成するものです。

さらに言わせていただけば、宇宙には人間に絶対理解できないことがいろいろあります。知性の始源も、現段階の人類にとっては、その中に入ります」

――本能というのは知性とは何の関係もないのでしょうか。

「そう明確に断定することはできません。と言うのは、本能も知性の一種であることには違いないからです。本能は言わば論理的思考力をもたない知性です。進化の階梯の低い段階にある存在は、この本能によって必要性を満たします」

――知性と本能との違いを一線で画すことはできますでしょうか。つまり、ここまでが本能でここからが知性、という具合に。

「できません。双方が混じり合っていることがよくあります。しかし、本能から出た行為と知性から出た行為とは明確に見分けることができます」

――知的能力の発達とともに本能が退化すると考えてよいでしょうか。

「それは違います。本能は本能として存在しつづけます。人間がそれを軽視しているだけです。本能も理性と同じように正しい方向へ導いてくれることがあります。その導きはまず間違いなく感得できるものです。時には理性的判断よりも確かなことがあります。決して脱線することはありません」

――なぜ理性的判断が必ずしも頼りにならないのでしょうか。

「間違った教育、自惚れ、私利私欲によって歪められさえしなければ理性は正しい判断を下します。本能は論理を超えて直覚的に判断を下します。理性は常に選択の余地を残し、人間に自由意志を与えます」

訳者あとがき
「霊媒の書」のあとがきでは翻訳に当たっての私の心構えのようなものを端的に述べさせていただいたが、その中の一要素として原著者――カルデックは編者で、実質的には聖ルイを中心とする霊団――の姿勢を反映させることも重要な役割であるとの認識から、この「霊の書」では特にその点でいろいろと工夫を凝らしたつもりである。

例えばモーゼスの『霊訓』では霊団の統括霊であるインペレーターの威厳に満ちた、それでいてモーゼスを叱咤激励する時の、峻厳の中にも限りない愛を秘めた言葉に感極まり、訳者としての立場を忘れて滂沱(ぼうだ)の涙に暮れることがしばしばだった。勢い、訳文も壮重なものとなった。

シルバーバーチはそれとはまた違った、曰く言い難い、現世を達観しながらも現実にしっかりと足を置いた爽快な叡知の泉に魂が潤(うるお)される思いがして、抑え難い感謝の情に涙を誘発されることが、これ又、しばしばだった。それは今でも変わらない。何気なく原書や訳本を開いて読み進んでいくうちに、どっと涙が溢れる。訳本の場合は自分の訳であることを忘れている。これは一体どこから出るのであろう?

さて本書を通してお読みくださった方は、聖ルイを中心とする霊団の姿勢が右の二つの霊団とは違うことにお気づきであろう。その特徴を端的に示している箇所を一、二挙げると、「霊媒の書」では八章の中で「口はばったいようですが、こんな分かり切ったことを延々としつこく聞き出そうとするのは、いい加減お止めなさい」とクギを刺すところがある。「口はばったいようですが」は口調を和らげるために私が書き加えたのであって、原文はいきなり「止めなさい」である。インペレーターがモーゼスを叱咤する時の厳しさとは少し違うのである。

またこの「霊の書」では、死の過程の中での霊の心境を聞かれて、島流しの刑期をようやく終えて、これで自由の身になれると思ってワクワクしている、と言った表現をしているところがある。地球を流刑の地に擬(なぞら)えているのである。確かに地上界が太陽系の中でも下から数えた方が早いほど低級な惑星であることは、高等な霊界通信の一致するところであるが、流刑の島に擬えたのは私も初めてお目にかかった。

翻訳を進めながら私は、こうした冷徹ともいうべき態度、日本流の言い方をすれば“一刀両断に切って捨てる”ような酷しさは一体どこからくるのだろうかと考えた。

霊団はアウグスティヌスやソクラテス、プラトン、ヨハネ、パウロなどの古代霊を除いて大半は中世から近代に活躍したフランス人で、統括霊が“聖(セント)ルイ”と称されたルイ王朝の第九世である。

ルイ九世は歴代の王の中でも“理想像”とされるほど傑出した人物だったようで、学問と芸術の振興にも力を入れている。十三世紀の人物であるが、聖アウグスティヌスやソクラテスなどの大人物を従えた霊団を指揮するほどの霊格をそなえていたのであろう。

地上の交霊会の司会者として最終的にこの二冊の大著を編纂することになったカルデックも、出生前から霊団との打ち合わせができていたはずで、その使命は十分に果たしたと言えるのではなかろうか。不遇だった時代に多くの教育書や道徳書、とくに本書にも出ているフェヌロンの著作をドイツ語に翻訳していることも、霊団側の配慮であろう。

問題は、モーゼスの場合と同じく、キリスト教神学を基盤とした人生観・宇宙観が根強かったことである。が、近代教育の父と言われるペスタロッチのもとで学び、その自由闊達な総合教育の理念に馴染んでいたのも霊団側の準備だったと私は見ているが、その彼にとってもスピリチュアリズム思想との出会いは驚天動地の革命的事件だったことであろう。
霊界通信の可能性に得心が行った後、キリスト教のドクマを中心に質疑応答が展開していったのは西洋人として当然のことで、本書にもそれが随所に見られるが、彼の質問を“しつこい”ものにしたもう一つの要素として、各地で催されている交霊会へ出席してみて、そのいい加減さを知ったことである。勢い自分が司会をする交霊会でも警戒心を強め、徹頭徹尾“疑ってかかる”態度に出るようになった。

霊的なことに関してはまず疑ってかかるという態度は大切であるが、それも度が過ぎると幼稚に響くようになる。私も“しつこいなぁ”と思い、内容的に重要性がないとみたものは削除した。

これほど高度な内容が盛り込まれていながら他の霊訓と少し感じが違うのは、そういう経緯から出ていると私は見ている。

さて二冊の著書に盛り込まれた通信に直接携わった霊は何人だったかというのも私の関心事の一つだった。出てきた氏名だけを数えれば二十四名であるが、本文の問答の中で署名が付いているのは聖ルイ、エラステス、フェヌロン、聖アウグスティヌス、プラトン、パウロ、ラメネイの七名だけである。他にも、いかにもフランスらしい氏名、例えばジャンヌ・ダルクやルソー、ナポレオンといったお馴染みの名が目白押しである。イエス・キリストまで登場している。

しかしカルデックはそれらを巻末に集めて批評を加え、適確に裁いている。その批評の中には日本の心霊関係者も反省材料とすべきものが少なくないので、二、三紹介しておきたい。

例えば“ナポレオン”からの通信を紹介したあとカルデックが次のようなコメントをしている。

「この世に謹厳で実直な人間がいるとしたら生前のナポレオンこそその一人だった。その信念、その簡潔な文章は知る人ぞ知るところであるが、もしもこの通信がそのナポレオンからのものだとしたら、どうやらナポレオンは死後、不思議なほど堕落してしまったようだ。これは多分、ナポレオンの騎兵隊の一人がナポレオンを気取って書いたものであろう」

次に“イエス”と署名のある通信を二つ紹介してから――「この二つの通信文で言っていることは、これといって読んで毒になるものはないが、あのイエスがこんなぎこちない、気取った、大ゲサで滑稽な文章しか書けないのだろうか。 (中略) 一連の通信文には共通したニュアンスがあるところから判断して、これらは全部一人の低級霊が書いたものであろう」

“ジャック・ボシュエ”というカトリックの大司教だった人物の署名のある通信文のあと――「このメッセージにはケチのつけようがない。それどころか、深遠な哲学的思想、そして透徹した助言も盛られていて、普通の者はあのボシュエからのものに相違ないと信じるであろう。 (中略) が、聖ルイに尋ねたところ、内容は確かに申し分ないが、ボシュエのものと思ってはいけない。書いた霊はある程度ボシュエのインスピレーションを受けていたかも知れないが、“ボシュエ”の署名のあとに付してある“アルフレッド・ド・マリナック”という人物が書いたものである、という返答だった。そこでその霊を呼び出して質してみた。

“いかなる了見でこんなごまかしをなさったのですか”

“いつか人間の注目を集めるような通信文を書いてみたいと思っていたんです。私の文章力は弱いので、でかい名前を使ったまでです”

“でも、すぐにニセモノということがバレることが見通せなかったのですか”

“どういうことになるか誰にも分かったもんじゃありませんよ。あなただって担(かつ)がれたかも知れないじゃないですか。見る目のない連中はボシュエのものと信じたでしょうよ”

確かに、有名人の署名があるものだとすぐに本物と信じたがるところに、低級霊をつけ上がらせる原因がある。そうした低級霊の策謀を挫折させる道は洞察力を働かせる以外にはないが、そのためには豊かな経験と学習を重ねるしかない。交霊会を催す前にしっかりと勉強してほしいと我々が忠告するのはそのためである。熱心な研究家が煙に巻かれたり当惑するような体験を避ける道は、こちらがしっかりと勉強するしかないのである」

最後に言及しておかねばならない問題として、カルデック霊団は心霊治療ないし霊的治療に関しては論じていないことが挙げられる。私見では、スピリチュアリズムのために結成された幾つかの霊団にはそれぞれに役割分担があり、その背景には時代の進展に合わせた配剤があるはずである。

霊的治療の重要性を前面に押し出したのはシルバーバーチで、時代がハリー・エドワーズを筆頭とする数多くの有能なスピリチュアル・ヒーラーが輩出した時代と重なったのも偶然ではないであろう。

聖ルイの霊団には主として倫理・道徳に関する霊的原理を説くという役割が割り当てられていたのであろう。第三部は本書の圧巻で、これほど綿密に、しかも理路整然と摂理の働きを説き明かしてくれたものは他に類を見ない。

熟読玩味の上、日常生活の指針としていただければ有り難いと思っている。

平成八年十月 近藤千雄