『天国と地獄Ⅱ』 霊との対話
アラン・カルデック(著) 浅岡 夢二(訳)

2006年 8月27日 初版第1刷
2009年12月 7日   第8刷

訳者まえがき
ここに再び、スピリチュアリズムの巨人アラン・カルデックの偉大な仕事(本邦初訳)をお届けいたします。本書には、前作に収録しきれなかった霊人たちのメッセージをすべて収めてあります。
これで、前作と併せて、アラン・カルデックの原著"Le Ciel et l'Enfer"(「天国と地獄」)に収録された貴重な「死後人生のケーススタディー」を、すべてお読みいただけることになりました。

前作をお読みくださった方から、「地上での生活がこれほどまでに厳しく評価されることを知って、ちょっと怖くなった」という趣旨のお便りをだいぶ頂きました、それは確かにまともな反応だと思いました。訳者自身の翻訳作業を進めながら多くの個所でそう感じたものです。
しかし、それは、《原因と結果の法則》(縁起の理法)が、当然のこととして適用された結果にすぎません。つまり、地上における悪しき行為が適正に評価されただけなのです(悪因悪果)。
ただ、逆に言えば、地上におけるよき行為もまた同じく適正に評価されるということになります(善因善果)
そして、それこそが、実は《原因と結果の法則》を前提とした〈究極の幸福論〉でもあるのです。つまり、悪しき行為も、よき行為も、絶対に見逃されることがないからこそ、私たちは、この地上、そして霊界で、確実に幸福になる方法を手にすることができるのです。
すなわち、私たちは、悪を避け、積極的に善を行うことによって、間違いなく幸福な未来を創造することができるわけです。

前作に比べ、本書『アラン・カルデックの「霊との対話」』--天国と地獄Ⅱには、特に、「地上での苦難を見事に乗り越えて、死後、光に満ちた世界に還ることになった人々」のケースが数多く収録されています。
それらを参考になさって、読者のみなさまには、ぜひとも、今後の人生に修正をかけ、力強く生きていっていただきたいと思います。

また、本書には、読者のみなさまへのプレゼントとして、第2部に、アラン・カルデック著『遺稿集』の第4章「自伝的ノート」を抄訳・収録してあります。
これは、まことに貴重な、また実に興味深い文献です。「自伝」を「霊との対話」によって書くという、まさしくアラン・カルデックの真骨頂を発揮した文章だと言えるでしょう。
この自伝を読むと、〈真理〉に目覚めた人間がたった一人で立ち上がり、〈真理〉を世の中広めることが、いかほどの信念と勇気を必要とするか、ということが本当によく分かります。
この自伝が、遠大な計画を胸に秘める勇者たちの心の指南役になることを確信しています。
二〇〇六年七月 浅岡夢二


第1部 生前の生き方が、死後の行き先を決める
――天国霊・地獄霊の人生ケーススタディー

第1章 天国で喜びを謳歌(おうか)する霊
(1) 安らぎに満ちた死の瞬間――ジョルジュ
パリの霊実在主義協会において行われた、サムソン氏(*訳者注意)の最初の招霊(しょうれい)のすぐあとで、ジョルジュという名の霊人(れいじん)が「正しき人の死」というタイトルで、次のような霊界通信を送ってきた。

「わたくしの死は、まさに正しき人の死であり、穏やかな、希望に満ちたものでありました。暗い夜のあとに明るい一日が始まるように、地上の生活の後には霊界での生活が始まります。わたくしの場合、何の動揺もなく、何の悲痛な思いも伴(ともな)わず、息を引き取る瞬間は、まわりの人々からの感謝と愛に満たされていました。

しかし、このような死を迎えることのできる人間は実に少ないものです。熱狂の人生、あるいは絶望の人生を送った後で、調和に満ちた死を迎えることはとても難しいのです。生きている時にすこぶる元気だったとしても、ピストルで自殺した場合、すでに魂から分離しているというのに、体の痛みを感じて苦しみます。信仰もなく、希望もなく死んだ場合、体から離れるのに引き裂かれるような思いをし、しかも、その後は、わけの分からない空間に放り出されるのです。

混乱の中にある霊人たちのために祈ってあげてください。苦しんでいる霊人たちのために祈ってあげてください。愛の思いは、霊界にもしっかり通じます。そして、愛の思いは、霊界の霊人たちを救い、慰(なぐさ)めることができるのです。

この点に関しては、あなたがたは感動的な例を持っています。サンソン氏の葬儀の際に行われた、霊実在主義に基づく祈りによって、ベルナールという人の霊が目を覚まし、あっという間に回心を遂げたのです。どうか彼の霊を招霊して尋ねてみてください。彼は、あなたがたが聖なる道においてさらに進化を遂げることを願っています。

愛には限界がありません。愛は空間を満たし、慰めを与えます。愛の海は無限に広がっていき、やがては空と接します。そして、霊人たちは、空と海を満たす壮麗(そうれい)な愛の姿に心を打たれるのです。愛は海よりも深く、空よりも広く、地上に生きている人間も、霊界に生きている霊人も、すべての存在を結びつけ、有限なるものと無限なるものを、真に驚嘆(きょうたん)すべきやり方で融合させるのです。

≪(*)訳者注『天国と地獄』の第二部第一章「サンソン氏」≫

(2) 死後も霊実在論の普及に情熱を燃やす幸福――ジョベール氏
ブリュッセルの産業博物館の館長であったジョベール氏は、オート・マルヌ県のベッセイで生まれた。一八六一年十月二十七日、ブリュッセルで突然の脳卒中に襲われて亡くなった。享年69歳。

「こんばんは。あなた方が私を招霊しようとしてくれていることを承知の上で、このように自分から降りてきました。暫くの間、この霊媒を通じてコンタクトしようと努力していましたが、今ようやくこうしてコンタクトが可能となりました。

魂が肉体から分離した時の印象を語りましょう。まず、それまで感じたことのない動揺を感じました。私の誕生の時、青春時代、壮年時代、そうした時代の記憶が突然全て甦ってきたのです。私は、『信仰によって啓示された、私の還るべき場所に還りたい』という気持ちで一杯でした。すると、徐々に記憶が静まってきました。私は自由になり、遺体が横たわっているのを見ました。

ああ、肉体の重みから自由になることの何という嬉しさ! 空間を自由に動き回れるというのは本当に心躍る経験です。とはいっても、一気に、神に選ばれし者になったわけではありません。私には、まだまだ課題が残っており、学ぶべきことがあるのですから。

間もなく、あなた方のことを思い出しました。地上という流刑地にある兄弟諸君よ、私の同情を、そして私の祝福を受け取ってください。

私がどのような霊人達に迎えられ、どのような印象を持ったかを知りたいのではありませんか? 地上にいた時に私が招霊し、お互いに協力し合って仕事をした霊人達は、全て友人としてやってきてくれました。壮麗な輝きを感じましたが、地上の言葉では、到底その輝きを伝えることが出来ません。霊界通信で知ったことを確認し、誤った認識は改めようとしました。そして、地上においてもそうであったように、霊界においても、真理の騎士たらんとしているのです」

――あなたは、地上におられる間に、「地上を去った後で必ず招霊してくれるように」と私達に頼んでくださいました。今、その約束を果たさせて頂いているわけですが、それは単にあなたの願いを聞き届ける為だけではありません。それだけではなくて、あなたへの心からの感謝をお伝えする為であり、また、あなたから貴重な知識を教えて頂いて、私達の向上の糧にする為でもあります。

というのも、今あなたがいらっしゃる霊界についての正確な情報を、与えてくださることが出来る立場にあなたはおられるからです。ですから、私達の質問にお答え頂ければ誠に幸せに存じます。

「現時点で最も大切なのは、あなた方の向上です。
私への感謝の思いに関して言えば、私にはそれが見えます。私は、こちらへ来てから随分進歩したので、『耳で言葉を聞くだけ』という地上の制約を脱しており、思いを直接知ることが出来るようになったのです」

――事態をはっきりさせる為にお聞きするのですが、現在、この部屋のどの辺にいらっしゃいますか? また、我々がそのお姿を拝見出来るとすれば、どのようなお姿をしていらっしゃるのでしょうか?

「霊媒のすぐ側にいます。もし、私を見るとすれば、テーブルの側の椅子に座っている姿が見えることでしょう。というのも、通常、人間には、霊の姿は人間的な姿として見えることになっているからです」

――我々があなたの姿を見ることが出来るようになるのは可能なのでしょうか? もし不可能だとすれば、何が問題なのでしょうか?

「あなた方の個人的な能力の問題です。霊視の利く霊媒であれば簡単に見えるはずですから」

――その席は、生前、交霊会のたびにあなたが座っておられた席で、あなたの為に、我々が確保しておいた席です。ですから、生前のあなたを知っている人々は、そこに座っておられるお姿を想像することが出来ます。物質的な肉体を持ってそこにいらっしゃらなくとも、幽体を纏ってそこにいらっしゃるわけですね。肉体の目では見えませんが、精神の目では見ることが出来ます。

声を発してコミュニケーション出来なくても、霊媒の手を通して文字を書くことでコミュニケーションが成立します。あなたの死によって、我々との交流が断絶したわけではなく、かつてと同じく、今でも容易に、そして完全に対話を交わすことが出来るのです。

以上のように考えてよろしいでしょうか。

「結構です。それは既に随分前から分かっていることです。私は、今後、この場所に、あなた方が知らずにいても、座っていることになるでしょう。というのも、私はあなた方と共に生きるつもりだからです」

「私はあなた方と共に生きるつもりだからです」という最後の言葉に注意を喚起しておきたい。というのも、現在の状況では、これは単なる比喩ではなくて、一つの現実だからである。

霊実在論が、霊の本質に関して教えてくれるところによれば、霊は、単に思いにおいて我々と一緒にいられるだけでなく、現実に、幽体を纏った姿で、はっきり個性を持った個人として、我々の側にいることが出来るのだ。つまり、霊は、死んだ後も、もしそれを望むのであれば、生前と同様に我々の間にいることが出来るのである。しかも、いつでも好きな時にやってきて、好きな時に立ち去ることが出来る。

というわけで、我々の側には、我々に無関心な、或は、我々と愛情で結びついている、実に沢山の目に見えないお客さん達がいるのである。特に後者に関しては、確かに「我々と共に生きている」ということが言える。つまり、我々を助け、インスピレーションを与え、守ってくれているのである。

――少し前までは、あなたは肉体を纏ってその場所に座っておられたわけです。現在、霊になってそこにおられて、どんな感じがしますか? 何か変化が生じているでしょうか?

「特に変わった点はありません。『肉体を離れて霊になった為に、全てがはっきりと分かるようになり、曖昧なところが全くなくなった』という点が、違うといえば違う点でしょうか」

――今回の人生よりも前の人生を思い出すことは出来ますか? それらと比べて、今回の人生には、何か変わった点があるでしょうか?

「そうですね。過去世を思い出すことは可能です。そして、過去世に比べて自分が随分進化した、ということを感じます。過去世がはっきり見え、過去世に同化することが出来るのですが、過去世においては、混乱に満ちた人生を送り、地上世界に特有の恨みという感情を抱いたことが多かったようです」

――今回の人生のすぐ一つ前の人生、つまりジョベール氏の時よりも一つ前の人生を思い出すことは出来ますか?

「出来ます。私はその時、機械工をしておりました。大変貧乏でありながら、自分の技量を完成させたいと望んでおりました。そして、今回の人生において、つまりジョベールの人生を通して、その哀れな機械工の夢を果たしました。私の頭の中に蒔いた種から芽を出させてくださった善なる神に、心から感謝したいと思います」

――他の場所では招霊に応じましたか?

「まだほんの少ししか招霊には応じておりません。多くの場所で、ある霊人が私に代わり、私の名前を使って通信しました。私は、まだ自分では直接に通信出来なかった為、彼の側に控えていたのです。

死んで間もないので、まだ地上の影響に左右されます。つまり、まだ新米なので、通信が可能となる為には、地上の人々との完全な共感が必要となる、ということなのです。もう少しすれば自由に通信出来るようになるでしょう。今のところ、繰り返しになりますが、自分で直接、自由に通信することは出来ません。

多少、名を知られた人間が死ぬと、あちこちで呼ばれるので、他の多くの霊人達が、暫くその代わりを努めます。私の場合も同じことが起こりました。肉体から解放された直後には、通信することはなかなか難しかったのです」

――ここにいる、あなた以外の霊人達の姿は見えますか?

「特にラザロとエラストがはっきり見えます。それから、少し遠くに[真実の霊]が空中に浮かんでいるのが見えます。さらに、数多くの友人達がひしめき合って、あなた方を優しく取り囲んでいるのが見えます。あなた方は本当に幸せ者ですよ」

――生前、あなたは、「四つの天体が一つにくっついて地球が生まれた」とする説を支持していましたが、今でもこの説を信じていますか?

「あれは誤りでした。新たな地質学的発見によって、『地球それ自体が変動を経て徐々に形成された』ということが証明されています。他の惑星と同様、地球もそれ自体の生命を持っているのです。『いくつもの天体を一つにまとめる』というような作業は必要なかったのです」

――あなたは、さらに、「人間は、無限に長い間、強硬症(一定の姿勢を長時間とり続ける症状)の状態にあり続けることが出来る。そして、実はその状態で他の天体から地球に運ばれてきた」という説を支持していましたが、この点に関してはいかがでしょうか?

「私の空想癖が生み出した錯誤にすぎません。強硬症が、ある程度、持続することは事実ですが、無限に続くことはあり得ません。東方的な空想が生み出した大げさな伝説です。友よ、私は、地上時代に数多く錯誤を犯しており、それらを反省して随分苦しみました。そのことをよく覚えておいてください。

私は地上で数多くのことを学びました。素直に申し上げて、私の知性は多くの学問を素早く学ぶことの出来るものでした。しかし、『地上生活で得たもののうち、本当に価値があったのは、素晴らしいものへの愛と、純朴なものへの愛だけだった』ということを、ここで強調しておきたいと思います。

いわゆる純粋に知的な問題には、今は興味がありません。私の周りに展開する、目も眩まんばかりの美しい景観、溜め息が出る程素晴らしい出来事に囲まれて、どうして純粋に知的な問題に関心を持つことなど出来るでしょうか。

霊実在論の仲間の絆は、あなた方の想像以上に強いのですよ。私が、ひとたび去った地上にこうして降りてくるのは、この絆があるからです。嬉しくやって来るというよりも、むしろ、解放されたことに対する深い感謝の念と共にやって来る、と言った方がよいかもしれません」

協会は、一八六二年二月より、リヨンの工員達からの寄付の受付を開始した。メンバー一人当たりの寄付は五十フランであったが、そのうちの二十五フランは本人名義、残り二十五フランはジョベール氏名義となった。このことに関して、ジョベール氏が以下のような意見を寄せてくれた。

「霊実在論を同じく奉ずる兄弟達が私を覚えていてくれたことに対して、心から嬉しく思い、感謝するものです。寛大な心で寄付をしてくださったことに感謝しています。それは、もし私がまだ地上にいれば、私がしていたはずの寄付でした。今私が住んでいる霊界では、お金は、必要とされない為に存在しません。したがって、地上で寄付をする為には、友情に溢れた財布から出して頂くしかなかったのです。

善良な工員諸君、あなた方は、熱心に、種から育ったブドウの苗を育てています。慈善という言葉がどれほどの意味を持っているかを、本当に知って頂きたいものです。額の多少に関係なく、施しは同情と博愛の印であり、実に尊いものなのです。

諸君は、人類の福祉を目指す大道の中にあります。どうか、神のお力により、諸君がその道を踏み外しませんように。そして、諸君がさらに幸福になりますように。霊界の友人達が諸君を支援していますので、必ず勝利出来るはずです。

私はこちらで霊的な生き方を本格的に開始しました。次々とやってきていた交霊会へのお誘いも少なくなり、落ち着いた、平和な生活が始まったのです。流行は霊界にも及びます。ジョベールの人気が終わり、次の霊人が寵児になるにつれ、私は忘却の中に入っていくのです。

ただし、智慧を得る為に真剣に学ぼうとしている友よ、今度はあなた方が私を招霊してくださる番です。今まであまりにも表面的にしか扱われなかった問題を、一緒に深めようではありませんか。いまや、あなた方のジョベールは完全に変容を遂げ、有用な情報をお届け出来るようになりました。そして、私はあなた方にとって有用でありたいと、心から望んでいるのです」

こうして友人達を安心させた後で、ジョベール氏は、社会変革を押し進める霊人達の活発な動きに参加した。そして、やがて再び地上に生まれ変わって、地上の人間達と一緒に、より直接的な仕事をするつもりでいる。

この時以来、氏は、しばしばパリ霊実在主義協会を訪れ、比較し得るものがない程優れた霊示を数多く降ろしてくれた。それは、独創性と機知に溢れたものであり、その点で、生前の氏の特徴を全く失っていなかったので、霊示にサインがなされる前から、我々にはそれが氏からのものであることがはっきりと分かるのだった。

(3) 苦難の人生を終えて得た希望――サミュエル・フィリップ氏
サミュエル・フィリップ氏は、まさに善人という言葉に相応しい人物であった。彼が何か意地悪なことをするのを見たことのある人は一人もいないし、彼が誰かを非難するのを見たことのある人も一人もいない。

氏は、友人達に対して本当に献身的に尽くしてきた。そして、必要な時には、自らの利益を投げうってまでも、友人達に奉仕するのであった。苦難、疲労、犠牲等、一切をものともせずに、人々に尽くした。しかも、ごく自然に、極めて謙虚にである。人がそのことに対してお礼でも言おうものなら、むしろびっくりするくらいであった。また、どんなに酷いことをされても、決して相手を恨まなかった。恩知らずな仕打ちを受けると、「気の毒なのは私ではなくて、彼らの方なんですよ」と言うのであった。

非常に知性が高く、生まれつき才能に恵まれていたが、彼の人生は、苦労が多いわりにはパッとせず、厳しい試練に満ちていた。日陰の花であり、その存在が人々の口の端に上ることもなく、地上ではその光が認められない類の人であった。霊実在論をしっかりと学んで、篤い信仰を得ており、地上を満たす悪に対しては、深い諦念(道理を悟って物事をありのままに受け入れること)をもってするのが常であった。

氏は、一八六二年十二月に、五十歳で、長い病苦の果てに亡くなった。その死を悲しんだのは、家族とごく少数の友人達のみであった。
死後、何度か招霊に応じてくれた。

――地上で息を引き取った最後の瞬間に関して、はっきりした記憶はお持ちですか?
「よく覚えています。その記憶が徐々に戻りつつあるのです」

――我々の意識が向上出来るように、また、あなたの模範的な人生を我々がしっかり評価出来るように、あなたが経験した、肉体的生活から霊的生活への移行の様子を教えて頂けますか? さらに、現在、霊界でどのように暮らしておられるのか、教えて頂けないでしょうか。

「喜んでお教え致しましょう。こうした交流は、あなた方にとって有益であるだけではなく、私にとっても有益であるのです。地上での私の意識を回想することで、霊界との比較がなされ、そのことによって、私は、神がいかに私を優遇してくださっているかということが、非常によく分かるからです。

私の人生にどれほど多くの試練があったかは、あなた方がよくご存知の通りです。しかし、有り難いことに、私は決して逆境の中で勇気を失いませんでした。今、そのことで本当に自分を褒めてやりたいと思っています。もし勇気をなくしていたら、どれほどのものを失っていたでしょうか。私が途中で諦めてそれらを投げ出し、したがって、同じことをもう一度、次の転生でやらなくてはならなかったとしたら――。そう考えただけで、恐ろしさに身震いする程です。

我が友人諸君よ、よくよく次の真理を体得して頂きたいのです。すなわち、『問題は、死んでから幸福になれるかどうかだ』ということです。地上における苦しみで、死後の生活の幸福を購えるとすれば、決して高い買い物ではありません。無限の時間を前にしては、地上でのほんの短期間の苦しみなど、本当に何ほどのこともないのです。

今回の私の人生は多少の評価に値するとしても、それ以前の人生は酷いものでした。今回、地上で一生懸命に努力したお陰で、ようやく今のような境地に至ることが出来たのです。過去世でのカルマを解消する為に、今世、地上において数多くの試練をくぐり抜ける必要があったのです。私はそれを潔く引き受けました。ひとたび決意したからには弱音を吐く訳には参りませんでした。

今、そうした試練をくぐり抜けることが出来て、本当によかったと思います。地上での試練を今では祝福したいくらいです。それらの試練を通じて、私は過去と決別出来たのであり、今では過去は私にとって単なる思い出でしかなくなりました。今後は、過去に辿った道を、正当に手に入れた満足感と共に心静かに眺めることが出来るでしょう。

私を地上で苦しめた人々よ、私に辛く当たり、私に悪意を向けた人々よ、私を侮辱し、私に苦汁を飲ませた人々よ、虚偽によって私の財産を奪い、私を窮乏生活に追い込んだ人々よ、私はあなた方を許すのみならず、あなた方に心から感謝いたします。

あなた方は、私に悪を為しながら、実はこれほどの善を為していたなどとは、到底知るべくもなかったでしょう。今私が享受している幸福の殆どは、あなた方のお陰なのです。あなた方がいてくださったからこそ、私は許すことを学び、悪に報いるに善をもってすることを学ばせて頂いたのです。

神は、私の進む道にあなた方を配し、私の忍耐心を試してくださったのです。そして、[敵を愛する]という、最も難しい愛の行為が出来るようにと、私に貴重な修行の機会を与えてくださったのです。

さて、長々と前置きをしてしまいました。それでは、お尋ねの件に戻りましょう。

生前、最後の病気ではひどく苦しみましたが、臨終に際しては苦しみはありませんでした。私にとって、死とは、戦いでも脅威でもなく、丁度眠りのようなものでした。死後の世界に何の不安もありませんでしたので、生にしがみつくこともありませんでした。したがって、生命が消えようとする最後の瞬間に、じたばたすることもなかったのです。肉体からの魂の分離は、私が知らない間に、苦しみもなしに、また努力もなしに行われました。

この最後の眠りがどれ位の間続いたのかは分かりません。眠りに入る直前とは全く違い、すっかり落ち着いて目覚めました。もう苦しみはなく、喜びに満ちていました。起き上がって歩こうと思いましたが、全身が心地良く痺れており、なかなか起き上がることが出来ませんでした。自分がどのような状況にあるのか全く分かりませんでしたが、とにかく地上を去ったということだけははっきりしていました。丁度夢を見ているような感じでした。

私の妻と数人の友人が部屋で跪いて泣いているのが見えましたので、私が死んだと思い込んでいるのだということが分かりました。そうではないことを分からせてやろうとするのですが、なぜか一言も言葉が出ません。

周りを見ると、ずっと昔に亡くなった、愛する人々が、静かに取り囲んでくれていました。また、一見しただけでは誰なのか分からない人々もいました。そうした人々が、じっと、私を見守り、私の目覚めを待ってくれていたのです。

こうして、覚醒状態とまどろみ状態が交互にやってきましたが、その間、意識を取り戻したり失ったりしていました。やがて徐々に意識がはっきりしてきました。霧に遮られたようにしか見えなかった光が、輝きを増してきました。自分のことがよく分かるようになり、もう地上にはいないのだということが本当に理解出来ました。もし霊実在論を知らなかったら、錯覚がもっとずっと長く続いていただろうと思います。

私の遺骸はまだ埋葬されていませんでした。それは哀れな様子をしており、私はようやくそんな肉体から解放されたことに喜びを感じていました。自由になれてもの凄く嬉しかったです。瘴気の充満する沼地から脱出した人のように、楽々と呼吸が出来ました。私の存在全体に、筆舌に尽くし難い幸福感が浸透してきました。

かつて地上で私が愛した人々が側にいてくれるということが、私を喜びで満たしていました。彼らを見ても何も驚きませんでした。全く自然に感じられたからです。ただ、長い旅の後で再び彼らに会った、という感じでした。一つびっくりしたのは、一言も言葉を交わさないのに、意思の疎通が出来るということでした。目を見交わしただけで、思いが伝わってくるのです。

とはいっても、まだ地上の思いを完全に脱していたわけではありませんでした。地上で耐え忍んだことが色々と思い出され、新しい状況をよりよく理解する為のよすがとなりました。

地上では肉体的にも苦しみましたが、やはり精神的な苦悩の方が大きかったのです。数多くの悪意を向けられた結果、現実の不幸よりももっと辛い数多くの困難に晒されたのです。困惑というのは、持続的な不安を生むものです。そうしたことが未だに心から完全に消えておらず、本当に解放されたのかどうか心配になる程でした。まだ不愉快な声が聞こえるような気がしました。私をあれ程度々苦しめた困惑を未だに恐れており、われにもなく震えているのです。夢を見ているのではないかと何度も腕をつねりました。

そして、ついに、そうしたことが全て終わっているのだという確信を得た時は、本当に大きな重しが取れたような気がしました。『一生、私を苦しめ続けた全ての心配から、ようやく解放されたのだ』と思い、心から神に感謝したのです。

私は、丁度、ある日突然とてつもない遺産を手にした貧乏人のような気分でした。暫くの間は、それが本当だとは信じられず、明日の食事の心配をするのです。

ああ、地上の人々が死後の世界を知ることが出来たら、どんなによいことでしょうか。そうすれば、逆境にあって、どれほどの勇気、どれほどの力が得られることでしょう。地上で神の法に素直に従った子供達が、天国でどれほどの幸せを得られるかを知っていれば、どんなことだって我慢出来ます。死後の世界を知らずに生きた人は、『自分の怠慢によって天国で失うことになる喜びに比べれば、地上にいる間に手に入れたくて仕方がなかった他人の喜びなど、本当に何程のこともない』ということを思い知らされるのです」

――それほど新鮮な世界に還り、「地上など何程のこともなかった」ということを知って、かつての親しい友人達にも再び会えた今、家族や地上の友人達のことは、もう多分霞んできていることでしょうね。

「私がもし彼らのことを忘れたとすれば、今味わっている幸福に相応しくない人間になってしまうでしょう。神はエゴイズムには報いず、罰を与えるのです。確かに、天上界にいると地上は厭わしく感じられますが、地上にいる仲間まで厭わしくなるわけではありません。お金持ちになったからといって、貧乏時代の大切な仲間のことを忘れるでしょうか?

友人や家族にはこれからもしばしば会いに行くつもりです。彼らが、私について、よい思い出を持っていてくれるのは、大変嬉しいものです。その思いが私を彼らのもとに引き寄せます。彼らの会話に聞き入り、彼らの喜びを喜び、彼らの悲しみを悲しむのです。

ただし、地上の人間と同じようには悲しみません。というのも、そうした悲しみは一時的なものであり、より大きな善の為であることをよく知っているからです。『彼らもやがては地上を去り、苦しみの一切存在しない、この豊かな美しい世界の住民になる』と思うと、本当に幸せになるのです。

私がひたすら為すべきなのは、彼らがそういう世界に値する人になれるようにと手助けすることです。彼らが常に善き思いを持つことが出来るように、特に、私自身が神の意思に従って得ることが出来た諦念を、彼らもまた得ることが出来るように、私はひたすら努力するつもりでいます。

私にとって最も辛いのは、彼らが、勇気が足りない為、また、不平不満の心を持っている為、さらに、死後の世界に対して疑いを持っている為に、天上界に戻るのが遅れることです。ですから、彼らが間違った道に逸れていかないように、一生懸命、導くつもりです。

もし成功すれば、それは私にとっても非常な幸せとなるでしょう。何しろ、この世界で一緒に喜び合うことが出来るのですから。もし失敗したとするならば、後悔の念と共に、『ああ、また彼らは遅れをとったのだ』と思うことになるでしょう。とはいっても、何度でもやり直しが利くということを思い出して、心は治まるだろうとは思いますが」

(4) 永遠のただなかで生きる喜び――ヴァン・デュルスト氏
元公務員。一八六三年、アンヴェールにて、八十歳で死亡。

氏の死後、少ししてから、霊媒が氏の指導霊に「氏を招霊したい」と申し出たところ、次のような返事が来た。

「この霊は、徐々に死後の混乱から脱しつつあります。そろそろ招霊に応じることは可能だと思いますが、恐らくそれはかなりの苦痛を引き起こすことになるでしょう。ですから、あと四日程待って頂きたいのです。四日後に、あなた方のお気持ちを彼に伝えましょう。きっと友人として招霊に応じてくれるはずです」

四日後に、氏の霊が降りてきて次のように語ってくれた。

「友よ、今回の私の人生は、永遠の収支決算表の中ではほんの僅かな重みしか持っていません。とはいっても、不幸というわけでは全くないのですよ。私は現在、慎ましい状況に身を置いております。悪いことは殆どしなかったけれども、かといって、善いことをしたわけでもなかったからです。ささやかな世界で幸せになる人がいるとすれば、それが私であると言ってよいでしょう。

後悔することがあるとすれば、たった一つ、あなた方が現在知っていることを生前知らなかったということだけです。それを知っていれば、死後の混乱はもっと軽いものになっていたでしょう。知らなかった為に、かなり大変でした。生きているのか生きていないのか、分からない状態に陥ったからです。

自分の体が見え、それに強く執着しているのだけれども、その体を使うことが出来ない。愛する人達が見えるのだけれども、その人達と自分を結びつける絆が消えていく。なんと恐ろしいことでしょう。ああ、本当に残酷な瞬間でした。

麻痺状態に陥り、そして意識の闇が来る。次の瞬間には虚無の感覚に襲われます。[私]という感覚はあるのですが、それをちゃんと取り戻すことが出来ない。もう存在していないようにも思われるし、一方では存在しているのが分かる。でも深い混乱の中にある。その後、どれほど続くのか分からない期間、どんよりした重苦しい苦悩に包まれる。無限とも思われる、そうした時間が過ぎると、最早感じる力も残っていない。

それから徐々に生まれ変わるのです。つまり、新しい世界の中で目を覚ますということです。もう肉体はなく、地上の人生が終わる、すなわち、不滅の生命を得るのです。周りには、肉体を持った人間は一人もいません。軽やかな形態の人間、すなわち霊人達が、自分の周りに、あらゆる方向に見えます。しかし、その数は無限なので、全ての霊人を目で捉えることは出来ません。目の前の空間は、思い一つで移動することが可能です。周りにいるどのような存在とも、思いを交わすことが出来ます。

ああ、友よ、何という新たな人生、何という輝かしい人生でしょう。何という喜びでしょうか。何という救済、何という救い、永遠のただ中で生きられるとは!

私をかくも長い間縛り付けていた地上よ、さらば! 私の魂の本性からかくもかけ離れている地上よ、さらば! もうお前には用はない。お前は流刑の地、そこにはいかなる幸福もないに等しい。

しかし、もし私が霊実在論を知っていたならば、あの世へのこの移行は、もっと遥かに簡単で、快適なものとなっていたはずなのです。後になって、肉体から魂が分離する時になってようやく知ったことを、死ぬ前に知っていたならば、私の魂はもっと楽に体から離れることが出来たでしょう。

あなた方は霊実在論を伝え始めていますが、まだまだ充分ではありません。私の息子にも教えて頂きたいのです。どうか教えてあげてください。そして、彼がそれを信じ、啓発されたら、どれほどよいことでしょうか。そうなった暁には、彼がこちらに来た時に、離れ離れにならずに済むのです。

それでは、皆さん、さようなら。友人達よ、さようなら。私はこちらの世界で皆さんをお待ちしています。そして、皆さんが地上にいる間、こうして時々降りてきては、皆さんの側で一緒に勉強するつもりです。というのも、私は、まだ、皆さんと比べても大したことを知っているわけではないからです。

もっとも、こちらには移動を邪魔するものは何もないし、力を奪う加齢ということもないので、どんどん学びは進むとは思いますが、こちらでは、のびのびと生き、自由に進化出来ます。遥か彼方には、本当に美しい地平線が広がっており、どうしてもそちらへと行きたくなるのです。それでは、これで、さようなら」

(5) 死後も友の健康を気遣う医者――ドゥルーム氏
一八六五年一月二十五日、アルビにて死亡。

ドゥルーム氏は、アルビの著名なホメオパシー(病気の症状と同じような症状を引き起こす物質を、ごく微量与えることによって病気を治す療法。同種療法とも言われる)の医者であった。その人格と知識により、多くの市民の尊敬を集めていた。人々に対する善意と慈愛は尽きることがなく、高齢であったにもかかわらず、貧しい患者を精力的に往診し続けた。

治療費を楽に払える患者よりも、治療費を払えない患者を優先した。というのも、前者は望めばいくらでも他の医者に診てもらえるからである。貧しい患者には無料で薬を与えただけでなく、しばしば物質的な援助も行った。それは、ある場合には、最も治療効果を発揮することがあった。
むしろ、医療技術を備えた司祭だった、と言った方がよいかもしれない。

氏は霊実在論の教義を熱烈に支持していた。「それまで、科学や哲学によって解決しようとして、ことごとく失敗してきた由々しき問題を、見事に解決する鍵が霊実在論にある」ということが分かったからである。深い理解力を示す、探求心旺盛な彼の精神は、直ちに霊実在論の射程を見抜いた。そして、霊実在論を熱心に広めようとしたのである。文通による生き生きとした相互関係が、我々との間に築かれた。

我々がドゥルーム氏の死を知ったのは、一月三十日のことであった。我々の頭をまず過ったのは、彼と交信することであった。以下が、その結果である。

「私です。生前、お約束した通り、こうしてやってきました。師にして友人のアラン・カルデック氏の手を握る為です。

死によって私は一種の嗜眠(しみん)状態に陥りましたが、意識の一部は目覚めて自分を観察していました。死後の昏睡状態が長くなるのを防ぐ為、私は自分を揺り起こしました。それから一気に旅をしました。

何という幸福でしょう。私は最早年老いてもおらず、体が不自由でもありません。肉体を脱ぎ捨てたからです。私は霊として、永遠の若さに美しく輝いています。霊には、皺が寄ることもなく、白髪が生えることもありません。私は小鳥のように軽やかに、淀んだ地上から霊界へと飛んでいったのです。

そして、神の智慧、叡智、偉大さを前にして、また、私を取り囲む驚異を前にして、ちっぽけな存在として、感嘆し、祝福し、愛し、跪いたのです。

私は幸福です。私は今栄光の中にいます。選ばれた者達に与えられるこの場所の壮麗な美しさを表現する言葉はありません。空が、惑星が、太陽が協力し合って、言語を絶した宇宙的な調和を醸し出しています。

しかし、我が師よ、私は言葉でそれを言い表すべく試みてみましょう。それをしっかり探求し、私の霊としての認識を、称賛を込めてあなた方地上の人々に伝えてみましょう。
それでは、後ほどまた」

以下に示す、二月一日と二日の両日にわたる霊示は、当時私が患っていた病気に関するものである。個人的な事柄に関する霊示であるが、あえてここに収録してみた。というのも、それらは、ドゥルーム氏が、かつて人間であった時に優れた医者だったのと同様、霊になってからも優れた医者であることを示すものだからである。

「我がよき友よ。我々を信頼し、勇気を出してください。この発作は、疲労を伴い、苦痛に満ちていますが、それほど長くは続きません。処方箋に従って治療をすれば、病状は軽減し、今回のあなたの人生の目的を完成させることが出来るでしょう。

私は、[真実の霊]から許可をもらい、彼の名を使って通信を送りました。多くの友人達が、そのようにしているのです。彼らは私を快く仲間として迎えてくれました。

我が師よ、私は丁度よい時期に死亡し、このようにして彼らと共に仕事が出来ることを大変嬉しく感じています。もっとも、私がもっと早く死んでいれば、きっと、今回のこの発作を回避させることが出来たと思います。地上では、この発作を予知することが出来ませんでした。

少し前だと、私は肉体から離脱したばかりで、精神的なこと以外に手を貸すことは出来ませんでした。しかし、現在では、こうしてあなたの健康状態に積極的に関わることが出来ます。私はあなたの兄弟であり、友人であり、こうしてあなたの側にいて、あなたの病気を治すお手伝いが出来ることを幸福に感じています。

しかし、あなたもよくご存知のように、『天は、自らを助ける者を助ける』のです。したがって、よき霊人達の処方箋に忠実に従うことで、自らを助け、彼らの治療に協力してください。

ここは少し暑すぎます。この石炭は質がよくありません。病気の間は、この石炭は使わない方がよいでしょう。有毒ガスが発生していますので、体によくありません」

「カルデック氏の友人であるドゥルームです。彼を襲った発作の現場に私はおり、発作に介入して被害を最小限に食い止めました。それが出来たことを大変嬉しく思います。

確かな源泉からの情報によりますと、彼が早めに今回の人生を終えた場合、やり残した使命を果たす為に、直ぐにまた地上に転生しなければならなくなります。彼は、地上を去る前に、現在進行中の作品にさらに手を加え、その理論を完成させなければならないのです。

しかし、もしペースダウンをせずにこのままの調子で仕事を続けるならば、必ず健康を害し、予定より早く霊界に還ることになってしまうでしょう。そうなった場合、自殺のそしりを免れません。彼にこのことをはっきりと告げてください。そして、我々の書いた処方箋に逐一従い、健康に、充分、留意して頂くのです」

次の霊示は、死の翌日の一月二十六日に、彼が生前モントーバンで組織していた霊実在主義者のサークルに降ろされたものである。

「アントワーヌ・ドゥルームです。私は、多くの人々にとっては死んだことになっていますが、あなた方にとっては死んではいません。というのも、あなた方は、霊実在主義の理論を知っているからです。

私は幸福です。想像していた以上に幸福です。なぜなら、まだ肉体を離れてからほんの僅かしか経っていないにもかかわらず、既に霊としてかなり高いレベルで覚醒しているからです。

我がよき友人達よ、どうか勇気を持って欲しい。私はこれからもしばしばあなた方の側に降りてきて、肉体に宿っているかぎり知ることの出来ない多くのことをお教えしましょう。哀れな肉体のせいで、あなた方は、かくも素晴らしい世界、かくも喜びに満たされた世界を知ることが出来ないのです。この幸福を知ることが出来ずにいる人々の為に祈ってあげてください。というのも、彼らはそれと知らずに自分自身に対して悪を犯しているからです。

今日はそろそろ失礼しますが、こちらの世界で私は全く違和感なく寛いでいるということをお伝えしましょう。まるで、ずっと住んでいたかのようです。私は霊界でとても幸福です。というのも、こちらには友人がたくさんおり、話したいと思えばいつでもすぐ話すことが出来るからです。

友よ、どうか泣かないでください。あまり泣かれると私も辛くなります。全て神にお任せしましょう。やがては皆さんもこちらにやってきて、こちらで全員集うことが出来るのですから。

それでは、今日はこれにて。皆さんに神の慰めがありますように。私は常に皆さんの側におります」

次に、モントーバンから来た一通の手紙を紹介しよう。

「私達は、霊視の利く、夢遊病タイプの霊媒であるG夫人には、ドゥムール氏が亡くなったことを教えずにいました。彼女は感受性が異常に強いので、そのことを気遣ったのです。幸い、ドゥムール氏と、気を利かせてくださって、我々のところに姿を現した際に、彼女には見えないように取り計らってくださいました。

二月十日のことですが、前日から捻挫の為に苦しんでいたG夫人を慰める為に、指導霊を招いて交霊会を催しました。この時に、予期せぬ、驚くべきことが起こりました。夢遊状態になるや否や、G夫人は、自分の足を指差して、鋭い叫び声を上げたのです。

G夫人は、一人の霊人が、自分の足の上にかがみ込んでいるのを見たのです。しかも、その姿ははっきりとは見えませんでした。

その霊は彼女の足をマッサージしてくれ、時折、医者であれば必ずするであろうように、病変部を引き伸ばしてくれました。しかし、それがあまりにも痛かったので、夫人は大声を上げたり、体を震わせたりしていました。もっとも、そうした騒ぎもそれほど長くは続きませんでした。十分もすると、捻挫のあらゆる兆候は消え去り、晴れが完全に引き、足は元の状態に戻ったからです。こうして治療が終わりました。

とはいえ、その霊は相変わらず誰だか分かりませんでした。姿をはっきり見せないのです。ほんの数分前までは、足が痛くて一歩も歩けなかった夫人が、小走りで部屋の真ん中まで行って、その霊人の医者と握手しようとしたところ、その霊人は逃げ出すそぶりさえ見せました。手を握らせはしたものの、顔を背けており、自分が誰であるかを知らせようとはしませんでした。

次の瞬間、夫人は短い叫び声を上げ、気絶して床に倒れました。彼女は、それがドゥムール氏であることに気づいたのです。失神している間、彼女は数人の優しい霊人達の介護を受けました。ようやく彼女は霊媒の意識状態に戻り、彼らと握手を交わし、特にドゥルーム医師の霊とは強い握手を交わして愛情を示しました。それに応えて、氏は、治癒に役立つオーラを彼女に注ぎ込んでくれたのです。

なんと感動的でドラマティックな光景だったことでしょう。霊にとっても、人間だった時の役割を果たしていることが、これで明らかになりました。霊が現実の存在であり、幽体を使って、地上にいた時と同じように振る舞うということが、よく分かりました。

私達は、かつての仲間が、霊となった今も、相変わらず暖かい心と繊細な思いやりを持ち続けているのを知って、心底、感動いたしました。ドゥムール氏は、生前はG夫人のホーム・ドクターでした。夫人の感受性が異様に鋭いことを知っていましたので、まるで自分の子供であるかのように、彼女のことを気遣ってくれたのです。

霊が、かつて地上で愛していた人々に示す、こうした心遣いは、本当に感動的であり、また、死後の世界がどれほど慰めに満ちたものであるかを、我々に教えてくれるのではないでしょうか」

ドゥルーム氏の霊としての振る舞いは、氏の地上での立派で有用な生き方から充分に予想されるものであった。また、「氏が、亡くなって間もないのに、既に人の役に立つ為に活動を開始している」ということも、我々に多くのことを教えてくれた。

氏の高度な知性、優れた徳性によって、氏が非常に高い霊域におられることは明らかである。氏は幸福であり、しかも、その幸福は無為とは無縁である。死の直前まで患者の面倒を見ていた氏は、肉体から離れた直後に新たな仕事を開始した。

「霊界に還っても休息出来ないなら、死んだ意味がないではないか」と言う人がいるかもしれない。だが、死ねば、一切の心配から解放され、肉体の欲求を満たす必要もなくなり、不自由だった体は元に戻り、完全に自由で、思考と同じ速さで空間を駆け巡ることが出来、しかも、どれほど動いても全く疲れず、いつでも好きな時にどんな友人にでも会いに行けるのである。さらに、霊界では何であれ強制されるということがないし、どれほど長い間ぼーっとしていても、誰にも何も言われない。

しかし、直ぐにそうしたことには飽きてしまうだろう。そして、「仕事をしたい! 」と申し出るのである。直ちに答えが来るだろう。もし何もすることがなくて退屈しているのだったら、自分で仕事を探すのもよい。地上においてと同様、霊界においても、人の役に立とうとすればいくらでもその機会はあるからである。

その上、霊界の活動には限界がない。自分の好み、能力に応じて、必要とされる仕事を行い、満足を味わうのだ。仕事は、自己の向上に資するものであることが肝要である。

(6) 辛い時には私を呼んでください――ロシア人の医者
P氏はモスクワ在住の医者であり、その人徳と学識によって、多くの人々から尊敬されていた。

彼を招霊した人は、彼のことを直接知っていたわけではなく、その名声を知っていたにすぎない。そして、この霊界通信は、もとはロシア語でなされたものである。

――(招霊の後に)ここにいらっしゃいますか?
「はい、来ております。

私が死んだ日に、私はあなたに通信を送ったのですが、あなたは書くことを拒みましたね。あなたが私について言ってくださったことを私は聞いて、あなたを知るようになったのです。そこで、あなたのお役に立ちたいと思い、通信を試みたわけですが」

――そんなによい人であるあなたが、どうして死ぬ前にあれほど苦しまれたのですか?

「それは神様のお計らいです。神様は、そのようにして、肉体からの解放の喜びを二倍にしてくださったのです。その後、あっという間にこちらに連れてきてくださいました」

――死ぬということで、恐怖を感じませんでしたか?
「いいえ。神に全幅の信頼を置いておりましたので」

――肉体からの分離は苦しくありませんでしたか?

「はい、苦しくありませんでした。あなた方が『死の瞬間』と呼んでいるものも、何ということもありませんでした。プチン、という音がして霊子線が切れただけでおしまいです。その直後には、私の哀れな肉体から解放されて、すっかり幸福感に浸っていました」

――その後、どうなりましたか?

「私の周りに多くの友人達がやってきて、とても暖かく迎えてくれました。特に、私が生前助けてあげた人達が多くやってきました」

――今はどんなところにいらっしゃるのですか? どこかの惑星にいるのでしょうか?

「どこかの惑星にいるのではなくて、あなた方が『空間』と呼んでいる領域にいます。

しかし、そこには無数の段階があり、地上の人には到底想像もつきません。霊界には、本当に沢山の階層があるのです。地獄領域と言われるようなところから、最も浄化された美しい魂の住む領域まで、無限の階梯があります。現在私のいる所には、数多くの試練、つまり数多くの転生輪廻を経た後でないと来られません」

――つまり、そこに至る為に、あなたは数多くの転生を経験したというわけですね。

「それ以外にどんな方法があるというのでしょうか? 神によって打ち立てられた不変の秩序には、例外の入る余地はありません。

報いというのは、戦いに勝利を収めた後に初めて与えられるものではないでしょうか。そして、報いが大きいということは、必然的に戦いが大変だったということになりませんか? しかし、一回の転生はごくごく短いものでしかありませんから、戦いも、数多くの転生に分けて少しずつ経験するということになります。

私が現在、かなり高い、幸福な境地にいるということは、私が既に、数多くの戦いにおいて、神に許されてそれなりに勝利を収めてきた、ということを意味します」

――その幸福の根拠は何ですか?

「これは地上の人間に説明するのが最も難しいことの一つです。
現在、私が享受している幸福は、自分自身に対する限りない満足が根拠となっています。しかし、これは自分があげた功績に対する満足ではありません。もしそうだとすれば、それは傲慢ということになるからです。

そうではなくて、神の愛に浸ること、神の無限の善意に対する感謝に浸ることだと言えるでしょう。善を、そしてよきことを見る喜びだと言ってもいいでしょう。『神に向かって進歩している人々の為に、何らかの貢献が出来た』と言えることでもあります。自らの霊と神聖なる善が溶け合うことだと言ってもいいでしょう。自分より悟りの高い霊を見ることが出来、彼らの使命を理解することが出来、やがては自分もそうした境地に達することが出来ることを確信する、ということでもあります。

広大無辺な空間に燦然と輝く神聖な火が見えるのですが、それを覆っているヴェールを通して見てさえ目が眩むのです。

こんなふうに言って、あなた方の理解は得られるでしょうか? 例えば、この神聖な火を太陽のようなものだと想像したら、それは間違いです。

これは人間の言語ではとても説明出来ません。というのも、人間の言語によっては、記憶を通して、或は直観を通して知ることの出来る対象や物体、形而上学的な観念しか表現出来ないからです。それに対して、今お話しているのは、『絶対的な未知である以上、その記憶もなく、また、それを表現出来る言葉も存在しない』という類の事柄なのです。

しかし、一つだけ確かなことがあります。それは、『無限に向上出来るという事実を知ること自体が、既に一つの無限の幸福である』ということです」

――私の為に役立ちたい、と仰ってくださいましたが、それはどんな点においてでしょうか?

「あなたが不調な時に助け、衰弱している時に支え、心痛を感じている時に慰めてあげましょう。

あなたの信仰が、何らかの困難によって揺さぶられ、ぐらついた時には、私を呼んでください。神が私に与えてくださる言葉によって、私はあなたに神を思い出させ、神のもとに再びあなたを連れてまいりましょう。

あなたが持つ魂の傾向性によって、間違ったことをしそうになった時には、どうぞ私を呼んでください。かつてイエスは、十字架を負う時に、神によって助けられましたが、私も、あなたが自分自身の十字架を負うのを助けることにしましょう。

苦悩の重みに打ちひしがれる時、絶望に支配されそうになった時、そんな時には私を呼んでください。そんな時には、私はあなたに霊同士として語りかけ、あなたに課せられている義務を思い出させて、絶望の淵から救ってさしあげましょう。社会的、物質的な配慮によってではなく、あなたが私の内に感じるであろう愛によって、すなわち、救われるべき人々にお伝えする為に神が私に与えてくださった愛によって、あなたを救ってさしあげましょう」

―― 一体どういうわけで、あなたは私を守ってくださるのでしょうか?

「私が死んだ日に、あなたとご縁が出来たからなのです。その日に、あなたが霊実在主義者であり、よき霊媒であり、誠実な同志であることを知りました。地上に残してきた人々の中で、まず真っ先にあなたの姿が目にとまったのです。その時に、私はあなたの向上を助け、あなたの為になろうと決心したのです。また、そうすることによって、結果的に、あなたが真理を伝えようとしている人々の為に役立ちたいと考えたのです。

ご存知かと思いますが、神はあなたを愛しており、あなたを真理の伝道者にしました。あなたの周りで、多くの人々が、徐々にではありますが、信仰を同じくしつつあります。最も扱いにくい人達でさえ、少なくともあなたの言うことに耳を傾け始めました。やがて彼らもあなたの言うことを信ずるようになるでしょう。

辛抱強くあってください。道には躓きの石が沢山ありますが、どうかそれでも歩き続けてください。辛い時には、どうか私を杖の代わりに使ってください」

――そこまで仰って頂くと、恐縮いたします。

「勿論、あなたはまだ完全であるとは言えません。
しかし、反対者が卑劣な手段を使って邪魔しようとしているにもかかわらず、あなたは、それでもなお熱意を持って真理を述べ伝えんとし、あなたの話を聞く人々の信仰を支えんとし、慈悲、善意、思いやりを広めんとしています。また、あなたを攻撃し、あなたの意図を無視する人々に対して、怒りを爆発させようと思えば簡単に爆発させることも出来るのに、それを一生懸命に抑えています。

そうしたことが、幸いにも、あなたの欠点を補う働きをしているのです。そう、それは許しというカウンター・バランスなのです。

神は恩寵によって、あなたに霊媒としての能力を与えてくださいました。どうか、それを、あなた自身の努力によって、さらに優れたものとなし、隣人達の救済の為に、より効果的に使ってください。

今日はこれで帰りますが、どうかこれからも私を頼りにしてください。どうか、地上的な思いを静め、友人達と一緒に、さらに多くの充実した時間を過ごしてください」

(7) 十五世紀に生きた農奴の霊界での仕事――ベルナルダン
一八六二年四月、ボルドーにて。

「私は既に何世紀も前から忘れられた霊です。
私は地上において、悲惨と屈辱のうちに生きました。家族にほんの一切れのパンを食べさせる為に、毎日絶え間なく働いたのです。

しかし、私は、神を愛しておりましたので、神が私の地上での苦悩をさらに大きなものにした時に、神に次のように言いました。『神様、どうか、この重荷を、不平を言わずに負うことの出来る力を私に与えてください』と。このようにして私は償いを果たしたのです。

しかし、地上での厳しい試練を終えた時、神様は私に平和を与えてくださいました。そして、今私が最も強く願うのは、あなた方兄弟に、次のように言うことなのです。『地上で支払う代価がどれ程高くても、天国であなた方を待っている幸福は、それを遥かに凌ぐものなのですよ』と。

私には全く身分はありませんでした。子沢山の家に生まれ、生きる為には何でもしました。その当時、農奴は悲惨な境涯に置かれていました。あらゆる不正、あらゆる雑役、あらゆる負担を耐え忍びました。私の妻は暴行を受け、娘達は誘拐された後に捨てられました。息子達は、戦争に駆り出されて、略奪と殺人を行い、一方で、犯してもいない罪の為に吊るし首になりました。

私が、長い地上での生存の間に耐え忍んだことは、到底あなた方には想像出来ないでしょう。私は、地上にいる間、地上にはない幸福だけを待ち続けました。そして、ついに神様はそれを私に与えてくださったのです。

ですから、我が兄弟達よ、あなた方も、勇気と忍耐、そして諦念を持って生きてください。

我が子よ(霊媒に対する呼びかけ)、私が与えた、この実践的な教えを、大切にとっておきなさい。

『私はあなた方よりも多くの苦しみを耐え忍んだのです。不平不満を言わずに耐えたのです』と言うことの出来る人が教えを述べ伝えると、多くの人がそれを聞くものです」

――あなたが生きていたのはいつ頃ですか?
「一四〇〇年から一四六〇年迄です」

――それ以来、転生はしていないのですか?

「しております。宣教師として地上で生きました。信仰を伝える者として、それも、真実の、純粋な信仰、人間達が地上で作り上げた信仰ではなくて、神の手から直接出た信仰を伝える者として生きました」

――今霊として何か仕事をしているのですか?

「霊が何も仕事をせずにいると思っているのですか? 行動せずにいて無用であることは、霊にとってはむしろ拷問でさえあるのです。

私の使命は、霊実在論に基づいてつくられた労働者センターを指導することです。そこで、人々によきアイデアをインスピレーションとして降ろし、悪霊達が吹き込もうとする悪しきアイデアを中和するのです」

(8) 霊実在論の発展を予告する作家の霊――ジャン・レイノー
「友人の皆さん、こちらでの新たな生活は本当に素晴らしいですよ。霊界では、光の奔流の如き広大な流れの中に浸って、魂達は、果てしのなさにひたすら酔うのです。肉体の絆を断った後、私の目は壮大な水平線を一望に眺め、無限に広がる壮麗な景観に酔いしれています。物質の闇から抜け出すと、輝かしい夜明けに遭遇し、そこで全能の神を感じ取るのです。

私が救われたのは、私が地上で書いた作品のお陰ではありません。霊実在論から得た永遠の知識のお陰で魂を汚さずに済んだからなのです。一方で、残念なことに、多くの人々は、無知が原因で魂に汚れをつくってしまっています。

私の死は祝福を受けました。私の伝記を書く人々は、私の死が早すぎたと言うでしょうが、そうした人々は全く無知なのです。彼らは、私にもっと作品を書かせたかったと思うでしょうが、そんなことには意味がありません。彼らはまた、私の死が大騒ぎを引き起こさなかったことは、霊実在論の聖なる立場を守る為にはよいことであった、ということを決して理解しないでありましょう。

私の作品は完成しておりました。先輩諸作家は相変わらず書き続けていますが、私は、頂点を極め、人間が書き得る最も優れた作品を書いたと自負しております。さらにその先に進むことは不可能であったと言ってよいでしょう。

私の死は、文学的素養のある人々の注意を喚起し、彼らの意識を私の主要な作品に向けさせることになるでしょう。彼らは今までそれを無視するふうを装ってきましたが、今後は最早無視し続けることは出来ないはずです。

神に栄光がありますように。霊実在論を擁護している高級霊の援助を受けて、私もまた、あなた方の進む道を照らす明かりの一つとなりましょう」

パリにて。家族的な集いにおいて、自発的に与えられた霊示である。
その予期せぬ死――それは多くの人々を驚かせた――が早すぎた、との見解に対して、ジャン・レイノーの霊が答えたもの。

「霊実在論にとって、霊実在論の未来にとって、霊実在論のこれからのあり方にとって、私の死が損失であるなどと、誰が言ったのですか? 友よ、霊実在論の信仰がどのような道筋を辿ったか、どのようにして進んできたか、お分かりでしょうか?

神はまず物質的な証拠を与えてくださいました。動くテーブル、ラップ音、そしてあらゆる種類の物理的現象。それらは、まず人々の関心を引く為の導入部として必要だったのです。面白おかしい導入部でした。人々には、まず手で触ることの出来る証拠が必要だったのです。

しかし、現在では、状況は変わってきています。物理的な現象の後で、神は、知性に、良識に、冷徹な理性に語りかけ始めました。最早軽業は必要なくなったのです。理性に訴えることによって、最も頑固な無神論者さえ論破し、同意させる必要が出てきたのです。しかし、それとても、まだ始まりでしかありません。

よろしいですか、私が言うことによく注意してください。

今後、知的な現象、反駁の余地のない現象が相次ぎ、既に、ある程度の数に達している霊実在論の信奉者が、さらに増加することになるのです。輝かしい光が、抗い難い磁場となって地球全体に広がり、頑固に抵抗する人々さえも絶対の探求に向かわせ、この霊実在論という驚嘆すべき科学の研究へと赴かせることになっているのです。

あらゆる人々が、あなた方の周りに集い来たり、アカデミックな学位など投げ捨てて、謙虚に、恭しく霊実在論を学び、そして納得していくことでしょう。やがて、彼らの権威と名声を霊実在論の普及の為に用いることになるのは確実です。

それによって、あなた方は、今考えている限度を超えて、さらに先まで進むことが可能となります。過去の人生、未来の人生に関する、理性的で深遠な知識を獲得することによって、人類の再生が可能となるのです。
以上が、霊実在論の現状に関する私の展望です」

ボルドーにて。

――招霊を行います――

「あなたの呼びかけに応じて、喜んでやってまいりました。
そうです、その通りです。私にとって、地上からの呼びかけに応ずるに際し、霊的な障害は殆どないと言ってよいでしょう(これは、霊媒の思いに対して答えたもの)。

私は、こうして、自ら望んで地上にやってきて、大いなる真理の最初の種蒔きをするつもりでいます。私は地上のことを忘れたことはなく、こうして兄弟達に暖かく迎えられるのです」

――来てくださって本当にありがとうございます。

しかし、それにしても、あなたとお話がしたいという私の思いが、これほど早くあなたに伝わるとは思ってもみませんでした。私達の間には、誠に大きな隔たりがありますので、そんなに直ぐに思いが届くとは考えられなかったのです。

「私の試練が、いずれにしても、幸いなことに早めに終わったからです。こうして我々の間に距離が出来たとはいえ、常に我々を結びつけている共感という絆は存在するのです。しかも、あなたが常に思いを馳せてくださることで、この絆が確実に強くなっています」

――数多くの霊人が、霊界での目覚めについて、既に語ってくださっていますが、あなたにもお願いしたいと思います。あなたの霊界での目覚めはどのようなものだったのですか? 霊と肉体の分離はどのようにして行われたのですか?

「それでは、私もまた語ってみましょう。
私は、最後の解放の時が近づいてきていることを感じていました。私は、多くの人々よりもずっと強い幸せを感じており、自分がどうなるかという結果は既に知っていましたので、苦しみは少しも感じませんでした。最も、その結果は私が予想したよりも遥かに素晴らしいものでしたが。

肉体は、霊的な能力への障害となります。たとえどれほど強い光を持っていたとしても、地上においては肉体に邪魔されて閉じ込められ、その光は弱められてしまうのです。

最後の瞬間、私は、幸福な目覚めを期待しつつ眠りに就きました。

あっという間に目が覚め、後はただただ驚嘆するばかりでした。天上界の壮麗さが目の前に繰り広げられて燦然と輝いていたのです。私がその存在を確信し、素敵な住み心地に憧れていた世界の、無限の広がりの中に、私の視線はあてどもなく彷徨っていました。それはまさに、私の感覚の真実を私に明かし、確信させる類の荘厳な景観でした。

さて、人間は、いくら真理を確信していても、いざそれを話す段になると、心の中に疑いが生まれ、躊躇が生じるものです。自分が伝えようとする真理に対する疑いが頭をもたげ、或は、その真理を証明する為の不完全な手段に対して、心もとない気持ちになるものです。

人々に伝えたいと思っていた真理に対し、私自身は確信を抱いていたものの、正直なところ、いざその話題に触れることになった時には、勇気を奮い起こす必要がありました。正しい道を進む為にどうしても真理を信ずる必要のある人々に対し、それをいわば手で触れるような形で示すことが出来ないことを、密かに恐れていたのです」

――生前、あなたは霊実在主義を広めようとしていたのですか?

「それを広めようとすることと、実践することの間には、大きな違いがあります。多くの人々が、実践してもいない教義を広めようとしております。私は実践はしておりましたが、広めようとはしておりませんでした。

キリストの教えを実践している者は、それを自覚していないとしてもキリスト教徒でありましょう。同様に、自らの魂の不死性、前世の存在、絶え間なき向上、地上での試練、浄化の為の献身などを信じている者は、誰でも霊実在主義者であります。

私はそれらを信じていましたので、霊実在主義者だったと思います。私は霊実在論を理解していました。そして、実践はしていましたが、広めようとはしませんでした」

(9) 二十歳で病死した水先案内人――ヴィクトール・ルビュフル
ル・アーブル港の若き水先案内人で、二十歳の時に亡くなった。

ささやかな商売を営む母親と一緒に暮らしていたが、母親を本当に大切にし、細々と世話を焼いた。きつい仕事をして得た収入で家計を助け、キャバレーに行くようなことは絶えてなかったし、この職業に特有の暴飲暴食からも免れていた。というのも、お金を無駄に使わずに、敬虔な目的の為に使おうと心掛けていたからである。仕事をしている時以外は、店で母親を助ける為に精一杯働いた。少しでも母親の負担を取り除きたかったからである。

大分前から病気にかかっており、自分が死ぬことを自覚していたが、母親に余計な心配と負担をかけたくなかった為に、それを自分の心に秘め、一人で苦しみと戦った。欲望の燃え盛る年頃に、悪しき環境下で働いていたにもかかわらず、持ち前の性格の良さと、尋常ならざる意志の強さによって、清い生活態度を守った。敬虔な信仰心を貫き、その死はまさしく模範的なものであった。

死の前夜、彼は、母親に、「自分はこれから眠るので、少し休むように」と言った。

母親は、うとうとする中で、あるヴィジョンを見た。彼女は大きな部屋の中にいた。そこには小さな光の点があって、その点は徐々に大きくなっていった。やがて部屋中がその強烈な光で照らされ、その光の中から息子の姿が抜け出し、燦然と輝きながら、無限の空間へと昇っていったのである。彼女は、息子の死が近いことを悟った。事実、その翌朝には、息子の美しい魂は既に地上を去っていた。

息子の行状をよく知り、また、母親とも親しかったある家族――彼らは霊実在主義協会のメンバーであった――が、息子の死後少しばかり経ってから、息子の霊を招霊しようと考えた。すると招霊をするまでもなく、息子の霊が自発的に降りてきて、以下の霊示を送ってきた。

「私が今どういう様子なのか知りたがっているようですね。ああ、私は今、本当に幸せですよ。本当に幸せなのです。地上での辛い経験や苦悩は何ということもありません。というのも、それらは墓の彼方では祝福と幸福に変わるからです。

ああ、あなた方には幸福という言葉の本当の意味は分からないでしょうね。澄み切った意識状態で、義務をしっかり果たした奉仕者としての自信に満たされて、しかも同時に喜びにも満たされて、全ての全てである主の同意を求めつつ、主のもとに還っていく時、『地上で幸福と呼んでいたものなど、全く何ということもなかった』ということをしみじみ知るのです。

ああ、皆さん、死後がどうなるかを知らなければ、人生とは辛く困難なものです。しかし、これは誓って申し上げますが、もしあなた方の人生が神の法に適ったものであったならば、死後に待っているのは、想像を絶する報いなのです。それは、地上での苦悩や、あなた方が天の蔵に積んだと思っていた富を、遥かに遥かに凌ぐものであるのです。

ですから、どうか、善きことを為し、慈悲の心で生きてください。慈悲ということを多くの人は知りませんが、言い換えれば、思いやりということです。どうか隣人を助けてあげてください。『人にこうしてもらいたい』と思っている以上のことを、人の為にしてください。そうすれば、心が豊かになり、人から思いやりを示されるようになるでしょう。

どうか、私の母を助けてください。可哀想なお母さん、お母さんのことだけが唯一の心残りです。天国に還るまで、まだまだお母さんには試練が残っています。
それでは、さようなら。これからお母さんを見に家に帰ります」

霊媒の指導霊からのメッセージ:「地上にいる間に経験する苦しみは、必ずしもその全てが罰であるわけではありません。神の意志に従って、地上で使命を果たそうとする霊は、丁度、今霊示を送ってきた若者のように、喜んで数々の試練に耐えます。というのも、それらは償いの意味を持っているからなのです。霊界に還り、至高者の側で眠ることによって、彼らは再び力を取り戻し、神の栄光を実現する為の、全てに耐える力を得るのです。

この若者の今回の人生における使命は、確かに輝かしいものではありませんでした。しかしながら、目立たぬものであったが故に価値がなかったといえば、決してそうではないのです。決して慢心しないという生き方を貫いたからです。

彼はまず、家庭にあって、母親に対し、感謝の気持ちを示す必要がありました。さらに、悪しき環境にあっても魂を純粋に、高貴に保ち、強い意志によって、あらゆる誘惑に耐える必要があったのです。まず優れた資質があってこそ、そうした試練に打ち勝つことが出来るのですが、その意味で、この若者の生き方は、後から来る者達への大きな贈り物となることでしょう」

(10) 荒れくれ労働者一家に生まれた人生の意味――アナイス・グルドン夫人
優しい性格、高貴な精神が特徴的な女性だったが、一八六〇年に、大変若くして亡くなった。

サン・テチエンヌの近くの、石炭の鉱山で働く労働者一家に生まれたが、そのことが、彼女の霊としての立場に大きな影響を与えた。

――招霊します――
「はい、私です」

――あなたの旦那様とお父様のお願いがあったので、こうして招霊させて頂きました。お二人共、あなたからのメッセージが得られれば、大変喜ばれるでしょう。

「私自身も、メッセージをお送り出来れば、たいへん幸せです」

――あなたは、家族から本当に愛されていたのにもかかわらず、どうしてそんなに若くして天に召されたのですか?

「私の地上での試練が終わったからです」

――家族のところに行くことはありますか?
「ええ、しょっちゅう行っています」

――霊として幸せですか?

「私はとても幸せです。私は、希望を持ち、期待し、愛しているからです。天国には不安というものがありません。私は、確信と愛に満たされて、背中に白い羽が生えるのを待っているのです」

――羽とはどういう意味ですか?
「浄化を果たし、まばゆいばかりの天の使者になるということです」

[天使の背中に生えた羽は、勿論、天使の移動の速さを表す為の象徴でしかない。というのも、天使はエーテルで出来ている為に、空間を自由に移動することが出来、羽のようなものは実際には必要としないからだ。しかし、天使達が人間の前に姿を現す時は、人間の思いに応える為に、羽をつけた姿をとるのである。それは、別の霊達が、家族の前に出てくる時に、家族に分かり易いように生前の姿をとるのと同じことである]

――あなたのご両親に何かしてもらいたいことはありますか?

「あまりにも深く私の死を惜しんで、私を悲しませないで頂きたいのです。私は本当にいなくなってしまったわけではなく、それは両親も知っているはずです。両親に対する私の思いは、優しく、軽やかで、芳香を放っています。私の地上でのあり方は、一輪の花のようなものでした。花が早く散ったとしても、悲しむことはないのです」

――今のあなたの言葉は非常に詩的で洗練されています。地上で一介の労働者だった人の言葉とはとても思われないのですが。

「それは、話しているのが私の魂だからです。私の魂は過去世で様々なことを学んできました。

神様は、時に、繊細な、極めて女性的な魂を、荒くれ男達の間に送り込むことがあります。そうして彼らに繊細さということを学ばせるのです。もっとも、彼らには直ぐには分からず、繊細さを身につけるには時間がかかりますが」

神が人間に対して持っている慈しみがどのようなものであるかが、以上の、極めて論理的な説明からよく分かる。そうした説明を聞かないと、一見、異常とも思える事態を正確に理解することは出来ないかもしれない。

それにしても、荒くれた労働者達の間で育てられたにもかかわらず、この女性霊の話す言葉が極めて詩的で優美であることには、全く驚かされる。この場合とは反対のケースもしばしば見られる。つまり、未熟な霊が、最も進化した霊達の間に生まれることもあるのである。この場合には、目的は逆である。進化した人々の間で育つことによって、未熟な霊が向上していくことを、神は願っておられるのである。また、それが進化した人々に対する試練である、ということも有り得る。

そうしたことを、これほど的確に説明出来る哲学大系が、霊実在主義以外にあるであろうか?

第2章 天国と地獄のあいだにいる霊
(1) 死の直前に起きた驚くべき現象――サン・ポール侯爵
一八六〇年に死亡。

パリ霊実在主義協会のメンバーである妹の要請によって、一八六一年五月十六日に招霊した。

――招霊します――
「はい、私です」

――あなたの妹さんの要請によって招霊させていただきました。妹さんご自身も霊媒ですが、まだ訓練が足りないために自信がないようなのです。

「最善を尽くしてお答えいたしましょう」

――妹さんは、まず、あなたが幸福であるかどうかを知りたがっています。

「現在、私は遍歴中です。そして、この中間的な移行期にあって、完全な幸福を得ているわけでもないし、また、罰を受けているわけでもないのです」

――自分を取り戻すまでに時間は長くかかりましたか?

「長いあいだ混乱しておりました。ただ、私を忘れずにいて祈ってくださった方々がいたので、混乱状態から抜け出ることができました。この方々には本当に感謝しております」

――その混乱がどれくらい続いたか覚えていますか?
「いいえ、覚えておりません」

――すでに亡くなっているご家族のうちで、まずどなたにお会いになりましたか?

「父と母です。私が目覚めたときにそばにいてくれました。新しい生活に慣れるように案内してくれたのです」

――病気によって死期が近づいたとき、あなたはすでに、地上にいない人々とお話されていたようですが、どうしてそのようなことが起こったのですか?

「死ぬ前に、自分がこれから行くことになっているあの世についての啓示を得たのです。死ぬ直前には、霊が見えるようになっていました」

――死ぬ前には、幼児期のことが特に記憶に戻ってきていたようですが、それはなぜなのですか?

「人生の最後と初めは似ているからです」

――それはどういうことでしょうか?

「つまり、死にゆく人々は、人生の初期の純粋な日々を思い出し、それを再び見るということです」

――最後のころ、あなたの体に関して、あなたは常に三人称を使って話しておられましたが、それはどうしてですか?

「すでにお話ししたように、私はそのころ霊視が利くようになっていたので、肉体と霊とがはっきり区別できていたのです。もちろん肉体と霊は霊子線(れいしせん)で結ばれてはいますが、分離しているのがはっきりと分かったのです」

この点において、この人の死は他の人々のそれと特に違っていた。最後のころ、この人は常に次のように言っていたのである。

「彼は喉(のど)が渇いています。飲み物を与えてください」
「彼は寒がっています。何か上にかけてやってください」
「彼はどこそこが痛いようです」
そして、まわりの人が「だって、のどが渇いているのはあなたでしょう?」と聞くと、「いいえ、彼です」と答えるのだった。

肉体と霊が完全に分離していたことが分かる。〈私〉は霊として分離して存在しており、肉体の中にはもういない。したがって、飲み物を与えなければならないのは、肉体である〈彼〉にであって、霊である〈私〉にではない。こうした現象は、夢遊症においても観察される。

――死後に長いあいだ混乱していたということ、また、現在、遍歴中であるということから考えて、あなたはあまり幸せではないように思われますが。とはいえ、あなたの優れた資質からすれば、当然、幸福であってしかるべきであるように思われるのです。遍歴中の霊に、不幸な霊がいるように、幸福な霊もいるのではないですか?

私は移行期にあるということなのです。こちらでは、その人の徳はその本来の価値を取り戻します。そういうことで、もちろん、私の境涯は、地上にいたときとは比較にならないほど素晴らしいものになっています。しかし、私は常に善と美に対して深い憧(あこが)れを抱きつづけてきた魂なので、神の足元に飛んでいける日が来るまでは、とても満足するわけにはいかないのです」

(2) 無神論の信念を打ち砕いた臨死体験――医師カルドン氏
カルドン氏は、生涯の一時期を、捕鯨船付きの医師として海の上で過ごした。そして、唯物的な世界観を持ち、唯物的な生活をしていた。その後、J村に隠棲し、田舎医師としての余生を送った。

暫く前から、自分が心臓肥大にかかっていることを自覚しており、しかも、この病が治療不能であることを知っていたので、死の思いが心を占領し、憂鬱に襲われ、心が安らぐ時がなかった。死の二ヶ月程前、彼は自分が死ぬ日を予告した。

死期が迫ったことを悟ると、彼は家族を枕元に呼び寄せ、別れを告げることにした。母親、妻、三人の子供、そして親族が、ベッドの周りに集まった。妻が彼の体を支えている間に、昏睡状態に陥り、顔面蒼白となった。みんなは彼が死んだものと思った。

ところが、数分して彼は目を開いたのである。目はきらきらと輝き、顔も深い喜びに輝いていた。そして、彼はこう叫んだ。

「ああ、我が子達よ! 死とは、なんと美しい、なんと美しい、なんと素晴らしいものだろう。死は、何という恵みだろう! 何という素敵なことだろう。

私は一度死んだのだ。私の魂はどんどん昇っていった。高く、高く昇っていった。しかし、神が私に、『一度、家族のもとに帰り、次のように告げなさい』と仰ったのだ。

[死を恐れてはならない。死とは解放なのだ]

ああ、私の見たものの偉大さを描写することはとても出来ない。私の感じた印象を言葉で表すことは出来ない。お前達は到底それを理解することが出来ないだろう。

だが、子供達よ、このえもいわれぬ至福は、善き生き方をした人間に必ず与えられるものなのだよ。だから、思いやりを持って生きなさい。持っているものの中から、恵まれない人々にその一部を分けてあげなさい。

ああ、愛しい妻よ、お前には苦労をかけることになるね。治療費をまだ払っていない人々がいるが、あまり五月蝿く催促しないようにしなさい。そして、生活に困っている人の場合は、払えるようになるまで待ってあげなさい。払えない人の場合、支払いを免除してあげなさい。神様が必ず償いをしてくださるはずだ。

息子よ、しっかり働いてお母さんを支えてあげておくれ。正直に生き、家族を汚すようなことは絶対にしないように。私がおばあちゃんから受け継いだ、この十字架を、お前にあげよう。さあ、受け取りなさい。それを肌身離さず持ち歩き、いつも私のこの最後の忠告を思い出すようにしなさい。

子供達よ、お互いに助け合い、支え合って生きるのだよ。みんな調和して生きるように。自惚れたり、傲慢になったりしてはならない。

お前達に酷いことをする人を許しなさい。そうすれば、神様も、お前達を許してくださるだろう」

こう言って、今度は永久にその目を閉じた。その表情は本当に威厳に満ちていたので、埋葬されるまでの間、評判を聞いた多くの人々が見に来ては、感嘆して帰っていった。

次の霊示は家族の友人が得たものである。全ての人に読んでもらいたいと考えて次に掲げる。

――招霊します――
「はい、私はあなたのすぐ側におります」

――あなたの最後のご様子を伺い、感動いたしました。あなたの二度の死の間に起こったことを、もう少し詳しく教えて頂けませんか?

「私がその時に見たものをあなた方が理解出来るとは思われません。というのも、その短い間に、自分の体を離れた私が見たものは、およそ言語を超えたものだったからです」

――その時、どこに行っていたのですか? 地上から遠いところに行ったのですか? 他の星でしょうか。或は、広々とした空間に行ったのでしょうか。

「霊にとって距離は意味を持たないのです。何かよく分からない力に運ばれて、夢でしか見たことがないような、素晴らしい空の輝きを見たのです。あまりにも速く空間の中を移動したので、その間にどれくらい時間がかかったのかを言うことは出来ません」

――その時、かいま見た幸せを、今味わっているのですか?

「いいえ。出来ればそれを味わいたいと思いましたが、神はそれを許されませんでした。地上にあった時、心の奥から湧き上がってきた、恵みに満ちた聖なる言葉を、私はあまりにもしばしば無視したからです。

しかも、私は自分の死を受け入れることが出来ませんでした。

また、無神論の医師として、私は神聖なるものを一切否定しました。『魂が永遠である』などということは、私には、頭の悪い人々を騙す為の作り話としか思われなかったのです。とはいえ、『死後は虚無である』という考えは、私を苦しめ続けました。そして、一方で、常に自分が感じていた神秘的な力も否定し続けました。

哲学を学んでも、迷いから抜け出ることは出来ませんでした。哲学によっても、人間に苦悩と喜びを配当する神の偉大さを理解することは出来なかったからです」

――二度目に本当に死んだ時、直ぐに自分を取り戻すことは出来ましたか?

「いいえ。私の霊がエーテル界を移動していく間に、ようやく自分を取り戻すことが出来たのです。死の直ぐ後ではありません。しっかり目を覚ますまで、死んでから数日を要しました。

だが、神は私に恩寵を与えてくださいました。それがどのようなものであったか、これからお話してみましょう。

二度目に死んだ時点で、生前の無神論は既に姿を消していました。その頃には神を信じるようになっていたのです。いわゆる科学的思考が限界に行き着き、地上的な理性の果てに、私は神聖な理性というものを見出していたからです。神聖な理性によって、私はインスパイアされ、慰められ、苦悩にまさる勇気を与えられました。私はそれまで呪っていたものを祝福していたのです。そして、死は私にとっては解放でした。

神の御心は、宇宙と同じ位広いのです。神に祈る時、筆舌に尽くし難い慰めを得ることが出来ますが、この慰めは、我々の魂にとって、最も確かなものなのです」

―― 一度目の時、あなたは実際に死んでいたのですか?

「そうとも言えるし、そうでないとも言えます。霊が体から分離すれば、当然、肉体の火は消えます。しかし、霊がもう一度、肉体に戻れば、眠りを経験していた肉体には再び生命が戻ってくるのです」

――もう一度、肉体に戻ってきた時、あなたを肉体に結びつけている絆を感じましたか?

「感じました。霊と肉体を結びつける絆はなかなか切れるものではありません。絆が切れる為には、肉体が最後に強く身震いをする必要があります」

――最初の、数分間の見せかけの死の時、あなたの霊は、一時的にではありますが、特に混乱することもなく肉体から離れることが出来ました。それに対して、二番目の、本当の死の時は、何日間にもわたって混乱が続きました。最初の時は、魂と肉体の絆はより強固だったのですから、分離はもっとゆっくりしたものになったはずと思われるのですが、実際には逆でした。これはどういうわけですか?

「あなた方は、肉体に宿った状態の霊を何度も招霊したことがあり、そして霊から応答を得ているはずです。私の場合も、あれと同じことが起こっていたのです。神が私を呼び、神の御使いも私に『いらっしゃい』と言いました。私はそれに従ったわけです。

そして、私は神が私に特別にくださった恩寵に感謝しました。私は神の偉大さが無限であることを実際に見、そして納得したのです。

神様のお陰で、私は、本当に死ぬ前に、家族にメッセージを伝えることが出来ました。『善き生き方、正しき生き方をしなさい』と、心から言うことが出来たのです」

――あなたが肉体に再び戻られた時、非常に美しい、崇高な言葉を語られましたが、どこからあのような言葉が出たのでしょうか?

「あの言葉は、私が見たもの、聞いたものを反映していたのです。また、高級霊達が、私にインスピレーションを与え、また、私の表情にも影響を与えたのです」

――あの時、親戚の方々や家族に対し、あなたの言葉がどのような印象を与えたとお思いですか?

「あの言葉は衝撃的だったので、大変深い印象を与えただろうと思います。死を前にして嘘は通用しません。どれほど恩知らずの子供達であっても、死にゆく父の前では頭を垂れざるを得ないでしょう。墓に片足を入れかけた父親を前にして、聖霊の見えざる手によって触れられたら、子供達の心は、深い、真実の感動に浸されるはずです。

死ぬことにより、人間は神の正義にさらされ、神による報いを受けるのです。

私の友人達、私の家族は、神を信じておりませんでしたが、私が死ぬ前に発した言葉は信じるだろうと思います。あの時、私はあの世からの使者だったからです」

――あなたは、「臨死体験をした際にかいま見た幸福を、現在は享受していない」と仰いました。ということは、現在、不幸だということですか?

「いいえ、不幸ではありません。私は、死ぬ前には、心の底から神を信じるようになっておりましたので。神は、私の祈りと、神に対する絶対的な信仰を考慮に入れてくださったのです。私は完成への途上におり、かいま見ることを許された最終地点に、いつかは辿り着くことが出来ると思っています。

友人諸君、どうか、あなた方の運命を司っている、目に見えない世界に対して祈ってください。祈りによって、あらゆる世界に属する霊達が一体になることが可能になるのです」

――奥さん、そして子供さん達に、何か言っておきたいことはありますか?

「力強く、正しく、そして決して変わることのない神を信じなさい。祈りの力を信じなさい。祈れば心が軽くなり、必ず慰めが得られます。

また、慈悲の行為を為しなさい。それは地上に生まれた人間にとって、最も純粋な行いなのです。貧者の一灯は、神の前では最も価値あるものとなります。神は、貧しい人がほんの僅かでも差し出すことを、とても高く評価されます。金持ちがそれに匹敵しようとしたら、もの凄く多くを与えなければなりません。

あらゆる行為に、思いやりを込めなさい。人間は皆兄弟です。慈悲の行為を鼻にかけることなく、謙虚に与え合いなさい。

私の愛する家族達よ、これからあなた方は試練に直面することでしょう。しかし、神様が見ておられると思って、勇気を持って試練に立ち向かいなさい。

次のように祈るとよいでしょう。

『常に全てを与えてくださる、愛と善意の神よ、いかなる苦難の前でも尻込みしないように力をお与えください。愛に溢れた、優しい、思いやりのある人間にしてください。財産はなくても、暖かい心に満ちた人間にしてください。私達は地上において霊実在論を学び、あなたをよりよく理解し、あなたをさらに愛したいのです。

神よ、あなたの名は自由の象徴です。虐げられた人々が、あなたの名により自由を得、愛と許しと信仰を必要としている人々が、あなたの名により、それらのものを得ることが出来ますように』」

(3) 苦しみの世界から解き放たれたときの幸福感――エリック・スタニスラス
一八六三年八月、自発的な通信がパリ霊実在主義協会において受け取られた。

「暖かい心が生き生きと感じた感情は、どれほど私達を幸福にすることでしょう!

優しい思いは、物質界で、そして霊界で、呼吸し、生きているあらゆる存在に、救済の道を開くのです。救済力に溢れたあなた方のその香しい香りが、あなた方自身に、そして私達に、溢れんばかりに届きますように。あなた方全員を結びつける純粋な愛を見て、霊界にいるあなた方の兄弟達が、どれほど幸福に満たされるかを、どうすれば分かって頂けるでしょうか!

ああ、兄弟達よ、あなた方は、高尚かつ単純な優しい感情、ならびに善を、これからあなた方が踏破することになっている長い道の上に、どれほど数多く蒔き続けるよう要請されているか、ご存知でしょうか? そして、それら全ての苦労に対する報いが、あなた方がその権利を手に入れるよりもずっと前に、あなた方にもたらされるのだということをご存知でしょうか?

私は今晩の集いに最初からずっと参加しておりました。そして、全てを聞き、理解しましたので、今度は、私の方から、義務を果たすことにいたしましょう。すなわち、未熟な霊についての情報を差し上げることにします。

よろしいでしょうか。私は幸福からは程遠い境地におりました。無限の世界、広大な世界に還り、私の苦しみもそれだけ大きなものとなり、一体どれくらい苦しいのかも分からない位になりました。でも、神は有り難い方です。私が、悪霊達には侵入することの出来ないこの聖域に来ることをご許可くださったのです。

友人達よ、私はどれほどあなた方に感謝していることでしょう。どれほどの力をあなた方から頂いたことでしょう。
ああ、よき人々よ、なるべく頻繁に集いを開いてください。そして勉強してください。

こうした真摯な集いがどれほどの成果をもたらすか、とてもあなた方には想像出来ないでしょう。まだまだ沢山のことを学ばなければならない霊達、何もせずにいる霊達、怠け者の霊達、義務を忘れている霊達が、偶然から、或はその他の理由で、こうした場にやってくることがあるのです。そしてショックに打たれ、反省を始め、自分を見つめ、自分の正体を知り、到達すべき目標を垣間見、自分の置かれた辛い状況からどうすれば脱出出来るかを探求し始めるのです。

私は、今こうして、未熟で不幸な霊の心境を伝える役目を果たしていますが、そのお陰で私は大変な幸福を感じています。というのも、私が話しかけている皆様は心の暖かい人々であり、私のことを決して拒絶なさらない、ということが分かるからなのです。

ですから、心の広い皆様、どうか、今一度、私からの特別な感謝の気持ちを、そして、皆様がそれと気づかずに救っている数多くの霊達からの特別な感謝の気持ちを、受け取って頂きたいのです」

霊媒の指導霊からのメッセージ:「我が子達よ、この霊は、長い間迷っていた非常に不幸な霊です。今ようやく、彼は、自分の過ちに気がつき、悔い改め、そして、ずっと無視してきた神の方に向き直りました。現在は、幸福ではないけれども、苦しみから解放されて幸福を目指している境地にいる、と言えましょう。神は、彼がここに来て学ぶことをお許しになりました。

この後彼は、彼と同様に神の法を犯した霊達の所に行って、彼らを教育し、向上させる役目をすることになっています。それが、彼にとっての償いとなるのです。その後で、彼は天国の幸福を得ることになるでしょう。なぜなら、それを彼が望んだからです」

第3章 地獄で苦しむ霊
(1) エゴイスティックな霊への懲罰――ジョルジュ
一八六〇年一〇月、パリ霊実在主義協会において、ジョルジュという霊からメッセージが伝えられた。その中で、ジョルジュは、「罪のある者が霊界に還った場合、一般的にどうなるか」ということを報告している。

「意地悪な人間達、エゴイスティックで冷酷な人間達は、死ぬとすぐに、現在の状況、そして未来の運命に関して、凄まじい疑念に苛まれている。

彼らは周りを見回すが、まず最初は、意地悪をするいかなる対象も見つけられない為に、絶望の念に囚われる。というのも、悪霊にとっては、虐める対象を欠いた孤立と無為の状態は耐えがたいものだからである。

一方で、彼らは、浄化された霊達が住む領域に視線を向けることが出来ない。
周囲をじっくり眺めると、やがて、罰を受けている弱々しい霊達が見えてくる。やっと獲物を見つけたとばかり、彼らはその霊達に襲いかかる。

しかし、そんなことでは彼らの心は治まらない。そこで、飢えた禿鷹のように、地上に這いずり出てくるのである。人間達の中から、御し易そうな者を見つけ、憑依し、煩悩を掻き立て、神への信仰を弱め、完全に支配出来るようになった時に、この者に接触してくる人間達全員に対し、悪しき影響をふるい始めるのである。

こうした状態にある時、悪霊は殆ど幸福を感じていると言ってよい。彼らが苦しみを感じるのは、何もせずにいる時、或は、善が悪に勝っている時だけだからである。

だが、そうしているうちにも時間は経っていく。そしてある時、悪霊は、突然、闇に取り囲まれるのを感じる。そして行動範囲が狭まる。それまで麻痺していた良心が少しずつ目覚め、痛みと共に悔悟の気持ちが湧いてくる。じっとうなだれていると、渦巻きに運び去られ、聖書に書かれているように、恐怖のあまり身体中の毛が逆立つのを感じながら、彼は放浪を始める。

やがて、内部に、そして周囲にも、とてつもない空虚が生じる。ついに贖罪の時期がやってくる。

こうして、再び地上に生まれ変わることになる。地上で自分を待っている恐るべき試練が、蜃気楼のように視界に入る。退こうとするが、前進せざるを得ない。ぱっくりと口を開いた深淵に吸い込まれ、転げ落ちていくと、やがてヴェールが目の上にかかるのが感じられる。記憶が消されるのだ。

再び地上に生まれ、成長し、行動し、そして、また罪を犯す。『そうしてはならない』という、微かな記憶があるような気もするし、『こんなことをしたら大変なことになる』とも思うのだが、どうしても悪の道に入っていってしまう。

やがて悪にまみれ、力尽きて、死を迎える。祖末なベッドに横たわり、じっとしていると、忘れていた霊的な感覚が甦ってくる。目は閉じられているが、彼は一条の光を見、聞いたことのない音を聞く。手が痙攣して敷布にしがみつく一方で、魂は早く肉体から離脱しようと焦る。

周りを囲む人々に向かって叫ぼうとする。
『引き止めてくれ! 押さえてくれ! 嫌だ、行きたくない! 処罰が俺を待ち構えている! 』

だが、叫ぶことは出来ない。
やがて、唇が青ざめ、死が訪れる。すると、周囲にいる人々が言う。
『ああ、やっと逝ってくれたか』

彼には、それが全て聞こえる。肉体から離れたくないので、その周りに漂っている。

だが、何かの力に引っ張られて、否応なくそちらに引き寄せられる。そして、かつて見たことのある風景をまた見るのである。我を忘れて空間に躍り込み、隠れられる場所を探す。だが、もう逃げも隠れも出来ない。休むことも出来ない。他の霊達が、彼がなした悪と同じ悪を彼に対して行うからである。

こうして、彼を懲らしめ、あざ笑う。彼は恥じ入って逃げ惑う。

いつまでも逃げ惑っていると、やがて、頑な心に神聖な光が差し込み始め、あらゆる悪に勝利する神の姿が見えてくる。その神のお心に適うには、懺悔をし、償いをする以外にない」

意地の悪い人間の行く末に関して、これほど雄弁な、恐るべき、赤裸裸な説明は、かつてなされたことがないのではないか。こうした事実が示された以上、もはや地獄の業火や拷問という、伝統的なキリスト教がつくり出した幻影に頼る必要はないであろう。

(2) 容赦のない光に照らし出される生前の罪――ノヴェル
ノヴェルという霊が、生前知っていた霊媒に、次のように語りかけてきた。

「俺が死んだ時、どのように苦しんだかを、これから話してみよう。

死んだ時、俺の霊は、電子線で体に結びつけられていたが、これを切るのに、まず、えらい苦労をした。これが、最初の、耐え難い試練だった。俺は24歳で地上の生活におさらばしたが、この地上の命の影響は、俺が思っていたよりもしぶとく俺の中に残り続けた。

俺は地上での生活が諦められずに体を探し回っていたんだが、気がついてみると、周りを亡霊共に取り囲まれていたんで、びっくりし、恐怖に囚われた。

そして、段々、自分がどうなっているのかが分かってきた。自分が過去世で犯してきた罪が全て啓示のように意識に上ってきた。容赦のない光が射してきて、俺の魂の隅々まで照らし出した。一番恥ずかしいことまで明らかにされて、俺の魂が丸裸にされたような感じだった。俺は恥ずかしくて恥ずかしくてどうしようもなくなった。

そこから目を背けて、俺の周りにいる、前から知っている、しかし新たな獲物達に襲いかかることで、何とかそうした状況から逃げ出そうとした。
だが、エーテルの海に漂っている、光り輝く霊達が、俺には縁のない幸福ということを教えようとしているようだった。

影のような亡霊達がいて、ある者は絶望の淵に沈み、ある者は猛り狂っていたが、俺の周りに忍び寄ってきたり、地上を徘徊したりしていた。人間達は、いい気なもので、そんなこととはつゆ知らず、のんびりと動き回っている。

あらゆる種類の未知の感覚、或は既に知っている感覚が、同時に俺の中に流れ込んできた。抵抗し難い力に引きずられ、激しい苦悩から逃れようとしつつ、距離を超え、様々な領域を横断し、物理的な障害を乗り越えて移動していったが、自然の美しさも、天上界の輝きも、一瞬といえども、俺の引き裂かれた意識を安らかにすることは出来なかったし、永遠という観念が引き起こす恐怖を和らげることも出来なかった。

地上の人間も、物理的な拷問を目前にして体をおののかせることがあるかもしれない。しかし、地上では、どのような苦痛であっても所詮は一時的なものであり、そのうち、希望によって和らげられ、気晴らしによって緩和され、忘却によって消されるのである。

したがって、人間には、霊界にいる魂達が経験する、永遠に続くかと思われる、一切の希望を奪われた、悔い改めることさえ出来ない苦しみなど、到底理解することは出来ないだろう。

俺は、いつ終わるとも知れない永遠の間、時々かいま見る輝かしい高級霊達を羨みつつ、かつ俺を嘲弄し続ける悪霊共を嫌悪しつつ、また数々の愚行を犯す人間共を軽蔑しつつ、深い意気消沈と気違いじみた反抗の間を行ったり来たりしながら過ごしていたのである。

そうしているうちに、とうとうお前が俺を呼んでくれた。そして、初めて、俺は優しい気持ちになることが出来たのだ。俺は、お前の指導霊がお前に授けた教えを聞いた。そして真理を悟り、神に祈った。そうしたら、なんと! 神は聞き届けてくださった。死の瞬間に正義を示されたように、今度は慈悲を示してくださったのだ」

(3) 快楽の追及に人生を費やした、ある遊び人の後悔
一八六二年四月一九日、ボルドーにて。

「私を体に結びつけていた鎖が切れたらしく、前よりも辛さは薄らいだように感じられる。とうとう自由になったわけだが、罪滅ぼしをしなくちゃいけないのは合点がいかない。でも、これ以上、苦しみを長引かせたくなかったら、無駄に使った時間を埋め合わせなくてはいけないわけだ。誠実に悔い改めさえすれば、神がそれを見て私を許してくれるに違いない。

私の為に祈ってください。どうか、お願いします。

友人達よ、私は『自分さえよければいい』と思って生きてきた。そして今、贖罪をし、苦しんでいる。私が怪我をしたトゲで、あなた方もまた怪我をしないように、神の恩寵を祈るばかりだ。主に向かう大道を、どうか歩いていってください。そして、私の為に祈ってください。ああ、私は、神が[貸して]くださった財産を自分の為だけに使ってしまった。何ということだろう!

動物的な本能に従う為に、神が与えてくださった知性とよき感情を犠牲にした者は、まさしく動物と同じで、厳しい扱いを受けても文句を言えない。人間は、自分に[委託]された財産を、節度を持って使わなければならないのだ。

人間は、死後に自分を待っている永遠の観点から生きなければならない。したがって、物質的な享楽への執着から離れる必要がある。食事は活力を得る為であるし、贅沢は、社会的地位に見合った程度に留めるべきなのだ。生まれつき備わっている嗜好や傾向性も、理性によって統御されなければならない。そうでなければ、浄化されるどころか、ますます物質的になってしまうからだ。欲望は紐のように人間を締めつけるものだ。欲望を募らせて、その紐をさらにきつく締めてはいけない。

生きるのはよいが、遊び人として生きてはならない。霊界に還った時に、それがどれほど高くつくか、地上の人間達には決して分からないだろう。地上を去って神の前に出る時は、素っ裸にされて何一つ隠すことは出来ない。地上で何をしたかが、全て明るみに出されるのだ。

だから、つまらない欲望に振り回されることなく、ひたすら善行を積むことをお勧めする。思いやりと愛に満ちて生きてほしい。そうすれば、そちらからこちらに来る時も、楽に境界を超えることが出来るはずだ」

霊媒の指導霊からのメッセージ:「この霊は、正しい道に戻りつつあります。というのも、悔い改めを行っているだけでなく、自分が辿った危険な道を辿らないようにと、あとから来る者達に教えているからです。間違いを認めること自体、既に大したことですが、他者に奉仕することで、さらに善に向かって一歩進むことが出来ればもっとよいのです。

だから、この霊は、幸福とまでは言えないけれど、もう苦しんではいません。彼は悔い改めを行いました。あとは、もう一度、地上に転生し直して、償いを果たしさえすればよいのです。ただし、そこに至るまでには、まだ経験しなければならないことが沢山あるでしょう。

『自らの霊性のことなど考えず、ひたすら官能的な生活を送り、やることといったら新たな快楽を発明するだけ』という生活を送った人間が、霊界でどのような状況に置かれるか、あなた方には分かったでしょうか?

物質的な影響は墓の彼方まで付きまとい、死んだからといってすぐ欲望が消えるわけではないので、地上にいた時と全く同様に、自分の欲望を満足させる手段だけを探し続けるのです。霊的な糧を探したことのない彼らの魂は、霊的な糧しかない霊界にあって、果てのない砂漠の中を彷徨う人間と同じように、完全な空虚の中を、あてもなく、希望もなく彷徨い続けることになるのです。

肉体を喜ばせることばかりして、精神的なことに一切関わることがなかったので、当然のことながら、死後も、霊が本来果たすべき仕事には全く無縁となります。肉体を満足させることは当然出来ず、かといって、どのように霊を満足させればよいかも分からないのです。

したがって、絶望的な退屈に陥り、それがいつ果てるとも知れません。
そこで、それくらいなら、むしろ消滅した方がよいと思うのです。ところが、霊を消滅させることは出来ません。肉体は殺すことが可能ですが、霊は殺すことが出来ないからです。

したがって、彼らは、そうした状況に飽き果てて、ついに神の方に目を向けることを決心するまでは、そのような精神的な拷問の中に身を置き続ける他ないのです」

(4) 傲慢は、猛毒を吐く百頭の蛇――リスベット
一八六二年二月一三日、ボルドーにて。

苦しんでいる霊が、リスベットという名のもとにメッセージを送ってきた。

――今どのような状況にあるのか、そして、あなたの苦しみの原因について、語って頂けませんか?

「心から謙虚になりなさい。神の意志に従い、試練に耐えなさい。哀れな人々を思いやり、弱き人々に勇気を与えなさい。苦しむ人々を暖かい心で包んであげなさい。そうすれば、今私が耐えている苦しみを味わうことはないでしょう」

――あなたが教えてくださった生き方と反対の生き方を、あなたは地上でされたようですが、現在はそれを後悔しておられます。悔い改めによって多少は楽になったのでしょうか?

「いいえ、そんなことはありません。苦しいからという理由で悔い改めたとしても、そんなことには意味がないのです。悔い改めは、神の意志に反したことに自ら気づき、それを償おうと熱心に思ってこそ意味があります。残念ながら、私はまだその域に達しておりません。

苦しむ者を助けようと思っている人々に、どうか、私の為に祈ってくださるようお願いしてください。私には祈りが必要なのです」

ここには大いなる真実が見られる。
人は、苦しいが故に、時に悔い改めの叫びを上げることがある。だが、その叫びには、悪をなしたことへの真の後悔は含まれていないのである。こういう人間は、苦しみから解放されれば、また同じことを繰り返すに違いない。

悔い改めたからといって、直ちに解放されない場合があるのは、ここに理由がある。悔い改めは、解放への入り口に過ぎないのだ。

自らが犯した悪を償うという新たな試練を通り越すことによって、誠意ならびに決意の固さを証明してみせなければならないのである。

我々が紹介しているあらゆる霊示を詳細に検討してみるならば、それが最も境涯の低い霊からのものであったとしても、そこに大変重要な教訓を見出すことが出来るだろう。なぜなら、そこには、霊界での生活が実に赤裸裸に語られているからである。

それらのメッセージは、物事を表面的にしか見られない者にとっては、単なる面白おかしい話に過ぎないだろうが、誠実で、思慮深い人間にとっては、汲み尽くすことの出来ない智慧の源泉となるのである。

――分かりました。その通りにいたしましょう。
ところで、地上にいた時の様子を少し詳しく教えて頂けませんか? 私達にとっても参考になりますし、あなたにとっても悔い改めのよき機会となると思いますので。

(霊は、この質問、そして、以下になされた質問に対して、大いにためらいの様子を見せた)

「私は、よい家柄に生まれました。人間にとっての幸福の元と思われるものは全て備えていました。しかし、お金持ちでしたが、エゴイストでした。美貌に恵まれていましたが、ひたすら身を飾り、性格は冷たく、よく嘘をつきました。高貴な心性も、野心に取って代わられました。私に服従しない者達を、容赦なく冷酷に追い出しました。また、服従している者達さえ、さらに踏みにじりました。
まさか、神の怒りが、この昂然と掲げた額に落ちるなどとは夢にも思わなかったのです」

――いつ頃生きていたのですか?
「五十年前のプロイセンにおりました」

――それ以来、霊として、全然、進歩はなかったのですか?

「ありません。物質的な影響を脱することが出来なかったのです。霊と肉体が分離したにもかかわらず、霊が物質的な影響をこうむり続けるということがあるのです。

この恐ろしさはあなたには分からないでしょう。傲慢という怪物に心を餌として与えた人間に、傲慢は、青銅の鎖となって絡み付き、しかも、その鎖の輪の一つ一つがどんどん縮んでいくのです。

また、傲慢は、百頭の蛇なのです。その頭は常に再生し、そこから吐き出される息は猛毒が含まれているというのに、あろうことか、私はその息の音を天井の音楽と錯覚していたのです。

ああ、傲慢とは、また、あらゆるものに姿を変える悪魔でもあるのです。この悪魔は、あなたの精神のあらゆる錯乱にぴったりと身を寄せ、心のひだに見を隠し、血管の中に入り込み、あなたを包み込み、のみ尽くし、そして地獄の永遠の闇の中に引きずり込むのです。そう、永遠の闇の中にです」

この霊は、「いかなる進歩もしていない」と言った。というのも、むごい状況が全く変わっていないからである。

しかし、傲慢についての描写を読み、その帰結について嘆き悲しんでいる様を見ると、進歩がないわけではないことが分かる。というのも、生前、或は死の直後であったなら、そのように考えることは、到底出来なかったはずだからである。今では、何が悪であったのかが分かっている。それだけでも既に大したことであろう。
あとは、悪を犯すまいとする意志と勇気が生じるのを待つのみである。

――神は、自らが創造した者達を永遠に罰するはずがありません。どうか神の慈悲に希望を持ってください。

「確かに、この苦しみには終わりがあるかもしれない。けれど、それはいつなの?私はずっとそれを待っているのよ。でも相変わらず苦しみがあるだけ。ずっと、ずっと苦しみだけなのよ! 」

――どうして今日はここにいらしたのですか?
「私に付き添ってくれている霊が連れてきてくれたのです」

――いつからその霊に気づくようになりましたか?
「しばらく前からです」

――ご自分が犯した過ちに気がつき始めたのはいつからですか?

「(長い間考えてから)そう――、確かにあなたの言うとおりだわ。霊が側にいるのが分かったのは、自分の過ちに気がつき始めてからですから」

――あなたの悔い改めと、あなたに付き添ってくれる霊の出現との間には、はっきりとした因果関係があるのではないですか? それは神の愛の表れではないでしょうか?
また、それは、あなたに対する許しと、無限の慈悲を意味するのではないでしょうか?

「ああ、もしそうであったらどれほど嬉しいことでしょう! 」

――苦しみのうちにある我が子の叫びを聞かないということが決してなかった神の、聖なる名の元に、私はそれをあなたにお約束することが出来ると思います。どうか、悔い改めて、心の底から神の名を呼んでみてください。きっと聞いてくださいますよ。

「出来ません――。駄目です。不安で、とても出来ません」

――では、一緒に祈りましょう。そうすれば、きっと聞いてくださいますよ。

(祈りの後で)まだいらっしゃいますか?
「ええ、います。ああ、本当にありがとう。どうか私のことを忘れないでください」

――いつでもまた戻ってきてください。
「ええ、ええ、必ずそうします」

霊媒の指導霊である聖ポーランからのメッセージ:「霊人達の苦しみから得た教訓、そして、そうした苦しみの原因から得た教訓を、決して忘れないようにしてください。そうした学びをしっかり自分のものにすることによって、彼らと同じ危険を冒したり、彼らと同じ処罰を受けたりするのを避けることが可能となるでしょう。

心を浄化し、謙虚となり、お互いに愛し合い、お互いに助け合うのです。そして、あらゆる恩寵の源泉、あなた方一人一人がいくらでもそこから愛を汲み出すことの出来る、涸れることのない源泉に感謝するのです。渇きを癒すと同時に養ってくれる生命の水の源泉に感謝するのです。

信仰心を持って、その泉から水を汲みなさい。そこに釣瓶を投げてごらんなさい。その泉から数多くのよきことが得られるでしょう。

それを兄弟達に分けてあげるのです。ただし、その時に、彼らが遭遇する可能性のある危険についても教えてあげる必要があります。主から頂いたよきもの、恩恵を、広く分ち合ってください。それは絶えることなく湧き続けます。あなたが周囲の人々に分けてあげれば、それはさらに自己増殖していくでしょう。

神からの恩恵を手に持ち、兄弟達にこう言ってあげるのです。
『ほら、あそこに危険が潜んでいますよ。ほら、そこに暗礁がありますよ。私達についてくれば、それらを避けることが出来ますよ。どうぞ私達を見習ってください。私達はお手本になりましょう』

そうすることで、あなた方は、主から頂いた恩恵を、あなた方の言葉を聞く人々に配っていることになるのです。

あなた方の努力が祝福されますように。主は、清らかな心を愛しておいでです。主の愛に敵う者となりなさい」

(5) 祈りは死後の苦痛を和らげる――パスカル・ラヴィック
一八六三年八月九日、ル・アーブルにて。

この霊は、霊媒がその生前の存在も名前も知らないのに、自発的にコンタクトをとってきた。

「私は神の善意を信じています。神は、わが哀れな霊に慈悲をかけてくださることでしょう。
私は苦しみました、本当に苦しみました。私は海難事故で死んだのですが、私の霊は肉体に執着し、いつまでも波の上をさまよっていたのです。
神――」

ここで、いったん霊示が途切れたが、翌日続けて次のようなメッセージが降ろされた。

「神のおかげで、私が地上に残してきた人々が、私のためにお祈りを上げてくださり、その力を得て、私は困惑と混乱から救い出されました。彼らは長いあいだ私を探しつづけ、ついに私の遺体を発見しました。私の遺体は葬られ、私の霊はようやく肉体から離脱し、地上で犯した過ちを見つめることになりました。試練を通過した私は、神によって正当に判断され、その善意が、悔い改める心に降り注ぐのを感じています。

私の霊はずいぶん長いあいだ肉体のそばをさまよっておりましたが、それは私が償いをする必要があったからです。

もし、死んだときに、あなたの体から霊をただちに分離させたいのだったら、どうか、まっすぐな道を歩んでください。神を愛して生きるのです。祈るのです。そうすれば、ある人々にとっては恐るべきものである死も、あなたがたにとっては優しいものとなるでしょう。というのも、あなたがたは、死後にあなたがたを待っている生活がいかなるものであるかを、すでに知っているからです。

私は海で死にましたが、家族は長いあいだ私を待ちつづけました。私はなかなか肉体から離れることができませんでしたが、それは私にとって本当に恐ろしい試練でした。

そういうわけで、私にとってはあなたがたの祈りが必要なのです、信仰によって他者を救う力を身につけたあなたがたの祈りが――、まさに私のために神に祈ることのできるあなたがたの祈りが――。

私は悔い改めています。ですから、神が私を許してくださるだろうと思えるようになりました。

私の遺体が発見されたのは八月六日です。私は哀れな船乗りです。ずいぶん前に遭難しました。
どうか、私のために祈ってください」

――どこで発見されたのですか?
「この近くです」

一八六三年八月十一日の「ル・アーブル新聞」には次のような記事が載った。当然のことだが、霊が降りてきた日には、霊媒はこの記事を知り得るはずもなかった。

≪今月の六日に、ブレヴィルとル・アーブルのあいだの海域で、人体の一部が発見された。この遺体は、頭と両腕を欠いていたが、両足に履(は)いていた靴によって身元が確認された。それは、アレトル号に乗っていて、昨年の十二月、波にさらわれて死亡したラヴィックであった。ラヴィックは、カレ生まれ、享年四十九歳であった。残された妻によって身元が確認された≫

この霊が九日に最初に出現したサークルで、八月十二日、メンバーがこの事件について話をしていると、ラヴィックが再び自発的に降りてきて次のようなメッセージを送ってきた。

「私はパルカル・ラヴィックです。あなたがたのお祈りを必要としています。どうかご支援をお願いいたします。というのも、私が受けている試練は恐るべきものだからです。

私の霊と肉体の分離は、私がみずからの過ちに気づくまで行われませんでした。しかも、全面的に分離が完成したわけではなかったのです。私の霊は、肉体をのみ込んだ海の上を漂っておりました。

神が私を許してくださるよう、どうかお祈りをお願いいたします。神に祈って、私を休息させてくださるようお願いしてください。どうかお願い申し上げます。

『地上で不幸な人生(のちに悔い改めを必要とするような心境で生きた人生)を送った者が、どのように悲惨な最期を遂げることになるか』ということは、あなたがたにとって本当に大事な教訓となるでしょう。死後の世界のことに思いを馳(は)せ、神に慈悲を乞(こ)うことを忘れてはなりません。
私のために、どうか祈ってください。私には神の哀れみが必要なのです」

第4章 自殺後の試練を受ける霊
(1) 婚約者の不実に激して自殺した男性――ルイと縫い子
七、八カ月前から、ルイ・Gという靴(くつ)職人が、ヴィクトリーヌ・Rという縫い子に言い寄っていた。そして、すでに結婚の告示がなされたことから分かるように、ごく近いうちに二人は結婚することになっていた。事態がここまで進み、二人はもう結婚したも同然の気分になっていたし、また、節約の意味もあって、ルイは毎日、彼女のところに食事をしに来ていた。

ある日、いつものようにルイがヴィクトリーヌのところで夕食をとっているときに、二人のあいだに些細(ささい)なことから口論が持ち上がった。二人とも譲らず、ついにルイが怒って椅子(いす)から立ち上がり、「もう二度と来るものか! 」と捨て台詞を吐(は)いて出ていった。

翌日になると、それでもルイは謝りに来た。夜のあいだに頭を冷やしたのだ。しかし、すっかり頑なになっていたヴィクトリーヌは、ルイが抗議しても、泣いても、絶望してみせても、頑(がん)としてはねつけた。何をしても説得に応じなかったのである。

仲たがいから数日たった。ルイは、ヴィクトリーヌの気持ちもそろそろ治まっただろうと思い、これが最後のつもりで彼女を説得しに行った。彼女の家に着き、二人のあいだで決めていたやり方でドアを叩(たた)いた。しかし、ドアは開けられなかった。そこでルイは、ドア越しに、また新たに懇願(こんがん)し、新たに抗議した。だが、何をしても、すっかりかたくなになってしまったヴィクトリーヌは心を開かなかった。

「そうか、そんなに意地を張るなら、もういい。分かったよ。これでおしまいさ! 永久にお別れだ。俺以上におまえを愛してくれる別の男を見つけるんだな! それじゃあな! 」

それと同時に、ヴィクトリーヌは押し殺されたうめき声のようなものを聞いた。それから、ドアを激しくこするような音がして、その後、完全に静かになった。

ヴィクトリーヌは、ルイはドアの前で待つつもりなのだと思い、ルイがそこにいるかぎり、絶対に外には出まいと思った。

十五分ほどしたとき、借家人の一人が明かりを持って踊り場を通りかかった。そして、びっくりした声を上げ、「誰か来てくれ! 」と叫んだ。隣人たちが駆けつけ、ヴィクトリーヌもドアを開けて出ていったが、そこにルイが青ざめて倒れているのを見て恐怖の叫びを上げた。

みんなが何とか助けようと試みたが、やがてそれが無駄であることを悟(さと)った。すでにルイはこときれていたのである。ナイフは心臓まで達していた。

一八五八年八月、パリ霊実在主義協会にて。

――(聖ルイの霊に対して)ヴィクトリーヌは、図らずも恋人を死に至らしめることになったわけですが、彼女に責任はあるのでしょうか。

「あります。彼女はルイを愛していなかったからです」

――では、悲劇を避けるためだったら、嫌気のさした男とでも結婚しなければならなかったのでしょうか?

「彼女はルイと別れられるよう、機会をずっとうかがっていたのですが、実は二人の関係が始まった時点からそうだったのです」

――ということは、「彼女はルイのことを愛してもいないのに、関係を続けた」ということですか? それではルイを弄(もて)んだことになり、そのためにルイは死んだのですか?

「まさしくそのとおりです」

――彼女の責任は、この場合、彼女の過ちの度合いに比例して大きくなると思うのです。意図的にルイを死なせたという場合に比べれば、まだ責任は小さいのではないでしょか?

「それはまったく明らかです」

――「ヴィクトリーヌのかたくなさを前にして錯乱した結果、自殺した」ということですから、ルイの罪はそれほど深くないと思えるのですが。

「そうですね。ルイの自殺は、愛ゆえの自殺ですから、卑怯(ひきょう)であるがゆえに人生から逃げようとして自殺したケースに比べれば、神の目からして、それほど罪深いものとはされないでしょう」

次に、ルイの霊を呼んで、いろいろと聞いてみた。

――自分のしたことをどう思っていますか?

「ヴィクトリーヌは不実な女です。彼女のために自殺するなんて完全な間違いでした。あれはそんなことに値しない女です」

――つまり、彼女はあなたを愛していなかったのですか?

「はい、愛していませんでした。最初は、愛していると思い込んでいたようですが。でも、それは錯覚だったのです。私が騒ぎ立てたことで、彼女はそのことに気がつきました。そこで、それを理由にして私をお払い箱にしようとしたわけです」

――で、あなたはどうなのですか? 彼女を本当に愛していたのですか?

「むしろ『彼女を欲していた』ということではないでしょうか。もし、本当に彼女を愛していたのなら、彼女に苦痛を与えたいとは思わなかったはずですから」

――あなたが本当に死ぬ気でいたと知っていた場合でも、彼女は拒みつづけていたでしょうか?

「分かりません。しかし、そうは思いたくはありません。というのも、根は優しい女だからです。もし、知っていてそうしていたら、彼女はきっとものすごく不幸になっていたでしょう。かえってあんなふうになったほうが、彼女にとってはいいことだったのです」

――彼女の家のドアの前に行ったとき、もし拒まれたら死んでやろうと思っていましたか?

「いいえ思っていませんでした。あれほど強情を張るとは思っていなかったからです。彼女がかたくなになったために、私の感情が激したのです」

――あなたが自殺を悔やんでいるのは、「ヴィクトリーヌがそれに値しない女だったから」というだけの理由によるようですが、それ以外に感じていることはないのですか?

「現時点では、ありません。まだ気持ちが混乱しているのです。ドアのそばにいるように思われるのです。他のことはうまく考えられません」

――そのうち、分かるようになるでしょうか?

「たぶん、混乱が治まれば分かるようになると思います。

私がしたことはよくないことです。彼女はそっとしておいてやる必要があると思います。私が弱かったのです。それを思うとつらいです――。男は、情熱にとらわれて盲目(もうもく)になると、ばかなことをしでかすものです。あとになってみないと、それがどれほどばかげているかが分からないのです」

――あなたは「つらい」とおっしゃいましたが、どんな感じなのですか?

「命を縮めたのは間違いだったのです。あんなことはすべきではありませんでした。まだ死ぬべき時期ではなかったので、すべてを耐える必要があったのです。

いまは不幸を感じています。苦しいのです。いまだに彼女のせいで苦しんでいるような気がします。いまだに、あの、つれない女の家のドアの前にいるような気がするのです。

もうその話はやめてください。そのことは考えたくないのです。苦しくて、そのことはもうこれ以上考えられません。さようなら」

ここには、またしても、新たな配分的正義の例が見られるように思う。すなわち「罪を犯した者は、その罪の程度に応じて罰せられる」ということである。

この例では、まず悪いと思われるのは娘のほうである。自分が愛していない男が自分を愛しているのを見て、その愛を弄(もてあそ)んだ。したがって、その責任はほとんど彼女のほうにあると言えよう。

男に関して言えば、彼は自分がつくり出した苦しみによって罰せられた。しかし、苦しみといっても、それほどひどい苦しみではない。というのも、彼は、一時的な興奮に身を任せて、軽率に行動してしまっただけであり、じっくりと考えて、人生の試練から逃れるために自殺したのではないからである。

(2) 自殺した高学歴の無神論者の霊の苦しみ――J・D氏
J・D氏は高い教育を受けていたが、骨の髄まで唯物主義が染み込んでおり、神も魂も全く信じていなかった。

死後二年経ってから、義理の息子の依頼で、パリ霊実在主義協会において招霊された。

――招霊します――
「ああ、苦しい! 俺は神から見放された」

――あなたはその後を心配されているご家族からの依頼で、こうして招霊させて頂きましたが、こうして招霊することは、あなたに苦痛を与えることになったのでしょうか?

「そうだ。辛い」

――あなたは、自ら死を選ばれたのですか?
「その通りだ」

この霊の書く文字は、恐ろしく乱れており(霊媒に憑依させて書かせているので)、大きく、不規則で、痙攣しており、ほとんど読み取りがたいものであった。最初は、怒りのあまり、鉛筆を折り、紙を破ったほどであった。

――落ち着いてください。我々は全員であなたのために祈りましょう。
「なんだと? 俺に神を信じさせるつもりなのか?」

――どうして自殺などしたのですか?
「希望のない人生がほとほと嫌になったからだ」

人生に希望が無くなった時、我々人間は自殺したくなる。あらゆる手段を講じて不幸から逃れようとするのである。

だが、霊実在論を知れば、未来が開け、希望が戻ってくる。自殺はもはや選択肢の中には入らなくなる。そもそも、自殺によっては苦しみから逃れることは出来ず、かえって百倍も厳しい苦しみの中に落ち込むだけだということが分かるからである。そういうわけで、霊実在論によって自殺の危機から救われた人々の数は大変多い。

科学或いは理性の名によって、「死ねばすべて終わりである」という“信仰”を蔓延させた者達の罪は大きいと言えよう。この絶望的な信仰によって、どれほど多くの悪と犯罪が引き起こされたことであろうか。この信仰を広めた者達は、自分自身の過ちに責任があるだけではなくて、その過った信仰が蔓延することによって生じたあらゆる悪に対しても責任が生じるのである。

――あなたは人生のもろもろの不幸から逃れようと思って自殺したわけですが、それで何か得るところはありましたか? 生前よりも幸福になりましたか?

「死んだ後に、どうして虚無が存在しないのだ?」

――どうぞ、可能なかぎり、あなたの今の状態を教えて下さい。

「かつて否定していたことを全て信じなければならないために、酷く苦しんでいる。俺の魂は、まるで燃え盛る火の中に投げ込まれたみたいだ。本当に恐ろしい苦しみだ」

――どうして、生前、唯物主義者だったのですか?

「それよりも以前の人生で、俺は意地の悪い人間だったのだ。そのために、今回の人生で、俺は一生の間、疑いに苛まれることになったのだ。そのために自殺した訳だが」

このくだりを読むと、考えがたいへんよく整理できる。「霊界から生まれ変わって来たのだから、直感的に霊界があることが分かりそうなものなのに、それでも、なおかつ唯物主義者になるのは、なぜなのだろうか?」という疑問があるわけなのだが、その理由がここではっきりする。

つまり、こういうことだ。

前世からの傲慢さを引きずっている者、自らの過ちをしっかり悔い改めていない者には、まさしく、この直観が禁じられているということなのだ。彼等は、肉体生活の間、絶えず目の前に示されている、神の存在と死後の生命の存続を、直観によってではなく、彼等自身の理性によって把握しなければならないのである。

しかし、思い上がりが激しいために、自分を超える存在を認めることが出来ず、再び傲慢の罪を犯すことになる。そして、酷く苦しむわけだが、その苦しみは、彼等が傲慢さを捨て去って、摂理の前にひざまずくまで続くのである。

――水中に沈んで、いよいよ死にそうになった時、一体自分はどうなると思いましたか? その瞬間に、どんなことを考えましたか?

「何も考えなかった。何しろ、死後は虚無だと思っていたからな。あとになって、まだまだこれから苦しむのだということを知った」

――今では、「神も魂も、あの世もある」ということが分かったのではありませんか?
「ああ! あまりにも苦しくて、そういったことはよく分からない! 」

――お兄さんにはもう会いましたか?
「いや、会っていない」

――どうしてでしょう?

「どうして苦しみを足し合わせる必要があるのだ? 兄も俺も今は不幸なのだぞ。再会するのは、幸福になってからでよい――。ああ、何ということだ! 」

――あなたのそばにお兄さんを呼んでさしあげましょうか?
「とんでもない! 」

――どうして呼んでほしくないのですか?
「兄も幸福ではないからだ」

――お兄さんを見るのが怖いのですね。辛くなることはないと思いますよ。
「いや、結構だ。もっと後にしてくれ」

――ご両親に何か言いたいことはありますか?
「『俺のために祈ってくれ』と伝えてほしい」

――あなたが生前属していた団体には、生前のあなたと同じような考えをしている人々が多いようですが、彼等に何か伝えたいことはありますか?

「ああ、なんと不幸な人達だろう! 彼等があの世を信じられるようになるといいのだが。それが、俺が望む最大のことだ。今俺がどうなっているかを彼等が知ることが出来れば、きっと考えも変わるだろうと思う」


J・D氏の兄。J・D氏と同じ考え方をしていたが、自殺したわけではなかった。不幸ではあったが、弟よりも落ち着いていた。文字もはっきりしており、読み易かった。

――招霊します――

「我々の苦しんでいる姿が、あなた方にとって教訓になりますように。そして、あなた方が、あの世の存在を確信しますように。あの世では、我々は、過ち、そして不信仰の償いをします」

――先ほど我々が招霊していたあなたの弟さんと会いましたか?

「いいえ。弟は、私を避けているようですので」

「霊界には、物質的な障害物も、隠れる場所もないのに、どうして霊は他の霊から姿を隠せるのだろうか」と不思議に思うかもしれない。

霊界では、すべてが相対的であり、そこに住む者の、エーテル体の性質によって現実が決まってくるのである。高級霊のみが、無限の知覚能力を持っている。低級霊の知覚能力は限定されており、彼等にとっては、エーテル体で出来た障害物は、実際の障害物のような作用をするのである。霊達は、意思によって、自らのエーテル体に働きかけることが出来、その結果、他の霊からの身を隠すことも可能なのである。

しかし、親が子供を見守るように、全ての霊を見守っておられる神は、それぞれの霊の心境に応じて、その能力を自由に使わせたり、限定したりされる。そして、状況に応じて、それがその霊への罰にも、報いにもなるのである。

――あなたは弟さんよりも落ち着いているようですね。あなたがどのように苦しんでおられるのか、詳しく教えて頂けますか?

「地上においても、あなた方が自分の過ちを認めざるをえなくなった時、思い上がりや慢心のゆえに苦しむことはありませんか? 『あなたは間違っている』とはっきり指摘してくる人の前で、身を低くしなければならない時、反発を感じるのではないですか?

一生の間、『死後には何も存在しない』と思い続けてきた人間、しかも、『誰が何と言おうと絶対に自分が正しい』と思っていた人間が、『死後にも命がある』と知った時、どのように驚愕し、また苦しむと思いますか?

突然、輝かしい真理の前に投げ出され、自分が無であると感じるのです。恥ずかしくて消え入りたくなります。しかも、その恥ずかしさに、かくも善で、かくも寛大な神の存在を、かくも長い間忘れ果てていたことに対する後悔が付け加わるのです。これは実に耐え難い苦しみです。安らぎどころではありません。平安どころではありません。そして、恩寵、すなわち神の愛がその身に及ぶまでは、決して心安らぐことがないのです。

霊体全体が傲慢の衣にぴったり包まれているので、それを完全に脱ぐまでには、恐ろしい程の時間がかかります。あなた方のお祈りがなければ、到底この傲慢の衣を脱ぐことは出来ません」

――我々があなたの弟さんと話している間に、ここにいらっしゃる、ある方が、弟さんのために祈ってくださいました。その祈りには効果はあったのでしょうか?

「仮に、弟が、今のお祈りを拒んだとしても、その効果が失われる訳ではありません。そのお祈りの効果は生き続けます。そして、弟が、受け入れる用意が出来た時に、それは神聖なる万能薬として必ず弟を癒すことになるでしょう」

ここには、また別種の懲罰が見られた。すべての無神論者が同じような懲罰を受けるわけではない。この霊にとっては、生前、自分が否定してきた真理を認めることが必要だったのである。未だに神を否定し続けている他の霊に比べれば、この霊の心境はかなり進んでいると言えよう。自分が間違っていたと認めることが出来るのだから、大分謙虚になってきていると考えられる。

おそらく、次の転生では、多分生まれつき信仰を持った人間となることであろう。

この二人の霊人の招霊を我々に依頼した人に、招霊の結果得られたメッセージを送ったところ、次のような返事を頂いた。

私の義父と叔父の招霊によって、私達にどれほど素晴らしい贈り物がもたらされたか、とてもあなた方には想像出来ないでしょう。私達はあの二人が義父と叔父であることを完全に認めることが出来ました。

義父の文字は、生前のそれと驚くほど似ておりました。特に、私達と過ごした最後の数ヶ月の間、義父の字は、ぐちゃぐちゃでほとんど読み取れないくらいだったのです。今回のメッセージの中にも、生前とよく似た特徴的な縦の線、署名、ある種の文字などがありました。また、語り口、表現の仕方、文体などは、さらに似ており、我々はみんなで驚嘆したものです。完全に生前と同じだったからです。

違っていたのは、生前、義父があれほど否定していた神、魂、永遠について、異なる考え方をし始めていた点だけでした。したがって、あれが義父であることに間違いはありません。

私達は霊実在主義の理論をさらに確信するようになりました。神に栄光あれ! 霊実在論のおかげで、地上にいる者も、霊界にいる者も、これまで以上の進化が望めます。

叔父についても、無神論者から、神を信ずる者になっているという違いはありますが、性格、話しぶり、言葉遣いの癖に至るまで、あれは完全に叔父であります。特に、[万能薬]という言葉が我々を驚かせました。あの言葉は、叔父が、生前、誰に対しても、繰り返し使っていた言葉なのです。

私は、あの二つのメッセージを何人かの人に見せましたが、どの人も、その迫真性に打たれていました。

しかし、私の両親も含め、神を信じていない人々は、もっと決定的な証拠が欲しいようでした。例えば、義父が埋葬された場所や、『具体的にどこで、どのようにして溺れ死んだか』ということについての情報などです。それを霊人達にはっきり言ってもらいたかったと言うのです。

再び義父を招霊して、ぜひとも、以下の質問をしてください。
① どこで、どのようにして自殺したのか?
② どれくらいの期間、発見されずにいたのか?
③ 遺体はどこで発見されたのか?
④ どこに埋葬されたのか?
⑤ どのようにして埋葬されたのか?

どうか、疑いを捨てきれない人々のために、以上の質問にはっきりと答えてもらってください。その効果は計り知れないものがあると確信しております。

このお手紙が、明日の金曜日にあなた方の所に届くように投函いたします。明日は、あなた方が交霊会を催す日であることを知っておりますので――」

この手紙を引用したのは、親族によって二人の霊人の身元確認がしっかりなされたことを知ってもらうためである。

また、次に、この手紙に対する私からの返信の一部を引用する。霊界通信がどのようなものであるのかをまだよく知らない人々のために、少しでも参考になれば、との思いからである。

「お義父様に対して、もう一度聞いてみてほしいということであなたが書かれた質問は、『神を信じない人々を説得するため』という確かな意図に基づいていることはよく分かりました。というのも、そこには、疑いの気持や単なる好奇心は全く見られなかったからです。

しかしながら、もしあなたが、霊実在主義についてもっと深くご存知であれば、そうした質問が無益であるということを、多分理解されていたでありましょう。

まず最初に言いたいのは、あなたはお義父様に対して『はっきりした答えを言ってもらいたい』と思っていらっしゃいますが、我々には霊を強制することは出来ない、ということです。霊達は、自分が望む時に、自分が望むやり方で、自分に出来る範囲でしか、答えてくれません。彼等は、生前以上に自由意志を行為しますし、生前以上に精神的な強制から逃れる術を知っているのです。

最もよい身元確認の証拠は、彼等が、自らの意志で、自発的に与えてくれたものなのです。或いは、自然の成り行きから彼等が与えてくれたものです。それらをこちらの意思で引き出そうとしても、まず上手くいったためしがありません。

あなたのお義父様は、あなたにとっては疑問の余地のないやり方で身元証明をされました。したがって、お義父様にとってはどうでもよい人々の単なる好奇心を満たすことは、当然、無用のこととして拒否なさるでしょう。

こうした場合にはよくあることですが、お義父様も、他の霊にならって、きっと次のように言われるはずです。

『自分達が既に知っていることを私に聞いてどうするつもりかね?』

それに、現在、彼が身を置いている混乱と苦悩の状態からして、この種のことを詮索されるのは、大変辛いことだと思います。それは、口も利けない程苦しんでいる病人に、自分のこれまでの人生について細々と喋るように要求するのと同じことだからです。明らかに思いやりに欠けた行為だと言わざるを得ません。

という訳で、あなたがお望みのことは、おそらく期待外れとなるでしょう。

身元確認のためのああした証拠は、自発的に与えられたからこそ、そして何者にも強制されなかったからこそ、大きな価値を持っているのです。

疑い深い人々があれだけの証拠を見ても納得しないのだとしたら、件の質問に対する答えを見たところで、それ以上に納得するということはないでしょう。おそらく、彼等は、あなたと我々が共謀して書いたに違いないと言うはずです。世の中には、どのような証拠を見ても納得しない人々がいるのです。仮に、彼等が自分自身の目でお義父様の霊視を見たとしても、おそらく、『単なる幻覚だ』と言うに違いありません。

招霊を、あなたのお手紙が届いた日に直ちに行ってほしいとのあなたの要望に関して、さらに一言付け加えさせて頂きますが、招霊は、そんなに簡単に意のままに行えるものではありません。霊達がいつも招霊に応じるとは限らないのです。

そのためには、『彼等にとってそれが可能である』、或いは『彼等がそれを望んでいる』ということが必要なのです。しかも、彼等にぱったり合った霊媒がいる必要もあります。また、その霊媒がちょうどその時間に空いていなければなりません。さらに、交霊会の出席者が霊に対して共感を抱いている必要もあります。そうした条件が全て揃わない限り、しかるべき招霊は出来ないのです。
以上、どうかご理解くださいますようお願い申し上げます」

(3) 破産が原因で自殺した男性の霊――フェリシアン氏
フェリシアン氏は、裕福で、教養があり、善良な性格の、霊感の強い詩人であった。親切で思いやりに満ちあふれており、人々からたいへん尊敬されていた。

しかし、ある時、投機に失敗し、財産を全て失った。既に年を取っていたので、財産を築き直す気力も湧かず、一八六四年一二月に、自分の寝室で首を吊って自殺した。唯物論者でも無神論者でもなかったが、少しばかり軽薄なところがあり、死後のことは気にしていなかった。

彼とは個人的に親しかったので、死後4ヶ月程経った頃に、招霊を試みることにした。

――招霊します――

「ああ、地上が懐かしい。地上でも落胆を味わいましたが、こちらほどではなかったですから。こちらはもっと素晴らしいところかと期待していたのですが、思っていたほどではなかったですね。

霊界はごちゃ混ぜの世界なので、快適に生きるためには、そこから抜け出す必要があるかもしれません。いやはや、本当に驚きました。霊界の様子を描写したら、すごいことになるでしょう。バルザックにでもお願いしなければならないでしょうが、それにしても大変な仕事になりそうです。

ところで、バルザックを見かけませんでしたね。人間の悪徳を直視して描き出したあの巨匠は、今、一体どこにいるのでしょう? 私と同じように、ここにしばらく滞在してから、上の世界に行くはずなのですが。

ここは、あらゆる悪が集まった腐敗の場所です。非常に面白いので、暫く留まって観察することにします」

この霊は、「ごちゃ混ぜの世界にいる」と言っている。ごちゃ混ぜだということは、つまり、低級霊の世界だということである。

しかし、自分の死に方に何の言及もしないのは奇妙である。もっとも、生前の性格を反映しているのかもしれない。
いずれにしても、この霊が本人であるのかどうか、多少の疑いが持たれた。

――恐れ入りますが、亡くなった時の様子を教えて頂けますか?

「どんな風に死んだかですって? 勿論自分で死ぬことを選んだのです。あの死に方は気に入っています。人生からおさらばするのに、どのような死に方をすべきか、随分長い間考えましたからね。

しかし、あんなふうに死んだところで、結局のところ、大したことはありませんでした。物質的な心配からは解放されたものの、霊界で、それ以上の、深刻な、辛い状況に陥ることになったのですから。しかも、それがいつ終るのか見当もつかないのです」

――(霊媒の指導霊に対して)これは本当にフェリシアン氏の霊なのですか? この能天気な話しぶりは、到底自殺した人の言葉とは思われませんが。

「確かに本人です。しかし、今彼がおかれている状況からすれば、あのように調子に乗った話し方をするのも無理はないのです。彼が、最初、空疎な言葉を連ねていたのは、自分がどうやって死んだか言いたくなかったからです。あなたに、直接、質問されたために、答えざるをえなかったようですが、随分辛い思いをしているのは事実です。彼は、自殺したことでたいへん苦しんでおり、出来るだけ、その不幸な最後を思い出したくないのです」

――(フェリシアン氏の霊に対して)あなたの死が、あなたにとってどのような重大な結果を引き起こすのかを知っていただけに、あなたの死は我々にとって非常に痛ましいものでした。また、あなたを尊敬し、あなたに愛着を覚えていただけに、あなたの死は我々には本当に辛いものでした。個人的には、たいへん良くして頂き、そのことは決して忘れておりませんし、たいへん感謝申し上げております。もし何らかのかたちでお役に立つことが出来れば、嬉しいのですが。

「ああした形をとらなければ、財政的な危機的状況から逃れることは出来なかったのです。

現在、必要としているのは、お祈りのみです。もしお願い出来るのであれば、私に付きまとっている恐ろしい者達、私を嘲笑し、罵り、バカにする者達から解放されるように祈ってください。彼等は私を『卑怯者』と罵りますが、確かにその通りなのです。人生から逃げるというのは、卑怯者以外の何者でもないからです。

私は今までの転生で、固く誓ったはずだったのですが――。ああ、何という宿命だろう。

どうか、どうか、祈ってください。何という拷問だろう。ああ、苦しい! どうか私の為に祈ってください。そうすれば、私が地上に居た時に皆さんにしてさしあげた以上のことを、私にしてくださることになります。

しかし、私がこんなに何度も敗れた試練が、目の前にどうしようもなく立ちはだかっています。いずれ、また、同じ試練に直面しなければならないのです。そんな力があるでしょうか? ああ、どうしてこんなに何度も同じような人生をやり直さなくてはいけないのでしょうか? どうしてこんなに長い間戦い続けた挙句、事件に巻き込まれて、意に反して敗北しなくてはならないのでしょうか? ああ、絶望的な気持になります。

だから、力が必要なのです。お祈りは力を与えてくれるということですので、どうか、皆さん、私のために祈ってください。私もまた祈ります」

この自殺は、どこにでもあるような極めて平凡な状況においてなされたが、背後には特別な事情が潜んでいた。つまり、自殺したこの者の霊は、過去世において、何度も同じような状況で自殺していたのである。そして、これからも、そうした状況に抵抗できなければ、やはり何度でも自殺することになるだろう。

我々が地上に転生するのは、あくまでも向上するためなのであって、その目的が果たせなければ、何のために転生したのか分からなくなる。戦いに勝利を収めるためには、何度でも転生して挑戦する以外にないのである。

――(フェリシアン氏の霊に対して)いいですか、私がこれから言うことを、注意深く聞いてくださいね。そして、私の言葉についてよく考えて下さい。

あなたが宿命と呼んだものは、あなたの弱さ以外の何ものでもありません。宿命などは存在しないのです。というのも、宿命が存在するとしたら、人間は自分の行為に責任が取れないからです。

人間には自由意志があり、そして、それこそが、人間の最も大切な特権なのです。神は、人間をロボットとして創ったのではありません。この自由意志があるからこそ、失敗もすれば、成功もするのです。そして、成功を続けていって完成された時、人間は最高の幸せに到達出来るのです。

慢心している者だけが、自分の地上の不幸を運命のせいにします。実際には、自分の怠慢のせいで不幸になっているに過ぎないのですが。まさに、あなたの今回の生き方がその好例でした。

あなたは、世俗的には、幸福になるための条件をすべて揃えていました。機知、才能、財産、世評などなど。致命的な悪徳は持っていませんでした、というよりも、むしろ、尊敬に値する美徳を沢山備えていたのです。どうして、そうした状況が突然危ういものになったのでしょう? それは、あなたが無用心だったからに外なりません。

不必要に財産を増やそうとせず、もっと慎重に振舞ってさえいれば、そして、既に持っていたもので満足してさえすれば、あなたが破産することなどあり得なかったのです。あれは、宿命でも何でもありません。なぜなら、避けようと思えば避けられたことだからです。

あなたの試練は、自殺への誘惑をあなたに与える一連の状況を克服することにあったのです。残念ながら、あなたは、生き生きとした精神を持ち、高い教育を受けていたにも関わらず、そうした状況を乗り越えることが出来ませんでした。ですから、未だにその弱さを引き摺っているのです。この試練は、あなたも既に予感しているように、これからの転生で繰り返されるはずです。次の転生でも、おそらく、自殺したいという思いにあなたを駆り立てる一連の出来事と戦う必要が出てくることでしょう。そして、それは、あなたがついにそれらに勝利を収めるまで続くのです。

あなた自身が作り出した運命を非難したところで仕方がありません。それよりも、たった一度、過ちを犯しただけで、否応無く罰するのではなくて、何度でも立ち直る機会を与えて下さる神の善意を讃えましょう。あなたは永遠に苦しむわけではないのです。しっかり償いさえ果たせば、苦しみはそこで終るのです。

霊界において強く強く決意し、神に対して誠実に悔い改め、高級諸霊に心からお願いするのです。そうすれば、地上においてあらゆる誘惑を跳ね返す力が与えられるはずです。

この試練に勝利を収めさえすれば、あなたはどんどん進化して、素晴らしい幸福を手に入れることが出来るでしょう。というのも、他の面では、あなたは既に相当進化しているからです。ですから、もう一歩、前進しさえすればよいのです。

私達もお祈りによって支援いたしましょう。しかし、あなたご自身がまずその気にならなければ、我々の祈りも効果を発揮しません。

「ありがとうございます。ご忠告、本当にありがとうございます。私にはどうしても必要な忠告でした。私は、精一杯、無理をして、不幸だと思われないように振舞っていたのです。

私は、今後、あなたの忠告を大いにいかし、次の転生に備えたいと思います。今度こそ、勝利を収めるようにいたしましょう。ああ、早く、この忌むべき状態から抜け出したいものです」

(4) 前世で犯した罪の記憶に苛まれて自殺した男の霊――アントワーヌ・ベル
カナダ銀行の支店の会計係であったアントワーヌ・ベルは、一八六五年二月二八日に自殺した。同じ街に住む、医学博士でもあり薬学博士でもある我々の知人が、ベル氏に関して次のような情報を寄せてくれた。

「私はベルとは20年来の知り合いです。彼は、おとなしい男で、また子沢山の家族の父親でもありました。

しばらく前から、彼は、自分が私の店で毒物を購入し、それを使って誰かを毒殺した、という妄想を抱くようになっていました。やがて、私のところにやって来て、私が彼にいつその毒薬を売ったのかを教えてくれ、と言うようになりました。そして、激しく落ち込むのです。やがて眠れなくなり、自分を責め、胸を手で打つようにさえなりました。

毎日、夕方の四時から翌朝の九時まで、彼は銀行で極めて几帳面に帳簿をつけていたのですが――今迄一度たりとも間違いを犯したことはありません――、その間、家族は気が気ではありませんでした。

彼の内部には、ある存在がいて、その存在が、規則正しく彼に帳簿をつけさせるのだ、と彼はよく言っていました。

ところが、理不尽な考えに完全に支配されるようになると、彼はこう言ったものです。

『いいえ、あなたは私を騙そうとしているのです。私は覚えているのですから。私が[あれ]を買ったのは事実なのです』」

アントワーヌ・ベルは、一八六五年四月一七日、パリで、友人の要請に基づいて招霊された。

――招霊します――

「私に何をせよというのですか? 私を尋問するつもりなのですか? よろしい! 結構です、すべてを告白しましょう! 」

――ちょっと待ってください。ぶしつけな質問をしてあなたを苦しめようなどと思っているわけではありません。ただ、現在、霊界においてどのような境涯におられるのかを知りたいと思っているだけなのです。もしかすると、お役に立てるかもしれません。

「もし、助けて頂けるのでしたら、こんなに有難いことはありません! 私は自分の犯した罪が恐ろしいのです。ああ、私はなんてことをしてしまったんだ! 」

――私達のお祈りによって、必ず、あなたの苦しみが和らぐものと確信しております。

それにしても、あなたは、大分良い条件にあるように思われます。悔い改めておられるようですし、回復が始まっているように感じられるからです。無限の慈悲を持っておられる神は、悔悟を始めた罪人に対して、常に哀れみをかけてくださいます。さあ、一緒に祈りましょう。

「――――」

――さて、どのような罪を犯したと思っていらっしゃるのですか? 謹んで罪を告白なされば、神はそれを斟酌してくださいますよ。

「それよりもまず、私の心の中に希望の光を入れてくださったことに、感謝しなければなりません。

ああ、もうはるか昔のことになります。今回の転生の直前に転生した時のことです。私は南フランスの、地中海のすぐそばに立つ家に住んでおりました。

私はかわいい女の子と付き合っており、彼女は私の愛に応えてくれていました。しかし、私は貧しかったので、彼女の家から疎んじられていたのです。ある日、彼女は、海外にまで商売の手を広げている、とても羽振りの良い仲買人の息子と結婚することにした、と私に告げました。こうして私はお払い箱になったのです。

気も狂わんばかりに苦しんだ私は、憎くてたまらぬ競争相手を殺して復讐を果たし、自分も死のう、と決心しました。しかし、暴力的なやり方は嫌でした。人を殺そうなどと考える自分に戦慄しましたが、嫉妬の念が勝利を収めました。その男は、私が愛していた娘と結婚する日の前日に、私が注意深く盛った毒のせいで死んだのです。

以上が、かすかな記憶による私の古い過去の再現です。

ええ、私は既に霊界で大分時間を過ごしましたので、そろそろ地上に転生する時期が来たようです。

神よ、私の弱さ、そして涙を哀れみたまえ! 」

――あなたの進化を遅らせたこの不幸な事件に同情申し上げます。また、あなたを本当に気の毒に存じます。しかし、あなたは悔い改めているのですから、神は哀れみをかけてくださることと思います。

ところで、あなたは、その時の自殺の決意を実行に移したのですか?

「いいえ、恥を忍んで言えば、自殺はしませんでした。希望が再び戻ってきたからです。つまり、その娘と結婚出来る可能性が再び生じてきたのです。私は自分の犯罪の結果を密かに享受しようと思いました。

しかしながら、後悔には勝てず、ついに自首しました。こうして、私は自分の錯乱の瞬間を死刑によって贖ったわけです。私は絞首刑となりました」

――今回の転生においては、その過去世における悪しき行為の記憶はあったのですか?

「それを意識したのは、最後の数年間だけです。つまり、こういうことだったのです。私はもともと善良な人間で、件の殺人を犯した転生においてもそうでした。そして、これは、殺人者にはよく見られることですが、犠牲者の最後の姿がしょっちゅう心に蘇ってきてたいへん苦しかったので、私は、何年もの間、悔い改め、そして必死に祈り続けたのです。

さて、その後、私はまた生まれ変わって別の人生を歩み始めました。つまり、それが今回の転生になります。私は、平穏に、しかし、なぜかおどおどして人生を過ごしていました。生まれつきの自分の弱さと、過去世での過ちを漠然と意識していたのでしょう。潜在意識に記憶があったからです。

しかし、私が殺した男の父親が、復讐心に満ちた憑依霊となった私にとりつき、私の心の中に、過去世の記憶を走馬灯のように蘇らせることに成功したのです。

憑依霊の影響を強く受けている時は、私は毒殺をした殺人鬼であり、指導霊の影響が強い時には、私は子供達のために一生懸命パン代を稼ぐ健気な父親でした。しかし、ついに憑依霊に負けて自殺を図りました。

確かに私には罪があります。でも、自分自身の意志だけで自殺を決行したのではない分だけ罪は軽いのです。このタイプの自殺者は、憑依霊に抵抗できないという点では弱いといえますが、しかし、完全な自由意志で自殺を決行したわけではない分だけ罪は軽いと言えるのです。

どうか、私に悪しき影響を与えた霊が早く復讐の念を捨てられるように、私と一緒に祈ってください。そして、私が力とエネルギーを得て、次の転生で、自由意志によって自殺の誘惑に打ち勝つことが出来るように祈ってください。というのも、次の転生では、私は、再び自殺をしたくなるような状況に置かれることになっているからです」

――(霊媒の指導霊に対して)憑依霊によって自殺に追い込まれるということが、実際にあり得るのですか?

「勿論あり得ます。憑依というのも、一種の試練であり、あらゆる形態をとるのです。しかし、そのことは言い訳にはなりません。人間は常に自由意志を行使できるようになっており、したがって、憑依霊の声に従うことも、それを拒否することも出来るからです。もし、憑依霊の唆しに従ったとしたら、それは彼の自由意志によってそうしたと見なされるのです。

確かに、他の者の教唆によって悪を犯した場合、自分自身の意志のみで悪を犯した場合よりも、その罪は軽いと言えるでしょう。しかし、まったく罪が無いわけではないのです。正しい道から逸れていったということ自体、彼の中に善が強く根付いていなかったということの証明だからです」

――祈りと悔い改めによって、犠牲者を見続ける苦しみから解放されたこの霊が、次に転生した時、復讐心を持った憑依霊に付きまとわれた、というのはどういうことなのですか?

「あなたもご存知のように、悔い改めというのは、あくまでも予備的な段階に過ぎず、それによって全ての苦しみから解放されるわけではないのです。

神は、単なる口先の約束だけでは満足しません。実際の行為によって、善に戻ったということをきちんと証明しなければならないのです。そのために、この霊は新たなる試練に晒されたのであり、この試練を乗り越えてこそ、より強くなることが出来たわけであり、また、勝利の意味も大きくなるのです。

彼は憑依霊に付きまとわれましたが、彼が十分に強くなりさえすれば、憑依霊も離れていったはずなのです。憑依霊の言う事に耳を貸さなければ、唆しがもう意味を持たなくなるからです」

この最後の二例(一つはフェリシアン氏)によって、「試練は、それを乗り越えることが出来るまで、何度も繰り返し与えられる」ということが分かる。

アントワーヌ・ベルの例は、さらに、過去世で犯した罪の記憶が、警告として、または悔悟の思いとして、人に付きまとうことがあるという事実を明らかにしている。つまり、全ての転生が関連しているということなのである。

人間には徐々に向上していく能力があり、過ちを贖う為の門が閉ざされることは決してない、という点に、神の善意と正義が歴然と示されている。罪を犯した者は、まさにその罪によって罰されるのだが、それは神が復讐を好むからでなく、その人間に最も適切な向上の手段を与えようとされるからなのである。

第5章 悔い改める犯罪者の霊
(1) 斬首刑の直後に見えたもの――ルメール
ルメールは、エーヌ県の重罪院で死刑の判決を受け、一八五七年十二月三十一日に死刑が執行された。

一八五八年一月二十九日に招霊

――招霊します――
「はい、ここにいます」

――私たちを見て、どんな気持ちがしますか?
「恥を感じます」

――最後の瞬間まで意識はあったのですか?
「ありました」

――死刑が執行された直後、自分が新たな状況にいるということは分かりましたか?

「とんでもない混乱に巻き込まれ、いまだにそこから出ていません。ものすごい苦しみを感じます。私の心が苦しんでいるのです。

何かが死刑台の足元に転がるのが見えました。続いて血が噴(ふ)き出すのが見えました。そして、さらに苦しみが増したのです」

――それは純粋に肉体的な苦しみですか? たとえば大怪我(おおけが)をしたときのような?

「いえ、違います。後悔ゆえの苦しみです。ものすごい、精神的な苦しみなのです」

――いつ、その苦しみを感じはじめたのですか?
「肉体から離れた直後です」

――死刑によって引き起こされた肉体的な苦痛を感じたのは、体なのですか、それとも霊なのですか?

「精神的な苦しみは霊が感じ、肉体的な苦しみは体が感じました。しかし、霊が体から分離すると、いっそう苦しみを感じるのです」

――頭を切断された自分の体は見ましたか?

「なんだか形のよく分からないものを見ましたので、まだ体から離れていないのだと思いました。でも、そのあと、完璧(かんぺき)になったように感じました。自分自身に戻ったような感じです」

――自分の体を見てどんな印象を持ちましたか?

「苦しみが大きすぎて、よく分かりませんでした。苦しみのせいで、われを忘れていたのです」

――頭部が切り離されても体はまだしばらく生きているものですか? その間、何か考えることはできるのですか?

「霊は徐々に分離していきます。物質への執着が多いほど、分離はゆっくり行われます」

――ある場合には、受刑者の表情に怒りが見られ、何か話したがっているように思われるということですが。それは単なる痙攣(けいれん)にすぎないのですか? それとも意志がかかわっているのでしょうか?

「意志がかかわっています。というのも、そのときにはまだ、霊は完全に離脱していないからです」

――新たな世界に入ったときの最初の印象はどのようなものでしたか?

「耐えがたい苦痛でした。理由のよく分からない後悔によって刺し貫かれるのです」

――同時に処刑された共犯者たちは、その後、一緒になるのですか?

「なります。お互いの姿を見ることが、これまた苦痛なのです。お互いに、お互いの犯罪を責め合います」

――犠牲者たちには会うのですか?

「合います――。
彼らは幸せに暮らしていますが、その視線が私に付きまとうのです――。その視線が、存在の内部まで私を刺し貫くのを感じます――。逃げようと思っても逃げられません」

――彼らを見てどう感じるのですか?

「恥と後悔を感じるばかりです。自分で彼らを天国に上げておきながら、なおかつ、いまでも彼らを憎んでいるのです」

――彼らはあなたを見てどう思っているのでしょうか?
「哀れみを感じているようです」

――彼らは憎しみを持っているのでしょうか? 復讐したいと思っているのでしょうか?

「いいえ、彼らは、私が償いを果たすことをひたすら願ってくれているだけです。
ああ、恩恵を受けていながら、その人を憎まねばならないということが、どれほど苦しいか、あなたがたには想像できますか?」

――地上での生活を後悔していますか?

「私が後悔しているのは、犯した罪だけです。同じ状況が起こったとしても、もう二度と罪を犯すつもりはありません」

――悪への傾向は、あなたに染みついていたのですか? それとも、環境が悪かったために、ああなってしまったのですか?

「犯罪への傾向は私の中にありました。私はまだ未熟な霊だからです。一気に進化したいと思ったのです。しかし、欲張りすぎました。自分が充分強いと思っていたので、過酷すぎる試練を選んでしまったのです。その結果、悪の誘惑に身を任せてしまったわけです」

――もし、ちゃんとした教育を受けていたとしたら、悪の道に入らずに済んだと思いますか?

「はい。でも、ああした家庭環境を選んだのは自分なのです」

――善人になることは可能だったのでしょうか?

「私は弱い人間なので、悪を行うことはできても、善を行うことはできませんでした。悪を矯正(きょうせい)することはできたでしょうが、積極的に善を行うところまでは行けなかったと思います」

――生前、神は信じていましたか?
「いいえ」

――しかし、「死ぬ前には悔い改めていた」と聞きました。それは本当ですか?

「復讐の神を信じていたのです――。復讐の神が下す正義を恐れていたのです」

――現在、誠実に悔い改めを行うことはできていますか?
「ああ、自分のしたことを見ているのですよ! 」

――神については、現在、どのように考えていますか?
「神の存在を何とか感じることはできますが、理解はできていません」

――地上で下された罰は正当だと思っていますか?
「はい」

――ご自分の犯罪が許されることはあると思いますか?
「分かりません」

――どのようにすれば罪を贖(あがな)うことができると思いますか?

「新たな試練を乗り越えることによってでしょう。しかし、そこにたどり着くまでに、無限の時間がかかるような気がしています」

――いま、どこにいますか?
「苦しみの中にいます」

――“この部屋のどこにいるのか”ということをお聞きしたのですが。
「それなら、霊媒の近くです」

――もし、われわれがあなたの姿を見られるとしたら、どのような姿を見ることになるのでしょうか?

「地上での姿です。つまり、頭と胴体が切り離された状態で見ることになるでしょう」

――姿を見せていただけますか?
「とんでもない。冗談はやめてください」

――モンディディエ監獄からどのようにして出てきたのですか?

「もう覚えていません――。あまりに苦しみがひどくて、犯罪を犯したということくらいしか覚えていないのです。もう、そっとしておいてください」

――何かお手伝いできることはありませんか?
「償いを開始できるように祈ってください」

(2) ある屋敷に二百年居座る地縛霊の正体――カステルノダリーの怪物
南フランスにあるカステルノダリーという町の近くにある家の中で、奇妙な音がよく聞こえ、色々な幽霊が目撃された。その為に、この家は、幽霊屋敷であると見なされた。一八四八年に悪魔祓いがされたが効果はなかった。

それでもそこに住み続けた持ち主のD氏は、数年後に奇妙な突然死を遂げた。

ついで、息子がそこに住んだが、ある日、家に入ろうとして、いきなり見えない手で激しく殴られた。その時、他には誰も人がいなかった為に、幽霊の仕業であることは明らかだった。その為に、息子は、ついにその家から出ることを決心した。

その地方には、「この家で重大な犯罪が犯されたことがある」という言い伝えがあった。

息子を殴った霊は、一八五九年にパリの霊実在主義協会にて招霊された。非常に荒々しい霊で、どんなふうにしてもなだめることが出来なかった。

聖ルイに聞いてみたところ、次のような答が戻ってきた。

「この霊は最悪の部類に属する霊で、文字通りの怪物です。彼をここに来させることは出来ましたが、彼に書記をさせることはどうしても出来ません。どんな霊にも自由意志はあるからです」

――この霊に、向上の余地はあるのですか?

「どうして、ないことがあるでしょうか? 全ての霊には向上の余地があります。とはいえ、相当な困難が予想されるのも事実です。

しかし、悪に報いるに善をもってすれば、必ず心に響く時が来るでしょう。今日はまずお祈りをしましょう。そして、一ヶ月後に、もう一度、招霊してみるのです。その時に、いかなる変化が生じたかを確かめることが出来るでしょう」

その後、招霊された時、この霊は随分扱い易くなっており、徐々に、素直に、また、しおらしくなっていった。

彼自身の説明、また、他の霊の説明によって、次のようなことが判明した。

一六〇八年のこと、この家に住んでいたこの男は、ある女性を巡る争奪戦から、嫉妬に狂い、弟を殺害する。弟が寝ている隙に喉を掻き切ったのである。ついで、数年後には、妻にしたその女性を同じく殺害している。時代が混乱していた為、このことは特に罪に問われることなく、この男は一六五九年に80歳でこの世を去った。

死んでから後、この男の霊は、この家で様々な障りを引き起こした。

最初の招霊の時に同席していた霊視の効く霊媒は、この霊に書記を行わせようとした時に、この霊が恐ろしい形相で書記霊媒の腕を揺さぶるのを見ている。血だらけのシャツを着ており、手には匕首(あいくち)を持っていた。

――(聖ルイの霊に対して)この霊には、どのような罰が与えられているのですか?

「彼にとっては大変むごい罰です。犯罪が行われた家に閉じ込められ、ずっと犯罪の行われた場面を目の前に見せられるというものです。他のことは全く考えられません。その為に、まるでこの拷問が永遠に続くように思われます。自分が弟と奥さんを殺害する場面を、繰り返し繰り返し見せられるのです。それ以外の記憶は禁じられ、また、それ以外の霊とコンタクトをとることも禁じられました。

地上では、この家以外の場所に行くことが出来ず、たとえ霊界に行ったとしても、そこには闇に包まれた孤独しかないのです」

――その家から抜け出すことは出来ないのですか?

「この霊の為に祈る人がいれば、抜け出すことは出来るのです。しかし、普通は、そうしてあげる人がいません。むしろ悪魔祓いの呪文によって追い出そうとするばかりです。そんなことは、彼を面白がらせるだけなのですが」

――この霊に関心のある人が祈り、そして、我々も祈れば、この霊は解放されるのでしょうか?

「そうです。ただし、注意してください。人から強制された祈りには効果がありませんから」

――この霊は、既に二世紀の間、そうした状況にあります。この時間の長さを、彼は生前と同じように感じているのでしょうか?

「もっとずっと長く感じているはずです。なぜなら、地上と違って、彼は眠ることが出来ないからです」

――「霊にとって時間は存在しない」と言われたことがあります。「霊にとっては、百年といえども、永遠の中のほんの一瞬にすぎない」と言われました。これは全ての霊に共通しているわけではないのですか?

「違います。高い境涯に達した霊達だけが、そのように感じるのです。未熟な霊達にとって時間は長く感じられることがあります。特に、苦しんでいる霊達にとってはそうです」

――この霊の出自を教えてください。

「今回の転生の前には、残酷で戦闘的な小部族の中に生まれていました。それ以前には、地球よりもはるかに劣った惑星にいたのです」

――この霊は、自らが犯した罪のせいで非常に厳しく罰せられました。もし彼が野蛮な部族に生まれていたとしたら、もっと残酷なことをしていたと思うのですが、その場合には、どのように罰せられたと考えられますか?

「今回程は厳しくなかったでしょう。というのも、その場合には、もっとずっと無知だったはずであり、その為に、理解できる範囲もおのずと狭かったと思われるからです」

――この霊が置かれている状況は、俗に言う[劫罰に処せられた状態]だと考えてよいのですか?

「まさしくその通りです。でも、もっと恐ろしい状況もあるのですよ。苦しみはそれぞれの霊によって違います。同じような罪を犯した霊達であってもそうなのです。霊が、どれくらいの期間で悔悟に至り得るかが、それぞれ違うからです。

今回の霊にとっては、自分が罪を犯した家それ自体が地獄となっているのです。

その他には、例えば、『自らの内に抱え持つ、どうしても満たせない欲望が、自分の内に地獄をつくり出す』という場合もあります」

――この霊は、大変未熟であるにもかかわらず、お祈りのよき効果を感じているようです。これ以外にも、同じように邪悪で、もっと荒々しい霊が、お祈りの効果を感じるケースもありました。

それに対して、もっとずっと知識のある、頭のよい、進化した霊が、よき感情の欠片さえ持っていないということがあるのですが、これは一体どうなっているのでしょうか? 聖なるものをことごとく嘲笑するのです。つまり、彼らは何に対しても感動しないのです。彼らが嘲りを止める時はあるのでしょうか?

「祈りは、悔い改めをしている霊にしか効果がありません。傲慢であるが故に神に反抗し、錯乱の中にい続ける霊にとって――悪霊達は、皆そうですが――、祈りは何の効果もありません。彼らの心の中に悔悟の光が射し始めるまでは、祈りはいかなる効果も発揮し得ないのです。

彼らの為に祈っても効果がないということは、それ自体が彼らの罰の一部をなしていると言っていいでしょう。祈りが効果を発するのは、頑であることを止めた霊達に対してだけです」

――祈っても無駄な霊を目の前にした場合、祈らずに放っておいた方がよいのでしょうか?

「いいえ、そんなことはありません。というのも、祈りによって、その霊が頑な態度を改める可能性が、全くないわけではないからです。そして、その後、『救われたい』と思い始める可能性はあるのです」

これは、丁度、長い間薬を投与し続けないと、その効果が表れない病人のようなものである。当面は、効いたかどうか分からない。一方で、薬がすぐに効く病人もいる。

つまり、「どんな霊でも必ずよくなれる。そして、永遠に、決定的に悪へと宿命づけられた霊など存在しない」ということが分かれば、「遅かれ早かれ、祈りは効果を発揮し、一見、無効だと思われた場合でも、実際には救いの種を蒔くことになっている」ということが納得出来るはずである。

したがって、直ぐに効果を収めることが出来ないからといって、決して諦めるべきではない。

――もし、この霊が再び転生するとしたら、どのような人間として生まれるのでしょうか?

「それは、彼がどのようにして自分の罪を購いたいと思うかによります」

さて、件の霊とやり取りするうちに、この霊の心境に著しい進展が見られた。以下に、そのやり取りを掲げる。

――最初に呼ばれた時は、どうして書かなかったのですか?
「書きたくなかったからだ」

――どうして書きたくなかったのですか?
「ぼーっとしていて、何を書いていいか分からなかったからだ」

――そうすると、今は、望みさえすれば、カステルノダリーの家から離れることが出来るのですか?

「それが出来るようになった。というのも、俺が、あんたらの忠告に従ったからだ」

――それでは、心が軽くなってきたでしょう?
「うん、希望が感じられるようになってきた」

――今、もしあなたを見ることが可能だとしたら、どのように見えるのでしょうか?

「ちゃんとシャツを着ている姿だ。匕首(あいくち)はもう持っていない」

――どうして匕首を持っていないのですか? どこへやったのですか?

「もう見たくなくなったのだ。神様が、見えなくしてくださった」

――もしD氏の息子さん(この霊が殴った人)が再びこの家に住んだとしたら、あなたはまた何か悪さをしますか?

「いや、もうしない。悔い改めたからな」

――もし、彼が挑発したら?

「いや、もうそんなことは聞かないでくれ。また暴れなくなって、抑えが利かなくなるからな。ああ、まだまだ哀れなもんだ」

――苦しみがいつ頃終わりそうか、分かってきましたか?

「いや、まだだ。だが、それがいつまでも続くものではないことは分かってきた。前にはそれすら分からなかったのだから、全くあんたらのおかげだ」

――最初にお呼びした時よりも前のことについて、色々と教えて頂けませんか?これは、面白半分で聞いているのではなく、そうすることが、あなたにとっていい結果をもたらすと思われるからなのです。

「既に言ったように、自分が犯した犯罪のこと以外には何も考えられなかった。家を離れたとしても、そこには闇と孤独しかなかった。それがどのような感じだったか、とても説明することは出来ない。自分でも、何がどうなっているのか、さっぱり分からなかったのだから。家から逃げれば、そこは暗黒で、全く何もなかった。それが何だったのか、今でも分からない。

今では、前よりもずっと後悔している。それに、もうあの忌まわしい家に閉じ込められていない。地上をあちこち見て回って、色々と勉強することも許されている。でも、そうすればそうする程、自分がやったことの重大さが分かってくるのだ。ある意味では苦しさはなくなってきたが、一方では、悔恨から来る辛さが酷くなってきている。だけど、少なくとも希望が出てきた」

――今度、地上に生まれ変わるとしたら、どんな人生を送るつもりですか?

「もっと色々見聞して、考えてから決めたいと思っています」

――長い間、一人きりであの家に閉じ込められていたわけですが、その間に後悔はしたのですか?

「いいや、全くしませんでした。だからこそ、長い間苦しんだわけです――。ようやく後悔を感じ始めた頃に――私は知らずにいたのですが――、私を招霊してくれる準備が整ってきたわけです。そして、私の解放が始まったということなのです。

その意味で、私を哀れみ、私に光を与えてくださった皆さんには、感謝、感謝です」

我々が今までに見てきたのは、次のようなケースである。

すなわち、黄金を見ては歯ぎしりする吝嗇家。彼にとっては、この黄金は悪夢と化している。

自分達には与えられず、他の人々に与えられる名誉に激しく嫉妬する傲慢な人間達。

生前、地上では、威丈高に命令していたが、死後、どうしても従わざるを得ない、見えない力に辱められ、また、もう彼らの言うことを聞こうとしない家臣達によって侮辱される王侯貴族達。

「何も信じられない」という苦しみに苛まれ、広大な空間の中で絶対的な孤独にさらされ、助けてくれそうな人にどうしても会うことの出来ない無神論者。

霊界においては、あらゆる美徳に対して喜びが与えられるのと同様に、あらゆる悪徳に対して苦しみが与えられる。人間の法律は逃れられても、神の法律を逃れられる者はただの一人もいないのである。

また、同じような状況で犯された、同じような過ちであったとしても、それを犯した霊の精神の発達段階に応じて、全く異なった形で罰が与えられる。

ここで扱った霊のように、未熟で粗野な霊の場合、精神的というよりも物質的な苦しみが与えられ、精神的に、また感性的に発達した霊であれば、反対に、物質的な苦しみではなく精神的な苦悩が与えられる。

前者の場合、彼らの境涯がどれほど大変なものであるかを理解させ、そこから逃れたいという気を起こさせる為には、彼らの荒々しい自我に見合った粗雑な罰を与える必要があるのだ。一方で、ほんの少し恥の感覚を味わわせるだけで、耐え難いほど恥ずかしさを感じるような、高度に発達した霊達もいるのである。

神が実施する刑法においては、どんな些細な点に至るまでも、智慧、善意、そして周到さが行き渡っている。全てがバランスよく配分されており、あらゆる面で、過ちを犯した人間が最も早く立ち直れるように配慮されている。魂の、善への憧れは、どのように些細なものであろうと、絶対に見逃されることはない。

一方、伝統的なカトリックの教義においては、刑罰は永遠に与えられるものとされており、地獄には、大犯罪人も、小犯罪人も、たった一度だけ罪を犯した者も、百回、罪を犯した者も、強情を張り通す者も、悔い改めている者も、全部ごちゃ混ぜになって入れられているのである。全てが、彼ら全員を地獄の底に閉じ込める為に仕組まれており、彼らが救われる可能性は全くない。たった一度でも過ちを犯せば、他にどのような善の行為を行っていたとしても、永遠に地獄に落とされるのである。

一体どちらに真の正義と真の善意があるだろうか?

したがって、この招霊は偶然ではなかったと考えられる。この霊を見守っていた高級霊達が、この霊が自らなした罪の重大さに気づき始めたのを見て取り、効果的な救いの手段として、この招霊の場を設定したのである。そうしたことは、今まで既に何度もあった。

このことに関して、「もし、この霊が招霊という機会を与えられなかった場合には、一体どうなったのか?」、また、「そもそも、こうした招霊の機会を与えられない霊は、どうなるのか?」ということを尋ねてみた。それに対して、「人間を救う為に神が講ずる手段は無限にある」という答が返ってきた。

招霊というのは、彼らを支援する為の有効な手段であるが、それだけが唯一の手段であるわけではない。例えば、悔い改める用意が出来た霊に対して、集合的な祈りは大いなる効果をもたらすことが出来る。

神は、苦しんでいる霊達の運命を、地上にいる人間達の知識と善意だけに任せているわけではない。我々が霊界とコンタクトを恒常的に取れるようになった時、まず教えられたのは、「高級霊達と協力することによって、苦しみの中にある霊達に救いの手を差し伸べることが出来る」という事実であった。神は、そのことによって、宇宙のあらゆる存在が繋がっているということを証明されたのである。

このようにして、慈悲の実践に新たな道を開くことにより、神は、それまで無知と迷信のせいで本来の方向から逸れつつあった招霊という現象に、真の有用で確かな方向性を与えられたのである。

いかなる時代においても、苦しみの最中にある霊達に、救いの手が差し伸べられないということはなかった。

招霊が、彼らに対して、新たな救いへの手段となったことは事実だが、肉体に宿って地上に生きる人間達にとっても、それは大変大きな意味があったのである。善を行う為の新たな道が開かれたというだけでなく、「地上でどう生きれば、死後どうなるか」ということが、極めて具体的にはっきりと分かるようになったからである。

第6章 みずからの怠慢と強情に苦しむ霊
(1) 怠惰な人生に対する「退屈」という罰――無為に生きた霊
一八六二年、ボルドーにて。

この霊は、自発的にコンタクトをとってきて、「お祈りをしてほしい」と言ってきた。

――どうしてお祈りが必要なのですか?
「迷っていて、どうしたらいいか分からないんです」

――もうずいぶん長いあいだ迷っているのですか?
「百八十年くらいになると思います」

――地上にいたときは何をしていたのですか?
「よいことは何もしませんでした」

――霊界ではどんな境涯にいるのですか?
「退屈している霊たちと一緒にいます」

――それは境涯とは言えないように思われますが。

「そんなことはありません。どんな心境の霊も、似た者、共感する者を見つけることができ、そうして彼らと一緒に暮らすのです」

――もし、苦しみという罰を受けていないなら、どうして、長いあいだ、向上もせずに迷っているのですか?

「私は、いわば、退屈という罰を受けているのです。これも立派な苦しみなのです。喜びでないものは、すべて苦しみではないですか?」

――ということは、自分の意志に反して、迷いの世界に置かれているのですか?

「こうしたことは非常に微妙なので、あなたがたの物質界における粗雑な知性では、とうてい理解できないでしょう」

――私に分かるように説明してくださいませんか? そうすることで、何かの役に立つことになるかもしれませんよ。

「できません。どのように言ったらいいのか――。ふさわしい言葉が見つからないのです。

地上で、生命の火を心ゆくまでしっかり燃やさなかったために、何か不全感のようなものが残っているのです。紙がちゃんと燃えないと、しっかり灰にならずに、何か滓(かす)のようなものが残るでしょう? あんな感じです。霊に、肉体の滓のようなものが付着しており、完全なエーテル体に戻れないわけです。純粋なエーテル体に戻ってこそ、初めて向上を願うことができるというのに」

――何が原因で、退屈が生じているのですか?

「地上での生き方の影響がまだ消えていないのです。退屈とは、無為が生み出すものです。私は、地上で過ごした長い年月を、有効に使いませんでした。その帰結(きけつ)をいま霊界で引き受けている、ということなのです」

――あなたのように、退屈にとらわれている霊たちは、やめようと思えば、その状態から抜け出られるのではないですか?

「いつもそうできるとは限りません。というのも、退屈が、われわれの意志を麻痺(まひ)させているからです。

われわれは地上での生き方の結果を引き受けているのです。われわれは、無用な存在として人生を過ごし、『主体的に何かに取り込む』ということをしませんでした。だから、いま霊界で、退屈しながら、みんなばらばらに生きているのです。退屈に飽き飽きして、自分で『本当に何とかしなくては』と思いはじめるまで、この状態で放っておかれるのです。われわれの中に、ほんの少しでも意志が芽生えれば、助けがやってきて、よき忠告をしてくれ、努力を支援してくれるのです。そうすれば、われわれも何とかやりつづけられるのですが」

――地上でどんなことをしたのか、ほんの少しでもいいですから、教えていただけませんか?

「ああ、それは勘弁してください。本当に大したことはしていないんです。退屈、無用、無為はぜんぶ怠惰(たいだ)から生じるのです。怠惰はまた無知も生み出します」

――過去世での修行で向上しなかったのですか?

「しましたよ。でも、大した向上はしていません。転生(てんしょう)は、だいたい、どれも似たようなものになるからです。それぞれの転生で向上します。しかし、それは実にわずかなものです。でも、われわれにとってはそれで充分なのです」

――次に転生するまで、ここに頻繁(ひんぱん)に来ていただくことはできますか?
「呼ばれたら、来ざるを得ないでしょう。でも、私にはありがたいことです」

――あなたの書体はしょっちゅう変わりますが、それはどうしてですか?

「それは、あなたが質問しすぎるからですよ。疲れるので、他の霊に助けてもらっているのです」

霊媒の指導霊からのメッセージ:「『考える』という作業が、この霊を疲れさせるのです。そこで、彼が答えられるように、われわれが協力せざるを得ないのです。この霊は、地上でもそうだったように、霊界でも無為に過ごしています。われわれは、この霊をあなたのところに連れてくることで、何とか無気力状態から救い出そうと考えたわけです。

退屈に由来する、この無気力状態は、ある意味では、激しい苦しみよりももっとつらい、真の意味での苦しみだと言えるかもしれません。というのも、いつまでも、無限に続く可能性があるからです。決して終わることのない退屈がいかに恐ろしいものであるか、あなたがたには想像できますか?

この類(たぐい)の霊にとっては、地上への転生は単なる気晴らしでしかないのです。彼らにとっては、霊界での耐えがたい単調さを破る唯一の機会が、地上に生まれ変わることなのです。したがって、善をなそうという決意もせずに、地上に生まれ変わることがあるのです。そして、また同じことを繰り返すわけです。
『本当に向上したい』という気持ちが、いつか芽生えてくるのを待つほかないでしょう」

(2) 地獄の拷問で苦しんでいる男の霊――クシュメーヌ
一八六二年、ボルドーにて。

クシュメールと名乗る霊が、ある時、自発的にメッセージを送ってきた。霊媒は、こうした霊示を受け取ることに慣れていた。霊媒の指導霊が、しばしばこのような低級霊を連れて来ていたからである。霊媒自身が教訓を学ぶこと、そして、当該霊に向上の機会を与えること、この二つがその目的である。

――あなたはどなたですか? お名前を聞いた限りでは、男性なのか女性なのか分かりませんが。

「男だ。これ以上考えられないほど不幸な男の霊だ。地獄のあらゆる拷問で苦しんでいるのだから」

――伝統的なカトリックが主張するような地獄というのは実は存在しないのですよ。従って、いわゆる地獄の拷問というものもありません。

「何をたわけたことを言っているんだ! 」

――あなたが置かれた状況を説明して頂けませんか?
「そんなことをする気は毛頭ない」

――もしかして、あなたが苦しんでいる原因の中には、エゴイズムが入っているのではありませんか?

「ふん――そうかもしれん」

もし楽になりたいのであれば、あなたのそういった悪しき傾向性を捨てる必要があります。

「そんなことは心配してくれなくて結構。お前には関係ない。それよりも、俺の為、そして他の霊達の為に、とにかく祈ってくれんかね。話はその後だ」

――しかし、まず悔い改めをしないと、お祈りの効果は殆どありません。

「祈りをせずに、そんなふうにべらべら喋っていても、俺はちっとも向上出来ないぞ」

――本当に向上したいのですか?

「多分な。だが、よく分からん。祈りが効くかどうか試してみよう。それが一番大事なことだ」

――では、安らぎを強く願って、私と一緒にお祈りをしてください。
「俺はいいから、とにかくお前がやってみてくれ」

――(祈った後で)いかがですか?
「俺が思っていたみたいにはなってないぞ」

――長い間病気をしている人に、一度、薬を与えたからといって、直ぐに治るわけではありません。

「ふん、そうかもしれん」

――また来てくださいますか?
「ああ、呼んでくれればな」

霊媒の指導霊からのメッセージ:「我が娘よ、あなたは、これから、この強情な霊には手を焼くでしょう。しかし、深い迷いの中にいない霊を救ったところで、何程のことがありましょうか。

勇気を出しなさい! 根気強く続ければ、必ずやり遂げられます。お手本を見せ、時間をかけて説得すれば、どんな罪深い霊であっても、最後には必ず立ち直ることが出来るでしょう。どんなに邪悪な霊であっても、やがては自己改善に取り組むものです。

仮に、すぐ成功しなくても、その為に費やした時間と労力は、決して無駄になることはありません。彼らに投げかけられた、よき言葉、よき考えは、必ず彼らを動かし、考えさせるからです。種を蒔いておきさえすれば、それがいつかは芽を出すのです。そして、やがては果物をならせます。ツルハシを一度打ち込んだだけでは、頑丈な岩は割れないでしょう?

このことは、よいですか、我が娘よ、生きている人間にも当てはまるのです。どんなに強く霊実在論を信じている人でも、あっという間に完璧になれるわけではないということを覚えておきなさい。信ずることは、最初の一歩に過ぎないのです。次に、本物の信仰がやってきます。そして、ようやく自己変革が可能となるのですよ。しかし、多くの人達にとっては、まず、何よりも、霊界に実際に触れてみることが大切なのです」

第7章 厳しい人生の試練を経験した霊
(1) 自分がしてもらいたいことを他の人にせよ――スジメル・スリズゴル
スリズゴルは、ヴィルナに住む貧しいユダヤ教徒で、一八六五年に亡くなった。

三十年間、彼は、お椀を手に物乞いをして過ごした。街の至るところで、人々は彼の声を聞いたものである。

「貧しい者、寡婦、孤児達にどうぞ哀れみを! 」

一生を通じて、彼は九万ルーブルを施された。しかし、自分の為には一銭たりとも使わなかった。それらを病人達に与え、しかも、自分自身で彼らの世話をした。貧しい子供達の教育費を払ってやり、貰った食料品は、貧窮に喘ぐ者達に分け与えた。夜なべ仕事に嗅ぎタバコをつくり、それを売って自分の生活費とした。生活費が残れば、勿論、貧しい者達に分け与えた。

スリズゴルには家族がいなかったが、葬式の日には、街中の人々が葬列に加わり、街中の店が休業となった。

一八六五年六月五日、パリ霊実在主義協会にて。

――招霊します――
「地上での支払いは高くつきましたが、とうとう目的を達し、今は幸福の絶頂です。

今晩は、初めからこのセッションに参加させてもらっています。哀れな乞食の霊に関心を寄せてくださり、心よりお礼を申し上げます。喜んで、あなた方のご質問にお答え致しましょう」

――ヴィルナのお住まいの、ある方から頂いた手紙によって、あなたの、奇特な、素晴らしい人生のことを知りました。その人生に共感を持ち、こうしてお話させて頂きたいと思うようになったわけです。

招霊に応じてくださって、誠に有り難うございます。我々の質問にお答え頂けるということですので、「現在は霊としてどのように過ごしておられるのか」、また、「今回の人生はどのような理由でああしたものになったのか」という点についてお教え頂ければ幸いです。

「では、まず初めに、自分の本当の立場がどんなものであるかをよく理解している私に、あなたの考え方に対して、率直な意見を言わせてください。もしそれがおかしいと思われたら、是非忠告をお願い致します。

私のような、何の取り柄もない人間が、そのささやかな行為によって共感を呼び、その結果、このような大規模な形での公開セッションが開かれることになったのを、あなた方は不思議に思われたことでしょう。

今私は、あなた、すなわちアラン・カルデック氏に対して申し上げているのではなく、霊媒及び霊実在主義協会のメンバーの皆様に対して申し上げているのでもありません。私が今[あなた方]と言ったのは、まだ霊実在論を信じていない方々のことです。

さて、このような大規模なセッションが行われることは、何ら不思議なことではありません。というのも、善の実践が人類に及ぼす精神的な影響力は非常に大きい為に、普段どれほど物質的な生き方をしていようとも、人々は常に善に向かって進もうとするものだからです。人々は、悪への傾向性を持っているにもかかわらず、善なる行為を讃えるものです。だからこそ、多くの人々が集い、このような大規模なセッションが可能となったのです。

さて、それでは、先程のご質問にお答えしましょう。それは単なる好奇心からの質問ではなく、広く教訓となる答えを求めての質問でした。私はこれから、出来るだけ簡潔に、私の今回の転生における生き方を決めた原因について語ってみたいと思います。

私は数世紀前に、あるところで王として暮らしておりました。今日の国家に比べれば、いささか見劣りのする大きさですが、それでも、私はその国において、絶対的な権力を持ち、家臣達の運命を完全に手中に収めておりました。私は、暴君として――いや、むしろ死刑執行人と言った方がよいでしょう――生きておりました。

横暴で、気性が激しく、吝嗇で、色を好む王の下で、哀れな家臣達がどうなるかは、あなた方にもすぐ想像がつくでしょう。私は権力を濫用して、弱き者達を抑圧し、あらゆる人民を私の欲望の遂行の為に奉仕させました。

物乞いをして得たものにまで税金をかけたのです。どんな乞食も、私に高い税金を払わずに物乞いをすることは出来ませんでした。いや、それだけではありません。税金を払う乞食の数を減らさない為に、私は、友人、両親、家族等が、乞食の候補者達に、僅かな物品でさえ分け与えることを禁じたのです。親しい人間達から物を貰うことが出来れば、彼らは乞食にならないからです。

要するに、私は貧困の中にあって喘ぎ苦しむ人々に対し、最も無慈悲な人間であったというわけなのです。

やがて、私は、恐ろしい苦しみの中で、あなた方が命と呼んでいるものを失いました。この死は、私と同じようなものの見方や考え方をする人々にとっては、恐怖のよきモデルとなるでしょう。その後、私は二百五十年の間霊界で彷徨い続けました。そして、それだけ長い時間をかけて、私はようやく、地上に生まれ変わる本当の目的を理解したのです。

その後、私は、諦念、反省、祈りを通して、物質界にもう一度生まれ変わり、私が人民に味わわせたのと同じ苦しみを、或はそれ以上の苦しみを、耐え忍ぶという試練を与えて頂いたのです。しかも、神は、私自身の自由意志に基づいた、『精神的、肉体的な苦痛をさらに激しいものにしたい』という願いに対し、ご許可を下さったのです。

天使達に助けて頂きながら、地上で、私は『善を行う』という決意を貫きました。私は天使達に心から感謝しなければなりません。天使達の助けがなければ、私は、自分が企てた試みを、きっと途中で放棄してしまっていただろうと思うからです。

私はこうして一生を終えたのですが、その間に為した献身と慈悲の行為が、かつての転生の際の、残酷で不正にまみれた一生をかろうじて購ったということなのです。

私は貧しい両親のもとに生まれ、幼い頃に孤児となり、まだ年端も行かぬうちに、自分で生きることを学びました。たった一人で、愛も情けも知らずに生き、さらに、私がかつて他者に為したのと同じ残酷な仕打ちを受けました。私が為したのと同じだけの仕打ちを、同胞達から受ける必要があったのです。誇張も、自慢もせずに言いますが、まさしくその通りでした。

そして、私は、自分の生活を極度に切り詰めることによって、社会奉仕を行い、私が為す善の総量を多くしたのです。

私は、地上での償いによって天の蔵に積まれた徳の量は、おそらく充分なものであるだろうと考えながら、心安らかに地上を去ったのですが、霊界に還ってみると、私が頂いたご褒美は、密かに予想を遥かに上回っていたのです。私は今とても幸福です。

そして、あなた方に告げたいのは、『自らを高くするものは低くされ、自らを低くするものは高くされる』という真実です」

――今回の転生の前に、霊界ではどのような償いを行ったのですか? そして、亡くなって以来、悔い改めと決意の力で運命が転換するまで、一体どれくらいの年月がかかったのですか? また、何がきっかけで、そのような心境の変化が起こったのですか?

「ああ、それを思い出すのは、今でもとても辛いことです! どれほど苦しんだことでしょう――。しかし、嘆くのは止めて、思い出してみることにします。私の償いがどのようなものであったのか、ということでしたね。それはそれは恐ろしいものでした。

既に言ったように、あらゆる善き人々に対する[死刑執行人]であった私は、長い間、そう、実に長い間、腐敗してゆく私の肉体に、霊子線で繋ぎ止められたままだったのです。肉体が完全に腐敗するまで、私は、蛆虫達が体を食らうのを感じていました。ああ、何という拷問だったでしょう!

そして、ようやく霊子線が切れ、肉体から解放されたと思ったら、もっと恐ろしい拷問が待っていたのです。肉体的な苦しみの後には、精神的な苦しみがやってきました。しかも、この精神的な苦しみは、肉体的な苦しみよりももっとずっと長く続いたのです。

私は、自分が苦しめたあらゆる犠牲者の姿を、目の前にずっと見せられました。定期的に、何か分からない大きな力によって連れ戻され、私の罪深い行為の帰結を目の前に見せつけられたのです。私は、自分が人に与えた、肉体的な苦しみも、精神的な苦しみも、全て、ことごとく見せられました。

ああ、友人達よ、自分が苦しめた人々の姿をいつも目の前に見せられるということが、どれほど辛いか分かりますか?

以上が、私が二世紀半をかけて行った償いなのです。

やがて、神は、私の苦しみと悔悟の念をご覧になって哀れみを覚えられ、また、私の指導霊の懇願をお聞き入れになって、ついに、私に、再び地上で償いをすることを許可してくださいました。この償いについては、あなた方は既にご存知のはずです」

――ユダヤ教徒になることを選ばれたのは、何か特別な理由があったのですか?

「それは私が選んだのではなく、私は単に指導霊の忠告を受け入れたにすぎません。

ユダヤ教徒であるということは、私の償いの人生にとって、さらに一つの大きな試練となりました。というのも、ある国々においては、殆どの人がユダヤ教徒を見下しているからです。乞食ともなれば、尚更です」

――今回の人生では、何歳の時から地上での計画を実践に移されたのですか? どうして、その計画を思い出したのですか? そのようにして生活を切り詰め、慈悲の行為を行っていた時、何らかの直観によって、あなたをそのように駆り立てる理由に気づいていたのですか?

「貧乏だが知性が高く、吝嗇な両親のもとに私は生まれました。

幼くして、母親が亡くなり、私は母親の愛情と愛撫を失いました。父親が、口減らしの為に私を捨てたので、その分、母親を失った悲嘆が激しくなりました。兄達や姉達は、誰も私の苦しみには気がつかなかったようです。

別のユダヤ教徒が、思いやりからというよりも利己心から、私を拾い、仕事を覚えさせました。仕事はしばしば私の能力を超えていましたが、それによる収入は、私の生活費を補って余りあるものでした。

しかし、どこにいても、働いていても、休んでいても、私には、母親の愛撫の記憶が付きまといました。そして、大きくなるにつれ、その記憶はますます深く私の心に刻み込まれていったのです。私は、絶えず母親の世話と愛情を懐かしがっておりました。

やがて、私を引き取ったユダヤ教徒が亡くなり、私は家族と呼び得る最後の一人も失いました。その時に、『残りの人生をどのように過ごすか』ということが啓示されたのです。

私の兄達の内の二人が、孤児を残しておりました。その孤児達の姿を見て、自分の幼い頃のことを思い出した私は、その子達を引き取りましたが、私の仕事だけでは全員の生活を賄う収入を得ることは出来ませんでした。その時に、私自身の為ではなく、その子達の為に、物乞いをすることに決めたのです。

神様は、私が努力の成果を楽しむことをお許しになりませんでした。というのも、子供達が、やがて永久に私のもとから去ってしまったからです。私には、彼らが欲しかったものが分かりました。それは母性だったのです。

そこで、今度は不幸な寡婦達の為に慈善の行為を行うことにしました。というのも、彼女達は、自分の実入りだけでは子供達を育てられないので、極度に自分の食べるものを切り詰め、その為に命を落とすことがしばしばあったからです。そうして残された孤児達は捨て置かれ、私自身が味わったのと同じ苦しみを味わうことになったのです。

力と健康に溢れた三十歳の私は、こうして、寡婦と孤児の為に物乞いをすることになりました。最初は上手くいきませんでしたし、侮辱の言葉を何度も耐え忍ばねばなりませんでした。しかし、私が、物乞いで得たものを全て貧しい人々の為に差し出し、しかも、自分の仕事で得たものまでもそこに付け加えるのを見て、人々は徐々に私に対する見方を変え、そのお陰で私は大分楽に生きられるようになりました。

私は六十数歳まで生きましたが、自分に課した仕事をないがしろにしたことは一度もありません。また、こうした行動が、実は私の過去世の罪を償う為のものであるということを、良心が私に気づかせるようなことも決してありませんでした。

『人からされたくないことを、決して人に対して行ってはならない』

この短い言葉に含まれている深い意味に、私はいつも感じ入っていました。

そして、しばしば、次のように付け加える自分に気がついたものです。『自分がしてもらいたいと思うことを、人に対してしてあげなさい』と。

私の母親の記憶と、自分自身の苦しみの記憶に助けられて、私は一度歩むと決めた道を最後まで辿ることが出来ました。

そろそろ、この長い通信をおしまいにしましょう。どうもありがとうございました。私はまだまだ完全ではありません。しかし、悪因悪果ということを骨身に染みて学びましたので、今回の転生でそうしたように、これからも、善因善果の法則に基づいて、幸福を手に入れる為に善なる行為を重ねていきたいと思っております」

(2) 障害と貧困の生涯から学んだこと――ジュリエンヌ=マリ
ノゼの近くのヴィラト村に、ジュリエンヌ・マリという貧しい女性がいた。年老いて、肢体不自由で、村から施しを得て生活していた。

ある日、池に落ちたが、いつも彼女を援助していたA氏によって発見された。家に運ばれた時には、既に亡くなっていた。「自殺したのではないか」という噂が立った。

彼女が亡くなった当日、医者のB氏は――霊実在主義者で、且つまた霊媒でもあり、彼女が亡くなったということは知らなかった――、側に誰かがいるような気がしたが、その理由は分からなかった。彼女が亡くなったということを聞いた氏は、「あれは彼女の霊が来ていたのではないか」と思った。

B氏から事情を聞いたパリ霊実在主義協会のメンバーの一人が、B氏の為に、この女性を招霊した。何らかの意味で彼女の役に立てれば、ということでそうしたのである。

しかし、その前に、指導霊に伺いを立ててみたところ、次のような回答を得た。

「招霊してもよろしい。彼女は喜ぶでしょう。
しかし、あなたが彼女にしてあげたいと思っていたことは、彼女にとっては不要です。彼女は幸福で、彼女のことを思ってくれていた人々に対して、献身的に尽くすつもりでいます。あなたは彼女のよき友人でしたね。彼女は殆どずっとあなたの側におり、あなたが知らない間に、あなたと対話をしているのですよ。

今、彼女はあなたがしようとしている善なる行為を支援したいと思っています。イエスが仰った次の言葉を思い出してください。

『低くされた者は、高くされるであろう』

彼女からは多くの支援を受けることが出来るでしょう。しかし、それも、『あなたの行為があなたの隣人にとって有用である』という限りにおいて許されるのです」

――招霊します――

こんにちは、ジュリエンヌ=マリ。あなたが幸福だということを伺い、とても安心しました。そのことが一番気になっていたからです。

でも、いつもあなたのことを考えているのですよ。そして、お祈りの時は、必ずあなたのことを思っています。

「神様を信頼しましょう。あなたに関わりのある病人達に、敬虔な信仰をお勧めしなさい。必ず上手くゆくでしょう。

でも、見返りを求めてはいけません。天上界に還った時に、それはおのずと与えられるからです。その素晴らしさに、あなたはきっと驚くことでしょう。神様は、同胞の為に尽くした者には、必ずご褒美をくださいます。そして、その奉仕が完全に無私のものとなるように導いてくださいます。無私の心で為されない奉仕は、すべて幻、空想に過ぎないからです。

『まず何よりも信仰を持つ必要がある。信仰がない場合、全てが虚しい』

どうか、この箴言(しんげん)を覚えておいてください。きっと、その結果の素晴らしさに驚かれることでしょう。あなたが治してさしあげたお二人の病人が、そのよき証となるでしょう。ああした状況では、信仰なしに、単に薬を与えただけでは、決して治らなかったはずなのです。

病人を癒す為の生体エネルギーを下さるように神様にお願いしても、その願いが聞き届けられないような場合、それはお祈りに込めるあなたの熱意がまだ充分ではないからなのです。私が申し上げた条件の下に為されて初めて、お祈りは熱意溢れたものになるのですよ。あなたが、先日、心の底から次のように祈った時に感じた、あの感激を思い出してください。

『全能なる神よ、慈悲溢れる神よ、無限なる善の神よ、どうか私のお祈りをお聞き届けください。そして、Cさんを癒す為に、天使をおつかわしください。Cさんをお哀れみください。そして、Cさんが再び健康を取り戻せますように、よろしくお願い致します。あなたなしには、私には何も出来ません。あなたのお心から成就されますように』

あなたが、ああした下層の人々の為に働くのはとても善いことです。苦しみに満たされ、この世の悲惨さを忍んでいる人々の声は、必ず聞き届けられます。そして、あなたが既にご存知のように、奉仕の行為は必ず報われるのです。

さて、それでは、私のことを少々お話させて頂きます。そうすることで、私が今お話したことが本当であると確信出来るでしょう。

霊実在論を学んでいるあなたであれば、今こうして語っているのが霊としての私であることは、当然お分かりのはずです。したがって、そのことに関しては詳しく触れません。

また、今回の転生の前の転生についても触れる必要はないと思います。今回の私の生き方をご覧になったあなたであれば、その前の転生がいかなるものであったか、おおよそ見当がつくはずだと思うからです。私の過去世は、必ずしも満点ではなかったのです。

今回、私は、体が不自由で働くことが出来なかった為に、一生の間物乞いをして、悲惨な人生を送りました。お金を貯めることなど、殆ど出来ませんでした。晩年に至って、ようやく百フラン程貯まりましたが、これは、私の足が最早私の体を運べなくなった時の為のものでした。

神様は、私の試練と償いが充分に済んだことをお認めになって、ようやく私の人生に終止符を打たれ、私を苦しみに満ちた地上から引き上げてくださいました。

私は、人々が最初に思ったように、自殺したというわけではなかったのです。私が最後の祈りを神様に捧げている最中に、私は、突然、池のほとりで死を迎えたのです。そこが坂になっておりましたので、私の体は自然に池に落ちたというだけなのです。

苦しみは全くありませんでした。私は、じっと耐えながら、滞りなく自分の使命を果たすことが出来て、今、とても幸せです。私は、自分に許された力と方法が及ぶ範囲で、人々の役に立つことが出来、また、隣人に対して過ちを犯さずに済みました。

今、こうして、ご褒美を頂き、神様に――私達の主なる神様に――、心より感謝申し上げるのです。

神様は、地上での一生の間、私達の過去世のことを忘れさせてくださり、そのことで人生の辛さを和らげてくださいます。また、人生の途上に、思いやりに溢れた人々を配してくださり、私達が、過去世で犯した過ちという重い荷物を背負い続けるのを、助けてくださるのです。

私がそうしたように、どうか辛抱強く生きてください。そうすれば、必ず報われます。

色々と助けてくださり、そしてまた、お祈りをしてくださったことに対して、心より感謝申し上げます。このことは決して忘れません。

やがて再びお会いすることになるでしょうが、その時に、もっと多くのことをご説明致しましょう。今お話しても、お分かりにならないことが沢山あるのです。

どうぞ、私があなたに全面的に奉仕するつもりであることをご承知おき下さい。苦しんでいる人々を救おうとする時、もし助けが必要であるのならば、私は必ずあなたのお側に参ります」

一八六四年に再びパリ霊実在主義協会において招霊されたジュリエンヌ=マリの霊が、次のようなメッセージを送ってくれた。

「会長様、こうして再び招霊してくださり、誠に有り難うございます。

あなたが感じ取られた通り、私は、過去世においては、社会的に見て高い地位に就いていたことが多かったのです。そして、その時に、自惚れと慢心から、貧しく惨めな人々を拒絶するという過ちを犯した為に、今回はこうして貧しさという試練を受けることになったのです。[目には目を、歯には歯を]という応報の理に従い、私は、この国で最も悲惨な極貧生活を送ることとなりました。

それでも、神様の思いやりを教えて頂く為に、全ての人から拒絶されるということにはなりませんでした。

そういうわけで、私は、不平も漏らさずに、辛酸に満ちた、流謫(るたく)の地において、あの世での幸福を予感しつつ、どうにかこうにか過ごすことが出来たのです。

若々しい魂に戻って霊界に還り、愛する霊達に再び会えるということは、本当に嬉しいことです。

こうして感謝出来るのも、B氏が通信を受け取ってくださるからです。氏の助けがなければ、こうして感謝の思いを伝えることも出来ず、また、私が氏の善良な心から受けた影響を決して忘れていない、ということを言うことも出来ず、神聖な霊実在論の普及をお願いすることも出来なかったのです。

氏は、迷える魂達を正しい道に連れ戻すという使命を持っています。きっと私の支援が必要であることを感じられたのでしょう。そうです、私は、霊界の様子をこうしてお伝えすることで、生前、氏にして頂いたことを百倍にしてお返しすることが出来ます。

有り難いことに、主がご許可くださった為に、こうして霊達が通信を送ることが可能となっています。

どうか、貧しい人々は、苦しみを耐え忍ぶ勇気をそこから汲み取ってください。

そして、裕福な人々は、慢心に陥らないように注意してください。どうか、不幸な人々を拒絶することは恥であるということを知って頂きたいのです。さもないと、私と同様、再び地上に生まれ変わって、社会の最下層に属し、人間の屑と見なされながら、過ちを償うことにもなりかねません」

以上の霊示はB氏を通じて降ろされたものであるが、さらに、B氏が助言を求めると、次のようなメッセージが返ってきた。

――ジュリエンヌ=マリさん、霊実在論をさらに高度なものにする為に、霊界からご支援くださるということでしたが、私自身にもご忠告をお願い致します。あなたの教えを役立てる為に、可能なことは全て行うつもりでおります。

「これから申し上げることをよく覚えておいて、常に実践するようにしてください。

まず、自分に可能な範囲でよろしいですから、常に慈悲を実践してください。あなたは慈悲が何であるかをよく理解していますので、地上生活でのあらゆる側面で、慈悲を実践することが可能なはずです。したがって、このことに関しては、特に申し上げることは致しません。良心の声に従って、最も正しい判断を行ってください。良心の声に忠実に耳を傾ける限り、あなたが過つことはありません。

次に、霊実在論を普及させるという使命を遂行する上で、どうか過ちに陥らないようにしてください。小さい人は小さい使命を、偉大な人は偉大な使命を持っているのです。私の使命は、既に申し上げたように、大変辛いものでした。しかし、それは過去世で犯した過ちに見合うものであったのです。

パリ霊実在主義協会に多くの人が集うことになるのは、あなたが考えているほど遠い将来のことではありません。霊実在論は、数多くの妨害を受けてはおりますが、大いなる歩幅で進んで行くでしょう。

したがって、皆様、決して恐れることなく、情熱を持って突き進んでください。あなた方の努力は、勝利の王冠によって必ず報いられるでしょう。

人が何と言おうと関係ありません。つまらぬ批判など問題にする必要はありません。正しい人に対する間違った批判は、批判した人のところに返っていくのです。

傲慢な人々は、自分を強いと思い、あなた方を簡単に打ち倒せると思っています。しかし、友人達よ、常に穏やかでありなさい。そして、彼らと戦うことを恐れてはなりません。彼らを倒すのは、あなた方が考えているよりも遥かに容易だからです。

彼らの多くは、実際には、真理によって自分達の目が潰れるのを恐れているにすぎません。ですから、恐れることなくじっくりと待ちなさい。そうすれば、やがては彼らも仲間に加わり、霊実在論という大聖堂の建設に協力するのです」

以上の事実は大変示唆に富んでいる。この三つの通信に含まれる言葉をじっくり味わえば、多くのことを学ぶことが出来るだろう。霊実在論の中心的な原理が全て含まれているからである。

最初の通信から、既に、ジュリエンヌ=マリの霊は、その見事な言葉遣いによって、霊格の高さをはっきりと感じさせている。まるで蛹が蝶に変身するように見事に変身し、今や燦然と光を放つこの霊は、ボロを纏って地上にいた時に彼女を虐めなかった人を、丁度情け深い妖精のようにしっかり守護しようとしている。
これは、聖書にある次の格言そのままである。

「高き者は低くされるであろう。小さき者は大いなる者とされるであろう。慎ましき者は幸いである。苦しむ者は幸いである。苦しむ者は慰めを得るであろう。小さき者を蔑んではならない。なぜなら、この世で小さき者は、あの世では、想像も出来ないほど偉大な者になるかもしれないからである」

(3) 生きたまま埋葬された男性――アントニオ・B氏
アントニオ・B氏は、才能に恵まれた作家であり、多くの人々から尊敬されていた。ロンバルディア地方における名士であり、清廉かつ高潔な態度で公務を果たしてもいた。

一八五〇年、脳卒中の発作を起こして倒れた。実際には死んでいなかったのだが、人々は――ときどきあることだが――彼を死んだものと見なした。特に、体中に腐敗の兆候が現れたために、その思い違いが決定的となったのである。

埋葬後二週間してから、偶発的な態度から、墓を開くこととなった。娘が大切にしていたロケットを不注意によって棺(ひつぎ)の中に置き忘れたことが判明したのである。

しかし、棺が開けられたとき、列席者のあいだにすさまじい衝撃が走った。なんと、故人の位置が変わっていたのだ。仰向けに埋葬した体が、うつぶせになっていたのである。そのため、アントニオ・B氏が、生きたまま埋葬されたことが明らかとなった。飢えと絶望に苛(さいな)まれつつ亡くなったことは間違いなかった。

家族の要請で、一八六一年に、パリ霊実在主義協会において招霊されたアントニオ・B氏は、質問に対して次のように答えた。

――招霊します――
「何の用事でしょうか?」

――ご家族の要請があってお呼びしました。ご質問にお答えいただけると、たいへんありがたいのですが、どうぞよろしくお願いします。

「よろしい。お答えしましょう」

――死んだときの状況を覚えていらっしゃいますか?

「ええ、覚えていますとも! よく覚えていますよ! しかし、どうして、あの忌(い)まわしいことを思いださせるのですか?」

――あなたは、間違って、生きたまま埋葬されたのでしたね。

「ええ、でも無理もなかったのです。というのも、あらゆる兆候から、本当に死んでいるように見えたのですから。体も、完全に血の気を失っていました。実は、生まれる前からああなることに決まっていたのです。したがって、誰も悪くないのです」

――こうした質問がぶしつけであれば、中止いたしますが。
「続けて結構ですよ」

――あなたが、現在、幸福かどうかを知りたいのです。というのも、生前、立派な方として多くの人に尊敬されていたからです。

「ありがとうございます。どうか、私のために祈ってください。では、答えることにいたしましょう。精一杯、頑張るつもりですが、うまくいかなかった場合には、あなたの指導霊たちが補ってくださることでしょう」

――生きて埋葬されるというのは、どんな気持ちがするものですか?

「ああ、本当に苦しいものですよ。棺に閉じ込められて埋葬される! 考えてもみてください。真暗で、起き上がることも、助けを呼ぶこともできない。声を出しても、誰にも届かないのです。そして、すぐに呼吸も苦しくなってくる――空気がなくなるのです――。何という拷問でしょう! こんなことは、ほかの誰にも体験させたくありません。

冷酷で残忍な人生には、冷酷で残忍な処罰が待っているということなのです――。私が何を考えてこんなことを言っているかということは、どうか聞かないでください。ただ、過去を振り返り、未来を漠然とかいま見ているのです」

――「冷酷な人生には冷酷な処罰が下される」とおっしゃいましたね。しかし、生前のあなたの評判は素晴らしいものだったではないですか? とてもそんなことは考えられません。もし可能なら、ご説明いただけませんか?

「人間の生命は永遠に続いているのですよ。
確かに、私は、今回の人生では、よき振る舞いを心がけました。しかし、それは生まれる前に立てた目標だったのです。

ああ、どうしても、私のつらい過去について話さなくてはならないのでしょうか? 私の過去は、私と高級諸霊しか知らないのですが――。

どうしても話せというのなら、しかたがない、お話ししましょう。私は、実は、今回よりも一つ前の転生において、妻を生きたまま狭い地下倉に閉じ込めて殺したことがあるのです。そのために、今回の人生で、同じ状況を引き受けたということなのです。〈目には目を、歯には歯を〉ということです」

――ご質問にお答えくださり、本当にありがとうございました。今回の人生に免じて、過去の罪を許してくださるように、神にお祈りいたしましょう。

「また来ます。エラスト霊がもう少し補って説明したいようです」

霊媒の指導霊であるエラスト:「このケースから引き出すべき教訓は、『地上におけるすべての人生が互助に関連している』ということでしょう。心配、悩み、苦労といったものは、すべて、まずいことを行った、あるいは、正しく過ごさなかった過去世の結果であると言えるのです。

しかし、これは言っておかねばなりませんが、このアントニオ・B氏のような、ああした亡くなり方は、そんなに多く見られるわけではありません。彼が、何一つ非難すべきことのない人生を終えるにあたって、ああいう死に方を選んだのは、死後の迷いの時期を短縮して、なるべく早く、高い世界に還るためだったのです。

事実、彼の犯した恐るべき罪を償うための、混乱と苦しみの期間を経たあとに、初めて彼は許され、より高い世界に昇っていくことができたのです。そして、そこで、彼を持っている犠牲者――つまり、奥さんのことですが――と再会を果たしたのです。奥さんは、すでに彼のことはずいぶん前から許しています。

ですから、どうかこの残酷な例によく学んで、あなたがたの肉体的な苦しみ、精神的な苦しみ、さらには人生のあらゆるこまごまとした苦しみを、辛抱強く耐え忍ぶようにしてください」

――こうした処罰の例から、人類はどんな教訓を引き出せばよいのでしょうか?

「処罰は、人類全体を進化させるために行われるのではなくて、あくまでも、罪を犯した個人を罰するために行われるのです。実際、人類全体は、個人個人が苦しむこことは何の関係もありません。罰は、過ちに対して向けられるものだからです。

どうして狂人がいるのか? どうして愚かな人間が存在するのか? どうして、死に際して、生きることも死ぬこともできずに、長いあいだ断末魔の苦しみにさらされる人がいるのか?

どうか、私の言うことを信じ、神の意志を尊重し、あらゆることに神の思いを見るようにしてください。よろしいですか? 神は正義です。そして、すべてのことを、正義に基づいて、過つことなくなさるのです」

この例から、われわれは、偉大な、そして恐るべき教訓を引き出すことができる。それは「神の正義は、一つの例外もなく、必ず罪人に裁きを下す」ということである。

その時期が遅れることはあっても、断罪を免れるということはあり得ない。大犯罪人たちが、ときには地上の財物への執着を放棄して、心静かに晩年を送っていたとしても、償いのときは、遅かれ早かれ、必ずやってくるということなのだ。

この種の罰は、現実にこうして目の前に見せられることで納得できるものとなるが、それだけではなくて、完全な論理性を備えているがゆえに、また理解しやすくもあるのだと言えよう。理性に適(かな)ったものであるがゆえに信じることができるのだ。

尊敬すべき立派な人生を送ったからといって、それだけですべてを償うことができ、厳しい試練を免れることができるとは限らない。償いを完全に果たすためには、ある種の過酷な試練をみずから選び、受け入れなければならないこともあるのだ。それらは、いわば、借金の端数であって、それらをしっかり払い切ってこそ、進歩という結果が得られるのである。

過去幾世紀にもわたって、最も教養のある、最も身分の高い人々が、正規に堪(た)えない残虐な行為を繰り返してきた。数多くの王たちが、同胞の命を弄(もてあそ)び、権力をふるって無辜(むこ)の民を虐殺してきた。

今日、われわれとともに生きている人間の中に、こうした過去を清算しなければならない人々がたくさんいたとしても、何の不思議があるだろうか? 個別の事故で亡くなったり、大きな災害に巻き込まれて亡くなったりと、数多くの人々が亡くなっているのも、別に不思議なことではないのかもしれない。

中世、そして、その後の数世紀のあいだに、独裁政治、無知、傲慢、偏見などが原因で、数多くの罪が犯された。それらは、現在そして未来への膨大な量の借金となっているはずである。それらは、いずれにしても返さなければならない。

多くの不幸が不当なものに見えるのは、いまという瞬間しか視野に入らないからなのである

(4) 沸騰したニスを全身に浴びて亡くなった男性――レティル氏
パリの近郊に住んでいた家具製造業者のレティル氏は、一八六四年四月に、たいへん悲惨な死に方をした。

沸騰(ふっとう)していたニスの窯(かま)に引火し、そのニスがレティル氏の上にまともにこぼれかかってきたのである。氏は一瞬のうちに炎に包まれた。作業場には、氏以外に一人だけ見習い工がいたが、氏はその見習い工に支えられて、二百メートルほど離れた自宅に帰り着いた。すぐに応急手当がなされたが、体は焼けただれ、まるでぼろ布のようになっていた。体の一部の骨と、顔面の骨が露出していた。

その恐るべき状態で、死の瞬間まで、まったく意識を正常に保ったまま、仕事の指示をあれこれ出しながら、氏は十二時間のあいだ生きつづけた。このひどい苦しみのあいだ、氏は、ひとことも弱音を吐(は)かず、「苦しい」とも「痛い」とも言わず、最後は神に祈りながら亡くなった。

柔和(にゅうわ)で思いやりのある、立派な人であった。氏を知る人々は、みな、氏を愛し、尊敬していた。

霊実在論を熱烈に支持していたが、あまり熟考を重ねるタイプではなく、また、自分自身、霊媒の資質を持っていたので、数多くの霊現象に見舞われ、危うく翻弄(ほんろう)されそうになったこともある。しかし、最後まで霊実在論の信仰を捨てなかった。霊たちの言うことを信じる点においては、少々行きすぎもあるのではないかと思われるほどであった。

死後数日してから、一八六四年四月二十九日に、パリ霊実在主義協会で招霊された。まだ事故の生々しさが記憶から消えていなかったが、そうした状況で、次のようなメッセージが送られてきた。

「深い悲しみに襲われています。あの悲劇的な事故による恐怖がまだ消えておらず、いまだに死刑執行人が振り上げた刀の下にいるような気がします。

ああ、何という苦しみだったでしょう! まだ震えが止まりません。焼かれた肉のひどいにおいが、まだまわりに漂っているような気がします。十二時間にも及んだ断末魔の苦しみ! 罪ある霊にとって、何という試練だったことでしょう。それでも、ひとことも弱音を吐かず、苦しみに耐えたのです。それをご覧になった神は、きっと罪を許してくださるでしょう。

愛する妻よ、どうか泣かないでおくれ。苦しみは治まりつつあります。実際にはもう苦しんでいません。記憶が現実を作り出しているように思われるだけなのです。

霊実在論に関する私の知識が非常に役立ちました。もし、この尊い知識がなかったら、いまだに私は、死んだときの錯乱から抜け出せていなかったでしょう。

しかし、最後の息を引き取って以来、ずっとそばに付いてくれている存在があります。いまでは、すぐそばにいるのが見えます。最初は、苦しみのあまり錯乱して、幻覚を見ているのではないかと思っていましたが――。そうではなく、それは私の守護霊だったのです。静かに、優しく私を見守り、直接、心に語りかけて慰めてくれます。

私が地上から去るや否や、彼はこう語りかけてきました。

『さあ、こちらにいらっしゃい。朝がやってきたのですよ』

呼吸がずいぶん楽になり、まるで悪夢から抜け出したかのようでした。

私は、私に尽くしてくれた愛する妻のこと、そして、かの健気(けなげ)な子供のことを語りました。すると、守護霊は言いました。

『彼らは全員まだ地上にいて、あなたはこうして霊界にいます』

私はもといた家を探しました。守護霊が付き添って、連れていってくれました。みんなが涙に掻(か)き暮れているのが見えました。私が去ったばかりの家の中は、すべてが喪(も)の悲しみにひたされていました。

あまりのつらさに、その光景をみつづけることができず、私は守護霊に言いました。

「もうこれ以上、耐えられません。さあ、行きましょう」

『そうですね。そうしましょう。そしてしばらく休みましょう』と守護霊は言いました。

それから、私の苦しみは安らぎました。悲しみに暮れている、私の妻と友人たちの姿さえ見えなければ、ほとんど幸福だと言ってもいいくらいでした。

守護霊が、どうして私があれほど苦痛に満ちた死に方をしなければならなかったのかを教えてくれましたので、それを、これから、あなたがたの後学(こうがく)のために語ってみましょう。

いまから二世紀ほど前、私は、若い娘を火刑台で死刑にしました。年のころは十三歳、当然のことですが、純真で無実の娘でした。いったいいかなる罪を着せたのでしょうか?

ああ、教会に対する陰謀(いんぼう)の共犯者として彼女を捕えたのです。私はイタリア人で、異端審問官だったのです。死刑執行人たちは、汚(けが)らわしいと言って、娘の遺体に触ろうとさえしませんでした。私自身、審問官であり、かつまた死刑執行人でもありました。

ああ、正義、神の正義は偉大なり! 私はその神の正義に従って、今回の惨事を耐え忍んだのです。私は『人生最後の苦しみとの戦いの日に、ひとことも弱音を吐かない』と誓い、それを守り通しました。私は黙ってじっと耐え、そして、おお、神よ、あなたはそれをご覧になって私を許された!

あの哀れな娘、無実の犠牲者の思い出は、いつ私の記憶から消えるのでしょうか? その思い出が私を苦しめるのです。それが完全に消えるためには、彼女が私を許す必要があるのですね。

ああ、新たな理論、霊実在論を信じる子供たちよ、あなたがたはよくこう言います。『私たちは、過去の転生でやったことを覚えていない。もしそれを覚えていれば、用心して、数多くの過ちを避けることができるのに』と。

しかし、神に感謝しなさい。もしあなたがたが過去世での記憶を保持していたとしたら、地上において、一瞬たりとも安らぎを感じることができなくなるのですよ。悔恨(かいこん)や恥の思いに絶えず付きまとわれたとしたら、ほんの一瞬でも心の安らぎを感じられると思いますか?

したがって、忘却とは恩寵(おんちょう)なのです。記憶こそが、霊界では拷問なのですよ。

もう何日かすれば、苦しみに耐えた私の我慢強さに対する報いとして、神は、私から、過ちの記憶を消してくださるでしょう。それこそが、守護霊が私にしてくれた約束なのです」

今回の転生で、レティル氏が示した性格の特徴を見れば、氏がどれほど進化した魂であるかが分かるだろう。彼の生き方は、彼の悔い改め、そしてそれに伴う決意の結果であったのである。

しかし、それだけではまだ充分ではなかった。さらに、彼が他者に経験させたことを、みずから実際に経験する必要があったのである。そして、その恐るべき状況において耐え忍ぶということが、彼にとって最も大きな試練となった。しかし、幸いなことに、氏はそれを何とか乗り切った。

霊実在論を知ることによって、死後の世界への確信が生まれたことが、氏の勇気の源泉となったことは間違いない。「人生上の苦しみは、試練であり、償いである」ということを知っていたために、弱音を吐かずに素直に受け入れることができたのである。

(5) 知的障害があっても霊には正常な思考力がある――シャルル・ド・サン=G
一八六〇年、パリ霊実在主義協会にて。

シャルル・ド・サン=Gは十三歳の知的障害児で、知性がまったく発達しておらず、自分の両親が誰かも分からなかった。また、一人で食事をすることさえできなかった。体の発育も、小さいときにまったく止まってしまっていた。(訳者注:以下は、この生きている子供の霊を招霊したときの記録)

――(聖ルイの霊に対して)この子供の霊を招霊したいのですが、よろしいでしょうか?

「そうですね、死者の霊を招霊するのと同じように、この子の霊を招霊することは可能です」

――ということは、いつでも招霊が可能だということですか?

「そのとおりです。魂は霊子線で肉体と結びついており、いつでも招霊することが可能です」

――シャルル・ド・サン=Gの魂を呼びます――

「私は体を通して地上に縛りつけられた哀(あわ)れな霊です」

――霊体としてのあなたは、今世(こんぜ)、自分が知的障害を持った人間として地上に生きていることを、意識していますか?

「もちろんです。とらわれの身であることは感じています」

――あなたの肉体が寝ているとき、あなたは霊として肉体から離脱すると思うのですが、そのとき、あなたは、霊界にいたときのように、澄んだ意識でいられるのですか?

「私の哀れな肉体が休んでいるとき、私は自由になり、霊界へと上がっていって一息つくのです」

――現在のような不自由な肉体に宿っていることを、霊として、つらいと感じますか?
「もちろんです。これは罰なのですから」

――ということは、過去世についての記憶があるということですか?

「ありますとも。前回の転生で、現在の地上への追放の原因をつくったのです」

――どんな生き方をしたのですか?
「アンリ三世の治世下、私は若い自由思想家でした」

――あなたは「現在の境涯は罰である」とおっしゃいました。ということは、ご自分で選ばれたわけではないのですね?

「はい、私が選んだわけではありません」

――現在のような人生を送ることが、どうして進化に役立つのでしょうか?

「神が私にそれを課した以上、私にとってそれが役に立たないということはあり得ないのです」

――今回の地上の人生はいつまで続くかご存知ですか?

「分かりません。ただ、あと数年もすれば、故郷に還れるのではないかと思っています」

――前回の転生が終了し、今回の転生が始まるまで、霊界では何をしていたのですか?

「私は軽はずみなことをしでかしましたので、ある場所に閉じ込められて反省しておりました」

――通常の意識状態のとき、あなたはまわりで起こっていることを自覚していますか? 内的器官はあまり発達していないわけですが。

「霊としては、見ることも、聞くこともできます。しかし、私の体は何も理解できせんし、何にも見ることができません」

――あなたのために、私たちに何かできることはありませんか?
「何もありません」

――(聖ルイの霊に対して)肉体に宿って地上にいる霊のために祈った場合、肉体から離脱して迷っている霊に対するのと同じような効果はあるのですか?

「祈りは、神にとっては常によきものであり、神のお気に召します。この哀れな霊のために祈った場合、現状は変化しませんが、将来、必ず役に立ちます。神がそれを考慮に入れてくださるからです」

この招霊によって、知的障害児についてずっと言われてきたことが事実であるということが確かめられた。すなわち、彼らは肉体を備えた人間としては知的能力を欠いているが、霊としてはまったく正常で、その能力には何の欠陥もない。肉体器官に欠陥があるために、考えていることをしっかり表現できないだけなのだ。屈強な男が、縄(なわ)でがんじがらめに縛られているようなものだと思えばよい。

パリ霊実在協議会において、すでに亡くなって霊界にいる、霊媒の父親のピエール・ジューティから、知的障害児に関し、次のような情報が与えられた。

「優れた能力を地上において悪用した者が、次の転生で、知的障害児として過ごすことになる場合があります。彼らの魂は、欠陥のある肉体に閉じ込められ、自分の考えを自由に表現できないことになります。精神的、肉体的に不自由な、この状態は、地上における罰のうちで最も厳しいものです。こうした試練は、みずからの過ちを償おうとする霊にとって、しばしば選択されることがあります。

この試練には意味がないわけではありません。というのも、肉体に閉じ込められている霊自身は、あくまでも正常だからです。霊は、かすんだ目を通して見、弱った頭脳を通して考えるのですが、言葉や視線を使って、考えたことを表現することができません。

悪夢の中で「危険に遭遇し、助けを呼ぼうとしても舌が口の奥に張りついて声が出ず、逃げようとしても足の裏が地面に吸いついて足が動かない」という状況を体験したことがあると思いますが、ちょうどあのようなものだと思えばよいでしょう。

身体障害者の多くは、そのような状態で生まれなければならない、しかるべき理由を持っています。すべては理由を持っているのであり、あなたがたが理不尽な運命だと考えている当のものこそ、実は、至高の正義の表れであることを忘れてはなりません。

精神障害は、高い能力を濫用(らんよう)したことに対する罰です。精神障害に陥った人は、二重の意識を持っています。一つは、常軌を逸して行動する意識、もう一つは、それを知りながら、制御(せいぎょ)することのできない意識です。

知的障害児はどうかといえば、孤立して、物事を観照している彼らの魂は、肉体の楽しみからは無縁だとはいえ、普通の人々とまったく同じように、感じ、考えているのです。

中には、自分で選んだ試練に反抗している者もいます。そうした体を選んだことを後悔し、霊界に早く還りたいと激しく望んでいる者もいるのです。

精神障害者や知的障害児は、あなたがたよりもたくさんのことを知っており、無力な肉体の奥に、想像もつかないほどの強靭(きょうじん)な精神を潜ませていることを知らなくてはなりません。肉体が、怒り狂ったり、ばかな振る舞いをすることに対し、内部の魂は、恥ずかしく思ったり、苦しんだりしているのです。

同様に、人々から、あざけられ、侮辱(ぶじょく)され、邪険に扱われると――われわれはそういうことをしないでしょうか?――彼らは、自分の弱さ、卑(いや)しさをより強く感じて、苦しむことになるのです。犠牲者が抵抗できないことをいいことに弱い者いじめをする人々を、もしもそれが可能であれば、きっと彼らは告発したことでしょう」

(6) 主人への献身のうちに生涯を閉じた女中――アデライド=マルグリット
アデライド=マルグリットは、ノルマンディー地方のオンフルールという村の近くに住む、貧しく慎ましい女中だった。

十一歳のときに、裕福な牧場主のところに奉公した。しばらくたってから、セーヌ川が氾濫(はんらん)したために、家畜が流されたり溺(おぼ)れたりしてすべて死んでしまい、その結果、主人が破産してしまった。アデライドは、エゴの声を押し殺し、良心の声に耳を傾けた。そして、貯めていた五百フランを一家に差し出し、その後も、給料なしで働くことを誓った。

やがて主人夫婦が亡くなり、娘がたった一人残された。アデライドは畑を耕し、上がりをすべてその娘に渡した。しばらくして、アデライドは結婚したが、そうすると、今度は夫婦そろってその娘のために汗水流して働くこととなった。アデライドは、娘をいつまでも〈奥様〉と呼んでいた。

こうして、この尊い献身は、半世紀近くも続いたのである。

ルーアンの善行表彰協会は、この尊敬(そんけい)と感嘆(かんたん)に値する女性を忘却のうちに放置することはなかった。彼女に名誉のメダルと報奨金を与えて表彰した。フリーメーソンのル・アーブル支部もメンバーからお金を募り、「彼女の生活の資に」ということで差し出した。結局、村が、細かな配慮とともに、彼女の生活の保障をすることとなった。

やがて、彼女は突然、体の麻痺に襲われ、あっという間に、苦しみもなく、あの世に旅立っていった。葬儀は、簡単に、しかしきちんと行われた。村長代理が葬列の先頭に立った。

一八六一年二月二十七日、パリ霊実在主義協会にて。

――招霊します――。神よ、マルグリットの霊に通信をご許可ください。
「はい、ありがたいことに、神さまは、通信をお許しくださいました」

――地上にいらしたときに、素晴らしい生き方をなさったことに対して、心よりの賛辞を捧げます。こうしてお会いすることができて、たいへんうれしく存じます。きっと、あなたの献身は報いを受けたことでしょう。

「はい、神さまは、神さまの召使いに対して、愛深く、慈悲をもって接してくださいました。私がしたことを、あなたがたはほめてくださいますが、むしろあれは当然のことだったのですよ」

――後学のためにお伺いするのですが、あなたが地上で果たされた慎(つつ)ましやかな役割の理由は何だったのですか?

「私は、今回の転生に先立つ二回の転生で、ともに、たいへん高い地位に就いていました。したがって、そのときに善行を積むことは容易でした。裕福でしたので、何の犠牲も払わずとも、慈善を実践できたのです。

しかし、これでは向上が遅れると思いました。そこで、次には、『卑しい身分に生まれ、耐乏生活を送りながら善行を積む』という道を選んだのです。そのために、長いあいだ準備をしました。神さまは、私の勇気を買ってくださいました。

こうして、私は、自分で立てた目標に挑み、天使たちの援助を受けつつ、それを達成したというわけなのです」

――そちらに還ってから、地上での主人ご夫妻にはお会いになりましたか? 現在、お二人との関係はどのようなものになっているのですか? いまでも、彼らに仕える立場なのですか?

「はい、お二人にはお会いしました。私がこちらに還ってきたときに、出迎えてくださったのです。これは驕(おご)りから申すのではございませんが、お二人は、私をお二人よりもずっと上の存在として扱ってくださいました」

――他の人々に仕えずに、あの二人に仕えたのには、何か特別な理由があったのですか?

「特にありません。他のところでもよかったのです。ただ、お二人はかつてお世話になったことがありますので、それをお返ししたいと思ったのは事実です。ある過去世で、お二人が、私によくしてくださったことがあるのです」

――次の転生はどうなさるおつもりですか?

「次は、苦悩のいっさい存在しない世界に生まれてみたいと思っております。こんなことを申し上げると、きっと、うぬぼれの強い女だと思いになるかもしれません。でも、素直に思い切って本心を言ってみたのです。もっとも、すべては神さまにお任せしてありますが」

――招霊に応じてくださり、まことにありがとうございました。神さまのご慈悲がありますように。

「ありがとうございます。みなさまに、神さまの祝福がありますように。そして、みなさまがた全員が、こちらに還られたときに、私と同じように、本当に純粋な喜びに満たされますように」

(7) 四歳で肢体不自由となり、十歳で亡くなるという経験について――クララ・リヴィエ
クララ・リヴィエは、南フランスのある村に農民の子として生まれ、亡くなったときはわずか十歳であった。

四歳のときに体が完全に動かなくなっていた。しかし、ひとことも不満をもらさず、苛立ったことも一度もなかった。まったく教育を受けていなかったにもかかわらず、彼女は、あの世で待っている幸福についてよく語り、心を痛めている家族を慰めるのだった。

彼女は一八六二年の九月に亡くなった。四日のあいだ続けて痙攣(けいれん)に見舞われ、拷問のような苦しみに襲われたが、その間、絶えず神に祈りつづけた。

「死ぬことは怖くないわ」と彼女は言った。「死んだら幸福な生活が待っているのだもの」

そして、泣いている父親に向かって次のように言った。

「悲しまないでね、またパパのところに戻ってくるから。わたし、もうすぐ死ぬわ。それが分かるの。でも、死ぬときが来れば、はっきり分かるから、教えるね」

そして、最期が近づいたとき、家族全員を呼び寄せ、次のように言った。

「あと五分で死にます。手を握っていてね」

そして、そのとおり、五分後に息を引き取った。

そのとき以来、騒擾(そうじょう)霊がやってきて、家中をめちゃくちゃにした。テーブルをがんがん叩(たた)き、カーテンをはためかせ、食器をがたがた言わせた。

この霊は、当時五歳だった妹の目に、生前のクララの姿をとって映った。この妹によれば、クララの霊は、しょっちゅう話しかけてきたという。そのために、うれしくなって、ついつい、「ねえ、見て見て、お姉ちゃんはとてもきれいだよ」と叫んでしまうのだった。

――クララ・リヴェエの霊を招霊します――
「そばに来ています。どうぞ質問してください」

――あなたは、教育もなく、また、年もそれほどいっていなかったのに、どうしてあの世のことがあんなにはっきりと分かったのですか?

「前回の転生と、今回の転生のあいだに、それほど時間がたっていなかったのです。そして、前回のときには、わたしは霊能力を持っており、今回もまた、そのまま霊能力を持って生まれてきました。ですから、わたしは、いろいろなことを感じたり、見たりすることができ、それをしゃべっていたのです」

――六年間も苦しんだのに、しかもまだ子供だったのに、どうして、ひとことも不平をもらさずにいられたのですか?

「肉体の苦しみは、それよりも強い力――つまり守護霊の力――によって制御できるからです。守護霊がいつもそばに付いてくれていて、わたしの苦しみを和らげてくれました。守護霊のおかげで、わたしは苦しみに打ち勝つことができたのです」

――どうして、死ぬときが分かったのですか?

「守護霊が教えてくれたのです。守護霊は一度も間違ったことを言ったことがありません」

――あなたは、お父さんに、「悲しまないでね、またパパのところに戻ってくるから」と言いました。こんなに優しいことを言う子が、どうして、死後に、家中を引っかき回して、こんなふうにご両親を苦しめるのですか?

「試練、あるいは使命を持っているのです。わたしが両親に会いに来るとして、ただそのためだけに来ると思いますか? こうした物音、混乱、騒ぎは、ある意味での警告なのです。

わたしは、他の騒擾霊に助けてもらっています。彼らは騒ぎを引き起こすことができ、わたしは、妹の目に見えるように出現できます。こうしてわたしたちが協力し合うことによって、霊の実在を証明しようとしたのです。両親も、そこまでやらなければ分からなかったでしょう。

この騒ぎは、もうすぐやみます。でも、その前に、もっと多くの人々が、霊の存在をはっきりと知る必要があるのです」

――ということは、あなたが一人でこうした現象を起こしているのではないのですね。

「他の霊たちに助けれらて、一緒にやっています。これは、両親にとっては一種の試験であると言ってよいでしょう」

――現象を引き起こしているのがあなた以外の霊たちであるとすれば、妹さんは、どうしてあなたしか見えないのですか?

「妹には、わたししか見えないようにしています。わたしは、これからもしばしばやってきて、あの子を慰め、勇気づけるつもりでおります」

――どうして、あんなに幼いときに、肢体が不自由になったのですか?

「過去世で過ちを犯したので、それを償う必要があったのです。わたしは、今回の直前の過去世で、健康と美貌(びぼう)と才能を濫用し、そして楽しみすぎました。そこで、神さまがこう言われたのです。

『おまえは、法外に楽しみすぎた。今度は苦しんでごらん。傲慢だったので、今度は謙虚さを学びなさい。美しさゆえに驕(おご)り高ぶったので、今度は醜(みにく)い体に耐えなさい。虚栄の代わりに、慈悲と善意を学ぶのだ』

そこで、わたしは神さまのご意志に従うことにしました。それを、守護霊が助けてくれたのです」

――ご両親に何か言いたいことはありますか?

「両親が霊媒に対して、たくさんの施しをしたのは、とてもよいことだと思います。それは祈りの一種だからです。口先だけで祈るよりも、そのように、行為を通じて祈ったり、また、心の中で本心から祈ったほうがよいのです。困っている人に分け与えることとは、祈りであり、また、霊実在論を実践することでもあります。

神さまは、すべての魂に、自由意志を、すなわち進歩する能力を与えられました。すべての魂に、向上に対する憧(あこが)れを植えつけられたのです。

したがって、修道服ときらびやかな衣装のあいだの距離は、普通に考えられているほど遠いものではありません。慈善の行為によって、その距離を縮めることは可能となるのです。

貧しい人を自宅に招き、勇気づけ、励ましてください。決して、辱(はずかし)めてはなりません。良心に基づく、この慈悲の行為を、みんながあちこちで実践すれば、文明国をむしばんでいる種々の悲惨が――それは、神さまが、人々に罰を与え、目を開かせるために送り込んでいるのですが――少しずつ消えてゆくはずです。

お父さん、お母さん、どうか神さまに祈ってください。お互いに愛し合ってください。イエスさまの教えを実践するのです。人にされたくないと思うことは、人にしないでください。神さまのご意志は、聖なるもの、偉大なるものであることをよくよく納得して、そして神さまに祈ってください。あの世のことをよく考えて、勇気、忍耐とともに生きてくださいね。というのも、お二人には、まだまだ試練が残っているからです。あの世の、より高い場所に還れるように努力してください。

いつもおそばにいます。それでは、さようなら。また来ます。

忍耐、慈悲、隣人への愛、こられを大切にしてください。そうすれば、必ず幸せになれます」

「修道服ときらびやかな衣装のあいだの距離は、普通に考えられているほど遠いものではありません」という表現は美しい。これは、転生ごとに、慎ましい、あるいは貧しい生活と、豪華な、あるいは豊かな生活を、交互に繰り返している魂の歴史を示唆(しさ)しているように思われる。というのも、「神から与えられた豪華な贈り物を濫用しては、それを、次の転生で慎ましい生活を通して償う」といったタイプの転生をする霊は、けっこう多いからである。

同様に興味深いのが、国単位での悲惨が、個人の場合と同じく、神の法に違反したことに対する罰だとしている点である。もし、国民の多くが、慈悲の法を実践すれば、戦争も、悲惨な出来事もなくなるはずなのである。

霊実在論を深く学ぶと、当然、慈悲の法を実践せざるを得なくなる。だからこそ、霊実在論はこれほど多くの執拗(しつよう)な敵を持つのであろう。しかし、この娘が両親に対して語った優しい言葉が、いったい悪魔のものだと考えられるだろうか?

(8) 謙虚さは人格を測る試金石――フランソワーズ・ヴェルヌ
この女性は、ツールーズの近くの小作農の家に生まれ、生まれつき目が見えなかった。一八五五年に四十五歳で亡くなった。

初の聖体拝域を受ける子供たちに教理を教える仕事をずっと続けていたが、教理が変更されても、何の支障もなく教えることがきできた。新旧の教理を完全に暗記していたからである。

冬のある日、伯母と二人で遠出をした帰り、日の暮れはじめた森の中を通って帰ることになった。その道は、ぬかるんだひどい道で、しかも溝に沿っていたので、充分に注意して歩かねば溝に落ちる危険があった。

伯母が手を引こうとすると、彼女はこう言った。

「私のことは気にしないでください、落ちる危険はありませんから。肩のところに光が降りてきて、私を導いてくれるのです。ですから、心配なさらずに、むしろ私のあとについて歩いてください。私が先に歩きましょう」

こうして、事故もなく、無事に家に帰り着いた。目の見えない人が、目の見える人を導いたのである。

一八六五年に招霊が行われた。

――遠出の帰り道にあなたを導いた光について、説明していただけませんか? あれは、あなたにしか見えなかったのです?

「なんですって? あなたのように、常時、霊とコンタクトをとっている方が、そんなことの説明を必要とするのですか? 私の守護霊に決まっているではありませんか」

――私もそのように思っておりました。しかし、確かめたかったのですよ。あの当時すでに、それが守護霊であると分かっていたのですか?

「いいえ、あとで分かったのです。とはいえ、私は天上界の加護があることは確信していました。私は、とても長いあいだ、神さまに――善なる神さま、寛大なる神さまに――お祈りしたものです――。

ああ、目が見えないということは、本当につらいものですよ! ――。そう、本当に。でも、それが正義であると知りました。目で罪を犯した者は、目で償わなければならないのです。これは、人間が与えられているすべての能力についてそう言えます。せっかく恵まれた能力を間違って使うとそうなるのです。

ですから、人間たちを苦しめる多くの不幸について、因果律(いんがりつ)に基づく当然の原因以外の原因を探す必要はないのです。そう、それは償いなのです。しかし、その償いは、素直に受け止めて実践しないと、償いになりません。

また、お祈りによって、その苦しみを和らげることも可能です。というのも、お祈りに天使たちが感応して、地上という牢獄にいる罪人を守ってくれるからです。悩み、苦しむ罪人に、希望と慰めを与えてくれるのです」

――あなたは、貧しい子供たちの宗教教育に打ち込まれました。そして、目が見えないにもかかわらず、教理をすべて暗記しました。どうしてそのようなことが可能だったのですか?

「『一般に、目が見えない人間は、他の感覚が二倍になる』と言えば分かっていただけるでしょうか。彼らの記憶力は非常に強く、自分の好きな分野の知識を、まるで整理棚の引き出しに入れるようにして楽々と記憶できるのです。そして、いったん記憶された知識は決して消えることがありません。外部のどんな要素も、この能力を阻害することはできず、また、訓練によって、この能力はどんどん伸びます。

しかし、私は例外に属していました。というのも、私はそうした訓練を受けたことがなかったからです。子供たちに尽くすために、神さまがその能力を私に与えてくださったことに対しては、もう感謝するしかありません。

ただ、それはまた、私が前世でつくった罪に対する償いでもあったのです。というのも、私は、前世では、子供たちに対して悪いお手本となってしまったからなのです。

こうしたお話は、霊実在主義者にとっては、まじめな探究の主題になりますね」

――あなたのお話をお聞きしていると、あなたがそうとう進んだ魂だということが分かります。また、あなたの地上での行動は、精神的な卓越性を説明するものだということが感じられます。

「いいえ、私はまだまだ至らない存在で、勉強しなければならないことが山のようにあります。

ただ、地上では、その知性が償いのためのヴェールをかぶっているために、それほど知的だとは思われない人々が多くいることも事実なのです。しかし、死によってそのヴェールが剥ぎ取られると、実は、そうした人々は、彼らを軽蔑(けいべつ)していた人間たちよりもはるかに知性が高かった、という事実が判明することがしばしばあるのです。

よろしいですか。傲慢というのは、資金石みたいなもので、傲慢かどうかを見れば、その人がどんな人であるか分かるのです。お世辞に弱い人、自分の知識を鼻にかける人は、だいたい間違った道にいます。彼らはおしなべて誠実さを欠きます。そうした人々には注意なさい。

キリストのように謙虚であってください。キリストのように、愛とともに十字架を負い、やがては天の御国(みくに)に還るのです」

(9) 娘を亡くし、悲嘆に暮れて亡くなった父親のその後――アンナ・ビッテの父親
愛する子供を突然失うことほどつらい経験はない。しかしながら、「最も美しい希望となっていた、たった一人の子供、すべての愛情を注いでいた子供が、自分の目の下で、苦しむことなく、また、原因も分らずに、衰弱していくのを見る」ということは、科学的な知識を狼狽(ろうばい)させるに足る、最も奇妙な現象の一つであろう。

あらゆる医療的技術を駆使(くし)したにもかかわらず、いっさい希望がないことを思い知らされ、毎日、いつ終わるとも知れない苦悩に耐えつづけるということ、それは、まことに恐るべき、拷問にも似た苦しみであろう。

かくのごとくが、アンナ・ビッテの父親の立場であった。ゆえに、暗い希望がその魂をむしばみ、性格がますますとげとげしくなっていたとしても無理はない。

そうした様子を見て、家族の友人のうちの一人――この人は霊実在論を信奉していた――が、指導霊に事情を聞いてみようと思い立った。以下がその答えである。

「あなたがいま目にしている奇妙な現象を説明してみましょう。というのも、それは、あなたがこの子供に対して真摯(しんし)な関心を寄せているのであって、ぶしつけな好奇心から聞いているのではない、ということが分るからです。神の正義を信じているあなたにとって、それは大きな学びとなるでしょう。

神に打たれることになった者は、神を呪(のろ)ったり、反抗したりせずに、素直に神の意志に従う必要があります。なぜなら、神が理由もなく罰するということはあり得ないからです。

現在、神によって、どっちつかずの状態に置かれているこの娘は、もうすぐ、こちらの世界に還ってくることになっています。神がこの娘を哀れんでおられるからです。

この不幸な父親は、たった一人の娘を愛するがゆえに、今こうして苦しんでいますが、実は、自分のまわりにいる人々の心と信頼を弄(もてあそ)んだことがあるのです。神はそれを罰しようとしました。しかし、その心の中に悔悟(かいご)の気持ちが生じたために、神は、娘の頭に振り下ろそうとした剣をしばし止めることにしたのです。だが、また反抗の気持ちが戻ってきたので、ついに罰が下されたのです。地上で罰せられる者はむしろ幸いなり。

友人諸君、どうか、この哀れな少女のために祈ってあげてください。この子は、もう少しすれば、ようやく最後の息を引き取るでしょう。だいぶ衰弱しているとはいえ、この若木の中には、まだ樹液がたっぷり満ちているので、魂が離脱することは難しいと思われます。さあ、祈ってあげてください。

のちに、彼女の霊は、あなたがたを助け、また、慰めることとなるでしょう。なぜなら、彼女の霊は、あなたがたの多くよりも進化しているからです。

このようにしてお答えすることができたのは、主の特別なお計らいがあったからです。というのも、この霊が肉体から離れるためには、あなたがたの支援がぜひとも必要だからなのです」

子供を失った空虚感に耐えられずに、父親も、間もなく亡くなった。死後、娘とその父親から伝えられたメッセージを、以下に揚げることとしよう。

娘:「哀れな女の子に関心を示してくださって、どうもありがとうございました。さらに、指導霊のご忠告に従ってくださいましたことにも、深く感謝申し上げます。

ええ、あなたがたのお祈りのおかげで、比較的、楽に体から離れることができました。お父さんときたら、お祈りもせずに、呪ってばかりいましたね。もっとも、それを恨んでいるわけではありません。私を愛するがゆえに、そんなふうにしたのですから。

私は、お父さんが、死ぬ前に、早く目覚めることができるようにと神さまにお祈りしました。私は、お父さんを励まし、勇気づけました。私の使命は、お父さんの最期を苦しみの少ないものにすることだったからです。

ときには、神聖な光がお父さんを貫いたようですが、それは一時的なものにすぎず、すぐに、またもとの考えに後戻りしてしまいました。信仰の芽はあったのですが、世俗の関心に押しつぶされてしまいました。新たな、より恐るべき試練でも来ないと、その芽は育たなかったのでしょう。

私はといえば、もうすぐこちらでの償いも終わります。私の罪は、そう大きいものではなかったのです。だからこそ、また、地上での償いも、それほど苦しくも、難しいものでもなかったのですが。

私は、病気になっても、苦しくはありませんでした。私はむしろ、お父さんに試練を与える道具として使われたと言ってよいのです。私自身は苦しんでいなかったのですが、病気の私を見ることで、お父さん自身が苦しむ必要があったのですね。私は運命を甘受(かんじゅ)していましたが、お父さんはそうではありませんでした。

現在、私は充分に報われています。神さまは、私の地上での滞在の期間を縮めてくださいました。たいへんにありがたいことです。私は、天使たちに取り囲まれて、とても幸せです。私たちは、全員、喜びとともに仕事に励んでおります。天上界では、仕事をしないことは、まるで拷問を受けるようにつらいことなのですから」

死後一カ月して送られてきた父親のメッセージ

――現在、霊界でどのように過ごしていらっしゃいますか? もし可能であれば、ご援助申し上げたいのですが。

「霊界だって! 霊なんかいやしない。以前知っていた者たちが見えるだけだ。もっとも、彼らは私のことなど、これっぽっちも考えていないみたいだし、私がいなくなって残念だと思ってもいないようだが。むしろ、私が死んでせいせいしているようだ」

――いま、どんな立場にあるかお分かりですか?

「もちろんだ。少し前までは、まだ地上にいると思っていたが、いまでは、もう地上にいないことはよく分っている」

――それなら、どうして、まわりに他の霊たちが見えないのですか?
「そんなことは分からん」

――娘さんとはまだお会いになっていないのですか?

「まだだ。あの子は死んだ。だから捜しているんだが、いくら呼んでも応えがない。

あの子が死んだとき、地上に残された私は耐えがたい空虚を味わった。死ぬ段になって『これでようやくあの子に会える』と思ったのだ。だが、死んでみたら何もなかった。孤立があるばかりだ。誰も話しかけてくれない。これでは、慰めも、希望もないではないか。

それでは、さらば、娘を捜さねばならないのでな」

霊媒の指導霊:「この男は、無神論者でも唯物論者でもありませんでしたが、漠然とした信仰しか持っていませんでした。神のことを真剣に考えたこともなければ、死後のことに思いをめぐらしたこともなく、ひたすらに地上の俗事にまみれて生きたのです。

娘を救うためならば、何でも犠牲にしたでしょうが、しかし、一方で、自分の利益のためならば、他人を犠牲にしてはばからなかったのです。つまり、ものすごいエゴイストだったということです。娘以外の人間のことは、考えたことさえもありませんでした。

すでにご存知のように、神はそのことで彼を罰したのです。地上において、彼からたった一人の娘を取り上げ、それでも悔い改めなかったので、霊界においても、彼から娘を取り上げました。また、彼は誰にも関心を示さなかったので、こちらでは誰も彼に関心を示しません。それが彼に対する罰なのです。

実は、娘は近くにいるのですが、それが彼には見えないのです。もし、彼に娘が見えればそれは罰にはならないからです。彼はいま何をしているのでしょか? 神に向かっているのでしょうか? 悔い改めているのでしょうか? いいえ、文句を言うだけです。神を冒涜(ぼうとく)さえしています。要するに、地上でしていたのと同じことをしているのです。

お祈りをし、忠告をして、彼を助けてあげなさい。そうしないと、いつまでも、この盲目状態が続くことになります」

第2部 アラン・カルデック自伝
──孤独と休みなき戦いの日々(『遺稿集』第四章「自伝的ノート」から抄訳)

第1章 霊実在主義との出会い
私が[回転するテーブル]のことを初めて聞いたのは、一八五四年のことだった。ある日、以前から名前は知っていたが、それまで会ったことのなかったフォルチエ氏に会ったのである。彼は言った。

「動物磁気[オーストリアの医師メスエル(1734 01815)が唱えた、「生体に流れる目に見えない磁気エネルギー」のこと]に関してはご存知だと思うのですが、実は、磁気化の対象が、どうも人間だけではなさそうだということが分かってきたのです。テーブルを磁気化して回転させたり、思いのままに動かしたりすることが出来るようなのですよ」

「それは誠に興味深いことです」と私は答えた。「しかし、そんなことが実際に起こるとは思われませんね。『動物磁気が、命を持たぬ物体に働きかけて、それを動かす』などということが有り得るものでしょうか?」
ナント、マルセイユ、或はその他の都市での実験記録が新聞に掲載されてはいたが、私には、そのような現象が現実に起こり得るとはどうしても考えられなかった。

その時から暫くして、私はまたフォルチエ氏に会った。彼は私に言った。
「もっと驚くべきことが起こり始めましたよ。テーブルを磁気化して動かすだけでなく、テーブルに話をさせることも可能になったのです。テーブルに質問すると、なんと、その質問に答えるのです! 」

「それは、また別の問題ですね」と私は答えた。「それを実際に見ることが出来、そして、『テーブルが、考える為の脳を備え、感じる為の神経を持ち、人間のように話をすることが可能だ』と証明されたのなら、そういうことを信じもしましょう。それまでは、おとぎ話ということにしておきます」

私の推論は、論理的なものだった。何らかのメカニズムによってテーブルが動くことは考えられた。しかし、その現象がどのようにして起こるか、その原因、法則を知らなかったので、単なる物質が知性を持つように振る舞うことが荒唐無稽であるように思われたのである。今日、未だにそれらの現象を信じないでいる人々と同じ立場に私はいたのである。つまり、自分が理解出来ないことに関しては、それを存在しないと見なす立場である。

十九世紀初頭に、「たった一時間で、二千キロ離れた場所に手紙を送り、その返事を受け取ることが出来る」と言ったとすれば、鼻先であざ笑われたであろう。科学的に考えれば、そんなことは無理に決まっているからである。電気の法則が知られている今日では、そんなことは常識である。

実は、霊現象に関しても、全く同じことなのだ。霊現象に関する法則を知らなければ、それは摩訶不思議な現象、したがって、有り得ない現象だと思われるのである。しかし、ひとたび法則が明らかになるや否や、荒唐無稽なものではなくなる。理性によって、その可能性が、充分、許容出来るようになるからだ。
しかし、その頃はまだ事実がしっかり説明されていなかった。したがって、それは明らかに自然法則に反すると思われた。私の理性はそれを受け入れることは拒否していた。私はまだ、そうした現象を何一つ見ていなかったのである。

実験が、尊敬すべき、信頼に足る人々の前で行われたとすれば、その場においてテーブルが動いたということは、有り得ないことではないと思われた。しかし、そのテーブルが[語る]となると、到底受け入れられるものではなかった。

翌年、つまり一八五五年の初頭に、私は25歳の若き友人カルロッティ氏に会った。彼は、[語るテーブル]について一時間近くも熱心に語り、私に新たな考え方を提示してくださった。
カルロッティ氏は、コルシカの生まれであり、エネルギッシュで熱い人である。彼の大いなる、美しい魂を愛してはいたが、話し振りに誇張があるのが気になった。

彼は、そうした現象に霊が介在している、ということについて私に語った初めての人間だった。数々の驚くべきことを私に教えてくれたが、それらは私を納得させるどころか、かえって私の疑いを掻き立てたのだった。
「あなたもいずれ私達の仲間になりますよ」と彼は言った。
「そうならないとは言いません」と私は答えた。「そのうち分かることです」

それから暫くして、一八五五年の五月頃、私はフォルチエ氏と共に、夢遊病者のロジェ夫人の家を訪れ、そこで、パチエ氏ならびにプレヌメゾン夫人に会った。彼らは、テーブルにまつわる現象に関して、カルロッティ氏と同じような意味合いのことを言ったが、その語り口は全く異なっていた。

パチエ氏は、かなり年輩の公務員であって、教養豊かであり、真面目で、冷静かつ穏やかな人柄だった。あらゆる熱狂から無縁な彼の話を聞いて、私は深い印象を受けた。

その為、「グランジュ・バトリエール街にあるプレヌメゾン夫人の家で実験が行われるので、出席されてはどうですか」と勧められた時、私は喜んでその会合に出席することにした。翌週の火曜日、夜八時に伺う約束をした。
そういうわけで、私はその日、初めて、回転し、飛び跳ね、動き回るテーブルを、目の当たりにしたのだった。それは、疑いを差し挟む余地のない状況のもとで行われた。また、不完全な形ではあるが、霊媒が籠に固定されたペンを使って自動書記を行うのも見た。

私は大いに興味を掻き立てられた。そうした現象には原因があるはずだった。それらは一見たわいのないお遊びのようにも思われたが、私には、それらの背後に極めて重大な何か、新たな法則のようなものが隠されているように感じられた。そして、それを探究してみようと考えた。

やがて、もっと注意深く観察する機会が与えられた。プレヌメゾン夫人の所で開かれていた集いで、当時ロシュシュアール街に住んでいたボダン一家と知り合うことになったからである。ボダン氏は、毎週ボダン家で行われていたセッションに招いてくださったので、私は欠かさず出席することにした。

この集いには、かなりの人数が出席していた。「常連の他に、誰でも、来たい人は来てよろしい」ということになっていたからである。
霊媒は、ボダン家の二人の娘が勤めた。彼女達は、二人で持った籠を石盤の上に乗せて自動書記をするのだった。この方法だと、霊媒が二人要るわけだが、それだけに、霊媒の考えが記述の内容に影響を及ぼす可能性はゼロである。

このようにして、質問に対する答えが与えられるのであるが、時には、心で質問を考えただけで、その答えが与えられることもあった。
質問の内容は、大体どうでもいいようなことが多かった。生活上の細々したこと、将来のこと等、要するに、本当に真剣な質問はなされなかったのである。好奇心を満たし、面白がることが、出席者達の関心であるようだった。

答える霊は、大体いつも[Zephyr(そよ風)]と署名していたが、これは、この交霊会の性格と降りてくる霊の性格を完璧に言い表す名前であった。

この霊は非常に善良で、「ボダン家の家族を守っている」と言っていた。冗談を言うことが多かったが、必要とあれば智慧に満ちた忠告をすることも出来た。また、時には、辛辣で機知に富んだ警句を吐くこともあった。
やがて、私もこの霊と話すようになった。彼は私に対していつも非常に好意的だった。霊格が特に高いというわけではなかったが、後々、上位の霊の指導の下、私の初期の仕事を助けてくれることになる。
そのうち、「そろそろ地上に生まれ変わる」と言い始め、その後、通信が途絶えた。
この辺りから、私は真面目に霊現象を研究し始めた。起こっていることをじっくりと、真剣に観察するようになったのである。

そして、かつて自然科学を学んだ時の方法論、つまり実験的な手法を、この新たな科学にも適用した。前もって仮説を立てるということをせず、注意深く観察し、比較し、結論を推測した。帰納を行い、事実を論理的に結びつけ、結果から原因を探り、問題を全て解決出来ない限り、その説明を認めないようにした。これが、私が25歳以来ずっと取ってきた方法だった。

私は、まず、「起こっている事態がとてつもなく重大であるらしい」ということを感じた。「そこには、人類の過去及び未来に関するあらゆる問題を、完全に解く鍵が潜んでいる可能性がある」ということに気がついたのだ。もしかすると、私がそれまでずっと探し求めてきた最終的な解決法が見つかるかもしれなかったのである。つまり、「哲学と信仰に関する革命が起こり得る」ということだった。
したがって、軽々しく振る舞うべきではなく、慎重にも慎重を期さなければならないと自戒した。幻想に囚われないように、あらゆる思い込みを捨て、厳格に実証主義を貫くべきだと思った。

最初に分かったのは、「霊といっても人間の塊にすぎず、したがって、必ずしも至高の知識や至高の智慧を備えているわけではない」ということだった。「悟りの段階に応じて彼らの知は限られており、その意見は個人的なものにすぎない」ということである。この事実を知った為に、私は、霊が無謬(むびゅう)であるということを信じ込まずにいられたのだ。そのお陰で、「一人ないしは数人の霊人の言うことだけを基にして、早急に理論を作り上げる」という過ちを犯さずに済んだ。

霊との交流から学んだことは、「我々の周りに、見えない世界、すなわち霊界が広がっている」ということだった。それだけで、既に大変なことだった。「無限とも言える領域が、我々の探究を待っている」ということだからだ。また、「これまで説明不能だった山のような現象を合理的に説明する鍵を手に入れられる」ということだからだ。

さらに、これも同様に重要なことであるが、「霊界の状態、霊人達の生活習慣を知ることが出来る」ということである。
やがて、それぞれの霊人から、その境涯に応じた情報を得ることになっていく。
それは、丁度、外国人から、その国に関する情報を教えてもらうようなものだった。各人から、彼が属する階級や境遇に応じたことを教えてもらえるが、あくまでも、それは個人的な情報にすぎず、それだけでは、国の全体について知ることは決して出来ない。様々な方面から情報を集め、それらを吟味し、比較し、照合し、その上で全体像を作り上げるのは、我々の役目である。

そんなふうにして、人間と付き合うようにして霊人達と付き合った。最もつまらない霊から、最も偉大な霊に至るまで、決してその言葉を鵜呑みにすることなく、あくまでも単なる情報提供者として扱ったのである。
以上が私の基本的な態度であり、常にそのようにして私は霊界の研究を続けた。「観察し、比較し、判断する」、これが私が取り続けた方法論だった。

その頃まで、ボダン家におけるセッションには、これといった目的はなかった。しかし、私は、その場を借りて、哲学に関し、心理学に関し、また、霊界の性質に関し、色々と質問して、それまで未解決だった問題の解決を図ることにした。セッションに行く前に、予め一連の質問を用意していったのである。それらの質問に対しては、いつも的確で論理的かつ深遠な答えが返された。

それ以来、集いは全く新たな様相を呈するようになった。出席者の中に、真摯な人々が加わるようになり、彼らが本当に積極的に会を運営するようになったのである。どうでもいいような質問は姿を消した。

当初は、自分が学ぶことしか考えていなかった。しかし、徐々にそれが体系をなし、一つの教義としての体裁を整えていくに従い、私はやがて、それらを多くの人の為に出版しようと考えるようになった。こうして、数々の質問を通して徐々に進展し、完全になっていった一連の主題が、『霊の書』の基礎をなすことになったのである。

翌年の一八五六年には、ティクトヌ街のルスタン氏の家で行われていた集いにも参加するようになった。この集いは真摯なものであり、厳正に行われていた。霊界との交流は、ジャフェ嬢が霊媒を務め、小さな籠を使った自動書記によって行われていた。

その頃、私の本はほぼ完成しかかっていた。しかし、違う霊媒を使い、違う霊人達からの情報も収集して、原稿をさらに吟味する必要があることを感じた。そこで、ルスタン氏の主宰する集いの場を借りて、あるテーマに関する最終的な詰めを行うことにした。

セッションを始めて暫くすると、霊人達が、「もっと静かな場で、内密に、そのテーマを取り扱いたい」と言ってきた。そして、「その為に、数日の間、ジャフェ嬢とあなた二人だけを相手にしたセッションを行いたい」と提案してきた。

その後、このセッションは行われたのだが、私はその結果には満足しなかった。私は既に、それまで、随分多くの霊人達と接触して、色々と忠告を受けており、その為に私の要求水準は相当高くなっていたからである。

異なる霊媒を介して霊界通信を行う機会があるごとに、私は、様々な霊人達に、最も厄介な問題に関して質問してきた。既に十人以上の霊媒とセッションを行ってきており、それらで得られた情報を比較し、吟味し、統合し、その上で、瞑想しては、何度も何度も手直ししてきた。

そのようにして、一八五七年四月十八日に『霊の書』が刊行されたのである。
この年の終わり頃には、ボダン家の二人のお嬢さんが結婚した為に、集いは行われなくなった。しかし、私の交際する霊媒の範囲は広がっていたので、付き合う霊人達も多くなっており、数多くの霊人達から、その後の仕事を進める為の情報を得るようになったのである。

第2章 私の守護霊について
一八五五年十二月十一日、ボダン家にて、霊媒はボダン嬢。

――(Z霊に対して)霊界には、私を守護する霊はいるのですか?
「はい、います」

――それは、先祖の霊ですか、それとも友人の霊ですか?
「いずれでもありません」

――その霊は、地上にいた時はどのような人だったのでしょうか?
「正しく、叡智に溢れた人間でした」

――その霊に守護してもらうには、どのようにすればいいのでしょうか?
「可能な限り善を行うことです」

――守護霊がかかわってきていることは、どのようにすれば知ることが出来ますか?
「あなたが心から満足している時は、守護霊がかかわってきているのです」

――守護霊を呼び出すことは出来ますか? また、その為には、どのようにすればいいのですか?
「守護霊を信じ切って、熱心に願うことです」

――私が死んだ場合、霊界で守護霊に会うことは出来るのですか?

「勿論です。もし、あなたが地上での使命をしっかり果たしたのなら、守護霊が迎えに来て祝福してくれます」

こうした質問を見れば、この頃には、まだ霊界に関して私が全くの素人だったことが分かるだろう。

――私の母の霊も、時には私のところに来ているのですか?
「その通りです。可能な限り守ろうとしてくれていますよ」

――よく母の夢を見るのですが、これは記憶から来るのでしょうか? 或は、私の想像力がつくり出している映像なのでしょうか?

「そのいずれでもありません。それはお母さんがあなたのところに実際に来ているのですよ。その時の感動から、それが事実であることは分かるはずです」

これは完全に正しい。母が夢に現れる時、私は筆舌に尽くし難い感動に見舞われる。そして、そのことを霊媒が知っているはずはないのである。

――しばらく前のことですが、S霊を呼び降ろした時に、S霊が私の指導霊になることは有り得るのか、と尋ねたのですが、その時、彼は、「あなたがそれに相応しくなれば、私はあなたを指導しましょう。そのことについては、Z霊に聞いてください」と言っていました。私は、それに値する人間でしょうか?

「もしそう望むのなら可能でしょう」
「自分が為すべきだと思う善を全て行い、勇気を持って苦悩に耐えることです」

――私の知性は、死後の世界の真実について深く知る為に、充分な力を持っていると言えるでしょうか?

「言えます。あなたはその為に必要な能力を備えています。しかし、結果は、あなたがどれほど忍耐強く仕事をするかにかかっています」

――私はそうした真実を広めることになるのでしょうか?
「勿論です」

――どのようにして?
「いずれ分かるでしょう。それまでは、とにかくしっかりと努力することです」

第3章 私の指導霊について
一八五六年三月二十五日、ボダン家にて、霊媒はボダン嬢。

私はその頃、マルティール街八番地に住んでいた。中庭の奥のアパルトマンの三階だった。

ある日、仕事部屋で原稿を書いていると、隣の部屋との仕切り壁から、繰り返し、小さな物音が聞こえた。最初は何の注意も払わなかったが、それが治まらずに、しかも、場所を変えつつ、段々大きくなってきたので、その仕切り壁を両側から詳細に調べてみた。他の階の音が響いてくるのかと思ったのである。しかし、原因を解明することは出来なかった。不思議なのは、私が調べようとする度に、その音が止まり、仕事を再開すると同時にまた鳴り始めることだった。

やがて十時頃に妻が部屋に入ってきた。その音を聞いて、「これは何なの?」と聞いた。私は、「分からない。もう一時間以上も続いているんだ」と答えた。我々は一緒に調べたが、どうしても原因は分からなかった。それは真夜中まで、つまり私が寝るまで続いていた。

翌日は、ボダン家でのセッションの日だったので、私はそのことに関して説明を求めた。

――多分、そのことについてはお聞き及びかと思います。どうして、あれほどしつこく音が続いたのか、その原因を説明して頂けますか?

「あなたの指導霊団の内の一人がやったのです」

――どんな目的があって、あんなふうに音を立てたのですか?
「あなたに何か言いたかったのでしょう」

――その霊は誰で、私に何が言いたかったのでしょうか?
「今ここにいますから、直接聞いてみたらどうですか?」

この時期には、まだ指導霊が沢山いるということさえ分からずにいた。全員を一律に「親しい霊」と呼んで混同していたのである。

――あなたが誰であれ、とにかく、来てくださったことに対して感謝申し上げます。あなたは一体どなたですか? どうぞ教えてください。

「私のことは[真実の霊]と呼んでください。これから暫く間、月に一度、毎回十五分位、あなたと対話することにしましょう」

――昨日、私が仕事をしている間、音を出していましたが、何か仰りたいことがあったのですか?

「仕事に関して言いたいことがあったのです。あなたが書いている内容がよくないものだったので、仕事を止めさせようとしたわけです」

私は、その時、霊に関する研究について、そして霊の顕現について書いていたのだった。

――それは、昨日書いていた章に関してですか? それとも書物全体に関してですか?

「昨日書いていた章に関してです。判断はあなたにお任せしましょう。今晩読み返してみて、おかしいと思ったら、そこを直してください」

――私自身も、あの部分には満足していませんでした。実は今日書き直したのですよ。多少はよくなっているでしょうか?

「よくなってはいます。しかし、まだ充分とは言えません。三行目から三十行目まで、注意深く読み返してご覧なさい。重大な過ちが見つかるはずです」

――昨日書いた部分は破棄したのですが。

「破棄したとしても、間違い自体は残っているのです。もう一度読み返してごらんなさい。そうすれば間違いが分かるはずです

――[真実の霊]というお名前は、私が探究している真実と関係があるのですか?

「そうかもしれません。少なくとも、私は、あなたを守り、あなたを助ける指導霊です」

――自宅であなたを招霊することも可能ですか?

「可能です。内なる声を通じてコンタクトをとり、あなたを助けましょう。しかし、自動書記による交流は、まだしばらくは無理でしょう」

確かに、この後一年位の間、自宅では自動書記は全く出来なかった。霊媒がやってきて、自動書記による情報を得ようとすると、何か不都合なことが起きて、それが出来なくなるのだった。自宅以外の場所でしか、自動書記は可能とならなかった。

―― 一月に一度といわず、もっと頻繁に来てくださいませんか?
「そうしたいところですが、新たな体制が組まれるまではこのままです」

――他に、地上で知られている人を誰か指導していますか?

「あなたにとっての真実の霊だと言ったはずです。この言い方から察してください」

夕方、自宅に戻ってから、急いで、ゴミ箱に捨ててあった原稿と、新たに書いた原稿を読み返してみた。すると、三十行目に重大な過ちが見つかったのである。どうしてこんな過ちを見逃したのか、不思議なくらいであった。
これ以降、その種の霊現象は全く起こらなかった。私と指導霊との関係が確立したので、そうした霊現象に頼る必要がなくなった為であろう。

一八五六年四月九日、ボダン家にて、霊媒はボダン嬢。

――([真実の霊]に対して)先日、執筆中の一節について、間違っていると言われましたが、確かにその通りでした。読み返したところ、三十行目に間違いが見つかりました。それに対して、ラップ音を立てて警告してくださったのですね。他の間違いも、いくつか見つかり、それらを書き直しました。これでよろしいでしょうか?

「前よりはよくなったと思います。でも、原稿に日の目を見させるのは一ヶ月後にしてください」

――「原稿に日の目を見させる」とは、一体どのような意味ですか? まだ出版するつもりはありませんが。

「部外者に見せる、ということです。『原稿を読みたい』と言ってくる人に対しては、何らかの口実を見つけて断るとよいでしょう。まだ改稿する余地があります。あなたが批判を避けることが出来るように、このようなことを言っているのです。また、慢心しないように気をつけてください」

――私を指導し、支援し、守ってくださるということでした。こうした保護は、ある限度内においてであると理解していたのですが。もしかすると、それは物質生活のレベルにまで及ぶのですか?

「地上においては、物質面も大切なのですよ。もし、その面で援助しないとしたら、あなたを愛していないことになります」

この霊の保護が――当時はまだ、それがどれほど凄いものかということが分かっていなかった――途切れるということは、決してなかった。

この霊の私に対する思いやり、そして、この霊の命令を受けた他の霊人達の私に対する思いやりは、私の人生のあらゆる局面にまで及んだ。
ある時は、物質面での様々な困難を解決してくれ、ある時は、仕事が容易に進むように援助してくれた。また、ある時は、反対者達の力を殺(そ)ぎ、私に害が及ばないようにしてくれた。

私が果たそうとしていた使命に付きまとう苦難が完全にはなくならないとしても、それらは必ず和らげられたし、また、使命遂行に伴う精神的な満足によって、大いに補われたのである。

第4章 私の使命は「最初の礎石を置くこと」
一八五六年四月三十日、ルスタン氏宅で、霊媒はジャフェ嬢。

私はしばらく前から、ルスタン氏宅で行われていたセッションにも参加していた。やがて『霊の書』として刊行されることになる書物の内容を検証する為である。
七、八人しか出席していない、ある私的な集いで、「社会を変革するにはどうすればよいか」ということに関して議論している時に、突然、霊媒が籠を手にして次のように書き始めた。

「反対者がいくら騒いでも放っておきなさい。同じ志を持つ人々に語りかければよいのです。そうした人々を癒しなさい。そして、各人が自分の役割を果たすのです。そうすれば、全てが上手くいきます。

宗教はたった一つあればよろしい。真実の、偉大な、美しい、そして宇宙の創造者に相応しい宗教です。最初の礎石は既に置かれました。

リヴァーユ(アラン・カルデックの本名)よ(この瞬間、籠が激しく位置を変え、まるで指で私を指すかのように私の方を向いた)、最初の礎石を置くことが、あなたの使命です。M氏よ、あなたの使命は、全てを壊して更地をつくることでした。したがって、切り込み隊でした。リヴァーユはその後にやってきて、破壊された建物を建て直すのです」

これが、私の使命に関する始めての建設的な啓示であった。正直なところ、籠が私の方を向いた時、私はある種の感慨を禁じ得なかった。
M氏は、最も過激な思想を持った若者で、ある政治的な事件に巻き込まれていた為に、人目につかないようにしている必要があった。社会を大きく変える必要を感じていたので、その事件に参画して、自分の社会改革の計画を実行に移そうとしていた。とはいえ、その人柄は、優しく、穏やかであった。

一八五六年五月七日、ルスタン氏宅で、霊媒はジャフェ嬢。

――(指導霊のハネマンに)過日、指導霊団から私の使命を告げられ、また、その目標を授けられました。私の使命は本当にあの通りなのでしょうか?

「そうです。あなたがこれまで願ってきたこと、あなたの傾向性、瞑想の際に常に念(おも)いを定めてきたことをじっくり思い返してみるならば、何も驚くべきことではないと分かるはずです。久しい以前から夢見てきたことを実現するということではありませんか?

さあ、さらに活発に仕事をして、怠ることなく準備しなさい。その日は近づいています。あなたが考えているよりも早くやってきますよ」

――この使命を果たす為には、まだまだ私は力不足です。

「我にとらわれず、大いなる力に委ねなさい。そうすれば、全ては上手くいきます」

第5章 将来の情勢
一八五六年五月七日、ルスタン氏宅で、霊媒はジャフェ嬢。

――過去の霊示では、近い内に重大な事件が起こるようなことが言われていました。そのことに関して少し説明して頂けますか?

「それがどの事件のことなのか特定出来ません。というのも、多くの破壊と悲嘆が引き起こされることになっているからです。人類が新生すべき時期が近づいているのです」

――この破壊の原因は何ですか? それは大災害ということですか?

「あなた方が思っているような種類の天災ではありません。しかし、諸民族があらゆる種類の災いに見舞われるでしょう。戦争が起こり、多くの国の、多くの国民が命を失うでしょう。時代遅れの制度が、血の海の中に沈んでいくでしょう。古い世界が滅んで、新たな進化の時代が始まる必要があるからです」

――多数の国を巻き込んだ大規模な戦争が起こるということですか?
「そうです。地が燃えるでしょう」

――今のところ、何の予兆も感じられませんが。
「事態は緊迫しています。危機一髪というところまで来ているのです」

――最初の火花がどこに上がるか、お聞きしてもよろしいでしょうか?
「イタリアです」

一八五六年五月十二日、ボダン家における個人的セッション。

――([真実の霊]に対して)M氏について、どのようにお考えですか? 彼は、そうした将来の情勢に対して影響力を持っているのでしょうか?

「大いに持っています。彼の考え方は正しいと言えます。彼は行動の人です。ただし、首謀者とはなりません」

――予言されたことは文字通りに取ってよいのですか? つまり、彼は旧体制を破壊する役割を持っているということでしょうか?

「いいえ。人々が、彼に常に考えを代表させようとしているのです」

――彼と親しい関係を保ってもよいのでしょうか?

「当面は止めておくべきです。無用な危険を呼び寄せることになりますから」

――M氏は、霊媒を使って、今後の情勢をかなり詳しく予言していますが、あの内容は本当なのでしょうか?

「確かに、M氏は事件の起こる日まで予言しています。しかし、それは軽薄な霊達からの情報にすぎず、こうした霊達は、いい加減なことを言っては人を興奮させるだけなのです。『高級霊達が、日にちを限定して将来の予言を行うことはまずない』ということを、あなたは知っているはずです。予言された大事件が起こることは間違いありませんが、その日程まで確定出来るわけではないのです」

――霊人達によれば、「そうした事件が起こるべき段階に、既に突入している」ということですが、これはどのように解釈すればよいのですか?

「重大な事件というのは、ある日突然、青天の霹靂といった感じで起こるわけではありません。火山が爆発するしばらく前から地鳴りがするように、大事件が起こる時には、部分的にあちこちで予備的な小事件が少しずつ起こり始めるものです。そういう意味で、『既に時は至っている』と言っているのです。ただ、『明日にでも大事件が起こる』と言っているわけではありません」

――「大規模な天災が起こるわけではない」というのは正しいのですか?

「大洪水や、大火災が起こるわけではありません。その類の災害は起こらないでしょう。そうではなくて、『あらゆる時代に起こってきた混乱が引き起こされる』と言っているにすぎません。それらの原因は人間の側にあるのです」

第6章 霊媒を誰に頼むべきか?
一八五六年六月十日、ルスタン氏宅で、霊媒はジャフェ嬢。

――(ハネマンに対して)『霊の書』の第一部がもうすぐ終わりそうなので、もっと早く仕事を進める為に、Bに霊媒を務めてもらおうと思っているのですが、そのことについては、いかがお考えですか?

「それは止めておいた方がいいと思います」

――どうしてですか?
「虚偽の霊から真実が伝えられることはないからです」

――彼に、今Bを支配しているのが虚偽の霊であったとしても、この霊媒を通じて高級霊からの情報を得ることは可能だろうと思うのですが。

「確かにそうです。しかし、この霊媒は虚偽の霊との縁が深くなっています。したがって、常に虚偽の霊が介入してくる可能性があるのです」

Bは若い男性の霊媒で、容易に自動書記を行うことが出来る。しかし、アリストと呼ばれる、傲慢で横暴な霊に支配されていた。アリスト霊は、Bの自惚れ易い傾向性に取り入っていたのである。

ハネマンの予測は当たっていた。Bは医学的な相談業務、物当て、また、占いの類を行うことによって、一財産を築こうとし、その結果、アリスト霊に翻弄されて、支離滅裂なことを言うようになったからである。やがて、誰からも相手にされなくなった。

第7章 あらゆる試練を乗り越えて
一八五六年六月十二日、C氏宅で、霊媒はアリヌ・C嬢。

――([真実の霊]に対して)何人かの霊人から教えられた私の使命に関して、お聞きしたいことがあります。

これは、私の自惚れ心に対する試練なのでしょうか? 私が、「霊実在主義を述べ伝えたい」という強い願いを持っていることは事実です。しかし、単なる一人の信奉者であることと、組織のトップになることとの間には大変な違いがあると思うのです。私より遥かに才能の豊かな方々、私にない数々の長所を持つ方々が他にいるにもかかわらず、このようにして私が選ばれたということが、どうしても理解出来ないのです。

「あなたに対して言われたことは、その通りだと思います。でも、もしそれを実現しようと思うのであれば、謙虚さを忘れないことです。現在では、あなたを驚かせるようなことでも、やがて、その理由が分かるようになるでしょう。

『成功も、失敗も、あなたの心がけ一つにかかっている』ということを忘れないでください。もしあなたが失敗した場合には、また別の人が選ばれるでしょう。というのも、神の計画は、一人の人間の失敗に左右されるようなものではないからです。

あなたの使命に関しては、決して他人に語らないようにしなさい。もし、それを誰かに漏らせば、そのことが失敗を招き寄せることにもなりかねません。
その使命は、成し遂げた事業によってしか証明出来ないのです。そして、まだあなたは何一つ始めていません。もしあなたがそれを成し遂げたとすれば、人々はおのずからそのことを認めるようになるでしょう。というのも、果実によって、人は木の良し悪しを見分けるからです」

――自分自身が信じてもいない自分の使命について、軽々しく人に話すようなことはしません。もし私が神の道具として働くように決まっているのなら、いずれにしても、そうなるでしょう。その場合には、私の使命を果たす上で、あなたの助けと、他の霊人方の助けを、是非とも頂きたく存じます。

「私達が助けないなどということは有り得ません。しかし、もしあなたが必要なことをしない場合には、私達の支援も虚しいものとなります。あなたには自由意志があるのですから、それを使いこなす必要があります。いかなる人間も、何かをするようにと、他から絶対的な強制を受けることはありません」

――もし私が失敗するとすれば、それはどのようなことが原因となるのでしょう。私の能力不足でしょうか?

「違います。とはいえ、真の改革者は数々の暗礁や危険に立ち向かわねばなりません。
あなたの使命を遂行するのは極めて難しいということを自覚してください。というのも、世界全体に働きかけ、これを動かし、変えていかねばならないからです。本を一冊、或は二冊、または十冊出版し、後は家でのんびりしていられると思ったら大間違いです。そんな生易しいことではないのです。あなたは、全人格をかけてその事業に当たらなければなりません。

あなたは、凄まじい憎しみを受けるでしょう。仮借ない敵陣営が、あなたの破滅を願って次々に画策するでしょう。あなたは、悪意、非難、攻撃、裏切り――あなたを最も信奉しているように見える人々の中からも裏切り者が出ます――の的となるでしょう。あなた方の心を込めた指示が、ねじ曲げられ、無視されるでしょう。何度も何度も、徒労感のあまり使命を投げ出したくなるでしょう。

一言で言えば、それは休みなき戦いなのです。休息を犠牲にし、平安を、健康を、そしてあなたの人生全体を捧げなければなりません。こんなことをしなければ、あなたはもっと長生き出来るのです。そこにあるのは、両側に花の咲き乱れた快適な散歩道ではなくて、茨、尖った石、蛇で一杯の困難な道です。一歩、足を踏み入れたが最後、決して後戻り出来ません。

かくのごとき使命を果たすには、知性だけでは不十分です。まず、謙虚さ、慎み深さ、無私無欲が必要です。傲慢さ、自惚れ、野心があったら、直ぐにやられてしまいます。敵と戦うには、勇気、忍耐力、不退転の決意が必要でしょう。さらに、物事を、偶然に頼らず、計画通りに成就する為には、慎重さと同時に知謀も必要です。そして、最後に、献身、克己心、あらゆる面における自己犠牲が必要となります。
以上のように、あなたの使命が成就するか否かは、全て、あなたがどうするかにかかっているのです」

――[真実の霊]よ、智慧に満ちたご忠告を有り難うございました。私はそれらを全て、下心なしに、素直に受け止めさせて頂きます。
主よ、もしあなたが私に、あなたの計画を成就せよ、と仰るのであれば、私はあなたの意志に従いましょう。私の命はあなたのものですので、どうぞ思いのままにお使いください。

これほど大きな使命を前にすると、私は自分の弱さを痛感せざるを得ません。不退転の決意は致しましたが、はたして、やり遂げるだけの充分な力が自分にあるかどうか不安です。どうか私の不充分な力を補ってください。私に必要な、精神的、肉体的な力をお与えください。苦難の時には私を支えてください。あなたのご援助、そして高級諸霊のご支援を受けて、あなたから頂いた大いなる目的を達成出来るように、何とか頑張りたいと思います。

この文を書いているのは、一八六七年一月一日、すなわち、右の通信を受け取ってから十年半の後のことである。
ここで述べられたことは、あらゆる点で本当であった。というのも、私はあらゆる試練を受けたからである。

仮借ない敵陣営の憎悪の的となり、侮辱、悪口、中傷、妬み、嫉妬に晒されてきた。私を攻撃する文書が数限りなく刊行された。私の心からの指示は曲解された。信頼する人々からは裏切られた。私が奉仕した人々からは無視された。パリ霊実在主義協会は、私の味方であるはずの人々の策略で混乱し続けた。面と向かっては私に微笑む人々が、裏では私を冷酷にこき下ろした。私を支持する人々の中には、私が協会から吸い上げた資金で私腹を肥やしていると言いふらす人間達もいた。

私には、一日たりとも寧日(ねいじつ)はなかった。何度も何度も過酷な仕事のせいで倒れ、健康を害し、人生が危うくなった。
しかしながら、高級諸霊が絶えず保護、支援してくださり、暖かく励ましてくださったお陰で、幸いなことに、私は一瞬たりとも失意に囚われたり、勇気を失ったりすることがなかった。そして、私に向けられた悪意を跳ね返し、常に変わらぬ熱意を持って使命の遂行に邁進出来たのである。

[真実の霊]からの通信で、私はそれら全てのことを覚悟していたが、まさにその通りとなった。
しかし、苦難、困難に晒される一方で、偉大な事業が驚くべき仕方で展開していくのを見ることは、またとない喜びであった。私の苦労は数多くの慰めによって報われたのである。霊実在論によって慰められた数多くの人々から寄せられた真実の共感によって、どれほどの励ましを受けたことであろうか。

こうした結果は[真実の霊]からは全く知らされていなかった。[真実の霊]が私の困難だけを告げたのは、おそらく意図的だったのだろう。それに文句を言うとしたら、私には忘恩の徒ということになってしまう。
もし、「善と悪は拮抗しているなどと言ったとしたら、私は真実から外れていることになるだろう。というのも、善は――つまり、精神的な満足は――常に悪を凌駕しているからである。

失望に捕らえられ、苛立ちに襲われた時は、私は人類の共通想念を高く超え、意識を遥かな天上界に向けた。霊界に身を置いて、遥かな高みから、地上で自分が到達した地点を眺めると、「地上人生での苦難、困難など、全く何程のこともない」ということが、自ずから分かるのだった。
習慣的にそのようにしていたので、意地の悪い人間達の非難の声によって、私が動揺するというようなことは全く有り得なかった。

第8章 『霊の書』の内容と出版のタイミング
一八五八年六月十七日、ボダン家にて、霊媒はボダン嬢。

――([真実の霊]に対して)『霊の書』の見直しが一部終わりました。そのことに関して、ご意見をお伺いしたいのですが。

「見直した部分に関しては、それでよいと思います。しかし、全体を見直した後で、さらに、ある部分は敷衍(ふえん)し、ある部分は短くしなければならないでしょう」

――予言された事件が起こる前に出版する必要があるのでしょうか?

「ある部分に関しては、それでよいでしょうが、全部を出すことは差し控えるべきです。というのも、非常に微妙な問題をはらんでいる章がいくつかあるからです。

この最初の作品がどれほど重要なものであろうとも、それはまた、ある意味では大いなる全体の導入部でしかないのです。やがて、それは、あなたが今日到底想像出来ないような広がりを見せることになるはずです。

しかし、それらのある部分は、もっとずっと後になってからでないと発表出来ない、ということが分かるようになるでしょう。新たな考え方が広まり、根付くまで、待つ必要があるのです。一挙に全てを知らせるというのは、明らかに配慮を欠くやり方なのです。世の人々の考えは徐々にしか変化しない、ということを思い出しておくべきでしょう。

こらえきれない人々が、あなたを催促することでしょう。しかし、彼らの言うことを聞いてはなりません。よく観察し、様子を窺うのです。待つことを覚えなさい。そして、好機が来るまでは決して攻撃しない慎重な将軍のように振る舞うべきなのです」

今これを書いている一八六七年一月の時点から振り返ってみると、当時、この通信を受けていた頃は、私が『霊の書』のことしか考えていなかったことがよく分かる。[真実の霊]も言っているように、仕事全体がどれほど大きなものになるか、まるで分かっていなかったのである。

予告されていた事件は、数年の間は起こらなかった。まだ時期が来ていなかったからである。
その後、今日に至るまで、書籍が発刊されてきたわけであるが、それは誠に遅々たる歩みであった。新たな考えが根付くのを待つ必要があったからである。まだ発刊されずにいる諸作品の内、最も重要なもの、すなわち作品群の頂点をなす著作に関しては、確かに、最も微妙な部分を含んでいるので、予告された事件が終わるまでは発刊出来ないであろう。

一八五六年の時点では、私は一冊の書籍のことしか考えておらず、それがさらに展開していくことなど念頭になかったが、[真実の霊]は既に、その後の続く作品のことを暗示している。ただし、「早過ぎる出版は不都合を招くだろう」と言っている。

「こらえきれない人々があなたを催促することでしょう。しかし、彼らの言うことを聞いてはなりません。待つことを覚えなさい」と[真実の霊]は言った。事実、こらえきれない人々はいた。もし私が彼らの言うことを聞き入れていたら、私達の船は暗礁の群れに突入していたことだろう。

奇妙なことに、一方には「もっと速く進むべきだ」とせかす人々がおり、一方には「進むのが速過ぎる」と言って非難する人々がいた。私はどちらの言い分も聞き入れなかった。ひたすら、思想の浸透の具合を冷静に観察し続けたのである。
予言された事柄が次々に実現していくのを目の当たりにして、私は指導霊団の深い洞察力と智慧を信頼せざるを得なくなっていった。

一八五六年九月十一日、ボダン家にて、霊媒はボダン嬢。

『霊の書』の内の、心の法則に関する何章かを読み上げた後で、霊媒が次のように書いた。

「あなたはご自分の仕事の目的をよく理解していると思います。計画はよく出来ており、私達は大変満足しています。どうぞ、そのまま続けてください。そして、作品が完成した暁には、必ずそれを刊行してくださるようお願いします。多くの人達の為に役立つからです。私達はとても嬉しく思っています。私達が常にあなたと共にいることを忘れないでください。神を信じ、前進してください。指導霊団より」

第9章 使命は転生を超えて
一八五七年一月十七日、ボタン家にて、霊媒はボタン嬢。

「新年になったらメッセージを送ります」という約束を、Z霊がしていた。何か特別に、私に言いたいことがあるということだった。通常の集いで、それは何なのか尋ねたところ、「霊媒と二人きりの時に伝える」というふうに言われた。以下が、その内容である。

「親しい友よ、先週、多くのメンバーの前では通信を送ることを控えました。というのも、他人に聞かれては困る内容だったからです。
まず、印刷中の作品について話をしておきましょう(この時『霊の書』が印刷中であった)。あなたは朝に夕べにそのことばかり考えていますが、あまり気にすることはありません。思い煩わなくても上手くいきます。それに体調も良くなるでしょう。

私の見るところでは、あなたの仕事は必ず上手くいきます。あなたは大いなることを為すべく召命されているからです。

ただし、正しい判断力を保つ必要があります。あらゆることを健全に、冷静に観察した上で評価してください。情熱に引きずられて、急ぎ過ぎることのないように。確実に物事を成し遂げる為に、段取りや進み具合を正確に見極めなさい。幻想を抱いてはなりません。理解し難いように思われることがあっても、そこから目を逸らしてはなりません。それはさらに前進する為の教材だからです。

しかし、あらゆる人々が真理を知り、信ずるようになるまでは、まだまだ時間がかかるでしょう。あなたが生きている間は、事業が完全に成功するところまでは行かないと思います。あなたは、新たな時代の曙を見るだけで満足しなければなりません。

あなたが始めたことを完成させるには、別の肉体に宿って再び地上に生まれる必要があります。その時には、地上に蒔いた種が見事に実を結ぶのを見ることが出来るでしょう。

あなたを妬み、やっかむ人々が、あなたを中傷し、あなたの計画を妨げようとするでしょう。しかし、挫けてはなりません。力強く事業を押し進めなさい。人類の進化の為に働き続けなさい。あなたが正しき道から外れない限り、指導霊団はあなたを支え続けます。
覚えていますか? 一年前のことですが、私は、行いの正しい人を選んで支援すると約束しましたね。そうです、この一年間、あなたもまたその正しい人でありました。
あなたを愛し、守るZ霊」

「Z霊、すなわちZephyr(そよ風)は、特に霊格の高い霊というわけではない。しかし、善良で親切な霊である」ということを、かつて述べた。しかし、その後、急速に進化したように思われる。それは、右の通信を見れば、よく分かるだろう。叡智に溢れた、信頼出来る内容になっているからである。
いずれにしても、私はこの霊に関しては、よい思い出を持っているし、彼が与えてくれたよきアドバイス、また、私への愛情に対して、感謝の念を忘れていない。
ボタン一家が離散して後、彼は姿を現していない。「地上に転生する」と言っていたので、きっとその通りになったのだろう。

第10章 手相占いは正しいのか?
一八五七年五月六日、カルドヌ夫人宅にて。

ルスタン氏のお宅でのセッションで、カルドヌ夫人にお会いする機会があった。彼女は手相を見る名人だということだった。

私は、「手相それ自体に意味があるわけではない。ただし、透視能力を持っている人々にとって、手相が、真実を見抜く為の、ある種のきっかけにはなり得るだろう」と、ずっと思っていた。すなわち、「手相は、一つの口実――注意を集中させ、意識を研ぎ澄ます為の手段――であろう」と考えていたのである。その意味では、カードや、珈琲の飲み滓、鏡等と同じ役割を果たしているはずである。経験を積むにつれ、私はこの考えが正しいという確信を深めていった。

いずれにしても、カルドヌ夫人が「一度いらっしゃい」と言うので、ご招待に応じることにした。以下が、彼女が私に言ったことの要約である。

「あなたは数多くの優れた資質と高い知性に恵まれています。卓越した判断力があり、インスピレーションを理性で判断し、統御することが出来ます。本能や欲望を抑え、直観を、方法論、理論に従わせることが出来ます。『心の法則を明らかにしたい』と、ずっと思ってきました。絶対的な真理を探し求め、芸術を愛しています。

あなたの文体は、正確、緻密で、よいリズムを持っています。ただし、時には、正確さを、多少、犠牲にしても、詩的な表現を取ろうとすることがあります。
かつては、単なる観念的な哲学者だった為に、他者の意見に譲ることが多かったようです。現在では、明確な信仰に裏打ちされた哲学者として、断固たる立場をとり、また、一派をつくりたいと思っています。

思いやりと分別に溢れています。他者を助け、慰め、救うことが大好きです。また、独立心が旺盛です。
感情が激しくなっても、直ぐ元に戻れます。

ご自分に託された使命を遂行するのに極めて適した能力を持っています。孤立して仕事をするよりも、多くの人と協力しつつ、彼らを導きながら仕事をすることの方が得意でしょう。あなたの考えは、眼差しに表れます。

ここに、霊的な司教冠が見えます。大変はっきりと見えますが、あなたには見えますか?」

「私には何も見えません。その司教冠は何を意味するのでしょう? 私が司教になるということでしょうか? 仮にそうだとしても、今世で司教になることはないでしょう」

「霊的な司教冠と言ったことに注意してください。それは、精神的、宗教的な権威を意味するのであって、現実に司教になるかどうかとは関係ないのです」

ここには、カルドヌ夫人が言ったことをそのまま書いたにすぎず、それが正しいかどうかを判断するのは私の任ではない。
だが、あるものは正しいように思われる。私の性格と傾向性に関する部分である。
ただし、明らかに間違っている部分もある。それは、私の文体について彼女が述べた箇所である。彼女は、私が、正確さを犠牲にしても詩的な表現をとる、というようなことを言った。しかし、私には詩人の資質はない。

私が何よりも重んじ、好み、大切にするのは、文体の明晰さ、正確さ、簡潔さであって、それらを詩的表現の為に犠牲にすることなど決して有り得ない。むしろ、私は、「明晰さを重んじるあまり、詩的な感情を犠牲にし過ぎる。その為に文体が乾いている」と言って非難される程なのである。私は、常に、想像力に訴えるよりも、理性に訴えることを選んできた。

霊的な司教冠に関しては、まだ『霊の書』は出版されたばかりであり、霊実在主義の理論は、その端緒が示されたにすぎない。今後、それがどのような展開を見せるかは予断を許さないのである。この本の元となった啓示の送り手達それ自体に、私はそれほど重きを置いているわけではない。むしろ、その教えの内容の方が大事だと思っている。

カルドヌ夫人は翌年、パリを離れた。彼女に再会したのは、それから八年後の一八六六年のことであった。この間に、事態は大分進展していた。彼女は私に言った。

「私が予言した(霊的な司教冠)のことを覚えていらっしゃいますか? 見事に実現したではありませんか」

「実現したですって? 私はサン・ピエトロ寺院の玉座に鎮座ましましているわけではありませんよ(笑)」

「そういう意味ではない、ということも申し上げませんでしたか? 今や、あなたは、世界中の信奉者から認められた、霊実在主義の主導者ではありませんか。あなたのお書きになった書物によって、実に数多くの人々が目覚めたのです。信奉者は、既に何百万人にも達しているはずです。霊実在主義の運動において、あなた以上に権威を持つ人間がいるでしょうか?

ですから、あなたは、自ら求めずして、ごく自然に、最高の精神的地位を得たのです。あなたと同時に、或は、あなたの後で、仮に他の人達がどのような仕事をしたとしても、あなたが霊実在主義の創始者である事実には変わりがありません。つまり、あなたは事実上、霊的な司教冠をかぶっている、つまり、最高の精神的指導者である、ということなのです。

どうですか? 私の言っていることは正しくないですか?
手相による占いも当たるということが、お分かりになったのではないでしょうか?」

第11章 機関誌『霊実在主義』をおもしろくするには?
一八五七年十一月十五日、デュフォ氏宅にて、霊媒はデュフォ嬢。

――機関誌として『霊実在主義』を刊行したいと思っているのですが、上手くいくでしょうか? アドバイスをお願いします。ティドマン氏に協力を依頼したのですが、氏は、まだ財政的援助をするかどうか決めかねているようなのです。

「忍耐強くやれば成功すると思います。考え方としてはよいでしょう。あとは、案をよく練ることです」

――他の人に先を越されるのではないかと不安なのですが。
「急ぐ必要があるかもしれません」

――そうしたいのはやまやまです。しかし、時間が足りません。ご存知のように、現在、私は仕事を二つ抱え込んでいるからです。出来れば、それを止めて、心おきなく機関誌発刊の準備に専念したいのですが。

「当面、仕事を止めるべきではありません。時間というものは、つくり出そうとすればつくれるものです。動きなさい。そうすれば何とかなります」

――ティドマン氏の協力なしに動くべきなのですか?

「協力があろうとなかろうと、とにかく行動しなさい。彼のことは心配しなくてもいいでしょう。ティドマン氏が協力してくれなくても大丈夫です」

――まずは第一号を出してみようと思っているのです。それを続けるかどうかは、後でまた考えるつもりです。それでよろしいでしょうか?

「それでよいと思います。でも、一号だけではとても足りないでしょう。いずれにしても、まず第一号を発刊して、道を開くことが大事ですし、また必要でもあります。第一号を、念には念を入れてつくり、以後の成功の基礎をつくるべきです。不完全なものであれば、むしろ出さない方がよいでしょう。第一印象が、その後のあり方を決めるからです。

人々の興味を引くものでなければなりません。したがって、真面目な記事と面白い記事の両方を掲載すべきでしょう。真面目な記事は学識のある人々を引きつけ、面白い記事は一般大衆を引きつけるからです。真面目な記事が基本をなしますが、面白い記事もまた必要なのです。というのも、面白い記事がなければ充分に売れず、したがって、経済的な基盤をつくれないからです。
要するに、『堅苦しい記事ばかりではなく、肩のこらない記事も載せて、それなりの部数を売りなさい』ということです。そうすれば、この機関誌が、今後の仕事を進める上での強力な補助手段になるでしょう」

当時、私は、この機関誌の発刊を急いでおり、誰にも相談せずに、一八五八年一月一日に第一号を刊行した。当時、予約購読者は一人もおらず、出資者も一人もいなかった。全てのリスクを自分で負い、たった一人で発刊したのである。しかし、後悔はしなかった。結果が、当初の期待を遥かに超えていたからである。
第一号以来、途切れることなく発刊され続けた。そして、霊人から告げられたように、この機関誌は、私が仕事を進める上で強力な補助手段となったのである。

出資者を募らなかったのが、かえって私にとって幸いしたことを後で知った。というのも、もし、資金を誰かに出してもらっていたら、その人の考えや意志によって邪魔されて、私の自由が大幅に制限されることになっていたはずだからである。仕事自体はきつかったが、誰に対しても気兼ねすることなく、全て自分の意志で自由に進められることが有り難かった。

第12章 パリ霊実在主義協会の設立
一八五八年四月一日にパリ霊実在主義協会を設立した経緯を、ここで簡単に述べておこう。この協会は、霊実在主義の運動を展開していく上で大きな役目を果たすことになったし、それ以後、霊界との交流の場を提供することになったからである。

約半年前から、私は、マルティール街にある自宅で毎週火曜日に、何人かの仲間と集いを開いていた。デュフォ嬢が、霊媒として中心的な役割を果たしてくれていた。部屋には十五人から二十人が入るのがやっとだったが、しかし、時には出席者が三十人を超えることもあった。ここで行われた集いは、提示される質問の内容の高さ、それに対する答えの質の高さから、特筆すべきものとなっていた。貴顕紳士もしばしば同席した。

しかし、この部屋は明らかに狭すぎた。常連の内の何人かは、「資金を出すから、もっと広い部屋を借りよう」と言ってくれた。
しかし、そうする為には、正式に許可を取らなければならなかった。デュフォ氏が個人的に警視総監を知っていたので、働きかけてくれることになった。また、正式に認可を得る為には内務大臣の許諾を得る必要があったのだが、その為に、霊実在主義に親近感を持っていたX将軍が働いてくださった。これにより、普通であれば手続きに三ヶ月かかるところが、僅か二週間しかかからなかったのである。

こうして、協会が正式に設立され、パレ=ロワイヤルに借りた部屋で毎週火曜日に定期的に集いが開かれるようになった。ここでは、一八五八年四月一日から一八五九年四月一日まで活動した。それ以降は、同じくパレ=ロワイヤルの中にあるレストラン、ドュニのサロンで毎週金曜日に集いが開かれた。これは一八五九年四月一日から一八六〇年四月一日まで続いた。この時期、事務局は、サン・タンヌ街59番地に置かれていた。
協会は、当時、原則として、誠実な人であれば誰でも受け入れていたが、これは安易に過ぎたかもしれない。というのも、その為にトラブルがあとを絶たなかったからである。それを解決する為に、大分労力を取られることとなり、ともすればそれが使命の遂行の妨げとなった。

第13章 今世の仕事を終えるには、どのくらいの期間が必要か?
一八六〇年一月二十四日、フォルブ夫人宅にて、霊媒はフォルブ嬢。

私の仕事を完成させるには、まだあと十年はかかるだろうと考えていた。しかし、そのことは誰にも話していなかった。したがって、リモージュにいる知人から、私の仕事を終えるには、あと十年はかかる、という意味のことが書かれた霊界通信の記録を受け取った時には、本当に驚いた。

――([真実の霊]に対して)私がまだ行ったこともないリモージュで霊界通信が降ろされ、私が丁度その時考えていた仕事の期間に関して、ある霊が全く同じことを語りました。一体どうしてそのようなことが可能となったのでしょうか?

「私達は、あなたが為すべきことが何であるかをはっきり知っています。そして、その為に、どれ位時間が掛かるかも知っているのです。したがって、リモージュにおいてであろうと、他の地においてであろうと、霊人達が、それをメンバーに告げ、あなたの仕事がどれほどの期間を必要とし、どれほどの規模になるかを教えるのは当然のことなのです。
とはいえ、仕事の期間は絶対に十年だというわけではありません。あなたの意志とは無関係な、予期せぬ事態が起これば、それがあと数年長くなることも考えられます」

(以下の文章は一八六〇年の時点で書かれた)私は、中心となる理論書を既に四冊出版している。霊界からの情報によれば、私は一八六七年に、『霊実在主義による創世記』を出版することになっているらしい。そして、その理論を補う為の書物を書くには三、四年程かかると言われている。したがって、その書物が出版されるのは、早くても一八七〇年、つまり、これから十年後である。

第14章 教皇庁について
一八六〇年一月二十八日、ソリション氏宅にて、霊媒はソリション嬢。

――(C霊に対して)あなたは生前、ローマに大使として滞在し、その頃既に、「教皇庁が終焉を迎える」ということを予言しておられました。今日、そのことに関して、どのような意見をお持ちですか?

「私の予言が成就する時期が近づいているように思われます。そして、それは多くの痛みを伴うでしょう。全てが複雑になり過ぎており、数々の野望が頭をもたげています。キリスト教世界全体が震撼するでしょう」

――教皇の世上権(世俗的・物質的な領域に関する権限)に関しては、どのようにお考えですか?

「世上権は、教皇の偉大さ、権威にとって、必要なものだとは思えません。むしろ、全く逆です。臣下が少なければ少ない程、教皇は尊敬されるでしょう。地上における神の代理人たる教皇は、世俗的な権力など一切必要としないのです。『地上の人々を霊的に指導する』、これが教皇の最も大切な使命なのですから」

――「教皇も枢機卿会も、離教や内乱を避ける為の措置を取る必要はない」と仰るのですか?

「その通りです。教皇も、枢機卿達も、全員が、無知で、頑迷で、世俗的快楽にうつつを抜かしています。そして、そのような快楽を得る為にお金を欲しがっているのです。新たな秩序が生じれば、そうしたお金が得られなくなるのではないかと恐れています。彼らはやりたい放題をやり、未来のことには無関心で、自らの行動がどのような結果をもたらすかに関して、全く盲目なのです」

――この内乱の結果、イタリアが主権を失い、オーストリアの支配権に屈することにはなりませんか?

「それは有り得ません。イタリアが勝利し、かの地には栄光がもたらされるでしょう。イタリアこそが我々を野蛮状態から脱せしめたのです。イタリアこそが、高貴で卓越した知性を備えた、我々の指導者だったのです。いかなる軛(くびき)にも屈することはありません」

第15章 「揺るぎない信仰を持て!」
一八六〇年四月十二日、ドゥオ氏宅にて、霊媒はクロゼ氏。

私がいない時に自発的に降ろされた通信。

「パリ霊実在主義協会を破滅させ、霊実在主義の教義に致命的な打撃を与え、その信用を失墜させようと画策する者達に対して、あなた方の指導者(つまり、私、アラン・カルデックのこと)は、断固たる決意を持って、辛抱強く対抗してきました。あなた方の指導者に栄光あれ! 我々が常に彼と共にあるということ、我々高級諸霊は彼の使命を支援することが出来て大変嬉しいということを、彼によく知ってもらいたいと思います。彼の使命を援助したいという霊人は山のようにいます。その使命の偉大さがよく分かるからなのです。

しかし、この使命はまた数多くの危険を伴っています。それをやり遂げる為には、揺るぎない信仰と鉄のような意志が必要です。さらに、悪口、嘲弄、失望に雄々しく立ち向かう為には、克己心と勇気が必要であり、嫉妬や中傷をはねのけるだけの不動心も必要でありましょう。

おそらく狂人扱い、イカサマ師扱いを受けるでしょう。しかし、勝手に思わせ、勝手に言わせておけばいいのです。永遠の至福を除けば、全ては過ぎ去るのです。よき行いは必ず報われます。そして、幸せになる為には、神に送られて地を満たしている不幸な人々を救う為に汗を流すことです。
あなた方が、平安と清々しさに満たされますように。それこそが天上の至福の先駆けなのですから」

第16章 霊実在主義の未来
一八六〇年四月十五日、マルセイユにて、霊媒はジョルジュ・グヌイヤ氏(この霊示はブリオン・ドルジュヴァル氏から送られた)。

「霊実在主義は、地上で果たすべき実に大きな役割を持っています。
まず、神の法にあまりにも反している法律体系を改革しなければなりません。
また、歴史の過ちを正す必要もあります。

さらに、司祭達の手によって、悪しき商売、悪しき取引と化したキリスト教を、元の姿に戻さなければなりません。真の宗教、自然な宗教、心を救う宗教、聖職者の豪華な衣装の縁飾りにも惹かれず、華美な祭壇にも目をくれず、ひたすら神を目指して突き進む、そうした宗教を打ち立てる必要があるのです。

神の使者を名乗りながら、右手に剣を持って慈悲を説く輩、野心や権力欲の為に、人類の最も大切な権利さえも踏みにじる輩、そうした輩を見て無神論や唯物主義に入った人々を、何としてでも救わねばなりません」

第17章 教会の動きについて
一八六〇年七月十日、自宅で、霊媒はシュミット嬢。

――([真実の霊]に対して)つい最近届いたマルセイユからの手紙によると、かの地の神学校では、このところ、霊実在論の研究と『霊の書』の研究が真剣に行われているということでした。このことについて、どのように考えるべきなのでしょうか? 聖職者達もようやく事態を真剣に考え始めたということでしょうか?

「その通りです。彼らは事態を極めて真剣に捉えています。というのも、霊実在論が引き起こす結果を予測しているからです。その為に、霊実在論を大いに気にしているわけです。聖職者達、それも意識の高い聖職者達の一部は、あなたが考える以上に霊実在論を研究しています。

しかし、いいですか、それは霊実在論をよしとしているからではないのですよ。全く逆に、彼らは霊実在論を砕破しようとして研究しているのです。彼らは、いずれ、霊実在論に対して激しい攻撃を仕掛けてくるでしょう。しかし、心配することはありません。ただ、あくまでも用心深く、慎重に振る舞いなさい。彼らが仕掛ける罠に注意しなさい。無用心に言葉を発して揚げ足を取られないようにしなさい。
道は茨に満ちていますが、恐れることなく前進し続けなさい。こちらに戻ってくれば、大いなる満足を得ることが出来るのですから」

第18章 バルセロナでの焚書事件
一八六一年九月二十一日、自宅で、霊媒はA氏。

バルセロナに移り住んだラシャートル氏の求めに応じて、『霊の書』『霊媒の書』『霊実在主義』誌、それ以外の作品、小冊子の類など、合わせて、これまでに三百冊程郵送してきた。これらの本は、定期的に、他の商品と一緒に箱に詰めて送られたのだが、法に違反するようなことは一切なかった。

本がスペインに着くと、受け取った側は関税を支払う必要がある。そして、その本を渡す前に、当局は、書籍の監視をしている司教に、それらを見せて意見を聞かなければならない。

丁度その頃、当該の司教はマドリッドに滞在していた。マドリッドから帰ってきた司教は、本に関する報告書を読み、直ちに、それらの本を差し押さえ、広場において大衆の面前で燃やすようにと命令した。執行は、一八六一年十月九日ということになった。

もしも、我々が、それらを密輸しようとしたのであれば、その事実が発覚した場合、確かに、スペイン政府はそれらを自由に処分することが出来ただろう。しかし、我々はいかなる不正も行っていないのである。したがって、それらが国内に入ることを禁止しているのであれば、送り主のもとに送り返させればよいだけの話である。

フランス領事館に訴えたのだが回答はなかった。ラシャートル氏は、「もっと上級の機関に訴えるべきだ」と言ったが、私は「放っておくように」と答えた。
とはいえ、このことに関して私の指導霊に聞いてみることにした。

――([真実の霊]に対して)霊実在主義の書物に関してバルセロナで起こった事件については、ご存知だと思います。返却を要求すべきなのでしょうか。ご意見をお聞かせ願いたいと思います。

「法律的に見れば、それらの書籍の返却を求めることは可能です。フランスの外務大臣に訴えればよいのですから。

しかし、私の見解では、それよりも、バルセロナにおいて焚書にされた方が、我々にとって、より大きな善になると思います。そうしたことが為されれば、その宣伝効果にはおびただしいものがあるからです。そうした馬鹿げた、時代遅れの迫害が行われれば、あっという間に霊実在主義はスペインで有名になるでしょう。そして、人々は先を争って書籍を入手しようとするに違いありません。このように、全ては善なのです」

――『霊実在主義』の次の号で、それについて書くべきでしょうか?
「焚書の結果を待ちなさい」

「一八六一年十月九日」という日付は、霊実在主義の歴史に、「バルセロナにおける焚書事件の日」として刻まれるだろう。以下が、その執行の記録である。

一八六一年十月九日の午前十時半に、死刑執行の行われるバルセロナの広場で、当市の司教の命により、アラン・カルデックの『霊の書』その他の書籍、小冊子等、合わせて三百冊が焼却された。

スペインの主要な新聞は、一斉に、この事件について詳しく報じた。自由主義の陣営は、機関紙を通じて、この事件を正当にも非難した。

一方、興味深いことに、フランスにおいては、自由主義陣営の各新聞は、そのことに簡単に触れただけで、特に解説は載せなかった。権力側のいかなる悪弊も見逃さず、あらゆる不寛容な行為を必ず非難してきた『世紀』紙でさえも、この中世を思わせる時代遅れの行為に対して、一言も非難の言葉を発しなかったのである。弱小新聞の幾つかは、それを冗談の種にさえした。

信仰の問題は別として、これは国家の主権にかかわる原理原則の問題、国民全体の問題であったはずである。もし、霊実在主義の書籍以外の書籍がこのような目にあったら、これほど軽々しくは扱われなかっただろう。唯物主義の書物に検印が押されなかっただけで、彼らは騒ぎ立てるのではなかったか?

ところで、フランスの面前で、かくも大々的に行われた焚書には、また別の問題が隠されている。どうして、これほど世論は無関心なのか? それは、霊実在主義が広まることを、不信の徒達が、密かに恐れているからなのだ。霊実在主義の為に正義を求めることによって、国家権力の保護を与え、結果として霊実在主義の普及を助けることになるのを嫌ったのである。

スペインでは、焚書事件によって霊実在主義のことが人々に広く知られるようになったのに対し、フランスにおいては、予想されたような反応は殆ど見られなかった。

この事件に関しては、数多くの霊言が降ろされた。中でも、次に掲げるのは、私がボルドーから戻った後、十月十九日に、パリ霊実在主義協会において自発的に降ろされたものである。

「世界を新生させることの出来る、この霊実在主義という偉大な教義に触れ、それを学ぼうと思える為には、普通の人は、何らかの尋常ならざる衝撃を受けなければなりません。

地上で起こることには全て意味があります。バルセロナの焚書事件が起こることによって、我々もまた大いなる前進を果たしたのです。現代においては前代未聞のこの野蛮な行為も、それまで霊実在主義に無関心だったジャーナリスト達の注意を喚起する結果となったからです。

これまで、彼らはあくまでも聞こえないふりをし、霊実在主義に関しては緘口令(かんこうれい)を敷いてきました。しかし、よかれ悪しかれ、彼らは霊実在主義について語らざるを得なくなっています。ある人々は、バルセロナ事件の歴史的意義を確認し、ある人々は、それを否定することを通して、いずれにしても議論に参加せざるを得なくなっているのです。そして、それらは全て、霊実在主義の為に大いに役立ちました。

時代遅れの異端裁判によって焚書が行われた意味は、以上のごとくです。それは、我々が望んだことでもあるのです」

焚書のシーンを、ある高名な画家が現場で描いた水彩画が、バルセロナから送られてきた。私はそれを写真に撮ったものを持っている。また、私は、その時の灰も持っている。灰の中には、まだ判読可能なページの断片も混じっていたが、私はそれらを今でも水晶の壷に入れて保存している。

第19章 後継者の問題
一八六一年十二月二十二日、自宅で個人的なセッションを行う。霊媒はA氏。
霊実在主義の運動における私の後継者について、次のような問答を行った。

――私の帰天後、後を継ぐのは誰なのかということを、多くのメンバーが気にしています。特に「この人だ」と目される人がいない為ですが。

それに対して、私は、「私一人が必要不可欠な人間なのではない。叡智に満ちた神が、人類を再生させる程の使命を持った霊実在主義の未来を、たった一人の人間に委ねることなど有り得ない」と答えるようにしています。さらに、「私の使命は教義の確立までであって、その為に必要な時間がまさに私に与えられているのだ」と付け加えます。

したがって、私の後継者の仕事はずっと楽なものになるでしょう。というのも、もう既に道は切り開かれており、後はその道を辿るだけでよいからです。
とはいえ、もし、指導霊団が、このことに関して、もっとはっきりしたことを仰るのであれば、私はそれを有り難く承るつもりでおります。

あなたの仰ったことは、まさしくその通りです。私達に許されている範囲内で言うとすれば、次のようになるでしょう。

あなた一人が必要不可欠な人間なのではない、ということは、確かにその通りです。とはいえ、メンバーの目には、あなたは必要不可欠な人間として映っています。というのも、運動が求心力を保つ為には、組織は一人の人間を中心として動く必要があるからです。しかし、神の目から見れば別のように見えます。あなたは神から選ばれたのです。だから、唯一の指導者なのです。

ただ、あなたにはよく分かっているように、その使命を満たすことが出来るのは、あなただけではありません。もし、何らかの理由であなたがその任を果たせなくなった場合には、神は直ちに、別な人間にその後を任せるでしょう。したがって、霊実在論の運動が失敗するということは有り得ません。

組織がしっかり確立されるまでは、あなたが指導者であり続けることが必要です。というのも、人々が集まる為には、中心人物がどうしても必要だからです。あなたの手によって生み出された事業が、現在、そして未来において権威を持つ為には、あなたが必要不可欠な存在であると見なされることが、どうしても必要なのです。さらに、あなたの帰天後の後継者が誰になるのか、メンバーが不安になるくらいでなければなりません。

もし、あなたの後継者が予め指名されたとすれば、この事業は頓挫する可能性さえあります。というのも、その後継者に対する嫉妬が渦巻くのは確実だからです。メンバー達は、その人が実力を証明する前に、あれこれと論戦を挑むことになるでしょうし、敵陣営は、その人が後継者に納まるのを阻止しようとして躍起になるでしょう。その結果、分裂騒ぎや分派活動が起こるに違いありません。

したがって、時期が来るまでは、後継者を明らかにしない方がいいのです。
その後継者の仕事は、それほど困難なものとはならないでしょう。というのも、あなたが言ったように、道は既に敷かれているからです。ただし、もし近道をしようとして、その道から逸れるなら、既に多くの者達がそうなったように、自ら道に迷うこととなるでしょう。

とはいえ、ある意味では、その仕事はさらに厳しいものとなると言えるかもしれません。というのも、戦いがもっと激しくなるからです。あなたは教義を確立したのに対し、後継者はそれを実行に移さなければならないからです。故に、後継者は、エネルギーと行動力に溢れた人間でなければなりません。

いかがですか? 神がその代理人を選ぶ際に、いかに叡智をもって行うかが分かったのではないでしょうか。

あなたは教義の確立の為に不可欠な能力を備えています。しかし、あなたの後継者に必要な特質は備えておりません。あなたに必要なのは、冷静さ、穏やかさであり、それがあればこそ、沈思黙考して思想を練り上げることが出来たのです。あなたの後継者に必要なのは、科学に基づいた方法論に従って戦艦を指揮する司令官と同じ力なのです。

あなたが受け取った、『教義の確立』という辛い仕事を免除されて、あなたの後継者は、より自由に能力を発揮し、組織の基礎固めと、より一層の発展に尽くすことになるでしょう」

――後継者選びは凍結すべきなのでしょうか?

「当然でしょう。また、人間には自由意志がありますから、ある人間が自主的に後継者として名乗りを上げたとしても、最後の最後になって、その使命を放り出すということだって有り得るのです。

さらに言っておかなければならないのは、後継者になる人間は、その能力、熱意、無私無欲、自己犠牲の覚悟を証明しなければなりません。野心や功名心の為に後継者になりたいと思っている人間は、排除しなくてはならないのです」

――「この運動を支援する為に、高級諸霊が地上に生まれ変わることになっている」と言われていますが。

「その通りです。何人かの高級霊が、使命を帯びて地上に生まれ変わります。しかし、それぞれ自分の専門領域を持っており、社会のそれぞれの持ち場で、地位に応じた働きをすることになっているのです。最終的には、『自ら為した仕事の質がどうであるか』ということが問題となります。自分を偉いと思っているだけでは、何の意味もありません。

敵陣営の攻撃があまりにも凄まじいので、あなた方は、時折唖然とすることがあるでしょう。彼らによれば、あなた方は夢想家であり狂信者なのです。あなた方は、空想を事実と見なし、中世の悪魔と迷信を甦らせた、とんでもない人間達だと思われているのです。

こうした攻撃にいくら応えようとしても無駄です。それは新たな論戦のきっかけになるだけだからです。こんな場合は、沈黙を守るのが一番です。言い返す機会がなくなれば、やがて彼らも黙るでしょう。

真に恐るべきことは、思いがけない形でやってくるかもしれません。というのも、カトリックが政権を取って、非寛容な政策を打ち出すことも有り得るからです。そうなれば、あなた方は、追い詰められ、攻撃され、打ち倒され、烙印を押され、国外追放になるかもしれません。

様々な事件が起こり、政局を嵐が襲おうとしています。嵐がやってきた時には、物陰に身を潜め、事態を客観視し、諸事に恬淡(てんたん)として強くありなさい。

侵略が起こり、国境が変更され、いくつかの国家が破滅するでしょう。ヨーロッパで、アジアで、アメリカで、大規模な破壊が為されるでしょう。それを生き抜くことが出来るのは、鍛えられた魂達、悟りの高い魂達だけなのです。正義、誠実、信義、連帯を重んずる魂達だけなのです。

あなた方の社会は健全に機能しているでしょうか? 何百万人もの人々が、社会的な除け者になっていませんか? 刑務所には犯罪者が溢れ、町には娼婦が溢れていませんか? ドイツからは、毎年、相変わらず、何十万という人が亡命していませんか?

教皇は、真実ではなく、過ちを世界中に発信していませんか?

あらゆる所に嫉妬が渦巻いています。人々は利益ばかりを追い求め、無知を追放しようとしません。エゴイズムに駆られた、それぞれの政府は、何世紀も前から潮のように満ちてきている人類としての良心を無視し、国家の権力を濫用するごく一部の人間達に味方するのです。

ロシアが恐るべき暗礁に乗り上げないとよいのですが。
フランスの政治家達よ、国土を広げさえすればよいというものではないのです。そのことを忘れないように。
国家も自由意志を持っています。国家も、個人と同様に、愛、協調、融和を目指すことが出来るのです。本当に避けようとすれば、嵐を避けることは可能なのです」

第20章 仕事の取捨選択と健康の維持
一八六六年一月二十三日、パリにて、霊媒はD氏。

「あなたには休息が必要なのです。人間の力は限られていますから、『事業を早く進めたい』と思うあまり、過度の仕事を続けると、体を壊してしまいます。今のやり方を続けた場合、教義を完成させる前に健康を損ない、したがって、地上で成し遂げようと計画していた使命そのものを遂行出来なくなる恐れがあります。

現在、体の具合が悪いのは、あなたがあまりにも生命エネルギーを使い過ぎ、それが補充される暇もないからです。休息が決定的に欠けているのです。私達も支援していますが、しかし、あなたが今のようなやり方を続ける限り、それも無駄になってしまいます。そのように走り続けては危険なのです。

既に何度も繰り返し言ったように、それぞれ、物事には時というものがあり、あなたを支援する霊人といえども、機が熟さないうちは、状況を整えることは出来ないのです。

会員の一人一人が戦いに備えて力を溜めている時に、あなた自身が力を消耗してどうするのですか? そんなことではいけません。あなたはあらゆる点においてモデルとならなければいけないのです。危機に際しては、あなたが突破口を開かなければならないのですよ。体が衰弱していたら、いくら我々がインスピレーションを送っても、それに従って動くことは出来ないではないですか。

初期の仕事を補う為の作品を完成させようと、急ぎ過ぎてはなりません。目下、取りかかっている作品と、何冊かの小冊子に、専念すべきなのです。それ以外の仕事に気を取られてはなりません。

これは単に私一人の意見ではないのです。あなたの指導霊団全体の意見なのです。あなたは仕事の遅れを致命的なものだと思っていますが、我々からすれば、それは必要な遅れなのです。というのも、ある種の問題がまだ解決されていないからです。地ならしもまだ終わっていないし、理論の内にあるものは、まだ不十分だと言わざるを得ません。一言で言えば、まだ時期が来ていないのです。

今のところ、どうか自分をいたわって、力を溜めてください。やがて時が至り、精神と肉体の強靭さが必要とされるようになるからです。

霊実在主義は、既に数多くの攻撃を受けてきました。数多くの論争を巻き起こしてもきました。そうした動きがすぐに収まると思いますか? 敵陣営の憎悪が直ぐに消えていくと思いますか? そんなはずはないでしょう。浄化の坩堝(るつぼ)は、不純物を全て浄化しきれていないのです。まだまだこれから試練はあります。これまで以上に辛い試練だって、今後有り得るのですよ。

あなたの立場が数々の副次的な仕事を生み出し、それへの対応に追われていることは分かります。あらゆる種類の問題が生じて、あなたを圧倒しています。そして、あなたはそれらの全てに応えようとして、出来る限りのことをしています。

私があなたの代わりに、指導霊団に対して、決してあなた自身の為ではなく霊実在主義自体の為に、あなたの時間を奪い取る雑用をなくしてくださるようお願いしてみましょう。そうして出来た時間を使って、あなたは本来の仕事を完成させてください。

個々の手紙に対して返事が書けなくても、それは仕方がないことなのです。何よりも、教えそれ自体を完成させるべきだからです。
全体の為に、個人の満足を放棄しなければならない時があります。そのことを、あらゆる会員が理解しておく必要があるでしょう。

あなたが受け取る膨大な数の手紙は、あなたが教えをさらに発展させ、作品を書き続ける為の、貴重な資源となります。また、霊実在主義が本当に進展していることを証明してくれてもいるのです。極めて公平なバロメーターであると言えるでしょう。さらに、あなたの思想が地球のあらゆる場所で支持されているのを見て、あなたは勇気と満足を与えられます。
ですから、感謝こそすれ、手紙が来過ぎると言って不平を漏らすべきではありません。
ドゥムール医師」

――ドゥムール医師よ、智慧に満ちたご忠告に感謝申し上げます。ごく一部の例外を別として、仰る通りに致しましょう。今来つつある手紙と、これから来るであろう手紙に関しては問題ないと思います。しかし、今までに来た手紙の内、五百通を超える手紙がまだ処理出来ていないのです。

「それらに関しては、まとめて断念するしかありません。そして、その事実を機関誌『霊実在主義』に書けばよいのです。手紙の送り主達に理解してもらう他ありません。いつまでもそうした手紙にかかずらっていては、あなたの健康も回復しないし、霊実在主義の教義も完成させられません。そのことは、もうこれ以上、気にせず、今後は、心静かに、為すべき仕事に専念するようにしてください。
以上が、あなたに永遠に忠実な友人からの忠告です。
ドゥムール医師」

第21章 人類の再生のとき
一八六六年四月二十五日、パリにて、霊媒はM氏ならびにT氏。

「様々な事件が相次いで起こっています。そこで、最早『その時は近づいている』とは言わず、次のように言いましょう。すなわち、『その時がやってきた』と。

とはいえ、洪水、地震、天変地異が起こると言っているのではありません。地球が部分的に痙攣することは、あらゆる時代に起こってきましたし、今も起こっています。それらは地球の構造自体から起こるものなのです。そして、そういったことは時代のしるしではありません。

とはいえ、福音書の中で予言されていることは、全て実現するでしょう。いや、現に実現しつつあります。あなた方は、それをやがて知ることになるでしょう。しかし、そうしたしるしを表面的に解釈するのではなく、その深い意味を汲み取らなければなりません。

聖書全体が、偉大なる真理を述べているのですが、それらは寓意のヴェールを纏っています。その為、これまでの注釈者達は、それらを文字通りに受け取ることで過ちを犯してきました。彼らは、真の意味を理解する為の鍵を持っていなかったのです。

その鍵は、科学上の発見、そして、霊実在主義が我々に明かした、見えない世界の法則があります。こうした新たな知識に従うことで、今まで分かりにくかったことが、これからは明快に説明されるでしょう。

全ては自然の秩序に従っているのであり、神の不変の法則が覆されることは絶対にありません。本来、奇跡、不思議、超自然等といったことは存在しないのです。全ては自然法則で説明出来るからです。

時代の先触れを捜す為に空を眺める必要などないのです。それよりも、身の周りを見ればよろしい。周りの人間をよく観察すれば、そこに、これからの時代を告げるものが発見出来るはずです。
地球に風が吹き渡り、全ての人間に覚醒を促しているのを感じませんか? 嵐が近づきつつあるという漠然とした予感が、世界全体を包んでいるのではありませんか?

しかし、世界の終わりが来るわけではありません。地球は、創られた時以来、進化を続けているのであって、これからもまだ進化を続ける必要があるからです。しかし、人類は、大いなる変容の時期に差し掛かっています。地球は次なる段階に入っていかなければなりません。
したがって、訪れようとしているのは、物質的な世界の終焉ではなくて、これまでの精神のあり方の終焉なのです。偏見、エゴイズム、傲慢、狂信が滅んでいくのです。毎日少しずつ、それらが消滅していき、やがて、新たな世代が新たな建物を建て、それに続く世代が、その建物を堅固にし、完成させていくでしょう。

罪が償われ、地球は幸福な星になっていくでしょう。そして、そこに住むことは、罰ではなく、報いを意味することになるでしょう。悪に代わって、善がそこを支配するようになるでしょう。
人類が地球上で幸せに暮らすには、地球が、善き人々で満たされる必要があります。善を望む人々だけが生まれ変わってくる必要があるのです。そして、実際にそうした時期がやってきました。

現在、大規模な移住が進行中です。悪の為に悪を犯す人々、善の感情を持つことが出来ない人々は、変容後の地球には相応しくないので、地球外へと移り住むことになるでしょう。なぜなら、彼らが残っていると、新たに混乱をもたらして、進化の邪魔をすることになるからです。彼らは、地球よりも進化の遅れた星に移住して、そこで、善に対して無感覚になった心を変えていく必要があります。地球で獲得した知識を携えて、その星に行き、そこで、その星の進化の為に使命を果たすのです。

彼らが出ていった後には、もっと優れた魂がやってきて、正義と平和と友愛に基づく生活を展開するでしょう。
既に言ったように、地球は、一世代全体を滅ぼすような大規模な天変地異によって変容するのではありません。今地球上に生きている世代は徐々に姿を消し、それに続く世代が同じく徐々に姿を現すのです。自然の秩序が乱れるということはありません。物理的な世界が変わるのではありません。そうではなくて、『今まで地球で生まれ変わっていた魂達の一部が、最早地球に生まれてこなくなる』ということなのです。

これからは、未発達の、悪に傾き易い魂の代わりに、進化した、善への傾向を持った魂が生まれてくるということです。人類の肉体が大きく変わるということではなくて、そこに宿る魂達のレベルが上がるということなのです。
したがって、『何か超自然的な、驚くべきことが起こって、人類が変わっていくだろう』と思っている人々は、失望することになるでしょう。

現在は、移行の時期です。今は、二つの世代が混在しているのです。あなた方は過渡期にあって、一つの世代が地球を去り、別の世代が地球にやってくるのを見るでしょう。
それらの世代を見分けるのは簡単です。それぞれに性格が際立っているからです。

交代しつつある二つの世代は、まったく異なるものの見方、考え方を持っています。心の傾向性もそうですが、生まれつきの直観力において大きく異なっていますので、両者を区別するのは極めて簡単です。

一段と進んだ時代をつくる新たな世代は、幼少の頃から発達する知性と理性、生まれつき持っている善への傾向性、見えないものを信じる力などによって際立っていますが、それらは、彼らが過去世でしっかり修行してきたことの、疑いようもない証なのです。彼ら全員が、霊格の非常に高い人々だというわけではありません。そうではなくて、既に、ある程度の進化を遂げている為に、進んだ考え方を取り込み易く、人類を再生させる運動を支えることが出来る、ということなのです。

逆に、未発達霊の特徴は、摂理を否定し、高級霊の存在を否定し、神に対して反逆することです。さらに、低劣な欲望に本能的に惹かれ、傲慢、憎悪、嫉妬、煩悩といった、人と人を切り離す感情に親和性があり、そして物質に対する執着が非常に強いということなのです。

そうした悪しき精神作用を地球から一掃しなければなりません。その為には、進化を拒否する人々には地球から出ていってもらう他ないでしょう。これからやってくる友愛の時代に、彼らは相応しくないからです。彼らがいると、善なる人々が苦しむことになるからです。

その結果、地球は解放された星となり、人類は、よりよき未来に向かって自由に進んでいけるでしょう。その努力によって、その忍耐力によって、この地球上で善なる世界をつくることが可能となるのです。そして、より完全な心の浄化を果たすことで、あの世の、より優れた世界に還ることが可能となるのです。

霊人達の移住という話をしましたが、それは、『あらゆる未発達霊が地球から去っていき、地球より劣った星に送られる』ということを意味しているのではありません。その多くは、地球上で修行を続けることを受け入れているからです。彼らのエゴの内側には、柔らかい部分もあるのです。

死によって肉体から解放され、物質の影響から自由になれば、彼らの殆どは、生前とは全く違ったものの見方をするようになります。

あなた方は既に、数多く、その例を見てきたはずです。彼らは、思いやりのある霊人達に助けられ、徐々に悟り、自分が地上でいかに間違った道を歩いたかということを理解していきます。また、あなた方も、諭しと祈りによって、彼らの向上に協力することが出来るでしょう。というのも、この世を去った者達と、この世に留まる者達との間には、永遠の絆が結ばれているからです。

彼らもまた、やがて地上に生まれ変わってきて、幸福に暮らすことが出来るでしょう。彼らが、善き感情に基づいて行動する限り、多少の失敗は大目に見てあげることです。社会と進歩に敵対しない限り、彼らも有益な補助者となり得るのです。彼らもまた、新たな世代に属することになるでしょう。

したがって、地球から出ていってもらうのは、反抗心が染み付いてしまい、無知よりも、むしろ傲慢とエゴイズムによって、善と理性の声が聞こえなくなってしまった、極めつきの霊達に限られるでしょう。しかし、彼らとて、永遠に劣った状態に留まる訳ではありません。やがては、彼らも過去と決別し、光に対して目を開くことになるのです。

ですから、そうした頑になってしまった霊達の為に祈ってあげてください。まだ間に合います。贖罪の日がやってくるのは、これからだからです。
不幸なことに、神の声を理解することが出来ず、盲目的な状態のままに留まっている霊も沢山います。しかし、彼らがいつまでも闘争を続けることは許されていません。彼らは錯乱のあまり、自らの破滅に向けてまっしぐらに進んでいきますが、彼らが破壊を繰り返すことで、災難、不幸が数知れず生み出され、その結果、彼らは、それと知らずに、次なる大改革の時代を招き寄せているのです。

そして、それ以外にも、自殺者の数が前代未聞のレベルに達するでしょう。そこには子供達さえ含まれることになります。多くの人々が狂気に取り憑かれ、自らの命を絶つことになるのです。まさに、それこそが、時代の異常さを告げるしるしとなるでしょう。
以上のようなことが、次から次へと生じるはずですが、それらは全て自然の法則に則っているのです。

とはいえ、あなた方を覆っている黒い雲を通して――既に嵐のうなり声が聞こえていませんか?――、新たな時代の光が射し始めているのを感じ取ってください。

地球上のあちこちで、友愛の基礎が築かれ、人々は手を差し伸べ合っています。野蛮が姿を消しつつあります。これまで数多くの流血の原因となってきた、民族的な偏見、宗教的な偏見が消えつつあります。狂信、不寛容がその立場を失いつつあり、一方で、良心の自由が社会に導入され、一つの権利となりつつあります。

あらゆる場所で、人々の考え方が変化してきています。悪が至るところに見られますが、人々はその悪を癒そうとしています。しかし、多くの人が、羅針盤なしに歩んでおり、夢想の世界に迷い込んでいます。世界は今、産みの苦しみの最中なのです。これは、まだ百年は続くでしょう。まだまだ混乱は続きますが、やがては目的がはっきり見えてくるでしょう。和解の先触れである統合が感じられるようになるはずです。

それもまた、時代のしるしなのです。しかし、先に述べたのが、過去が滅びゆく断末魔の姿であったのに対して、これらは、新たに生まれつつある未来の新生児達の泣き声なのです。新たな世紀が目撃することになる曙の最初の光なのです。やがて、新たな世代が力に満ちて立ち上がってきます。十八世紀の様相と十九世紀の様相が明らかに違うように、十九世紀の様相と二十世紀の様相は、はっきりと異なるのです。

新しい世代の持つ特徴のうちで、最も目立つのは、彼らが生まれつき信仰を持っているということです。それも、人間を分断する、偏狭で盲目的な信仰ではなく、人間を隣人への愛と神への愛で一つに結びつける、理性的な信仰なのです。今の世代が消えていくにつれ、精神と社会の進歩に反する不信と狂信の名残も、姿を消していくことでしょう。

霊実在主義は、新生に至る道です。というのも、それは、不信ならびに狂信という二つの大きな障害物を破壊するからです。霊実在主義は、智慧に満ちた確固たる信仰を与えます。霊実在主義は、新しい世界の基礎をなす、あらゆる感情と観念を発達させます。新たな時代には、したがって、霊実在主義は、ごく自然に成長し、発展していくでしょう。霊実在主義は、あらゆる信仰の基礎となり、あらゆる霊感の源泉となるでしょう。

しかし、そうなるまでには、まだまだ、不信と狂信という二つの大きな敵と戦わねばなりません。

奇妙なことに、この不信と狂信は、お互いに手を取り合って霊実在主義に戦いを挑んでいます。おそらく、両者共、自らの運命を予感しているからでしょう。だからこそ、霊実在主義を恐れているのです。

両者共、既に、霊実在主義が、エゴイスティックな古い世界の廃墟の上に、あらゆる人々を結びつける美しい旗を打ち立てるのを見ているでしょう。『慈悲なきところに救済なし』という、古くからある格言の中に、不信と狂信は、自らに対する刑の宣告を読み取るでしょう。というのも、それは、キリストによって宣言された博愛の甦りの象徴でもあるからです。

不信と狂信の徒にとって、それは極めて不吉な言葉のように思われるでしょう。しかし、彼らはその格言に感謝すべきなのです。というのも、それこそが、彼らが今激しく攻撃している人々による反撃から、彼らを守るからです。しかし、気の毒なことに、彼らは、盲目的な力に支配されている為に、自分達を守ってくれるただ一つの存在さえ投げ捨てようとしています。
彼らは今後、自分達を拒否する人々の意見に、どのように対抗するつもりなのでしょうか?

霊実在主義は必ず勝利します。それは疑いを差し挟む余地がありません。というのも、霊実在主義は自然の摂理に則っている為に、不滅であり、負けることが有り得ないからです。霊実在主義の考え方は、あらゆる方法で、あらゆるところに広まり、浸透しています。その方法は、偶然のものではなく、摂理によってもたらされたものです。最初は霊実在主義を損なうように思われた勢力も、なんと、霊実在主義の普及を助ける手段と化していくのです。

未だにまだ霊実在主義を信じていない著名な人々が、やがて、霊実在主義の旗の下に集ってくるでしょう。それを見て、さらに数多くの人が集うようになり、反対勢力は、口をつぐむ他なくなるでしょう。最早、霊実在主義者達を狂人呼ばわりすることは不可能となるからです。

社会的地位の高い人々は、密かに霊実在主義を研究しているのです。しかるべき時が来れば、彼らは表舞台に姿を現すでしょう。それまでは、彼らは姿を隠しているのです。

さらに、やがて、様々な芸術家が、霊実在主義から霊感を得て作品を作り始めるでしょう。画家、音楽家、詩人、小説家等が、霊実在主義の理念に基づいて作品を作り始めるのです。そのうち、異教徒の芸術、キリスト教の芸術等と並んで、霊実在主義の芸術というものが誕生するでしょう。最も偉大な才能を持った芸術家達が、最も偉大な真理に学ぶのです。近いうちに、その萌芽が見られるでしょう。そして、いずれ、そうした芸術は、しかるべき位置を占めるようになるのです。

未来は霊実在主義を奉ずる人々のものです。そしてまた、心の暖かい、献身的な、あらゆる人々のものです。
障害を忘れてはなりません。なぜなら、神の計画を阻止することの出来る存在など有り得ないからです。たゆみなく努力を続けてください。そして、神から、新たな救世事業の前線部隊として選ばれたことに、心から感謝するのです。

それは、あなた方自身が志願した、名誉ある部署であり、あなた方は、勇気、忍耐、献身によった初めて、その部署に相応しい人間となれるのです。
巨大な力に立ち向かう果敢な戦いの最中に命を落とす者は幸いです。しかし、その弱さ故に、或は奥病さ故に命を落とす者は、天上界から見たら、大いに恥ずべき者達なのです。

戦いには、魂を鍛えるという意味もあります。悪に接することで、善の価値をよりよく認識することも出来るようになるのです。諸能力を発達させる戦いがないと、霊は自らの向上に無頓着になることも有り得るのです。自然の力との戦いは、肉体的な諸能力と知性を発達させます。悪との戦いは、モラルの力を発達させるのです」

第22章 「真実を明らかにせよ!」
一八六六年四月二十七日、パリ、レマリ氏宅にて、霊媒はL氏。

「親愛なる同志よ、真実は明らかにされなければなりません。何者も、真理の輝きに対抗することは出来ないのです。真理にヴェールを被せ、真理を歪曲し、真理を損なおうとしても無駄です。というのも、真理は一カ所に固定されたものではなく、空間を移動するものであり、我々の周りの空中、至る所に存在するものであるからです。

たとえ、ある世代を盲目にすることが出来たとしても、すぐに新たな世代が生まれてきます。新たな世代は豊かな萌芽をもたらし、それまで無視されてきた偉大な事柄を、全て自らに引き寄せるでしょう。

友よ、急ぎ過ぎてはなりません。自然の法則を忘れると、時代を追い越してしまうからです。

神は全てを叡智に基づいて運用されます。あなた方の地球を構成している要素は、長い時間をかけて周到に生み出されました。あなた方が生まれる前に、体の各器官は周到に準備されたのです。様々な物質、ミネラル、ガス等が組み合わされ、徐々に化合し、濃縮され、そしてついに、あなた方の誕生となったのです。無機物質にも、有機物質にも、等しく自然の法則は適用されます。

霊実在主義もまた、自然の法則から逃れるわけにはいきません。
不毛の土地に植えられれば、周りには、雑草も、悪しき木も茂るでしょう。その場合には、雑草を引き抜き、悪しき木の枝を払わなければなりません。やがて、霊実在主義の木が大きく育てば、人生という旅に疲れた旅人がやってきて、その陰で憩うことでしょう。ゆっくりと、賢明に育てられた木の陰で、汗を拭いて、ほっと一休みすることが可能となるのです。

木が育つまでは苦しみが伴いますが、その功徳にはとても大きなものがあります。その過程には、辛さが伴いますが、それはどうしても必要なのです。そのようにして、地上という学校で鍛えられた霊は、より強くなり、より大きな事業を行うことが可能となるでしょう。

挫けそうになった者に、神は『勇気を出しなさい! 』と言います。そして、最も恩知らずな人間に対しても、到達点を、救済の地を、すなわち、転生輪廻という道標の立った道を、かいま見せてくださるのです。

虚しい大言壮語は笑い飛ばしなさい。分離派は放っておきなさい。トップに立てない為に騒ぐ者達には言いたいことを言わせなさい。彼らがいくら騒いだところで、霊実在主義の歩みを止めることは決して出来ないのです。霊実在主義は永遠の真理の大河です。どんな人間であれ、この大河の流れを止めることは決して出来ません」

訳者あとがき
思い切って告白しましょう。
訳者がまだ唯物主義者だったころ、本当に恥ずかしいことですが、
「どうせ死ねば何もかも終わるのだから、生きているうちに、やりたい放題をやるだけだ」
「バレさえしなければ、何をやってもかまうまんか」
「自分さえよければ、人のことなんかどうでもいい」
などと思いながら、日々を生きていました。

しかし、本書をお読みくださった読者のみなさまにはすでのお分かりのように、それは実に実に危険な生き方であるのです。
というのも、死後の生命は巌然としてありますし、また、神は、私たちの地上での生き方を、細大もらさずすべてご覧になっているからです。
そうして、私たちが死んだとき、私たちは地上での自分の生き方についての「成績表」を見せられることになります。そのときには、いっさいのごまかしが通用しません。
「もっと早く知りたかった!」というのが私の正直な気持ちです(笑)
しかし、まだ間に合うでしょう。
『天国と地獄』そして『天国と地獄Ⅱ』に収められたケーススタディーをつぶさに研究することによって、「この世とあの世を貫く幸福」を手に入れるべく、頑張ってみたいと思います。

近代スピリチュアリズムの歴史の中で、最初にして最後、最大にして最高の体系家と言われるアラン・カルデックの”Le Ciel et l’Enfer”(『天国と地獄』)の全貌を、このようなかたちでご紹介することができ、訳者はいま深い感謝と喜びに満たされています。
本書が、多くの方々のスピリチュアルな糧となりますことを、心よりお祈りいたします。

二〇〇六年夏 神秘の扉がさらに大きく開かれるのを待ちながら
浅岡夢二