霊との対話 『天国と地獄』
アラン・カルデック(著)
浅岡 夢二(訳)

2006年2月 7日 初版第1刷
2011年7月17日   第8刷

訳者からのメッセージ
まず初めに、本書第二部の冒頭に収録されている、「死んでから二日たった霊」との対話の一部を引用してみましょう。

――招霊をおこないます――

「私はいま、約束を果たすために、こうして出てまいりました」

――あなたは亡くなる際にずいぶん苦しんでおられました。現在の状況と二日間のそれを比べると、どんな違いがありますか?

「現在はたいへん幸せです。もう苦しみはまったく感じられません。私は、再生し、回復しました。地上の生活から霊界の生活への移行は、当初は何が何だかよく分かりませんでした」

――意識がはっきりするのに、どれくらい時間がかかったのですか?

「八時間ほどです」

――ここにあなたの遺体がありますが、これを見ると、どのような感じがしますか?

「哀れでちっぽけな抜け殻にすぎません。あとは塵(ちり)になるだけです。
ありがとう、私の哀れな体よ。おまえのおかげで私の霊は浄化されました」

――最期の瞬間まで、意識ははっきりしていましたか?

「はい。私の霊は最後まで能力をしっかりと保持していました。もう見ることはできませんでしたが、感じとることはできました。
それから、私の一生が目の前に展開されました」

「スピリチュアル」ブームのもとにあるもの
十九世紀半ばから後半にかけて、このような霊的な現象を伴う精神運動が、欧米各地で巻き起こりました、そのフランスにおける中心人物となったのが、本書を書いたアラン・カルデック(1804年~1869年)です。

こうした「霊との対話」に基づいた彼の著作シリーズは、近代スピリチュアリズムの最も偉大な古典であり、十九世紀後半のヨーロッパにおいて、400万部を超える空前の大ベストセラーとなりました。その信奉者は、ラテン世界で、現在、2,000万人にのぼると言われています。
本書は、そのシリーズの中の一つ"Le Ciel et l'Enfer"(「天国と地獄」1865年刷)の、本邦初の訳書です。

いま日本において、「スピリチュアル」の大ブームが巻き起こっていますが、その最大の淵源は、実はアラン・カルデックの著作シリーズにあると言っても過言ではありません。それは、本書をお読みいただければ、充分、納得していただけるものと思います。

本書「天国と地獄」は、おもに、”つい先日”まで生きていた、人間味にあふれた霊たちからのメッセージをまとめたものですが、アラン・カルデックの他の著作は、人類史上に燦然と輝く、そうそうたる高級霊たちの高度な霊示をまとめたものになっています。

アラン・カルデックの言葉どおりであるとすれば、イエス・キリスト、ソクラテス、プラトン、福音書のヨハネ、聖アウグスティヌス、聖ルイ、スウェーデンボルグ、ベンジャミン・フランクリンなどが、彼のガイドをしていたことになります。

「交霊会」とは?
こうした霊たちとのコンタクトは、主として「交霊会」を通して行なわれたものです。

それでは、ここで、当時の交霊会を再現してみましょう。
パリ霊実在主義協会に属するメンバーの家のサロンに、今日は十二人の参加者が集まっています。部屋の真ん中に、アラン・カルデックと霊媒が向き合って椅子に座り、その横にはテーブルが置かれて、その前に速記者が座っています。アラン・カルデックと霊媒のやり取りを記録するためです。

それ以外の参加者はそのまわりにゆったりと座っています。
準備が整うと、全員で静かに数分のあいだ瞑想します。
その後、アラン・カルデックがお祈りをし、そして招霊を行います。

霊が降りてくると、アラン・カルデックがみんなを代表して質問し、それに対して霊が答えるというかたちで、交霊会が行われるのです。そのやり取りは、すべて速記者によって記録されます。

こうした交霊会が、当時、アメリカやヨーロッパの全域で頻繁に行なわれていました。そして、そこには、コロンビア大学のハイスロップ教授、アメリカ・サイ科学協会の会長であるリチャード・ホジソン、フランスのノーベル生理学賞受賞者シャルル・リシェ博士、バーミンガム大学の学長であり、かつ王立アカデミーのメンバーでもあるオリヴァー・ロッジ卿、当時の最も偉大な物理学者であるウィリアム・クルックス卿といった、綺羅星のごとき学者や科学者、さらに、「シャーロック・ホームズ」シリーズを書いた、あのコナン・ドイル卿も、真剣な面持ちで参加していたのです。

アラン・カルデックの人物像
アラン・カルデックは、本名をイポリット=レオン・ドゥニザール・リヴァーユといい、1804年10月3日、リヨンにおいて、代々、法律家を輩出してきた家系に生まれました。幼少時より、自然科学や哲学に関心を寄せる、非常に利発な子供でした。

十歳のときにスイスのペスタロッチ学院に入学し、そこで、科学、物理、数学、天文学、医学、語学、修辞学などを総合的に学びます。医学の博士号を取る一方で、六ヵ国語を自由にあやつるといった、極めて幅広く深い教養を備えた人でした。

冷静かつ理知的なタイプで、実証主義的な発想を体得しており、理性に裏づけられた懐疑主義こそが、彼の真骨頂であったと言えるでしょう。

フランスに帰ってからは、自宅で諸学問を教えるからわら、参考書や教育書を次々に出版しました、アラン・カルデック自身、教育学者として高い評価を受ける一方で、それらの書物は大変な評判を呼び、1840年代の終わりごろには、印税だけで暮らせるような状況になっていました。

そうやって実績を積むうちに、やがて、50歳でスピリチュアリズムに出会います。以後、アラン・カルデックは、自然科学的な手法を使い、霊的な世界を徐々に解明していきます。

そういう意味では、自然科学系の諸学問を極めた上で、あるときから霊的世界に参入していった、北欧の知的巨人スウェーデンボルグに似ていると言えるかもしれません。

「霊実在主義」とは?
アラン・カルデックは、霊界から受け取った膨大なメッセージに基づいて、spiritisme(スピリティスム)、すなわち「霊実在主義」あるいは「霊実在論」と呼ばれる、壮大かつ精緻な理論体系をつくり上げました。

この「霊実在主義」の基礎をなす原理は次のようなものです。

① 死というのは、肉体が機能を停止するだけのことであり、その人の本質、つまり霊(魂)は、エネルギー体として霊界で永遠に生きつづけている。

② 霊界で暮らしている霊は、ある一定の期間を経ると、肉体をまとって地上に転生してくる。

③ 転生輪廻の目的は、魂の向上、すなわち、より高い認識力の獲得と、より大きな愛する力の獲得である。

④ 魂は絶えず向上して神に近づいていく。神に近づけば近づくほど、悟りが高まり、魂は自由となり、より大きな幸福を享受できるようになる。

⑤ 霊界にいる霊人たちは、地上の人間にメッセージを送ってくることがある。

アラン・カルデック自身の定義によれば、「霊実在論とは、実験科学であると同時に哲学理論でもある。実験科学としては、霊とのあいだに築かれる関係に基礎を置いている。哲学理論としては、霊との関係から導き出されるあらゆる心の法則を含んでいる」、すなわち、「霊実在論は、霊の本質、起源、運命を扱う科学であり、また、霊界と物質界との関係を扱う科学である」ということになります。

アラン・カルデックは、一八五八年一月一日には月刊誌「霊実在主義」を刊行しはじめ、ついで、パリ霊実在主義協会を創立しました。このパリ霊実在主義協会は、霊実在主義を広めるための機関として、その後、幅広い活動の拠点となります。

この本をより楽しむために
本書は、第1部が、軽い導入的な理論編、第2部が、死んで間もない”できたてほやほやの”霊たちから受け取った、生々しいメッセージがたくさん収録された実例編、第3部が、死後の世界に関する理論編という構成になっています。

第1部、第3部では、「霊との対話」をもとにして、アラン・カルデック自身が論を展開しています。

第2部に登場する霊たちは、実に多肢にわたっています。
無事、地上での使命を果たし、天国に還って無上の喜びにひたっている霊もいれば、間違った生き方をして地獄に墜ち、塗炭の苦しみをなめている霊もいます。また、自殺をした結果、深い悔恨にさいなまれている霊もいれば、生前のプライドを死後にまで持ち越し、自分が死んだことさえ分からずに、いばりちらしている霊もいます。

そうした霊たちからのメッセージの中には、訳者自身にとっても、「う~む、このままだと自分はかなりマズイかも」と感じさせられる個所がたくさんありました。

たとえば、ジョゼフ・ブレという、孫娘に招霊されたおじいさんの霊がいますが、この人は、生前は、人間の目から見て「ずっと正しい生き方をしていた」にもかかわらず、いざ霊界に還ってみると、神の目から見て「正しい生き方をしていなかった」ということが判明して、かなり悔やんでいます。

さらに、エレーヌ・ミッシェル嬢の死に方も気にかかります。二十五歳で亡くなったこの女性は、「よこしまなところはまったくなく、善良で、優しく、思いやりにあふれていた」にもかかわらず、「まじめなことがらに取り組むよりも、目先の楽しみに心を奪われて生活」していたために、死んだとき、なかなか肉体から離れることができず、かなりの混乱を味わっています。ついつい「目先の楽しみに心を奪われ」がちである訳者としては、人ごとと言って済ませるわけにはいきません。

また、フランスで暮らしていたインドの女王ドゥードの死後の様子も、すさまじいまでの迫力に満ちています。ここまで極端な傲慢さは持っていないと思うものの、慢心に決して無縁ではない訳者としては、「このままでは危ないぞ」と焦りを感じた次第です。

今回、この「天国と地獄」を訳してみて、これほど優れた古典がこれまで日本語に訳さされていなかったということに、大きな驚きを禁じ得ませんでした。いま、ようやく、その時期が到来したのかもしれません。
二00六年一月 浅岡夢二


第1部 死の恐怖と苦しみを克服する方法

第1章 魂と肉体が分離するとき
第1節 最期の瞬間に何を感じるのか?
死後の世界があるということを確信していても、やはり、この世からあの世へ行くということには恐れが付きまとう。
死、それ自体が怖いわけではない。そうではなくて、移行のプロセスに恐れを感じるのである。

この世からあの世へ行くときに、苦しまなくてはならないのだろうか?
そのことが問題なのである。
しかも、誰一人として、その移行を免れることは出来ないだけに、この問題は重要性を増す。
地上においては、旅行をせずにいることは可能である。しかし、この最後の旅行だけは、貧乏人も、金持ちも、誰一人として免れることが出来ないのである。
しかも、地位や財産があったとしても苦しみが減ずるわけではないらしいことも、気にかかる。

ある人々は静かに死んでいき、また、ある人々は苦悶に満ちた恐ろしい死に方をするので、「一体自分はどうなるのだろうか」と気になる。
だが、その点に関して教えてくれる人がいないのである。
魂と肉体が分離するときに起こることを、実際に描写してくれる人はいないのだろうか?
最後の瞬間に、どんなことを感じるのか、教えてくれる人はいないのだろうか?

この点に関しては、科学もキリスト教も沈黙を守るのみである。
だが、なぜそうなのか?
それは、科学もキリスト教も、霊と物質の関係について、何一つ知らないからである。
科学は霊について無知であるし、キリスト教は物質に関して無知だからである。

そして、霊実在論こそが、この両者を結びつける存在であるのだ。霊実在論だけが、実際に、その移行がどのように行われるかを言うことが出来る。
というのも、霊実在論は、魂に関して実証的な知識をたくさん持っているし、現実に肉体を離れた人々の体験談も、数多く収集しているからである。

第2節 魂と肉体をつなぐもの
魂と肉体をつなぐ霊子線こそが、秘密を解く鍵なのである。
物質それ自体は、感じ取る能力を持っていない。これは実証可能な事実である。
喜びや苦しみを感じることの出来るのは、魂だけなのである。一生の間、肉体の状態は、常に魂に伝えられているのであって、喜んだり苦しんだりするのは、肉体ではなくて魂なのである。肉体は道具にすぎず、そこからの情報を受け取るのが魂である。

死が訪れると、肉体と魂は切り離されるが、肉体には感じ取る力がないので、問題はまったく生じない。
分離した魂は、肉体の崩壊からは何の影響も受けない。そして、物質とは別の源泉から刺激を受け取るようになるのである。
幽体は魂を包み込んでおり、幽体と魂は一体となっている。一方なしに他方は考えられない。
生きて地上にいる間は、幽体は、肉体の隅々にまで浸透しており、魂が肉体の反応を感じ取るために役立っている。同様に、魂が肉体に働きかけて動かすことが出来るのも、幽体のおかげである。

肉体の有機的な生命が終了すると、魂と肉体を結んでいた霊子線が切れる。
だが、この分離は直ちに起こるわけではない。幽体が徐々に肉体から分離してゆき、肉体の細胞の中に幽体の構成要素が全く存在しなくなるまでは、分離は完成されないのである。

死の瞬間に魂が感じる苦しみは、肉体と幽体が、まだ繋がっているがゆえに感じられるのであり、分離に要する時間と、その困難さに応じて、苦しみの程度も決まる。
したがって、場合によっては、死ぬことに、ある程度の苦しみが伴うことは、認めておかなければならない。

様々な状況の違いに関しては、後々検証することになるだろう。
ここでは、まず、四種類の極端な場合を想定しておこう。それ以外のケースは、すべて、それらの四種類の変奏としてとらえられるはずだからである。

1 有機生命が消滅する瞬間に、幽体の分離が完全に行われれば、魂は、まったく苦しみを感じない。

2 その瞬間に、幽体と肉体が、まだ完全に結びついている場合は、それらを引き裂くことになるので、魂は苦痛を感じることになる。

3 幽体と肉体の結びつきが、それほど強固でない場合は、分離は容易に行われ、苦痛は、さほど感じられない。

4 有機生命が完全に消滅しても、なお、肉体と幽体が結びついている場合、霊子線が切れるまでは、肉体が解体するときの影響を、魂も受けることになる。

以上のことから、死に伴う苦しみは、肉体と幽体を結びつけている力の強さに関係していることが分かる。
したがって、この力が弱くて、分離が容易になればなるほど、死の苦痛もまた少なくなる。
要するに、幽体と肉体の分離が速やかに行われれば行われるほど、魂は苦痛を感じずに旅立つことが可能となるのである。

第3節 意識の混濁、そして目覚め
この世からあの世への旅立ちのプロセスで、もう一つ、忘れてはならない要素がある。それは意識の混濁である。

死の瞬間に、魂は麻痺状態となり、その能力が一時的に停止されるため、少なくとも部分的に感じる力が働かなくなる。つまり、魂が一種の失神状態に陥るために、ほとんどの場合、息を引き取る瞬間のことが意識されないのである。
「ほとんどの場合」というのは、なかには、その瞬間のことをはっきりと覚えているケースもあるからである。それについては、あとで見ることにしよう。

意識の混濁が死の瞬間に起こるのは自然なことなのである。
どれくらいの間混濁するかは、それぞれ、人によって異なる。数時間で済む場合もあれば、数年間に及ぶ場合もある。混濁が解消すると、魂は、ちょうど、深い眠りから覚めた時の人間のような感じとなる。考えがまとまらず、ぼんやりとしており、まわりに霧がかかっているような感じである。視覚も除々に元に戻り、記憶もはっきりしてきて、意識が戻ってくる。

だが、この目覚めも、人によって、それぞれ違ったものとなる。ある場合には、目覚めは穏やかであり、気分は良い。また、ある場合には、目覚めは恐怖と不安に満ちており、悪夢からの目覚めにも匹敵する。
したがって、息を引き取る瞬間は、それほど苦しいものではない。というのも、大体の場合、魂は意識を失っているからである。

だが、息を引き取る瞬間までの間は、魂は、肉体の苦しみを感じ取っている。そして、息を完全に引き取ると、今度は意識の混濁を原因とする苦しみを感じる。
しかし、すべての場合がそうなるというわけではない。苦しみが続く時間と苦しみの大きさは、肉体と幽体の結びつきいかんによって決まるからである。

結びつきが強ければ強いほど、その絆を断ち切るための時間は永くなり、苦痛も大きくなる。
だが、なかには、結びつきが非常に弱いために、分離のプロセスが、ごく自然に、何の苦痛もなく行われることがある。完熟した果物が自然に落ちるようなものであって、そういう場合には、死は極めて穏やかであり、霊界への目覚めもまた安らぎに満ちたものとなる。

主として、その時の魂の状態によって、分離が容易に行われるかどうかが決まる。
肉体と幽体の親和力が高いと、霊の肉体への結びつきも強くなる。関心が、地上生活の物質的な快楽に集中している人の場合、幽体と肉体の結びつきの強さは最大になる。一方、主たる関心が霊性にあり、地上にありながら、既に生活が非常に霊的になっている人の場合、幽体と肉体の結びつきは、ほとんどゼロに等しい。

分離の速度と難易度は、魂の浄化の度合い、脱物質化の度合いに左右されるので、分離が容易であるか辛いものになるか、快適か苦しいかは、各人の心境次第ということになるだろう。

第2章 この世からあの世への移行を楽にするには
第1節 病気や老衰で死んだら、どうなる?
理論的にも、また、観察の結果としても、以上のことを明らかにしたので(一つ前の記事を参照されたし)、あとに残っているのは、「死に方が、魂に、どのように影響するか」という問題である。

病気や老衰による自然死の場合、生命力は徐々に衰えるので、幽体と肉体の分離も徐々に進行する。

魂の浄化が進み、関心が地上の物質から完全に離れている人の場合、実際の死よりも前に分離が進行していることが多い。「肉体は、まだ有機的な生命を伴っているが、魂が、既に霊的生活に入り、肉体とは本当に微かに繋がれているだけ」という状態になっているので、心臓が停止すれば、直ちに電子線が切れる。
こうした状況では、霊は、既に明晰さを取り戻しているので、肉体生命が消えていく様子をつぶさに観察することができ、なおかつ、肉体から離れることができるのを喜ぶ。

そうした人の場合、意識の混濁は、ほとんど生じない。「ほんの一瞬、平和にまどろんで、目を覚ました」という感じであり、えもいわれぬ幸福感を感じつつ、希望に満たされて霊界に還ってゆくのである。

物質的で官能的な人間、つまり、霊的な生き方ではなく肉体的な生き方をした人間、霊的生活に何の意味も見いださなかった人間、精神生活に何のリアリティーも感じなかった人間の場合、魂と肉体の結びつきは非常に頑固なものとなっている。

死が近づくと、分離が徐々に始まるが、多くの場合、困難を伴う。いまわの際に、痙攣が起こるが、これは、電子線を切ろうとする霊に対する肉体の抵抗が大きいために起こるものである。また、時には霊が肉体にしがみつくので、激しい力で、それを引き離さなければならず、そのために痙攣が起こる場合もある。

あの世の存在を知らないと、それだけ激しく肉体に執着する。いつまでも肉体に入った状態でいようとするのである。全力を振り絞って肉体の中に留まり続けようとするために、時には、分離のための闘いが、数日、数週間、さらには数ヶ月かかることもある。

こういう状態では、霊の意識は混濁状態にあるものと思われる。死のはるか前に意識の混濁は始まるのだが、だからといって、楽になるわけではない。わけが分からず、死後にどうなるか見当もつかないので、それだけ苦悩が増すのである。「やっと死ねたと思ったら、それで終わりではなかった」というわけである。混乱は続く。

「自分は生きている」と思うのだが、物質界で生きているのか、霊界で生きているのか、はっきりしない。実際には、もう病気ではないのだが、それでも、まだ症状が続いているように感じられる。

脱物質化が進んで十分に浄化されている霊の場合、状況は、まったく異なる。
肉体と霊を結ぶ電子線は非常に弱くなっているので、何のショックもなしに切ることができる。
また、死後に自分が赴く場所については熟知しているので、彼にとって、病気による痛みは試練であり、死は解放でしかない。したがって、心は平静であり、諦念が苦悩を和らげる。

死の瞬間には、電子線は一瞬で切れるので、苦痛は全くない。彼にとって、死とは、自由への目覚めにほかならない。魂は、重い体から解放され、喜びに満たされ、はつらつとしている。

第2節 非業の死を遂げたら、どうなる?
非業の死の場合、条件は同じではない。肉体と幽体の分離の準備が、あらかじめ、全くなされていないからである。有機的生命が、力に溢れた状態で、突然、中断されるわけである。

したがって、幽体の分離は、肉体が死んだ後で開始されるのだが、それには多大な困難が伴う。霊は、あまりにも不意な出来事に圧倒されて、茫然自失の状態である。だが、考えることはできるので、「自分は、まだ生きているのだ」と思い込む。

この錯覚は、状況を正しく把握するまで、ずっと続く。
肉体生活と霊的生活の、この中間状態は、たいへん興味深いものであり、詳しい研究に値する。というのも、こういったケースでは、霊は、自分がまとっている幽体を肉体であると錯覚しており、肉体を持っていた時の感覚をまだ失っていないからである。

霊の性格、知識、悟りの程度に応じて、この中間状態は、実に多くの様相を呈する。魂が既に浄化されている人の場合、あらかじめ幽体と肉体の分離は進んでいるので、突然の死に見舞われたとはいえ、それは分離を早める結果にしかならない。また、浄化が十分でない魂の場合、分離するのに数年間かかることがある。

もっとも、通常の死の場合においても、以上のことは、よく見られることであり、浄化の進んでいる魂にとっては、死は、何の苦しみももたらさないが、浄化が十分に進んでいない魂の場合、死が、とてつもない苦しみをもたらすことがある。
特に、自殺による死の場合、苦しみは大変なものとなる。肉体が、まだ完全に幽体と結びついているので、肉体の苦しみが、そのまま魂に伝わり、激烈な苦しみを味わうことになるのである。

死の瞬間の霊の状態は、大体次のようにまとめることが出来る。
幽体と肉体の分離が遅れれば遅れるほど、霊は、より長く苦しむこととなる。そして、分離が早いか遅いかは、霊の悟りの進み具合に左右される。脱物質化の進んでいる霊の場合、意識が浄化されているので、死というのは短い眠りのようなものにすぎず、まったく苦しみを伴わない。その短い眠りから覚めると、心地よさに満たされている。

第3節 死後の世界は現実そのもの
魂の浄化をすすめ、悪しき傾向性をなくし、欲望に打ち勝つためには、そうすることによって、死後に、どのような利点があるかを知っておく必要があるだろう。

死後の生活に焦点を合わせ、それを目指し、地上の生活よりも、そちらを優先するためには、それを信じるだけでは十分ではなく、それが、いかなるものであるかを正確に知らなければならない。死後の世界は、理性的な観点からも、また、論理的な面からも、十分、納得出来るものである必要があるし、良識、神の偉大さや善意、正義とも矛盾しないものでなければならない。
この点に関して、あらゆる哲学の中で、霊実在論こそが、その揺るぎない根拠によって、人々に影響を与えることができる。

真摯な霊実在主義者は、盲目的に信じるのではない。彼は、正確に理解したが故に信じるのである。しかも、彼は、自らの判断力に基づいて理解したのである。

死後の世界は現実そのものであって、見ようと思えば常に見ることができる。彼は、絶えず、それを見、それに触れている。疑いをさしはさむ余地はまったくないので、霊界での生活、真実の生活を知ってしまうと、限定だらけの肉体生活などには何の魅力も感じられなくなる。

そうした観点からすると、地上での、細々とした出来事などは、どうでもよくなり、また、様々な不幸にしても、それが、なぜ、どのような目的で起こるのかが分かるので、諦念とともに潔く受け止めることができる。

目に見えない世界と直接関わることができるので、魂は大きく飛躍する。
肉体と幽体を結びつける絆が弱まり、分離が始まるので、この世からあの世への移行が非常に楽になる。移行に伴う困難は、あっという間に終わる。
というのも、あの世に踏み込んだ時点で、すぐに自分を取り戻すことができるからである。そこには未知のものは何も無く、自らの置かれた状況を直ちに理解出来るのである。

「霊実在論を知らなければ、そうした結果を得ることはできず、霊実在論だけが、魂の救済を果たし得る」と主張したいわけではない。だが、霊実在論が提示する知識や感覚、霊実在論によって示される死後の霊の行方を知ることが、魂の救済をはるかに容易にするのは事実である。霊実在論によって、我々は、霊的向上の必要性を正しく理解できるのである。

また、霊実在論によって、我々は、「自分以外の人が亡くなる際に、祈りや招霊という手段を通じて、その人が地上のくびきから自由になるための手助けをすることが可能となる」ということも知ることができる。その結果、その人の苦しむ時間が短くなるのである。

真摯な祈りは、幽体に影響を与え、幽体と肉体の分離を容易にする。
また、慎重に、智慧をもって招霊を行い、さらに、思いやりに満ちた励ましの言葉をその人にかけることで、その人の霊が、混乱状態から抜け出し、自覚を取り戻せるよう、支援をすることができる。もし、その人が苦しんでいるようであれば、苦しみから抜け出す唯一の手段である悔い改めを促すことによって、その人を助けることも可能である。

第2部 天国霊・地獄霊からの通信の記録

第1章 幸福に暮らす霊
(1)サンソン氏――死後の招霊を希望していた男性
サンソン氏は、パリ霊実在主義協会の古くからのメンバーであったが、一年間のひどい苦しみのあとで、一八六二年四月二十一日に亡くなった。生前、みずからの死期を悟った氏は、協会の会長宛てに、次の一節を含む手紙を送ってきた。

「私の魂と肉体が、もし、突然、分離するようなことがありましたら、どうか、私が約一年前に依頼しましたことを思い出してくださるようお願い申し上げます。私の霊を、できるだけ早めに、できるだけ頻繁に招霊していただきたいのです。

地上にいるあいだは協会のためにほとんどお役に立てなかった私ですが、霊界からさまざまな情報をそのつどお送りすることによって、みなさまに、研究のための材料を提供させていただきたいと思うからです。俗に『死』と呼ばれている現象が――それは、われわれ霊実在主義者にとっては、単なる変化にすぎないわけですが――どのような経過をたどるのかを、みなさんにお知らせしたいのです。

さらに付け加えてお願いしたいのですが、私の霊がそれほど進化していないために、もしも、死後の霊的解部とでも言うべきこの作業が不毛なものになりそうな場合、どうか、それを適当な段階で打ち切っていただきたいのです。

また、高級諸霊が忠告を通じて私を助けることをご許可くださるように、神に対して祈っていただきたいのです。特に、われわれの霊的な指導者である聖ルイに対し、私の次の転生の時期と場所を選ぶことに関して、私をご指導くださるよう祈っていただきたいのです。というのも、すでに、この問題は私の大きな関心の的となっているからです。

もっとも、こんなに早々と、こんなに思い上がったかたちで、次の転生のことまで神にお願いしようとしていることを、私がひそかに恥じているのもまた事実なのですが」

「死後、できるだけ速やかに招霊してもらいたい」というサンソン氏の希望をかなえるため、われわれは、協会の他の数人のメンバーとともに、喪中の家を訪れた。そして、そこで、遺体を前にして招霊を行い、以下の対話を得た。それは埋葬の一時間前のことであった。

これには二重の目的があった。一つは、サンソン氏の遺志を尊重するということ。もう一つは、死んだ直後の魂――それも、卓越した知性を備え、悟りも高く、霊実在主義の教える真理を深く究めていた人の魂――が、どのような状況を経ることになるのかを観察するということである。霊実在論に基づく信仰が、死後の霊にどのような影響を及ぼすことになるのか知りたかったし、また、霊の最初の印象がどのようなものであるかを把握したかったのである。

サンソン氏は、完全な意識状態で、生から死への移行の様子を語ってくれた。彼は、一度、死に、そして霊界に生まれ変わったわけだが、心境は一変していた。それは、彼の悟りの高さのしからしむるところであろう」

Ⅰ 喪中の家にて 一八六二年四月二十三日

――招霊を行います――
「私はいま、約束を果たすために、こうして出てまいりました」

――サンソンさん、こうして、あなたの死後、できるだけ早くあなたをお呼びしたのは、約束を果たすためでもあり、また、それは、われわれにとっての大きな喜びでもあります。これはあなたが望まれたことです。

「神の特別の思し召しによって、私の霊に通信が許されました。あなたがたの善意に感謝申し上げます。しかし、私には力がないために、うまくゆくかどうか心配です」

――あなたは亡くなる際にずいぶん苦しんでおられましたので、現在お元気なのかどうかお尋ねします。いまでも苦しみは感じておられるのですか?現在の状況と二日前のそれを比べると、どんな違いがありますか?

「現在はたいへん幸せです。もう苦しみはまったく感じられません。私は、再生し、回復しました。地上の生活から霊界の生活への移行は、当初は何が何だかよく分かりませんでした。しかし、死の前に、私は神に祈って、『愛する人々と話ができますように』とお願いしてあり、神はそれを聞き届けてくださいました」

――意識がはっきりするのに、どれくらい時間がかかったのですか?

「八時間ほどです。繰り返しますが、神が私の言うことを特別に聞いてくださったのです。私をそれなりに評価してくださったのでしょう。感謝の言葉もありません」

――どうして、もう地上にはいないということが分かるのですか?どのようにして、それを確かめることができるのですか?

「私がもはや地上に属していないことは、はっきりと感じられます。
しかし、あなたがたを守り、支えるために、ずっとあなたがたのそばにいるつもりです。そうして、慈悲の心と献身の大切さを説くつもりです。それこそが、私の人生の指針でしたから。それから、本当の信仰を、霊実在論に基づく真実の信仰を説き、正義と善の信仰を復興するつもりでおります。

私はいま、たいへん力強い感じを受けています。ひとことで言えば変身したのです。私は、もはや、すべての喜び、すべての楽しみから見放された、物忘れのひどい、あの惨めな老人ではありません。いま私を見ても、きっと私が誰なのか分からないでしょう。私は霊になってそれほど変わったのです。私は空間に住まい、私の目指す未来は神であり、その神は、無限の空間の中で輝き渡っています。

もし可能であれば、私の子供たちにこのことを話してあげたいものです。あの子たちは、どうしても信じようとしませんでしたからね」

――ここにあなたの遺体がありますが、これを見ると、どのような感じがしますか?

「哀れでちっぽけな抜け殻にすぎません。あとは塵(ちり)になるだけです。そして、私は、私を評価してくださった人々のよき思い出を持ちつづけるのです。

変形した、哀れな私の肉体が――私の霊が宿っていた小さな肉体が――見えます。そこに宿って、私は長年の試練に耐えたのです。ありがとう、私の哀れな体よ。おまえのおかげで私の霊は浄化されました。おまえに宿って味わった聖なる苦しみが、私の功績となったのです。こうして、死んですぐ、おまえに話しかけることができるとは思ってもみませんでした」

――最期の瞬間まで、意識ははっきりしていましたか?

「はい。私の霊は最後まで能力をしっかりと保持していました。もう見ることはできませんでしたが、感じとることはできました。

それから、私の一生が目の前に展開されました。

私の最後の願いは、死後、あなたがたと話すことでしたが、それがいまこうして実現しています。そして、私はあなたがたを守れるように神にお願いしました。そうすることで私の夢を実現させたかったのです」

――あなたの肉体が最後の息を引き取ったとき、そのことを意識していましたか?そのとき、あなたの内部で何が起こったのですか?どんな感じがしましたか?

「地上の生命が粉々になり、視覚が失われました。空虚、未知――。そして、いきなりものすごい力に運ばれて、歓喜と偉大さに満ち満ちた世界にいることに気がついたのです。もはや、感じることも、理解することもできませんでした。ただ、筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい幸福に満たされていたのです。もはや苦しみはいっさい感じられませんでした」

――あなたのお墓の前で――(私がどんなことを言おうとしているかご存知ですか)?

最初の数語が発せられるや否や、ただちに答えが返ってきた。質問を最後まで言う必要はなかった。また、仲間のあいだで、この問答を葬儀の際に墓の前で読むかどうかに関し、意見が分かれていたのだったが、それに対する答えも与えられた。

「ああ、知っていますとも。昨日もあなたはここにいましたし、今日もいましたから。私はたいへん満足しています。ありがとうございます。本当にありがとうございます。それから、人々は死者を尊重していますので、何も恐れずに、すべてを話してください。そうすれば、人々はあなたを理解し、あなたに敬意を払うでしょう。話してください、信仰なき人々が廻心(えしん)の機会を得られるように。話してください、勇気を持って、そして自信を持って。願わくば、私の子供たちが廻心して信仰の道に入れますように」

ということで、葬儀の際に、われわれは彼から伝えられた次の言葉を読み上げた。

「わが友人たちよ、死を恐れる必要はありません。もし、よき生き方をしているのであれば、死とは休憩にほかなりません。もし、やるべきことをやり、試練に打ち勝っているとすれば、死とは幸福にほかなりません。

繰り返し言いましょう。勇気を持って、そして熱意を持って生きてください。地上の財物に執着しないことです。そうすれば、必ず報われます。他者のために生きてください。心の中で悪を犯さないように。そうすれば、地球は軽やかな場所になります」

Ⅱ パリ霊実在主義協会にて 一八六二年四月二十五日

――招霊を行います――
「わが友よ、私はいま、あなたがたのそばにおります」

――葬儀の当日に、対話できたのは、たいへんうれしいことでした。さて、あなたの許可があったので、こうして再びお話をし、教訓を完成させたいと思います。

「準備は万全です。私のことを思ってくださって、とても幸せです」

――こうして、見えない世界についての情報をいただき、それを理解できるようになるということは、実にありがたいことです。というのも、あの世についての間違った捉え方が、しばしば不信仰を生み出すものとなっているからです。どうか、私たちの幼稚な質問に驚かないようにしてください。

「大丈夫です。それでは質問してください」

――あなたは、生から死への移行を、たいへん分かりやすく、はっきりと描写してくださいました。「息を引き取った瞬間に、地上の生命が粉々になり、視覚が失われた」とおっしゃいました。そのとき、何か、苦しみや、つらさを感じましたか?

「おそらく、そうした苦しみはあったのでしょうが、あまり覚えていません。
というのも、生とは、絶え間ない苦しみの連続であり、死とは、そうした苦しみに対するほうびなのですから。死の瞬間には、肉体を脱ぎ捨てるために途方もない努力をしなければならず、そのために、あらゆる力が傾注されますので、自分がどうなっているかということは考えている暇もないのです」

このケースは、決して普遍的なものではない。経験によれば、多くの霊は、息を引き取る前に、すでに意識を失っているし、また、それ以外の、ある程度、脱物質化が進んでいる霊は、努力なしに肉体からの離脱を果たすこともあるからである。

――もっと苦痛に満ちた死の瞬間を迎える霊もいるということはご存知ですか?たとえば唯物主義者。「死ねば何もかも終わる」と思っている人間にとって、死の瞬間は大変なことになるのではないでしょうか?

「そのとおりです。死の準備のできている霊の場合、苦しみは存在しないと言ってよいでしょう。あるいは、安らかに死を迎えることができるので、苦しまずに済むのです。死後、自分がどうなるかが分かっているからです。死の瞬間には、精神的な苦しみがいちばん大きなものであり、それがないということは、とてもありがたいことなのです。

死後の世界を信じない者は、ちょうど死刑を宣告された罪人に似ています。ギロチンの刃が見えますが、それが落ちたあと自分がどうなるか分からないのです。こうした死と、無神論者の死はよく似ています」

――頑迷な唯物論者で「死後は虚無だ」と信じている人もいるようですが。

「そうですね。最後の瞬間まで『死後は虚無だ』と信じている人もいます。しかし、霊と肉体が分離する瞬間に、霊の自覚が戻ってきます。そして、事態が理解できないために苦しむのです。どうなったのかを把握しようとするのですが、それができません。分離のときには必ずそうしたことが起こります」

「信仰を持たない者が死の瞬間にどうなるか」ということに関して、別のある霊は、次のように語ってくれた。

「頑迷な無神論者が死の瞬間にどうなるかということですが、悪夢の中で、崖っぷちに立ち、もう少しで落ちそうになっていることがありますね、あれにそっくりなのです。

逃げようとしても逃げられず、歩くことさえできない。何かにつかまろうとするのだが、何も見つからず、だんだん滑り落ちていく。誰かを呼ぼうとしても、声を出すことができない。身をよじって、こぶしを硬く握り締め、声にならない叫び声を上げる。ちょうどそんな感じです。

それが普通の悪夢なら、やがて目が覚め、恐怖から解放されます。夢を見ていただけだということが分かり、再び幸せを感じることができるのです。

ところが、死の瞬間の悪夢は、もっともっと長引き、死を越えて、ときには数年間も続くことがあるのです。そういう場合、霊にとっては本当につらい体験となります。暗闇に閉じ込められたのと同じなのですから」

以下、再びサンソン氏の霊に聞く

――「死の瞬間には何も見えなかった」とおっしゃいました。「肉体の目では何も見えない」ということは分かります。しかし、生命が消える前に、霊界の光をかいま見るのではないですか?

「先ほど言ったとおりです。死の瞬間には、霊が覚醒します。肉体の目には何も見えませんが、霊的な深い目が開けて、瞬間的に未知の世界を発見するのです。真理がただちに現れ、そのときの心境、そして過去の記憶に応じて、ある者には深い喜びが、ある者には得体の知れない苦しみが与えられます」

――あなたの霊的な目が開けたときに、何に打たれたのですか?何が見えたのですか?もし可能なら、そのとき見えたものを描写してください。

「われに返って自分の前にあるものを見たときに、目がくらんだように感じられました。すぐには意識が覚醒しなかったらしく、事態がよくのみ込めなかったのです。

しかし、神の善意のおかげで、私はさまざまな能力を取り戻しました。多くの忠実な友人たちがまわりにいるのが見えました。また、地上での交霊会で私たちを助けてくれていた指導霊たちが来て、私を取り囲み、ほほえみかけてくれました。比類のない幸福感に包まれて、彼らは生き生きとしており、私自身も、強いエネルギーに満たされて元気はつらつとしており、空間を超えて自由に移動できるのです。

私が見たものを人間の言葉で描写するのは不可能です。

今後、さらに招霊に応じ、神の許可が下りる範囲で、私の幸福について語ってみたいと思っています。地上であなたがたが幸福だと思っていることなど、まるで錯覚にすぎません。

どうか、智慧(ちえ)に従って、聖なる生き方をしてください。慈悲に満ちた、愛にあふれた生き方をしてください。そうすれば、どのような大詩人であっても描写できないような、素晴らしい霊界生活が待っています」

おとぎ話というのは、信じられないようなことでいっぱいである。だが、霊界で起こることも、ある意味では、似たり寄ったりではないだろうか。サンソン氏の話は、「薄暗い、哀れな掘っ立て小屋で眠り込んだ男が、起きてみたら、壮麗な王宮にいて、輝かしい宮延人たちに囲まれていた」というおとぎ話に似ている。

――霊人たちは、どんな様子をしているのですか?人間のような姿をしているのですか?

「地上における交霊会で、霊たちは、『霊界においては、地上でとっていた一時的な姿形をそのまま保持している』と言っていましたが、まさにそのとおりです。

しかし、地上でのみすぼらしい肉体と、霊界での素晴らしい霊体の違いは、もう本当に比べようがありません。天上界には醜(みにく)さというものがまったく存在しないのです。地上の人間に特有の粗雑(そざつ)さというものがいっさい感じられないのです。これらの典雅(てんが)な霊体は、神の祝福を受けており、形態のもつあらゆる優美さを帯びています。

また、その言語の美しさは、とても伝えることができませんし、星のようなまなざしの持つ深さも、地上の言葉ではとうてい表現できません。建築家の中の建築家である神がその全能を用いて創り上げるものが、いかなるものとなるか、どうか想像してみてください。さすれば、天上界の美しさの一端なりとも感じられるのではないかと思います」

――あなたの目には、あなた自身はどのように見えるのですか?輪郭(りんかく)のある、境界を持った形態をとっているように見えるのでしょうか?頭、胴体、腕、脚などを持っていますか?

「霊は、地上での形態を保持していますが、それは、神聖化され、理想化されています。もちろん、手足もありますよ。脚も指もしっかりと感じることができます。そして、思いによって、あなたがたの前に出現し、腕に触れることもできます。

いま私はあなたがたのすぐそばにおり、みなさんの手を握っているのですが、もちろん、あなたがたにはそれは感じられないでしょう。われわれがそう望みさえすれば、空間を乱さずに、何の気配も感じさせずに、どこにでも出現できるのです。いま、あなたは手を組んでいますが、私はそこに手を添えているのですよ。

『あなたがたを愛しています』と私は言いますが、私の体はいかなる場所も占めず、物質界の光は私の体を透過していきます。あなたがたにとっては奇跡にほかならないことが、われわれ霊人たちにとっては日常茶飯事なのです。

霊人の視覚は、人間の視覚とは異なります。同様に、体も、地上の人間の体とはまったく異なります。存在全体が根本から変わってしまうのです。

繰り返しますが、霊には神聖な洞察力が備わっており、すべてにそれが及びます。ですから、あなたがたが考えていることが手に取るように分かるのですよ。

また、あなたがたが最も思い出しやすいような形態をとることも可能なのです。しかし、試練をすべて通り抜けた高級霊は、神のそばにいるのにふさわしい姿をしています」

――交霊会の様子は、あなたの目にはどのように映りますか?生前ご覧になっていたのと同じように見えるのでしょうか?人々の様子は、生前ご覧になったのと同じですか?同じようにはっきり見えますか?

「むしろ、生前よりも、ずっとはっきりしていますよ。とういのも、私には全員の思いが読めるからです。それに、降臨している霊人たちのよき思いが、この部屋には満ち満ちていますから、私は非常に幸せなのです。

こうした調和が、パリ霊実在主義協会のみならず、フランス中の支部において見られたら、どんなによいことでしょうか。というのも、離反(りはん)し合い、嫉妬(しっと)し合っているために、混乱を好む悪霊たちに支配されてしまっているグループが、まだ数多く存在するからです。『霊実在論の真髄は、エゴの完全な滅却にある』ということを、しっかり自覚してほしいものです」

――あなたは、私たちの思いが読めるとおっしゃいました。どのようにして、われわれの思考があなたに伝わるのか、そのメカニズムを教えていただけませんか?

「説明するのは難しいですね。霊に特有の、そうした驚異的な能力を説明するためには、新たな概念がたくさん詰まった巨大な言葉の兵器庫を開かなくてはならないし、あなたがたも霊人たちと同じくらい智慧を持たなければならないからです。しかし、あなたがたの能力は物質によって制限されているために、それは不可能なのです。

忍耐強くあってください。よき生き方をするのです。そうすれば、やがて必ず分かります。希望を持って向上しつづければ、必ずわれわれと同じようになれるのです。本当に人生に満足して死ねれば、多くのことを得ることができます。

考えることを本性とする人間にとって、好奇心は大事なものです。その好奇心を満たしつつ、死ぬまで穏やかに生きてください。そうすれば、過去・現在・未来のあらゆる疑問をやがて解くことができるでしょう。

それまでは、次のようにでも言っておくしかありません。すなわち『あなたがたを取り囲んでいる、われわれと同様、触ることのできない空気が、あなたがたの思いを伝えるのであり、あなたがたの吐く息に、あなたがたの思いが書き記されているのです』と。

『あなたがたの思いは、あなたがたのまわりに出没している霊人たちによって、絶えず読まれているのだ』ということを、どうぞ忘れないでください。神の死者たちに対しては、何も隠すことはできないのです」

(2)シドゥニエ――事故で溺死した霊媒
善人として生きたが、事故で亡くなった。生前は霊媒として知られていた。

一八六一年二月一日、ボルドーにて。

――あなたの死の状況について教えていただけますか?
「私は溺死しました」

――死んでからのことを教えていただけませんか?

「自分を取り戻すまでに、だいぶ時間がかかりました。でも、神の恩寵(おんちょう)と、助けに来てくれた仲間たちのおかげで、光に満たされていったのです。

期待以上の素晴らしさでした。いっさいが物質とは関係ないのです。すべてが、それまで眠っていた感覚を揺り起こします。目に見えず、手で触れられない世界です。
想像できますか?あまりにも素晴らしいために、あなたがたの理解を絶します。地上の言葉では説明不可能なのです。魂で感じないと分かりません。

目覚めたときは、とても幸福でした。『地上の人生とは悪夢でしかなかった』ということがよく分かりました。

その悪夢の中で、あなたがたは悪臭ぷんぷんたる独房に閉じ込められているのですよ。蛆虫(うじむし)が身を食い破って骨の髄(ずい)まで達しようとしており、しかも、あなたは燃え盛る火の上につるされているわけです。カラカラに渇いた口は、空気を吸うことさえできません。あなたの霊は恐怖にとらわれており、まわりを見ると、あなたをのみ込もうとする怪物ばかりです。

想像し得るかぎりのおぞましいもの、恐ろしいものに囲まれていたのに、目を覚まして見れば、なんと、うっとりするようなエデンにいるわけです。

まわりには、かつて愛した人々がいます。そして、幸福に輝く顔で、あなたにほほえみかけてくれるのです。あたりには、心地よい香りが漂い、命の水で、渇ききった喉(のど)を潤(うるお)すことができます。無限の空間の中に体は憩い、優しいそよ風が、甘い花の香りを運んできます。生まれたばかりの赤ん坊が母親の愛に包まれるように、あなたは神の愛に包まれます。そして、いったい何が起こったのか、まだよく分かりません。

さて、以上、死後に人間を持つ幸福感をあなたに説明しようと思ったのですが、どうやら、それは不可能なようです。ずっと狭い箱に閉じ込められてきた、目の見えない人に、無限の空間の広がりを理解させようとするようなものです。

永遠の幸福を感じとるためには、愛しなさい! というのも、愛だけが、それを感じ取らせてくれるからです。
もちろん、ここで『愛』といっているのは、エゴイズムの不在のことです」

――霊界に還った直後から、もう幸福に満たされていたのですか?

「いいえ。まず地上でつくった〝借金〟を返さねばなりませんでした。私は死後の世界を感じてはいましたが、無神論者だったからです。

私は、神への無関心を償う必要があったのですが、神はたいへん慈悲深い方であり、私がなし得たごくわずかな善を評価してくださり、私が多くの苦しみを諦念(ていねん)とともに受け入れていたことを、とても高く買ってくださいました。

神の正義の感覚は、とても人間には理解できません。地上でなし得たほんのわずかな善を、思いやりと愛とで非常に高く評価してくださり、あっという間に多くの悪を消してくださるのですから」

――あなたの娘さんは、そちらでどうしていらっしゃいますか?(父親の死後、四、五年して、娘も亡くなった)

「使命を帯びて再び地上に生まれ変わっております」

――彼女はいま、人間として幸福なのでしょうか?もし差し支えなければ、お教え願いますか?

「そうですね、私には、あなたの気持ちが、まるで手に取るように分かりますよ。あなたが単なる好奇心から聞いているのではないことが、よく分かります。

彼女は現在、人間としては幸福ではありません。むしろ、あらゆる地上の悲惨が彼女の身に及んでいると言ってよいでしょう。しかし、それにもかかわらず、彼女はみずから手本として、偉大な徳を示さなければならないのです。

私は彼女を見守り、助けるつもりでおります。彼女は、数多くの障害を、さほど苦しまずに克服してゆくでしょう。彼女は償いのために生まれたのではなくて、使命を帯びて生まれたからです。ですから、彼女のことは心配しないでください。彼女のことを覚えていてくださってありがとう。感謝します」

このとき、霊媒は急に文字を書くことに困難を覚えはじめた。どうも、通信の送り手が別の霊に替わったようである。そこで、次のように言った。

――もし、苦しんでいる霊がいまここに来ているのでしたら、名前を教えてください。
「不幸な女です」

――名前を教えていただけますか?
「ヴァレリー」

――どういうわけで罰を受けているのか、教えていただけますか?
「いやです」

――過(あやま)ちを後悔していますか?
「そんなこと、分かっているでしょう?」

――誰があなたをここに連れてきたのですか?
「シドゥニエです」

――どんな目的で?
「私には、あなたの援助が必要なのです」

――先ほど、字を書くのが困難になったのですが、あれはあなたのせいですか?
「私が彼と入れ替わったからです」

――あなたと彼の関係は?
「彼が私をここに連れてきました」

――われわれと一緒に祈ってくれるように彼に言ってください。

祈りのあとで、シドゥニエが再び通信を送ってきた。

「彼女の代わりにお礼を言います。よく理解してくださってありがとう。このことは決して忘れません。どうか、彼女のことを思ってあげてください」

――霊として、あなたは多くの苦しむ霊の面倒を見ているのですか?

「いいえ、そんなことはありません。でも、一人の霊人を立ち直らせると、すぐに次の霊人の世話をします。もちろん、それ以前の霊人たちも、ずっと見守るのですが」

――そんなことをしていたら、何世紀もたったとき、無数の霊人たちを見守ることになりませんか?

「立ち直った霊人たちは、みずから浄化に励み、進歩を遂げていくのですよ。ですから、だんだん面倒を見る必要がなくなっていくのです。それに、われわれも、日々、進歩していますから、向上するにつれ、われわれの能力も増し、ますます強い浄化の光を放つようになるのです」

未熟な霊には、善霊たちが付いて助けているのである。これは善霊たちの使命である。そうした仕事は、地上の人間には必ずしも期待されていない。しかし、それに協力することは大切なことである。というのも、そのことによって地上の人間も向上することができるからである。

善霊との交信中に、たとえば右(上)の例のように、未発達霊が割り込んでくることがときどきあるが、それが常によき意図によるものであるとは限らない。しかし、それでも、善霊はそれを許すことが多い。それは、ある場合には地上の人間への試練ともなるし、また、ある場合には未発達霊自身の向上にもつながるからである。

介入の欲求は、ある場合には、妄執(もうしゅう)と言えるほどのものになることがある。しかし、その欲求が強ければ強いほど、彼らはそれだけ援助を必要としているということになる。したがって、それを拒否することは、よいことではない。彼らは、物乞いをしている哀れな人間と同じで、次のように言っているのである≫

「私は不幸な霊です。善霊が私を教育のために送り込んだのです」

もし彼らを救うことに成功すれば、それは彼らの苦しみを短縮し、彼らを立ち直らせたことになる。その仕事はしばしば苦痛に満ちたものとなるので、善霊とだけ交信し、よい内容のメッセージだけを受け取っているほうが楽に決まっている。だが、自分の満足だけを求め、他者に善をなす機会を拒否するようでは、やがて善霊の守護を失うことになるのは明らかである。

(3)寡婦フロン夫人――失明した細密画家
フロン夫人は、一八六五年二月三日にアンチーブで亡くなったが、それまで長いこと、ル・アーブルに住み、細密画家として名声を博していた。彼女は、その驚くべき才能を、最初のうちは、みずからの楽しみのためだけに使っていた。しかし、やがて生活難の日々がやってきて、彼女は細密画によって生計を立てるようになる。

彼女を知る多くの人々が、彼女を愛し、尊敬したのは、彼女の親切さによるところが大きい。彼女と親しく付き合った人々のみが、彼女の持っていた、さまざまなよき性格を知ることができた。

というのも、生来よき資質に恵まれた人々の例にもれず、彼女もまた、そうした美点をひけらかすようなことは、いっさいしなかったし、そうしたものが自分にあるなどと、そもそも思わなかったからである。

エゴイズムから完全に無縁な人間がいるとすれば、それが彼女であった。彼女のように私利私欲を捨てて生きた人は、ほかにいなかっただろう。人のためであれば、みずからの休息、健康、利害など、はなから捨てて顧みなかった。その生涯は、献身に次ぐ献身であったし、若いころから過酷な試練の連続であったが、彼女は、勇気、諦念(ていねん)、精進をもって、それらに立ち向かってきた。

しかし、細かな作業のために、彼女の視力は徐々に落ちていき、ついには完全な失明に至った。

フロン夫人が霊実在論を知ったとき、それは彼女にとっては一条の光のように感じられた。それまで直観で漠然と感じていたものの上にかかっていたヴェールが、すっと剥(は)がれ落ちたような気分がしたのである。

そこで、彼女は熱烈に、しかし冷静な心は失わずに、また、彼女の知性の根底をなしていた正しい判断力を使って、霊実在論を研究しはじめた。彼女の人生は、そして、彼女と親しかった人々の人生に立ちはだかった、数多くの困難の理由を、ぜひとも見極める必要があったからである。

研究を続けるうちに、崇高な啓示(けいじ)に基礎を置く霊実在論から、あらゆる慰(なぐさ)めを得て、死後の世界への揺るぎない確信を持つに至り、地上のすべてが幻であることを心の底から悟(さと)った。

彼女の死は、その生涯にふさわしいものであった。彼女は、死が近づくのを完全に平静な心で受け入れた。死とは、彼女にとって、地上のくびきからの解放であり、霊実在論から学んだ幸福な霊界での生活への移行にすぎなかったからである。

彼女は穏やかに死を迎えた。というのも、地上に降りてくる際に自分が引き受けた使命をすべて果たし、妻としての、また、母としての義務をしっかりと行い、彼女から恩を受けながら、恩をあだで返すような仕打ちをした人々に対する悪感情を、すべてきれいに捨て去ったということが、自分でもよく分っていたからである。

彼らの悪に報いるに、常に善をもってなした彼女は、地上を去るに当って彼ら全員を許し、自分自身に関しては、神の善意と正義に完全に身を委(ゆだ)ねることにした。

彼女は、心が浄化された人に特有な、真に平穏な死を迎えることとなった。死んだからといって、子供たちと離れ離れになるわけではなく、むしろ、子供たちが地球上のどこにいようとも、霊として彼らのそばに行き、彼らに忠告を与え、守ることができるということを確信していたからである。

フロン夫人が亡くなったことを知ったわれわれの最初の願いは、彼女とコンタクトをとることであった。彼女とわれわれのあいだに形成されていた友情と共感が、以下の彼女の言葉の親しげな調子を説明するものだと思う。

一八六五年二月六日、死後三日目に、パリにて。

「わたしが地上から解放されるや否や、あなたがたがわたしを招霊してくださるだろうということは確信しておりました。わたしは、どんなことにでも答える用意ができています。というのも、肉体を離脱するのに何の困難もなかったからです。恐れを抱く人だけが、厚い闇の中に包まれることになるのです。

さて、わたしは、いま本当に幸せです。地上では視力を失っていたわたしの目もすっかり回復し、霊界の壮麗(そうれい)な地平線をはっきりと見ることができます。

死んで三日しかたっておりませんが、わたしは自分が芸術家であることを深く自覚しています。わたしは理想的な美に憧(あこが)れていましたが、それは、わたしが過去世(かこぜ)の幾転生を通じて学び、身につけてきた傾向性であり、今回の人生でも、それをさらに育(はぐく)んだのでした。

しかし、光の領域に還ってきたわたしを感激させた偉大な舞台にこそふさわしい傑作(けっさく)をものにするためには、今後、どれほどの精進がわたしには必要でしょうか!

ああ、絵筆が欲しい。絵筆さえあれば、わたしは、さっそく絵を掻き、『霊実在論に基づく芸術こそが、異教徒の芸術や、不振に陥っているキリスト教の芸術を大きく超えるものである』という事実を証明できるのです。あなたがたがいる不毛の地上にあって、霊実在論のみが、輝かしい栄光を芸術の分野で現すことができるのです。

さて、芸術論はこれくらいにして、お友達に話をすることにしましょう。
アラン・カルデック夫人、あなたは、どうしてわたしの死を悲しんでいるのですか?

わたしの人生が失望と苦難に満ちていたことをよく知っているあなたは、いまや、わたしが、苦渋をなめ尽くした人生からようやく解き放たれたことを、むしろ喜んでくださらなくてはなりません。死者たちが生者たちよりも幸福であることをよく知っているあなたが、死者を悼(いた)んで涙を流すのでは、人々に霊実在論の真理を疑わせることにもなりかねませんよ。それに、いずれまたお会いすることもできるのです。

地上でのわたしの使命が終わったからこそ、わたしは霊界に還ったのです。それぞれが、地上で果たすべき使命を持っています。あなたの使命が終了すれば、あなたもまた霊界に還り、わたしのそばで休むことになっているのです。そして、また必要があれば地上に降りていくのです。いつまでも何もせずにいるわけにはまいりませんから。

それぞれが自分の傾向性というものを持ち、それに従うのです。これは至高の法であり、これによって自由意志が保証されているのです。

ですから、親しい友よ、見える世界においても、見えない世界においても、お互いに寛大さと慈愛を持ちましょう。そうすれば、すべてはうまくいくのですから。

『もうそろそろやめたら』と、おっしゃらないのですね。最初にしては、おしゃべりが長すぎるような気もしますが。
ですから、そろそろ次の方に対してお話をすることにしましょう。では、わたしの尊敬するお友達であるカルデック氏にお話します。
お墓で、あなたの前にいらしたわたしのお友達(カルデック夫人のこと)に、愛情深く話しかけてくださいまして、心からお礼申し上げます。

あなたとわたしは、あやうく一緒に霊界に旅立つところでしたものね(カルデックの病気に対するほのめかし)。もしあなたも地上を去ることになっていたら、あなたに長年連れ添ったわたしのお友達はどうなったことでしょうね。もしそんなことでもあれば、彼女の悲しみは途方もないものになったに違いありません。それはよく分かります。

しかし、彼女は、あなたが、霊実在論の仕事を完成させるまでは、再び危険な目に遭わないように、しっかりと監視する必要があります。彼女が見てくれなければ、あなたはきっと仕事の完成を持たずに天上界に戻ってしまい、モーセと同じように、約束の土地を見ずに終わってしまうことでしょう。よく注意していてくださいね。彼女がいろいろと警告してくれるはずですから。

さて、そろそろ失礼いたしましょう。子供たちのところに行かねばなりません。

それから、今度は海を越え、わたしの旅行好きな子羊が、嵐に翻弄(ほんろう)されずに無事に港に着いたかどうかを確かめに行くつもりです(アメリカに行った娘のことを指す)。善霊たちに、彼女を守ってくださるようお願いする必要がありますしね。

必ずまた戻ってきます。わたしが話好きなのは、みなさまがご存じのとおりです。それでは、また。さようなら」

一八六五年二月八日

――こんにちは、フロン夫人。先日は、お話ができてたいへんうれしかったです。「また今後もお話を続けたい」とおっしゃってくださって、ありがとうございました。

前回のお話の際に、あなたであることが完全に分かりました。というもの、霊媒が知らないこと、あなたでなければ決して分からないことを話してくださったからです。それに、私たちに対して示してくださった、愛にあふれた話し振りは、まさにあなたの魂から出るものでした。

でも、一方で、あなたの話し振りには、地上にいたときにはなかった、確信、沈着、毅然(きぜん)さが感じられたのです。場合によっては、お叱りを受けているような気さえしたのですが。

「確かにそうかもしれません。でも、病状が進んでからは、それまでわたしを臆病にしていた苦悩や不幸などがどうでもよくなり、そのおかげで、すでに、ある程度、毅然さを取り戻していたことも事実なのですよ。

わたしは自分にこう言い聞かせていたのです。『あなたは霊なのよ。地上のことは、そろそろ忘れなさい。存在の変容に備え、肉体を去ったときにあなたの魂がたどることになる光の道を思い描きなさい。その道を通って、解放されて幸福になったあなたは、聖なる空間に導かれ、今度はそこで暮らすのだから』とね。

地上を去ってのちの完全な幸福をすぐ願うなんて、ずいぶん傲慢だと思いでしょうか?でも、わたしはずいぶん苦しみましたので、今回の人生と、それまでの転生でこしらえたカルマを、すっかり刈り取ったに違いないと考えていました。そして、この直観は正しかったのです。この直観が、わたしの最後の日々に、勇気と、平静と、毅然さを与えてくれました。
特に、肉体から解放されて希望がかなったのを知ったあとでは、この毅然さは、ますます強いものになりました」

――それでは、この世からあの世への移行、目覚め、最初の印象などについて語ってください。

「最期のとき、わたしはずいぶん苦しみました。しかし、わたしの霊は、肉体からの分離が引き起こした苦しみを乗り越えました。

息を引き取ったあとで、自分がどうなっているか、まったく分からなくなり、一種の失神状態に陥っていたようです。何も考えることができず、寝るでもなく目覚めるでもなく、ぼんやりとした夢うつつの状態でした。かなり長い時間、そうしていたようです。

やがて、気絶状態から回復するようにして目を覚ましていき、気がつくと、見知らぬ兄弟たちに取り囲まれていました。彼らは優しく、そして、かいがいしく世話を焼いてくれ、それから、空間の中にある、星のように輝く点を示しました。

『あそこを通って、われわれと一緒に行くんだよ。もう地上にいないのは分かるね』

それで、いろいろと分かったのです。
彼らに支えてもらい、優美に、未知の領域に向かって一緒に昇っていきましたが、そちらに行けば必ず幸福があると分かっていました。そうして、どんどん昇り、星はどんどん大きくなっていきました。そこは幸福な世界、高級霊界です。わたしは、そこで、ようやく休息できるのです。

休息と言いましたが、それはあくまでも、地上での肉体的な疲労と、数々の不幸に由来する心労に対する休息だということです。霊として怠惰(たいだ)に過ごすということではありません。霊は活動の中に喜びを見出すものだからです」

――あなたは地上から決定的に去ったのですか?

「あまりにも多くの愛する人たちが地上にいるために、決定的に地上から去ることはできていません。ですから、霊として何度でも戻ってきます。特に、わたしの孫たちに関して、まだ果たすべき使命があるからです。
あなたがたも、よくご存じのように、いったん霊界に還った霊であっても、地上に戻ってこようと思えば、そこには何の障害もないのです」

――いまあなたがいる霊層だと、今後、地上の人々との関係がだんだん薄れていくように思われるのですが。

「いいえ、そんなことはありません。友よ、愛はどんなに離れていても魂と魂を結びつけるものなのです。

そして、これは知っておいていただきたいのですが、霊たちにとって、未熟さとエゴイズムに振り回されている人々よりも、高度な人格を備えた人々のほうが、より近づきやすいものなのです。慈悲と愛が、魂を結びつける最も強力な要素なのです。どんなに距離が離れていても、慈悲と愛さえあれば、魂は結びつくことができます。距離が障害になるのは、肉体に宿っているあいだだけです。霊にとって、距離はまったく意味を持ちません」

――霊実在論に関する私の仕事について、どう思いますか?

「あなたは多くの魂たちを背負っているわけですから、とても荷が重いと思います。でも、わたしには、その目的地が見えますし、あなたがそこに到達することも分かっています。

もし可能であれば、私もお手伝いさせていただくつもりです。あなたが困難な状況に立ち至った場合には、霊の立場から助言をさせていただきますし、『霊実在論が展開している精神改革運動を、いかに活発にするか』ということに関して、こちらから、何らかの方法をお示しすることができるかもしれません。
また、高級霊たちがあなたに力を与え、あなたの仕事を支えるでしょう。
わたしもまた、いつでも、どこでも、あなたを支援するつもりでおります」

――お話をお聞きしていますと、あなたは、「霊実在論に関する著作をまとめることに関しては、あまり協力できない」とおっしゃっているように思われますが。

「そんなことはありません。でも、わたしよりも、その種の仕事に適した霊人は、たくさんいますよ。いまのところ、そのことに関するあなたのご質問に答えることは、遠慮させていただきたく存じます。いずれは、わたしも、もっと勇気を持ち、大胆になることができると思いますので。当面は、わたしは、他の霊人のみなさまのことをよく知る必要がありそうです。

わたしが死んでから、まだ五日しかたっていないのですよ。まだくらくらしております。どうか、そのことをご理解ください。まだ、こちらでの新たな経験をうまく説明できる状態ではありません。

霊界のあらがいがたい魅惑を振り払って、こうして地上に降りてくるのは、並たいていの努力ではなかったのですよ。霊界では、神の作品を祝福し、感嘆(かんたん)するばかりなのです。

でも、やがて、それにも慣れるでしょう。わたしも、やがて霊界の素晴らしさに慣れ、そうすれば、霊としての明晰(めいせき)さをもって、地上を改革する霊性の運動に関し、どんな質問にも答えられるようになると、まわりの霊人たちがおっしゃっています。

それに、わたしには、まだ慰めなければならない家族もいるのです。
それでは、今日はこれで。また来ます。
あなたの奥様はあなたを愛していますし、これからもずっと愛することでしょう。地上において、奥様が、尽きることのない真の慰めを得られるのは、あなたからだけなのです」

次の通信は、二月九日、彼女の子供たちに対して送られてきたものである。

「わが愛する子供たちよ、神様は、あなたがたのもとから、わたしを召されました。でも、神様がくださったごほうびは、わたしが地上でなしたことに比べたら、比較にならないほど大きなものでした。

わたしのよい子たちよ、神様のご意志を素直に受け止めなさい。神様がくださるあらゆる恵みから、生の試練に耐えるための力を汲み取りなさい。心に常に強い信仰をもちつづけなさい。そうすれば、わたしと同じように、地上から天上界に還る際に大いなる祝福を受けるでしょう。

わたしが地上にいたあいだ、そうしてくださったように、神様は、霊界に還ったのちも、尽きることのない善意を注いでくださいます。

神様が与えてくださった、あらゆる恵みに感謝するのですよ。神様は讃えるのです、わが子供たちよ。いいですか、いつもいつも神様を祝福なさい。神様から与えられた目的地を、決して見失ってはなりません。そして、たどるべき道から決して逸(そ)れないように。神様から与えられた地上の時間を使って果たすべき仕事に、常に思いをはせなさいね。

お互いにしっかりと結びつけば、あなたがた全員が幸せになることができるのです。そして、今度はあなたがたが、自分の子供たちを、しっかりと、神様から示された正しい方向に育てれば、その子供たちによって、あなたがたが幸せになるのです。

ああ、わたしの姿を見られるといいのにね! 肉体が死んだからといって、絆が断たれるわけではないのですよ。わたしたちを結びつけているのは、肉体という入れ物ではなくて、霊そのものなのですから。愛する子供たちよ、そういうわけで、わたしは、神様のご許可をいただいて、やがてわたしたちの仲間になるあなたがたをこちらから導き、また、あなたがたに勇気を与えることができるのです。

さあ、子供たちよ、いままでと同じ愛をもって、その素晴らしい信仰をさらに育てていきなさい。信仰を持つあなたがたには素晴らしい未来が約束されています。

わたしも、地上にいるあいだは、そう言われていましたが、地上でそれを実際に見るわけにはいきませんでした。でも、いま、霊界にいると、善意、正義、慈悲の神によって約束された幸福な未来が、とてもよく見えるのです。

どうか、泣かないようにね、子供たちよ。あなたがたに、こんなにたくさんの贈り物をくださった神様、あなたがたの母親に、こんなにたびたび助けの手を差しのべてくださった神様を、さらに強く信じ、さらに愛しましょう。この対話が、そうしたことの手助けになればと思います。

いつも神様に祈りなさい。祈りは、あなたがたをさらに強くします。わたしと同じように、神様から与えられた指示に熱心に従いなさい。

また来ますからね、子供たちよ。でも、アメリカにいる、かわいそうな子を慰めなければなりません。あの子は、まだまだ、わたしの援助を必要としているのです。
それでは、また。神様の善意を信じるのですよ。あなたがたのために、神様に祈ります。さようなら」

(4)伯爵夫人ポーラ――恵まれない人々を助けた女性
ポーラは、名家に生まれ、若さと美貌(びぼう)、そして富を兼ね揃えていた。さらに、稟質(ひんしつ/生まれつきの性質)に恵まれ、高い霊性を備えていた。一八五一年に、三十六歳の若さで亡くなったが、そのときは、誰もが次のように思った。

「いったい、神様は、どうして、こんなに素晴らしい人を、こんなに早く召されるのだろう?」
人々にそう思われる人は幸いである。

彼女は、すべての人に対して、善良で、優しく、寛大であった。常に悪を許し、和らげ、悪を助長することが決してなかった。悪しき言葉が彼女の美しい、透き通った唇(くちびる)を汚(けが)したことは、ただの一度もなかった。

高慢さ、尊大さは少しも見られず、目下の者たちを常に思いやりをもって扱ったが、そこには、悪しき馴れ合いのようなものは、いささかもなかったし、高飛車(たかびしゃ)にものを言ったり、横柄(おうへい)な態度をとったりすることも、決してなかった。

仕事をして生きている人々は金利で食べているわけではないことを知っていたので、使用人たちに対して支払いを遅らせるようなことは絶対になかった。「自分の過ちから、支払いを受けられずに誰かが苦しむ」などということは、思っただけでも良心が痛んだ。

「みずからの気まぐれを満足させるためだけにお金を使い、その結果、使用人に支払うお金がなくなる」というような人とは、彼女は完全に無縁であった。「金持ちにとっては、借金をすることが、よい趣味なのだ」ということが、どうしても理解できず、「出入りの商人から、つけで何かを買う」などということは、とても考えられなかった。

そういうわけであるから、彼女が亡くなったときには、人々は、ひたすら嘆き悲しんだのだった。

彼女の善行はおびただしく、しかも、それは晴れの舞台だけで発揮される表向きの善行ではなかった。それは心から出たものであり、見せびらかしのためのものではなかったのである。神だけが、彼女が人知れず流した涙、たった一人で耐えた絶望を知っていた。彼女の善行の証人は、神と、そして、彼女が助けた不幸な人々のみである。

彼女は、特に、ひっそりと暮らしている不幸な人々――こうした人々は、より多く哀れみを誘うものである――を探し出すのがうまかった。そして、そうした人々を、本当に精細な心遣いとともに救ったので、彼らは、いやな思いをすることはなく、いつも必ず気分が明るくなるのだった。

彼女自身の身分と夫の高い地位にふさわしいかたちで、家を維持する必要があった。そのために、しかるべき出費を惜しむことはなかったが、あくまでも、浪費を避け、虚飾(きょしょく)を退けたので、通常の半分の経費を支出するにとどまった。しかもなお、それが通常以上の効果を発揮したのである。

そして節約した財産は、恵まれない人々のために使った。彼女は、そのようにして、みずからの、社会に対する義務、貧しい人々に対する責務を果たしたのである。

死後十二年がたち、霊実在論に開眼した親族の一人によって招霊された彼女は、さまざまな質問に対して、次のように答えてくれた(もとの対話はドイツ語でなされた。家族にかかわる、ごく私的な部分は削除し、全体を整理した上で、フランス語に訳している)。

「そうです。確かに、わたくしは、こちらで幸せに暮らしております。そして、その幸福感を地上の方々に言葉で説明することは、とうてい不可能です。とはいえ、わたくしは、まだ最高の悟りを得ているわけではありません。

地上にあっても、わたくしは幸せな生活を送りました。というのも、つらい思いをした記憶がないからです。若さ、健康、財産、称賛など、地上において幸福の要素とされているものを、わたくしはすべて備えておりました。

しかし、こちらでの幸福を知ってみれば、地上でのそうした幸福などは、まったく何ほどのこともありません。

華々しく着飾った人々が参列する、最も壮麗な地上のお祭りでも、こちらでの集会に比べれば、何ということもありません。何しろ、こちらでは、悟りの高さに応じた、目もくらむばかりの光りを燦然(さんぜん)と放つ方々が、綺羅星(きらぼし)のごとく数多く集(つど)われるのですから。

地上にある、どんなに素晴らしい金色の王宮にしても、霊界の、空気のように軽やかな建物、広々とした空間、虹でさえも顔色を失うような澄み切った色彩に比べたら、本当につまらないものに思われます。

地上での、遅々とした、そぞろ歩きに比べて、こちらでは、散歩といえば、稲妻よりもすばやく、無限の空間を駆けめぐるのです。

地上の水平線は、雲がかかり、限られていますが、こちらでは、数多くの天体が、神の手のもと、果てしない宇宙空間を運動しているのです。

霊体を震わせ、魂の襞(ひだ)の一つひとつに染み入る、天上のハーモニーに比べたら、地上の最も美しい音楽であっても、悲しい金切り声にしか聞えません。

滔々(とうとう)と流れる慈しみの大河のように、魂全体に絶えず浸透する筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい幸福感に比べたら、地上での喜びなど、まったく取るに足りません。

霊界の幸福には、心配、恐れ、苦しみなどが、みじんも含まれていないのです。こちらでは、すべてが愛であり、信頼であり、誠実であるのです。どこを見渡しても、愛に満ちた人々ばかりであり、友人たちばかりであり、ねたみ、そねみを持った人など、ただの一人もおりません。

こうした世界が、わたくしのいる世界であり、あなたがたも、正しい生き方をしたら、必ず来られる世界なのです。

とはいっても、もし幸福が単調なものであれば、やがては飽きが来るでしょう。『霊界での幸福には何の苦労も伴わない』などとは考えないでください。わたくしたちは、永遠にコンサートを聞いているのでもなければ、終わりのない宴会に参加しているわけでもなく、永劫(えいごう)にわたってのんびりと観想しているのでもありません。

いいえ、霊界にも、動き、生活、活動はあるのです。疲れることはないとはいえ、さまざまな用事をこなす必要があります。無数の出来事が起こり、いろいろな局面、いろいろな感情を経験することになります。それぞれが、果たすべき使命を持ち、守るべき人々を持ち、訪問すべき地上の友人たちを待っています。さらに、自然の仕組みをうまく動かし、苦しんでいる魂たちを慰(なぐさ)める必要もあります。

道から道へではなく、世界から世界へ、行ったり来たりします。集いを開き、散っていき、そしてまた集まります。あるテーマのもとに集会を開いて、経験したことを共有し、お互いの成功を祝福し合います。打ち合わせを行い、難しい問題に関してはお互いに助け合います。

要するに『霊界では一秒たりとも退屈している暇はない』ということなのです。

現在、地上のことは、わたくしたちの主要な関心事となっております。霊たちのあいだには、大きな動きがあるのです。膨大(ぼうだい)な数のチームが地上に赴(おもむ)き、その変容に協力しています。

それは、まるで、無数の労働者が、経験を積んだ指揮者のもとに森を開墾(かいこん)しているようなものです。ある者たちは地ならしをし、ある者たちは種をまき、ある者たちは、古い世界の跡地に新たなる都市を建設しています。その間も、指揮官たちは会議を開いて協議を重ね、あらゆる方向に使者を送って命令を伝えます。

地球は再生する必要があるからです。神の計画が実現しなければならないのです。だからこそ、それぞれが懸命に仕事に取り組んでいるのです。

わたくしが、この大事業を単に眺めているだけなどと思わないでください。みんなが働いているときに、わたくしだけが、ぶらぶらしているわけにはまいりません。重大な使命が、わたくしにも与えられていますので、最善を尽くして、それを遂行(すいこう)するつもりでいるのです。

霊界で、わたくしが、いまいる境涯に達するためには、それなりの苦労もあったのです。今回の地上での人生も、あなたがたの目には十分だと思われたかもしれませんが、霊的に見たら、決して合格点を与えられるものではありません。

過去、何度かの転生を通じて、わたくしは、試練と悲惨に満ちた人生を送りましたが、それは、自分の魂を強化し、浄化するために、わたくしが、あえて選んだものです。わたくしは、幸いにも、そうした人生において勝利を収めましたが、そうした人生よりも、もっともっと危険に満ちた人生が残っていたのです。それが、財産に恵まれ、物質的面で何の苦労もない生活、すなわち、物質的な困難のいっさいない生活だったのです。

これは、たいへん危険の多い人生です。そうした人生を試みるためには、墜落しないだけの強さを獲得しておく必要がありました。神様は、わたくしのそうした意図をお認めくださり、今回、わたくしに、そうした人生を試させてくださったのです。

他の多くの霊たちも、見せかけのきらびやかさに惑わされて、そうした生活を選び取るのですが、残念なことに、ほとんどの霊が、まだ充分に鍛(きた)えられていなかったために、経験不足から、物質の誘惑に、見事に負けてしまいました。

わたくしも、かつては地上にて労働者だったことが数多くあるのです。本質としては高貴な女性なのですが、わたくしもまた、額に汗してパン代を稼ぎ、欠乏に耐え、過酷な生存条件を忍んだことがあります。そうすることによって、わたくしの魂は、雄々しく力強いものとなったのです。そうしたことがなければ、たぶん、今回の転生では失敗し、大きく退歩したかもしれません。

わたくしと同じように、あなたもまた、財産という試練に直面することになるでしょう。でも、あまり早く財産を持とうとしないでくださいね。

ここで、お金持ちの人々に申し上げておきたいのですが、真の財産、滅びることのない財産は地上にはありません。どうか、神様がくださった恵みに対して、地上で充分にお返しをなさってください」

(5)アントワーヌ・コストー――心優しき舗装工
パリ霊実在主義協会のメンバー。一八六三年九月十二日、モンマルトル墓地内の共同墓地に埋葬された、この心優しき人は、霊実在論によって神のもとに導かれた。死後の世界に対する彼の信仰は、完全であり、真摯であり、また、深いものであった。

一介の舗装工であり、決して経済的に恵まれていたとは言えないが、思いにおいても、言葉においても、行動においても、常に慈悲(じひ)を実践していた。自分よりも貧しい人々を助けていたのである。

協会は、彼のために個人用の墓を買わず、共同墓地の費用を支払うにとどめたが、それは、「その差額を、まだ生きている人々のために使ったほうがよい」と考えたからである。さらにはまた、「どんなに立派な霊廟(れいびょう)に葬(ほうむ)られようとも天国に行けない人がいる一方で、貧弱な共同墓地が天国への門になり得る」ということも、充分、知っていたからである。

かつては、ばりばりの唯物論者であり、現在は協会の秘書であるカニュ氏は、墓前で次のような短い追悼(ついとう)の演説を行った。

「親しき兄弟コストーよ、ほんの数年前であれば、私たちのうちの多くが――そして、私がその筆頭だったと思いますが――こうして墓に横たわるあなたの姿を見て、そこに一人の男の哀れな最後を認めただけだったでありましょう。そして、『あとは、虚無、恐るべき虚無のみ』と考えたはずであります。

『魂が存在して、死後に、しかるべき世界に行く』とは知らなかったし、したがって、『その行くべき世界を判定する神が存在する』ということも知らなかったからです。

しかるに、今日、神聖なる霊実在主義の理論のおかげで、私たちは、あなたの姿を見て、『ようやく地上での試練が終わった』という事実を知るのです。

あなたは苦労の果てに勝利を得ました。あとは、あなたの勇気、諦念(ていねん)、慈悲――つまり、ひとことで言えば、あなたの徳――に見合う報いを受けるのです。そして、何にもまして、正義に対して善なる全能の神、叡智(えいち)に満ちた神の礼賛を受けるのです。

親しき兄弟よ、永遠なる神の足元に、どうか、私たちの感謝の気持ちを届けてください。神のおかげで、私たちは、過ちと不信心の闇の中から救われたのですから。

少し前であったなら、私たちは、陰鬱(いんうつ)な顔をし、失望を胸に抱いて、あなたに対し、『友よ、永遠にさらば! 』と言っていたはずです。ところが、今日、私たちは、希望に満ちた額を高く上げ、勇気と愛を胸に抱いて、『親しき兄弟よ、また会いましょう! 』と言うのです。

霊実在主義協会に属する霊媒の一人が、まだ閉じられてもいない墓穴の前で、次の通信を受け取った。そして、それを、墓掘り人夫を含めた出席者の全員が聞き、深い感慨にひたったのである。まだ遺体が横たわっている墓の前で、まさに、その死者からのメッセージを聞くというのは、実に感動的な、新しい光景であった。

「ありがとう、友よ、ありがとう。私の墓は、まだ閉じられていません。でも、もうすぐ、私の遺体は土で覆(おお)われることでしょう。
とはいっても、みなさんも、すでにご存じのように、私の魂までもが土に埋められるわけではありません。私の魂は、空間を漂い、神に向かって昇っていくのです!

そして、肉体という乗り物は壊れたにもかかわらず、次のように言うことができるのは、何という慰めでしょう。

『ああ、みなさん、私は全然死んでなんかいませんよ。いまこそ、本当の生、永遠の生を生きるのです! 』

哀れな男の葬式に参列しているのは、ごくわずかな人々であり、仰々(ぎょうぎょう)しさはいっさいありません。しかし、その代わりに、聖霊たちが数多く出席してくれています。天使たちがたくさん来てくれているのです。そして、出席者の全員が神を信じ、神を愛しています。

ああ、そうです。体が滅びたからといって、私たちは決して死なないのですよ。

愛する妻よ、私は、これからいつも、おまえのそばにいて、おまえが試練を乗り越えるのを助けてあげようと思っています。おまえにとって、人生はなかなか厳しいものとなるでしょう。しかし、生命が永遠であることを常に思い起こし、神の愛で心を満たしていれば、おまえが受ける試練も、さほどつらいものとは思われないはずです。

わが愛する伴侶を囲む親族のみなさん、彼女を愛し、助けてあげてください。彼女の姉妹、兄弟になってやってください。神の住まいに入りたいのであれば、地上にあってお互いに助け合うことが大切です。

そして、霊実在主義者である、わが兄弟たちよ、私に別れを告げるために、わざわざ、この鹿と泥でできた住まいまで来てくださってありがとう。しかし、あなたがたは、私が永遠の魂であることを、よくご存知です。これから、ときどき、お祈りをお願いしに行きますので、どうぞよろしく。生前、聞いていただいた、この素晴らしい道を、さらに進むためには、どうしても、みなさんのお祈りが不可欠なのです。

それでは、みなさん、さようなら。この墓ではない別の場所で再びお会いしましょう。霊人たちが私を呼んでいます。それでは、さようなら。苦しむ者たちのために祈ってあげてください。さようなら」

三日後、ある集いにおいて招霊されたコストー氏の霊が、次の霊示を、別の霊媒を通じて降ろしてきた。

「死とは生にほかなりません。私は、すでに言われていることを繰り返すだけです。しかし、いつまでも盲目であることを選んでいる唯物論者たちが何を言おうとも、それ以外の言い方はないのです。

ああ、友よ、霊実在論の旗印を地上に見るのは、実に美しい眺めですよ。霊実在論は深遠な科学であり、まだ、あなたがたは、霊実在論のほんの入り口に達したにすぎません。誠実な人々に対して、つまり、恐るべき傲慢の鎖を打ち砕いて神にひたすら信仰を捧げようとしている人々に対して、霊実在論は、何という素晴らしい光となることでしょう。

祈ってください、地上の人々よ。神が与えてくださっている、すべての恵みに感謝するのです。まだまだ神の恵みを理解できない人が多い。神の慈悲があまねく地上に降り注いでいることに気づかないため、人間たちは、神の念いを知り、それに従うことができずにいるのです。

しかし、やがて、祝福された霊実在論の科学を通じて、その輝かしい光を通して、人々は、神に至り、神を理解することができるようになるでしょう。霊実在論の暖かい光から、人々は暖を取り、信仰と慰めを見出すでしょう。霊実在論の生き生きとした光のもとに、教授も労働者も集まって一体となり、兄弟愛が何であったかを知ることになるでしょう。

ああ、兄弟たちよ、あなたがたは、人類の再生を果たすことになる聖なる仕事の最初の理解者であるのです。それがいかほどの幸福であるか、思ってみてください。あなたがたに栄光がありますように。どうか、そのまま続けてください。そして、やがては私のように霊の祖国に還り、『死とは生である! 』と高らかに宣言するのです。

あるいは、人生とは、一種の夢、ほんの一瞬しか続かない悪夢のようなものだと言うべきかもしれません。人がそこから抜け出すと、友人たちがやってきて取り囲み、次から次へと祝福してくれ、そして、うれしそうに握手してくれるのです。

私の幸福はあまりにも大きかったために、私が地上でなした、たったあれだけのことに対し、神がこれだけの恩寵(おんちょう)をくださったことが、どうしても理解できませんでした。私は夢を見ているのではないかと思いました。自分が死んだという夢を見ているのではないかと思ったのです。そして、目が覚めて、また肉体の中に戻ることになるのではないかと不安になったくらいです。

しかし、しばらくして、これが現実なのだと分かり、心から神に感謝したのです。

そして、私を目覚めさせてくださり、死後の世界に備えてなすべきことを教えてくださった、アラン・カルデック師を祝福いたします。そうです。私は師を祝福し、師に感謝いたします。『霊の書』(訳者注:一八五六年刊のアラン・カルデックの主著で、原題は〝LeLivre des Esprits〟)は、私の魂の中にあった神への愛を目覚めさせてくれたのです。

わがよき友よ、私を招霊してくださってありがとう。他のメンバーのみなさんにも、私は、しばしば、われらが友人サンソン氏と一緒にいるとお伝えください。では、さようなら。勝利があなたがたを待っています。この闘いを闘い抜く者は幸いです」

このとき以来、コストー氏は、しばしば、パリ霊実在論主義協会の集いや、それ以外の集いに参加した。そして、進化した霊に特有の、高度な考えを披露してくれた。

(6)エマ嬢――火事に遭って亡くなった女性
火事に遭遇し、ひどく苦しんだあとに亡くなった、若い女性である。その死から、ほんの少しあと、一八六三年七月三十一日に、パリ霊実在主義協会において、ある人が招霊を提案したところ、自発的にそれに応じて降りてきてくれた。

「いったんは、無垢(むく)と若さのヴェールの彼方に永遠に身を隠すつもりでいましたが、いまこうして再び地上という劇場に登場いたしました。

『地上の火事が、わたしを地獄の火から救ってくれた』、そんなふうに、カトリックの信仰に基づいて考えておりました。ところが、実際には、すぐ死ぬこともできず、わたしの魂は、打ち震えつつ、苦しみの中で償いを果たしたのです。わたしは、うめき、祈り、そして泣きました。

しかし、苦痛に耐える弱いわたしに力を与えてくれる存在がありました。苦しみの床に横たわり、熱に浮かされて、うつらうつらと長い夜を過ごすわたしを、優しく見守ってくれる存在があったのです。わたしの乾燥しきった唇を潤(うるお)してくれる存在がありました。それが、わたしの守護天使だったのです。また、わが親しき霊人たちであったのです。彼らが、私のもとに来て、希望と愛の言葉をささやいてくれたのです。

炎がわたしの弱い体を焼き尽くし、執着から解放してくれていました。ですから、わたしは、死んだときは、すでに真実の生き方をしていたと言ってもいいでしょう。混乱はありませんでした。晴れ晴れとして霊界に入り、輝かしい光に迎えられました。この光は、たくさん苦しんだ末に、ごくわずかばかりの希望を捨てずにいる者たちを、優しく包んでくれるのです。

お母様、わたしの懐かしいお母様の思いが、わたしが地上で最後に感じた波動でした。ああ、お母様も早く霊実在論に出会えるとよいのに! 熟(う)れた果物が枝から落ちるように、わたしは地上の木から解き放たれました。若さに酔い、輝かしい成功に酔った魂が必ず陥(おちい)る傲慢(ごうまん)から、わたしは、かろうじて免れておりました。

わたしを焼き尽くした炎に祝福あれ! 苦しみに祝福あれ! 試練――実は償いであったのですが――に祝福あれ! わたしは光の奔流(ほんりゅう)に浮かんで漂っています。わたしの額を飾るのは、もうダイヤモンドではなく、神様からいただいた、燦然たる金色の星なのです」

ル・アーブルのセンターに、同じく自発的に降りてきたエマの霊から、次のような通信を受け取った。一八六三年八月三日のことである。

「地上で苦しんでいる人々は、あの世において報われます。地上で苦しんだ人々に対し、神は正義と慈悲に満ちて接してくださいます。神は、死後に、かくも純粋な幸福と、かくも完全な歓喜を用意してくださっていますので、死とその苦しみを恐れる必要はまったくありません。神のご計画は本当に神秘的なものなのです。

地上とは、しばしば、とても大きな試練に満ちた場所であり、しばしば、とても深い苦悩に満ちた場所であります。試練や苦悩に出会っている人々は、それらを甘受(かんじゅ)すべきでしょう。重い荷物を神から与えられている人々は、全能なる至高の善意の前に頭を垂れるべきです。

大いなる苦しみのあとに、あの世において神のそばに呼び寄せられる人々は、『幸福なあの世の生活を比べれば、地上での苦しみ、苦労など、何ほどのこともなかった』ということを知るはずです。

わたしは、若くして地上を去りましたが、神様は、わたしを許してくださり、神様の意志を尊重した者たちに与えられる人生を与えてくださいました。

みなさま、常に神様を讃えてください。心を尽くして神様を愛してください。よく神様に祈ってください。強く神様に祈ってください。地上では、それが支えとなり、希望となり、救いとなるでしょう」

(7)ヴィニャル博士――生前に幽体離脱した男性
博士はパリ霊実在主義協会の古くからのメンバーであり、一八六五年三月二十七日に亡くなった。埋葬の前日、霊を極めてはっきりと見ることができる霊媒に頼んで、博士の遺体のそばに来てもらい、何が見えるか教えてくれるように頼んだところ、次のように答えてくれた。

「遺骸の内部で驚くべきことが起こっています。何か塊(かたまり)のようなものが動き、肉体から離れようとしているのですが、抵抗があって、うまく離れられないようです。霊が、肉体から離れようとしてもがいています」

三月三十一日、博士の霊は、パリ霊実在主義会において招霊された。

――ヴィニャル博士、パリ霊実在主義協会の、あなたのかつての同僚たちは、あなたについての素晴らしい思い出を持っております。そして、私は特に博士との素晴らしい関係をよく覚えており、それはいまでも中断されていません。あなたをこうしてお呼び申し上げたのは、まず、あなたに対し、われわれの愛に満ちた友情を表明するためであります。そして、もしよろしければ、私たちと対話をしていただきたいのです。

「親しき友人にして、敬愛する師よ、あなたとのよき思い出は、私も忘れておりません。また、あなたの友情に対して心からお礼申し上げます。私が今日このようにして降りてきて、自由に、くつろいで、あなたがたの集いに参加させていただけるのは、あなたがたがよき思いを持ってくださり、また、祈りによって私を助けてくださったからです。

私の若き秘書が申しましたように、私はコミュニケーションをとりたくてしかたがありませんでした。この集いが始まってから、私は、霊的な力のすべてを使って、あなたがたとコンタクトをとろうとしていたのです。あなたがたが行っていた対話や、重要な質問が、私の関心をいたく引き、そのおかげで、待つことが、まったく苦痛ではありませんでした。まずは、感謝の気持ちを申し述べさせていただきます」

――あなたがどのようにして霊界に還られたかということを、まず教えていただけませんか? 肉体と霊の分離は、どのようにして行われたのですか? そのとき、どんな感じがしたのでしょうか?また、意識を取り戻すのに、どれくらい時間がかかったのですか?

「いまは本当に幸福です。『霊実在論の教義がすべて正しかった』ということが証明されたのですから、これ以上の幸せはありません。霊実在論の科学、霊実在主義の哲学の未来が、私には、あますところなく、はっきり見えております。

とはいえ、脱線は慎(つつし)まなければいけませんね。この話題は、またにいたしましょう。みなさんと対話するのが、こんなに楽しいので、これから、また何度でも降りてくることになると思いますから――。

肉体と霊の分離は、かなり速やかに行われました。想像していた以上に速かったと申し上げましょう。あなたがたのご協力も、たいへんありがたかったです。それに、協会の霊媒が、分離の様子をかなりはっきりと報告しておりましたので、ここでは簡単に申し上げることにいたします。

死ぬときには、断続的な波動が感じられ、二つの対立する感覚――肉の感覚と霊の感覚――に引き裂かれそうになりました。そして、やがて霊の感覚が勝利しました。遺体が埋葬されたのちに、ようやく分離が完了しました。
そして、このようにして、あなたがたのところに戻ってきているわけです。」

――お葬式でのさまざまな式次第については、どう思われますか?私も式には参加させていただいておりましたが、あのときには、まわりのことを観察できるほど、肉体と霊の分離は進んでいたのでしょうか?また、ひそかにお祈りさせていただきましたが、あのお祈りは、あなたのところまで届いたのでしょうか?

「はい、すでに述べたとおり、祈りは確かに力を発揮します。おかげで、私は蛹(さなぎ)を完全に脱ぎ捨てることができました。

葬式の物質的な面については、関心がほとんどありません。それは、あなたがたもよくご存知のことです。私が考えていたのは、魂のこと、そして神のことだけでした」

――五年前の一八六〇年二月に、あなたの要請に応じて、ある実験を行いましたが、そのことを覚えていらっしゃいますか? あのときは、あなたに幽体離脱していただいて、会話に加わっていただいたのでした。もしよろしければ、できるだけ詳しく、あのときの経験と、肉体から完全に分離している現在の経験の違いを教えてください。

「あのときのことは、もちろん覚えています。いまでは、どう違うかですって? あのときは、私は強情な物質に拘束されていました。『完全に物質から解放されたい』と思ったのですが、それは不可能でした。

いま、私は完全に自由です。広大な領域、未知の領域が、私の目の前に広がっています。あなたがたの支援を得、また、高級諸霊の支援もいただいて、進化し、できるだけ迅速(じんそく)に、さまざまな感覚を深く体験し、なすべき行為を遂行し、試練の道をよじ登り、報いの世界に値するようになりたいものだと思っております

なんと荘厳で、なんと偉大な世界でしょう。私たちのように弱い者が、至高の光を見ようとすると、ほとんど畏怖(いふ)にも似た感情が起こります。

それでは、今日はそろそろおしまいにして、また次の機会にお話させていただきたいと思います。今日は、あなたがたのさまざまなご質問に、脈絡もなく、手短にお答えさせていただきました。私は、いまだにあなたの弟子ですので、あまりに多くを要求なさらないでください。まだ本来の能力を充分に取り戻していないのです。

ただ、こうしてお話できるのは、たいへんうれしいことです。
私の指導霊が、私の熱い思いをだいぶ抑えてくださいました。その善意と正しさが、よく分かるゆえに、指導霊の言ったことには従いましたが、そのために、ときどき話を中断されたのが残念でした。今度はお忍びでやってくることにいたしましょう。

ところで、私より悟りの高い、ほかの霊人たちが、『話をしたい』とおっしゃっておりますので、私はそろそろ失礼しましょう。

それでは、さようなら。あなたがたに感謝を捧げるとともに、私に順番をゆずってくださった、生前はパスカルと呼ばれた高名な霊人に対して、深い感謝を捧げます。

私は、あなたの弟子のうちでも、最も忠実な一人でありましたが、これからも、最も忠実な一人でありつづけるということをお誓い申し上げます」

(8)モーリス・コントラン――胸の病気で亡くなった一人息子
モーリスは、一人息子であったが、一八歳のときに胸の病気で亡くなった。類まれなる理性、早熟な知性、学問への大いなる愛着、優しい性格、他者への深い愛情と共に感能力といった優れた資質をすべて備えていたので、輝かしい将来は約束されたも同然であった。若くして、たいへん優れた成績で学業を修了し、エコール・ポリテクニック(理工科大学)で働いていた。

彼の死は、両親に非常に大きな苦悩をもたらした。また、「息子が虚弱体質だったにもかかわらず、自分たちが息子を強いて働かせ、その結果として早めに死なせることになったのではないか」と考えていたので、後悔の念も加わって、そのつらさは、いっそう増したのである。

「あの子があんなにたくさん学んだことが、いまになっては、何のためだったのか、よく分かりません。何も知らずにいたほうが、よかったかもしれないのです。知識は、生きるためには必要なかったし、知識を得ていなければ、まだ生きていたのかもしれないからです。そうすれば、私たちの晩年に慰(なぐさ)めを与えてくれたでしょうに――」

もし、この両親が霊実在論を知っていれば、もっと別な考え方をしていただろう。あとになって、彼らは本当の意味での慰めを手に入れた。死後数ヵ月して、息子の友人の一人が以下のような霊示を得たからである。

――モーリス、もし君にそうした力があるのなら、どうか、ご両親の失望を癒(いや)し、彼らに勇気を与えてあげてほしいのです。ご両親は、君が亡くなったために、希望を失い、苦悩にさいなまれて、健康にも問題が出はじめ、人生がすっかりいやになってしまっている。もし、君からよき言葉をもらえるなら、きっと、ご両親は希望を新たにするに違いないと思う。

「わがよき友よ、僕は、君がこうしてコミュニケーションの機会を与えてくれるのをずっと待っていました。両親の苦悩は、僕を深く悲しませていたからね。でも、僕が永遠にいなくなってしまったわけではないということが分かれば、両親も心が落ち着くだろうと思います。

これから僕が述べる真実を、両親に必ず伝えてほしい。そうすれば、両親もきっと納得してくれるはずです。両親が神様を信じて幸福になるためには、どうしても、この試練が必要だったのです。信仰を得れば、神意を否定することはできなくなるのですから。

君もよく知っているように、僕の父は、死後の生の可能性については極めて懐疑(かいぎ)的でした。神様は、父がそうした過ちから抜け出るための機会として、このような深い悲しみをお与えになったのです。

僕がまず先にやってきた世界、苦悩のいっさいない世界で、僕たちは、また会うことができるのです。でも、神様の善意を信じなかった場合には、一種の罰として、僕と霊界で会うことができなくなるということを伝えてほしい。それに、もしそういうことであれば、今日限り、こうして両親に霊示を送ることもできなくなるかもしれない。

絶望とは神様の意志に対する反抗であり、常に『その絶望を引き起こした原因が長引く』というかたちで罰せられるものなのです。それは、神様の意志に従うまで続きます。絶望は体を蝕(むしば)んで力を奪うので、一種の自殺であると言ってよいのです。そして、苦悩から逃れたいあまり、『早く死にたい』と願う者は、最も厳しい失望を味わう羽目になります。

そうではなくて、試練の重みに耐えるためには、逆に、体に力を蓄えて、積極的に動く必要があるのです。

お父さん、お母さん、よく聞いてください。私は、肉体を脱ぎ捨てて以来、ずっと、あなたがたのそばにいます。地上にいたころよりも長時間、あなたがたのそばにいるのです。私は死んではいないのですから、どうか安心してください。死んだのは私の体だけで、私の霊は永遠に生きているのですよ。

霊は、病気になることもなく、肢体の不自由からも、苦悩からも解放されて、のびのびと、幸福に暮らしているのです。心配も危険もない場所で、純粋な喜びにひたされて、僕は何の憂(うれ)いもなく生きていますから、悲しむのではなく、僕の死をむしろ喜んでいただきたいと申し上げましょう。

友人諸君、早すぎる死を迎えた者たちのことを、悲しがらないでください。それは、『神様の恩寵(おんちょう)により、人生の辛酸(しんさん)をこれ以上なめなくて済む』ということなのです。

今回、僕の人生は、あれ以上長くなってはいけなかったのです。のちに、もっと重要な使命を果たすために、僕は、地上で、あることを学ばなければならなかったのですが、それが終了したために、こちらに還ってきたのです。もし地上でもっと長く生きなければならなかったとしたら、どのような危険、どのような誘惑に身をさらすことになったか分かりません。僕は、まだ充分に強くないので、たぶん、それらに負けたことでしょう。そうすると、魂の進化が何世紀も遅れたはずなのです。

ですから、僕が死んだのは、むしろ喜ぶべきことだったのですよ。
もし、僕が死んだからといって、苦悩を感じるとしたら、それは信仰の欠如以外の何ものでもなく、虚無を信じていることになってしまいます。

ああ、そうです。虚無を信じている人々は、まことに気の毒な人々なのです。彼らを慰めるすべはないからです。親しい人が亡くなった場合、永遠に失うことになるのですからね。墓が彼らの最後の希望を奪うのです」

――死んだときは、苦しかったのですか?

「いいえ、友よ、死の瞬間には苦しみませんでした。もっとも、死ぬまでは、病気のせいで苦しみつづけましたが。とはいっても、最期の瞬間が近づけば近づくほど、この苦しみは安らいでいきました。

そして、ついに、ある日、僕は死のことを思うことなく眠りに就いたのです。そして、夢を見ました。ああ、何という素敵な夢だったでしょう。夢の中では、もう苦しんでいませんでした。病気が治っていたのです。かぐわしく力に満ちた空気を、肺いっぱいに思いっきり吸い込みました。ある見えない力によって、空間の中を運ばれました。燦然(さんぜん)たる強烈な光が僕のまわりで輝いていましたが、目はまったく痛くありませんでした。

そこで、おじいさんに会いました。おじいさんは、死んだときのやせ細った姿ではなく、若さの息吹にあふれていました。僕に手を差し述べ、本当に暖かく僕を抱き締めてくれました。

ほほえみを浮かべたたくさんの人々が、まわりにひしめいていました。そして、全員が、優しく、思いやりをもって僕を迎えてくれたのです。彼らを知っているように思われ、彼らに会えたことが、とてもうれしく感じられました。そして、みんなと、友情の証に満ちた言葉を交わしたのです。

ところが、僕が夢だと思い込んでいたことが、なんと! 実は現実であったのです。こうしたことは、すべて事実であったのです。そう、僕は霊界で目を覚ましたのでした」

――あまりにも熱心に勉学に励んだことが、病気の原因だったのですか?

「いいえ、とんでもない。僕が地上で生きられる時間は、はっきりと限られていたのです。どんなことも、あれ以上、僕を地上に引きとめておくことはできなかったのです。僕の霊は、肉体からの分離の瞬間に、事態をよく悟っており、もうすぐ訪れる解放を思って幸福でした。

しかし、僕が地上で過ごした時間は決して無駄なものではなく、その時間を精いっぱい生きたことに、本当に喜びを感じています。真剣に勉強したことで、僕の魂はさらに強化されましたし、知識も増えました。それだけでも充分だと言えるでしょう。

そして、生前、その知識をあなたがたのために使うことができなかったにしても、将来の転生で、より多くの実りのために使うことができるのです。

それでは、そろそろおいとまします。両親に会いに行くためです。この通信を受け止めることができるよう、まず心の準備をしていただかねばなりません」

第2章 普通の心境の霊
(1)ジョゼフ・ブレ――孫娘に招霊された男性
一八四〇年に死亡。一八六二年、孫娘によって、ボルドーにおいて招霊される。「人間から見て正しい人間とは?」「神から見て正しい人間とは?」というテーマで話してくれた。

――おじいちゃん、こんにちは。霊界で、どんな生活をしていますか?あと、私たちが向上するために、どうすればよいのか、少し詳しく教えてください。

「知りたいことは何でも教えてあげよう、いとしい孫よ。いま、私は、地上時代の信仰の不足をこちらで償っているのだが、神様は本当によいお方だ。わしが置かれていた境遇を充分に考慮してくださる。

わしは、いま苦しんでおる。とはいっても、おまえたちの苦しみとは異なるがな。わしは『地上にいたときに時間を有効に使わなかった』ということを悔やんでおるのじゃ」

――「時間を有効に使わなかった」ってどういうことですか?おじいちゃんは、ずっと正しく生きていたではありませんか。」

「そう、人間の目から見て『正しい』と思われる生き方はした。じゃがな、人間の目から見て正当なのと、神様から見て正当なのとでは雲泥(うんでい)の差があるのじゃ。よいかな、しっかりと聞くのだよ。これから、その違いを説明してみよう。

地上界では、法律をしっかりと守れば正当な生き方だとされる。『人の財産を奪う』というような悪を働かなければ、いちおうは、正しい人間とされるのだ。ところが、人間と言うものは、人の名誉や幸福を奪っておきながら、それを自覚せずに平然としていることが、しばしばあるものじゃ。しかも、そうしたことは、法律でも世論でも罰せられない。

死んだときに、墓石に長々と生前の徳行を書き連ねることができれば『地上生活での〝借金〟は全部返せた』と思うのが普通じゃな。
ところが! これが違うのだ。神の前で正しくあるためには『人間の法律を破らなかった』というだけでは充分ではないのじゃ。何よりもまず、神の法にそむかぬようにせねばならぬ。

神の前で正当とされる人間とは、どんな人間であるか。それは、愛を込めて人々にひたすら尽くし、善のために全生涯を使い、同胞(どうほう)の進歩のためにすべてを捧げた人間のことじゃ。正しい目的を追求せんとする情熱に満たされ、生き生きと人生を送る者のことじゃ。みずからに課せられた物質世界での仕事をしっかりと果たす者のことでもる。というのも、同胞たちに仕事への愛を教える必要があるからなのだ。

しかも、よき仕事を一生懸命にやる必要がある。というのも、やがては、神様から『自分の時間をどう使ったか報告せよ』と言われるからなのだ。

正しい目的をしっかり追求せねばならぬ。というのも、神への愛と、隣人への愛を、身をもって示さねばならないからである。

神から見て『正しい』とされる人間になるためには、辛辣(しんらつ)な言葉を避けなければならない。辛辣な言葉には毒が含まれているために、相手を傷つけるし、また、しばしば、正しい人間を物笑いの種にしてしまうことがあるからだ。神から見て正しい人間とは、心の中に、傲慢(ごうまん)、嫉妬(しっと)、野心の、どんなに小さな種も持っていない人間のことなのだ。

自分を攻撃してくる人間に対して、忍耐強く、優しくあらねばならない。自分を侮辱した者を、努力することなしに、心の底から許さねばならない。しかも、それを決して見せびらかしてはならない。さらに、あらゆる人間を愛し、そのことを通じて神を愛さなければならない。

つまり、人間の義務に関する、次の極めて簡潔で、極めて偉大な決まりを守るということなのじゃ。

『すべてにまして神を愛し、また、隣人をみずからのごとくに愛すること』

わがいとしい孫娘よ、以上が、神の前で『正しい』とされる人間なのだよ。

それでは、私は、それらをすべて行っただろうか?とんでもない! わしは右の条件の多くを果たさなかった。

ここで正直に告白しておこう。わしは、人間として当然果たさねばならぬことを果たさなかった。神を忘れることで、神の法も忘れたのだ。人間の法律を犯すことはなかったが、だからといって、神の法を遵守(じゅんしゅ)しなかった罪を免れることができるわけではない。

そのことを知ったとき、わしは、すいぶん苦しんだが、現在は希望を持って生きている。わしの悔い改めをご覧になった神様のご慈悲(じひ)におすがりしてるわけじゃ。

よいか、孫娘よ、わしが今日話したことを、良心が麻痺している人々に、繰り返し教えてやるのだ。彼らが、みずからの過ちを善行によって覆(おお)い尽くせるように、助けてやっておくれ。そうすれば、神様は、優しいまなざしで、表面を覆う彼らの償いの数を数えて評価し、その奥に隠されている過ちは見ない振りをして、それらを、慈悲あふれた御手(みて)で、そっと消し去ってくださるのだよ」

(2)エレーヌ・ミシェル嬢――突然に死亡した女性
25歳の時に、突然、何の前触れも無く、数秒のうちに死亡したが、苦しむことはなかった。裕福だったが軽薄であったために、真面目な事柄に取り組むよりも、目先の楽しみに心を奪われて生活した。とはいっても、よこしまなところは全くなく、善良で、優しく、思いやりに溢れ、愛に満ちていた。

死の三日後に、知人によって招霊された彼女は、次のようなメッセージを送ってきた。

「自分がどこにいるのか分かりません――。混乱しています――。あなたが呼んでくださったので、来たのですけれど――。どうして自分の家にいないのでしょう――。

家では、みんなが泣いていました。私は、ちゃんといるのに。でも、私がいることに誰も気がつかないのです――。私の体は、もう私のものではありません。それがとっても冷たいのが分かります――。身体から離れたいのに離れられません。何度も何度も体に戻ってしまいます――。まるで自分が二人いるみたい――。

ああ、一体いつになったら、何が起こったのか分かるのかしら――。あちらに行かなくては――。もう一人の私は、どうなってしまうのかしら?――さようなら」

肉体と霊が完全に分離していないので、自分が二人いるように感じられているのである。あまり真面目ではなく、しかも財産に恵まれていたので、色々な気まぐれを満たすことが出来た為に、軽薄さが、傾向性として、かなり強く固定されたようである。したがって、肉体と霊の分離がそれほど速く行われないのも頷ける。死後三日経っているというのに、まだ肉体に繋ぎ止められているのである。

しかし、生前に深刻な罪を犯しておらず、心は綺麗なので、こうした状況も苦しみを引き起こすことはなく、それほど長く続くわけではない。

この日から数日して再び招霊してみると、随分変化があった。以下が、そのメッセージである。

「私の為にお祈りをしてくださって、どうもありがとうございました。優しい神様のおかげで、肉体と霊の分離に伴う苦しみと恐れがありませんでした。

お母様は、諦めがつくまでは、まだまだ苦しまれることでしょう。でも、きっと元気を取り戻すことができると思います。今回のことは、お母様にとっては耐え難い不幸と思われるでしょうが、お母様が天国のことに気づくためには、どうしても必要なことだったのです。お母様の地上での試練が終わるまで、私は、ずっとお母様のおそばにいるつもりです。そして、試練に耐えられるように助けてさしあげるつもりです。

私は不幸ではありませんが、天国できちんとした生活が出来るためには、もっともっと向上しなくてはなりません。もう一度、地上に生まれ変われるように、神様にお願いするつもりです。だって、今回の人生で無駄にした時間を償う必要があるのですもの。

皆様、信仰を大切になさってくださいね。心から発したお祈りは、本当に効果があります。神様はよき方です」

――自分を取り戻すまでには、だいぶ時間がかかったのですか?

「あなた方が祈ってくださった日に、自分が死んだということが分かりました」

――混乱している間は、苦しかったですか?

「いいえ、苦しんではいませんでした。[夢を見ている]と思っていたのです。そして、夢が覚めるのを待っていました。

勿論、私の人生に苦しみが無かったというわけではありません。でも、地上に生まれれば、みんな苦しみは味わうものです。私は神様のご意志に従いました。そして、神様はそのことをちゃんと見ていてくださいました。

祈ってくださって、本当にありがとうございます。そのおかげで、自分を取り戻すことが出来たのです。ありがとうございました。

また呼んでくだされば、いつでも喜んで降りてくるつもりです」

(3)アンナ・ベルヴィル――長く病気に苦しんだ若い母親
長い間病気に苦しんだ挙げ句、35歳で亡くなった女性。生気に溢れ、霊的で、類いまれなる知性、正しい判断力、高い精神性に恵まれていた。献身的な妻であり、母であり、大変しっかりした女性であり、どのような危機的な状況に置かれても決して挫けないだけの、精神的な強さを持っていた。彼女に辛く当たる人々に対しても、決して恨みを抱かず、機会さえあれば、そういう人々に尽くそうとした。

私は、長年の間、彼女と親しくしていたので、彼女の人生のあらゆる段階のことをよく知っており、最後の日々の出来事もつぶさに知っている。

彼女は、ある事故から、ひどく重い病気になり、3年の間、ベッドに伏せることとなった。最後の瞬間まで、ひどい痛みに苦しんだが、彼女は決して本来の陽気さを失うことなく、健気に痛みに耐えた。

魂の存在と死後の世界の存在を固く信じていたが、普段は、そうしたことをあまり気にしていなかった。常に現在を大切にし、現在に集中して生きており、死を恐れることはなかった。

物質的な喜びには関心がなく、非常に簡素な生活を送り、手に入れられないものを欲しがるようなことはなかった。だが、生まれつき、よいもの、美しいものを知っており、生活の細部に至るまで、そうしたものへの配慮を貫いていたのは事実である。

子供にとって自分が必要であることがよく分かっていたので、自分の為よりも、子供の為に、もっと長生きしたかった。彼女が生きることに固執したのは、実はその為であった。

霊実在論を知ってはいたが、詳しく勉強したことはなかった。霊実在論に興味は抱いていたのだが、それが彼女の心を占めることはなかったのである。霊実在論が真実であることは分かっていたのだが、深く探求してみようという気にはならなかったということである。

彼女は、よいことを多くなしたが、それは、自発的に、自然にそうしたまでであって、死後の報いを得たいから、或は、死後に地獄に行きたくないからということで、そうしたわけではなかった。

随分前から病勢が進んでおり、人々は、いずれ彼女が逝かねばならないものと見ていた。彼女自身もそれは自覚していた。

夫が外出していたある日、彼女は、自分がもうすぐ死ぬことを悟った。目がかすみ、意識が混濁し、魂と肉体の分離に伴うあらゆる苦しみが彼女を襲い始めた。しかし、夫が帰る前に死ぬのは辛かった。そこで、最後の力を振り絞って、「まだ死にたくありません」と言った。すると、また力が湧いてきて、何とか持ち堪えることが出来た。

ようやく夫が帰ってきた時、彼女はこう言った。
「私はもうすぐ死ななければなりません。でも、最後の瞬間に、あなたに、側にいてほしかったの。だって、あなたに言っておきたいことが、まだいくつもあるのですもの」

その後も、生と死の戦いは続き、彼女は、さらに3ヶ月、生き延びたが、それは大変な苦しみに満ちた日々であった。

死の翌日に招霊を行った。

「私のよきお友達の皆さん、私のことを気にかけてくださって、ありがとうございます。皆さんは、私にとって、よき親戚のようなものでした。

ところで、私は、現在、幸せですので、喜んでください。私の可哀想な夫を安心させてあげてください。また、子供達を見守ってあげてくださいね。この後すぐ、彼らのところにも行ってみますが――」

――あなたの様子からすると、死後の混乱は長く続かなかったようですね。

「友人の皆さん、私は、死の前に、随分苦しみました。でも、それを甘受したことは、皆さんもご存知の通りです。私にとっての試練は終了しました。私は、まだ完全に物質界から離脱したわけではありませんが、もう苦しみはありません。何という慰めでしょう。こうして根本的に癒されたのです。

でも、地上に降りてきて、あなた方と一緒にお仕事をする為には、あなた方のお祈りが必要なのです」

――あなたの長い苦しみの原因は何だったのですか?
「それは恐ろしい過去です」

――恐ろしい過去とは?
「ああ、もう思い出したくありません。本当に高く支払う必要があったのです」

死の一ヶ月後、再び招霊した。

――あなたは、既に物質界からの離脱を完全に果たしたと思いますし、自分をしっかり取り戻したと思います。そこで、前回よりも突っ込んだ形で、色々とお伺いしたいのですが、よろしいでしょうか? あなたの長い苦しみの原因は何だったのか、教えて頂けますか? 3ヶ月の間、生と死の境で苦しまれましたね。

「私の言ったことを覚えていてくださって、お祈りしてくださったことに、心からお礼を申し上げます。お祈りは本当に私を助けてくれました。お祈りのお陰で、地上からの離脱が大分楽になったのです。でも、まだ支えて頂く必要がありますので、申し訳ありませんが、今暫くお祈りしてくださるようお願い致します。

あなた方は、お祈りがどのようなものであるか、よくご存知です。殆どの人のお祈りは、単なる決まり文句にすぎませんので、よき効果をもたらしませんが、あなた方のお祈りは、切なる心、純粋なる心から出ていますので、本当に素晴らしい効果があります。

ええ、死の直前、私は、とても苦しみました。でも、苦しんだお陰で、私は、大分償いを果たすことが出来たのです。

その為に、今では、子供達の側に頻繁に行くことが許されています。でも、あの子達と別れるのは本当に辛かった――。

あの苦しみを長引かせたのは、私自身だったのです。『子供達と少しでも長く一緒にいたい』という思いが、肉体への執着となりました。本来なら、きっぱりと肉体を脱ぎ捨てるべきだったのですが、私は、逆に頑になってしまい、いつまでも肉体にしがみついていたのです。その為に、肉体が私の苦しみの道具となってしまいました。以上が、あの3ヶ月間の苦しみの真相です。

病気と、それによる苦しみに関して言えば、あれは、私の過去のカルマの清算の意味がありました。私の過去の『借金』を支払う必要があったのです。

ああ、友人の皆様、私が、生前、皆様のお話をよく聞いていれば、現在の生活は、どれほど変わっていたか分かりません。神様の御心をもっと信頼し、流れに身を任せていたならば、最後の苦しみも、もっともっと和らいだことでしょうし、肉体と魂の分離も、もっと簡単に行われたことでしょう。でも、私を待っていた死後の世界に目を向けるよりも、目の前の現実に執着してしまったのでした。

次回、地上に転生する時には、必ず霊実在主義者になるとお誓いいたします。何という広大な科学でしょう。私は、よくあなた方の集いに参加し、そこでやり取りされる情報に耳を傾けます。地上にいる時に、そうしたことを知っていれば、私の苦悩は随分和らいだことだろうと思うのです。

しかし、時が充分に熟していなかったのでしょう。

現在では、私は、神様の優しいお心と公平さを理解することが出来ます。でも、地上のことからすっかり解放される程、悟りが進んでいるわけではありません。特に子供達のことが気になっております。あの子達を甘やかしたいのではなく、あの子達を見守り、出来れば霊実在論の教えを実践出来るようにしてあげたいのです。

そうです、お友達の皆さん、私には、まだまだいくつも気がかりがあるのです。子供達の死後の行く末については、特に気になります」

――生前のことで残念に思っていることはありますか?

「お友達の皆様、私は、ようやく全てを告白する用意が出来ました。

私は、母の苦しみを、充分、理解してあげることが出来なかったのです。母が苦しむのを見ても、同情するということがありませんでした。『自分で勝手に病気だと思い込んでいるだけだ』と思っていたのです。母が寝込むということはなかったので、『実際には苦しんでいないのだろう』と思っており、母の苦しみを本気にせず、密かに笑っていたのです。

それが、私の苦しみの原因になったのでした。神は全てを見ておられるのです」

死後6ヶ月経った時、さらに招霊を行った。

「私が地上にあった時、人々は私を善人と思っておりましたが、実際には、私は、何よりもまず自分の快適さを考える人間だったのです。生まれつき、人を思いやる心は持っておりました。でも、『可哀想な人を助ける為に自分の生活を犠牲にする』というところまでは行きませんでした。

現在では、私も大分変わりました。相変わらず、私は私ですが、でも、もうかつての私ではありません。というのも、次のことが分かったからです。それは、『見えない世界においては、心境の高さ以外に価値を測る物差しはない』ということです。したがって、金持ちだけれども傲慢な人よりも、貧乏だけれども思いやりのある善人の方が、その境涯が遥かに高いのです。

私は、現在では、両親や財産を失って不幸になった子供達や、家族に不幸があって苦しむ人々を、特別に見守るお仕事を頂いております。彼らを慰め、勇気づけるのが、私の仕事ですが、このお仕事をすることが出来て、とても幸せです」

アンナの話を聞いて、メンバーから次の重大な質問が出た。

――当人の意志いかんによって、魂と肉体の分離の時期を遅らせることは可能なのですか?

それに対して、聖ルイから次のような霊示を頂いた。

「この質問に対して、『何の制限もなく、その時期を遅らせることが出来る』と答えたとすれば、よからぬ結果を招くかもしれません。勿論、肉体に宿っている霊が、ある種の状況下において、自分の意志によって肉体の生存を長引かせることは可能です。アンナの例においても、それが見られましたし、それ以外にも、皆さんは、既に数多くの例を観察したはずです。

ただ、地上の生命を引き延ばすということは、仮にそれが許されたとしても、限定された短い間のことにすぎません。というのも、自然の法則に介入することは、人間には許されていないからです。それは、あくまでも一時的な例外にすぎません。

以上のように、可能性としては、本人の意志で地上生命を引き延ばすことは出来ますが、それを一般的な法則と考えてはなりません。『どんな場合でも、自分の思い通りに生命を引き延ばすことが出来る』と考えたら間違いになるのです。

霊に対する試練として、或は、霊にまだ果たすべき使命が残っている為に、使い古された肉体器官に生体エネルギーが注ぎ込まれ、その結果、まだしばらく地上に存在し続けることが可能になるということがあります。とはいえ、そうしたことは、あくまでも例外であって、一般的な法則ではないのです。

また、そうしたことは、神ご自身がその法の不変性を侵したということではありません。それは、人間に与えられた自由意志の問題であると考えるべきでしょう。最後を迎えつつある人間が、自らに与えられた使命を自覚し、それを、死ぬ前にどうしても果たしたいと考えた場合、そうしたことも起こり得るということなのです。

また、一方では、死後の世界を信じない者に対する罰として死期が遅れるということも、時には起こります。死期が遅れることによって、それだけ苦しむ時間が長引くことが必要になる者もいるのです」

アンナの霊が持っていた、肉体への執着の凄まじさを考えた場合、肉体からの離脱が随分素早く行われたことに驚く読者がいるかもしれない。しかし、この執着は、ひたすら子供のことを思ってのことであって、物質それ自体に執着していたわけではないことを理解しておく必要がある。「いたいけな、まだ小さな子供を残して死ぬわけにはいかない」というのが彼女の本心であった。

彼女の霊は、知性においても、精神性においても、かなり進化した霊であった。もう一段、進化すれば、非常に幸福な境涯に進めるはずの霊である。したがって、物質と自己同一化している霊に特有な、肉体と霊の結びつきの強さというものは、彼女の場合には見られなかった。

長引いた病気によって生命力が弱っていて、その為に、電子線が大分痛んでおり、辛うじて霊と肉体が繋がっているような状況であったと言えよう。アンナの霊が切りたくなかったのは、この弱くなった電子線であった。

とはいっても、彼女の霊は、子供のことを思って分離に抵抗した為に、病気に由来する痛みに苦しむことはなかったが、分離することそれ自体が彼女にとって困難だったわけではない。そういうわけで、いよいよ死ぬことになった時には、分離に伴う混乱は短時間で済んだのである。

死後、ある程度、時間が経ってからの招霊は、殆どそうであるが、この招霊のケースでも、我々は大切な事実を学ぶことが出来た。それは、「死後、時間が経つに従って、霊の心境に徐々に変化が生じてくる」という事実である。霊の心境が、段々高くなってくるのである。アンナの霊の場合、それは、「感情が、より高度なものになっていく」というよりも、「物事の評価の仕方が健全になっていく」という形で表れた。

したがって、霊界での魂の向上は、経験的に確かめられた事実なのである。こうして進化した魂が、地上生活を送ることで、その悟りを実際に試すことになるのである。地上生活は、魂の決意に対する試練であり、魂が自らを浄化していく為のるつぼであると言ってもよいだろう。

肉体の死後、魂が進化し始めるや否や、その運命は、絶えず変化し続ける。運命が決定的に固定されるということはない。というのも、既に述べたように、運命の固定は、直ちに進化の否定になるからである。運命の固定と進化は両立し得ない。事実と理性によって承認される真実のみが残るのである。

第3章 苦しんでいる霊
(1)オーギュスト・ミッシェル――金持ちの青年
ル・アーブルにて、一八六三年。

オーギュストはお金持ちの青年で、物質的な生活を、ただそれだけを、大いに楽しんだ。頭は良かったのだが、まじめなことがらにまったく関心がなかった。よこしまなところはなく、むしろ善人といってもよかったので、遊び友達からは愛されていた。社交界での付き合いに生きたと言ってよいであろう。悪を犯すこともなかった代わりに、善を行うこともなかった。

ある日、乗っていた馬車が崖(がけ)から転落して、あっけなく命を失った。

死後、数日してから、間接的に彼のことを知っていた霊媒によって初めて招霊され、それから徐々に日を追って、次のようなメッセージを降ろしてくれた。

三月八日

「まだ完全に体から離れていません。それに――まだうまく話すことができません。馬車がいきなり転落して私の体が死んだのですが、そのおかげで私の――霊はひどく混乱しました。これからどうなるのかが分らず、そのために不安で――不安でしかたありません――。死の瞬間に私の体が味わった恐るべき痛みも、いま私が感じている苦痛に比べれば、何ほどのこともなかったのです。

神が私を許してくださるように、どうか祈ってください――。ああ、何という苦しみ!
ああ、神様、ご慈悲を! ああ、苦しい! それではさようなら」

三月十八日

「先日、来ましたが、そのときは、うまく話せませんでした。いまでも、まだ、通信するのには困難があります。

あなたしか、お願いできる霊媒がいないので、どうか、神様が、現在の混乱から私を救ってくださるように、私のために祈ってください。

もう肉体は苦しんでいないのに、どうして、私はまだこんなに苦しいのでしょうか? この恐ろしい苦しみ、耐えがたい苦悩は、どうして、これほど長く続くのでしょうか? 祈ってください。神様が私に休息をくださるように、どうか祈っていただきたいのです。

ああ、何という不安でしょう。私はまだ体から離れられずにいます。どこに行けばいいのか、よく分りません。私の体がそこに見えます。ああ、どうして、いつまでもこんなところにいるのだろう?

私の遺体に向かって祈ってください。そうすれば、私は体から離れることができるかもしれません。神様は、きっと、私を許してくださるだろうと信じています。

あなたがたのまわりに霊たちがいるのが見えます。私は、彼らのおかげで、あなたがたに話ができるのです。
ああ、どうか、私のために祈ってください」

四月六日

「あなたがたに祈っていただきたくて、こうしてまた舞い戻ってまいりました。私の遺体があるところに行って、私の苦悩が安らぐよう、全能なる神に祈っていただきたかったのです。

ああ、苦しい! ああ、何という苦しみ! どうか、どうか、遺体のある場所に行ってください。そうして、私を許してくださるよう、神様に祈ってください。そうすれば、心が安らぐと思います。しかし、いまのところは、かつて私を葬(ほうむ)った場所に、絶えず戻らざるを得ないのです」

オーギュストの霊が、どうして「墓の前に行って祈ってくれ」と言うのかが分らなかったので、この霊媒はそうしなかった。しかし、あまりにも繰り返し懇願(こんがん)されるので、ようやくそうすることにした。すると、墓の前で次のメッセージを受け取った。

五月十一日

「あなたを待っていました。私の霊が体に縛りつけられている場所にあなたが来てくださり、寛大な神様に祈ってくださるのを待っていたのです。

どうか、私の苦悩を和らげてくださるよう、神に祈ってください。あなたのお祈りによって、私はとても楽になるのです。早く、早く、祈ってください。お願いです。

私の人生がどれほど本来の姿からずれていたかが、いまではよく分ります。私の犯した過ちが何であるかも、よく分ります。

私は地上で無用な存在として生きてしまいました。自分の能力を人のためにまったく生かさなかったからです。私は、財産を、自分のためだけに、つまり、自分の欲望を満たし、自分に贅沢(ぜいたく)をさせ、虚栄心を満足させるためだけに使ってしまいました。体が喜ぶことだけをして、魂が喜ぶことを何もしませんでした。

地上で犯した過ちゆえに、いまだに苦しむ私の魂の上に、はたして神様は慈悲の光を降ろしてくださるのでしょうか?

神様が私を許してくださるように、どうか祈ってください。そうすれば、いま感じているこの苦しみから解放されると思います。

私のために、ここまで祈りに来てくださったことに心から感謝します」

六月八日

「私が、神の許しを得て、こうしてあなたがたに話ができることを、感謝しております。私は、自分の過ちに気がつきました。どうか神様が許してくださいますように。どうか、あなたは信仰に従って生きてください。そうすれば、私がいまだに手に入れていない安らぎを、必ず手に入れることができるはずです。

祈ってくださって、本当にありがとうございました。それでは、さようなら」

「墓の前に行って祈ってくれるように」との、霊の執拗(しつよう)な依頼は、まことに不思議なものであったが、この霊が、生前、まったく物質的な生活を送ったために、死んでから、霊と肉体との結びつきが極めて強く、霊子線がなかなか切れず、分離が非常に困難であったということを思えば、理解することが可能である。

遺体の近くで祈ることによって、遺体に幽体のレベルで働きかけることとなり、その結果、分離を容易にするということであったのだ。

亡くなった人の遺体のそばで祈るということが広く見られるが、これは、人々が、無意識のうちに、そうした効果を感じているからではないだろうか。この場合、祈りの効果は、精神と物質の両方のレベルで表れるわけである。

(2)ウラン王太子――ロシアの貴族
一八六二年、ボルドーにて。

苦しんでいる霊が、「自分はウランというロシアの貴族である」と言って、以下のメッセージを伝えてきた。

――現在の状況を教えて頂けますか?

「『ああ、心貧しき者達は幸いなり。天国は彼らのものである! 』

どうか私の為に祈ってください。心貧しき人々は幸いです。なぜなら、試練に立ち向かう時に、謙虚な姿勢で臨むからです。

あなた方、つまり、地上にいた時に幸福であった人々を羨望の眼差しで見ていたあなた方には、彼らが、その後どうなったかは、分からないでしょう。彼らが、頭の上に、燃え盛る石炭を積まれているのを知らないでしょう。富を自分の楽しみの為だけに使った者が、その後、どのような犠牲を払うことになるか、あなた方には見当もつかないでしょう。

傲慢な暴君であった私は、圧政を敷いて人々を散々痛めつけました。私が傲慢によって犯したこれらの罪を、神の許可によって償うことが出来たなら!

ああ、傲慢! この言葉を繰り返し言って、忘れないようにしてください。傲慢こそが、人間を襲うあらゆる苦悩の原因なのです。

ああ、私は、権力を濫用し、私に与えられていた恩寵を濫用しました。私は、家臣達に対し、冷たく、残酷で、彼らを、私のあらゆる気まぐれに従わせました。そうして、私はあらゆる邪悪な欲望を満たしたのです。

私は、威厳、栄誉、財産を求めたが、それらをあまりに多く得すぎた為に、その重さに耐えられずに潰れたのです」

人生に失敗した霊達は、殆ど例外なく、「自分が失敗したのは、重過ぎる荷物を負わされたからだ」と言う。これは、彼らなりの言い訳なのであろうが、そこには、まだ傲慢さが残っている。彼らは、「自分が悪かった為に失敗した」と認められないのである。

神は、どんな人に対しても、負える以上の荷物を負わせることはない。また、その人が与えることの出来るものより多くのものを要求することもない。種から芽を出したばかりの幼い苗に、「大木と同じだけの果実をならせよ」とは言わないのである。

神は霊達に自由を与えておられる。彼らに欠けているのは意志のみである。そして、意志は、彼ら自身が持つ他ないものであって、誰かが強制的に持たせることは出来ない。意志さえあれば、克服出来ない欠点はない。だが、ある欠点を持っていることに満足している限り、それを克服しようと努力することは有り得ない。

したがって、いかなる結果が出ようとも、全て自分に責任があるのである。他者や環境を責めるべきではない。

――あなたは、ご自分の過ちを自覚しておられます。それこそが、向上への第一歩ではないでしょうか?

「この自覚は、まだ苦悩を呼ぶのみです。多くの霊にとって、苦悩とは、物質的な側面に原因があるのです。というのも、未だに物質的なものにこだわっているので、精神的な側面が見えてこないからです。私の霊は肉体から離脱しましたが、肉体が感じていた恐るべき感覚が、そのまま霊に引き継がれているのです」

――あなたの苦しみがいつ頃終わるか、見当はつきますか?

「それが永遠に続くものでないことは分かります。しかし、それがいつ終わるのかは、全く分かりません。その前に、試練を受ける必要があるのでしょう」

――試練は、もうすぐ始まると思いますか?
「よく分かりません」

――あなたは、ご自分の過去世の記憶を持っていますか? これは、教育的な見地からお聞きしているわけですが。

「ええ。それに、あなたの指導霊達は、全て知っているはずです。

私は、マルクス・アウレリウスの時代にも生きていました。その時も、私は権力者であり、傲慢であり、傲慢ゆえに失敗しました。傲慢こそが、あらゆる転落のもとであります。

その後、何世紀にもわたって霊界で修行した後、私は、無名の人間として目立たない人生を送ることにしました。貧しい学生として、私は物乞いして生きました。しかし、傲慢さはなくなりませんでした。知識はたくさん身につけましたが、温かい心は得られませんでした。野心家の学者として、私は、最も高く買ってくれた悪魔に魂を売り、復讐と憎悪に生きたのです。まずいとは感じましたが、名誉と富への渇望が、良心の叫びを押し殺してしまったのです。その時も、償いは、長く、厳しいものでした。

そして、今回の転生でも、私は、贅沢と権力に満たされた生活を再び選んだのです。自分で『暗礁』を避けることが出来ると思って、人の意見には耳を貸しませんでした。またしても、傲慢さから、自分の考えだけを重んじたのです。私を見守って忠告してくれる友人達もいたのに、彼らの言うことにも耳を傾けませんでした。その結果がどうなったかは、あなたがよく知っているとおりです。

今日、ようやく事態がのみ込めました。主の慈悲に期待することにします。打ち砕かれた私の思い上がりを、神の足元に置き、私の肩に、最も重い謙譲の荷物を置いてくださるよう、お願いしてみましょう。神の恩寵のおかげで、この荷物は、より軽く感じられることでしょう。

私と一緒に、そして私の為に、祈ってください。そして、あなた方を神の方に高めていく本能を悪魔が破壊しないようにと祈ってください。

苦しみの中にある兄弟達が、私の例を見て気がつきますように。『傲慢とは幸福の敵であり、人類に襲いかかる全ての悪は傲慢から生じる』ということ、そして、『この悪は霊界までもついていく』ということを、どうか決して忘れないでください」

霊媒の指導霊からのメッセージ:「あなたは、この霊に対して、いぶかしい感じを持ちました。というのも、彼の洗練された言葉遣いが、現在の彼の苦しみに満ちた境涯から、あまりにも、かけ離れているように思われたからです。でも、心配は無用です。あなたは非常に大切な教えを得たのです。この霊は、大変な苦しみの中にあるとはいえ、知性が相当高いので、あのように優れた言葉遣いで話すことが出来たのです。

彼に欠けているのは謙虚さだけです。そして、この謙虚さがないと、人、そして霊は、神のもとに決して至ることが出来ないのです。彼は、ようやく、この謙虚さを得ることが出来ました。

我々は、忍耐強く、彼が新たなる試練に勝利することを願い続けましょう。

我らの父なる神は、智慧と正義の神です。神は、人間が、自らの悪しき本能を制御しようとして払う努力を、きちんと評価してくださいます。

あなた方が収める一つひとつの勝利は、進化の階梯の一段一段に相当します。この階梯の一番下の段は地上界に接しており、一番上の段は神の足元に至っているのです。ですから、勇敢に、この階梯を上りなさい。強い意志を持った者には、この階梯は楽なのです。いつも上の方を見て、勇気を奮い起こしなさい。

途中で止まり、引き返す者は不幸です。彼らは目がくらんだのでしょう。空虚が彼らを取り囲み、恐れさせるものです。彼らは力を失い、こう言います。

『もっと上ろうとしても無駄だ。たったこれだけしか進んでいないのだから』

いいえ! 友人達よ、決して後戻りしてはなりません。傲慢は人間には特有のものですが、その傲慢を上手に使って、この階梯を上り続ける為の力と勇気に変えることも出来るのです。弱さを制御する為にこそ傲慢さを使い、永遠の高峰の頂上を極めるのです! 」

(3)フェルディナン・ベルタン――海難事故の犠牲者
ル・アーブルに住む、ある霊媒が、生前、知り合いだった、ある人の霊を招霊したところ、この霊は次のように言った。

「私はコミュニケーションをとりたいのですが、私達の間に障害があって、つまり悪霊がいて、それを追い払うことが出来ません。この苦しむ霊が、まず、あなた方にコンタクトを取りたがっていますので、彼に順番を譲ろうと思います」

そして、霊媒は次のような自発的なメッセージを受け取った。

フェルディナン・ベルタンからのメッセージ:「私は今、恐るべき深淵の中にいます。どうか助けてください――。

ああ、神様、誰が私をこの深い淵から救ってくれるのでしょう? 海にのみ込まれた、この不幸な人間に、誰が救いの手を差し伸べてくれるのでしょうか?

夜の闇が、あまりにも深くて、私は恐怖にさいなまれています――。波のとどろきが、辺りに満ちて、もうすぐ死ぬというのに、私を慰め、助けてくれる友人の声が、全く聞こえません。この深い闇の中で、すさまじい恐怖の中で、死んでいかねばならないとは! 嫌だ、死にたくない!

――ああ、神様、私はこれから死ぬのでしょうか? それとも、もう死んでいるのでしょうか? 愛する者達と永遠に別れるのでしょうか?

私の体が見えます。

そして、死の瞬間に感じたのは、とてつもない苦しみでした。私を哀れんでください。あなた方には私の苦しみが分かるはずです。私の為に祈ってください。

あの忌むべき夜から、ずっとそうなのですが、もうこれ以上、あの引き裂かれるような苦しみを繰り返し体験するのは嫌です。でも、それが私に対する罰であることも分かっています。死ぬ前から感じてはいました――。どうか、どうか、私の為に祈ってください――。

ああ、海に、冷たい海にのみ込まれる! 助けてくれ! ああ、哀れみを! どうか、――どうか助けて下さい。ああ、息が苦しい! 波にのまれる! ああっ! ――もう、家族は私の姿を二度と見ることが出来ないのか――。

おや、私の体が落ち着いてきたぞ。お母さんのお祈りが聞き届けられたんだ! ああ、お母さん、息子が今現実にどうなっているかが分かったら、もっと熱心に祈ってくれるでしょうに! だが、お母さんは、私がこんなふうに死ぬことで、過去が償われると思い込んでいる。お母さんは、私が犠牲になったと思っており、不幸ではないと思っている。だが、実際には、こうして酷い処罰を受けている!

ああ、あなた方には事情が分かるはずだ。どうか――、どうか――、私の為に祈ってください――」

フェルディナン・ベルタンという名前は、霊媒には全く未知のもので、この名前に関して、いかなる記憶もなかった。この霊は、きっと、遭難で亡くなった不幸な人の霊であり、今まで何度も経験しているように、向こうから自発的にメッセージを送ってきたのだろうと思った。

やがて、しばらくして、彼が、ル・アーブルの沖合で一八六三年十二月二日に起こった大惨事の犠牲者の一人であることが確認された。メッセージは、同月8日、すなわち、惨劇の6日後に送られてきたことになる。フェルディナンは、乗組員を助けようとして、前代未聞の努力をし、ようやく「救える」と確信した瞬間に命を落とした。

フェルディナンは、霊媒を知っていなかったし、霊媒と、いかなる親戚関係にもなかった。どうして、家族の他のメンバーのところに現れずに、この霊媒のところに現れたのだろうか?

それは、霊達は、霊能力を持った、ある特定の人間にしか、コンタクトをとれないからなのである。しかも、混乱状態にあったので、他の選択肢がなかったのであろう。おそらく、本能的に引きつけられて、この種の自発的なコミュニケーションの為の特殊な能力を備えた、この霊媒に、コンタクトを取ってきたものと思われる。今まで自発的にコンタクトを取ってきた霊達と同様に、この霊媒から特別の共感能力を感じ取ったのだろう。

霊実在論を知らず、おそらく、その種の考え方に反感を持っていたはずの家族にコンタクトを取ろうとしても、きっと拒絶されたことと思われる。

既に、死後数日経っていたにもかかわらず、霊は、まだ、死の時の苦悩から抜け出せていない。自分の置かれた状況が、まだはっきりと分かっていないようである。まだ、生きており、波と闘っているつもりでいる。だが、一方で、自分の体から分離しているのにも気づいている。救いを求め、「死にたくない」と言っている一方で、自分の死の原因が処罰であるようだとも言っている。
こうした混乱は、横死を迎えた霊達に特有の現象である。

2ヶ月後の一八六四年二月二日、この霊は、同じ霊媒に再び自発的にコンタクトをとり、次のようなメッセージを伝えてきた。

「私のあの凄まじい苦しみに対して、あなた方が同情してくださったお陰で、大分助かりました。今では、『希望』ということが分かるようになりました。過ちに対する処罰の後で、許しを垣間見ることが出来るようになりました。

まだ苦しんではいますが、ほんのしばらくの間であれ、私が、この苦しみの終わりを垣間見ることが出来るのは、あなた方が私の状況に同情してくださって、思いやりと共に祈ってくださったお陰です。ありがとうございます。

ああ、希望とは、空の輝きです! 私の魂のうちに生まれてきた希望を私は祝福しましょう。

ああ、だが、一方で、深淵が口を開き、恐怖と苦しみが慈悲の思い出を消し去ろうとする。ああ、暗い、真っ暗闇の夜だ! 海にのみ込まれる! ああっ! 波が私の体を翻弄する――。だが、それも、もはや、微かな思い出でしかない。

あなた方の側に来ると、楽になります。恐ろしい秘密でも、友人に打ち明けることが出来れば、胸の内が軽くなりますが、それと同じように、私の悲惨な状況に同情してくださる皆さんのお陰で、私の苦しみは安らぎ、私の霊体は楽になります。あなた方のお祈りのお陰で、大変助かりました。

どうか、お祈りすることを拒否しないでください。また、あの恐ろしい悪夢の中に戻りたくないからです。どうか、これからも、度々私の通信を書き取ってください。そうして頂けると、とても助かるのです」

この日から数日後に、パリにおける集いで、この同じ霊が招霊された。その際に、次のような一連の質問がなされたが、それに対して、後に掲げるような答がなされた。

質問

――最初に自発的な霊示を送ってきた時は、誰かに導かれて霊媒のところにやってきたのですか?

――その時、死んでから、どれくらい時間が経っていましたか?

――あなたが初めて通信を送ってきた時は、死んでいるのか生きているのか分からない状態で、しかも、死んだ時の凄まじい苦しみを感じているようでした。現在では、自分が置かれた状況は、前よりも分かってきているのでしょうか?

――あなたは、自分の死が償いであるとおっしゃっていました。何に対する償いなのですか? それを教えていただければ、私達には貴重な学びになりますし、あなたにとっては心の解放になることと思います。誠実に打ち明けてくださることで、神の慈悲が臨むだろうと思うのです。私達もお祈りで支援しましょう。

答え

「まず、『人間があんなに苦しむことは、それほどないだろう』と言っておきましょう。ああ、荒れ狂った波に翻弄され、氷のような冷たさに、晒され続けるのですよ。

しかし、いつまでも、そんなことを話していても、仕方ありません。まず、私の苦しみに対して、あのように同情してくださった皆様に、感謝申し上げねばなりません。

さて、『私の死後どれくらい経ってからコンタクトを取ったのか』とのお尋ねでした。それにお答えすることは簡単ではありません。未だに私がどれほど大変な状況にいるか、考えて頂きたいのです。

とはいえ、自分のものではない、ある意志によって、霊媒のもとに導かれたように思います。そして、これは信じ難いことなのですが、丁度、今、この瞬間に行っているように、あなたの腕をまるで自分の腕であるかのように使って容易に文字を書くことが出来たのです! しかも、そうして文字を綴っている間は苦しみが軽減され、大変楽しく感じられたのです。

しかし、ああ、神よ、私はある告白をせねばなりません。私には、その力が残っているでしょうか?」

(我々の励ましを受けて、やがて霊は付け加えた)

「――私は非常に重い罪を犯したのです。その為に苦しみを経験しなければなりませんでした。私は――、それ以前の転生で――、何人もの人間を袋に詰め込んで――、海に沈めたことがあるのです! ああ、私の為に祈ってください! 」

この通信に関して、聖ルイから次のようなメッセージを頂いた。

「この告白をしたお陰で、この霊は大いなる心の安らぎを得ました。そう、彼は大変な罪を犯していたのです。

しかし、今回の人生は立派なものでした。彼は、目上の者達に愛され、評価されました。それは、彼が、地上に生まれ変わる前に、しっかりと悔い改め、決意をしたお陰です。今回の転生では、過去世を償う為に、人間的に生きようと決心したのです。

彼が最後に果たした自己犠牲は、確かに償いとなりました。しかし、それではまだ足りず、死の瞬間に味わうことになった、凄まじい苦しみによって、過去の過ちを償う必要があったのです。『自分が他者に味わわせた拷問のような苦しみを、自分自身でも味わうことによって、浄化を果たしたい』と、自ら望んだのです。

そして、それ以来、彼は償いの道から名誉回復の道へと進んだのです。

あなた方のお祈りは、彼を大いに助けました。あなた方のお祈りのお陰で、彼は、名誉回復の道を、より確かな足取りで、しっかりと歩み始めることが可能となったのです」

(4)フランソワ・リキエ――けちくさい独身の中年
フランソワ・リキエは、どこにでもいるような、けちくさい独身の中年で、一八五七年にC――で亡くなったが、死後に、相当の財産を傍系血族に残した。

彼は、ある婦人に家を貸していたことがあったが、この婦人は、それ以来、家主のことはすっかり忘れており、彼が生きているのか死んでいるのかさえ知らなかった。

一八六二年、この婦人の娘が、強硬症の発作に襲われ、その後、催眠状態に陥り、書記霊媒としての能力を発揮し始めた。

そして、ある時、睡眠中に、リキエ氏が夢の中に現れ、彼女の母親にコンタクトをとりたいと言ってきた。

数日後に、次のようなやり取りがなされた。

――私達に何をお望みですか?

「やつらは、俺の金を奪い取り、みんなで分け合った。俺の農場を売り、家を売り、全てを売って、分け合った。俺の財産を全て横領したのだ。何とかしてほしい。奴らには、俺の声は聞こえないし、俺も、あんな卑しい奴らの面を見るのは嫌だ。俺を高利貸しだと言っておきながら、その金を取りやがったのだ。金の貯め方に文句を言っておきながら、その金を取って、返そうともしないのだ」

――でも、あなたは、もう死んでいるのですよ。あなたには、もうお金は必要ないのです。今回の強欲な人生を償う為に、神様に、次の転生では慎ましい人生を送らせてくださるよう、お願いしたらいかがですか?

「馬鹿なことを言うな。そんなことは絶対に嫌だ! 貧乏人なんかにはなりたくない。俺が生きるのには、どうしても金が要るんだ。
それに、また生まれ変わる必要なんかない。現在ただいま、ちゃんと生きているんだからな! 」

――(この霊を現実に引き戻す為に)今苦しいですか?

「ああ、苦しいとも! どんな酷い病気にかかっているよりも苦しい。だって、苦しんでいるのは、俺の魂なんだからな!
俺の生き方は、多くの奴らに嫌われたが、その酷い生き方に、ずっと直面させられているんだ。俺は、同情にさえ値しない哀れな人間なのだ。苦しくて仕方がない。どうか、この辛い状態から、俺を救ってくれ」

――あなたの為に祈りましょう。

「それは有り難い。俺が地上の富への執着から離れられるように祈ってくれ。とにかく、そうしないと、悔い改めが始まらない。
それでは、有り難うよ。シャリテ通り14番、フランソワ・リキエ」

この霊は、生きている人間のように、地上の住所を言ってから帰った。霊媒となったくだんの娘が、事実関係を調べる為に、その番地に行ってみると、はたして、そこはフランソワ・リキエ氏が最後に住んでいた家であった。

そのように、死後5年経った今でも、彼は、自分が死んでいるとは思っていないのである。

そして、これは、ケチな人間にとっては耐え難いことであるが、自分の財産が地上で相続人達によって分断されるのを見ているのである。

この招霊は、高級霊の意志によって行われたに違いないのだが、こうして、我々と話をすることによって、彼が、現在、自分が置かれた状況を理解し、悔悟する気になることを、我々も、高級霊と共に望みたい。

(5)クレール――極端なエゴイスト
一八六一年、パリ霊実在主義協会にて。

以下のメッセージを送ってきたのは、ある女性の霊である。

霊媒が、生前のこの女性を知っていたのだが、彼女の性格と振る舞いからすれば、現在、彼女がさらされている激しい苦しみは、あまりにも当然のことのように思われる。彼女は極端なエゴイストであったし、また、三番目のメッセージから窺われるような、相当酷い性格を備えていた。さらに、「自分の面倒だけ見て欲しい」と霊媒に望むところにも、彼女の問題がよく表れている。

以下のメッセージは、何度かにわたって送られてきたものであるが、後半の三つのメッセージには、大分心境の進展が窺われる。これも、ひとえに、霊媒が教育的配慮をもって辛抱強く彼女に接し続けた結果であろう。

(一)「私は、不幸な女クレールよ。一体私から何を学びたいというの?

『苦しみを和らげる方法がある』ですって! ふん、空々しい! 一体どこに勇気や希望があるというの?

あんたみたいに頭の悪い人間に、絶対終わらない一日というものが、どれほど恐ろしいか、分かるもんですか! 一日、一年、一世紀、どれも同じこと。時間なんて、はっきりしないし、季節もない。永遠に淀んだ時間、全く進まない一日。ああ、嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! のろのろした重苦しい時間が、鉛みたいにのしかかる。

ああ苦しい! もういや! 周りにいるのは亡霊だけ。押し黙った、何にも関心のない影ばかりだわ。ああ、嫌だ!

でも、こうした悲惨のはるか彼方に神がいることは分かる。父にして主。全てが、そちらの方に向かっているのだわ。神のことを考えたい。神にお願いしてみたい!

私はもがいている。道の上を這い回っている、まるで芋虫みたいに。

どんな力が私をあんたの方に引き寄せたのかしら? もしかして、あんたが私を救ってくれるの? あんたと会ったら、心が少し安らいだし、心が少し温かくなったわ。寒さに震える年寄りを太陽の光が暖めるように、私の凍り付いた魂を、あんたの命が暖めてくれたのよ」

(二)「不幸が、毎日、大きくなっていくわ。永遠ということが分かるようになるにつれて、ますます不幸の感覚が鋭くなる。

ああ、嫌だ! 罪にまみれた時間、エゴイズムと恩知らずの時間、思いやりや献身なんて、馬鹿にしきって、自分の楽しみのことだけ考えていた時間! ああ、そうした時間が呪わしい! 人間界のしがらみ、物質への虚しい執着。ああ、嫌だ! それらのおかげで、盲目になり、私は破滅した。虚しく流れ去った、地上での時間よ! ああ、私は何てことをしてしまったのだろう!

あんたに何て言ってあげればいいのかしら? 自分の心を絶えず見つめ、自分よりも人を愛しなさい。よいことをするのをためらわないように。体のことばかり気にして、魂の世話を忘れては駄目。イエスが弟子に言ったように、いつも目覚めていなければいけないの。

私の忠告にお礼を言う必要はないわ。

そんなことは、頭では分かっていたけど、ハートでは分かっていなかった。

ああ、不安で仕方がない。まるで、打ちのめされた犬みたいな気分よ。私はまだ、本当に自由な愛を知らないの。聖なる愛の夜明けは、まだ来ないみたい。
どうか、私の、渇き切った、可哀想な魂の為に祈って! 」

(三)「あんたが私のことを忘れているので、こうして捜してやってきたわ。ごくたまに私の名前を唱えて祈れば、それで私の苦しみが安らぐとでも思っているの? いいえ、そんなことはないわ! 苦しいのよ! 分かる? ねえ! 私は、ずっと彷徨っているの。休むことも出来ず、逃げることも出来ず、希望もなく。永遠の懲罰にこづきまわされ、私の魂はますます反抗的になる。

あんた達が嘆き、打ちひしがれるのを見ると、笑ってやりたくなる。あんた達の苦しみ、涙、悩みなんて、どうってことないわ! いい? 私は眠ることさえ出来ないのよ!

ねえ、聞いて! あんたの哲学談義なんて、どうでもいいの! それよりも、私の世話をしてちょうだい! 他の人達にも私の世話をさせてちょうだい!

ああ、この苦しみは、どう表現すればいいのか分からない。とにかく時間が流れないのよ! それがどんなに苦しいか分かる?

ほんの微かでも希望があるとすれば、それは、あんたが与えてくれる希望だわ。だから、私から離れないで! 」

聖ルイからのメッセージ:「これは、まさしく真実そのものです。ここには、いささかも誇張はありません。

『ここまで酷い境涯に落ちるとは、一体、この女性は何をしたのだろうか』と、あなた方は不審に思うかもしれません。彼女は何か恐るべき罪を犯したのでしょうか? 盗みでも働いたのでしょうか? 殺人を犯したのでしょうか?

いえ。彼女は、法に触れるようなことは、一切していません。むしろ、彼女は、地上の幸福といわれるものを余すところなく満喫していたのです。美貌、財産、快楽、追従、それら全てを手に入れ、何一つ欠けるものはありませんでした。人々は、彼女を見て、『なんと幸福な女性だろう! 』と思い、羨んだものです。

では、彼女は何をしたのでしょうか? いや、彼女は何かをしでかしたのではなく、単にエゴイストだったに過ぎません。彼女は全てを手に入れたのです。たった一つ、善良な心を除いては。

彼女は、人間のつくった法律は犯しませんでしたが、神の法に反したのです。つまり、彼女は、徳のうちの最初のものである思いやりを忘れていたのです。彼女が愛したのは自分自身だけでした。そして今は誰からも愛されていません。彼女は誰にも何も与えなかったので、今、誰からも何も与えられません。彼女は、孤立し、見捨てられ、打ち捨てられ、誰も彼女を構ってくれない、誰も彼女の世話をしてくれない空間の中を彷徨っています。それこそが彼女の苦しみなのです。

彼女は浮き世の楽しみにしか興味がなかったわけですが、霊界には、浮き世の楽しみは、一切存在しません。ですから、空虚が彼女の周りを取り囲んでいるだけなのです。彼女には虚無しか見えません。そして、この虚無は、彼女にとっては永遠に続くのです。

彼女は肉体的な拷問を受けているわけではありません。悪魔達が彼女を虐めにやってくるわけでもありません。そんなことは必要ないのです。彼女は自分自身で苦しんでおり、その方が恐ろしいのです。虐めるというのは、少なくとも、その対象に関心があるわけであって、今や、彼女は、誰からも、虐めてさえもらえないのです。彼女に関心を寄せる者は、ただの一人もいません。

エゴイズムは、地上では多くの喜びをもたらすでしょう。しかし、それが霊界までついてきた時、それは、真の悪魔として、その人に付きまとい、その人の心を責めさいなむのです」

(四)「私は、これから、あなた方に、神聖な道徳と人間の道徳の違いについて語りましょう。

神聖な道徳は、打ち捨てられた不義の女を助け、罪人達に対して、こう言います。

『悔い改めなさい。そうすれば、天国への門が開かれます』

神聖な道徳は、全ての悔い改めを受け入れ、全ての罪の告白を受け入れます。

それに対して、人間の道徳は、罪の告白を拒絶し、しかも、一方で、微笑みながら、隠された罪を半ば許されたものとして見逃すのです。

一方には許しの恩寵があり、一方には偽善があるばかりです。

真理のあくなき探求者達よ、さあ、選ぶのです。次の二つのうち、一つを選ぶのです。一つは、悔い改めに対して開かれた天国の門、いま一つは、エゴイズムとごまかしを許しておきながら、一方で心からの告解と悔悟を拒絶する寛容さです。

さあ、罪を犯した者達よ、悔い改めなさい。悪を拒絶し、醜さを覆い隠す偽善を拒絶するのです。そして、お互いに都合のいいように取り繕い合う為の、偽りの笑みを浮かべた仮面を、投げ捨てるのです」

(五)「私はいま安らぎに満たされており、自分の犯した過ちを償おうとしております。

悪は全て私の内にあり、私の他にはありません。したがって、変わらなければならないのは、外の世界ではなくて、私自身なのです。天国も地獄も自分の中にあるのであって、霊界へ還れば、良心に刻み込まれた自分の過ちの全てに直面せざるを得ません。こうして、私達は、自らの判事となるのです。魂の状態を見れば、自分が天国に行くのか、地獄の墜ちるのか、おのずと明白になります。

つまり、こういうことなのです。過ちのせいで汚れて重くなった霊は、天国へ昇っていくことを、望むことも、考えることも出来ません。

これは本当です。様々な生物が、自分に適した環境に住み分けるように、霊達も、自らの境涯に従って、自分に最も適した環境を選んで、そこに住むのです。

変化し、進化して、自分の悪しき傾向性を克服し、罪の繭から脱出することが可能となった魂は、唯一の目標であり願いでもある神に向かって、まっしぐらに飛んでいこうとするものです。

ああ、私はまだ、ぐずぐずしておりますが、神聖な愛をもたらす、筆舌に尽くしがたい幸福を、もう憎んではおりませんし、それを心に描くことも出来るようになりました。希望に満たされ、待ち望んでいる私の為に、どうか、いつもお祈りをしてください」

次のメッセージで、クレールは夫のことに言及している。生前、どれほど夫の為に苦しんだかということ、そして、現在、彼が霊界のどのような界層にいるかということを語っている。

しかし、苦しくなって、最後まで話を続けることが出来なかったので、途中で霊媒の指導霊が引き取っている。

(六)「あなたが私のことを長い間忘れているので、再び、こうして、やってきました。でも、今では、私は耐えることを学び、もはや絶望してはいません。

あなたは、私の夫のフェリックスが今どうしているかを知りたいようですね。あの人は、今、すさまじい欠乏感にさいなまれながら、暗闇の中を彷徨っています。軽薄かつ表面的な生き方をし、快楽ばかり追求したあの人は、愛と友情には無縁の人でした。情熱さえも、そのほの暗い明かりで彼を照らすことはありませんでした。

今、あの人は、丁度、生きる術を知らない不器用な子供が、あらゆる助けを奪われた状態にあるのと、全く同じだと言えましょう。彼が、今、恐怖と共に彷徨っている世界は――(中断)」

霊媒の指導霊ジョルジュからのメッセージ:「クレールは、夫の苦しみを語ると、彼女もまた、その苦しみを感じることになるので、途中で続けられなくなりました。そこで、私が代わりに語ることにいたします。

感じ方においても考え方においても表面的であったフェリックスは、冷酷であるがゆえに女性をなぶり、意志薄弱であるがゆえに放埒な生活を送りました。そして、地上において、肉体的に剥き出しであった為に、霊界では、精神的に剥き出しの世界に還ったのです。地上に生まれたにもかかわらず、そこで何も得なかった為に、全てをやり直さなければなりません。

長い夢から覚め、夢の中での神経の興奮がいかに虚しいものであったかに気づく男のように、フェリックスは、地上の混乱から脱出し、自分の人生が、悪夢に支配された、とてつもない過ちであったことに気づいたのです。

現実を抱きしめていたつもりが、実は空虚を抱きしめていたに過ぎなかったことに気づき、自分が陥っていた唯物主義を呪うのです。そして、『死後の生命など単なるおとぎ話に過ぎない』と自分に思わせていた実証主義を呪うのです。

彼にとっては、死後の生命への憧れは単なる狂気に過ぎず、神への信仰は弱さの証でしかなかったのです。この不幸な男は、自分がそのように馬鹿にしていた事柄が、まさしく本当であったということに気がつき、自分が真実とは全く逆のことをしていたこと、すなわち、影を追っていただけだったということを認めざるを得なくなったのです。彼が現実だと思っていたことが幻想で、彼が幻想だと思っていたことか現実だったのです」

クレールのメッセージが与える教訓

クレールのメッセージは、人生の本当にありふれた側面、つまり、誰もが持っているエゴイズムについて明らかにしているので、我々には非常にためになる。そこにあるのは、人々をおののかせるような重大な犯罪ではなく、人々に尊敬され、羨ましがられるような、社交界にならどこにでもいるような人間達のケースだからである。

彼らは、うわべを取り繕うのが巧みなので、この世の法に触れるようなことは決してしなかった。そして、霊界でも、我々を戦慄させるような、例外的な厳しい懲罰を受けるわけではなく、地上での生き方、そして、魂のありように応じた、ごく単純で、当たり前の結果を引き受けるのみなのである。すなわち、遺棄、孤立、断絶が、地上で自分自身の為だけに生きた人間を待っている処遇なのである。

既に見たように、クレールは、知的には大変優れていたが、心は冷たい女性であった。地上においては、彼女の社会的地位、財産、美貌は、人々の賞賛を集め、それが彼女の虚栄心を満たし、彼女は、そのことで、すっかり満足していた。

だが、霊界で彼女が出会ったのは、完全な無関心であり、空虚であった。これは、苦しみよりも、さらに辛い処罰となる。というのも、苦しみなら、まだ周囲の哀れみや同情を引くことが出来るが、完全な無関心に取り囲まれた時、そこには哀れみさえも存在しないからである。

彼女の三番目のメッセージは、恐ろしい程の真実に満ちている。そこでは、悪しき状態に陥った、ある種の霊が見せる強情さが、見事なまでに浮き彫りにされているからである。善霊達が享受している幸福に対し、あそこまで無感覚になれるものかと驚く。それは、まさに、腐敗しきった人間が、汚濁の中で、そして、粗雑な性的快楽の中で、喜んでいる姿そのものである。

それはそれで、ある意味では居心地がよいのかもしれない。というのも、彼らには、繊細な喜びがどのようなものであるか分からないからである。

彼らには、光り輝く清潔な衣装よりも、悪臭を放つぼろ着のほうが、ぴったりくるのだ。その方が、寛げるからである。和やかで静かな食卓よりも、堕落したどんちゃん騒ぎの方がいいのだ。そうした生活と、あまりにも一体になっているうちに、それが第二の天性になってしまったのであろう。

彼らは、自分達の世界よりも上に行けるとは思わないので、ずっと、そこに留まり続けている。彼らのあり方に変容が生じ、考え方に変化が生じ、感覚が繊細になって、より精妙なものが感じられるようになるまで、そうした生活が続くのである。

そうした人間達が死んで、肉体が分離したとしても、すぐに繊細な感覚を取り戻すことは出来ない。ある一定の期間は、丁度物質界で社会の低層にいたように、霊界においても低い世界において生きることになるのである。進化を目の敵にしているうちは、そうした場所にい続けることになるだろう。

しかし、やがて、経験を積み、試練を経て、再び地上に転生して悲惨を経験するうちに、自分達が持っているものよりもよいものがあることに気づく瞬間がある。その時に、憧れに火がつくのである。自分に欠けているものを自覚し始め、それを獲得しようと努力を開始する。

ひとたび、こうした道に入れば、彼らは相当なスピードでその道を進むことになるだろう。というのも、自分には無縁だと思っていた満足感を得ることが出来るし、その道にいると、粗雑な感覚を持っている者達に違和感を持つようになるからである。

聖ルイとの問答

――苦しんでいる、ある種の霊達が陥ることになる闇とは、一体何なのでしょうか?聖書の中でしばしば触れられている闇と同じものなのですか?

「その闇は、イエスや予言者達が、意地悪な人間に対する罰として語っている闇と同じものです。しかし、その当時、人々は、霊的な形での罰ということを理解出来なかったので、そうした人々の物質的な感覚に訴えるような形でしか説かれなかったのです。

ある種の霊達は闇の中に沈みますが、それは、愚かな人間が閉じ込められることになる、『魂の夜』としての闇なのです。魂が狂ったからそうなるのではなく、魂が自分自身を自覚しない為、すなわち暗愚である為に、そうなるのです。

それは、特に、自らの死後の生を否定した者達の運命なのです。彼らは虚無を信じていたのです。その為に、その虚無が闇となって現実化して、彼らの前に現れて彼らを苦しめるというわけなのです。

それは、彼らが魂としての自覚を取り戻し、そのエネルギーでもって、自らを覆っている苛立ちの網を吹き飛ばすまで続くのです。丁度、悪夢に閉じ込められている人間が、ある時、あらゆる力を使って、自分を支配している恐怖と闘い始めるのと同じです。

魂が虚無と自己を同一化した時に感じる、この恐怖は、到底想像出来るものではありません。その強制された活動停止状態、自分の存在が無意味であるとの自覚、どうしていいか分からない不確実感、こうしたものが、まさに拷問となるのです。その時の、どうしようもない倦怠感こそが、最も恐るべき罰となるのです。

なぜなら、そうした状態では、周りに、物も、生き物も、とにかく何も見つけることが出来ないからなのです。まさしく真の闇だと言ってよいでしょう」

クレールからのメッセージ:「クレールです。闇についてのご質問に、私も答えることが出来ると思います。というのも、私は、長い間、その闇の中を彷徨い、苦しんできたからです。

そこには嘆きと悲惨しかありません。

聖書に描かれている闇は確かにあります。罪を犯し、無知なままで地上の生命を終えた不幸な人間、自分の本質も知らず、死後の生命についても何も知らない人間は、死んだ後、冷たい闇の領域に沈んでいくのです。彼らは、そうした状況が永遠に続くと信じ込んでいます。

この闇は、完全に空虚である場合もあるし、また、慰めも、愛情も、いかなる救いもなく、あてどなく彷徨い歩く、青白い亡霊達で一杯の場合もあります。とはいっても、一体誰に話しかければよいのでしょう? 彼らは永遠の空虚に押し潰されており、周りに一切関心を払うことなく、卑しい欲望を満たそうとして虚しく過ごした地上の時間を思い出しては、後悔し、戦慄しているだけなのです。

地上にいた時は、それでもまだよかった。なぜならば、一日の終わりには必ず夜が来て、一時的にではあれ、夢の中に休息することが出来たからです。しかし、霊界では眠ることすら出来ないのです!

闇とは、霊にとって、無知、空虚、恐怖――、ああ、もうこれ以上、続けられません――」

この闇については、また別の霊から次のような説明を受けた。

「霊体は、本来、魂がその活動を通じて獲得する能力によって、さらに輝きを増すことになる、いわば光の特性とも呼べる性質を備えているのです。魂が活動すればするほど、霊体は光を増しますが、それは、燐を摩擦すればするほど強く発光するのと同じです。霊が純粋になればなるほど、光を強く発するようになります。霊にほんの少しでも染みがあれば、光には、陰りが生じ、光が弱まります。

したがって、霊が進化すればする程、悟りが高くなればなる程、その光は強くなるのです。霊は、いわばカンテラのようなものなので、その光の強さによって、見える範囲が決まってきます。

だからこそ、光を発しない者は、闇の中で生きることになるのです」

この理論は、高級霊の光り輝く霊体に関しては、完全に正しいし、また、観察の結果とも一致する。
しかし、闇に関する説明としては、唯一絶対のものであるとは必ずしも言えないようだ。なぜなら、

1全ての未熟霊が闇の中にいるわけではない

2同じ霊であっても、交互に、闇の中に身を置いたり、光の中に身を置いたりすることがある。

3ある種の未熟な霊達にとっては、光が罰にもなり得るからである。

もし、こうした霊達が陥っている闇の状態が、普遍的なものであるとするならば、全ての悪霊達や未熟な霊達が、闇の中に置かれるはずである。しかし、実際にはそうではない。この上なく邪悪な霊であっても、周りが見える場合はいくらでもあるし、また、全く邪悪さを持っていない霊であっても、闇の中に置かれることがあるからである。

したがって、この闇の原因は他にあると考えざるを得ない。すなわち、「ある特定の罪を犯した者達に対して神が与える、特別の処罰である」と考えざるを得ないのである。

第4章 自殺した人の霊
(1)公衆浴場で自殺した身元不明の男性
一八五八年四月七日、夜7時頃、こざっぱりした服装の50代の男性が、パリの、ある公衆浴場にやってきた。サービス係の少年は、浴室に入ったその男性が、いつまでたっても自分を呼ばないので、不審に思って浴室をのぞいてみた。そして、そこで、見るも無惨な光景を目撃したのである。その男は、剃刀で喉を掻き切っており、浴室中に血が飛び散っていた。身元の確認ができなかったため、遺体は死体公示所に運ばれた。

死後6日たってから、パリ霊実在主義協会において、この男性の霊を招霊したところ、次のような問答がなされた。

――招霊します――
霊媒の指導霊からのメッセージ:「ちょっと待ってください。今そこまで来ていますから」

――今、あなたはどこにいますか?
「分かりません――。ああ、私が今どこにいるのか教えてください」

――あなたは、今、霊実在論を研究している人々、あなたを好意的に迎えようとしている人々のあいだにいます。

「私はまだ生きているのですか――。棺桶の中で窒息しそうです」

彼の魂は、肉体から離れたとはいえ、未だに混乱したままである。地上で生きていた時の感覚が強くて、自分が死んだとは思えないのである。

――ここに来るように、誰かに勧められたのですか?
「何か、ほっとしたことを覚えています」

――どうして自殺などしたのですか?

「では、私は死んでいるのですか――。いや、そんなことはない――。まだ、体の中にいますから――。私がどれ程苦しいか、あなた方には分からないでしょう。ああ、息が詰まる! 誰か、優しくとどめを刺してくれないだろうか?」

――どうして身元を確認できるようなものを何も残さなかったのですか?

「私は、皆に見放されたからです。苦しみから逃れようとしたのに、これでは、まるで拷問です」

――今でも身元を知られるのは嫌ですか?

「ええ。どうか、血が噴出している傷口に、赤く焼けた鉄を押し付けるようなまねはしないでください」

――お名前、年齢、職業、住所を教えて頂けませんか?
「嫌です! どれも教えたくない」

――家族はおありでしたか? 奥さんは? 子供は?
「私は、皆から見放されたのです。もう誰も愛してくれません」

――どうして、そんなことになったのですか?

「ああ、どれくらい多くの人が私のようになっていることだろう――。家族の誰からも愛されなくなってしまった――、もう誰にも愛されないんだ! 」

――いよいよ自殺をしようとした時、ためらいはなかったのですか?

「とにかく死にたかったのです――。疲れ果てていたので、休息が欲しかった」

――「将来のことを考えて思い留まる」という可能性はなかったのですか?

「私には、将来は、もはやありませんでした。希望をすっかり失っていたのです。希望がなければ、将来のことなど考えられません」

――生命が失われる瞬間は、どんな感じがしましたか?

「よく分かりません。私が感じたのは――。だいたい、私の生命はまだ失われていません――。私の魂は、まだ体に繋がっています。ああ、蛆虫が私の体を食っているのが感じられる! 」

――死が完了した時、どんな感じがしましたか?
「死は完了しているのですか?」

――命が消えていく時は、苦しかったですか?
「その後ほど苦しくはなかった。その時苦しんでいたのは体だけだったから」

――(近くの指導霊に対して)この霊は、「死の瞬間には、その後ほど苦しくはなかった」と言っていますが、これはどういうことですか?

「死の瞬間に、霊が、その生の重荷から解放されつつあったのです。そういう場合には、解放の喜びが死の苦しみに勝ることもあります」

――自殺した人の場合、常にそうなるのですか?

「必ずしもそうではありません。自殺した人の霊は、肉体が完全に死ぬまでは、肉体に結び付けられたままです。それに対して、自然死は生命からの解放です。自殺は生命を破壊することなのです」

――意思とは無関係に、事故で亡くなった場合でも、同じなのですか?

「いいえ――。あなたは自殺をどう考えているのですか? 霊は、自分のやったことに対して責任を取らされるのですよ」

死んで間もない人が、自分が死んでいるのかどうか分からない状態になるということは、実に頻繁に観察される。特に、自分の魂を肉体のレベル以上に向上させなかった人の場合には顕著である。

この現象は、一見、奇妙に思われるが、ごく自然に説明できる。

初めて夢遊病に陥った人に、眠っているかどうか尋ねた場合、必ず「眠っていない」と答える筈である。この答えは極めて論理的なのだ。非は、不適切な言葉を使って質問した側にある。

「眠る」という言葉は、一般的な使い方では、あらゆる感覚器官が休息することを意味している。ところが、夢遊病者は、考えられるし、見られるし、感じ取ることも出来るのである。したがって、自分が眠っているとは思わないし、実際、言葉の普通の意味においては眠っていないのである。だから、彼は「眠っていない」と答えるのである。

これは、死んだばかりの人間についても言える。彼にとって、死とは、すべての消滅を意味していた。ところが、夢遊病者と同じく、彼は、見ることも、感じることも、話すことも出来るのである。したがって、彼にとっては、それは死を意味していない。だから「死んでいない」と言う訳である。

それは、彼が、この新たな状態について、しっかり理解するまで続くだろう。

この状態は、いずれにしても、辛いものである。なぜなら、それは不完全な状態であるために、霊をある種の不安定な状態に投げ込むからである。

右の例では、蛆虫が体を食っている感覚があるだけに、苦痛はより激しいものとなっている。

さらに、その状態は、彼が命を縮めた年数分だけ続くことになるので、いっそう、辛いものとなるだろう。

こうした状態は、自殺者において一般的に見られるものであるにせよ、常にそうであるとは限らない。特に、苦しみの強度と期間は、自殺者の犯した過ちの大きさに左右される。

また、蛆虫の感覚や、身体が腐敗していく感覚も、自殺者特有のものであるとは言えない。それは、精神的に生きず、ひたすら物質的な享楽を求めて生きた人間が死んだ時に、よく見られるものである。

要するに、罰せられない過ちはないということなのである。しかし、罰の与え方に、画一的で普遍的な法則はない。

(2)微兵適齢の息子を持った父親
一八五九年にイタリア戦争が始まった時、パリに一人の仲買人がいた。多くの隣人達から尊敬されていたこの仲買人には、一人息子があったのだが、その息子に徴兵がかかった。彼は、何とかして息子に徴兵を免れさせたいと思ったが、どうしてもその方法が見つからなかったので、「自分が自殺して、息子を寡婦の一人息子という立場にすれば、徴兵を免れる」と思って、自殺を決行した。

一年後、生前の彼を知っており、彼が霊界でどのように生活しているのかを知りたくなった人の依頼で、この仲買人の霊を招霊することとなった。

――(指導霊に)いま話題にしていた、この仲買人の霊を招霊したいのですが、よろしいでしょうか?

「招霊して結構ですよ。彼は、むしろ、それを喜ぶでしょう。そのことで慰めを得ることができるからです」

――それでは、招霊します――

「ああ、ありがとう! 私はとても苦しんでいます。でも――は公正です。私は、きっと許されるでしょう」

この霊は、文字を書くのに非常な困難を覚えているようであった(この場合、[霊媒の手を使って霊が文字を書く]というかたちで対話が行われている)。文字は不規則で、形が随分崩れていた。「でも」と書いた後で、しばらくためらい、それから、また書き始めようとしたが、なかなか書けなかった。判別不可能な線と点を書いたのみであった。「神」という言葉をどうしても書くことが出来なかったのである。

――文字が欠落している部分を埋めて頂けませんか?
「駄目です。出来ません」

――あなたは「苦しんでいる」とおっしゃいました。おそらく、自殺したことは間違いだったのでしょう。しかし、自殺の動機そのものは悪くはなかったのですから、その点は斟酌されるのではないですか?

「たしかに罰の期間は短くなると思います。しかし、行為そのものがよくなかったことに変わりはありません」

――どのような罰を受けているのか、教えて頂けませんか?

「魂と肉体の両面で苦しんでいます。肉体がもうないにもかかわらず、苦しんでいるわけですが、これは、ちょうど、手術で手足を切断したにもかかわらず、なくなった手足が痛むように感じられるのと同じです」

――あなたは一人息子のことを思って自殺したわけですが、ほかにはまったく動機はなかったのですか?

「父親としての愛が動機となって、私は自殺しました。それが唯一の動機だったのは事実です。ただし、いかなる理由があるにせよ、自殺することは間違いです。もっとも、この動機が斟酌されて、罰の期間は短くなるでしょうが」

――苦しみがいつ終るのか、予測がつきますか?

「予測はつきません。しかし、それが終ることは分かります。そのために、気持が楽になるのは事実です」

――少し前、あなたは「神」という言葉を書くことが出来ませんでした。しかし、あなたより苦しんでいる霊で「神」と書くことの出来る霊もいます。あなたが書けないのは、罰の一種なのですか?

「悔い改めの努力を一生懸命すれば、書けるようになると思います」

――そうですか。では、大いに悔い改めて、書けるようになってください。「神」と書けるようになれば、随分楽になると思いますよ。

霊は、試行錯誤の結果、その線は震えており、崩れてはいるが、ついに、大きな文字で、「神は善なるかな」と書くことが出来た。

――招霊に応じて下さって、有難うございました。あなたに神の慈悲がありますように、お祈りさせて頂きます。

「はい、どうかお願いします」

――(指導霊に対して)この霊のなしたことについて、どのように評価しておられるのかお聞かせ願えますか?

「この霊の苦しみは、正当なものです。というのも、彼には神への信頼が欠けていたからです。神に対する信頼の欠如は、常に処罰の対象となります。もしも、『息子を死の危険に晒したくない』という立派な理由がなかったとしたら、罰はもっと長くて恐るべきものとなっていたでしょう。

神は、真の動機をご覧になります。そして、その人の行ったことに応じて、正当に評価し、どう扱うかをお決めになるのです」

一見しただけでは、この自殺は正当なものであるように思われるかもしれない。自己犠牲の行為と考えられるからである。確かに自己犠牲の行為ではあった。しかし、完全なる自己犠牲ではなかった。というのも、指導霊の霊示にもあるように、この男には、神に対する信頼が欠けていたからである。

自らの行為によって、彼は、息子の運命を妨げた。まず、息子がこの戦争で必ず死ぬとは決まっておらず、また、この戦争を通じて得たキャリアによって、息子は次の進化の段階に進むかもしれなかったのである。

その意図は、確かによきものであった。したがって、それは斟酌された。だから、死後の苦しみは軽減された。しかし、だからといって、それが悪であることに変わりはないのである。

もしそうでなければ、あらゆる悪事が許されることにもなりかねない。我々は、ある人を殺しておいて、「その人のために殺してやったのだ」と思うことも出来るからである。ある母親が、子供を、まっすぐ天国に送るために殺したとして、「動機がよいから、それは間違っていなかった」とは言えないのだ。もしそんなことが通用するとすれば、宗教戦争での蛮行すら、すべて許されることになってしまうだろう。

原則として、人間は自分の命を勝手に縮めることは出来ないのである。なぜなら、その命は、彼が地上で義務を果たす為に与えられたものだからである。いかなる理由によっても、命を勝手に縮めることは出来ない。

人間には自由意志が与えられており、誰にも、その行使を止めることは出来ない。しかし、一旦、それを行使した以上、その責任は自らがとらなければならないのである。

自殺のうちでも最も厳しく罰せられるのは、絶望からの自殺、すなわち、「悲惨な状況から逃げ出したい」と思ってなされた自殺である。その悲惨な状況は、当人にとっての試練でもあり、また、償いでもあるので、そこから逃げるということは、「自ら引き受けた使命を前にして逃げ出す」ということであり、「果たすべき使命を投げ出す」ということでもあるからである。

ただし、「同胞を救うために、危機的な差し迫った状況で、自らの命を捧げる」という行為と自殺を同一視すべきではない。第一に、そうした行為は、人生から逃げ出すために、あらかじめ意図されたものではない。第二に、地上を去る時期が、もし来ていないのなら、神は必ずその人を危機から救い出してくださるからである。

したがって、そうした状況における死は、正当な犠牲的行為と見なされるのである。「他者のために、自らの命を縮めた、純粋な愛他的行為」として評価されるのだ。

(3)ルーヴェ・フランソワ=シモン――身投げをした男性
以下のメッセージは、一八六三年二月十二日にル・アーブルで行われた霊実在主義者の集いにおいて、自発的に降ろされた霊示である。

「ああ、これほど長いあいだ、これほどひどく苦しんでいる悲惨な者に、どうか哀れみを! ああ、空虚――。空虚の中を落ちていく、限りなく落ちていく、ああ、助けてくれ~!

神様、私はとても悲惨な人生を送りました。哀(あわ)れな人間でした。特に、老おいてからは、いつも飢えに苦しみました。だから酒に溺(おぼ)れ、すべてを恥し、すべてに嫌悪を感じていたのです――。もうこれ以上、生きていたくなくなり、身を投げました。

ああ、神様、何という恐ろしい瞬間! いずれにしても、もうすぐ死ぬはずだったのに、どうして自分から死を選んだのだろうか!?

どうか祈ってください。もうこれ以上、空虚がのしかかることに耐えられません。このままでは体が砕けてしまいます。どうかお願いします。

あなたがたは、自殺によって地上を去った人間が、どれほどの悲惨を経験するか、よくご存じです。見ず知らずのあなたがたに、こうしてお願いするのは、この苦しみに、これ以上耐えられないからなのです。

私が誰かという証明は必要ないでしょう。これだけ苦しんでいる、それで充分ではないですか!

もし、私が腹をすかせていたとしたら、あなたがたは、きっと私にパンをくださったことでしょう。ですから、パンをくださる代わりにどうか祈ってください。

もうそろそろ帰らなければなりません。近くにいる幸福な霊たちに聞いてみてください。そうすれば、私が誰だか分るでしょう」

霊媒の指導霊からのメッセージ:「わが子よ、いま、あなたにメッセージを送ってきたのは、地上で悲惨な生活を送ったのち、すべてが嫌になって、みずから命を絶った者の霊です。

この者には勇気が欠けていたのです。そうしようと思えば高みを目指すこともできたはずなのに、この男はアルコールに溺れていきました。彼は、絶望のどん底まで落ち込み、一八五七年七月二十二日、フランソワ一世塔から見を投げ、みずからの哀れな人生に終止符を打ったのです。

あまり進化してなかった、この哀れな男の魂に、同情してあげなさい。神に祈り、この魂に恩寵(おんちょう)を与えてくださるようにお願いしてください。それは、あなたがたにとって、よき仕事となるでしょう」

その後、調査をした結果、一八五七年七月二十三日の新聞『ル・アーブル』に、次のような記事が掲載されているのを見つけた。

《昨日、4時ごろ、桟橋を散歩していた人々は、悲惨な事故を目撃して心を痛めた。ある男性が、塔から見を投げて、岩の上に落ち、血まみれになっているのを発見したのである。年老いた曳(ひ)き船(ふね)人夫で、アルコール中毒の果てに自殺したものと見られている。名前は、ルーヴェ・フランソワ=シモンという。遺体は、コルドリ街の娘の住まいに運ばれた。享年67歳》

この男が死んでから、やがて6年がたとうとしているのに、この男は相変わらず、「塔から落ち、体が岩に激突する」という体験を繰り返している。目の前に広がる空虚を見ては、繰り返し恐れおののいているのである。体が落下する恐怖に、絶えずさらされているのだ。それも6年ものあいだである。

それは、あとどれくらい続くのであろうか? 彼には、それはまったく分からず、そして、そのことが、さらに苦悩を深くしている。これは、地獄の業火の苦しみに匹敵すると言えるかもしれない。

誰が、こうした処罰の様子を伝えてきたのか? それは誰かがでっち上げたものなのか? いや、そうではない。現実に、それらを体験し、耐え忍んでいる者たち自身が伝えてきたものなのである。それは、しばしば、われわれが思ってもみないときに、思ってもみない存在から自発的に伝えられてきた。そのことが、われわれ自分自身の想像力に弄(もてあそ)ばれているのではないことを証明している。

(4)息子の後追い自殺をした母親
一八六五年三月のこと、パリ近郊の小さな街に、ある仲買人が住んでいた。家には、21歳になる重病の息子がいた。この息子は、いよいよ最後が来たことを悟り、母親を呼んで、かろうじて最後のキスをした。

母親は、涙にくれながら、次のように言った。

「さあ、逝きなさい、わが息子よ。お母さんより先に逝くのです。でも、私もすぐに後を追いますからね」

そして、手で顔を覆うと、部屋から駆け出した。

そこに居合わせた人々は、この胸ふさがれるシーンを目撃し、母親の言葉を、こういう時によく見られる苦悩の表現とのみ受け止めた。時間が経てば、こうした苦悩も和らぐものである。

ところが、ついに息子が亡くなった時、母親の姿が見当たらないので、家中を捜したところ、屋根裏部屋で、この母親が首を吊って自殺しているのが見つかった。こうして、二人の葬式が同時に行われることになったわけである。

死後、数日してから、この息子の霊を招霊して、色々と聞いてみた。

――あなたが亡くなったことを悲しんで、お母さんが自殺されたのですが、そのことはご存知ですか?

「はい、知っています。母が、あのようにして、ひどい最後を遂げなければ、私は完全に幸福になっていたのですが。

ああ、可哀想なお母さん! あんなに優れた人だったのに。お母さんは、ほんの一時の別れに耐えられず、愛する息子と一緒にいられるようにと、ああした道を選んだのですが、そのことが、かえって息子から遠く離れてしまう結果を招いたのです。

もし、お母さんが、素直に神様の意志に従い、与えられた試練と償いを前にして、慎ましく、罪を悔いて、運命を甘受していたとすれば、魂の浄化が進み、息子とも、すぐに会うことが出来たのですが、あのようにしたことで、この再会が無限に遅れてしまったのです。

ああ、お母さんのために祈ってください――。

そして、この話を聞いて心を打たれた、世のお母さん方に、決して、このようなまねをしないように、どうか言ってあげてください。

私を喜びとし、誇りとしていた母が、どうか、他のお母さん方よりも息子を愛していたとは思わないで下さい。そうではないのです。母は、他のお母さん方以上に、私、つまり息子を愛していたということではなくて、勇気と諦念を欠いていたということにすぎないのです。

どうか、この話を聞いているお母さん方、よくよく知っておいて下さい。あなた方のお子さんが最後の苦しみを経て亡くなったとしても、決して彼等がいなくなってしまったというわけではなく、キリストと同じように、それはゴルゴダの丘の頂上に上ったということであり、そこから、永遠の栄光に向けて、さらに昇っていくことになっているのです」

母親の霊の招霊

――招霊します――

「ああ、息子の姿が見たい! どうか、息子を返してください! ああ、なんて酷い人達なんでしょう。あの人達は、私から息子を奪い去って光の中に連れて行き、私のことは、こうして闇の中に置き去りにする――。ああ、息子を返してください、息子を返して! あの子は私のものなのです!

だって、母性愛とは、そういうものでしょう? 9ヶ月もの間、おなかに宿し、自分の肉から出来た肉を乳で育み、自分の血を与えて大きくしたのです。よちよち歩きを見守り、『ママ』という優しい言葉の響きを教え、『神様』という単語がようやく発音できるようにしてあげたのです。そして、活動的で、知性にあふれ、誠実で、正しく、親への愛に満ちた若者に育てたのです。

ところが、ああ! すべての期待を実現し、いよいよ、これから輝かしい未来に向って船出しようという瞬間に、その息子を失う! こんなむごいことがあるでしょうか?

神様は公平ではありません! そんな神様は、私達母親の神様ではありません! だって、息子を失った母親の絶望と苦しみをちっとも理解してくださらないのですから。

いつまでも一緒にいようと思って、自ら命を絶ったというのに、またその息子を私から奪い取るなんて!

ああ、息子よ、どこにいるの? 私の息子! ここにいらっしゃい! あなたに会いたい! 」

――かわいそうに。苦しみにご同情申し上げます。でも、息子さんに会おうと思ってあなたがとった手段は、間違っていたのですよ。自殺は神の目から見たら、どんな場合でも罪なのです。神の法を犯した者は、必ず、全員、罰を受けるということを、知っておくべきでした。あなたの息子さんに会えないということが、あなたにとっての罰なのです。

「いいえ! 神様は人間とは違うはずです。私が地獄に堕ちるなんておかしいわ! 愛し合った者達は、永遠に一緒にいられるはずですもの。

ああ、私は間違っていたのかしら――? いいえ、こんなことをなさるなんて、神様は公平でも善でもない。だって、私の、この苦しみと、息子に対する、この愛の深さを理解なさらないのだもの。

ああ、息子を返して! 永遠に息子を失うなんて、絶対に嫌! 哀れみを、神様、哀れみをください! 」

――どうか、心を鎮めてください。いいですか、もし、息子さんに再び会うための方法があるとしても、それは決して、今あなたがしているように、神様を冒涜することによってではないはずですよ。そんなことをしたら、神様は、ますますあなたに対して厳しくなさるに違いありません。

「息子を連れて行った人達は、もう私が息子に会うことは出来ないと言いました。多分、息子は天国に連れて行かれたのだと思います。

でも、私は、一体どうして地獄にいるの? ここは、母親達の地獄なのかしら? 確かにそうだわ。それが、とてもよく分かる」

――あなたの息子さんは永久にいなくなったのではありません。きっとまた会えますよ。でも、そのためには、神様のご意思に素直に従う必要があるのです。今のように反抗していたのでは、いつまでも息子さんに会えるようにはなりません。

いいですか、よく聞いてください。神様は、無限によい方ですが、また、無限に公正な方なのです。神様は、ゆえなくして人間を罰するようなことはありません。

あなたが地上において大きな苦しみを与えられたのには、それなりの理由があったのです。息子さんの死によって、あなたは諦念というものを学ぶ必要があったのです。地上において、あなたはその試練に負けましたが、こうして、死後もまた、その試練に負けました。神様が、反抗的な子供をかわいいと思うでしょうか?

神様は、決して、情け容赦のない方ではないのです。神様は、罪を犯した者が悔い改めさえすれば、必ず、それを受け入れて下さるのです。

もし、あなたが、神様がお与えになった、息子さんとの一時的な別れという試練を、黙って、謹んで受け、神様が地上からあなたを引き上げてくださるのを辛抱強く待っていたとすれば、あなたは、今あなたがいる霊界という世界に還った時、両手を広げてあなたを迎えに来る息子さんと、直ちに会えたはずなのです。しばらくの不在の期間の後、あなたは、光り輝く息子さんと、喜びと共に再会できたはずなのです。

あなたがしたこと、そして、未だにし続けていることは、あなたと息子さんとの間に壁をつくるだけなのですよ。

息子さんは、無限の空間の彼方にいなくなってしまったのではありません。そうではなくて、息子さんは、あなたが想像するのよりも、ずっと近くにいるのです。厚い壁があるために、あなたの目には息子さんが見えないだけなのです。

息子さんは、あなたを見、今も変わらずに、あなたのことを愛しています。そして、あなたが神様を信頼しないために、今のような状況に陥っていることを、たいへん悲しく思っているのです。

息子さんは、あなたの前に姿を現すことが許される瞬間を心待ちにしています。その瞬間を早めるのも、遅くするのも、すべて、あなたの心の持ち方一つにかかっているのですよ。

さあ、私と一緒に神様に祈りましょう。

「神様、あなたの公正さと善意を疑った私を、どうぞお許しください。あなたが私を罰したのは、私がそれに相当したからです。どうか、私の悔い改めをお認めください。私は、神様のご意思に素直に従います」

「ああ、希望の光が射してきました! なんて素晴らしい光でしょう。まるで闇夜に射す一条の光のようです。ありがとうございました。これからは、ちゃんと神様にお祈りします。それでは、さようなら」

この霊は、自殺のあと、「まだ自分が生きている」という幻想にとらわれることはなかった。自分がどこにいるかが、しっかりと分かっていた。

それに対して、別のケースにおいては、「霊になった自分が、まだ肉体に繋ぎ止められている」という幻想それ自体が罰となる場合がある。

この女性は、霊界に行った息子を追いかける為に自殺を図った。だが、彼女は息子に再会することは出来ず、自分がその世界で罰を受けているということを自覚する必要があった。彼女にとって、「もう自分が肉体的な存在ではない」という事実、そして「自分は地獄にいる」という事実を知ることが罰となったのである。

このように、それぞれの過ちは、必ず、そのあとに続く状況によって罰せられるのだが、その罰のあり方は、罪に応じた個別的なものとなる。画一的、普遍的な基準がある訳ではないのである。

(5)義務に背かない為に情死した二人
一八六二年六月十三日の新聞に、次のような記事が掲載された。

「パルミール嬢は、夫人帽を扱う店を開き、両親と一緒に住んでいた。魅力的な容姿に恵まれていたが、それのみならず、愛すべき性格も備えていた。そのために、引く手数多であった。

言い寄る男達の中でも、彼女は、特に、彼女に対して激しい情熱を示していたB氏を憎からず思っていた。しかし、両親の意向に従ってD氏と結婚しなければならないと考えていた。D氏の社会的地位から見て、より彼女に相応しいと両親が考えていたからである。

B氏とD氏とは、皮肉なことに、仲のよい友人同士であった。特に、これという理由があった訳ではないが、二人は頻繁に会っていた。

D夫人となったパルミールと、B氏の間の愛は、いささかも弱まることがなく、二人がそれを抑えようとすればするほと激しくなるのであった。その愛を断ち切るために、B氏は自らも結婚しようと決心した。彼は、多くの美質に恵まれた若い娘と結婚し、何とか彼女を愛そうと試みた。しかし、間もなく、この英雄的な行為が何の意味もなかったということを彼は悟る。

とはいえ、4年の間、B氏もD夫人も、それぞれの義務に背くことはなかった。彼らの苦しみは、表現されてはならない類のものだったのである。

D氏はB氏を心底愛していたので、常に自宅に呼び、帰ろうとしても熱心に引き止めるのが常であった。

ある日、偶然の導きで二人きりになったB氏とパルミールは、互いの心のありかを確かめあった。そして、その結果、『二人が感じている苦しみに対する最良の薬は死である』という共通の見解に達した。かくて、二人は情死を決意し、翌日、D氏が家を留守にしている間に計画を実行することにした。

死出への旅支度を終えた二人は、感動的な、長い手紙をしたため、その中で、『それぞれ配偶者としての義務に反することのないように、二人で死を選ぶ』ということを、るる、説明した。手紙の最後で許しを乞い、『二人の遺体を同じ墓に埋葬してくれるように』との願いを付け足した。

帰宅したD氏は、二人の遺体を発見した。そして、二人の最後の願いを尊重して、遺体が別々にならぬように、同じ墓に埋葬した」

このケースを、パリの霊実在主義協会で研究テーマとして扱った際に、ある霊から次のような霊示を受けた。

「自殺を図った二人は、まだ、あなた方の質問に答えることが出来ません。私には彼らの苦しむ姿が見えますが、二人は互いに引き離されていて、まだ混乱しており、『永遠に苦しむのではないか』と恐れおののいています。

今後、何度も霊界と地上を行き来しますが、その間中、片割れとなった二人の魂は、絶えず互いを捜し求め、予感と欲望の間で激しく引き裂かれて苦しむこととなるでしょう。

でも、やがて償いが完成し、二人は永遠の愛で結ばれるようになります。

8日後に開催される次の集いでは、おそらく二人を招霊することが出来るでしょう。二人共、ここにやって来ますが、二人がお互いを見ることは出来ません。深い夜の闇が二人の間を隔てているからです。それは今後も長きにわたるでしょう」

パルミールの招霊。

――あなたが一緒に自殺した、愛する人は、見えますか?

「何も見えません。私のまわりを徘徊している霊達の姿さえ見えないのです。何という夜。何という深い闇。何という厚いヴェールが私の顔にかかっていることでしょう」

――死んだ後、目が覚めた時に、どのような感じがしましたか?

「とても奇妙な感じでした。寒いのに、一方で焼けるように熱いのです。血管の中を氷のような血が流れ、しかも、額には火が燃えているように感じられるのです。なんて奇妙なことでしょう。こんなことは一度も経験したことがありません。氷と火が同時に襲い掛かるのです。また死ぬのではないかと思いました」

――肉体的な苦しみは感じられますか?
「苦しみが、そこにもここにも感じられます」

――「そこにもここにも」とは、どういう意味ですか?
「『そこ』とは私の頭、『ここ』とは私の心です」

もし、我々が、この霊を見ることが出来たとすれば、この時、霊が手を額と胸に置くのが見えたことであろう。

――ずっと、そうした状況に置かれると思いますか?
「『ずっと』ですって? ずっと、この状況に?

そういえば、時々、地獄的な笑い声が聞こえ、恐ろしい声が聞こえますが、その声は、こう言っています。『そうだ、ずっとそのまま! 』と」

――いいえ、そんなことはありませんよ。誓って申し上げますが、いつまでも、そうした状況が続くわけではありません。悔い改めによって、必ず許されます。

「何ておっしゃったのですか? よく聞こえません」

――繰り返します。あなたの苦しみには必ず終わりが来ます。そして、悔い改めによって、その時期を早めることが出来るのです。また、私達も、お祈りによって協力いたしましょう。

「一つの単語しか聞こえません。あとの単語はぼやけています。その単語は『恩寵』という単語です。あなたは『恩寵』についてお話しているのですか? あなたが恩寵について語ったとすれば、それは、多分、泣きながら私のそばを通っていく、かわいそうな子供の魂のためでしょう」

この時、丁度、協会のメンバーの一人のある女性が、彼女のために神に祈ったところであった。この祈りがパルミールの霊の耳に届いたのであろう。なぜなら、この女性は、「彼女のために神の恩寵がありますように」と祈ったからである。

――あなたは、「今、闇の中にいる」とおっしゃいました。では、我々の姿は見えないのですか?

「あなたの言葉のうち、あるものを聞くことは出来ますが、目に見えるのは、黒い布のようなものだけで、時々、そこに、泣いている顔が現れます」

――あなたの恋人が見えないとしても、その気配は感じられるのではないですか? 彼は、ここに来ているのですから。

「ああ、あの人のことは話さないでください! 暫くの間、あの人のことは忘れていなければならないのです。この黒い布から、泣いている顔が消えてくれればよいのに! 」

――それは誰の顔なのですか?

「苦しんでいる男性の顔です。私は、地上で、その人のことを、長い間、心から消し去っていたのです」

新聞の記事を読んだかぎりでは、我々は、「この情死には情状酌量の余地があり、また、義務を守ろうとしてなされた自殺であるので、むしろ立派な行為でさえある」と考えたくなる。しかし、現実には、それとはまったく違った判定が下されている。二人は、心の闘いから逃れようとして、死に逃げ込んだのであるから、死後の苦しみは、長く、また厳しいものとなったのである。

夫婦の義務に違反しまいとしたことは、確かに評価できるだろう。いずれ、そのことは斟酌されるはずである。しかし、彼等が、危険を前にして逃げ出した脱走兵と同じ立場にあることは事実である。彼等は、逃げ出さずに訓練を最後までやり遂げる必要があったのだ。

既に見たように、この二人にとっての罰は、「お互いに思い合っていながら、会うことが出来ない」という状況に置かれることである。それは、霊界においてもそうであるし、次回に地上に転生した時もそうなるであろう。

今のところ、彼女は、「この状態が永遠に続くのではないか」と思って恐れおののいている。これも彼女にとっての罰の一部をなしているので、我々が発する希望の言葉を彼女は聞くことが出来ない。

その苦しみが、たいへん恐ろしく、また、たいへん長く続くと思っている者達に――特に、それが何度もの転生を経た後でなければ解消しないということであれば、なおさらであるが、「その期間は絶対に変わらないわけではない」ということを教えてあげたいものだ。試練にどのように対処するかによって、その期間は変わってくるからである。また、我々が祈りによって支援することも可能である。

彼等も、あらゆる霊と同様、自らの運命を決定出来るのである。

それは、確かに厳しい道のりではある。だが、カトリックの教義が教えるところよりも、はるかにましであろう。カトリックの伝統的な教義によれば、一度、地獄に堕ちた者は、永遠に罰を受け続け、一切の希望が許されない。しかも、最後の祈りさえ聞き届けられないのである。

第5章 後悔する犯罪者の霊
(1)ヴェルジュ――パリの大司教を殺した神父
一八五七年一月三日、パリの大司教シブールが、サンテチエンヌ・デュ・モン教会から出てきたときに、ヴェルジェという名の神父に襲われて命を落とした。ヴェルジェは、死刑の判決を受け、1月の30日に死刑が執行された。最後の瞬間まで、彼は、悔悟(かいご)も反省もせず、いっさいの感情を表さなかった。

死刑が執行された日に招霊され、次のようなメッセージを送ってきた。

――招霊します――
「まだ体の中にとどまっているみたいです」

――あなたの魂は、まだ体から完全に離脱していないのですか?

「はい――、不安です――、よく分からない――。自分を取り戻すまで待ってください――。私はまだ死んでいないのでしょう?」

――自分のやったことを後悔していますか?

「殺したのは間違いだった。しかし、あいつの侮辱(ぶじょく)に、どうしても我慢ができなかったんだ――。今日はこれで帰る」

――どうして帰ってしまうのですか?
「あいつに会うのが怖いんだ。復讐されては、かなわんからな」

――でも、もうあなたは死んでいるのですよ。殺されるのを心配することはないのです。

「何が言いたいんだ! あんたが言っていることが正しいという根拠でもあるのか? ああ、私はどこにいるんだろう? 気でも狂ったのだろうか?」

――落ち着いてください。

「『落ち着け』と言ったって無理だ! 気が狂ってしまったんだから。待ってくれ――。もう少しすれば、いろいろ分かるはずだから」

――祈ってごらんなさい。そうすれば、考えがはっきりしてきますよ。
「ああ、恐ろしい。とても祈れやしない」

――祈りなさい。神の慈悲は偉大なのですから。私たちも一緒に祈りましょう。

「ああ、確かに神の慈悲は無限です。いつも、そう思ってきたんだ――」

――状況が、だいぶ、のみ込めてきたようですね。

「待って――。まわりの様子が、あまりにもすさまじくて、何が何だか、よく分からない」

――あなたの殺した人が見えますか?

「彼の声が聞えるような気がする。こんなふうに言っている『恨んではいませんよ』と。ああ、そんなことがあるはずはない――。

気が狂ってしまったんだ! だって、自分の体が向こうに見えるのだから。そばには頭が転がっている――。なのに、自分が生きているみたいに感じるんだ――。どうして、こんなことが――。地面と空のあいだにいるみたいな感じがする――。首の上に落ちてくる刃物の冷たささえ感じられる――。

ああ、死ぬのが怖い! まわりに霊がうようよいるみたいだ――。同情の目で、私を見ている――。何か話しかけてくるが、何を言っているのか、よく分からない――」

――それらの霊たちの中に、あなたの犯罪にかかわりのある霊はいますか?

「私が恐れる唯一の霊、つまり、私が殺した人の霊がいるような――」

――自分の過去世は思い出せますか?

「だめだ。頭がぼんやりしている――。まるで夢の中にいるみたいだ。何とかして、自分を取り戻さなくては」

それから3日後に。

――だいぶ様子がはっきりしてきたでしょう。

「もう地上にいないということが分かりました。そのことは納得しました。
ですが、自分が犯した罪は後悔しています。

しかし、私は、霊として、より自由になってきました。『何度も生まれ変わることで、少しずつ大事な知識を得、そして、完全になっていくのだ』ということが分かりました」

――あなたの犯した犯罪のせいで罰を受けているのですか?
「はい。自分の犯した罪を後悔し、そのことで苦しんでいます」

――どんな罰を受けているのですか?

「自分の過ちに気づき、神に許しを乞うています。それが罰です。『神を充分に信じていなかった』ということで苦しんでいます。それもまた罰なのです。また、『同胞の命を縮めるべきではなかった』ということが分かり、それで苦しんでいます。間違いを犯すことによって自分自身の向上を遅らせたために、たいへん後悔しており、それもまた罰のうちなのです。

『殺すことによっては決して目的は達せられない』と、良心が教えてくれていたにもかかわらず、慢心と嫉妬(しっと)に支配されて、あのような行為に及んでしまったわけなのです。私は間違っていたのです。そのことを悔やんでいます。人間は、常に、欲望を統御すべく努力する必要があるのに、私には、それができませんでした」

――われわれが、あなたを招霊したときに、どんな感じがしましたか?
「うれしいと同時に怖くもありました」

――なぜ、うれしく、そして怖かったのでしょうか?

「人間たちと対話ができ、私の過ちを告白することで、自分の過ちの一部にせよ、償うことができるから、うれしかったのです。
一方で、『殺人を犯した』という事実に向き合わなければならないので、怖いという気持ちが湧いたのでしょう」

――また地上に生まれたいと思いますか?

「ええ、すでにお願いしてあります。今度は、自分が殺される側に身を置き、恐怖を味わう必要を感じるからです」

シブールも招霊され、「自分を殺した男を許している」ということ、「彼が善に戻れるように祈っている」ということを告げてくれた。さらに、「彼の苦しみを、より大きなものにしないために、彼の前には姿を現さないようにしている」と言っていた。「自分に会うのを恐れているということ自体が、すでに罰になっているから」ということであった。

――(シブールの霊に対して)殺人を犯した、あの男は、今回、地上に転生することを決意したときに、殺人者になることも選んでいたのでしょうか?

「いいえ。闘争的な人生を選択した時点で、『人を殺すことになるかもしれない』ということは分かっていましたが、しかし、それを実行に移すことになるかどうかは分かっていませんでした。自分の中でも葛藤があったのです」

ヴェルジェの死の瞬間の状況は、激しい死に方をした人に、ほぼ共通するものである。魂と肉体の分離が急には行われないため、茫然自失の状態にあり、自分が死んでいるのか生きているのかさえ分からないのである。

大司教の姿はヴェルジェには見えないように取り計らわれた。すでに、充分、後悔していたからである。だが、ほとんどの場合、殺人者は犠牲者の視線に付きまとわれることになる。

重大な犯罪であったにもかかわらず、ヴェルジェは、生前、何の後悔もしていなかった。したがって、永遠とも思われる刑罰を受けても不思議ではなかったのである。

しかし、彼の場合、地上を去った瞬間に後悔が始まった。過去を深く反省し、それを償いたいと真剣に願ったのである。

苦しみのあまり、そうしたのではない。なぜなら、まだ苦しむ前に、そう思ったからである。地上にいるあいだには聞かなかった良心の声を聞いたということなのである。どうして、それが考慮されないことがあろうか?

地上にいるあいだに悔い改めれば地獄に行かないのが事実だとしたら、死後に霊界で悔い改めた場合も地獄に行かなくて住むのは、当然ではないだろうか? 死ぬ前の人間に対して慈悲深い神が、どうして、死んだあとの人間に対して慈悲深くないことがあるだろうか?

最後まで悔い改めようとしなかった犯罪者が、死後、ただちに、驚くべき心境の大変化を遂げることがある。あの世に還っただけで、自分の行為がいかに間違っていたかを一瞬で悟れる者たちがいるのだ。

ただし、これは一般的に見られることではない。もし一般的に見られるのだとしたら、悪霊の存在など、ありえないからである。多くの場合、悔悟はなかなかやってこない。そして、その分、苦しみも長引くわけである。

「傲慢であるがゆえに、自分の非を認めて謝るということができず、一生、悪の中にとどまりつづける」ということは、よくあることである。

また、「肉体がヴェールのように覆いかぶさっているため、なかなか霊的な見方ができない」というのが地上の人間の限界である。このヴェールが剥ぎれ落ちれば、一瞬で光に照らされ、まるで憑(つ)きものが落ちたように正気に戻るということがあり得るのである。正しい感じ方ができるようになれば、それに応じた境涯が開かれる。

それに対して、死んだあとも強情を張りつづければ、悪霊の仲間入りをするほかない。まっとうな道に戻るには、まだまだ試練を受ける必要があるということなのである。

(2)ブノワ――僧たちを迫害した聖職者
一八六二年三月、ボルドーにて。

ある霊が、ブノワという名前を名乗って、自発的に、書記によって通信する霊媒のところにやってきた(以下、質問も霊媒がしている)。この霊は、「一七〇四年に死に、それ以来、恐るべき苦しみに襲われている」ということだった。

――生前は何をしていたのですか?
「信仰を持たない僧侶でした」

――信仰の欠如が、あなたの唯一の過ちだったのですか?
「他の人々にも、その影響が及んだのです」

――あなたの人生について、もう少し詳しく話して頂けませんか? 誠実にお話頂ければ、きっと、それは評価されると思います。

「財産もなく、怠け者であった私は、使命感からではなく、単に地位を得る為だけに、聖職に就くことにしたのです。そこそこに頭がよかったので、ある地位に就いたのですが、やがて影響力を持つようになって、権力を濫用し始めました。

こうして、悪にまみれた私は、本来なら救わねばならない人々を堕落させました。そして、私を非難しようとした人々を、次々に冷酷なやり方で迫害しました。破戒僧を、終生、閉じ込める牢獄は、私に断罪された僧達で一杯になったのです。犠牲者達は、食べるものも与えられず、泣き叫ぶ者は、さらに暴行を加えられたのです。

死んで以来、私は、地獄のあらゆる拷問を受けて、罪を償ってきました。私が苦しめた者達は、地獄の火を掻き立てます。淫欲と飢餓が、絶えず私を襲い、それらは決して満たされません。私の唇は渇きに燃え、そこには一滴の水すら落ちてきません。あらゆる災厄が私を追いかけてくるのです。

どうか、私の為に祈ってください」

――死者の為の祈りはあなたにとっても効果があるのですか?

「それは、大変有益です。本来なら私が行うべきであった祈りに匹敵する位の価値を、私に対して持っているのです。私は、自分の使命を果たさなかったので、報酬を貰うことが出来ずにいるのです」

――あなたは、悔い改めはなさったのですか?

「もう随分昔のことです。しかし、それは、長く苦しんだ末のことでした。無実の犠牲者達の叫び声に耳を貸さなかったので、主も、なかなか私の叫びに耳を貸してくださいませんでした。それが正義というものです」

――あなたは、主の正義がどのようなものであるのかに気づかれたのですね。主の優しさを信頼し、助けて下さるように頼むとよいでしょう。

「悪魔達が、私よりも大きな声で叫んでいます。それに、私の叫び声は、喉のところで止まってしまうのです。彼らが、私の口一杯に、熱く焼けた豆を詰め込むからです。それは、まさに私が生前やったことなのです。ああ、か、か、か――」

(この霊は、[神]という言葉を書くことが出来ずにいる)

――あなたが受けている拷問は、実は、すべて精神的なものに過ぎないということが、分かっていないのではないですか?

「拷問を現に感じ、それに耐えているのですよ。拷問をする者達も、実際に見えるのですよ。彼らは皆、私がかつて見たことのある姿をしています。彼らの名が、私の頭の中に響き渡るのです」

――なぜ、そういうむごい仕打ちを受けるのですか?

「私に染み込んでいた悪徳の故です。私が持っていた禍々しい欲望の故です」

――そうした状況から救ってくれるように、善霊達に支援を頼んだことはあるのですか?
「私には地獄の悪魔達しか見えません」

――死後、こうなるとは思わなかったのですか?

「全く思いませんでした。『死ねば何もかも終わりだ』と思っていたからです。だから、『生きている間に、どんなことをしてでも、あらゆる快楽を味わい尽くすのだ』と思っていたのです。

私は気づいていませんでしたが、地獄を治める者達が、私に憑依していたのです。私は彼らに私の人生を捧げたのです。彼らは私に永遠に付きまとうでしょう」

――あなたの苦しみには終わりがないということですか?
「永遠には終わりがありません」

――神の慈悲には限りがありません。どんな罪でも、望みさえすれば、最後には許されますよ。

「『望むことが出来れば』の話でしょう」

――どうして、ここに来られたのですか?
「どうしてだか分かりません。でも、話がしたかったのです」

――悪魔達は邪魔しませんでしたか?

「しませんでした。でも、彼らは私の前にいて、私の言うことを聞きつつ、ニヤニヤしながら待っています。だから、これを終えたくないのです」

――こんなふうに書記による通信をするのは初めてですか?
「そうです」

――こんなふうにして霊が人間にコンタクトをとることが出来るのを知っていましたか?
「いいえ、知りませんでした」

――では、どうして、それが分かったのですか?
「分かりません」

――こうして私の側に来ることで、何か変化がありましたか?
「恐怖が和らいでいるような気がします」

――ここにいるということが、どのようにして分かったのですか?
「眠りから覚めたような感じがしたのです」

――私とコンタクトを取るのに、どうしていますか?
「よく分かりません。あなたは何か感じませんか?」

――私がどうこうではなく、あなたのことを聞いているわけです。私がこうして書いている時、あなた自身はどうしているのかを教えてください。

「あなたには、私の考えが完全に分かるのでしょう?それだけのことです」

――それでは、私に書かせようという気持ちはないのですか?

「ありません。書いているのは私です。あなたが私を通して考えているということでしょう?」

――いいですか、よく理解してくださいね。天使達が、我々を取り囲み、我々に協力して下さっているのですよ。

「何だって? 地獄に天使達が来るわけがないだろう。あなたは一人なのだろう?」

――周りを見て下さい。

「私があなたを通して考えるのを助けてくれるのが感じられる――、あなたの手が、私の意のままに動き――、でも、触っていないぞ。変だ――。どうもよく分からない――」

――では、指導霊達に支援をお願いしてください。これから一緒にお祈りをしましょう。

「何だって? あなたはもう行ってしまうのか? それは困る。もっと私と一緒にいてくれ。悪魔達が、また、私を捕まえにやってくる。嫌だ! お願いだから、一緒にいてくれ! お願いだ! 」

――もうこれ以上、一緒にいることは出来ません。また明日来てください。毎日来て下さってもよいですよ。一緒に祈りましょう。天使達があなたを助けてくれるはずです。

「そうだ、私は恩寵が欲しい。どうか私の為に祈ってくれ。私には、どうしても祈れない」

霊媒の指導霊からのメッセージ:「我が子よ、頑張りなさい。あの霊には、あなたが求めたものが与えられるでしょう。

でも、償いは、まだまだ終わりません。彼が犯した数限りない罪は、あまりにも恐ろしいので、名前をつけることさえ出来ません。そして、彼は、頭もよく、教育も受けており、自分を導く光を持っていただけに、余計、その罪が深いのです。彼は、理非が分かっていたにも関わらず、罪を犯しました。だからこそ、彼の苦しみは恐るべきものになっているのです。

しかし、支援の祈りによって、その苦しみも和らぐでしょう。苦しみも、いつかは終わることが分かり、したがって、希望を持つことが出来るようになるからです。

神は、あの霊が悔い改めを始めたのをご覧になり、このような通信の機会をお与えになったのです。あの霊が、そのことによって励まされ、支えられることになるのをご存知だからです。ですから、彼のことをいつも考えてあげなさい。彼が、あなたの忠告に従って、よき決意をすることが出来るように、エネルギーを与えてあげるのです。

悔い改めをすれば、次は、『償いをしたい』という思いが出てくるでしょう。その時こそ、彼が『再び地上に生まれたい』と願い出る時なのです。そして、地上に生まれて、今度は、悪をなさずに善をなすのです。そうすることによって償いを果たすのです。

そして、彼が充分に強くなって、神がそのことに満足なされば、彼には、救いへと導く神聖な光をかいま見ることが許されるでしょう。その時に、神は、放蕩息子を迎えるように、暖かく彼を迎えてくださるのです。

信じなさい。私達も、あなたの仕事が完成するように支援しますから」

この霊は、人間の法律で裁かれることはなかったが、我々は彼を犯罪者として扱った。というのも、罪とは行為そのものに内在するものであって、人間によって裁かれるかどうかには関係がないからである。

(3)ジャック・ラトゥール――殺人の咎で死刑になった男性1
この男は、殺人の咎により、フォワの重罪院で死刑を言い渡され、一八六四年の九月に死刑が執行された。

一八六四年九月十三日、ブリュッセルにおいて、七、八人のメンバーで、ささやかな交霊会が持たれた。その際に、ある婦人が霊媒役を務めることになったのだが、まだ、いかなる招霊も行わないうちに、彼女が、ものすごい勢いで、とても大きな字で、次のように書き始めた。

「ごめんなさい! 私が悪うございました! ラトゥール」

全く予期しなかったこの通信に、我々は、すっかり面食らってしまった。というのも、出席者の殆どが、この霊のことを知らず、したがって、この霊について考えてもみなかったからである。
この霊に同情の言葉をかけ、かつ励ました上で、次のような質問をしてみた。

―― 一体、いかなる理由で、他の場所ではなく、ここにいらっしゃったのですか? というのも、私達は、あなたを招霊した覚えはないからです。

すると、書記のみならず発話も出来る、この霊媒が、はっきりした声で、次のように語り始めた。

「あなた方が、思いやりのある方々であり、私に同情してくださるだろうということが分かったからです。私を招霊してくれる、他の人々は、真の慈悲からというよりも、面白半分で招霊しているか、怖がって逃げてしまうかのどちらかなのです」

それから、名状し難い光景が展開された。おそらく30分位続いたのではないだろうか。霊媒は、単に言葉を語るだけではなく、身振りや手振り、表情まで総動員して、この霊の現状を伝えるのだった。

時折、絶望を語る言葉の調子は心を引き裂くものとなり、その苦しみを語る声音は実に悲痛なものとなった。その嘆願は、しばしば、あまりにも熱烈なものだったので、出席者全員が、深く心を動かされた。

その内の何人かは、霊媒があまりにも興奮する為に、恐怖に囚われたが、我々は、「悔い改め、哀れみを乞う、この霊の通信は、何の危険も伴わないだろう」と確信していた。

「この霊が霊媒の肉体器官を使うのは、自らの状況をより詳しく描写し、我々の興味を引こうとしているからであり、憑依霊が肉体を支配しようとするのとは異なる」ということが分かっていた。それは、彼の主張の為に許されたことであり、また、出席している者達への教育的配慮から許されたことでもあったのだ。

その通信は、以下のようなものであった。

「ああ、どうか、哀れみを! 私には哀れみが必要なのです。

あなた方には、私がどんなに苦しいか分かるはずです――。いや、分かるはずがない。あなた方には、私がどれほど苦しんでいるか理解できないでしょう――。

ああ、何という苦しみ――。ギロチンなど、今の、この苦しみに比べれば、全くなんでもありません。一瞬の苦しみに過ぎないのですから。しかし、私の体をなめる、この火ときたら、もっともっと酷いものです。それは絶えざる死なのです。その苦しみは、途切れることがないのです。その苦しみには、休息というものがないのです――、そして、終わりがないのです!

しかも、私が手にかけた者達が周りにいる――。私に傷口を見せつけ、ずっと私を見ている。ああ、私の前に、私が殺した者達がいる――。全員がいる、そう、全員です! 全員の姿が見える。逃げることが出来ない! それに、血の海が見える。血に濡れた金も見える。全てが、そこに、私の前にある。ああ、永遠に見せられるのだろうか?

あなた方には、この血のにおいが感じられますか? 血、血まみれだ。ああ、可哀想な犠牲者達――。命乞いをするのに、私は、容赦なく、彼らを殺す――、匕首で突き刺し――、そして殺す。血が、私をさらに興奮させる――。

私が死ねば、全ては終わると思っていました。だから、死刑台に向かったのです。神に挑み、神を否定しました――。そして、全てが永遠に無に帰すると思っていたら、なんと! 恐ろしい目覚めがあったのです。

ああ、恐ろしい! 何ていうことだ! 私は、犠牲者の死体に取り囲まれ、彼らの恐ろしい顔を見る――。血の海を歩き――。死ぬと思っていたのに、こうして生きている!

ああ、嫌だ! 恐ろしい! 地上のどんな拷問よりも恐ろしい!

ああ、死んだらどうなるかを、知っておけばよかった。悪いことをしたらどうなるかを、知っておけばよかった。そうしたら、人なんか殺すことは絶対なかったのに!

人を殺そうと思っている者は、みんな、前もって、今、私が見、耐えていることを経験するといいのだ! そうすれば、人を殺そうとは思わなくなるだろう。こんな苦しみを味わいたいとは絶対に思わないだろうからな!

ああ、神様、こうなるのも当然です。だって、私は、彼らのことを、可哀想だなどと、これっぽっちも思わなかったのだから。助けを乞う腕を、むげに、はねつけたのだから。金を取ろうとして、彼らを容赦もなく殺したのは、この私なのだから。

ああ、私は神様を信じませんでした。神様を否定しました。神様の名を冒涜しました――。私は酒に溺れましたが、それは、神様を否定したかったからなのです――。ああ、神様、私は何という罪を犯したのでしょう! 今では、それがよく分かります。

でも、私を哀れんではくださらないのですか? あなたは神様です。神様は善意の方であり、慈悲の方であり、全能の方であるはずですよね。

神様、哀れみを! どうか、どうか哀れみを! お願いです、どうかお聞き入れください。私を、この忌わしき光景から、恐ろしい場所から、血の海から、どうぞ救って下さい。私が殺した者達の視線が、まるでナイフのように、私の心に突き刺さります。

今、私の周りで私の話を聞いてくださっている皆さん、あなた方は、よき魂であり、慈悲に溢れた魂です。そうです、私には分かるのです。私に哀れみをかけてくださいますね? 私の為に祈ってくださいますね?

ああ、どうかお願いします。私を拒絶しないでください。私の目の前に広がる、この恐ろしい光景を消してくださるように、神様にお願いしてください。あなた方は、よい人達ですから、神様は、あなた方の言うことなら聞いてくださるはずです。どうかお願いです、私が他の人々を拒絶したようには、私を拒絶しないでください――。どうか、私の為に祈って下さい」

出席者は、この霊の後悔の言葉に打たれて、この霊を勇気づけ、励まし、そして、次のように言った。

――神は、決して、頑な方ではありません。神が罪人に求めるのは、心からの悔い改めと、自らがなした悪を償おうとする真剣な思いです。あなたは強情を張っていませんし、罪に対する許しを神に求めました。したがって、あなたが、自分の犯した罪を償いたいと思い続ければ、神は必ずあなたに慈悲を与えてくださるでしょう。

あなたが犠牲者から奪い去った命を彼らに返すことは、もう出来ません。しかし、もしあなたが熱心にお願いすれば、次の転生で、彼らと一緒に地上に降り、彼らに対して残酷であったことの償いとして、精一杯彼らに尽くすことは可能なのです。

そして、その償いが充分であると認められれば、あなたは、神の恩寵により、再び神の近くに還ることが出来るのです。

つまり、罰がどれほど長引くかは、あなたの決意一つで決まるのですよ。それを長くするのも、短くするのも、あなた次第なのです。

私達は、お祈りで、あなたを支援し、あなたの側に高級霊が来て助けてくれるようにお願いしてみましょう。私達は、あなたの為に、苦しみつつはあるが悔い改めを開始した魂達の為にお祈りをしてさしあげます

私達は、そのお祈りを、悪霊達の為にはいたしません。そして、あなたは、もはや悪霊ではないのです。というのも、あなたは、悔い改め、神様に嘆願し、悪を放棄したからです。あなたは、現在、もう悪霊ではなく、単に不幸な霊に過ぎないのです。

このお祈りが終わると、しばらく沈黙があった。それから、この霊は次のように続けた。

「ありがとうございます! 神様、ああ、ああ、ありがとうございます! 哀れみをかけてくださいましたことに、お礼を申し上げます。もう、私を見捨てないでください。天使達を私のもとに送ってください。そして、私を支えてください――。ありがとうございます! ありがとうございます! ありがとうございます! 」

この後、霊媒は、精根尽き果てて、暫くの間、気を失った。やがて、何とか気を取り戻したが、最初のうちは、混乱しており、何が起こったのか分からないようだった。しかし、徐々に、自分が、自分の意志とは無関係に発していた言葉を思い出し始めた。話をしていたのは自分ではなかったのである。

翌日、再び交霊会を開いたところ、同じ霊がやってきて、数分の間、昨日と同じような光景を繰り広げた。しかし、昨日程激しくはなかった。それから、同じ霊媒を使って、熱に浮かされたように書記を始め、次のようなメッセージを伝えてきた。

「昨日は、祈ってくださり、本当にありがとうございました。こんなにはっきりした変化が生じました。私も、神様に熱心にお祈りしたところ、神様は、暫くの間、苦しみを取り除いてくださいました。

しかし、また犠牲者達を見ることになるでしょう――。ああ! ほら! そこにいる! 彼らが、また、そこに見える! 血の海! この血の海が見えますか?」

昨晩の祈りが、また繰り返された。すると、霊はまた書記を続けた。

「お手を患わせてすみませんでした。お陰さまで、大分楽になりました。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。でも、ここにこうしてやってくる必要があったのです。あなた方だけが――。

ありがとう。ありがとうございます。また少し楽になりました。

でも、試練が終わったわけではないのですね。私が殺した人々が、また再び戻ってきます。これが罰なのです。自業自得ですから、仕方がありません。でも、神様、どうか寛容にお願いします。
皆さん、どうか私の為にお祈りをしてください。私を哀れんでください」

この時一緒にお祈りをしたパリ霊実在主義協会のメンバーの一人が、その後、この霊を再び招霊し、次のようなメッセージを受け取った。

「死の直後に、二度、メッセージをお伝えしましたが、その後は招霊に応ずることが出来ませんでした。しかし、たくさんのいたずら霊が、私の名を騙って嘘のメッセージを降ろしたようです。ブリュッセルにおいては、パリ霊実在主義協会の会長がいらしたので、高級霊達の許可の下に、私はコンタクトを取ることが出来たのです。

私は、今後もパリ霊実在主義協会の集いにやってきて、色々と霊示を降ろすつもりですが、それは私の償いということになるでしょう。出来れば、そのメッセージを犯罪者達に読んでもらって、教訓を得てもらいたいし、私の苦しみをよく知って、色々と考えてもらいたいのです。

地獄の苦しみについて語っても、犯罪者達の多くは、まともに聞きません。というのも、彼らは、そうした話を子供騙しだと考えているからです。大罪を犯す者達は、その殆どが、ふてぶてしいので、地獄の劫罰の話などには心を動かされないのです。それよりも、むしろ警察の方が心配でしょう。

しかし、私の語ることは、推測ではなくて、真実なのです。おそらく、『私はあなたの語る内容を実際に見ました。地獄の苦しみを目撃したことがあります』と言える神父は一人もいないはずです。

私は、次のように言う為に、ここに来ました。

(4)ジャック・ラトゥール――殺人の咎で死刑になった男性2
『私の体が死んだ後に、こういうことが起こったのです。私が思っていたのとは違って、私は死んでも死ななかったのですよ。ようやく苦しみが終わると思っていたところが、実際には、筆舌に尽くし難い苦しみが、まさにその時から始まったのです』

これを聞いて、崖から落ちる前に止まる人も出てくるでしょう。こんなふうにして、誰かが犯罪を犯すのを防げば、それが私にとっては一つの功徳となり、罪を償ったことになるのです。

こんなふうにして、悪から善が生じ、神の善が、あらゆるところに――地上においても、霊界においても――出現することになるのです。

こうして、あなた方とコンタクトを取っている間は、私は、自分が殺した人々の姿を見ずにいられます。しかし、これが終われば、また再び彼らの姿を見なければなりません。そのことを考えるだけでも、言いようのない苦悩に襲われます。こうして招霊して頂くと、その間だけでも地獄から逃れ出ることが出来るので、幸せなのです。

いつも私の為にお祈りをしてください。私が犠牲者達の姿を見ないで済むように、どうか神様にお願いしてください。

はい、一緒に祈りましょう。お祈りの効果は本当に素晴らしいものです。とても楽になります。私を押し潰そうとする重い荷物が軽く感じられるようになるのです。私の目に希望の光が宿り、悔い改めの気持ちが強くなるのです。そして、私は次のように叫ぶのです。『神の手に祝福あれ! 神の願いが成就されますように! 』と」

――殺した人々を見なくても済むようにお願いするのではなく、「彼らの姿を見るという償いに耐えられるだけの力を与えてください」と、一緒に祈りましょう。

「犠牲者の姿を見ないで済ませられたら、やはり、そちらの方がよいのです。私が、そのことで、どれ位苦しんでいるか分かりますか? どれほど鈍感な人間でも、私の魂の苦しみが、私の表情に刻まれている様を見れば、心を打たれることでしょう。

でも、私はあなたが忠告してくださった通りにしましょう。『その方が、過ちを早く償うことになる』ということが分かるからです。それは、病んだ体を健康にする為に、苦しい手術を受けるようなものです。

ああ、もしも地上の罪人達が私の姿を見られたならば! そうすれば、彼らは、その犯罪の結果として、どれほど恐ろしいことが待っているかが分かるでしょうに!

人間の目はごまかせても、神様の目は絶対にごまかせないのです。無知ほど恐ろしいものはありません!

霊実在主義協会の教室で学ぶことを拒否する人々は、一体どのようにして責任を負うのでしょうか? 彼らは、警察と法律さえあれば、犯罪は防げると思っているのです。何という思い違いでしょうか! 」

「私が被っている苦しみは、本当に恐ろしいものです。でも、あなたがお祈りしてくださって以来、私は天使達の援助を受け、『希望を持つように』と励まされています。あなたが忠告してくれた英雄的な方法が効果的であることを、私は理解しましたので、神様に、償いに耐える力を与えてくださるようにお願いしています。

私は、もう、自分が犯した重罪に対して、言い訳をしようとは思いません。

神父達は、神に見放された者達が感じることになる苦しみについて、さも恐ろしげに語りますが、愛と慈悲に満ちた神の法を犯した子供達に対して、神が正義に基づいて科すことになる真の苦しみについては、殆ど何も理解していないように思われます。

理性を少しでも備えた者ならば、『魂という、物質ではない何ものかが、火という物質のせいで苦しむ』などということは、到底信じられるものではありません。そんなこと実に馬鹿げています。だからこそ、殆どの犯罪者は、『地獄など、おとぎ話に過ぎない』と言って鼻先で笑うのです。

しかし、肉体的な死の後で魂が被ることになる精神的な苦しみについては、同列に扱うわけにはいきません。
どうか、『絶望にのみ込まれないように』と、私の為に祈ってください」

「到達すべき目標をかいま見せてくださったことに、お礼申し上げます。『私の浄化が進めば、この栄えある目標に到達出来る』という確信を持つことが出来ました。

私は今非常に苦しんでいますが、それでも、この苦しみが和らいできていることは事実です。霊界では、苦しみに慣れたからといって、苦しみが和らぐとは思われません。そんなことはないのです。あなたのお祈りが、私の力を強くしてくれました。苦しみが同じだとしても、私の力が強くなったので、苦しみが、その分だけ弱くなったように感じられるのでしょう。

私の考えは、直前の転生のことに向かいます。『私が、祈ることを知っていたならば、多くの過ちを避けることが出来たであろうに』と思うのです。ようやく祈りの力を理解することが出来るようになりました。

また、『誠実で敬虔な女性こそが強い』ということも分かるようになりました。彼女達は、肉体的にはか弱いのですが、信仰あるが故に、精神的には非常に強いのです。地上の似非学者達が理解出来ない、この神秘が、私には分かるようになったのです。

ああ、信仰! この言葉を聞いただけで、反抗的な似非学者達は、あざ笑います。けれども、彼らが、いずれ霊界に還ってきて、彼らに真理を見えなくしていたヴェールを剥がれた時に、馬鹿にしていた永遠なる神の前に跪くのは彼らなのです。彼らは、自らの小さな罪と大いなる罪を、謙虚に白状せざるを得なくなるでしょう。その時に、祈りの力というものを知るのです。

祈り、それは愛することです。愛、それは祈りです。したがって、彼らは主を愛し、主に対して愛と感謝の祈りを捧げるでしょう。

苦しみを通して再生し――というのも、必ず苦しむことになるからですが――、私と同じように、『償いと苦しみに耐える力を与えたまえ』と祈ることになるでしょう。そして、苦しみを通り抜けた暁には、許してくださった主に対して――彼らは、その時には、素直さと諦念によって、許しを受けるに相応しい霊となっているはずですが――、感謝の祈りを捧げることになるのです。

一緒に祈ってください、兄弟よ。私をもっと強くしてほしいのです。

ああ、ありがとう、兄弟よ。温かい心を本当にありがとう。私はやっと許されました。神は、ついに犠牲者達を見なくても済むようにしてくださいました。

ああ、神よ、私にお与えくださった恩寵ゆえに、あなたが永遠に祝福されますように!

ああ、神よ、私は自分のとてつもない罪深さを感じ、全能なるあなたの前で消え入りそうです。

主よ、私はあなたを全身全霊で愛しております。あなたが再び私を地上に送り出してくださる時は、『私が、安らぎと思いやりの使節として、あなたの御名を敬愛の心と共に唱えることを、子供達に教える』という使命をお与えください。

ああ、ああ、ありがとうございます。ありがとうございます、神よ! 私はようやく悔い改めることが出来ました。心より悔い改めたのです。神よ、私はあなたを愛しています。あれ程汚れていた私の心も、あなたの神聖さから発せられる、この純粋な思いを、理解出来るようになりました。

兄弟よ、一緒に祈りましょう。私の心は感謝で一杯です。鎖を断ち切って、私はついに自由になりました! もう神から見放された者ではありません。まだ苦しんではいますが、でも、悔い改めています。

この私の例を見て、犯罪を犯そうとして振り上げられた手が静かに下ろされるのであれば、どんなに嬉しいことでしょうか。兄弟達よ、悪いことは止めなさい! 犯罪を行ってはなりません。というのも、その後の償いは非常に過酷なものとなるからです。神は、罪人の祈りをそれ程すぐには聞いてくれません。何世紀も拷問に苦しむことになるのですよ」

霊媒の指導霊からのメッセージ:「あなたには、この霊の言うことが、よく分からなかったようですね。彼の感情と、主への感謝の気持ちを、理解してあげるようにしなさい。彼は、『これから犯罪を犯そうと思っている者達に、犯罪を思い留まらせること以上に、神への感謝の思いを表す方法はない』と思っているのです。彼は、自分の言葉が、犯罪の手前にいる人々に届くことを願っています。

そして、これは、彼自身もまだ知らないので、あなたにも言いませんでしたが、彼が、人々に償いを促す使命を開始することが許されたのです。彼は、これから、共犯者達の所に行き、彼らが悔い改められるようにとインスピレーションを与え、彼らの心の中に悔悟の種を蒔こうとしています。

地上では、時々、誰からも正直だと思われていた人が、司祭のもとに罪を告白しにやってくることがあります。これは、悔悟の思いにとらわれたからです。

もし、霊界とあなた方を隔てているヴェールが取り払われたなら、地上では犯罪者だった者達の霊が、しばしば地上に戻ってきて、丁度、ラトゥールの霊が、これからするであろうように、自らの罪を償う為に、地上に生きている人々に悔悟の念を吹き込もうとしているのが、見えるはずなのです」

ラトゥールの最初のメッセージを受け取ったブリュッセルの霊媒が、暫く後に、また次のメッセージを受け取った。

「私のことは、もう何も心配しないでください。大分落ち着いてきましたから。
でも、まだ苦しんでいるのは事実です。神は、私が悔い改めているのをご覧になって、私に哀れみをかけてくださいました。現在では、私は、悔い改めの結果気づいた自分の罪の重大さ故に苦しんでいます。

私が、もし、地上において、もっとしっかり教育されていれば、あのような犯罪を犯さずに済んだかもしれません。しかし、実際には、私は本能を抑えることが出来ず、あのようなことをしてしまいました。もし、地上の人間達が、もっと神のことを思えば、或は、少なくとも神を信じさえすれば、もっと犯罪は少なくなるはずなのです。

しかし、人間心による正義は上手く機能していません。

過ちを犯すと――時として、それが軽いものであっても――牢獄に入れられます。ところが、牢獄が、実は邪悪の横行する破滅の場所なのです。そこから出てくる時には、悪しき忠告と悪しき例によって、完全に理性を失っているのです。

芯が強いおかげで、そうした悪に染まらずに牢獄から出てこられたとしても、あらゆる扉は閉ざされており、あらゆる手は引っ込められるのです。全うな人々は彼を拒絶します。そんな人間に何が出来るでしょうか? あるのは、軽蔑、悲惨のみ。仮に、『善に戻ろう』と決心したところで、人々から打ち捨てられ、絶望するしかないのです。

悲惨な人間は、どんなことでもするでしょう。彼自身、人々を軽蔑し、憎み、そして、善悪を区別する心を失っていくのです。折角、真っ当な人間になろうとしたのに、皆から拒絶されたのですから、それも当然と言えるでしょう。生きる為に、彼は、盗み、時には人を殺しさえします。そして、ギロチン送りです!

神よ、私が再び幻覚に襲われそうになると、あなたの御手が私の方に差し伸べられます。あなたの思いやりが私を包み込み、そして、私は守られるのです。ああ、神よ、ありがとうございます。

次の転生の時には、私は、知性と財産を使って、人生に敗北した不幸な人々を救い、彼らを転落から守ろうと思います。

兄弟よ、ありがとう。あなたは快く私の通信を受け取ってくれました。もう心配しないでください。もう私は悪から解放されました。これから私のことを思ってくださる時は、どうか、凶悪な顔をした私ではなく、あなたの寛大さに感謝し、恐縮している私を思い浮かべて頂きたいものです。

では、これで。また招霊してください。そして、私の為に神に祈ってください」

この通信に収められた言葉のうち、あるものに関しては、その深さと広がりを充分に捉え切れないかもしれない。この通信は、厳罰を受けている霊達の世界の一端をかいま見せてくれるが、それ以上に、神の深い思いやりを感じさせてくれる。

この霊が立ち直っていく速さには、いささか、戸惑いを感じる程である。他の霊でも見たように、傲慢な霊、或は偽善的な霊よりも、荒々しい霊の方が可能性を秘めているということだろうか。この素早い立ち直りを見ると、この霊は、邪悪というよりも、野性的だったにすぎず、正しい方向付けが欠けていただけだったということがよく分かる。

この霊の言葉遣いと、「光による懲罰」というテーマで次に登場する犯罪者の言葉遣いを比べてみれば、教育も、育った環境も異なる二人のうち、どちらが精神的に進んでいるかは、直ちに分かるだろう。

前者は、獰猛な本能、一種の狂熱に従っただけであるのに対し、後者は、落ち着いて、極めて冷静に犯罪を遂行しているのであって、死んだ後も、傲慢に対する罰を平然として拒否している。苦しんでいるにもかかわらず、改心しようとしないのだ。どちらが長い間苦しむことになるかは一目瞭然であろう。

「私は、悔い改めの結果気づいた自分の罪の重大さ故に苦しんでいます」とラトゥールは言っているが、ここには深い思いが窺われる。霊は、悔い改めを始めるまでは、自分の犯した罪の重大さを理解することは出来ない。悔い改めは、苦悩に満ちた悔悟の情を呼び起こし、そのことによって、霊は、悪から善へ、心の病から心の健康へと至れるわけである。

しかし、丁度、病人が、自分を治してくれるはずの治療を拒むことがあるように、よこしまな霊が、良心の声に、頑に抵抗することがある。「そのことこそが悔悟を遅らせる」ということが分からないのだ。そうして、幻想を作り上げ、自らを欺いて、悪の中に留まり続けることになる。

ラトゥールの場合、頑な態度がようやく終わりを見せ、悔悟の思いが心の中に生じたのである。悔い改めが可能となり、自分のなした悪の意味を理解するに至る。自らのおぞましさに気がつき、そのことで苦しむ。だからこそ、「自分の罪の重大さ故に苦しんでいます」と言ったわけである。

今回の転生の前の転生では、彼は、もっと酷い生き方をしたに違いない。もし、その時、今日のような悔い改めが出来ていれば、彼の人生は、もっとマシなものになっていたはずだからである。

このたび決意したことによって、彼の未来の転生は、大きな影響を受けるだろう。その意味では、今回の、おぞましいとも言える彼の人生は、進化へのワン・ステップになっているわけである。

「過去世で自分がどんな人間だったのか、何をしたのかを思い出せない以上、そうした過去世から教訓を引き出すことは、出来ないではないか」と言う人は多い。

しかし、この問題は、次のように考えればよいのである。

我々が犯した悪が、既に消し去られ、心の中に、いかなる痕跡も残っていない場合には、それは、既に解決したということなのだから、思い出す必要もなければ、それに取り組む必要もない。もし、完全に解決していない問題があるのであれば、それは、我々の現在の心の傾向性として表れているはずである。とすれば、全ての意識をそこに投入して、それを改善しようとすればよいわけである。

我々がどんな人間であったかを知る必要はない。我々がどんな人間であるかを知れば充分なのである。

「一つの生涯だけでは、過去世で犯した罪の償いが、なかなか終了しない」ということ、また、「その罪が、どれほどの非難の的になるか」ということを考えるならば、神が、その過去にヴェールをかけてくださるというのは、実は大変ありがたいことなのである。

もし、ラトゥールの過去世での行いが、社会に対して明らかにされていたとすれば、彼が有罪になろうと無罪になろうと、いずれにしても、社会から締め出されていただろう。仮に彼が悔い改めたとしても、人々は、密かに彼を許さずにいたはずである。

彼が、現在、霊として表明している気持ちを見れば、彼は、次の転生では、きっと、正直な人間として、みんなから尊敬されるようになるだろうと考えられる。しかし、その時に、彼が直前の転生で大犯罪人のラトゥールであったということが明らかにされたとすれば、人々は彼を非難するに違いない。

したがって、過去に被せられたヴェールが、むしろ、彼に立ち直りの扉を開くことになるのである。過去が隠されているからこそ、彼は、最も正直な人間と一緒にいても恥を感じずに済むのである。

人生の忌まわしい数年間を消し去りたいと思っている人は、どれ程いることだろうか!

こうした考え方以上に、神の正義と善意に適う理論はあるだろうか?

しかも、これは単なる机上の空論ではない。確かな観察から導き出されたものであって、我々が勝手に作り上げたものではないのである。霊が招霊に応じて語ってくれた、様々な状況を、詳細に観察し、それをいかにすれば合理的に説明出来るかを考えた結果、その説明が理論としてまとめられたものなのである。

それを認めるのは、それが事実から周到に導き出されたものであるからに他ならないし、死後の魂の行き先に関して、これ以上、合理的な考え方は見つからないからなのである。

霊界通信には、高い内容の教えが含まれていることが多い。通信を送ってきた霊達は、思考の進め方や、それをどう表現するかといった点に関し、高級霊達の支援を受けている。しかし、その場合でも、高級霊達は、あくまでも形式面で援助しているにすぎず、内容にまでは立ち入っていない。未熟な霊達に、自分の考えではないことを言わせたりはしないのである。

ラトゥールの例でも、高級霊達は、悔い改めの様子を「詩的に」表現するのを手伝ったかもしれないが、「彼がそうしたくもないのに、悔い改めを強制した」という事実はない。人間と同様、霊にも自由意志があるからである。

彼らは、ラトゥールの心の中に、よき感情の芽生えがあるのを見て取り、彼に、それを表現するように促した。そうすることによって、その感情が育つのを助け、そして同時に、彼に同情の念が集まるようにしたのである。

自らの罪を悔い改め、絶望と後悔を表明する大犯罪人以上に、心を揺さぶる姿があるだろうか? これ以上に、教訓となる、印象的な例があるだろうか? 自らが殺めた人々の視線に刺し貫かれ、拷問に苦しむ中、彼は、思いを神の方に向け、神の慈悲を乞うたのである。これほど、罪人の希望となる例があるだろうか?

我々には彼の苦悩の性質が分かる。それは、合理的なものであり、恐ろしく、かつまた単純であって、そこには何の演出も施されていない。

人は、ラトゥールのような人間に、あれほど大きな変化が生じたことに、驚くかもしれない。だが、どうして、もっと早く彼は悔い改めることが出来なかったのか? 彼には心の琴線はないのだろうか? 罪を犯したら、ずっと悪に留まる他ないのだろうか?光が心に射してくる瞬間はないのだろうか? その瞬間は、ラトゥールには、やってきた。これこそが、まさに霊界通信が持つ教訓的な側面なのである。

彼は、自分の置かれた状況を見事に理解した。そして、後悔し、償いの計画を立てた。これは実に教訓的なことである。

死ぬ前に彼が素直に悔い改めた方がよかったのだろうか?死んでから言ったことを、生前に言った方が素晴らしかったのだろうか? だが、そんな例なら、いくらでもある。

死を前にして悔い改める姿は、凶悪な犯罪者達にとっては、弱さの表れとしか見えないはずである。それに対し、死後の声は、何が彼らを待っているかをはっきりと示す。「私の例は、地獄の火を見るよりも、死刑台を見るよりも、罪人を改心させる力を持っているだろう」とラトゥールが言う時、この言葉には真実がこもっている。

ならば、牢獄にいる罪人達に、この例を知らせるべきではないだろうか? この話を聞いて、既に、何人もの人間が実際に改心しているのである。

だが、「死ねば、全てはおしまい」と考えている人間に、どうして死者の言葉が信じられるだろうか? もっとも、遅かれ早かれ、人は、必ず死後の世界を知ることになっている。そして、「死後の世界からこの世に、メッセージを携えて戻ることも出来る」ということを知るのである。

この霊界通信からは、他にも重要な教訓を引き出すことが出来る。

それは、「単に悔い改めただけでは、高い世界には還れない」という、永遠の正義の原理である。悔い改めは、神の慈悲を呼び寄せることの出来る、回復に向けての第一歩にすぎないということである。許しへの前奏曲、苦しみの短縮への前奏曲にすぎないのだ。しかも、神が、故なくして許すということは有り得ない。神に許されるには、償い、すなわち罪滅ぼしが必要なのである。
これをラトゥールは理解し、そして、それに備えた。

第6章 強情な霊
(1)ラポムレー――光による懲罰を受ける男性
パリ霊実在主義協会の集いで、死後によく生ずる混乱について議論していた時、ある霊が自発的に降りてきて、次のようなメッセージを伝えてきた。この霊については、誰も話題にのぼらせなかったし、招霊しようとも考えていなかった。このメッセージには署名はなされなかったが、それを送ってきた霊が、丁度死刑に処せられたばかりの大犯罪人であることは、誰の目にも明らかであった。

「死後の混乱についてだって?  バカバカしい。あんたらは、おめでたい空想家だよ! 死後にどうなるかなんて、あんたらには、ちっとも分かってやしない。
いいかい、よく聞きなよ。死後の混乱なんて、ありはしない。あるとしたら、あんたらの頭の中にだけだ。俺は本当にきっぱりと死んだ。そして、今、自分の心も、周りも、何だって、はっきり見える。

人生なんて、陰気な喜劇にすぎないのさ。幕が下りる前に舞台から追い出されるヤツは、要するに、下手クソな役者なんだ! 死なんて、それを恐れる奴にとっては恐怖だし、それに歯向かおうとする奴にとっては処罰だし、それを乞い願う奴にとっては快楽だ。そして、誰にとっても愚弄なのさ――。

うう、光が眩しい。鋭い矢のように、俺の希薄な体に光が突き刺さる――。

生きている時には、俺は牢獄の闇によって罰を受けた。死んだら、今度は、墓の闇によって、俺が罰を受けるだろうと、奴らは思っていたに違いない。そうでなけりゃあ、カトリックの迷信にある地獄の闇によってな!

ふん、あんたらは立派だよ。俺ときたら、社会の除け者だった。ところが、今じゃあ、俺は、あんたらの上を飛んでいるんだ――。

ああ、ここにずっといたい! 周りから、色々、『ああしろ、こうしろ』と、五月蝿く言ってくるが、そんなものは無視してやる。何でもはっきり見えるぞ。

殺人か。殺人なんて、ただの言葉じゃねえか。殺人なんて、どこにでもある。集団で殺しゃあ、褒められて、一人で殺しゃあ、けなされる。大したもんだぜ! 滅茶苦茶じゃねえか。

ふん、泣き言なんか言うもんか――。何にも欲しいものなんかありゃしねえ! 何でも手に入れられるからな。そして、このいやらしい光と戦ってやる! 」

このメッセージを分析した結果、「良識を逆なでしようとする言葉遣い、それ自体の中に、大きな教訓が含まれている」という見方が提示された。そして、この不幸な霊の置かれている状況は、罪人を待っている罰に関して、新たな展望を我々に開いてくれた。

ある者達は、闇の中に、或は絶対的な孤立状態の中に置かれる。ある者達は、死んだ時の苦しみを、その後、何年にもわたって感じ続ける。ある者達は、「まだ、この世にいる」と思い込んで過ごす。そして、この霊のように、光による懲罰を受ける者もいる。

この者の霊は、全く自由に振る舞っている。自分が死んでいることを完全に自覚しているし、何か不満があるわけでもない。何かして欲しいというわけでもない。だが、未だに、神の法と、地上の人間の法に、歯向かっているのである。

ということは、彼は罰を免れているのだろうか? いや、そうではない。つまり、神の正義は、本当に様々な形態をとって実現されるということである。ある者達にとっての喜びが、ある者達にとっては苦痛になるのである。この霊の場合、光が拷問となっているのだ。そして、光に対し、戦いを挑んでいる。傲慢な口調で、彼は次のように言っている。

「何でも手に入れられるからな。そして、このいやらしい光と戦ってやる! 」

また、次のようにも言っている。
「うう、光が眩しい。鋭い矢のように、俺の希薄な体に光が突き刺さる――」

「俺の希薄な体」という言葉が注意を引く。つまり、彼は、自分の体がエーテル状になっていることには気がついているのだ。この体を光が刺し貫き、そして、彼は、それから逃れることが出来ない。この光は、まるで鋭い矢のように、彼の体を貫き通すのである。

この霊は、強情な霊達の仲間に入れられている。というのも、この霊が、ほんの僅かでも悔悟の気持ちを表明するまでは、大変長い時間がかかったからである。「知的な進化に必ずしも精神的な進化が伴うわけではない」という真実の一つの例であろう。

とはいえ、徐々にではあるが、彼は自己改善に励み、やがて、理性と智慧に裏付けられ、かつ数多くの教訓に満ちたメッセージを送ってくれるようになった。現在では、悔い改めた霊達の仲間になっていると言えよう。

この霊に関して、指導霊達に評価を求めたところ、次のような通信を送ってくれた。大変意味深い内容のメッセージである。

ラムネーからのメッセージ:「迷っている状態の霊達は、当然、非活動的で、待機状態にあります。とはいえ、傲慢、強情、頑固等に邪魔されなければ、償いを果たし、徐々に境涯を上げることは可能なのです。

先程の霊の場合には、罪を犯して強情になっており、地上の法律に歯向かった後で、今度は神の法に楯突いています。報いとしての苦しみは、『彼の良心を目覚めさせ、その苦しみの深い意味を悟らせる』というふうには作用せず、むしろ、彼を反抗に追いやり、聖書の記述に従えば、彼を『歯ぎしりして悔しがらせる』結果となっています。

これは、報いとしての苦しみに打ちのめされながら、なお素直になれない者に、よく見られる行動です。苦しみのあまり絶望的となりつつも、なお反抗を止めることが出来ず、なぜ苦しむのかを知ろうとせず、報いの意味を考えようとしないのです。

このように、霊界では、大変な思い違いが、しばしば――いや、殆ど常にと言った方がよい――行われているのです。

強情を張り通し、神の前で威嚇的な態度をとる様子は、丁度、星を見て、それを『天井にあいた穴だ』と思う人間に似ています。霊の世界は無限なのです。それにもかかわらず、地上にいた時と同じつもりで、無限をつまらぬものと思いなし、無限に対して戦いを挑み、無限を前にして、バカバカしい空威張りを繰り返す。何とも哀れではありませんか。

そういう者は、盲目となり、他者を侮り、エゴイスティックに振る舞い、卑しさを丸出しにして、自ら向上を拒否するのです。そして、数々の厳しい試練を受けても、なお気づくことが出来ず、しかも、『絶対に死ぬことが出来ない』のです! 」

エラストからのメッセージ:「闇の中に置く、或は、光の奔流を浴びせる。結果は同じなのでしょうか?

闇の中では何も見えず、その暗さに比較的早く慣れることが出来ますが、強烈な光にさらされると、なかなか、それに慣れることは出来ません。そのことは、先程の霊の、『このいやらしい光と戦ってやる! 』という言葉にも窺われます。

実際、この光は、霊を完全に貫き、霊が最も隠しておきたい秘密の考えさえも照らし出し、誰にとっても見えるものにしてしまうのです。霊にとっては、これほど恐ろしく、身の毛もよだつ罰はないでしょう。これは、霊的な処罰のうちでも、最も厳しいものに属すると言えるでしょう。

彼は、いわば、ソクラテスが欲しがっていた『ガラス張りの家』に入れられているわけですが、賢者にとっては喜びであり慰めであったことでも、意地悪な人間、犯罪者、殺人者にとっては、とんでもない拷問になるのです。そこで本当の自分に直面させられるからです。

最も忌まわしい犯罪を何度も犯しながら、それを心の内に秘めて、知らん顔をしていたところが、今や、全ての秘密を暴かれて、人々の目に晒されるのです。この恐ろしさが、我が子達よ、あなた方には分かるでしょうか? 不感無覚の仮面が剥ぎ取られ、心に秘めた考えが、全て額に映し出されるのです!
もう、どこにも逃げられず、一時も休息はありません。どこかに隠れようとしても、『いやらしい』光が付きまとって、照らし出すのです。

彼は、『逃げよう』と思い、実際に逃げます。広大無辺な空間の中を、息を切らせて、絶望的になって、逃げ回るのです。しかし! どこに逃げても、あの光が追いかけてきて、照らし出され、全てが、さらけ出されます。そこで、また逃げ出します。物陰を求めて、夜を探して――。だが、物陰も夜も、どこにもありません。『いっそ死にたい』と思います。しかし、『絶対に死ねない』のです。そこで、また逃げ出します。永遠に逃げるしかありません。狂ったようになって逃げ回るのです。

何という恐るべき処罰、何という激しい苦悩。というのも、『自分』から逃げようとすると、『自分』に出会うからです。

かくのごときが、霊界を統べる法則です。罪を犯した者にとっては、『自分自身』が最も恐ろしい罰になるのです。

これは、いつまで続くのでしょうか? 彼の強情が打ち砕かれ、後悔の念が湧き始めるまでです。その時になって、ようやく、彼は、犠牲者の前で、正義の聖霊の前で、謙虚に頭を垂れることが出来るようになるのです」

ジャン・レイノーからのメッセージ:「人間がつくった法律は、刑罰の対象となる人間の個性を考慮に入れません。犯罪だけを見て判断するので、同じ犯罪を犯した人間達には、全く同じ罰を与えます。罰の内容は、性の違い、教育の違いに関わりなく決められるのです。しかし、神の正義は、それとは全く異なった形で適用されます。罰は、全て、それを受ける人間の心境に応じて与えられるのです。同じ罪を犯したからといって、同じ罰を受けるとは限らないのです。

例えば、ここに、同じ罪で告訴された二人の人間がいるとして、一人は、まだ明晰な精神を備えるに至っていないので、覚醒を促す為に、初歩的な試練の中に置かれます。

別の一人は、初歩的なレベルを既に超えており、ある程度の明晰さを備えているので、別の試練に晒されます。この人は暗闇の中に置かれるのではなくて、鋭い光に晒されるという試練を受けるのです。この光は、地上で身に付けた過てる知性を刺し貫き、心の曇りを際立たせることによって、おのずと苦悩を与えることになるのです。

境涯がそれほど高くない犯罪者が死んで霊になると、彼らは、自分の罪を物理的に再現して見せつけられ、雷に打たれたようなショックを受けます。そして、感覚的に苦しむのです。

脱物質化がかなり進んでいる霊の場合には、死後、生々しい犯罪の事実からは離れ、犯罪の原因を、因果律に従って知的に分析するように導かれます。苦悩も、物理的なものではなく、高度に精神的なものになるのです。こういう霊の場合、犯罪を犯しはしたものの、そのことによって、かえって内面を進化させることが可能となります。

動物的な欲望に突き動かされて犯罪を犯したようなタイプでは、霊になって鋭くなった感覚で事実を見て苦しむことにより、低級霊界を覆う分厚い大気を突き抜けて、上方に出るように促されます。

一方、冷静さが欠如し、精神的な発達と知的な発達のバランスが取れていない人々は、唯物主義が横行している時代、或は、霊性が充分に開花していない時代に生まれると、しばしば異常な行動に駆り立てられるものなのです。

ある程度、境涯が高くなっている霊を罰する光は、霊的な光であり、その光の威力によって、心の奥に秘められた傲慢さが照らし出され、断片化した心のありようの無惨さが、白日の下に晒されるのです。そのことによって、霊的な苦悩を感じることになり、知的な面と精神的な面のバランスが取れていないことを思い知らされるのです。

このバランスが統合されると、人霊として、完成された存在に近づいていきます」

以上の霊示は、同じ日に得られたものであるが、互いに補完し合って、死後の罰の様子を、高度に哲学的、また理性的な、新たな光の下に照らし出してみせてくれる。

「まず例を見せて、次に、それを理論的に解析する」という目的で、まず最初に、罪を犯した霊の自発的なコンタクトを許可したものであろう。

(2)アンジェル――まったく意味のない人生を送った女性
一八六二年、ボルドーにて。

アンジェルと名乗る霊が、自発的に、次のようなメッセージを送ってきた。

「わたしはアンジェルと申します」

――自分の過ちを後悔していますか?
「していません」

――それなら、どうして、ここに来たのですか?
「ここに来れば、何とかなるかもしれないと思ったからです」

――ということは、あなたは幸せではないのですね。
「はい、そのとおりです」

――苦しんでいるのですか?
「いいえ」

――何があなたには欠けているのですか?
「心の安らぎです」

――霊になっているのに、どうして心の安らぎが得られないのですか?
「過去が悔やまれてならないからです」

――ということは、悔い改めの最中だということですか?
「いいえ。これからのことが怖いのです」

――何を恐れているのですか?
「どうなるか分からない為に怖いのです」

――地上にいた時に、どんなことをしたのか、教えて頂けますか? そうすれば、色々なことが、はっきりしてくると思います。

「私は、地上では何もしませんでした」

――社会的には、どの辺りにいたのですか?
「中くらいのところです」

――結婚は?
「結婚しており、子供もいました」

――では、妻として、母として、一生懸命、日々の義務を果たしたのですね?

「いいえ。夫には飽き飽きしていましたし、子供には何の関心も持てませんでした」

――それでは、何をして過ごしたのですか?

「娘の時は、どうでもいいようなことをして、おもしろおかしく過ごし、結婚してからは、若い妻として退屈していたのです」

――何か職業には就いたのですか?
「いいえ」

――では、家のことは誰がやっていたのですか?
「女中がいました」

――そうして無意味に過ごした為に、後悔しており、また、行く末が心配なのですね?
「多分、そうだと思います」

――悔い改めるだけでは、おそらくダメでしょうね。その無意味な生存を償う意味で、周りにいて苦しんでいる霊達を助けてあげてはいかがでしょう。

「えっ、どうすればいいのですか?」

――助言を与え、祈ってあげて、彼らが向上するのを助けるのです。
「どうやってお祈りをすればいいのか分かりません」

――では、一緒に祈ってみましょう。そうすれば、やり方が分かるはずです。いいですか?

「いえ、結構です」

――どうしてですか?
「面倒くさいから――」

霊媒の指導霊モノーからのメッセージ:「地上で過ちを犯した為に償いをさせられている霊達の、様々な苦しみ、立場を見ることによって、色々と学んで頂きたいのです。

アンジェルは、自主性を持たなかった為に、自分自身に対しても、また、他者に対しても、意味のない人生を送った人間の例です。

どうでもよい快楽に心を奪われ、根気よく学ぶことをせず、家族に対する義務と社会に対する義務を、まったく果たしませんでした。義務を果たすことによって初めて、人間の心は、人生に魅力を見出すことが可能となるのにもかかわらず、です。義務というのは、どんな年齢でも見出すことが出来ます。

若い時、彼女は、意味のない気晴らしをして、いたずらに時を過ごしました。

結婚して、真面目に義務を果たさねばならなくなったのに、彼女の周りには空虚な世界が広がっていました。それは、彼女の心が空虚だったからなのです。特に重大な過失はありませんでしたが、これといって特に取り立てるべき点もなく、夫を不幸にし、子供達の未来を台無しにしました。

そして、投げやりと無気力の為に、子供達が快適に暮らす権利を損ないました。第一に、自分自身のダメな姿を見せることで、第二に、女中に彼らの世話を任せきりにすることで、子供達の判断力と心を狂わせたのです。しかも、自分自身で女中を選ぶことさえしませんでした。

彼女は、価値のあることをしないことによって罪を犯したのです。というのも、悪は、善を行わないことによっても発生するからです。悪を行わないだけでは十分ではないということを知ってください。それとは逆に、期待されている徳を実践して、積極的に善を行う必要もあるのです。

神が何を望んでおられるのかを、よく考えてください。悪の道への入り口で立ち止まることだけではなくて、そこから引き返し、積極的に善の道を進んで行くことを、神は望んでおられるのです。

悪と善とは対立するものです。ですから、悪を避けたいと思うなら、それとは反対の善の道に入り、しかも、その道を前進する必要があるのです。そうでなければ、人生は無意味なものとなります。その場合には、死んでいるのも同然です。

いいですか、私達の神は、死せる者の神ではなく、生ける者の神なのですよ」

――アンジェルの、直前の転生は、どのようなものだったのでしょうか? 今回の人生は、その帰結なのですか?

「修道院で、怠惰に、何もせずに過ごしました。そして、今回、家族を持つことを希望したのですが、怠惰とエゴイズムが骨の髄まで染みているせいか、殆ど改善が見られませんでした。『このままでは、まずい』と、内なる声が囁くのですが、彼女はそれを無視しました。上り坂は緩やかであったにもかかわらず、彼女は、入り口のところで諦めてしまい、努力を放棄したのです。

今でも、『こういうふうに、どっちつかずの生き方をしていてはいけない』ということは分かっているのですが、そこから出る為に努力する力が湧いてこないのです。

彼女の為に祈ってあげてください。彼女は目覚める必要があるのです。目を見開いて光を見るように、促してあげてください。これは、あなたにとっての義務です。しっかり、この義務を果たすように。

人間は活動するように創られています。霊的に活発であること、これが人間の本質であり、体を動かすことは、それに伴う義務です。しだかって、永遠の安らぎを運命づけられている霊として、あなた自身の存在の本質にかかわる条件を満たしなさい。

肉体は、霊に奉仕する為にあるのであって、あなたの知性に使われる道具でしかないのですよ。学び、そして、知性を高めなさい。そうすることによって、知性は、救済の為の道具として肉体を使いこなし、自らの使命を果たすことが可能となるのです。肉体を上手に使いこなすのです。『あなたが憧れている心の安らぎは、肉体による労働の後にしか訪れない』ということを知りなさい。したがって、仕事を怠ければ、その間中、不安になりながら待ち続けることになるのです。

働きなさい。絶えず仕事をしなさい。義務をことごとく遂行するのです。熱意を持って、粘り強く、根気よく、義務を果たすのです。信仰があなたを支えてくれるでしょう。

誰もが避けるような、社会の中で卑しいとされている、そうした義務を、朗らかな気持ちで行いなさい。神の目から見て、そうした人は、他人に義務を押し付けて自分は楽をしている人間に比べて、百倍も千倍も優れているのです。

全てが、天に向かって上る為の階段になっているのです。どうか、その大切な階段をないがしろにしないでください。

そして、天使達が、いつも、あなたに手を差し伸べているということを、忘れないでくださいね。天使達は、神の為に命を使おうとしている人達を、決して放っておきません。必ず、そういう人達を支援します」

(3)女王ドゥード――フランスで死亡したインド人
インド人であるが、一八五八年、フランスで死亡。

――地上を去るときには、どんな感じがしましたか?
「どう言っていいのか分かりません。まだ混乱しているからです」

――いま、幸福ですか?

「自分の生き方を後悔しています――。なぜか、よく分からないのですが――、鋭い苦痛を感じます。『死ねば自由になれる』と思っていたのですが――。ああ、体が墓から抜け出せるとよいのに」

――インドに埋葬されなかったこと、つまり、キリスト教徒たちのあいだに埋められたことを悔やんでいますか?

「はい。インドの地であれば、こんなに体が重い感じはしなかったでしょう」

――あなたの亡骸(なきがら)に対して行われた儀式については、どう感じていますか?

「ほとんど意味がありません。わたくしは女王であったというのにわたくしの墓の前で、みながひざまずいたわけではありませんでしたから――。

ああ、どうか放っておいていただけませんか――。わたくしは、話すように強制されていますが、本当は、わたくしが、いまどんな状態であるか、知られたくないのです――。わたくしは女王であったのですよ。どうか、察してください」

――私たちは、あなたに対して敬意を持っています。私たちの大切な教訓にしたいと思いますので、どうか質問にお答えいただきたいのです。

あなたの息子さんは、将来、国を復興させると思いですか?

「もちろんです。わたくしの血を引き継いでいますから、あの子には、充分、その資格があるはずです」

――いまでも、生前と同じく、息子さんの名誉が回復されることをお望みですか?

「わたくしの血が大衆の中に混じることはありえません」

――死亡証明書に、あなたの出生地を書くことができませんでした。いま教えていただけますか?

「わたくしは、インドでも最も高貴な家柄に生まれました。デリーで生まれたはずです」

――あなたは、あれほどの豪奢(ごうしゃ)に囲まれ、栄光に包まれて生涯を過ごされました。そのことを、いま、どのように感じておられますか?

「あれは当然のことです」

――地上では、たいへん高い身分であられたわけですが、霊界に還られたいまも、同じように高い身分をお持ちなのですか?

「わたくしは常に女王です!
ああ、誰か、誰かおらぬか? 早く奴隷を連れてきなさい! 身のまわりの世話をする者がいないではないか! いったい何をしているのか! 早く! ――。ああ、どうしたのだろう? ここでは、誰もわたくしのことを気にかけてくれないようだ――。
でも、わたくしは常に女王――」

――あなたはイスラム教徒だったのですか? それとも、ヒンドゥー教徒だったのですか?

「イスラム教徒でした。でも、わたくしは神よりも偉大であったので、神にかかわる必要はなかったのです」

――イスラム教もキリスト教も、人間を幸福にするための宗教ですが、両者には、どのような違いがあるとお考えですか?

「キリスト教は、ばかげた宗教です。だって『人類全員が兄弟だ』などと言うのですから」

――マホメットについては、どうお考えですか?
「あの男は王家の者ではありませんでした」

――マホメットには神聖な使命があったのでしょうか?
「そんなことは、わたくしには関係ありません」

――キリストについては、どうお考えですか?
「大工の息子のことなど、考えたことはありません! 」

――イスラム教圏では、女性たちは男性の視線から守られていますが、これについては、どうお考えですか?

「わたくしは、女とは支配する存在だと思っております。そして、わたくしは女でした」

――ヨーロッパの女性たちが謳歌(おうか)している自由をうらやましいと思ったことはありませんか?

「ありません。彼女たちの自由にどんな意味があるというのかしら? 奴隷を持つ自由すらないのに」

――今回の転生以前に、どのような転生をされていたか、思い出すことはできますか?

「わたくしは、いつだって女王として転生しているはずです! 」

――お呼びしたとき、どうして、あんなにすばやく来られたのですか?

「わたくしは、いやだったのですが、そのように強制されたのです――。わたくしが喜んで質問に答えているとでも思っているのですか? あなたは、自分をいったい誰だと思っているの?」

――誰に強制されたのですか?

「知らない者です――。でも、おかしい――。わたくしに命令できる者などいないはずなのに」

――いま、どのような姿をしていますか?

「常に女王です! ――。もしや、わたくしが女王ではなくなったなどと――。無礼者! 下がりなさい! それが女王に対する口のきき方ですか! 」

――もし、われわれが、あなたのお姿を見ることができるとしたら、豪華な衣装を身につけた、宝石で飾られたお姿を見ることになるのでしょうか?

「当たり前です! 」

――地上から去られたというのに、まだ衣装や宝石を身につけておられるのですか?

「もちろんです! ――。そのままです。わたくしは、相変わらず、地上にいたときのように美しいのです――。いったい、わたくしがどんな姿になっていると思っているの? 見えもしないくせに! 」

――ここにいらして、どのような印象をお持ちですか?

「できることなら来たくありませんでした。あなたがたの態度がぶしつけだからです。あなたがたは、いったい、わたくしが女王であることを知っているのですか?」

聖ルイからのメッセージ:「そろそろ帰してあげましょう。かわいそうに、完全に迷っています。本当に気の毒な方です。さあ、これをよき教訓としなさい。高すぎるプライドのせいで、どれくらい彼女が苦しんでいるか、あなたがたには分かりますか?」

いまは墓の中にいる、この身分の高い女性を招霊することにより、インドの女性が受ける情操教育の面に関して、これほど意味深長な返答が得られるとは思ってもみなかった。

われわれは、むしろ、哲学とまでは言えないにしても、地上での栄華や身分の虚しさに対する健全な評価が引き出されるものと思っていた。ところが、まったくそうではなかった。この霊は、地上時代の考えをそっくりそのまま持ち続けていたのである。

特に、プライドという幻想は完全に保たれており、そのために、自分の弱さを認められない。そして、そのことで非常に苦しんでいるのである。

この章全体に関して言えば、強情な霊たちが、すべて、意地悪、かつ邪悪であるわけではない。「悪をなそう」と思っているわけではなくても、傲慢(ごうまん)、無関心、あるいは無気力から、強情となり、停滞している霊の数は、そうとう多いのである。

だが彼らの不幸が、より耐えやすいわけではない。というのも、この世的な気晴らしがないだけに、「何もすることがない」という状態は、大変な苦しみとなるからだ。「苦しみが、いつ終わるか分らない」ということは、実に耐えがたいことである。

しかし、彼らには、それを変える気がないのである。彼らは、地上にいるときに、自分自身に対しても、他人に対しても、役に立つことは何もせず、いわば無用の存在であった。そして、そのうちの、かなりの数の者たちが、人生に嫌気がさして、特に理由もなく自殺するのである。

こうした霊たちよりも、はっきりとした悪霊たちの方が、かえって救いやすい。悪霊たちは、少なくともエネルギーにあふれており、いったん目を覚ませば、悪に邁進(まいしん)していたのと同じくらい熱心に、善の道を突き進むことになるからだ。

無気力な霊たちがはっきり感じられるほど進歩するためには、数多くの転生を経験する必要があるだろう。ほんの少しずつだが、退屈に邪魔されながらも、何らかの職業に就いて、そこに楽しみを見出す、そして、やがては、その職業が必要と感じられるようになるまで頑張る。こうして、ゆっくりと向上していけばよいであろう。

第7章 この世で過去世(かこぜ)の償いをした霊
(1)マルセル――高貴な感情を持つ子供
田舎の、ある病院に、8歳位の子供が収容されていたが、その無惨な様子は、描写することすら不可能な位だった。生まれつきの奇形、そして、病気による変形のせいで、足がねじ曲がり、首に接触していた。ひどく痩せているので、骨の突き出ている部分の皮膚が破れていた。したがって、体中、傷だらけで、その苦しみたるや、本当にひどいものだった。

この子は、ひどく貧しいユダヤ教徒の家庭に生まれ、4年前から、こうして入院しているのだった。
年のわりに知性が非常に高く、思いやり、忍耐力、我慢強さが際立っていた。

家族が殆ど見舞いに来なかったので、この子を担当していた医者は、この子に同情し、関心を抱き、この子とよく話をし、その早熟な知性に魅了されていた。ただ優しく接するだけでなく、時間のある時には、本を持ってきて読み聞かせたが、この子が見せる、年齢に相応しくない高度な判断力に、しばしば驚くのだった。

ある日、この子が医者に言った。
「先生、この前みたいに、僕に、たくさんお薬をください」

「どうしてかな? 充分あげたはずだけど。あまり飲み過ぎると、かえって具合が悪くなるよ」

「すごく痛いので、我慢しようと思っても、どうしても叫んでしまうんです。周りの患者さん達に迷惑をかけないようにしたいって、神様にお祈りするんですけど、どうしても迷惑をかけてしまうんです。お薬を飲むと、寝てしまうでしょう? その間は、誰にも迷惑をかけないで済むから――」

この言葉を聞いただけで、この奇形の体に宿る子供の魂が、どれほど高い境涯にあるかが分かるだろう。

この子は、一体どこから、こうした高貴な感情を学んだのだろうか? 家族から学んだのではないことだけは確かである。それに、そもそも、この子が苦しみ出した年齢では、到底物事の理非は分からなかったはずである。ということは、この子の感情は、生まれつきのものであったと考えざるを得ない。

しかし、もしそうだとするならば、こうした高貴な感じ方をする子供に対し、どうして、神は、これほど悲惨な、苦しみに満ちた人生をお与えになったのだろうか? 神が無慈悲だということなのか、或は、過去世に何らかの原因があったのだろうか?

しばらくして、この子は、神様と、世話をしてくれた医者に、深い感謝の言葉を残しつつ、死んでいった。

死後、暫くしてから、パリ霊実在主義協会が催したセッションで、この子の霊が招霊され、次のようなメッセージを伝えてきた。

「招霊してくださり、ありがとうございます。『これからお話することが、この小さな集いを超えて、あらゆる人々の心に届いて欲しい』と思いながら、お話させて頂きます。私の声の響きが、あらゆる人々の孤独な魂に届いたとすれば、どれ程嬉しいことでしょう。

さて、地上での苦悩は、天上界での喜びを準備するものです。そして、苦しみというのは、美味しい果肉を包む、苦い外皮でしかないのです。

祖末なベッドの上に横たわっている哀れな人達に、実は、神が意図的に地上に送り込まれた人々であり、この人達は、人類に、『全能なる神と天使達の助けがあれば、どんな苦しみでも耐えることが出来る』ということを教えようとしているのです。そうして、『うめき声に込められた祈りをしっかり聞き取れるようにしなさい』と言っているのです。

こうしたうめき声をよく聞けば、そこには、敬虔な魂から発せられる、調和に満ちた響きがこもっているのが分かります。そうしたうめき声と、悪人達の発する、冒涜の込められたうめき声とは、しっかり区別しなければなりません。

霊実在論の運動を指導している高級諸霊のうちのお一人、聖アウグスティヌス様が、今晩、ここに私が来ることを望まれたのです。したがって、私の方から、霊実在論を進化させるような内容のお話をさせて頂きたいと思います。

霊実在論は、苦しみを学ぶ為に地上に生まれている人々をも支援することの出来るものでなければなりません。霊実在論は人生の道標になるべきなのです。そして、規範を示し、社会に対する発言権を獲得する必要があるのです。そうすれば、苦しむ人々の嘆きは、歓喜の叫びに変わり、喜びの涙に変わるはずです」

――今あなたがおっしゃったことからすると、「あなたの地上での苦しみは、過去世で犯した罪を償う為のものではなかった」ということになりますか?

「直接的な償いではありませんでした。しかし、どんな苦しみにも正当な理由があるものです。

あなた方がご覧になった、かくも惨めな姿をしていた者は、ある過去世で、美しく、偉大で、豊かで、賞賛に囲まれて暮らしていたことがありました。そして、その為に、自惚れて、慢心したのです。当然のことながら、数々の罪を犯しました。彼は神を否定し、隣人達に対して悪をなしました。

そして、その結果として、まず、霊界に還ってから、非常に厳しい形でそれを償い、そして、さらに、地上に降りて、それを償ったのです。今回の人生では、ほんの数年間、罪を償ったにすぎませんが、別の人生では、非常に高い年齢まで生きて、長い長い一生の間、罪を償ったこともあるのです。

このようにして、悔い改めることにより、私は再び神の恩寵に恵まれるようになりました。

そして、神は、私にいくつかの使命をお与えくださったのです。今回の転生は、その最後のものでした。この厳しい人生を、私は、浄化を完成させる為に、神に願い出たのです。

それでは、友人達よ、これで帰ります。また戻ってまいりましょう。私の使命は、教訓を与えることではなくて、慰めることなのです。ここには、心の中に傷口を隠し持っている人が数多くいますので、私の訪問も、何らかの役には立ったのではないかと思います」

霊媒の指導霊である聖アウグスティヌスからのメッセージ:「この哀れな子供は、弱々しく、潰瘍にかかり、苦しみ、しかも奇形であった。悲惨と涙の避難所であったあの病院で、どれほどのうめき声を上げたことだろう!

そして、幼かったにもかかわらず、そうした苦しみの目的をしっかりと理解していて、立派に我慢したのです。墓の彼方に行けば、そのようにして耐えたことに対して素晴らしい褒美が用意されていることを、幼い心で感じ取っていたのです。

さらに、自分と同様、痛みに耐える術のない人々の為に祈り、かつまた、祈りの代わりに天に向かって冒涜の言葉を投げつける人々の為に祈ったのです。

苦しみは長く続きましたが、死の瞬間には、全く問題はありませんでした。四肢は痙攣してねじ曲がり、奇形の体が死に対して反抗しているように見えたと思いますが、これは、単に肉体が生き延びようとしていたにすぎません。

しかし、その時、危篤状態の、この子のベッドの上には、天使が舞い降りて、心の傷を癒していたのです。そして、肉体から解放された美しい魂を、その白い羽根に乗せて運びながら、次のように言っていたのです。

『神よ、あなたの栄光が、また一つ、地上から戻ってまいりました! 』

全能なる神の方へと昇っていきながら、この魂は、次のように叫びました。

『主よ、戻ってまいりました。あなたは、私に、苦しみを学ぶという使命をお与えになりました。私は、この試練に、しっかり耐えることが出来たでしょうか?』

現在では、この哀れな子供の霊は、もとの姿を取り戻しており、弱い者達、小さい者達のところに行き、次のように、囁いて回っています。

『希望を持って! 勇気を出して! 』

物質から完全に離脱し、一切の汚れを洗い清められて、今、この霊は、あなた方の側におり、あなた方に話しかけています。その声は、もう、かつての、苦しげな、哀れな声ではありません。雄々しい響きに満ちております。そうして、こう言うのです。

『かつて地上にて私を見た人々は、そこに、不満を決して漏らさない男の子を見ました。そして、その子から、静かに痛みに耐える力を得たのです。そして、彼らの心は、神に対する穏やかな信頼に満たされました。これこそが、私の、地上での短い滞在の目的だったのです』」

(2)物乞いのマックス
バヴィエールの村で、一八五〇年、「マックス親父」という名で親しまれていた百歳近い乞食が亡くなった。

彼の出身地を正確に知っている人は誰もいなかった。彼は天涯孤独だった。体が不自由だった為、まともな仕事をすることが出来なかったので、物乞いをして生活していたが、時には、万用暦や細々としたものを農場やお城に売りに行くこともあった。

時に「マックス伯爵」というあだ名で呼ばれ、子供達からは「伯爵様」と呼ばれていたが、気を悪くするということはなかった。どうして、そう呼ばれていたのかは、誰も知らなかった。とにかく、それが習慣になっていたのだ。おそらく、彼の顔立ちや立ち居振る舞いのせいではなかっただろうか。それらは、身にまとっているボロとは対照的であった。

死後数年して、彼がよく世話になっていたお城の、ある若い娘の夢の中に出てきて、次のように語った。

「この哀れなマックス親父のことを思い出してくださり、そして、祈ってくださり、本当にありがとうございました。お祈りは神様に聞き届けられました。あなたは、慈悲深い魂として、不幸な、この乞食に関心を抱いてくださり、私が一体何者なのかを知りたいと思われた。そこで、これから、そのことについてお話いたしましょう。きっと、貴重な教訓を、そこから学べるものと思います」

こう前置きした上で、彼は、おおよそ次のようなことを語ったという。

「今から一世紀半程前、私は、この地方の裕福で強大な貴族でした。しかし、浅薄で傲慢、かつ、大変自惚れていたのです。

私は莫大な財産を持っていましたが、それを自分の欲望を遂げる為だけに使いました。しかし、いくら財産があっても足りなかったのです。というのも、私は、しょっちゅう博打を打ち、放蕩と宴会に明け暮れていたからです。

家臣達のことを、私に仕える家畜同様に思っており、私の浪費癖を満たす為に、搾り取り、虐待いたしました。彼らの言うことには一切耳を傾けず――不幸な人々の訴えにも耳を貸しませんでしたが――、『私の気まぐれに奉仕出来るだけでも、ありがたいと感謝しなければならないのだ』と思い込んでいました。

やがて、私は、過度の放蕩から体を壊し、それほど年が行かぬうちに死にましたが、不幸だと思ったことは一度もありませんでした。それどころか、『あらゆるものが私に微笑みかけている』と思っていたのです。『あらゆる人が、私を、世界で一番幸福な人間だと思っているに違いない』と考えていました。

葬儀は、私の身分に相応しく、大変豪華に行われました。

遊び人達は、気前のいい殿様がいなくなったことを残念がっていましたが、私の墓の前で、一滴も涙を流す人はいませんでしたし、神に心からのお祈りをしてくれる人も、一人もいませんでした。

私のせいで悲惨な生活をする羽目になった人々は、全員、私を呪いました。

ああ、自分が不幸にした人々の呪いが、死後、どれほど恐ろしいものになるか、あなた方には、到底分からないでしょう! 彼らの呪いの声が私の耳を捉えて放さず、それが何年も何年も続き、やがて、『永遠に続くのではないか』と思われてくるのです。

しかも、彼らのうちの誰かが死ねば、次々と、必ず私の前に姿を現し、呪詛の言葉、嘲笑の言葉を吐きながら、いつまでも私に付きまとうのです。逃げ隠れ出来る場所を探すのですが、決して見つかりません。優しい眼差しをした人は一人もいないのです。

かつての遊び仲間が死ぬと、私同様不幸となり、私を避けようとします。言うことときたら、たった一つ、『もう奢ってくれないのかね! 』という言葉だけです。

ああ、ほんの1秒でもいいから休息する為なら、そして、私をさいなむ激しい喉の渇きを癒す為なら、いくらでも払うでしょう。しかし、私はもう、びた一文も持っていないのです。

そして、私がばらまき続けた黄金は、ただの一つも功徳をつくっていなかったのです。いいですか! ただの一つもですよ!

歩いても歩いても、旅の目的地が見えてこない旅人のように、疲れ果て、精も根も尽きて、私はついに言いました。

『ああ、神よ、私を哀れんでください。いつになったら、この酷い状態が終わるのでしょうか?』

すると、地上を去って以来、初めて、次のような声が聞こえてきました。
『いつでも、汝が望む時に』

『神よ、その為には、どうすればいいのですか? どうぞ教えてください。その為ならば、私は何でもいたします』

『その為には、悔い改めることが必要である。汝が辱めた、全ての人に対し、心から謝るのだ。そして、彼らに対して、とりなしをしてくれるようにお願いしなさい。というのも、侮辱を受けた人々が、それを許す気持ちになって自分を侮辱した者の為に祈った時、神はそれをよしとするからなのだ』

私は、悔い改め、謝り、私の家臣達に、私の目の前にいる家来達に、お願いしました。すると、彼らの表情が、どんどん和らぎ、優しくなり、そして、ついには、全員が私の目の前から消えていったのです。

この時、ようやく私の新たな生活が始まりました。絶望が希望に変わったのです。私は全身全霊で神に感謝しました。

すると、声が次のように言いました。
『王よ! ようやく分かりましたね』

そこで、私はこう答えました。

『ここで王と呼べるのは、全能の神よ、あなただけです。あなたは、思い上がった者達の間違いを正してくださる。

主よ、どうか私をお許しください。私は罪を犯しました。もし、それが主の望まれることならば、私の仕えた者達に私を仕えさせてください』

その後、数年してから、私は再び地上に生まれました。ただし、今度は、貧しい村人の子供としてでした。幼い頃、両親が亡くなり、私は天涯孤独の孤児として、世の中に投げ出されました。私は、とにかく自分に出来ることをして生き延びました。ある時は人足として、またある時は農場の使い走りとして。しかし、今回は、神を信じていましたので、いつも正直に働きました。

40歳の時に、病気になり、手足が動かなくなってしまいました。その為、それから50年以上にわたって、かつて自分が『絶対君主』として治めた土地で、乞食として過ごすことになったのです。

かつて私が所有していた農場で、一切れのパンを貰い――そこでは、人々が、私を馬鹿にして『伯爵』と呼んでいましたが――、かつては私のものだったお城で、馬小屋に一晩でも泊めてもらうことが出来ると、もう、嬉しくて仕方がなかったものです。

夢の中で、かつて暴君として君臨していた城の中を歩き回りました。夢の中で、何度も何度も、きらびやかな家具に囲まれた、かつての自分を見たのです。そして、目が覚めると、言いようのない、侘しい気持ちになり、後悔にさいなまれたものです。しかし、一言も不平は漏らしませんでした。

そして、ついに神に召される時が来ました。私は、この長く辛い試練を、不平不満を一言も言うことなく耐える勇気を与えてくださった神に対して、心からの感謝を捧げたものです。そして、現在、苦しかった人生に対する報いを充分に受けています。

娘さん、私の為に祈ってくださって本当にありがとう。あなたを祝福します」

(3)主人に献身的に仕えた召使い
ある貴族の家庭に、一人の若い召使いが仕えていた。この少年は、大変知的で繊細な顔立ちをしており、その立ち居振る舞いの優雅さが、皆を驚かせた。そのどこにも、身分の低さを感じさせるものがなかったのである。主人達に熱心に仕えようとする、その姿勢には、こうした境遇にある人々に特有な、卑屈さを伴った、こびへつらいの態度が、微塵も見られなかった。

翌年、再び、この家庭を訪ねると、この召使いの姿が見えなかったので、どうしたのかと思って尋ねると、次のような答が返ってきた。

「数日の間、故郷に帰ったのですが、なんと、そこで急死してしまったのです。惜しんであまりある召使いでした。本当に優れた若者で、召使いとは思われないような気高さを備えていました。私達に、とても惹かれており、心からの忠誠を誓ってくれていたのです」

暫くして、この若者の霊を招霊することになった。以下が、その時のメッセージである。

「今回よりも一つ前の転生において、私は、地上の人々が良家と呼ぶような家柄に生まれました。しかし、この家は、父の浪費によって破産したのです。私は、幼くして孤児となり、生きるよすががありませんでした。

そんな時、父の友人が私を引き取ってくれ、まるで自分の息子であるかのように、大事に育ててくれました。私は、大変立派な教育を受けましたが、そのせいで、大分傲慢な心を持つようになりました。

この時の父の友人が、今回の人生では、私が仕えた貴族のG氏として生まれ変わっております。私は、今回の人生において、低い身分に生まれることで、私の傲慢な性格を矯めようと思いました。そして、『私の面倒を見てくださった方に仕える』という形で、奉仕の心を試練にかけてみたわけなのです。G氏の生命を救ったこともあります。

今回の人生は、そういうことで、一種の試練だったのですが、私は、何とか、それをやり遂げることが出来ました。

劣悪な環境で育ちましたので、そうした環境の影響を受けて堕落しても何の不思議もなかったのです。しかし、周りが悪いお手本だらけだったにもかかわらず、私は堕落せずに済みました。そのことで神に感謝したいと思います。

現在、私は非常な幸福に恵まれており、充分に報われております」

――どのような状況で、G氏の生命を救ったのですか?

「氏が馬に乗って散歩するのに従ったことがありました。付き人は私一人だけでした。突然、大木が倒れかかってきたのですが、氏は、そのことに、全く気づきませんでした。そこで、私はもの凄い大声を上げて、G氏の名を呼んだのです。G氏は、さっと振り向きましたが、その瞬間、木は氏を直撃せずに、足元に轟音を立てて倒れました。私がそうしなかったら、氏はその大木に潰されていたでしょう」

――どうして、そんな若さで亡くなったのですか?
「私の試練がこれで充分だと神が判断されたからです」

――地上では、過去世の記憶が失われていますから、当然、あなたには試練の意味が分からなかったわけですが、それにもかかわらず、しっかりと試練に耐えることが出来たのは、どうしてですか?

「低い身分に生まれたとはいえ、私の内には、まるで本能のように傲慢な心がありました。しかし、幸いなことに、私は、何とか、その傲慢な心を統御することに成功したのです。それが、試練を克服出来た理由でしょう。もし、そうでなければ、もう一度やり直すことになったはずです。

生前、私の霊は、私の睡眠中に自由になり、過去世のことを思い出していたのです。そして、その為に、目を覚ました私の中に、私の悪しき傾向性に抵抗しようとする本能的な気持ちが生じたのだろうと思います。

過去世のことを、通常の意識状態で、はっきり思い出していたら、このようにはいかなかったでしょう。というのも、もし過去世のことをはっきり思い出していたとすれば、おそらく傲慢な気持ちが再び生じてきて混乱し、それと闘う必要が出て来ただろうからです。しかし、過去世を顕在意識で思い出さなかったので、私が闘うべき対象は、新しい境遇に伴う試練のみに限られたのです」

――「今回よりも一つ前の転生において、立派な教育を受けた」ということですが、今回の転生において、その教育によって得た知識を思い出さなかったのですから、その教育は役に立たなかったと言えるのではないでしょうか?

「確かに、そうした知識は無駄だったかもしれません。むしろ、今回の境遇においては邪魔だったかもしれません。しかし、それらは、地上において、潜在的な形で私に影響していたのです。しかも、霊界に還れば、完全に思い出すことが可能です。

とはいえ、それが無駄であったわけではありません。というのも、それによって、私の知性が発達したからです。今回の人生において、私は、本能的に、高尚なものに惹かれました。その為に、低劣な、恥ずべきものを退けることが出来たのです。その教育がなければ、私は本当に単なる召使いで終わっていたでしょう」

――自分を犠牲にしてまで主人に仕える召使いというのは、過去世において、その主人と何らかの関係を持っていたと考えるべきなのでしょうか?

「その通りだと思います。少なくとも、通常のケースでは、そうだろうと思います。召使いが、その家族のメンバーだったこともあるでしょうし、また、私の場合のように、過去世で恩を受けていて、それを返す為に召使いになったというケースもあるでしょう。

いずれにしても、その奉仕によって、主人の家族のメンバーは、精神的に進歩することになるのです。

過去世での関係が今世で生じさせる共感と反感は、あまりにも沢山あるので、その全てについて知ることは、とても出来ません。死んだからといって、地上での関係が断ち切られるわけではないのです。それは、しばしば、何世紀にもわたって継続します」

――今日では、献身的な召使いというのは、殆ど見られませんが、それは、どうしてなのですか?

「この十九世紀が、エゴイズムと傲慢の世紀だからでしょう。そこには、不信仰と唯物主義がはびこっています。物欲、強欲の蔓延する場所には、真の信仰は見られません。そして、真の信仰なしには、献身は有り得ないのです。
霊実在論は、人々に真の感情を思い出させ、そのことによって、忘れ去られた様々な美徳を回復するでしょう」

この例を見ると、「過去世を忘れていることが、どれほどありがたいか」ということがよく分かる。

もし、G氏が、自分の召使いが誰であったかを覚えていたとしたら、彼と一緒にいて、非常に困惑しただろうし、おそらく、召使いとして使うことは出来なかっただろう。もしそうなったとしたら、二人にとって為になるはずの試練が台無しになっていたはずである。

(4)ある野心的な医者の転生
ボルッドーのB夫人は、経済的苦境には陥らなかったものの、生涯を通じて、無数の病気にかかり、大変な肉体的苦痛をこうむった。

生後5ヶ月のときに始まり、その後の60年間というもの、ほとんど毎年、重病にかかっては、死の一歩手前まで行った。いかがわしい医者から、三度、あやしい薬を飲まされたこともあり、病気によってだけではなく薬によっても彼女の健康は害され、生涯を終えるまで、耐えがたい苦しみに悩まされて、それを和らげるすべはなかった。

キリスト教徒であり、霊実在主義者でもあり、また霊媒でもあった彼女の娘が、祈りの中で、神に、「母親のひどい苦痛を和らげてください」とお願いしたことがある。

すると、指導霊が出てきて、「むしろ、母親が、諦念(ていねん)と忍耐心をもって苦しみに耐える力を得ることができるよう、神様にお願いしなさい」と言い、さらに、次のようなメッセージを伝えてきた。

「地上においては、すべてに意味があります。【あなたが原因となって他者に味わわせた苦しみ】は、必ず、ブーメランのように、あなたのところへ戻ってくるようになっているのです。何かを浪費すれば、必ず不足に悩まされます。あなたが流す涙は、どの涙も、ある過ちを、あるいは、ある罪を洗い流すものであるのです。

したがって、どのような、肉体的、精神的苦痛であろうと、諦念をもって耐え忍びなさい。

身を粉(こ)にして、休むことなく働きつづける農夫には、その根気に対するほうびとして、黄金色に輝く、山のような麦の穂が与えられるのです。これが、地上において悩み苦しむ人間の運命なのです。忍耐の結果、得られる、素晴らしい収穫を心に描けば、人間生活に付きものの、たまゆらの苦労など、簡単に乗り越えることができるのです。

あなたのお母さんに起こっていることも同じです。苦しみの一つひとつが、彼女が過去に犯した罪に対する贖(あがな)いとなっているのです。そうした罪を早く消し去れば消し去るほど、幸福が早く訪れます。諦念とともに耐え忍ばない場合、苦痛は不毛なものとなるでしょう。つまり、もう一度、経験しなければならなくなるのです。

したがって、彼女にとって、いまいちばん必要なのは、勇気と素直さなのです。それこそ、神、そして高級諸神霊に対し、与えてくださいとお願いすべきでしょう。

あなたのお母さんは、ある過去世で男性として生まれ、たいへん裕福な人々を相手に医者をしていました。彼らは、『健康のためならお金に糸目は付けない』という人々であったので、この医者は、経済的に非常に恵まれ、また、素晴らしい名声も得ました。

栄光と富に対して野心を抱いていたので、彼は、医学界の頂点を極めようとしました。ただし、『同胞たちを救いたい』という思いからそうしたのではなくて、ただ単に、さらなる名声を得たいがためにそうしたにすぎませんでした。しかし、金持ちの患者に恵まれていたので、そうした目的を達成することには何の困難もありませんでした。

そして、そのために、とうてい考えられないような、ひどい実験を繰り返したのです。

痙攣(けいれん)を研究するために、ある母親に、わざと、ある薬を飲ませて痙攣を起こさせ、この母親を、苦しみのうちに死に至らしめました。ある病気の治療薬を見つけるために、子供を使って残酷な実験を行いました。また、ある年寄りが、実験によって命を縮めました。屈強な男が、ある飲み薬の効果を確かめる実験によって、見るも哀れな病人になりました。

そして、実験は、すべて、何の疑いも持っていない患者たちに対して行われたのです。

貪欲と傲慢、名声への渇望(かつぼう)が、その動機のすべてでした。

この霊が、ようやく悔悟(かいご)の心を持てるようになるまでには、死後、何世紀にもわたって、恐るべき試練にさらされる必要がありました。そして、それから、ようやく再生のための贖(あがな)いが開始されました。今回の人生の試練は、それまでに体験したことに比べれば、まだまだ薬であると言えるのです。

したがって、今世は、勇気をもって、そうした試練に耐えなければなりません。苦しみはひどく、また長いかもしれませんが、忍耐強く、諦念をもって、謙虚に耐え忍んでください。そうすれば、それに対する報いは大きなものとなるのです。

苦しんでいる人々よ、どうか勇気を持ってください。物質世界での生活など、ほんの一瞬なのです。その後に待っている永遠の喜びを、どうか思い描いていただきたいのです。

希望という友に呼びかけないさい。そうすれば、希望は、必ず、苦しみを和らげに、あなたのそばに来てくれます。希望の姉である信仰にも呼びかけなさい。信仰は、天国をかいま見せてくれるでしょう。そして、希望があれば、より容易に天国に入れるのです。

さらに、天使たちを送ってくださるように、神様にお願いしなさい。天使たちは、あなたを囲み、あなたを支え、あなたを愛してくれるでしょう。天使たちの、変わることのない思いやりに励まされて、あなたが、その法を犯し、冒涜(ぼうとく)した神様のところへと、再び戻ることが可能となるのです」

B夫人は、死後、娘、そしてパリ霊実在主義協会に霊示を送ってきた。それは、たいへん卓越した内容のものであったが、そこで、彼女は、指導霊によって明かされた自分の前歴をすべて認めた。

(5)ジョゼフ・メートル――苦難に襲われた男性
ジョゼフ・メートルは、中産階級の家庭に生まれた。まずまず快適な生活に恵まれ、物質的には満足すべき環境であった。両親は、彼に、よい教育を受けさせ、やがて、彼が企業で働くものと考えていた。ところが、20歳のときに、彼は、突然、盲目となった。そして、一八四五年、50歳のときに亡くなった。

死の10年ほど前、彼は二つ目の苦難に襲われた。耳がまったく聞こえなくなったのである。まわりの人々とのかかわりは、触角を通じてのみ成立した。目が見えないというだけでも、すでに相当な苦しみであるのに、さらに耳が聞こえなくなったのであるから、まさに、残酷な拷問を受けているようなものであった。

いったい、なぜ、このようなことになったのだろうか? 今回の人生での振る舞いが原因でないことは明らかである。というのも、彼の生き方は申し分のないものであったからだ。

よき息子であり、柔和(にゅうわ)な性格で、思いやりに満ちていた。目が見えなくなり、さらに耳が聞こえなくなったときも、彼は、潔(いさぎよ)く、その事態を引き受けて、ひとことも不満をもらさなかった。話し振りを見れば、精神にまったく曇りがないことが分かったし、その知性は卓越したものだった。

ある人が、「彼の霊と話をすれば、きっと有益な教訓が得ることができるに違いない」と考えて、彼の霊を招霊し、質問に対する次のような返答を得た。

「友人諸君、私のことを思い出してくださって、どうもありがとう。もっとも、私との対話から教訓が引き出せると思わなければ、私のことなど思い出してはくださらなかったのでしょうが。

いずれにしても、私は喜んで諸君の招霊に応じました。『あなたがたのために役立つことで私が幸福になれる』ということで、許可されたからです。神の正義に基づいて、あなたがたに与えられた、数多くの試練の見本に、どうか私の例も加えてください。

ご存じのとおり、私は、目が見えず、また、耳も聞こえませんでした。そして、あなたがたは、私が、いったい何をしたために、そのようなことになったのかを知りたいと思っておられる。それを、これから明かしましょう。

まず、『私の目が見えなくなったのは、今回が初めてではない』ということを知っておいてください。前回の転生は、今世紀の始めごろだったのですが、そのときにも、私は30歳のときに盲目となっております。

このときには、あらゆる面で不摂生をしたために、体が衰弱し、健康を損ない、その結果として目が見えなくなったのです。それは、神からいただいた贈り物を濫用(らんよう)したことに対する罰でした。私は多くの才能に恵まれすぎていたのです。

しかし、原因が自分自身にあるということが分からずに、私は、あまり信じてもいなかった神を責めたのです。神を冒涜し、否定し、避難しました。『もし神が存在するとしたら、それは、不正で、意地の悪い神でしかない』と叫んだのです。なぜなら、こんなふうにして、自分の創造物を苦しめるからです。

しかし、目の見えない他の人々と違って、物乞いをして生活の質を得なくて済むことに、むしろ感謝すべきだったのです。だが、そうはいきませんでした。自分中心の発想しかできず、数多くの楽しみを奪われたことに我慢がなりませんでした。

そんな考えに支配され、また、信仰がなかったので、私はすっかり気難しい人間になってしまいました。すぐに苛立つ人間、ひとことで言えば、まわりの人々にとって耐えがたい人間となったわけです。

それ以来、人生の目標を失ってしまいました。将来は、もう悪夢でしかなく、考える気もなくなりました。最新のあらゆる治療を受けた果てに、治療不可能と知るや、私は絶望して、人生に終止符を打ちました。つまり自殺したのです。

だが、目覚めてみると、それまでと同じように、闇の中に置かれていたのです。しかし、徐々に、もう物質界にはいないことが分かってきました。私は盲目の霊になっていたのです。こうして、墓の彼方にも生命があるということを知ったわけです。

その生命を消して、虚無に逃げ込もうとしたのですが、どうしても、うまくいきません。空虚の中で、行き詰まってしまったのです。

『かつて人々が言っていたように、もし死後の生命が永遠だとしたら、おれは永遠にこのままなのか』と思いました。この考えは本当に恐ろしい考えでした。

痛みがあったわけではありません。しかし、私の苦しみや苦悩は耐えがたいものだったのです。いったい、どれくらい、これが続くのだろう? それが分からない。いつ終わるか分からない時間がどれほど長く感じられるか、あなたがたには分かりますか?

疲れ果て、精も根も尽き果てて、私はついに自分自身に戻ってきました。

そうすると、私を越える力が、私を支配し、重くのしかかっていることが分かってきたのです。そして、『もし、この力が私をつぶそうとしているなら、同様に、私を解放することもできるはずだ』と考えたのです。

そこで、その力に哀れみを乞いました。

心を込めて祈るうち、何となく、『このつらい状況には終わりがある』ということが分かってきました。ようやく光を得ることができたのです。清らかな神の光をかいま見、まわりに、優しくほほえんでいる、明るく輝く霊人たちの姿を見たときの私の喜びを、どうか想像してみてください。

彼らについていこうとしたのですが、何か見えない力によって、そこにとどめられました。

そのとき、霊人たちの一人がこう言うのが聞えました。

『あなたが無視していた神が、あなたが神のほうに向かれたことをよしとされて、あなたに光を与えることを、われわれに許可されました。

しかし、あなたは拘束と倦怠(けんたい)に嫌気がさしたにすぎません。もし、あなたが、ここで、みなが享受(きょうじゅ)している幸福を享受したいのであれば、その悔い改めと、よき思いが本物であることを、地上の試練を克服することによって証明しなければなりません。しかも、再び同じような過ちに陥る可能性のある条件のもとで――いや、今度は、その条件がさらに厳しくなるわけですが――そうしなければならないのです』

私は、もちろん喜んで受け入れました。そして『今度こそ、やり遂げます』と誓ったのです。
そういうわけで、再び地上に戻り、あなたがたもご存じのとおりの生活をしました。

善良に生きることは、それほど難しくありませんでした。というのも、私はもともと意地悪な人間ではなかったからです。

今回は、生まれつき信仰をもって人生を開始しました。したがって、神に不満をぶつけるということはせずに、二重の不自由を甘受(かんじゅ)したのです。至高の正義に命じられた償いだったからです。

最後の10年ほどは、目も見えず、耳も聴こえなかったために、まったくの孤立の中で過ごしましたが、それでも絶望はしませんでした。死後の世界を信じていましたし、神の慈悲を信じていたからです。

その孤立状態は、むしろ好ましくさえあったのです。というのも、完全な沈黙に満たされた長い夜のあいだ、私の魂は自由になり、永遠のほうへとあまがけてゆき、無限をかいま見ることができたからです。

そして、ようやく解放が許された日、私が霊界に還ると、そこは、壮麗(そうれい)さと素晴らしい喜びに満たされていました。

前回の転生と、今回の転生を比べてみて、いろいろなことが分かるにつれ、私は神に感謝せざるを得なくなりました。

しかし、前方を見ると、完璧な幸福に至るまでに、まだまだ、どれほど進まなくてはならないかが分かります。

私は償いを果たしました。今後は巧徳を積まなければなりません。【今回の人生は自分のために役立っただけ】だからです。

もうすぐ、また地上へ転生して、今後は他者のために役立つ生き方をしたいと思っています。そうすることで、役に立たなかった人生を補えるでしょう。そうすることで、初めて、よき念いを持ったあらゆる霊に対して開かれた、祝福された道を歩みはじめることができるのです。

以上が私のお話です。もし、このお話を聞いて、地上にいる私の同胞たちの何人かでも、啓発され、そのために、彼らが、私の落ちたぬかるみにも落ちないで済んだとしたら、私は、そのとき、ようやく〝借金〟を返しはじめたことになるのです」

第3部 死後の世界の実態と、その法則

第1章 不信と狂信を超えて
第1節 人間を不幸にする「唯物主義」という教義
死んだあと、我々は、どこへ行き、また、どうなるのだろうか?
今より楽になるのだろうか、あるいは、苦しくなるのだろうか?
死んだ後も存在し続けるのだろうか、あるいは、いなくなってしまうのだろうか?

存在を続けるのか、存在をやめてしまうのか、そのいずれかである。
永遠か、虚無か、全か、無か?
永遠に生き続けるのか、消えてしまって二度と再び戻ってこないのか?
考えてみる価値のある問題であろう。

「死んだらすべてが消滅し、完全な虚無が待っているのみ」という考え以上に恐ろしい考えがあるだろうか? 健やかな愛も、知性も、向上も、苦労して身に付けた知識も、すべてが打ち砕かれ、すべてが消滅する!というのであるから。

もしそうなら、どうして、よりよい人間になるために努力をし、苦労して欲望を統御し、一生懸命、精神を豊かにする必要があるだろうか? 何の果実も得られないのだとしたら、どうして果樹を植えるのだろうか? 何を得たところで、明日には、それがまったく役に立たなくなるとしたら、あえて、それを得ようとするだろうか?

もし本当にそうなのだとしたら、人間の運命は、動物のそれよりも、はるかに哀れむべきものとなってしまう。なぜなら、少なくとも、動物は、未来への恐れなど持たずに、今を十分に生き、物質的欲望を満たして完全に満足しているからである。

だが、我々の心のどこかで、「そんなはずはない」とささやく声がする。
死後が虚無であるならば、結局は、「今さえ良ければよい」ということになる。論理的に考えても、待っているはずのない未来にかかずらうことは出来ないからである。

「今さえ良ければよい」と考え始めると、当然、その次は、「自分さえ良ければいい」と考えることになる。まさしくエゴイズムの極致である。そして、そうなったときには、これも当然のことながら、自己信頼は失われる。

そして、「生きている間だけが華だもの。やりたい放題をやって楽しまなければ損」ということになる。しかも、いつまで生きていられるかも分からないので、とにかく手っ取り早く楽しまなければならない。「とにかく楽しまなくちゃ。自分さえ良ければいいんだ」ということで、この世での幸福だけしか考えなくなる。

世間体を気にすることは、多少はあるだろうが、それ以外に、こういう人々を思いとどまらせる要素はあるだろうか?
法律は?
だが、「法律に引っ掛かるのは、間抜けな人間だけ」と彼等は考えるだろう。そうして、法の網をくぐり抜ける算段をするに違いない。
もし、反社会的な、極めて不健全な教義があるとすれば、それこそ、まさしく死後の虚無を中心にすえた「唯物主義」という教義だろう。なぜなら、そうした教義は、社会の基盤をなす連帯と友愛の絆を完全に断ち切ってしまうからである。

第2節 伝統的宗教は無力化する
さて、いま、何らかの緊急事態が起こり、一週間後に地球上のすべての人間が死に絶えることになったとしよう。しかも、「死んだら最後、一切が消えてしまう」ということになったとしよう。

そうすると、この一週間の間に人間は何をするだろうか?
自らの向上のために、腰をすえて、じっくり勉強するだろうか? 辛い思いを我慢して、正しい努力を続けるだろうか? 法律を遵守し、善を目指し、隣人を愛するだろうか? 権威の言うことに耳を傾けるだろうか? 何らかの義務を果たそうとするだろうか? 答えは、間違いなく、「否」であろう。

だが、そうしたことが全体のレベルで起こらなくても、日々、虚無主義の教義は、同じように、一人一人を侵しているのである。
とはいっても、事態がそれほど酷くならないのは、「神を信じていない」と言う人々のほとんどが、心の底からそう思っているわけではないからである。神の不在を確信しているのではなく、神の存在を確信することが出来ないだけである。虚無を恐れてはいるが、それが本当にあってほしいと願っているわけではないのだ。

絶対的な無神論者は、ほんの一握りにすぎず、無神論は、唯物主義から力を得ているとはいえ、常に反対意見にさらされている。
しかしながら、絶対的な無神論が社会全体を覆ったとしたら、社会は確実に崩壊するであろう。そして、それこそが、虚無主義が狙うところであるのだ。

もし虚無主義が真理であるならば、それがどのような結果を招くとしても、信じざるを得ないだろう。それが真理である以上、それに反する、どのような考え方も、それが惹起(じゃっき)するであろう、どのような悪しき思想も、それを消滅させることは出来ないからである。

ところで、懐疑主義、猜疑心、無関心が、宗教の努力があるにもかかわらず、日々、地歩を固めていることは、無視するわけにはいかない。もし宗教が無神論に対して無力であるとすれば、それは、今日の宗教に何かが欠けているからであろう。そして、このままでいけば、宗教は、そのうち完全に無力になるに違いない。

信じる前に、まず理解することを人々が望む、この19世紀にあっては、宗教の教義が、明白な事実に基づいて説明される必要があるだろう。また、実証科学の知見と教義の内容が一致する必要もあるだろう。もし、宗教が「白」と言い、事実が「黒」と言うならば、盲信よりも事実を取るのが当然なのである。

さらには、あらゆる宗教は、死後に天国と地獄が存在することを認めているが、「どうすれば地獄に堕ち、どうすれば天国に行けるのか」という点、さらには、「地獄では、どのような苦しみを受け、天国では、どのような喜びを得るのか」という点に関しては、それぞれ異なった見解を持っている。
そこから、ある場合には、互いに矛盾するような見方も生じ、「神を讃えるには、どうすべきであるのか」という点に関して、様々な異なった考え方が生じているのである。

全ての宗教は、それが発生した時点では、人間の、精神的、知的進化の度合いを問題としていた。しかし、今なお、人間は、純粋に霊的な事柄の持つ意味を理解するには、あまりにも物質的でありすぎるために、宗教的な義務のほとんどを、心と関係のない物質的な事柄の成就に置きがちである。

だが、暫くの間は、そうした外面的な形式の問題で満足していても、やがては、そこに虚しさを感ずるようになってくる。そして、宗教がそうした虚しさを埋めることが出来ないと、彼らは、宗教を捨てて哲学へと向かうのである。

もし、宗教が、原則として、人間の限られた知性にふさわしいものであり、なおかつ、人間の精神の発達に対応し続けることが出来たとしたら、おそらく無神論者は存在しなかったであろう。というのも、信ずるということは、人間には本性として与えられており、知的な必要性と調和したかたちで、霊的な糧が与えられさえすれば、人間は、信仰を持つように、もともと出来ているからである。人間は、「どこから来て、どこへ行くのか」を知りたがる存在なのである。

第3節 「霊実在論」の登場と、その威力
まさしく、そうした時期に、霊実在論が登場し、猛威を振るう無神論の濁流に抗して、強固な堤防を築こうとしている。霊実在論は、目で見ることができ、手で触れることができる明白な証拠を示して、魂の実在と死後の世界の存在を証明した。

それゆえに、伝統的な宗教にも、通俗的な哲学にも満足できず、疑いの持つ苦しさに心をさいなまれていた人々が、あれほどの熱意を持って、霊実在論を信奉するようになったのである。

霊実在論は、事実の裏付けを持っており、論理的な推論に基づいている。ゆえに、それを論理的に打ち負かそうとしても不可能なのである。

人間は、死後の生命の存続を本能的に信じている。しかし、今日まで、それを証明する決定的な証拠を得ることが出来なかったために、様々な想像力を巡らせて、色々な考え方を発明してきたのである。

死後の生に関する霊実在主義の理論は、想像力によって勝手につくり出されたものではなく、物理的な事実の観察から導きだされたものである。そうした事実は、今日、いくらでも、我々の目を通して観察することができる。

様々に分かれていた意見は、事実の観察によって、やがて統一され、仮説に基づくものではない一つの確信にまでまとめ上げられることになるだろう。

魂の死後の運命に関する見解が統一されれば、様々な宗教間での抗争が徐々に姿を消し、宗教同士で寛容の精神が発揮されるようになり、やがて、最終的には、数多くの宗教が統合されることになるであろう。

第2章 天国とは、どんなところか?
第1節 死とは霊と肉体が分離すること
人間は、肉体と霊からなる。霊とは、原理であり、理性的な存在、知的な存在である。肉体とは、霊が、地上において使命を果たし、自らの向上に必要な仕事を遂行できるように、霊を一時的に包んでいる鞘(さや)にすぎない。
肉体が使い古され、破壊されたあとも、霊は生き続ける。肉体は、霊が入っていなければ動くことができない単なる物体にすぎない。

肉体を失えば、霊がすべてとなる。生命と知性こそが霊の本質である。肉体を脱ぎ捨てた霊は、霊界に戻るが、やがて、再び、そこから地上に生まれ変わってくる。
したがって、肉体に宿った霊達から構成される物質界と、肉体に宿らない霊達から構成される霊界とが、同時に存在することになる。

物質界の存在達は、肉体という鞘に入っているために、地球、ないしは、その他の惑星の表面に結びつけられて生活する。
霊界は、我々の周囲、空間、あらゆる場所に広がっている。霊界には、いかなる限界もない。肉体に宿っていない霊達は、地上を重々しく移動する必要がないので、思考と同じスピードで一瞬のうちに空間を移動することが出来る。
肉体の死とは、電子線が切れて、霊と肉体が分離することを意味しているのである。

第2節 霊は、進化することで、より大きな幸福を得る
霊は、創られた当初は、単純で無知であるが、自由意志を備えているので、すべてを獲得しつつ進化することが可能である。
進化することによって、霊は、新たな知識、新たな能力、新たな知覚を獲得するが、さらに、未熟なときには知らなかった新たな喜びも獲得する。進化してくると、それまで、見ることも、聞くことも、感じることも、理解することも出来なかったことを、見、聞き、感じ、理解することが出来るようになる。幸福は、獲得した能力に対応するのである。

したがって、二人の霊人のうち、一人のほうがより幸せであるとすれば、それは、その霊人のほうが、知的にも、精神的にも、より進化しているからなのである。一方が光り輝く世界にいるのに対し、もう一方は暗闇の中にいる。一方が光を見るのに対し、もう一方は何も感じることが出来ない。目が見えないのと同じである。

霊の幸福とは、その霊が獲得した能力に、本質的に属するものなのである。どこにいようとも、すなわち、肉体に宿って地上に生きていようとも、肉体に宿らず霊界で生活していようとも、その幸福を味わうことが可能なのである。

もう少し分かり易い例えを引いてみよう。

今、コンサート会場に二人の男がいるとする。一人は、訓練された繊細な耳を持っており、もう一人は、音楽の教養もなく、まともに音楽を聞いたこともない。素晴らしい演奏が始まると、前者は至福の喜びを感じるが、後者は何も感じない。前者が理解し、感じ取ることを、後者は、まったく、理解することも、感じることも出来ないのである。

霊と喜びの関係は、以上のようなものである。その霊が獲得した能力に応じた喜びしか得られないのである。

霊の進化とは、その霊自身の努力の成果である。
とはいえ、彼らには自由意志があるので、積極的に向上を図るのも、怠けるのも、彼らの自由である。ある者は、どんどん進化するが、ある者は、なかなか進化せず、したがって、なかなか幸福になれない。一方が、すばやく進化するのに対して、もう一方は、何世紀も何世紀も停滞の中にとどまることがあり得る。

彼らは、自らの幸福・不幸の、自由な作り手であるのだが、そのことを、キリストは次のように言った。すなわち、「自らのなしたことに応じて」と。
後れをとっている霊の場合、その全責任は自分にあると言わねばならない。同様に、高度に進化を遂げた霊は、その恩恵をあますところなく自ら受けることが可能となる。彼が得た幸福は、自分が成し遂げたことに対する褒美以外の何ものでもない。

至高の幸福は、完成の域に達した霊にしか、つまり、至純の霊にしか、味わうことが出来ない。知的にも精神的にも進化した果てに、ようやく至福を得ることが出来るのである。しかし、知的な進化と精神的な進化を同時に果たすことは、たいへん難しい。そこで、あるときは知性を発達させ、またあるときは精神性を発達させ、そうして、最終的には、両者を同じレベルにまで上げていくのである。

知性が非常に発達し、知識も豊富なのに、思いやりを欠いた人間を、しばしば見、また、その反対のケースも、しばしば見るのは、以上のような理由からである。

第3節 霊は、進化するために何度も転生する
知性及び精神性を発達させるために、霊は、繰り返し地上に転生輪廻する。
知性を発達させるためには、仕事に就く必要があるだろう。

思いやりを発達させるには、人間同士の相互関係が必要である。人間関係が試金石となって、よき人間、悪しき人間をつくり出す。善意と悪意、優しさと暴力、思いやりとエゴイズム、慈悲と貪欲、謙虚さと傲慢さ、誠実さと偽善、率直さとかたくなさ、忠誠と裏切り、などなど、要するに、善人と悪人を区別する、あらゆる性格が、同胞との関わりの中から生まれるのである。

たった一人で生きる人間には、悪も善もない。一人きりで生きている場合、悪を犯さずに済むが、また、善を行うことも不可能である。
自らに欠けている、善なる資質をすべて獲得し、厭(いと)うべき悪しき資質をすべて捨て去るには、一回の転生では、当然のことながら不充分であろう。

粗野で獰猛(どうもう)、かつ無知な人間が、たった一回の転生で、知的にも精神的にも最高に優れた人間になることは可能であろうか? どう考えても無理である。

では、彼は、永遠に、無知かつ粗野のままでいなければならないのだろうか? 諸々の高度な能力がもたらしてくれる喜びとは、永遠に無縁のままで生きねばならないのだろうか? ほんのちょっとでも良識を働かせてみるならば、それがあり得ない話だということが分かるはずだ。もし、そういうことがあり得るとしたら、それは、神の善意と正義、そして、自然が備えている進化の法則を、否定することになるからだ。
だからこそ、何度でも何度でも地上に転生することを許してくださっているのである。

新たな転生のたびごとに、霊は、前回までの転生で得た能力や知識、知性や精神性を携えて地上に降りるのである。それぞれの転生は、したがって、進化に向けての一歩一歩であるのだ。

輪廻転生は、まだ充分に発達していない霊のためにある。ある一定の限界を超えて高い悟りに達した霊達、あるいは、もはや粗雑な物質をまとったかたちでの修行を必要としない惑星に住む霊達にとって、もはや輪廻転生は必要ではなくなるのである。
しかし、それは、いわば強制的な輪廻転生を必要としなくなったということであって、そうした霊達であっても、高度な使命を遂行するために、人間達に、直接、影響を与えるべく、肉体をまとって地上に降りるということはある。人々に奉仕するために、あえて、地上の苦しみ、肉体に宿る辛さを引き受けるのである。

地上において肉体生活を営んでいる時期以外は、霊は、霊界で、ある一定の期間を過ごすが、その際の幸・不幸を決めるのは、自分が地上でなした善と悪である。

霊界での生活こそが、霊の本来の生活であり、最終的な生活であって、霊体は決して滅びることがない。肉体に宿った状態というのは、一時的な、仮の姿にすぎない。地上での仕事を通して実現された進化の成果は、霊界において刈り取られる。そして、霊界においては、次の転生において解決すべき課題のための準備をし、新たに遂行すべき努力目標を立てる。

勿論、霊界での生活を通じても、霊は向上できる。地上では獲得することのできない特別な知識を得ることが出来るからである。地上で身に付けた考え方を変える必要もある。
肉体に宿っての生活と、霊としての生活は、それぞれ関連しており、ともに進歩のために必要とされる。だからこそ、代わる代わる、その二種類の生活を繰り返すのである。

以上のようにして、最終的な至福に至る前であっても、その境涯に応じた幸福感を味わうことは可能である。それは、ちょうど、人間が、幼年期、少年期、青年期に、それなりの楽しみを感じ、最終的には成人としての確固たる楽しみを得るようになるのと同じである。

第4節 霊格に応じて与えられる仕事と使命
至福の状態にある霊達は、伝統的なキリスト教において、しばしば言われてきたように、「何もせずに瞑想ばかりしている」というわけではない。霊界においては、それぞれの境涯に応じて、霊達は忙しく活動している。もっとも、いくら活動したからといって、地上におけるように疲れるわけではないが。

高級霊界においては、すべてが燦然(さんぜん)と輝いている。それは、いかなる人間的な言語によっても表現不可能であり、どれほど豊かな想像力をもってしても思い描くことは出来ない。

そこには、すべてを真に深く知ることの喜びがある。苦痛は一切存在せず、心は完全な安らぎに満たされ、何ものによっても、それが乱されることはない。至純の愛が、すべての存在を結びつけており、意地悪な者がいないので、嫌な思いをすることはあり得ない。すべてを神の視点から見ることができ、また、数々の神秘が明かされる。
さらに、様々な使命が与えられ、それを遂行する幸福を味わうことが出来る。

最高の霊域にいる霊達は、ある場合には、救世主として、または、神の意を体現する者として、神の意志を伝え、さらに、それを実現すべく働くのである。大いなる使命を果たし、惑星の創造に関わり、宇宙の調和のために、自らを捧げるが、そうした栄えある仕事は、完成の域に達した霊にしか任されない。最高の次元に達した霊達だけが、神の秘密に参入することを許されており、神の考えを直接受け取って、人間達に伝えることが出来るのである。

霊達が与えられる権限は、その進化の度合い、保持する光の量、能力、経験、そして、「至高の主から、どれだけ信頼されているか」による。能力に見合わない特権や待遇は、一切存在しない。すべてが、厳密な公正さによって測られるのであり、ごまかしは、一切通用しない。

最も重要な使命は、それを必ず遂行し得る霊に、神から委ねられる。神は、絶対に失敗しないと思われる霊にしか、そうした使命を任せない。また一方で、神の監督のもとに、最高大霊達が会議を開き、地球規模の問題を解決するために協議するのである。そうした中には、他の惑星に関わる霊達もいる。

さらに、それよりも下の段階の霊達に、霊格に応じて、順次、より容易な仕事が任されていく。それは、例えば、諸民族の進化にまつわる仕事、家族、あるいは個人を守護する仕事、大自然の作用への介入から、微細な生物の調査まで、様々なレベルにわたる。地球という広大な生活空間を調和あるものとするために、能力、適性、意志に応じて、無数とも言える仕事があるからである。

そして、そうした仕事は、熱心に願い出た霊に委ねられるが、全員が喜びをもって受け止める。というのも、常に自らを高めようとしている霊にとっては、そうした仕事こそが進化のよすがとなるからである。

高級霊達に委ねられる大いなる使命の他に、あらゆる段階の仕事があり、それは、難易度に応じて、様々な境涯の霊達に委ねられる。したがって、各人が、それなりの使命を与えられて、同胞達のために、それを遂行することになる。

例えば、一家の父親であれば、「子供達を向上させる」という使命を与えられるであろうし、天才的な人間であれば、「社会に新たな要素を投じて進化を促す」という使命が与えられるであろう。
たとえ失敗しても、個人のレベルにしか影響を与えないような使命において、しばしば、失敗、違反、放棄などが生じることがあるが、全体に影響を及ぼすような使命は、まず完遂されるのが普通である。

第5節 地上では味わえない天国での幸福感
すべての人間が、仕事を与えられる。どのレベルに属していようとも、そのレベルに応じた仕事が必ず与えられるのである。

そうした仕事は、霊界・地上界、両方にわたる。あらゆる階層が活動し、最も低い境涯から最も高い境涯に至るまで、全員が、学び合い、助け合い、支え合い、手を差し伸べ合って、頂上を目指すのである。

地上界と霊界の間、つまり、人間と霊の間、肉体にとらわれた霊と自由な霊の間に、こうして連帯が形成される。真の共感、健全な愛が、強化され、永続化されるのである。

あらゆる場所に生命と運動が見られる。無限の領域の、どのような片隅さえも、ないがしろにされることはない。いかなる場所であろうとも、輝かしい無数の存在達によって、絶えず踏査されているのである。
そうした存在は、地上の人間の粗雑な感覚器官をもってしては捉えられないが、物質から解放された魂達は、そのような姿を目にして、喜びと感嘆の情に満たされるのである。
したがって、あらゆる場所が、それぞれの階層に応じた幸福に満たされているといってよい。それぞれが、自らのうちに、進化の度合いに応じた幸福の要素を備えているのである。

幸福は、各人の置かれている物質的な環境に支配されるのではなく、各人に特有な能力に応じて獲得されるものである。ゆえに、どの境涯の霊であっても、それなりに幸福を得ることが出来る。

また、どのような場所にいようとも、高級霊であれば、神の威厳を感じ取ることができる。なぜなら、神は遍在するからである。
しかしながら、幸福とは、わたくしすべきものではない。幸福を自分だけのものにして、他者と分かち合わないとすれば、そのようなエゴイストは、やがて惨めな境涯に陥ることになるだろう。

幸福は、共鳴しやすい者同士が思いを共有することによっても得られる。幸福な霊同士は、考え、趣味、感情の同質性によって、お互いに惹かれ合い、一種の家族的なグループを形成する。そこでは、それぞれのメンバーが、自らの光を放つと同時に、グループ全体を包み込む、晴れやかで心地よい香気にひたされる。
グループのメンバーのうち、ある者達は、使命を果たすべく散っていき、ある者達は、成し遂げた仕事の成果を分かち合うべく会議を開き、ある者達は、より霊格の高い指導霊のまわりに集まって、その意見を聞き、指導を仰ぐ。

第6節 文明の進歩に応じて地上に降ろされる最新の霊界観
しかし、それにしても、なぜ霊実在論が真実だと分かるのか?
まずは、理性によって、次に、直観によって、さらには、発達した科学の知見との整合性によってである。

伝統的なキリスト教神学は神の属性を卑少にし、霊実在論は広大にする。一方は進歩の法則に反し、一方は進歩の法則と調和する。一方は歩みを止めて遅れており、一方は未来に向かって軽快に進む。良識から見て、どちらに真理があるかは歴然としているのではないだろうか?

この二つの考え方を前にして、各自が自らのうちに深く尋ねてみればよい。そうすれば、必ず、内なる声が応えてくれるはずである。それこそが、実は神の声であり、人間を過(あやま)たせることのない、確かな指針であるのだ。

だが、それならば、どうして、神は、そもそもの初めから、人間に真理をすべて明かさなかったのだろうか?
それは、おそらく、成熟した大人に教えることを子供には教えないのと同じことであろう。

人類が、ある程度、進化するまでは、それほど高度でない教えさえあれば充分だったのである。神は、人間の力に応じて啓示を降ろす。今日、より完璧なかたちで啓示を受け取っている人間達も、かつては、別の時代に、それらを部分的に受け取っていたにすぎない。ただ、それ以来、彼らは知的に進歩したわけである。

人間が、科学を通じて、自然の強大な力を理解し、惑星の配置を知り、地球の来歴と、その真の役割に気づく以前であったら、はたして、人間は、宇宙空間の広大さ、複雑さを理解し得たであろうか?

地質学が、地球の形成について明らかにしていなかったら、人間は、「創造の六日間」の本当の意味を知り得ただろうか?

天文学が、宇宙を統べている法則を発見しなかったら、人間は、宇宙空間には上も下もなく、天国が雲の上にあるわけでもなく、天国が星の下にあるわけでもないことを、理解できたであろうか?

心理学の進歩がなかったら、人間は、自分が霊的な生命体であるということを納得できたであろうか?

「人間は、死ぬと、境界のない、物質的な形態をとらない世界に赴き、幸福な生活、あるいは、不幸な生活を送る」ということが、はたして納得できたであろうか?

おそらく、そういうことはなかったであろう。
かつては、部分的な啓示で充分だった。だが、今日、それだけでは不充分である。人々の考え方が進化していることに気がつかず、子供に与えていた絵本を分別盛りの大人に与えて、よしとしているとしたら、これほどの時代錯誤はないと言わねばならない。

第3章 死後の世界を支配する法律・33箇条
第1節 裁きと報いの実態
どのような時代においても、人間は、「地上でなした善と悪に応じて、死後に、幸福、または不幸になるはずだ」ということを、直観的に理解してきた。

ただし、その理解がどれほど明確なものであるかは、その時点における人間の徳性の発達の程度と関連していたし、善と悪に対する認識の深さともかかわっていた。死後の裁きと報いに対する考え方は、その人間を支配している本能的な考え方を反映するのである。

例えば、戦闘的な民族であれば、「勇敢さに対して最も高い報いが与えられる」と考えた。狩猟民族であれば、「どれほど獲物を獲ったかによって死後の処遇が決まる」と考えた。官能を大事にする民族であれば、「天国とは、官能的な無上の喜びが与えられる世界である」と考えただろう。

人間が物質に支配されている間は、霊性に関しては充分に理解できないはずである。だから、その場合には、天国の喜びも地獄の苦しみも、霊的というよりは物質的なレベルのものとならざるを得ない。天国に行っても飲み食いをすることになるだろう(ただし、地上よりも、はるかに美味しいものである)。

その後、死後の様子は、霊的な要素と物質的な要素が入り混じったものとなる。例えば、「天国には、至福に満たされた霊的な時間を過ごす人々がいる一方で、地獄には、物理的な責め苦を受ける人々がいる」といった具合である。

目で見えるものしか信じられない時代にあっては、人々は、当然のことながら、死後の世界を地上そっくりなものとして思い描いた。目の前に見える世界とは異なった世界のことが思い描けるようになるためには、時間とともに人間の知的能力が大幅に拡大する必要があったのである。

したがって、まだ知的な進化が充分でなかった頃の地獄とは、人間が地上で体験し得る苦痛の程度を強化したものにすぎなかった。地上に見られる、あらゆる拷問、責め苦、体罰、苦痛などが、地獄にもあるとされた。

例えば、灼熱の地に住む人々であれば、地獄は灼熱地獄となるであろう。また、極寒の地に住む人々にとって親しい地獄とは、当然ながら、寒冷地獄であろう。

霊界の実態がいかなるものであるかが、よく分かっていなかったので、地獄の責め苦といえば、物理的なものを思い浮かべざるを得なかったのである。
だから、多少の細部の違いを別とすれば、あらゆる宗教の地獄はよく似ている。

第2節 霊実在論の考え方は事実の観察に基づく
死後の刑罰に関する霊実在論の考え方は――勿論、死後の刑罰に関する考え方だけに限ったわけではないが――、一切の固定観念から自由である。
それは、単なる理論ではなくて、厳然たる事実の観察に基づいている。だからこそ、権威があるのだ。

これまで、一体誰が、死後の魂の行く先を知り得ただろうか。
今日、我々に、死後の生命の神秘を告げにやってきているのは、まさしく地上を去った魂達なのである。彼らは、現在の幸福な境涯について、また、不幸な境涯について語り、肉体の死に際しての種々の印象、そして、その後の変容について語ってくれた。

一言で言えば、キリストが充分語らなかった部分を補ってくれたのである。
語ったのが単一の霊であったとすれば、その視点、観点に偏りがある可能性もある。その霊が、まだ地上時代の偏見から自由ではないということも考えられる。

メッセージを受け取ったのが、たった一人の人間だったとすれば、その人間が情報を歪曲しているという可能性も考えられる。メッセージを受け取った人間が、恍惚(こうこつ)状態にあったのだとしたら、その情報は、想像力によって誇張されている可能性もあるだろう。

しかし、霊界から受け取ったメッセージは、実に多岐にわたっており、膨大な量にのぼっているのである。

メッセージを送ってきたのは、最も低い境涯にいる霊から、最も高い境涯にいる霊まで、あらゆる種類の霊達であった。また、それを受け取ったのも、世界中に散らばる、あらゆる種類の霊媒達だったのである。
メッセージは、一人の人間に独占されているわけではなく、一般に公開されているのだから、誰でも、直接、自分の目で見て、読んで、確かめることが出来る。

第3節 死後の魂のあり方を示す法則集
したがって霊実在論は、勝手に以下の法律をつくり上げたのではない。死後の魂のあり方を示す法則集は、確固たる事実から導きだされたものである。

第一条 魂、ないし霊は、地上における肉体生活を通じて克服できなかった未熟さを、すべて、霊界においても引き受けなければならない。
霊界において幸福になるか不幸になるかは、地上生活を通して、どれだけ心の浄化を果たしたかによって決まる。

第二条 完全な幸福は、心を完全に浄化したときに与えられる。未熟さが残っている限りは、苦悩から脱却することは出来ず、喜びは制限される。
逆に言えば、悟りが高まる程、喜びが深まり、苦悩から自由になるのである。

第三条 たった一つの欠点から不幸が生じるのではなく、また、たった一つの長所から喜びが生まれるのではない。
苦しみの総量は、欠点の総量に見合っており、喜びの総量は、長所の総量に見合っているのである。

例えば、十の欠点を持っている魂は、三つの欠点を持っている魂よりも苦しみが大きい。十の欠点のうち、半分を克服すれば、苦しみも、それだけ少なくなり、欠点をすべて克服すれば、苦しみは全くなくなって、完全な幸福を得ることが出来る。

丁度、地上において、病気を何種類も持っている人間が、一種類しか病気を持っていない人よりも苦しむのと同じことである。
また、十の長所を持っている魂は、三つの長所しか持っていない魂よりも多くの喜びを得ることが出来る。

第四条 魂は、進歩の法則に基づき、意志に基づいて努力しさえすれば、自らに欠けている長所を獲得し、既に持っている欠点を取り去ることが出来る。
つまり、どの魂に対しても、未来は開かれているのである。
神は、自らの子供を見放すことはない。魂が完成に近づけば近づく程、より大きな幸福を与える。魂自らがあげた成果を、すべて魂自身に還元するのである。

第五条 苦悩は未熟さから生じ、幸福は成熟から生まれるものである以上、魂は、どこに行こうとも、自分を処罰する原因を自らの内に持つ。罰を与えるための特定の場所は必要ないのである。
したがって、地獄とは、魂が苦しんでいる、その場所にあると言える。
それは、天国が、幸福な魂がいるところに存在するというのと同じである。

第六条 人間がなす善、または悪は、自らの内にある長所、または欠点の産物である。なし得る善を行わないというのは、したがって、未熟さの結果である。
未熟さが苦しみの原因である以上、霊は、地上において、なした悪によって苦しむだけでなく、なし得たにもかかわらず、なさなかった善によっても苦しむ。

第七条 霊は、自分のなした悪がどのような結果を招いたかまで、つぶさに見せられるので、反省が進み、更生への意欲が高まらざるを得ない。

第八条 正義は無限である。すなわち、善と悪は、すべて厳正に評価される。
それが、どんなに小さなものであれ、たった一つの悪しき行為、たった一つの悪しき思いでさえ、見逃されることはなく、それが、どんなにささやかなものであれ、たった一つのよい行為、たった一つのよき思いでさえ、評価されないことはない。
どのような邪悪な人間であれ、それが、どんなに些細なものであれ、善をなせば、それは必ず評価される。その瞬間こそ、向上への第一歩だからである。

第九条 あらゆる過ち、あらゆる悪は、債務となり、必ず、それを償わなければならない。ある転生で、それが返済されなかった場合には、それは、次の転生に持ち越される。そこでも償われなければ、さらに次の転生に持ち越される。
というのも、すべての転生は関連しているからである。
もし、今の転生で弁済した場合には、二度と支払う必要はない。

第十条 霊は、霊界においても、物質界においても、自らの未熟さに由来する苦しみを引き受けなければならない。

物質界で引き受ける、あらゆる悲惨、あらゆる不幸は、我々の未熟さの結果、すなわち、今世、あるいは、それ以前の転生でなした過ちの償いである。
したがって、地上で経験している苦悩、不幸の性質を分析してみれば、自分が、今世、あるいは過去世でなした過ちの性質が分かるし、その過ちの原因となった自分の欠点の性質も分かるはずである。

第十一条 償いは、侵した過ちの重さと性質によって、それぞれ異なる。
したがって、同じ程度の重さの過ちであっても、それが犯された状況に応じて、軽減されたり加重されたりする。

第十二条 償いの種類と期間に関しては、絶対的な、あるいは画一的な決まりがあるわけではない。
唯一の普遍的な決まりは、「それが、どのように評価されるかに応じて、過ちは罰を受け、善行は報いを受ける」ということである。

第十三条 罰の期間は、罰を受けている霊が、どれほど向上したかに応じて変化する。前もって期間が限定された罰というものは存在しない。

霊が深く反省した上で向上を果たし、善の道に戻ったとき、神が、その罰に終止符を打つのである。
そのようにして、霊は常に自分の運命を自分で決めることが出来る。かたくなに悪に留まり続けることで、苦しみを長引かせることも可能だし、努力して善をなすことによって、苦しみを和らげ、その期間を短縮することも可能なのである。

期間があらかじめ決められている処罰は、次の二点で不都合をはらんでいる。
まず、既に向上を果たした霊をそのまま罰し続ける可能性がある。次に、まだ悪から脱していない霊を解放する可能性がある。
神は正義であるから、悪を、それが存在し続ける限りにおいて罰するのである。
言葉を換えて言えば、悪は、結局は心の問題であり、それ自体が苦しみの原因となるから、悪が存在するかぎり、苦しみも続くというわけである。心の中の悪が無くなるに応じて、苦しみもまた軽くなる。

第十四条 罰の期間は向上のいかんに関わっている。
したがって、罪を犯した霊が向上しないかぎり、苦しみは続く。それは、その霊にとっては永遠に続くように思われるだろう。

第十五条 反省しない霊は、苦しみがいつ終わるか、まったく分からないので、それが、あたかも永遠に続くかのように感じる。
そのために、「永劫の刑罰を受けている」と思うのである。

第十六条 悔悟が向上への第一歩である。
しかし、それだけでは不充分であって、さらに、償いが必要となる。
悔悟と償いによって初めて、過ちと、その結果を消し去ることが可能となる。

悔悟によって希望が生まれ、再起への道が開かれるので、悔悟は償いの苦しさを和らげることになる。
しかし、償いを行って初めて、罪の原因が消滅し、したがって、その結果である罪も消えるのである。

第十七条 悔悟は、いつでも、どこでも生じ得る。悔悟が遅れれば、それだけ苦しみは長引く。

償いとは、肉体的、精神的な苦痛のことであり、犯された過ちに付随する結果である。この世で始まることもあり、死んでから霊界で行われることもあり、あるいは、次の物質界への転生の際に行われることもある。過ちの痕跡が消滅するまで続くのである。

償いとは、自分の悪事の対象となった人に対して善を行うことである。
自らの弱さ、あるいは、意志の欠如によって、今世中に過ちの償いが出来なかった者は、今後の転生において、自らが選んだ条件のもとに、その人と出会うことになる。そして、自分が犯した悪に見合う善を、その人に対して行う必要があるのである。

あらゆる過ちが、直接、目に見える犠牲を引き起こすとは限らない。その場合には、次のようにすれば償いが完了する。
なすべきであったにもかかわらず、なさなかったことをなす。怠った、あるいは無視した義務を果たし、成し遂げられなかった使命を完了させる。

また、既になした悪に見合う善を行う。つまり、傲慢であった者は謙虚になり、冷酷だった者は優しくなり、エゴイストだった者は思いやりを持ち、悪意に満ちていた者は善意の人となり、怠け者だった者は勤勉となり、無用だった者は有用な人間となり、放蕩(ほうとう)を行った者は態度を取り戻し、悪しき見本だった者はよき見本となる。そういうことである。
こうすることによって、霊は、過去を有効に利用することが出来るのである。

第十八条 悪霊となった者は、幸福な世界から排除される。そうしないと、幸福な世界の調和を乱すからである。
彼らは、下位の世界に留まり、辛酸をなめつつ、償いを果たす。そうして、徐々に未熟さから脱していくのである。
その結果、優れた世界に移動していくことが可能となる。

第十九条 霊には、常に自由意思があるので、向上は、時には遅く、また、いつまでも悪を改めない者もいる。何年も、何十年も、さらには、何世紀も悪に留まる者がいる。しかし、その空威張りにもかかわらず、最後には、苦しみに屈服し、神に反抗することをやめ、至上者の権能を認めざるを得なくなる。悔悟の最初の光が心に射し始めるや、神は、それに応じて希望をかいま見させるのである。

いかなる霊といえども、「向上の可能性が一切ない」という状況に追い込まれることはない。だが、自らの自由意志を行使して、霊自身が、進んで、永遠に劣った状態に身を置き、あらゆる被造物に適応される、神聖なる進化の法則から逃れ続けることは、可能である。

第二十条 霊がどれほど未熟であろうと、邪悪であろうと、神が霊を見捨てることはない。どの霊にも守護霊が付いており、その心境の変化をうかがい、彼らの内に、よき思い、向上への欲求、犯してしまった悪を償おうとする気持ちを起こさせようとして、働きかけている。

一方では、指導霊が、決して強制することなく、本人に知られないかたちで働きかけている。霊は、外部から何らかのかたちで強制されるのではなく、自分自身の意志で向上していかねばならないからである。自由意志を発揮して、よい方向にも悪い方向にも進めるが、「どちらかの方向に、強制的に追いやられて、引き返すことが出来なくなる」ということはない。

悪をなした場合、悪の道に留まり続ける限り、その結果としての苦しみを引き受け続けざるを得ない。
善に向かって一歩でも歩みを開始すれば、ただちに、その成果は表れ始める。

第二十一条 各自が責任を負うのは、自分が犯した過ちに対してのみである。何人(なんびと)といえども、他者の罰を引き受けることはない。
ただし、自らが悪の手本となり、他者にも悪を犯させた場合、また、悪の発生を防ぐことが可能であったにも関わらず、それを行わなかった場合は別である。
また、自殺は常に罰せられる。
冷酷さによって他者を絶望に追いやり、その結果、自殺せしめた者は、自殺した者よりも重い罰を受ける。

第二十二条 罰の種類は無限にあるが、未熟な魂に対する罰は、ある程度、決まっている。ニュアンスの違いは多少あるが、結果的には大体同じである。

霊的進化を怠り、物質に執着した者に対する罰は、まず、「魂と肉体の分離がなかなか行われない」ということである。死の苦しみが続き、霊界への移行が困難となる。その混乱の期間は、場合によっては、数ヶ月、数年に及ぶこともある。
それとは逆に、意識の進化が進んでいる者は、生前から既に霊的生活を送って物質から解放されているために、肉体と魂の分離は動揺もなく急速に行われ、霊界への穏やかな目覚めを得ることが出来る。この場合、混乱はほとんど見られない。

第二十三条 精神的に未熟な霊は、死んだのにも関わらず、自分がまだ生きていると思うことが多い。
この錯覚は、数年にわたって続くこともあり、その間中、彼は、地上生活における、あらゆる欲望、あらゆる苦悩、あらゆる不都合を感じ続ける。

第二十四条 犯罪者は、自分の犯罪の犠牲者、犯罪が行われた時の様子を、繰り返し再現して見せられる。これは実に辛いものである。

第二十五条 ある者達は、漆黒の闇の中に放置される。ある者達は、絶対的な孤立の中に置かれる。自分がどこにいて、この先どうなるのかが、まったく分からないのである。

最も重大な罪を犯した者達は、最も厳しい拷問を経験するが、いつ終わるか分からないだけに、それは本当に耐え難いものとなる。
大多数は、親しかった者達に会うことを禁じられる。
原則として、全員が、犠牲者が味わったのと同じ痛み、苦悩、欠乏を経験させられる。やがて、悔悟ならびに償いへの欲求が生じると、苦痛は和らぎ始め、そうした苦しい状況に、自分自身で終止符を打てるという可能性が見えてくる。

第二十六条 傲慢に暮らしていた者は、自分が地上にいた時に軽蔑していた者達が、栄光に包まれ、人々に囲まれ、賞賛されて、はるかな高みにいるのを見る。自分は最下層に落とされているのに、である。

偽善者は、光に貫かれて、心の奥に秘めていた考えを全員に暴露される。逃げも隠れも出来ないのである。
官能に溺れていた者は、あらゆる誘惑、あらゆる欲望にさらされるが、決して満足を得ることが出来ない。
守銭奴だった者は、自分の金がどんどん他人によって使われるのを見るが、それを防ぐすべはない。

エゴイストだった者は、全員に見捨てられることによって、かつて自分が他者に与えていた苦しみを経験するのである。喉が渇いても、誰も水をくれない。腹が空いても、誰も食べ物をくれない。誰も手を差し伸べてくれず、誰も慰めの声をかけてくれない。
彼は、生前、自分のことしか考えなかったので、彼が死んでも、誰も彼のことを思ってくれないし、誰も悲しんでくれないのである。

第二十七条 死後、自らの過ちの結果としての罪を避けたり、あるいは軽減したりするには、生きている間に、出来るだけ、それを解消しておく必要がある。
そのためには、充分な反省を経て、その悪事を償うことである。そうすれば、死後に、もっと恐ろしいやり方で償うことを免除される。
過ちを解消する時期が遅れれば遅れる程、その帰結は、より苦痛に満ちたものとなり、果たすべき償いは、より厳しいものとなる。

第二十八条 死後の霊の境涯は、生前の心境に正確に対応したものとなる。
やがて、新たな転生輪廻の機会を与えられるが、それは、新たな試練を通して償いを果たすためである。

だが、それも、すべて彼の自由意志に任されているため、もし、その機会を充分に生かさなかったとしたら、さらに、次の転生で、今度は、もっと厳しい条件のもとに再度チャレンジすることになる。
したがって、地上生活を通じて、多くの苦しみを経験している者は、「それだけ、自分には償うべき過去の過ちがある」と自覚することが大切である。

また、悪徳を重ね、社会に役立つことをしていないにもかかわらず、表向きは幸福を享受しているように見える人間がいるとすれば、次の転生で高く支払わされることを覚悟しなくてはなるまい。
そうした意味も込めて、イエスは次のように言ったのである。
「苦しむ者は幸いである。彼らは慰めを得るであろう」

第二十九条 神の慈悲は無限である。だが、神は一方で極めて厳格でもある。
神が罪人を許すということは、罪を免除するということではない。罪人は、その罪を償わない限り、過ちの帰結を引き受けざるを得ない。

神の慈悲が無限であるとは、「神が、善に戻ろうとする罪人に対して常に扉を開いて待っていてくださる」という意味であり、「本当に悔い改めた者は必ず許してくださる」という意味なのである。

第三十条 罰は一時的なものであり、自由意志に基づく悔悟と償いによって解消されるが、それは、罰であると同時に、また、悪を犯すことによって傷ついた心を癒すための治療でもある。
したがって、罰を受けている霊は、徒刑を科せられた罪人というよりも、むしろ、病院に収容されている病人と見るべきなのである。

この病人達は、自らの過ちの結果である病気に苦しみ、また、それを治すための辛い処置も受けなければならないが、治る希望を失っているわけでは決してない。
そして、思いやりを込めて医者が書いてくれた処方箋に、忠実に従えば従う程、治る見込みは高くなるのである。
処方箋に従わない場合、医者に出来ることは何もない。

第三十一条 霊は、地上に転生してくると、霊界で決意してきた解決手段を実行して、過去世で集積した悪を償おうとする。
したがって、一見、存在理由がないように思われる、種々の悲惨や不遇などにも、本当は、それなりの、しっかりした理由があるということを知らなければならない。それらは過去の悪行の帰結であって、我々が進化するためには必要不可欠なのである。

第三十二条 「神が、人間を、決して間違いを犯さないように完璧に創ってくだされば、人間は、未熟さに由来する不幸を経験しなくても済んだのに」と思う人もいるかもしれない。神が、知識においても精神性においても完璧な人間を創ろうと思えば、当然、そうできたはずである。だが、そうはなさらなかった。というのも、叡智に満ちた神は、進化の法則にすべてを委ねることを選ばれたからである。

人間が不完全であり、したがって、程度の差はあれ、必ず不幸に見舞われるということは事実であって、認めざるを得ない。既に、そうなっているからである。
そのことをもって、神が善でもなく公正でもないと考えるとすれば、それは神への反逆となるだろう。

例えば、もし、あらかじめ神から特権を与えられており、他の人間が苦労しなければ手に入れられない幸福、あるいは、他の人間がどんな苦労をしても決して手に入れられない幸福を、何の努力もなしに与えられるような人間がいるとすれば、それは、神が公正さを欠くということにもなるだろう。

しかし、霊は絶対的な公平さのもとに創られたのである。あらゆる霊は同じように創られた。最初に創られたとき、その能力には差がまったくなかった。例外的な扱いを受けた霊はただの一人も存在しなかったのである。

目的に達した霊は、必ず、他の霊と同様に、未熟な状態から試練の段階を経て徐々に向上していった霊なのである。
以上のように考えてみれば、行動の自由が全員に与えられていることになり、これ以上、公平なことはない。
幸福への道は全員に開かれているのである。

目的も、全員同じである。目的に達するための条件も、全員同じである。そして、そのための決まりも、全員の意識の中に、しっかりと刻み込まれている。
神は、努力の結果として、全員に公平に幸福を与えてくださるのであって、特別措置によって、限られた者だけ幸福を与えるわけではない。
各人は、努力することにおいて、また、努力しないことにおいて自由である。

一生懸命、努力する者は、早く報いられる。途中で迷ったり、道草を食ったりする者は、当然、目的地に着くのが遅くなる。
しかし、それも、すべて自分の責任である。
善を行うのも、悪を行うのも、各人の自由に任されている。まったく自由であって、どちらかの方向に強制的に向かわせられるということはない。

第三十三条 未熟な霊を待ち受ける苦しみは、その種類も程度も様々であるが、死後の運命を決める規則は、次の三つの原理に要約される。

1 苦しみは未熟さから生じる。

2 あらゆる未熟さ、そして、それに由来する、あらゆる過ちは、それ自体に罰を内包している。不摂生をすれば病気になるように、また、無為が必ず退屈につながるように、未熟さは、必然的に、過ち、そして罰という帰結を生み出す。したがって、それぞれの過ち、また、個人ごとに、特別の罰を考え出す必要はない。

3 人間は、誰でも、意志の力によって、その未熟さから脱することができ、したがって、未熟さの当然の帰結としての悪を免れることが出来る。そして、そのことによって幸福になれるということが保証されている。

以上が、神の正義による法である。
すなわち、霊界においても、地上においても、各人の努力に応じた結果が与えられるということである。

第4章 魂は平等なのに、なぜ天使と悪魔が存在するのか?
第1節 天使とは何者か?
天使が持っているとされる特質を全て備えている存在があることは、疑いのない事実であろう。霊界通信は、この点に関して、あらゆる民族が持っていた信仰を裏付けている。だが、それだけに留まらず、同時に、そうした存在の本性と始原についても教えてくれるのである。

魂、或は霊は、最初に創られた時は、単純で無知だった。つまり、何の知識もなく、善と悪の区別が出来なかったのである。しかし、自らに欠けているものは、全て獲得出来るようにも創られていた。
全ての魂にとって、完成が目標だった。それぞれが、自由意志に従い、努力に応じて、完成を目指していった。全ての魂が、同じだけの距離を踏破し、同じだけの仕事をする必要があった。
神は、全ての魂を全く公平に扱い、一切のえこひいきをしなかった。
というのも、魂達は、全て神の子供であったからである。

神は子供達に言った。
「さあ、この法に従って生きなさい。この法だけが、あなた方を目的地に導くことが出来る。この法に適うものは、全て善であり、この法に背くものは、全て悪である。この法に従うのも、背くのも、あなた方の自由であり、そのようにして、あなた方は自分自身の運命を形作るのだ」

故に、悪をつくり出したのは神ではない。神は善の為に法を創った。そして、その法に背いて悪をつくり出したのは神ではない。神は善の為に法を創った。そして、その法に背いて悪をつくり出したのは人間なのである。もし人間が忠実にその法を守ったならば、決して善の道から外れることはなかったのである。
しかし、その生存の初期において、魂は、幼児と同じく、経験を欠いていた。だからこそ、失敗し易かったのである。

神は、魂に、経験は与えなかったが、経験を得る能力は与えた。魂が悪の道へ歩を進めるごとに、それは霊的進化の遅れとなった。そして、魂は、その度ごとに報いを受け、避けねばならないことが何であるのかを学んだ。そのようにして、魂は、徐々に進化、発展し、霊的な階層を上っていったのである。そして、ついには、至純の霊、つまり、天使の段階にまで至ったわけである。
したがって、天使とは、人間が、もともと持っていた可能性を開花させて、ついに完成の域に達した姿、約束されていた至福の境地に至った姿なのである。
この最終的な境地に至るまでの間に、人間は、それぞれの進化の段階に応じた幸福を享受するのだが、この幸福は、何もせずに手に入れることは出来ない。この幸福は、神から与えられた役割を果たす中で、初めて味わうことが可能となるのである。というのも、そうした役割は、進化の為の手段であるからなのだ。

人間は、地上での生活だけに縛り付けられているわけではない。空間中に繰り広げられる無数の世界に属するのである。既に姿を消した世界に属していたこともあるし、これから現れる世界に属することもあるだろう。
神は、永遠の時間の中で創造してきたし、これからも創造し続けるであろう。

それ故、地球が存在する遥か以前から、地球以外の惑星でも、我々と同じく、数多くの霊が、肉体に宿って修行をしていたのである。そして、比較的新しく生まれた我々が現在辿っているのと同じ行程を踏破し、我々が神の手によって生まれるよりも遥か前に、既に目的に達していたのである。

それは、地球上の我々にしてみれば、永遠の昔から、至純の霊、つまり天使達が存在していたということになる。つまり、彼らが人間だった頃の時間は無限の彼方に退いているので、宇宙開闢の頃から天使として存在しているように、我々には思われるのである。

神が、かつて仕事をしないことはなかった。自らの命令を伝え、宇宙のあらゆる領域を方向づける為に、常に、信頼のおける、智慧に溢れた至純の霊人達を従えていたのである。彼らの補佐を受けて、惑星の運営から、最も些細なことに至るまで、実行してきたのである。
したがって、様々な職務を免除された、特権的な存在をつくる必要などなかった。全ての霊達が、古い者も新しい者も、努力に応じて各々の境涯を勝ち取ってきたのである。全員が、自ら上げた成果に応じて進化してきているわけである。
そのようにして、神の至高の正義が実現されてきたのだと言えよう。

第2節 悪魔とは何者か?
霊実在論によれば、天使も悪魔も別々の存在ではない。知的生命体は、全て同じ創られ方をしたのである。それらの生命体は肉体に宿り、人間として、地球や他の惑星に住むのである。肉体から分離した後は、霊となって、霊界に還って生活する。

神は彼らを向上し得る存在として創造した。完成と、その完成に必然性に伴う幸福が、彼らの目標であり、神は彼らを完全なものとしては創らなかった。それぞれの努力を通じて完成を目指すべきだとしたのである。それが各人の手柄となるからである。

創造された瞬間から、彼らは、地上での生活を通じて、或は、霊界での生活を通じて、向上を目指している。進化の極致に至ると、彼らは、至純の霊、つまり、天使となる。
したがって、知的な意味における『胎児』の状態から天使に至るまで、途切れることのない存在の連鎖があり、各々の鎖の環は、進化の階梯の一つ一つの段階をなしている。だから、高い段階、低い段階、また、中くらいの段階など、道徳的、知的な発達に応じた、あらゆるレベルの霊が存在することになる。ということは、あらゆる段階の、よき者達、悪しき者達、知的な者達、無知な者達が存在するということになるだろう。

低い段階にいる者達の中には、悪への傾向性が著しく強くて、悪をなすことに喜びを感じる者達もいる。実は、彼らこそが、いわゆる悪魔と呼び慣わされている存在なのである。実際、彼らは、悪魔が備えている、あらゆる悪しき性質を備えている。

霊実在論が彼らを悪魔と呼ばないのは、悪魔と呼んでしまうと、それは、人間から完全に切り離された、本質的に邪悪な、永遠に悪に運命づけられた、善に向かうことの全く出来ない存在と見なされる危険性があるからである。

教会の教義によれば、「悪魔は、もと、よき存在として創られたのだが、不服従によって、悪しき存在となった」とされる。つまり、悪魔とは墜天使のことである。彼らは、神によって、存在の階梯の上部に置かれたのだが、そこから下の方へと降りていったのである。そして、「一旦悪魔となった者は、二度と再びそこから抜け出すことが出来ない」とされる。

霊実在論によれば、悪魔とは、不完全な霊であって、向上の余地を残している。彼らは階梯の下部にいるが、そこから上っていくことは可能なのである。
無頓着、怠慢、頑固、傲慢、そして、悪しき意志ゆえに、霊界の下部にいる者達は、そのことによって苦しみを得ている。だが、悪をなす習慣がある為に、そこから出ることは難しい。
しかし、やがて、そうした苦痛に満ちた生き方が嫌になる時が、いつか来る。その時になって、彼らは、自らの生き方を善霊の生き方と比較し、「本当は、自分も、よい生き方をしたかったのだ」と悟る。

そして、向上の道へと入るのだが、それも、自らの意志によってそうするのであって、誰かに強制されてそうするのではない。彼らは、もともと進化すべく創られている為に進化を目指すのであって、自らの意志に反し、強制されて進化するのではない。

神は、常に進化の手段を彼らに提供しているが、それを使うかどうかは彼らの自由に任せている。もし進化が押し付けられたものだとしたら、何の手柄にもならない。神は、彼らが彼ら自身の努力によって手柄を立てることを望んでいるのである。

神は、ある者達だけを特別に選んで最上階に置くことはしない。その境涯は、誰に対しても開かれているのである。
ただし、努力なしに、そこに到達することは出来ない。最上階にいる天使達といえども、他の者達と共通の道を通って、徐々に上層へと上っていったのである。

第3節 全員が同じスタートラインから
霊が、あるレベルに達すると、そのレベルに見合った使命を授けられる。階層によって、それぞれ異なる使命を達成すべく働くのである。
神は、永劫の昔より、創造行為を繰り返しており、また、永劫の昔より、宇宙の統治に必要な、あらゆる手段を提供している。

知的生命体は、それが進歩の法則にかなったものでありさえすれば、一種類のみで、宇宙のあらゆる必要性を満たすことが出来るはずである。彼らは、全員が同じスタートラインから出発し、同じ道筋を通って、自分自身の立てた手柄に応じて、それぞれ進化していくのである。
こう考えた方が、「異なった能力を備えた生命体が何種類も創られ、それぞれに特権が与えられている」と考えるよりも、神の正義に合致するのではないか。

天使、悪魔、そして人間の魂に関する従来の考え方には、進化という観点が入り込む余地はなく、そこにおいては、「三者は、最初から、それぞれ異なった、特別な存在として創られた」とされる。つまり、「神は、えこひいきをする父親であり、自分の子供のうち、ある者達には、全てを与える一方で、ある者達には、むごい仕打ちをする」ということになる。
人間達が、随分長い間、そのような考え方を不自然と思わなかったのは、実に驚くべきことではあるまいか?

そして、その考え方を自分の子供達にも適用して、長子相続権の公使と、生まれによる特権を認めてきたのである。彼らは、「そうすることで、自分達が神より酷い仕打ちをしている」と考え得たのであろうか?

だが、今日では、考え方が大きく変わってきた。我々は、物事をもっとはっきり見るようになっている。正義に関しても、ずっとはっきりした概念を抱くようになり、そうした正義を切望している。そして、「地上に、そのような正義を見出せないとしても、少なくとも天上界には、完璧な形の正義があるに違いない」と考えるのである。
したがって、神の正義が最も純粋な形で示されていない教義は、我々の理性によって退けられるのである。

第4節 霊現象は、すべて悪魔によるわけではない
現代の霊現象は、過去のあらゆる時代に起こった類似の現象への関心を高めた。その為に、ここしばらくは、歴史の検証が、かつてない程熱心に行われた。そこで確かめられたのは、「結果としての現象が類似している以上、原因も同一のはずだ」ということである。

理性では説明がつかない、あらゆる異様な現象と同様、人々は、そうした霊現象を、超自然的な原因によるものであると考え、そこに、さらに迷信的な要素を付け加えて大げさなものとしていった。そこから数多くの伝説が生まれたわけだが、それらは、少量の真実と、多量の虚偽からなるものであった。

悪魔に関する教義は、実に長い間、他の教義を圧してきたが、悪魔の力を過大視し過ぎた為に、いわば、神そのものを忘れさせる結果となった。その為、「人間の力を超える現象は、全て悪魔によるものだ」と考えられるようになったのである。

あらゆる事柄が、サタンの仕業だと考えられた。あらゆるよきこと、有益な発見、さらに、人間を無知から解放し、狭い思考の枠組みから救い出した発見までもが、邪悪な存在の仕業と見なされてきたのである。

霊的な現象は、今日では数多く見られるが、科学的な知見に基づき、理性の光のもとに、しっかりと観察された結果、それらが、目に見えない知性の介入によって引き起こされていることが明らかになった。そして、それらは、あくまで自然法則の限界の範囲内で起こりつつも、新たな力、今日まで知られることのなかった未知の法則を示すものであった。

そこで、問題は、「そうした現象を引き起こす知性体が、一体いかなる次元に属しているのか」ということになる。

霊界について、曖昧で型通りの考え方しか出来なかったとすれば、誤解も生じたであろう。しかし、今日では、厳密な観察と、実験に基づいた研究によって、霊の本性に光が投げかけられて、その起源と行く末、宇宙の中における役割と行動様式が明らかにされ、問題が、事実そのものによって解決された。

すなわち、不可視の知性体とは、地上を去った人々の魂であることが明らかになったのである。
また、数多くの善霊・悪霊が存在するが、それらは、当初から違う種類のものとして創造されたのではなく、元々同一に創られたものが、それぞれ、様々な進化のレベルにあるに過ぎないということが分かった。

霊が占める階層により、また、その霊の、知的、道徳的な発達の程度に応じて、霊現象は、色々な様相を示し、時には正反対と思われるものもあるが、どの霊も――粗野な霊も、洗練された霊も、残忍な霊も、優美な霊も――全て、人類という家族の一員であることは間違いない。
この点に関しても、他の場合と同じく、教会は、悪魔の仕業とする古い考えにしがみついている。つまり、「我々は、キリスト以来、変化していない原理に基づいている」というわけである。

その後、人々の考え方も大きく変化しているのに、そのことを考慮に入れず、また、「神は、あまり智慧がないので、人間の知性の発達に応じて啓示のレベルを変えることなど、到底有り得ない」と考えているかのようである。「原始的な人々にも、文明人にも、全く同じ言葉遣いで語りかける」というわけである。
人類が進化しているにもかかわらず、霊的な面に関しても、科学的な面に関しても、伝統的な宗教が、古いやり方にしがみついているとすれば、やがて、いつか、この地上は神を信じない人間ばかりになるであろう。

訳者あとがき
本書を読んで、読者のみなさまは、どんなことを感じられたでしょうか?
「こんなことは、にわかには信じられない」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。

正直に言って、
「う~ん、このままでは、自分はけっこうヤバいかも」と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか?

あるいは、死後の様子が克明に分かったために安心された方もいらっしゃるでしょう。

さらには、
「この調子でいけば、死後は、かなりよい階層に行けそうだ」と希望に胸を膨らませた方もいらっしゃるかもしれません。

訳者としては、死後、苦しんでいる霊たちの様子に、
「この世で行った悪行が、これほど死後のあり方に影響するものなのか」と、思わずわが身を振り返らずにいられませんでした。

一方で、
「この世で行なった善行は、ことごとく神によって見届けられており、死後、過分とも思われる報いを受けている」
ということも、強く印象に残りました(芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出します)。

つまり、
「よいことも、悪いことも、死後の世界では、十倍、二十倍にも評価される」という法則があるようなのです。

これが事実なら、悪霊になるのは、ある意味で、とても”簡単”だし、天使になるのも、決して不可能ではないということになります。

つまり、天使も悪霊も、人間とは別世界の特殊な存在ではなく、ごく身近にいる人たちの死後の姿にほかならないのです。いや、むしろ、それは私たち自身の行く末であるのかもしれません。

本書に収録された数多くの霊人たちとの対話は、本当に貴重なものだと思います。
私たちの近くにいくらでもいるような、ごく普通の人たちが、死ぬときに、そして死んだあとに、どのような体験をすることになるのかということが、本人の言葉を通して詳細に語られているからです。

高級霊からのメッセージは、日本でも、さまざまなかたちで刊行されています。しかし、自分たちと同じレベルの、ごく普通の人たちからのメッセージ集というのは、本書以外にはほとんど存在していないのではないでしょうか?

さて、賢明な読者のみなさまは、すでにご存じかと思いますが、ここで、「霊との対話」に関する注意点を述べておきましょう。

本書に書かれているような「霊との対話」は、厳しい条件のもとで初めて可能となるものであり、それを安易に試みることには大きな危険が伴います。

アラン・カルデック自身は、「交霊会」について次のように述べています。

「交霊会の催される場所の持つ磁場が、どんな霊を呼び寄せるかを決め、その結果、霊が人間にどんな影響を与えるかを決定する。
そして、メンバーの一人ひとりが、この磁場を整えるために貢献し得るのである。磁場がよければ、善霊たちが感応し、悪霊たちは遠ざけられるために、よい通信が可能となる。磁場を決定するのは、出席者の心の持ち方である。

次のような条件が整えば、よき磁場が形成される。

①世界観、感情が、出席者全員で完全に共有されていること。
②メンバー同士がお互いに思いやりを持っていること。
③慈愛の精神に反するいかなる感情もそこに見られないこと。
④高級諸霊の教えを学んで向上しようとする強い意志があり、実際に彼らのアドヴァイスを実践していること。
⑤おもしろ半分というような気持がいっさいないこと。
⑥霊との対話のあいだ、敬意に満ちた沈黙と精神集中が支配していること。
⑦招霊するに当たっては、メンバー全員の心が一致していること。
⑧霊媒に、傲慢さやうぬぼれがまったくなく、ひたすら、よきことに奉仕しようとする気持ちだけがあること。

このような条件のもと、まず全員が瞑想することによって会場の磁場を整え、次に、アラン・カルデックが、祈りをし、それから、おもむろに霊を呼び降ろしたのです。そして、霊媒の自動書記や発声を通して霊との対話を行なったわけです。

その現象の観察にあたっては、第1部、第3部で説明されている「霊実在主義」の体系をつくり上げた、高度な知性、理性、合理性、そして実証主義的精神を駆使しました。

交霊会が、このような細心の注意をもって行われたのは、それを行なっている人間が、自分を見失い、悪霊に支配され、みずから悪霊になるという悲劇が起こらないようにするためでした。のみならず、現にいま生きている人間の人生の意味を知り、人生をより充実させるための教訓を得たいという、誠実で厳粛な探求心があったからだと言えるでしょう。

私たちは、安易な気持ちで交霊会めいたものに参加したり、おかしな宗教の奇妙キテレツな悪霊現象にはまったりすることを、巌に戒めておかねばなりません。

アラン・カルデックの「霊実在主義」が私たちの人生に与えるインパクトは、とても大きなものです。

いわゆる哲学や文学、また、論理学や道徳などをいくら学んだところで、死んだあとに自分がどうなるか分からなければ、人生の本当の意味、本当の目的は、決してつかみ取ることができません。

「物質世界」と「霊界」との関係がはっきり分かってこそ、私たち人間は、希望や生きがい、幸福感を持って生きることができるのです。
「この世」でどう生きれば「あの世」でどうなるかということが分かってこそ、つまり、「霊界の法則」が理解できてこそ、私たち人間は真の意味で安心して生きられるのです。

以上のような理由から、本書は、まさに得がたい「人生の指南書」であると言うことができるでしょう。

本書を読んで、一人でも多くの方が、希望と幸福に満ちた人生を、勇気を持って歩まれますことを、心より願ってやみません。
二〇〇六年 希望に輝く春を待ちながら   浅岡夢二