アラン・カルデック(霊媒の書)
スピリチュアリズムの真髄「現象編」

訳者まえがき
本書は一九世紀のフランスの思想家アラン・カルデックの古典的名著Le Livre de Mediumsの英語版の日本語訳である。

フランス語と英語はともにアルファベットを使用する言語なので、その翻訳は比較的やさしいと言われるが、日本語は世界のどの言語とも異なる複雑な形態をもつ言語なので、訳し方一つでまったく異質のものになってしまう危険性がある。

本書の翻訳に当たっても私は、フランス語→英語→日本語と、二段階の翻訳をへるうちに原典の“味”が損なわれることを懸念したが、有り難いことに私の長年の愛読者の一人でフランス語の原典をお持ちの方と不思議な縁でめぐり会い、私の訳文の一部を読んでいただいて、大体においてこうした感じであることが確認できた。

訳していくうちに表面化した問題として、カルデックが本書を書いた時代がハイズビル事件をきっかけにスピリチュアリズムが勃興してわずか十数年後という事実から想像がつくように、その後の心霊研究の発達とモーゼスの『霊訓』や『シルバーバーチの霊言』に代表される高等な霊界通信によって、用語の上でも新しいものが生まれていることで、霊的真理の内容においてはいささかも見劣りはしないが、用語には、そのままでは使用できないものが目立つ。

その最たるものが“スピリチュアリズム”を“スピリティズム”と呼んでいることで、ラテン諸国では今なおそう呼んでいる。

カルデックはスピリチュアリズムのことを“唯物主義Materialismと相対したもの”として、いわば“精神主義”的な意味に捉えていたらしい。日本で“心霊主義”とか“神霊主義”と訳す人の認識と似たところがある。

ご承知の通り、スピリチュアリズムは“地球を霊的に浄化する”という意味のspiritualismから来たもので、“主義”という意味はみじんもない。そこで私はこれまで“スピリチュアリズム”という原語で通してきたのであるが、本書でも一貫してそれで通すことにした。

もう一つの問題は“霊(スピリット)”と“魂(ソウル)”の区別で、英米でも日本でも混同して用いられているが、カルデックは両者はまったく同じものであるとし、肉体に宿っているものを“魂”と呼び、肉体を捨てたあとの存在を“霊”と呼ぶ、という解説をしている。

そう言いつつも時おり混同して用いているところがあるが、私は上の解説は的を射ていると思うので、それに従うことにした。

カルデックの人物像と業績については次に詳しく述べることにして、ここで参考までに述べておきたいのは、カルデックが交霊会に出席するようになってから高等な自動書記通信が届けられるようになり、その編纂と出版を霊団側から依頼されたという事実である。カルデックには特に霊能はなかったが、上の事実は彼の霊格の高さと使命を物語っているとみてよいであろう。

アラン・カルデックの生涯と業績
カルデックは本名をイポリット=レオン=ドゥニザール・リヴァイユといい、一八〇四年にフランスのリヨンで生まれている。アラン・カルデックというペンネームは、いくつかの前世での名前の中から背後霊団の一人が選んで合成して授けたものである。

家系は中世のいわゆるブルジョワ階級で、法官や弁護士が多く輩出している。初等教育はリヨンで修めたが、向学心に燃えてスイスの有名な教育改革家ペスタロッチのもとで科学と医学を学んだ。

帰国して二十八歳の時に女性教師と結婚、二人で新しい教育原理に基づいた私塾を開設する。が、偶発的な不祥事が重なって、塾を閉鎖せざるを得なくなり、リヨンを離れ、幾多の困難と経済的窮乏の中で辛酸をなめる。が、その間にあっても多くの教育書や道徳書をドイツ語に翻訳している。

その後名誉を回復して多くの学会の会員となり、一八三一年にはフランス北部の都市アラスの王立アカデミーから賞を授かっている。一八三五年から数年間、妻とともに自宅で私塾を開き、無料で物理学、天文学、解剖学などを教えている。

スピリチュアリズムとの係わり合いは、一八五四年に知人に誘われて交霊会に出席したことに始まる。そこでは催眠術によってトランス状態に入ったセリーナ・ジェイフェットという女性霊媒を通して複数の霊からの通信が届けられていた。

すでにその通信の中にも“進化のための転生”の教義が出ていて、一八五六年にはそれがThe Spirits 'Bookのタイトルで書物にまとめられていた。が、その内容にはまだ一貫性ないし統一性がなかった。それが本格的な思想体系をもつに至るのは、カルデックがビクトーリャン・サルドゥーという霊能者が主催するサークルに紹介されて、そこで届けられた通信の中で、カルデックが本格的な編纂を委託されてからだった。それが同じタイトルで一八五七年に出版され、大反響を呼んだ。

このように、カルデックは霊界通信によってスピリチュアリズムに入り、当初は物理的心霊現象を軽視していた。さらに、スピリチュアリズム史上もっとも多彩な現象を見せたD・D・ホームと会った時に、ホームが個人的には再生(転生)説を信じないと言ったことで、ますます物理現象を嫌うようになった。

その後カルデックも物理現象の重要性に目覚める。「霊媒の書」がその証と言えるが、フランスでの心霊現象の研究は、カルデックの現象嫌いで二十年ばかり遅れたと言われている。

一八六九年に心臓病で死去。六十五歳。遺体はペール・ラシェーズ墓地にあり、今なお献花する人が絶えない。

業績は多方面にわたり、多くの学術論文を残しているが、著書としてはThe Spirits 'Book(本書)、The Mediums 'Book(「霊媒の書」)の他にHeaven and Hell(天国と地獄)、The Four Gospels(四つの福音書)など、スピリチュアリズム関係のものが多い。

序文
スピリチュアリズムの実践面(交霊実験会・霊能開発等)において遭遇する困難や失望が霊的基本原理についての無知に起因していることは、何よりも日頃の経験が雄弁に物語っている。

これまで我々はそのことを警告する努力を重ねてきたが、その努力の甲斐あって、本書にまとめたようなことを精読することで危険を回避することができた人が少なくないことを知って、喜びに堪えない。

スピリチュアリズムに関心を抱くようになった人は、霊と交信してみたいと思うようになる。それは極めて自然なことで、本書を上梓する目的も、これまでの長くそして労の多かった調査研究の成果を披露することによって、健全な形でその願望を叶えさせてあげることにある。

本書をしっかりお読みいただけば、テーブル現象はテーブルに手を置くだけでよい、通信を受け取るにはエンピツを握りさえすればよいかに想像している人は、スピリチュアリズムの全体像を大きく見誤っていることに気づかれるであろう。

とは言うものの、本書の中に霊能養成のための絶対普遍の秘策が見出せるかに期待するのも、同じく間違いである。と言うのは、全ての人間に霊的能力が潜在していることは事実であるが、その素質にはおのずと程度の差があり、それがどこまで発達するかは、自分の意志や願望ではどうすることもできない、さまざまな要因があるのである。

それは、たとえば詩や絵画や音楽の理論をいくら勉強しても、先天的に優れた才能を持って生まれていないかぎりは、形だけは詩であり、絵画であり、音楽といえるものは作れても、詩人・画家・音楽家といえるほどの者になれるとは限らないのと同じである。

本書についても同じことが言える。その目的とするところは、各自の受容力が許す範囲での霊的能力の発達を促す手段をお教えすることであり、とりわけその能力の有用性を引き出す形で行うことである。

ただし、それだけが本書の目的の全てではないことをお断りしておく。本格的な霊能者といえる人以外にも、霊的現象を体験したいと思っている人が大勢いる。そういう人たちのさまざまな試みのためにガイドラインを用意してあげ、その試みの中で遭遇するかも知れない――というよりは、必ず遭遇するに決まっている障害を指摘し、霊との交信の手ほどきをしてあげ、すぐれた通信を入手するにはどうすべきかを教えてあげること、それが、十分とは言えないかも知れないが、本書が目的としているところである。

であるから、読者によってはなぜそんなことを述べるのか理解に苦しむことにも言及しているが、それは経験を積んでいくうちに「なるほど」と納得がいくであろう。前もってしっかりと勉強しておけば、目撃する現象についてより正しい理解が得られるであろうし、霊の述べることを奇異に思うことも少なくなるであろう。そのことは、霊媒や霊感者としてすでに活躍している人だけでなく、スピリチュアリズムの現象面を勉強したいと望んでいる人すべてに言えることである。

そうした指導書(マニュアル)をこんな部厚い書物でなしに、ごく短い文章で述べた簡便なものにしてほしいという要望を寄せた人がいた。そういう人たちは、小冊子の方が価格が安くて広く読まれるであろうし、霊媒や霊感者の増加にともなって強力なスピリチュアリズムの宣伝の媒体となると考えたようである。しかし、少なくとも現時点でそういう形で出すことは、有用どころか、むしろ危険ですらあると考える。

スピリチュアリズムの実践面には常に困難がつきまとうもので、よくよく真剣な勉強をしておかないと危険ですらある。従ってそうした複雑な世界に簡便なマニュアルだけで安易に入り込むと、取り返しのつかない危害をこうむることがあるのである。

このようにスピリチュアリズムは軽々しく扱うべき性質のものではないし、危険性すらはらむものであるから、まるで暇つぶしに死者の霊を呼び出して語り合うだけの集会のように考える人間がこの道に手を染めてもらっては困るのである。本書が対象としているのは、スピリチュアリズムの本質の深刻さを認識し、その途轍もなく大きい意義を理解し、かりそめにも面白半分に霊界との交信を求めることのない人々である。

本書には、これまでのわれわれの長年にわたる実体験と慎重な研究の末に得た資料の全てが収められている。これをお読みいただくことによって、スピリチュアリズムが、人生を考える上で見過ごすことのできない重大な意義を秘めているとの認識が生まれ、軽薄な好奇心と娯楽的な趣味の対象でしかないかに受け取られる印象を拭い去ることになるものと期待している。

以上のことに加えてもう一つ、それに劣らず重大なことを指摘しておきたい。それは、心霊現象のメカニズムについての正しい知識もなしに軽率に行われた実験会は、出席した初心者、およびスピリチュアリズムに良からぬ先入観を抱いている者に、霊界というものに関して誤った概念を植えつけ、そのことがさらにスピリチュアリズムは茶番だと決めつける口実にされてしまうことである。

半信半疑で出席した者は当然その種の交霊会をいかがわしいものと結論づける。そしてスピリチュアリズムに深刻な側面があることを認めるまでには至らずに終わる。スピリチュアリズムの普及にとって、肝心の霊媒や霊感者みずからが、その無知と軽薄さによって、想像以上に大きい障害となっているのである。

一八四八年に勃興したスピリチュアリズムは、当初の現象中心から霊的思想へと重点が移行してきたここ数年(一八六一年の時点)で飛躍的な発達を遂げた。このことには、多くの学者や知識人がその真実性と重大性を認識したことが大きく貢献している。もはや、かつてのような見世物(ショー)的な段階から脱して、確固とした教説としての認識を得ている。

確信をもって断言するが、こうした霊的教説を基盤とするかぎりスピリチュアリズムはますます有能な同志を引き寄せるであろう。すぐに現象を見せようとして安直な交霊会を催すのは得策ではないし、危険でもある。この確信は、前著『The Spirits' Book』をひと通り目を通しただけで我々のもとへ駆せ参じた人の数の多さが雄弁に物語っている。

その思想的側面については前著で詳しく語ったので、本書では、自分の霊能で霊的現象を求めておられる人、および霊媒による交霊会で現象を正しく理解したいと思っておられる方のために、おもにその実際的側面を扱うことにした。これをしっかりとお読みいただけば、遭遇する障害についてあらかじめ理解し、かつそれを回避することにもなるであろう。

最後に付言すれば、本書の校正は、内容そのものに係わった霊、いわゆる通信霊みずからが行った。全体の構成についても、かなりの部分に彼らの思う通りの修正を加え、彼ら自身が述べた意見の一つ一つについても確認作業を行っている。

通信霊は自分の所見にはかならず署名(サイン)をしているが、本書ではその全てを付記することは避け、通信者が誰であるかをはっきりさせた方がよいと思うものだけにとどめた。

が、本来、霊的なことに関するかぎり、通信霊が地上でどういう名前の人物であったかは、ほとんど意味をなさない。要はその通信の内容そのものだからである。
アラン・カルデック 一八六一年 パリにて。


訳注――最後のところでカルデックが述べていることは第十四章の「霊の身元と霊格の問題」に出ている詳しい解説と、細かい“一問一答”をお読みいただければ理解がいく。

ステイントン・モーゼスの『霊訓』の通信霊についてはモーゼスの死後『ステイントン・モーゼスの背後霊団』というのが出たが、生前の出版をモーゼスが許さなかった。『シルバーバーチの霊訓』の“シルバーバーチ”は“白樺”の意味の仮名であり、地上時代の本名は六十年間ついに明かさずに終わった。ともに賢明な配慮であったというべきであろう。


第1部 序説

第1章 霊の実在
霊の実在に関する疑問は、その本性についての“無知”に起因している。霊というと大ていの人が目に見える地上の創造物とは別個のものを想像し、その実在については何一つ証明されていないと考えている。

想像上の存在と考えている人も多い。すなわち霊というのは子供時代に読んだり聞かされたりしたファンタスティックな物語の中に出てくるもので、実在性がないという点においては小説の中の登場人物と同じと思っている。実はそのファンタスティックな物語にも、表面の堅い皮をむくと、その核心に真髄が隠されていることが分かるものなのだが、そこまで解明の手を伸ばす人は稀で、大ていは表面上の不合理さだけにとらわれて全体を拒絶してしまう。それはちょうど宗教界の極悪非道の所業にあきれて、霊に係わるもの全てを拒絶する人がいるのと同じである。

霊というものについていかなる概念を抱こうと、その存在の原理は、当然のことながら物質とはまったく別の知的原理に基づくのであるから、その実在を信じることと、物的原理からそれを否定することとは、まったく相いれないことなのである。

魂の実在、およびその個体としての死後存続を認めれば、その当然の帰結として次の二つの事実をも認めねばならない。一つは、魂の実質は肉体とは異なること。なぜならば、肉体から離脱したあとは、ただ朽ち果てるのみの肉体とは“異次元の存在”となるからである。

もう一つは、魂は死後も“個性と自我意識”とを維持し、したがって幸不幸の感覚も地上時代と同じであること。もしそうでないとしたら、霊として死後に存続しても無活動の存在であることになり、それでは存在の意義がないからである。

以上の二点を認めれば、魂はどこかへ行くことになる。では一体そこはどこなのか、そしてどうなっていくのか。かつては単純に天国へ行くか、さもなくば地獄へ行くと信じられてきた。ではその天国とはどこにあるのか。地獄はどこにあるのか。人々は漠然と天国は“ずっと高い所”にあり、地獄は“ずっと低い所”にあるという概念を抱いてきたが、地球がまるいという事実が明らかになってしまうと、宇宙のどっちが“上”でどっちが“下”かということは意味をなさなくなった。しかも二十四時間で一回転しているから、“上”だと思った所が十二時間後には“下”になるのである。

こうした天体運動が果てしない大宇宙の規模で展開している。最近の天文学によると地球は宇宙の中心でないどころか、その地球が属している太陽系の太陽でさえ何千億個もの恒星の一つに過ぎず、その恒星の一つ一つが独自の太陽系を構成しているという。この事実によって地球の存在価値も遠くかすんでしまう。大きさからいっても位置からいってもその特質からいっても、砂浜の砂の一粒ほどしかない地球が、この宇宙で唯一、知的存在が生息する天体であるなどと、よくぞ言えたものと言いたくなる。理性が反撥するし、常識からいっても、当然、他の天体のすべてに知的存在が生息し、それゆえにそれなりの霊界も存在すると考えてよかろう。

次に持ち出されそうな疑問は、そのように天体が事実上無限に存在するとなると、すでにそこを去って霊的存在となった者たちの落ち着く先はどうなるのか、ということであろう。が、これも旧式の宇宙観から生じる疑問であって、今では新しい科学理論に基づく宇宙観が合理的解釈を与えてくれている。(オリバー・ロッジなどによるエーテル理論をさすものと察せられる――訳者)

つまり霊の世界は地上のような固定した場所ではなく、内的宇宙空間とでもいうべき壮大な組織を構成していて、地球はその中にすっぽりと浸っている。ということは我々の上下左右、あらゆるところに霊の世界が存在し、かつ絶え間なく物質界と接触していることになる。

固定した存在場所がないとなると、死後の報いと罰はどうなるのかという疑問を抱く方がいるかも知れない。が、この種の疑念は報いや罰が第三者から見て納得のいかない形で行われることを懸念することから生じるもので、善行に対する報いも悪行に対する罰も、本質的にはそういうものではないことを、まず理解しなければならない。

いわゆる幸福と不幸は霊そのものの意識の中に存在するもので、第三者から見た外的条件で決まるものではない。たとえば波動の合う霊との交わりは至福の泉であろう。が、その波動にも無限の階梯があり、ある者にとっては至福の境涯であっても、それより高い階梯の者にとっては居づらい境涯に思えるかも知れない。このように、何事も霊的意識の進化のレベルを基準として判断する必要がある。そうすれば全ての疑問が氷解する。

これをさらに発展させれば、その霊的意識のレベルというのは、魂の純化のための試練として何度か繰り返される地上生活において、当人がどれだけ努力したかによって自ずと決まるものである。“天使”と呼ばれる光り輝く存在は、その努力によって最高度の進化の階梯にまで達した霊のことであり、すべての人間が努力次第でそこまで到達できるのである。

そうした高級霊は宇宙神の使徒であり、宇宙の創造と進化の計画の行使者であり、彼らはそのことに無上の喜びを覚える。最後は“無”に帰するとした従来の説よりもこの方がはるかに魅力がある。無に帰するということは存在価値を失うことにならないだろうか。

次に“悪魔”と呼ばれているものは邪悪性の高い霊ということで、言いかえれば魂の純化が遅れているということである。遅れているだけであって、試練と霊的意識の開発によって、いつかは天使となり得る可能性を秘めている点は、他のすべての魂と同じである。キリスト教では悪魔は悪の権化として永遠に邪悪性の中に生き続けるとしているが、これでは、その悪魔は誰がこしらえたのかという問いかけに理性が窮してしまう。

“魂(ソウル)”と“霊(スピリット)”の区別であるが、結論から言えば同じものを指すことになる。ただ、肉体をまとっている我々人間は“魂を所有している”というように表現し、肉体を捨て去ったあとに生き続けるものを“霊”と呼ぶ。同じものを在世中と死後とで言い分けているだけである。もしも霊が人間と本質的に異なるものだとしたら、その存在は意味がないことになる。人間に魂があって、それが霊として死後に生き続けるのであるから、魂がなければ霊も存在しないことになり、霊が存在しなければ魂も存在しないことになる。(この“霊”と“魂”の使い分けはスピリチュアリズムでも混乱していて、霊界通信でも通信霊によって少しずつズレが見られる。ここでカルデックが解説していることは明快であるが、その前の節では“魂の純化”という、その解説の内容からはみ出た意味に用いている。ここは本来は“霊性の進化”と言うべきところであろうが、要するに地上の言語には限界があるということである――訳者)

以上の説が他の説より合理性が高いとはいえ、一つの理論に過ぎないことは確かである。が、これには理性とも科学的事実とも矛盾しないものがある。それにさらに事実による裏付けがなされれば、理性と実体験による二重の是認を受けることになることは認めていただけるであろう。

その実体験を提供してくれるのが、いわゆる“心霊現象”で、これが死後の世界の存在と人間個性の死後存続という事実を論駁(ろんばく)の余地のないまでに証明してくれている。

ところが大抵の人間はそこのところでストップする。人間に魂が存在し、それが死後、霊として存続することは認めても、その死者の霊との交信の可能性は否定する。「なぜなら、非物質的存在が物質の世界と接触できるはずがないから」だと彼らは言う。

こうした否定論は、霊というものの本質の理解を誤っているところから生じている。つまり彼らは霊というものを漠然として捉えどころのない、何かフワフワしたものを想像するらしいのであるが、これは大きな間違いである。

ここで霊というものについて、まず肉体との結合という観点から見てみよう。両者の関係において、霊は中心的存在であり、肉体はその道具にすぎない。霊は肉体を道具として思考し、物的生活を営み、肉体が衰えて使えなくなればこれを捨てて次の生活の場へ赴く。

厳密に言うと“両者”という言い方は正しくない。肉体が物質的衣服であるとすれば、その肉体と霊とをつなぐための半物質的衣服として“ダブル”というのが存在する。(カルデックは“ペリスピリット”という用語を用いているが、その後“ダブル”という呼び方が一般的になっているので、ここではそう呼ぶことにする――訳者)

ダブルは肉体とそっくりの形をしていて、通常の状態では肉眼に映じないが、ある程度まで物質と同じ性質を備えている。このように霊というのは数理のような抽象的な存在ではなく、客観性のある実在であり、ただ人間の五感では認知できないというに過ぎない。

このダブルの特質についてはまだ細かいことは分かっていないが、かりにそれが電気的な性質、ないしはそれに類する精妙なもので構成されているとすれば、意念の作用を受けて電光石火の動きをするという推察も、あながち間違いとも言えないであろう。

死後の個性の存続および絶対神の存在はスピリチュアリズムの思想体系の根幹をなすものであるから、次の三つの問いかけ、すなわち――

一、あなたは絶対神の存在を信じますか。
二、あなたに魂が宿っていると信じますか。
三、その魂は死後も存続すると信じますか。

この三つの問いに頭から「ノー」と答える人および「よく分からない」とか「全部信じたいが確信はもてない」といった返答をする人は、本書をこれ以上お読みになる必要はない。軽蔑して切り捨てるという意味ではない。そういうタイプの人には別の次元での対話が必要ということである。

そういう次第で私は本書を、魂とその死後存続を自明の理としている人を対象として綴っていくつもりである。それが単なる蓋然(がいぜん)性の高いものとしてではなく、反論の余地のない事実として受け入れられれば、その当然の帰結として、霊の世界の実在も認められることになる。

残るもう一つの疑問は、はたして霊は人間界に通信を送ることができるか否か、言いかえれば、思いを我々と交換できるかどうかということである。が、できないわけがないのではなかろうか。人間は、言うなれば肉体に閉じ込められた霊である。その霊が、すでに肉体の束縛から解き放たれた霊と交信ができるのは、くさりに繋がれた人間が自由の身の人間と語り合うことくらいはできるのと同じである。

人間の魂が霊的存在として死後も生き続けるということは、情愛も持ち続けていると考えるのが合理的ではなかろうか。となると地上時代に親しかった者へ通信(メッセージ)を届けてやりたいと思い、いろいろと手段を尽くすのは自然なことではなかろうか。地上生活を営む人間は、魂という原動力によって肉体という機関を動かしている。その魂が、死後、霊として地上の誰かの肉体を借りて思いを述べることができて、当然ではなかろうか。

人間に永遠不滅の魂が宿っていて、それが肉体の死とともに霊的存在として個性と記憶のすべてを携えて次の世界へ赴くこと、そして適当な霊媒を通して通信を地上へ送り届けることができることは、これまでに繰り返し行われてきた実験と理性的推論によって疑問の余地のないまでに証明されている。

一方、これを否定せんとする者も後を絶たないが、彼らは実験に参加することを拒否し、ただ「そんなことは信じられない。したがって不可能である」という筋の通らない理屈を繰り返すのみである。これでは「太陽はどう見ても地球のまわりを回っている。だから地動説は信じられない」と言うのと同類で、そう思うのは自由であるが、それではいつになっても無知の牢獄から脱け出られないことになる。

第2章 驚異的現象と超自然現象
霊および霊的現象の存在を肯定する説が単なる理論上の産物にすぎないとすれば、目撃されたものは全て幻覚だったことになるかも知れない。しかし、太古から現代に至るまで、あらゆる民族の民間信仰、および“聖なる書”と呼ばれている経典の中にその事実への言及が見られるという事実は、どう理解すべきであろうか。

この問いに対して、いつの時代にも人間は驚異的なものを求めるものなのだ、と答える人がいる。では、驚異的なものとは何であろうか。それは超自然的な現象のことだと答えるであろう。では“超自然的”という用語はどう解釈しているのであろうか。たぶん、大自然の法則と矛盾するもの、と答えるであろう。

実は、これは傲慢この上ない答えである。大自然の法則を全て知りつくした者にしか言えないことだからである。もし全てを知りつくしているとおっしゃるなら、霊および霊的現象の存在が大自然の法則とどう矛盾しているかを証明していただきたいものである。なぜ自然法則でないのか、なぜ自然法則とは言えないかを証明していただきたいのである。

さらにお願いしたいのは、スピリチュアリズムの教説をしっかりと検証していただき、観察した現象から引き出す推論の流れにもきちんとした法則があること、そして、これまでの哲人の頭脳をもってしても解き得なかった千古の謎を見事に解決していることを確認していただきたいのである。

思念は霊の属性の一つである。霊が物質に働きかけることができるのも、人間の感覚に反応することができるのも、そしてその当然の結果として思念を伝達することができるのも、言うなれば“魂の生理的構造”に起因している。この事実には何一つ超自然的なものも驚異的なものもない。

仮に死んだ人間が生き返り、バラバラの肢体が元通りになったとしたら、これは確かに驚異的なことであり、超自然的であり、途方もないことであろう。絶対神のみが奇跡という形で生ぜしめることができるものかも知れない。しかし、それは、みずからこしらえた摂理を神自身が犯すことになる。スピリチュアリズムにはその種の奇跡は一切ない。

そう言うとこう反論する人がいるであろう――「霊がテーブルを持ち上げ、空中に浮いた状態を保つことができるというが、それは大自然の法則の一つである“引力の法則”に反するのではないか」と。

その通りである。たしかに一般に理解されている引力の法則には反している。が、そう反論なさる方は、大自然の法則の全てが明らかになったと思っておられるのであろうか。上昇する性質をもつガスが発見される前に、気球にガスを詰めて数人の人間を乗せて空高く舞い上がるなどという光景を想像した人がいたであろうか。無線電信が発明される前に、地球の反対側から発信したメッセージが何秒もかからずに届く機械の話をしたら、その人は狂人扱いをされたことであろう。

同じことが心霊現象についても言える。従来の科学では存在が確認されていないエクトプラズムという特殊な物質があって、それを霊が操作して物体を持ち上げたり動かしたりするのである。それは厳然たる“事実”なのである。そして、いかなる否定論をもってしても、その事実だけは否定できない。なぜなら、否定することと、誤りを立証することとは別だからである。数多くの実験を見てきた我々から見れば、そこに何ら自然法則を超越したものは存在しない。今のところ我々はそう表現するしかない。

次のように反論する人もいるであろう。「その事実が証明されれば、おっしゃる通りに受け入れよう。エクトプラズムとかいう物質の存在も認めよう。しかしそれに霊が関与しているということをどうやって証明するのか。もしそれが事実であれば、まさしく驚異的であり、それこそ超自然現象である」と。

この種の疑問に対しては実際に実験に立ち会っていただくのがいちばんいいのであるが、取りあえず簡単に説明すれば、まず論理的には、知的な現象には知的な原因が作用しているに相違ないこと。次に実際的には、スピリチュアリズム的な現象は今も言った通りの知的な作用が証明されているので、物質とは異質のものに原因があるに相違ないということである。言いかえれば、実験会の出席者が行っているのではなく――これは実験で十分に証明されている――何か目に見えないもので、しかも知性を備えているもの、ということである。

それが何物であるかについて、これまで繰り返し観察してきて、次のような確信に帰着している。すなわち、その目に見えない存在は我々が“霊(スピリット)”と呼んでいるもので、しかもそれはかつて地上で生活したことのある人間の魂であり、死によって肉体という鈍重な衣服を脱ぎ捨て、今では肉眼に映じないエーテル質の身体をまとって異次元の世界で生活しているということである。

肉眼に映じない知的存在が霊であることが証明されれば、物質に働きかける力は霊そのものに備わっているとみてよい。その働きかけには知性が見られる。それは当然のことで、死は肉体だけの崩壊であって、個性も知性もまったく失われないのである。

このように、霊の実在は、事実にうまく合うようにこしらえた理論ではなく、また、ただの仮説でもない。実験と観察の末に得られた結論であり、人間に魂が内在するという事実からの当然の帰結なのである。霊の実在を否定することは魂とその属性を否定することになる。もしもこれ以外にもっと合理的に心霊現象を解明する説があるとおっしゃる方がいれば、ぜひともお聞かせいただきたいものである。心霊現象の全てを明快に説き明かすものでないといけない。もしあればスピリチュアリズムの説と並べて検討するにやぶさかではない。

自然界には物質しか存在しないと考えている唯物主義者にとっては、物理法則で説明できないものは全て“驚異的”で“超自然的”であろう。その意味での驚異的現象とは“迷信”と同義語にほかならない。そういう概念を抱いている人にとっては、物質を超越した原理の存在の上に成り立っている宗教も迷信の一組織でしかあり得ない。

と言って、そのことを大っぴらに公言する人はほとんどいない。みんな陰でささやき合っているだけである。そして公的場面で意見を求められると、宗教的人間にとって必要であり、また子供に規律ある生活を送らせる上で必要である、といった表現で体面を保とうとする。そういう態度をとる人たちにスピリチュアリズムは次のような主張を提示したい。すなわち、宗教的原理というものは真理であるか、さもなければ間違っているかのどちらかであり、もし真理であれば、それは万人にとって真理なのであり、もし間違っているとすれば、英知に富む人々にとってだけでなく、無知な人々にとっても何の価値もないことになる、と。

スピリチュアリズムのことを驚異的現象をもてあそぶだけの一派として攻撃する人々は、唯物主義者の音頭をとっているようなものである。なぜなら、物質的範疇をこえたものを全て否定することは、人間に魂が内在することを否定することになるからである。

否定論者の論説を突き詰め、その主張の流れを検討してみると、結局は唯物論の原理から出発していることが分かる。彼らはそれを公然とは露呈しない。が、いかに論法を合理的につくろってみても、彼らの否定的結論は、当初からの否定的前提の結果に過ぎないことが分かる。人間に不滅の魂が宿っていることを頭から否定しているから、魂の存在を前提とした説にはことごとく反論する。原因を認めない者に結論を認めることを要求するのは、しょせん無理な話なのである。

以上の論説をまとめると次の八項目になろう。

一、全ての霊的現象は、その根本的原理として、魂の存在とその死後の存続を示唆していること。つまり現象は死者の霊が起こしているのである。

二、その現象はあくまでも自然法則にのっとって生じているのであり、通常の意味での“驚異的”でも“超自然的”でもない。

三、“超自然現象”とされてきたものの多くは原因が分からないからに過ぎない。スピリチュアリズムではその原因を突き止めることによって、全てが自然現象の範疇におさまることを証明している。

四、ただし“超自然現象”とされているものの中には、スピリチュアリズム的観点から検討して絶対にあり得ないこと、したがって単なる迷信の産物に過ぎないものもある。

五、スピリチュアリズムは、古来の民間信仰の中に真理と認められるものもあることは認めるが、それは、他愛もない想像上の産物の全てを真理と認めるということではない。

六、虚偽の事実でもってスピリチュアリズムの真実性を否定する行為は、無知であることを証言するようなものであり、一顧の価値も認められない

七、スピリチュアリズムが本物と認めた霊現象を正しく解明し、そこから引き出される道徳的教訓を確認することによって、新しく心霊科学というものが生まれ、新しい霊的思想が生まれている。これは忍耐づよく、真剣に、そして注意ぶかく考究していくべき重大な課題である。

八、スピリチュアリズムを根本から論破するためには、まず心霊現象を徹底的に検証して、良心的態度で根気よく、その意味するところの深奥を考究し、さらにはスピリチュアリズムの説を各分野にわたって一つ一つきちんと反論できなくてはならない。否定するばかりではいけない。きちんと論理的に反論できなくてはいけない。要するに、これまでにスピリチュアリズムが出してきた結論よりもさらに合理的な説を提示できなくてはいけない。が、これまでのところ、そのような立派な反論を唱えた人はいない。

第3章 説諭に際しての心得
霊的真理に目覚めた者が、今度はそれを一人でも多くの人に知ってもらいたいと思うようになるのは自然の成り行きであり、むしろそうあって然るべきことであろう。本章はそういう願望を抱いている人のために、我々の体験にもとづいて最も有効な方法をお教えし、せっかくの意気込みが徒労に終わることのないように、という意図に発している。

すでに述べたように、スピリチュアリズムは新しい学問であり、新しい人生哲学である。となると、それを理解するには、第一条件として真剣さが要求される。つまり、どの学問でも同じであるが、遊び半分の態度ではとても理解できるものではないとの自覚がなくてはならない。

スピリチュアリズムは人類という存在のあらゆる問題に係わっている。その範囲は広大であり、実験会に参加した者が痛切に感じるのは、現象が暗示するところが途方もなく大きく、かつ深刻であることである。

その基本にあるものが霊の実在の真実性であることは論をまたないが、意欲的なタイプの人間は自分がそれを確信するだけでは満足しない。それは神学者が神の存在を自分が信じるだけでは満足できないのと同じである。そこで、これからそういうタイプの者にとってどういう方法が最も効果的であるかをみていこう。

“百聞は一見にしかず”という諺があるように、疑う人間には事実(物証)を見せるのが一番であるかに思われているが、実際は必ずしもそうではない。どんな現象を見せてもまったく考えを変えない人間がいることを知らねばならない。その原因はどこにあるかを明らかにしてみよう。

スピリチュアリズムにおいては、霊界通信と呼ばれている霊からのメッセージは言わば副産物であって、二次的な意義しかもたない。言いかえれば、霊からのメッセージはスピリチュアリズムの出発点ではないということである。

霊は人間の魂が肉体を捨てたあとに存続しているものにほかならないのであるから、議論はまず人間にその魂が内在していることから始めねばならない。ところが唯物論者は人間はこの肉体でしかないと信じているのであるから、この物的世界とは別の世界があって、そこに何らかの存在がいるなどということを信じさせるのは、まず不可能である。

自分に魂が内在することを信じない者が目に見えない霊の世界が存在するなどということが信じられるわけがないのであるから、そういうテーマについていくら議論しても無益である。どこからどう説いても、ことごとく論破されてしまう。原理そのものを認めないのであるから当然であろう。

秩序ある説諭というものは、すでに明らかとなっていることから始めて、さらに未知の分野へと進むべきである。この場合、唯物論者にとって明らかとなっているのは“物質”のみであるから、我々もまず物質科学に足場を定め、そこから唯物論者を我々の見地へと誘(いざな)い、人間には物質の法則を超越したものが内在していることを説いて聞かせる、ということになる。しかし、その説明のためには、物的次元を超えたさまざまな次元の法則を持ち出し、証拠としてさまざまな論拠を持ち出さねばならない。

自分に魂が宿っていることを信じない人間にいきなり霊の話を持ち出すのは、最終目的とすべきところから出発するようなもので、前提を認めない者が結論を認めるはずがないから、賢明とは言えない。うたぐり深い人間に霊的真理を納得させるためには、前もってその人が魂についてどう考えているか、つまり魂の存在を認めるかどうか、死後にそれが存続することを信じるかどうか、死後にも個性が残ることを信じるかどうかを確かめておく必要がある。

もしもそうした問いにいずれも「ノー」と答えるのであれば、霊について説くことは徒労に終わるに決まっている。絶対にとまでは言わない。中には例外的人間もいるであろう。が、その人の場合は何か別の要素があるものと察せられる。

唯物論者には大きく分けて二つのタイプがある。一つは、理論上そう考えているタイプ。このタイプの人間にとって霊的なものは“疑わしい”のではなくて、理論上の観点から“存在しない”のである。人間というのはゼンマイ仕掛けの機械と同じで、ゼンマイが巻かれている間は動くが、ゼンマイが切れると動かなくなる。後に残るのは死骸だけであり、他には何も残らない。

幸いこのタイプの人間は少ないので、こうした思想の蔓延による弊害を声高にあげつらう必要はない。

もう一つは無関心から取りあえずそういう立場を取っているタイプ。確信をもって唯物論を主張しているわけではない――言うなれば、それよりもっと良い説があれば喜んで信じるタイプで、こういう人が数としてはいちばん多い。

このタイプの唯物論者も、おぼろげながら来世へのあこがれのようなものを抱いている。が、これまでの伝統的信仰で聞かされている来世観は理性が納得しない。そこで疑念が生じ、その疑念が不信へと進行する。が、その不信には何一つ理論的裏付けがないのであるから、合理的な説を提示されれば喜んで受け入れるであろう。ということはスピリチュアリズムを理解する可能性があるということで、本人が自覚しているよりも我々と通じ合えるものをもった人々なのである。

その点から言うと、第一のタイプの唯物論者には啓示だの天使だのパラダイスだのといったものを持ち出しても意味がない。彼らには、この宇宙には現在の物理学の法則では説明しつくせないことが沢山あることを証明することから始めねばならない。その点、第二のタイプの唯物論者は信仰心がまったく無いわけではなく、いわば胚芽の状態で潜在していて、それが在来の根拠のない教義によって抑圧されているだけであるから、真理の光を当ててやれば生気を取り戻す可能性があるわけである。

以上の二つのタイプは“唯物論者”と呼ばれる人たちであるが、これ以外に、唯物論者の範疇には属さず、どちらかというと目に見えないものの存在を認めるタイプでありながら、我々にとって同じように扱い難いグループがいる。それは、我がままな感情から信じたがらない人たちである。

彼らは物的快楽を味わいたいという欲望を多分に持っている。だから、スピリチュアリズムを信じてしまうと野心や利己的欲望や見栄を捨てないといけなくなるのであるが、それは彼らにとっては困るのである。そこでわざと真実を見まいとし、真理の言葉を聞くまいとする。このタイプの人間は哀れに思ってあげるしか為す術(すべ)がない。

さらにもう一つのタイプに、打算または不誠実さから反対する人たちがいる。彼らはスピリチュアリズムの説くところをちゃんと知っている。その正当性も知っている。しかし、自分に都合のよい打算を動機として、表向きは否定論者の側にまわっているに過ぎない。このタイプもひじょうに扱い難い存在である。為す術がないからである。完全な唯物論者でも、思い違いをしている場合は、それを指摘してあげることによって考えを改めさせることができる。少なくともそこには誠実さが窺える。が、この打算から発している者は初めから反対することに決めてかかっているのであるから、議論の余地がないのである。

この種の人間は“時”を待つしかない。そして、多分、痛い思いをしてようやく自分の打算的態度の間違いに気づくであろう。しょせん真理の流れには抗し切れないのであるから、都合のよい打算にいくらしがみついても、最後は真理の激流がその打算といっしょに押し流してしまうであろう。

以上のようなタイプ以外にも、数え上げたらきりがないほど多種多様のタイプの人間がいる。たとえば憶病から信じまいとするタイプ。このタイプの人は、ある人が信念を堂々と告白しても何の危害もこうむらないことを知って勇気を得るという体験でもないかぎり、自発的に公言することはない。また信仰上のためらいから信じるに至らない人。このタイプの人は、しっかり勉強して、スピリチュアリズムが宗教の基本原理にのっとっていること、すべての信仰の存在価値を認めていること、そして、かつて抱いたことのない宗教的情念を生み出し、あるいは強化する要素があることを知るに至るのを待つほかはない。

その他にも、見栄や軽率な判断から信じようとしない人などがいる。

もう一つ見落とせないタイプに、“失望が原因で信じなくなった人”とでも呼ぶべき人たちがいる。たとえば、しっかりとした理解もなしに大ゲサに信じて交霊会に出席し、結果が期待どおりでなかったことから一気に不信に陥り、ついにはスピリチュアリズムの全てを捨ててしまったという人たちである。ニセの交霊会で見事に騙されて、それでスピリチュアリズム全体を茶番と決めつけてしまう人たちとよく似ている。要するにきちんとした勉強をしていないからそういうことになるのである。

スピリチュアリズムを新しいタイプの占いのように考えている人も少なくない。霊が自分の将来を語ってくれると思って出席するのであるが、その程度の人間が簡単に出席を許されるような交霊会は、ふざけた低級霊に支配されるに決まっているから、出席者を煙(けむ)にまき、あげくには失望の淵に蹴落として、ほくそえむことを許してしまうことになる。

数として最も多いのが“どっちつかずの中間派”で、我々としては反対派の中に入れていない。どちらかというと大半の者が霊的なものに関心があるのであるが、自分ではそれがいかなるものであるかについて確たる認識がないまま、ただ何となく魅力を感じている。こういうタイプの人に必要なのは秩序だった説諭で、それが功を奏せば、夜明けの太陽のごとく、それまでのモヤモヤとした霧をスピリチュアリズムの教説が一気に晴らしてしまう。すべての迷いから救い出し、本人もそれを歓喜して迎えるであろう。

以上、唯物論者を筆頭に、目に見えないもの、ないしは霊的存在を認めない人にもさまざまなタイプがいることを見てきたが、今度は、霊的なものの存在を信じる側に目を転じてみよう。

まず注目すべきことは、スピリチュアリズムという用語を知らず、その教義の何たるかも知らないのに、物の考え方、生き方、あるいは人生観に、本質的にスピリチュアリズムの精髄(エキス)のようなものがにじみ出ている人がいることである。それが著作や言動にも表れていて、あたかも立派な師のもとで訓戒を受けているかの印象を受ける。そういう人が、聖職にある人の中にも平凡な世俗の人の中にもいる。詩人、説教者、モラリスト、哲学者、その他さまざまな分野に見られるし、古今を通じても同じである。

そうした例外的な人は別として、スピリチュアリズムを調査・研究して十分に納得して信じるに至った人にも、いくつかのタイプがある。

第一のタイプは言うなれば“実験派”のスピリチュアリスト。心霊実験会に出席してその真実性を信じるようになった人であるが、興味は現象面に限られていて、スピリチュアリズムとは不思議な現象を研究する学問である、という認識にとどまっている。

第二のタイプはそうした現象の裏に思想的にも倫理・道徳的にも高度なものがあることに気づいてはいるが、それを実生活とは切り離して捉え、人間性との関連も稀薄、ないしはゼロの人。強欲な人間は相変らず強欲であり、高慢な人間は相変らず高慢であり、嫉妬深い人間は相変らず嫉妬深いままで、そこに内省というものが伴わない。こういうタイプを“無節操派”と呼んでいる

第三のタイプはスピリチュアリズムの教義の道徳性の高さを称賛するだけにとどまらず、それを日常生活で実践している人たちで、これが本物のスピリチュアリストというべきであろう。地上生活が束の間の試練であることを納得し、一刻(とき)一刻を大切にして善行に励み、自己の悪い面を抑制し、死後の霊的生活に備える。

最後のタイプは“急進派”。どの世界にも急進派はいるもので、スピリチュアリズムにも、熱心ではあるが思慮分別に欠けるために、結果的には誤解されるもとになっている人がいる。こういうタイプの人は日常の人間生活においても信頼されていないから、こういう人がスピリチュアリズムを吹聴してくれると、スピリチュアリズムの拠って立つ大義が台なしになってしまう。

昔から「人を見て法を説け」という。否定論者はもとより、スピリチュアリストをもって任じている人たちにも、以上見てきたように、さまざまなタイプがあるので、いかに説くかは相手によって変わってくることになる。ある人にうまく功を奏したからといって別の人にもうまくいくとは限らない。物理現象で得心する人もいれば、思想性の高い霊界通信で得心する人もいる。が、大部分に共通して言えることは、理性的判断力が伴わないといけないということである。

理性的な考察力を持ち合わせていない者には、物理的現象を見せてもほとんど意味がない。現象が驚異的であるほど、あるいは日常的体験から懸け離れているほど疑念の目で見られやすい。その理由は簡単である。人間というのは合理的に解明されないものは疑ってかかる性向があるからである。そして、それを各自の視点で捉え、自己流に解釈する。

唯物論者はあくまでも物理的な原因、要するに何らかのトリックがあると決めつける。無知で迷信を信じやすい者は悪魔的な、あるいは超自然的な何ものかの仕業にしたがる。が、あらかじめ霊的原理の解説をしておくと偏見を解き、真実性までは行かなくても、少なくともそうした現象の可能性を得心させる効果はある。みずから解説を求めてから実験に立ち会う者は、すでに理解ができているから、現象を目のあたりにすることで、容易にその真実性の確信に到達する。

頑固に信じようとしない人間を説得する必要が果たしてあるかどうかを考えてみると、これは、すでに述べたように、その“不信”の原因がどこにあるのか、あるいはどういう魂胆があるかによって決まる。中には、しつこく説得されることで却ってつけ上がって、ますます意地を張る人間がいる。

論証をもってしても、あるいは実証をもってしても得心しない人間は、まだ当分の間、不信という名の牢の中で暮らすしかないのであろう。いつの日か事情の変化で目覚めるよう神が計らってくださるのを祈るしかない。真理の光に目覚める準備の整った人間が大勢いるというのに、ただ心の扉を閉じることしか知らない人間に構っている暇はないのである。

霊的真理を正しく理解した人は自然に善行に励むようになるものである。苦しみの中にいる人に慰めを与え、絶望の淵に沈んでいる人に希望を与え、道徳の向上に役立つ仕事に進んで協力する。そこにその人たちの使命があると同時に、生きる喜びを見出すのである。するとそこに自然発生的に真の幸せのムードが漂うようになる。そのムードに影響されて頑迷な否定論者は自分の孤立した生き方に気づく。そこから内省が始まって、真理の光へ向かって進む者と、なおも意地を張って黙りこくる者とが出てくる。

他の分野の科学と同じ要領でスピリチュアリズムを考究しようとすれば、心霊現象のすべてを単純なものから複雑なものへと実験的に検証していく必要があるが、実際問題としてそれは不可能である。というのは、心霊現象の実験は物理学や化学のような要領で追試をするわけにはいかないのである。

では、なぜ追試ができないかということになるが、それは、自然科学の場合は知性も感情もない物質そのものを扱うから、同じ条件のもとで行えば同じ結果が出るが、心霊現象を発生させているのは霊という知的存在であり、自由意志をそなえ、人間の側から命令的に要求を出しても、必ずしもそれに応じてくれないのである。これは、これまでの経験で我々が繰り返し思い知らされてきていることである。

結局人間の側としては、いかなる現象が生じるかの見通しのないまま受身の姿勢で待ち、発生した現象を注意深く観察するしかない。お望みの現象をお見せしますという宣伝文句で客を集める霊媒は、無知であるか、さもなくばペテン師である。人間側の意志ではどうにもならない現象なのだから、要望の通りのものは起きないかも知れないし、たとえ同種の現象は起きても、要望したものとは全く異なる条件下で発生するかも知れないのである。

これに加えてもう一つ問題がある。それは霊媒にも得手不得手があって、全ての現象を生ぜしめる霊媒はまずいないということである。となると、全ての心霊現象を研究するためには全てのタイプの霊媒を確保しなければならないことになり、それは現実的に不可能である。

さて、こうした問題を解決するのは至って簡単である。思想面から入ることである。あらゆる現象の観察結果の説明を読み、その要旨をつかみ、可能性の全てを理解し、それらが発生するための条件と、遭遇する可能性のある困難を知ることである。その上で実験に臨めば、いかなる現象が発生しても理解がいくし、不意をつかれることもない。反対に、期待がはずれて失望することもないし、困難や危険の予備知識もあるので、痛い目にあうこともない。

スピリチュアリズムに思想面から入ることには別の利点がある。その思想のスケールの大きさと本来の目的を認識することになることである。たとえばテーブル通信(テーブルが浮揚して、その脚の一本が床を叩いてメッセージを伝える現象)だけを見た者は、かりに興味を抱いても面白半分の気持からであって、まさか宇宙・人生の千古の謎を解き明かす深遠な思想を生むに至るとは想像も及ばないであろう。証拠を見ずして信じるに至る人は決して軽薄ではないどころか、論説をよく読み理解しているがゆえに、最も知的であり、最も思慮深いと言えよう。

この種のタイプの人は形体よりも実質に重きを置く。現象は付属的なものでしかなく、かりに現象が発生しなくなっても、思想そのものは人類にとって未解決の難問を解く唯一のカギであり、これまでに提示されてきたいかなる説、否、将来提示されるであろういかなる説よりも合理的なものとして存在し続けることを認識している。その理論を確認する物証としての現象の価値は認めるが、現象が基本だとは考えていないのである。

では理論から入った者は現象による確認はしないのかというと、決してそうではない。それどころか、その理論を裏づける事実を豊富な自然発生的心霊現象で確認している。この言わば“突発的心霊現象”については後章で取り扱う予定であるが、これは意外に多くの人が体験していて、ただ、あまり関心を向けなかっただけのことである。

実はこの突発的現象というのは、物的証拠が残っていないという弱点はあるが、信頼のおける証言があれば大いに価値がある。かりに実験会における心霊現象というものが存在しなくても、突発的現象の中にそれに代りうるほどの証拠性のあるものが豊富にあるのである。

訳注――ここではカルデックは物的証拠ないしは客観的物証の観点から述べているが、霊の実在、つまり死後存続の確信というものは、あくまでも主観的なものであって、物証がなく他人に信じてもらえなくても、自分の内的直観力で「間違いない」と確信できる体験は、意外に多くの人が体験しているものである。

第4章 さまざまな説……心霊現象が教えるもの
スピリチュアリズムが勃興して心霊実験会というものが催され、奇っ怪な現象が見られるようになった時――これは言うなれば太古からあった突発的心霊現象の実験的再演にすぎないのだが――それを目にしあるいは耳にした者が真っ先に抱いたのは「トリックではないか?」という猜疑であり、トリックではないとしたら「ではそれを起こしているのは一体何ものだろうか?」という疑問だった。

その後の調査・研究によって、そうした現象が実在すること、そしてそれが霊による演出であることが完璧に証明されたのであるが、その一方では自分の勝手な考えや信仰、あるいは偏見によって思いつき程度の説を立てる者が出ている。

スピリチュアリズムに真っ向から敵対する者は、そうした説の多様性を指摘して「スピリチュアリズム自体が混乱しているのではないか」と難詰する。が、これは皮相な見解である。いかなる科学も最初は諸説があって定まらないのが普通で、そのうち事実が積み重ねられて、きちんとした筋道が立てられるに至る。その積み重ねの中で早まった結論が排除され、全体を統一する理論が生まれる。全体といっても最初のうちは基本的な問題に限られ、完璧とまではいかないかも知れない。

スピリチュアリズムも例外ではなく、当初は、現象の性質上、解釈の仕方が諸説紛々となりがちだった。が、その後の発展の仕方は科学の先輩である物質科学にくらべても速い方だった。物質科学のどの分野においても今なお最高の頭脳の持ち主による反論や否定説が存在することを知るべきである。(これは十九世紀末の時点での事実を述べているが、二十世紀も終わろうとしている現在でもなお、物理学では「相対性理論」が、天文学では「ビッグバン説」や「ブラックホール説」が、進化論では「ダーウィニズム」が痛烈な批判を浴びている。要するに人間は大自然について本当のことはまだ何も分かっていないということである――訳者)

さて、心霊現象には二つの種類がある。すなわち物理的現象と精神的ないし知的現象である。この世に物質以外の存在を認めないがゆえに霊の存在を認めようとしない者は、当然のことながら現象に知性の働きがうかがわれるという事実は頭から否定する。

彼らなりの見地から提示する説をまとめると次の四つに分類できそうである。

一、詐術説

すべてはトリックであると決めつける者が多い。あの程度のものなら手品師にでもできるというのがその理由である。ということは、我々が霊と呼んでいる者はいかさま師の手先であり、霊媒はみんないかさま師ということになる。

我々も、心霊現象にトリックは一切ないとは言わない。心霊現象と称してトリックや奇術によって金儲けをたくらむ者はどこにでもいる。が、本物があるから偽物があるのである。自分が見たものが実はトリックだったからといって、この世に本物はないと決めつける理屈は通らない。

二、低能説

否定論者の中にはトリック説までも否定する者がいる。ではどういう説の所有者なのか。スピリチュアリズムにたずさわっている者は騙しているのではなく、騙されているのだというのである。これは我々スピリチュアリストを“お人好しのおバカさん”と決めつけているのと同じで、もっと言えば、知能が低いと言っていることになる。ということは、自分たちは正常な頭脳の持ち主だと思っているわけであるが、我々の側から見れば、まったく正当性の根拠の出せないその程度の説で満足できる彼らこそ、あきれた頭脳の持ち主としか思えない。

三、幻覚説

ちょっぴり科学性の色彩が見られるものに、心霊現象はすべて幻覚であるとする説がある。その説によると――「実験会の出席者は立派な方たちなのであろうが、実際に見えていないものを見たと思っているだけである。たとえばテーブルが浮揚して、何一つ支えるものがないのに中空にとどまっているという場合、実際はテーブルは少しも動いていない―― 一種の蜃気楼ないしは光の屈折現象を見ているにすぎない。星などが水面に映っているのと同じで、その場に無いものを有るように錯覚しているのである」

確かにその種の幻覚も有り得ないことではない。が、実験会に出席した者は、その中空に浮いているテーブルの下を通り抜けてみているのである。もしテーブルが床にあって、浮いて見えるのが蜃気楼だとしたら、テーブルの下を通ろうとしたらテーブルに蹴つまずくはずである。

さらに、浮いていたテーブルが落下して壊れたことが何度もあるのである。目の錯覚でそんなことが有り得るだろうか。

人間の身体上の機能のせいで静止しているものが動いたように見えることは確かにあるし、目まいのする人は、じっとしていても自分が動いたように錯覚するものだが、実験会の出席者は一人ではなく数名ないし十数名で注視しているのである。その出席者全員が同じ錯覚に陥るということが有り得るだろうか。

四、人工音説

実験会には叩音(ラップ)現象というのが伴う。音の種類はさまざまで、必ずしも叩くような音ばかりではなく、楽器が奏でられたり、鈴が鳴ったり、家全体が揺すられたりすることもある。

それを、さる高名な学者が、全て霊媒が筋肉を無意識に、あるいは意図的に収縮させて出しているという、乱暴この上ない説を学会で発表したことがある。

霊媒が背のびをしても届かない天井や壁の高いところ、遠く離れた位置にあるテーブルから聞こえるのに、どうしてそんなことが出来よう。まして、テーブルが上下して、その脚の一本で床を叩いて(モールス信号のような符丁を使って)知的な内容の通信(メッセージ)を伝えるなどということは絶対に不可能である。

その学者は、ご苦労なことに、人間の筋肉の構造を細かく解説して、それを操作してドラムの音や聞き慣れた曲まで奏でることができるとおっしゃるのであるが、残念ながらその種の現象は滅多に起きない――出席者にとっては叩音現象は心霊現象のごく一部にすぎないのである。

一方、このラップも幻覚であるとする説もある。が、出席者全員が同じ音や曲、テーブル通信などを幻覚で聞くわけがない。後章で明らかにするように、こうした現象は全て目に見えない知的存在が演出しているのであって、偶発現象でもないし、物的原因によるものでもない。

以上は現象そのものの存在を完全に否定する説であるが、次に、心霊現象というものが存在することは認めるが、その原因は人体にそなわる電気や磁気、その他の未知のエネルギーのせいにする説をみてみよう。

(一) 物的エネルギー説

この説は全面的に間違っているわけではない。たとえば出席者が増えると現象も活撥になることは事実であり、その事実を有力な根拠としているが、前にも述べたように、真実の理論はあらゆる事実、あらゆる現象を解明するものでなければならない。たった一つでも当てはまらない事実があれば、その説は間違っているか不完全ということになる。

右の説は、物理的現象に関しては一考の余地があるが、心霊現象には知性の働きもうかがわれるのである。たとえば出席者の要求に応じたり、口に出さない思念(疑問など)を読み取っていることが明らかなのである。そうなると、現象を起こしているのは目に見えない知的存在だということになる。少なくとも純粋に物理的な原因によるものではないことは明白である。

そこで肝心なことは、その知性の働きの証拠を得ることであるが、これは根気よく実験を重ねれば確実に得られるものである。

(二) 知的エネルギー説

さて知性の働きは認めることができても、その知性の始源は何かを確認する必要が残る。かつて、これにもさまざまな説があった。

その一つは、霊媒ないしは出席者の知的エネルギーが、光の反射のように、現象やメッセージの中に反映しているというものだった。一見もっともらしい説ではあるが、実験に立ち会えば、ひとたまりもなく立ち消えになってしまう。

しかも、この説は唯物説を否定することになることを知るべきである。出席者から発せられる知性が働いて現象を起こすということは、人間はただの肉体のみの存在ではなく、肉体とは別個の働きをする別の原理を所有していることを意味することになるからである。

それにしても、こんな説を出す学者は、その途方もない重大な意味に気づかないのであろうか。もしも思念が肉体に反射して音や動きに転換されるというのが事実であれば、そのこと自体が驚異的なことではなかろうか。科学者がこぞってその検証に当たってしかるべき価値があるのではなかろうか。神経繊維を分析してその特性をコツコツと研究している学者が、心霊現象となるとそうした途方もない説を出して無視しようとする、その態度が理解できないのである。

さきにも述べたように、この説は実験に立ち会えばひとたまりもなく立ち消えになってしまう。そのいちばん良い例が、メッセージが出席者の考えと異なるだけでなく、真っ向から対立する場合があることである。こちらが予期する、あるいは期待するものと異なる場合もある。“白”だと思っていたのに“黒”だという返答が来た場合、それが出席者の思念の反映といえるだろうか。

また、自動書記や入神談話でメッセージが届けられる場合を考えると、霊媒が知らない言語で書かれたり、霊媒がまったく知るはずもない高等な哲学思想に関する質疑応答が為されることがあるが、これなどは霊媒でもなく出席者でもなく、まったく別個の、目に見えない知的存在が係わっているとしか考えられないであろう。

このことは直接書記でメッセージが綴られる場合にさらに鮮明となる。エンピツもペンも使わず、トリック防止にあらゆる配慮をした上で用紙に文章が書かれるのであるが、そのこと自体が目に見えない知的存在の働きの何よりの証拠であり、ましてやこちらから出された質問に対する回答が意外なものだったり、まったく無関係のことに言及している場合には、出席者の思念の反映などという説は問題にならない。

(三) 集団的精神作用説

これは右の知的エネルギー説と同類とみてよい。この説によると、霊媒から出た精神が他の数人の人間――その場にいる人だけでなく、その場にいない人の場合もある――の精神と合体して集団的人格をこしらえ、その精神作用で才能や知識や知性を発揮するという。

が、他の多くの説と同様、この説は個人的見解であって、これに賛同する人はほとんどいない。

(四) 夢遊病説

この説にはかつて多くの支持者がいたし、今でも、少なくなったとは言え、いることは事実である。基本的には上の説と同じく、すべての通信の始源も霊媒の精神とするのであるが、では霊媒の能力を超えているものはどう説明するかとなると、それを集団的精神作用とせずに、知力の一時的な超興奮状態、いわば夢遊病的恍惚状態における知性の増幅現象であるとする。

確かに人間は時として(火事場のばか力のように)興奮状態において超人的なことをしでかすことがあることは否定しないが、何度も言うように、本物の説は全ての現象を説明できるものでないといけない。ただの興奮状態では説明のできない現象がいくらでもあることは、一度実験会に出席してみると分かる。

そもそも霊媒は必ずしもトランス状態に入るとは限らない。どちらかというとトランス状態に入るのは例外に属する。たとえば自動書記の場合、霊媒によっては手だけはすごいスピードでメッセージを綴っているのに、本人はそのメッセージの内容にはまったく無頓着で、まわりにいる出席者とおしゃべりをし、時には笑い出したりすることもある。(本書の出版からほぼ二十年後に英国で出版された、スピリチュアリズムを代表する霊界通信の一つ『霊訓』Spirit Teachingsの霊媒ステイントン・モーゼスは、書かれていくメッセージが自分の意志とは別個のものであることを確かめるために、わざと難解な哲学書を読んだり、ペンを左手に持ちかえたりしたが、そんなことにはお構いなく、達筆の文章で、しかも神学者としてのモーゼスのキリスト教説と対立する内容のメッセージが、猛烈な勢いで書かれていった――訳者)

(五) 悪魔説

霊媒とは別個の知的存在の仕業であることを認める者の中に、それを全て悪魔(デーモン)の仕業とする人がいる。今ではほとんど聞かれなくなったが、かつてはかなりの支持者がいたものである。

スピリチュアリズムの立場から見ればとんでもない説であるが、見方を変えれば、まんざら敵対視するには及ばないことに気づく。と言うのは、悪魔であろうと天使であろうと、目に見えない世界の存在であることには変わりないわけで、従ってかりに悪魔からの通信であるとすることは目に見えない霊界、少なくともその一部との交信が可能であることを認めることになるからである。

問題は、通信の全てを悪魔からのものとする点にある。明らかになったところによると、霊というのは他界した人間の魂なのであり、地上の人間にも善人もいれば悪人もいるように、その中には確かに悪魔のような霊もいるかも知れないが、あの優しかった祖父母や父母、親しかった友人、あるいは愛(いと)しい我が子が、死んで悪魔の手先になっているとは、いったい誰が信じられよう。

キリスト教徒の中にこの悪魔説を本気で信じている人がいることは事実であるが、スピリチュアリズムに深入りさせまいとして、一種の脅しとしてそういう説を吹聴する者がいることも我々は知っている。「さわっちゃダメだ。やけどをするぞ!」と言うのに似ている。

実はそれが逆効果を生むこともあるのである。人間には禁じられるとやってみたくなる性分があり、悪魔がどんなことを言うか聞いてみたくなる人がいる。ところが実際に交霊会に出席してみると、少しも怖くも何ともない。こうしてその人は真実に目覚めることになる。

霊の述べることが自分の宗教の教説と異なるからという理由で、それを悪魔の仕業とする人もいる。コーランの教えと異なるからというマホメット教信者、モーゼの教えと異なるからというユダヤ教信者、ローマ法王の説教と違うからというカトリック信者、等々。

カトリックの場合は霊の説くところが慈善と寛容と隣人への愛、そして俗世的欲望の抑制という、まさにキリストの教えそのままであるのに、それを悪魔のそそのかしだというのであるが、その辺の矛盾をどう説明するのであろうか。

何度も言うように、霊といっても、もともとは人間の魂であり、人間は不完全な者ばかりだから、霊も不完全ということになり、それはその述べるところに如実に反映する。

中には確かに邪悪な霊もいるし、狡猾な霊もいるし、あきれるほど偽善者的な霊もいる。だから、我々は警戒心を怠ってはならないが、そういう霊がいるからという理由で全てを排斥するのは、社会に悪い人間がいるからといって隠遁の生活に入るのと同じで、賢明とはいえない。

神は、人間を識別するのと同じように霊を識別する理性と洞察力を与えてくださっている。スピリチュアリズムにつきものの煩わしさから逃れる道は、全面的にそこから逃れるのではなく、正しい理解と判断力を持つことである。

以上、さまざまな説を見てきたが、現象を見もしないで頭ごなしに否定するのは論外として、現象ないし事実を一応検討した者の間でも、なぜこうまで諸説が出るのであろうか。

その原因は単純である。かりに一軒の家があって、前半分を白く塗り、裏側は黒く塗ってあるとしよう。それを前から眺めた人は「あの家は白かった」と言い、裏側だけを見た人は「あの家は黒かった」と言うであろう。両方とも正しいが、両方とも間違っている。表と裏の両方から見た人だけが本当の意味での正しい答えが出せる。スピリチュアリズムにも同じことが言える。

現象の一部だけを見て立てた説は、それなりに正しいかも知れないが、それだけでは片づけられない現象がいくらでもある。だから、全体から見るとその説は間違いということになる。

スピリチュアリズムを正しく理解するには時間をかけて、ありとあらゆる現象を細かく検討しなければならない。大ていの人は自分の体験をもってそれが全てであると錯覚し、その観点から自説を立てる。そこに間違いの原因がある。

では心霊現象が教えるところを十項目に分けて解説しておこう。

1、心霊現象は超物質的知性すなわち“霊”が演出している。

2、見えざる世界は霊によって構成されていて、至るところに存在する。無辺の宇宙に霊が実在している。我々人間の身のまわりにも存在し、そのうちの幾人かと常に親密な関係にある。(背後霊のこと――訳者)

3、霊は絶えず物質界に働きかけており、精神活動にも影響を及ぼしている。自然界のエネルギーの一種と見なしてよい。

4、霊は本質において我々人間と変わるところはない。かつて地球上または他の天体上で物的身体をたずさえて生活したことのある魂であり、今はその物的身体を脱ぎ捨てているというに過ぎない。従って人間の魂は“肉体に宿っている霊”であり、いずれは肉体の死によって霊になる、ということになる。

5、霊といっても千差万別で、善性においても邪悪性においても、理解力の程度においても無知の程度においても、無数の段階がある。

6、霊も進化の法則によって拘束されている。ただし他方において自由意志も与えられているから、努力と決意の程度によって進化の速度が異なる。しかし、いつかは完成の域に到達する。

7、霊界における霊の幸不幸は地上時代における善悪の所業と霊性の進化の程度によって決まる。完全にして無垢の幸福感、いわゆる至福の境涯は、完全な霊性を極めた者のみが味わうことができるものである。

8、霊は、ある一定の条件のもとで、人間にその存在を顕現してみせることができる。人間と意志の疎通ができる霊の数に限界はない。

9、霊は霊能者を媒介としてメッセージを伝えることができる。その場合、霊能者は道具であり、通訳のような存在である。

10、メッセージを送ってくる霊の霊性の高さないし低さは、そのメッセージの内容に反映する。高い霊の訓えは善性にあふれ、あらゆる側面にそれが表れている。低い霊の述べることには、どう繕ってみても、偽善と無知と未熟さがうかがえる。

訳注――これだけのことを一般の人々にすぐに理解を求めるのは無理としても、最近のテレビ番組や心霊書を見ていると、チャネラーと自称して多くの客を相手に霊視力や霊聴力あるいはインスピレーションで霊からのメッセージを伝えたり前世を語ったりしている人でも、その言葉の端々から霊的知識が欠落していたり誤解していることが読み取れることが多い。

最近あきれ果てたのは、さる女性霊能者が「霊でも千年くらいは生き続けているのがいますから」云々、と言ったことで、この人にとっては相変わらず物的人間が実在で、霊は副産物的なモヤのようなもので、いつかはどこかへ消滅していくものでしかないらしい。神職や僧籍にある人に意外にその程度の認識の人が多いようである。

もう一人のテレビ出演者が書いた霊界の本を開いてみたら「霊界というところは暗くて寂しいところで、地上界の方がよほどいい」といった文章があった。この人の霊視力はそのレベルまでしか見えていないということを証明している。

自分のことを神界からの使者であるとか仏陀の生まれ変わりであるとか称している人もいる。こういう人は天文学をしっかり勉強して、宇宙の広大無辺さと無限の次元の波動の世界の存在を知ることである。おのれの小ささに気づいて、そんなことは言えなくなるであろう。

霊的な仕事に携わっている人の落とし穴は、自分の霊能にうぬぼれて“学ぶ”ということをしなくなることである。

第2部 本論

第1章 物質界への霊の働きかけ
第一部で見た通り、唯物的否定論は理性的にも事実上からも筋が通らないものとして片づけられた。本章からは人間の魂が、他界後に霊として、地上の生者にどのように働きかけるかを見てみたい。

そもそも先祖の霊が地上の人間に働きかけるということは世界のいずこの民族においても、またいつの時代においても、ごく当たり前の事実として直観的に信じられていたものである。それほど世界的に共通した直観であり、しかも人間生活に影響を及ぼしてきた信仰に、それなりの根拠が無かったはずはない。

それは聖書の中にも初期キリスト教時代の教父たちの証言の中にも見出すことができるが、それを“迷信”のカテゴリーの中に放り込んだのは、近代の唯物的懐疑思想であった。

ではその懐疑思想の横暴を許したのは何だったのか。いろいろと要因はあろうが、近代に至って物質科学が大幅な発展を遂げ、何事にも“なぜ?”、“いかなる原理で?”ということが明確でないものは事実として認めないという風潮を生んだことが最大の要因だった。

それまでは直覚的に目に見えない霊の存在とその働きかけを信じていたのが、物質科学の範疇に入らないというところから、それを無視するようになっていったのは当然の成り行きだった。

つまるところ、霊的現象を理解できなくさせているのは“霊”そのものについての間違った概念なのである。現象は霊が物質に働きかけるからこそ生じているのであるが、霊は目に見えない存在であるから、それが物質に働きかけるはずはないことになる。その辺の理屈に実は根本的な誤りがあるのである。

目に見えないということは、実体のない抽象的存在ということではない。霊にはれっきとした実体があり、形態もあるのである。それが肉体に宿っている魂を構成しているのが地上の人間で、肉体から脱け出たあとも、ちゃんと人間的形態をそなえているという。現に物質化して出現するときは地上時代と同じ姿をしている。

霊視力で人間の死の直後の様子を観察すると、肉体から脱け出た魂は、しばらく困惑状態にあるのが分かる。感覚的におかしくなっていると言ってもよい。と言うのは、目の前に自分の肉体が横たわっている。きれいな姿をしている場合もあろうし、事故などで無惨な姿になっていることもあろう。が、自分はちゃんと存在しており、自我意識もある。一体どうなっているのだろうと思って困惑する。

中には死んだという自覚がなく、地上時代と同じ感覚で生活を続ける者もいる。その自覚が芽生えるまでには、新しい環境での体験が必要なのである。

その体験を必要とせず、一瞬の戸惑いはあっても、すぐに死を悟って、死体に何の未練も持たずに、空中に舞い上がるごとくに霊界を上昇して行く者もいる。

いずれにしても、肉体の死によって個性も自我意識も一切失われることはない。しかも、肉体そっくりの身体もちゃんとそなわっている。地上時代の肉体のように飲食によって養う必要もないし、病気もしない。地上時代の障害も消えている。

数え切れないほどの実験と観察、そして名状し難い事実(のちほど詳しく説明)によって、我々は次のような結論に達している。すなわち人間は三つの要素から成り立っている。第一が魂または霊で、道義的感覚を有する知的原理である。第二が肉体。荒けずりな物的身体で、神の配剤によるある目的のために魂が一時的に宿って地上生活を営むための道具である。そして第三がダブルと呼ばれる半物質的媒体で、魂と肉体との接着剤のような役目をしている。

死というのはそのうちの肉体が破滅または分解する現象である。その際、脱け出て行く魂はダブルもいっしょに携えていく。魂には何らかの媒体が必要なのである。

ダブルは流動性の蒸気のような媒体で、通常の状態では人間の肉眼には映じないが、本質的には物質に近い性質をしている。が、今までのところ、それを分析するまでには至っていない。(それはカルデックの時代だけでなく現代に至っても同じである。が、英国のジョージ・チャプマンという心霊治療家は、トランス状態に入るとウィリアム・ラングという、地上時代に眼科医だった霊が乗り移って、患者のダブルを手術するという方法で多くの患者を治していた。私も実際にその治療法で治してもらった生々しい体験がある。潮文社刊・拙訳『霊体手術の奇跡』参照――訳者)

“魂の衣服”ともいうべきダブルは、当然地上生活中も存在している。魂と肉体との仲介役ないし中継者で、魂の内的状態が肉体に伝わり、肉体の外的状態が魂に伝わる。言うなれば“思念を伝える電線”のような役目をしていて、その具体的な働きは神経の波動として捉えられている。

人体の生理機能としては極めて重要な役割を演じているのであるが、その働きが神秘的で名状し難いために、生理学でも病理学でも明確な研究対象とされていない。もし解明されれば、いま謎とされている多くの事実が説き明かされるであろう。

訳注――これも百年後の現代にもそのまま当てはまる。神経作用は肉体的にきわめて敏感に反応するので物的なものと考えられがちで、医学もその考えのもとに扱っているが、謎とされている事実が多い。たとえばニューロンと呼ばれる細胞がつながって信号を伝えるのであるが、数百億個もあるニューロンとニューロンは実は直接はつながっていない――わずかながら隙間があり、それをシナプスと呼ぶ。脳全体のシナプスの数は数千兆個という天文学的な数値に達するが、いかに性能のいいコンピューターでもちょっとした接触不良で作動しなくなるのに、神経系統はそれだけのシナプスがありながら、なぜか情報が瞬時に伝わるのである。そこで医学では“神経伝達物質”というものの存在を指摘しているが、ずいぶん窮屈な説である。

そこへいくとヨガでは神経を物質の範疇に入れていない。ダブルにあるチャクラという生命力の中枢から発せられる生命力が常に神経繊維に沿って伝わっており、神経の情報はそれを媒体として伝達されるとしている。霊的にもそれが正解であり、神経そのものの働きではないことを昔のヨガ僧は体験的に直感していたのである。

“神経”という用語は“神気の経脈”という意味で、日本における最初の西洋医学の翻訳書『解体新書(ターヘル・アナトミア)』の中で用いられたものである。直接翻訳に携わった前野良沢――杉田玄白ではない――は余ほど霊感の鋭い人物であったことが、その訳語一つから窺える。

ダブルの存在は、科学の世界でよく出される“仮説”ではなく、霊による証言もあるし、このあと紹介する我々の観察によっても確かめられている。差し当たっては、地上生活中も、そして他界後も、魂とダブルは常に一体となっていると理解していただけばよい。

霊視すると霊は炎とか火花として映じることが昔から言われている。が、肉体に宿っている魂は知的ならびに倫理的原理として機能しており、その形態は認識できない。しかし、霊性の進化がどの段階にあろうと、魂は常にダブルによって包(くる)まれており、ダブルそのものの精妙度は霊性の進化にともなって高まっていく。

このように、ダブルは肉体が人間の不可欠の要素であるように霊にとって不可欠の要素である。と同時に、肉体そのものがその人ではないように、ダブルそのものが霊ではない。あくまでも霊の道具である。

死を境にして肉体から解放されたダブルは、それまで肉体にはめられていたために出来あがった人間的形態が崩れて、霊の意念に応じて広がったり、縮まったり、その他、その時の必要性にしたがって自在に変形する。出現した霊が地上時代の姿とそっくりであるのも、あるいは傷とか障害などの特徴を見せることができるのも、このダブルがあるからである。

魂は物質とはまったく異質の存在で、その本質はまったく知られていない。その魂が、死後、霊としてこの物質界に働きかけることができるのは、ダブルがあるからこそである。つまり霊が物質界に働きかけてその存在を知らしめるためには、物質的媒体が必要ということである。我々人間が肉体という媒体によって物質界と接触しているのと何ら変わるところはない。

こう見てくると、心霊現象も自然現象の範疇に属し、何ら奇跡的な要素はないことがお分かりであろう。超自然現象であるかに思えるのは、上に述べたような事実を知らないからで、それが分かってしまえば驚異でも何でもなく、原因は半物質体のダブルにあることになる。新たに発見された次元の事実が新たな法則によって説明されたというに過ぎず、一連の自然法則であることには変わりない。電信による交信の事実に今どき驚く人がいないように、いずれは常識となる日が来るであろう。

その理屈は分かるにしても、半物質とはいえ目に見えない精妙な媒体によって重いテーブルが天井高く持ち上げられたりするのは信じられないとおっしゃる方もいるであろう。

しかし、では電気が巨大なモーターを回転させ、稲妻となって巨木を八つ裂きにしてしまうのを見て、その威力には驚いても、それを信じないという人はいないのはなぜか。そういう事実を日常において見ているからである。

我々が呼吸している空気でも突風となって家屋を吹き飛ばすし、爆風となって人間を死に至らしめることもある。それと同じで、ダブルというエーテル質の媒体も、他の条件が加わることによってテーブルを持ち上げるようにもなるし、生前の姿を再現して見せることもできるのである。

訳注――ここで“ダブル”と訳したのは原文ではperispiritとなっている。periという接頭語は“周囲”の意味があり、ここでは“霊を取り囲むもの”といった意味あいの新造語である。通信霊の一人で、ラメネーと名のる霊が次のように説明している。

《ここでペリスピリットと呼んでいるのは通信霊によっては“魂の流動性の外皮”と呼ぶ者もいる。それを構成している流動性のものは、霊にとっては感性の伝達に融通性を与え、また見解や観念の伝達に広がりを与える。といっても、それはある程度まで進化した霊にとっての話で、低級霊の場合はペリスピリットに地上臭が残っており、言わば物的なので、空腹とか寒さも感じる。高級霊になるとペリスピリットも純化されているので、そういう地上的なものは感じない。

魂が進化するには何らかの媒体を必要とする。媒体のない魂は“無”に等しく、人間には概念がつかめないであろう。人間のように一定の型にはまっていない我々にとってペリスピリットは、人間の身体を使って間接的に(自動書記などで)通信を送るか、あるいは人間のペリスピリットを使って直接的に(インスピレーション的に)交信する上で欠かすことのできない媒体である。その使用法しだいで、霊媒にも霊媒を使っての交信にも、さまざまな種類が生じるわけである。

ただし、ペリスピリットの科学的分析となると話は別である。魂とは何かが我々とて分かってはいない。人間がペリスピリットを研究しているように、我々も魂とは何かを探究中である。お互いに忍耐が必要である》

この通信を受け取ったのが正確に何年であるかは記されていないが、本書の序文が一八六一年に書かれているから、それよりそう古くはないであろう。

こんなことを詮索するのは、手もとにあるウィリアム・クルックスの破天荒の研究書Researches in the Phenomena of Spiritualismが出版されたのが一九二六年である。が、これは一八七〇年頃から始まったクルックスの本格的な心霊研究の成果を一冊にまとめたもので、その中に、科学誌に発表された「サイキック・フォースと近代スピリチュアリズム」という論文が見える。それが一八七一年十二月号であるから、本書の出版から十年後ということになる。

私はこの“サイキック・フォース”こそ物理現象の主要エネルギーで、これに霊界の化学成分を混合して、いわゆるエクトプラズムをこしらえるのだと結論づけている。エクトプラズムの研究では第一人者であるJ・E・ライト氏は“エクトプラズミック・フォース”という言い方をしている。同じものである。

第2章 テーブル現象
我々が物理的心霊現象と呼んでいるのは、物体そのものの動きや移動(一つの部屋の中での移動ではなく、別の部屋またはどこか分からない場所からの搬入)、あるいは物体によって出される音などのことであるが、それには日常での突発性のものと、それを目的とした実験会において見られるものとがある。これから扱うのは後者の実験会において見られるものについてである。

本章ではその中でも実験会が開かれるようになった当初からよく観察されてきたものの一つで、しかも現象として最も単純である“テーブル現象”を取り上げる。

物体が動くという現象ならどの物体でもよいのであるが、日常的に使用しているテーブルが扱いやすいことから自然に試みる人が多くなり、物理現象の中でもごく一般的な現象となっている。

この現象が当初からよく観察されてきたというその“当初”とは、ハイズビル現象が騒がれた一九世紀半ばのことであり、学者による研究・調査を目的とした実験で観察されたのであるが、突発的ないし自然発生的な心霊現象ならば太古から語られているし、西暦二~三世紀の神学者テルトゥリアヌスが書き記したものにテーブル現象のことが出ていることからも、間違いない事実である。

このテーブル現象は、当初は学者だけでなく、どこの家庭でも応接間などで気軽に行われたものだった。それが次第に行われなくなったのであるが、それには二つの理由があった。一つは、面白半分にやっていた者がすぐに飽きていったこと。その本当の意義も知らずにすぐに飛びつく人間は、何をやっても長続きしないものである。

もう一つの理由は、真剣な態度で臨んだ学者や知識人は、そのテーブルによって伝えられたメッセージの内容にただならぬものを感じて、テーブル現象そのものよりも、その現象を演出している霊たちそのものへと関心の焦点が移っていったことである。要するに霊の世界とはどういう所なのか、地上生活との因果関係はどうなのかといった思想的なものへと変わっていったのである。

思想面については改めて扱うとして、テーブルという道具は単純であり、そして、それによる現象も幼稚そのものに思えるが、それがその後、空前絶後といってよい大思想の誕生の基盤となっていたことは事実で、その意味でこのテーブル現象がいかなるものであったかを見ておく必要があるであろう。それがその後の複雑な現象の解明のカギを提供してくれるからでもある。

テーブル現象を発生させるには特殊な体質をした人物、いわゆる霊媒が一人ないし二人必要である。それ以外の出席者は、証言者ないし観察者としては別として、現象に関するかぎりは必ずしも存在しなくてもよい。

と言っても、十人も十二人もいれば、その中の何人かは霊媒体質をしていて、自覚なしに協力していることがあることも事実である。それ以外の人物は、人間的性格ないし身体的体質によっては、サークルに悪影響を及ぼすことすら有り得る。

一口に霊媒といっても、いろいろなタイプがある。パワーがすごくて普通の霊媒を二十人集めたよりも驚異的な現象が見られる霊媒がいる。そういう霊媒だと、出席者は一切関与せず、霊媒一人が手を置くだけでテーブルがすぐに動き出し、上昇し、一回転したり、物すごい勢いでスピンしたり(コマのように回る)、そこら中を動き回ったりする。

霊媒的素質があるかどうかは外観を見ただけでは分からない。実際にやってみないと分からない。だから、最初は出席者全員が両手の掌(てのひら)を下にしてテーブルに置く。きつく押さえたり筋肉を使ったりしないで、そっと置くだけでよい。

実験会が催されるようになった当初は、まだ原因が解明されていないこともあって、さまざまな工夫がなされた。たとえば男女が交互に座るとか、隣どうしが小指をつなぎ合って輪を作るといったことだった。輪を作るのは人体の電磁気がエネルギーを出すのではないかとの推察からだった。

が、結局は何の工夫も要らない――必要なのは“忍耐”であることが分かった。つまり、現象が起きるまでに二、三分の場合もあれば三十分の場合もあり、時には一時間も掛かることがあるが、それは霊媒の力量と出席者の体質に係わることで、小手先の工夫でどうなるというものではないのである。

また、テーブルの形とか材質、時間帯、照明の強弱、さらには貴金属類や衣類の天然・合成の別といったことも関係ない。唯一問題となるのはテーブルの重さであろう。つまり霊媒のパワーが弱すぎると重いものは動かせないであろう。が、これも相対上の問題で、幼い年令の霊媒でも、パワーがすごくて、途方もなく重いテーブルを軽々と動かすことがある。

テーブルが動き始める前にかすかに軋(きし)む音がしたり、木材の繊維が震えているような感じが掌に伝わってくることがある。

そのあと、いかにも動こうと努力しているような雰囲気がして、やがてゆっくりと旋回しはじめ、その動きに従って、手を置いている出席者もいっしょに回るのであるが、時にはついて行けないほどのスピードになることがある。そうなると手を離さざるを得ず、テーブルだけが回転しながら自在な動きをする。

また、空中でテーブルが片方に傾き、そのまま降下して、まず一本の脚で床に立ち、次にもう一本の脚を下ろし、そして最後に残りの二本の脚も置いて、元の位置にきちんとおさまる、ということもある。

時には、まるで船がタテにヨコに揺れるのを真似しているような動きをすることがある。そうかと思うと――これは霊媒がよほどパワーがある場合にかぎられるが――重いテーブルが天井近くまで浮揚して静止し、その下に出席者が立って見上げたり通り抜けたりしたあと、まるで紙切れがひらひらと落ちるような感じでゆったりと揺れながら降下したり、反対に猛烈な勢いで落下して大音響を立てたり、その衝撃で砕けたりする。

オーク材やマホガニー材でできた重いテーブルがである。この事実だけでも、テーブル現象を目の錯覚とする説が論外であるとするに十分である。

いわゆる叩音(ラップ)現象については次章で言及する。

第3章 知的要素の加わった物理現象
前章で紹介した物理現象を検討したかぎりでは、格別に超自然的な力のせいにすることはない――電気とか磁気、あるいはそれに類する流動的エネルギーの作用で片付くのではないかと思われるかも知れない。

確かに当初はそれが代表的な説であり、一応合理的であるかに思われていた。が、やがて、それでは十分でないことを示す事実が明らかとなった。その現象が知的なメッセージを伝達していることが分かったのである。

知的なメッセージなら、当然、知的存在が発しているはずである。となると、かりに電気や磁気のようなものが働いていることは認めるとしても、その奥では知的存在も係わっていることを認めねばならないことになる。

では、その知的存在とは何であろうか。

現象に知的要素が加わっていることの証拠としては、必ずしもその述べていることが雄弁であるとか、ウィットに富んでいるとか、高尚である必要はない。その動きが自在で自発的で何らかの意図がうかがわれ、まとまった考えを伝えたり、こちらの考えにまともな反応をすれば、それで十分である。

譬え話で説明しよう。風見鶏は風に吹かれて方向を右に左に変えるが、それが機械的な動きであることは誰でも知っている。が、もしその動きの中に意図的なもの、つまり何かを伝えようとする信号のようなものが読み取れたら――たとえば「右を向け」と命令したら右を向き、「左を向け」と命令したら左を向き、「ゆっくり動け」と言ったらゆっくりとなり、「速く動け」と言ったら速くなったとしたら――それは風見鶏そのものに知性があるのではなくて、何らかの知的存在によって風見鶏が操られていると考えてよいであろう。

テーブル現象についても全く同じことが言える。我々が見た例を挙げれば、いったん上昇したテーブルの四本の脚のうちのどれかが出席者の要求に従って床を叩く――どの脚で、何回、という細かい要求を出してもその通りにする。また部屋中をぐるぐる動き回るその途中で「右へ」「こんどは左へ」「前へ」「こんどは後ろへ」と命令すると、その通りに動いた。

テーブルの脚を使ってメッセージを伝える現象となると一段と知性の働きが顕著となる。一般に“叩音(ラップ)”と呼ばれているものにもいろんな種類があり、ドラムを叩くような音から一斉射撃のような物凄いもの、のこぎりでゴシゴシ切るような音、ハンマーで叩いているような音、誰でも知っている曲の楽器演奏まである。それだけでも十分に知的作用の証拠と言えるが、テーブルの脚が床を叩くその回数で符丁を取り決めて、質疑応答をやり取りするようになると、内容が完全に知的次元のものとなって、興味が一段と増してくる。

ところが、その知的反応をしているのは何ものなのかという問題になると、これ又、あきれるほど乱暴な説が出されてきた。

まず最初に出されたのは、当然のことながら霊媒か、質問を提出する者か、サークルのメンバーの知性の総合体のいずれかであるという説だった。が、その知性にはラップが伴うのである。そのラップは霊媒も質問者もサークルのメンバーも出していないことを確認するのは容易である。それが確認されると、では霊媒の想念体であろうということになった。

しかし、霊媒の想念体がテーブルに反応して音を出したり部屋中を動き回らせるという発想は、もはや現象そのものよりも奇っ怪である。しかもアルファベットを符丁にしてメッセージを受け取ってみると、その言語が霊媒も質問者もサークルのメンバーも知らないものである場合があるのである。

伝えられるメッセージの内容も、霊媒を始め出席者の誰一人として知らないことである場合もある。一例を挙げると、こんな話があった。

フランス海軍の軍艦がシナ海に停泊中のことである。将校を始めボーイまでが毎晩のように集まって交霊会を開き、テーブル現象を楽しんでいた。

ある日の交霊会で二年前に同艦の副艦長だったという人物からのメッセージが届けられた。それは、実は在世中に艦長からお金を借りたことがあるのだが、お返しできないまま死んでしまって申し訳なく思っている。済まないが幾ら幾らを払ってあげてくれないだろうか、という内容のもので、金額まできちんと述べた。

意外なメッセージにみんな戸惑った。霊媒や出席者はむろんのこと、当の艦長までがそんな記憶はないというのである。そこで念のために艦長が古い出納簿を調べてみたところ、確かにその通りの事実が記載されており、額まで一致していた。

想念体の反射説を唱える人は、これを誰の想念の反射と言いたいのであろうか。

テーブルラップによる通信は、このように最初は脚で床を叩くという原始的な方法で始まった。符丁も、一度叩けば「イエス」、二度叩けば「ノー」といった単純なものからアルファベットを使用するようになって、かなり内容の深い通信が交わされるようになったが、まわりくどくて手間が掛かった。

そのうち霊側から通信方法について提案が出されるようになり、小さなオモチャのテーブルを使ったり、俗にプランセット(ウィージャ盤とも)と呼ばれているものを使ったりした時期もあった。そして最後に自動書記と呼ばれる、霊媒の手または腕を道具として“綴る”ようになった。

その他に直接書記というのもあるが、それについては“霊界通信”の項で扱うことにしたい。

訳注――テーブル現象は複数の人間が参加するので比較的危険が少ないとされている。が、次章で霊団の最高統括霊の“聖(セント)ルイ”(十三世紀の名君ルイ九世)も述べているが、物理現象に携わるのは地上的波動から脱し切っていない低級霊であることはスピリチュアリズムの常識で、面白半分にやるのはやはり危険である。まして一人でやるプランセットや日本の“こっくりさん”などは発狂した例が少なくないという報告もあるので、絶対にやってはならない。

では、カルデックやスワッファーのサークルでは交霊会の初めにテーブル現象をよくやったのはなぜかと言えば、その交霊会の霊的磁場を強固なものにするためで、何の問題も生じなかったのは、その背後に高級霊団が控え、邪魔が入らないように万全の対策を講じていたからである。

しかも――これが一番肝心な点であるが――そうしたサークルには、いずれは地球人類全体にも及ぶであろう霊的使命があったことを見落してはならない。

第4章 物理的心霊現象のメカニズム
さて、霊の実在が理論と実際の両面から立証され、また霊が物質界に働きかけることが可能であることも明らかとなったが、続いて確認しなければならない問題として、テーブルなどの、動くはずもない物体がどういう原理で動くのか、霊はどういう手段を用いるのかという点が残っている。

初めの頃は我々は人間の常識的判断で大よそのことを想像していた。ところが霊との交信が始まってその点を質すと、我々の想像は簡単に一蹴された。ということは、霊信は我々の想像力の反映ではないことの証明ともなった。

実験会における現象が霊の有するダブルという半物質体の仕業であること、人間とそっくりの感触のある手が出現して物体を握ったり持ち上げたりするところを観察すると、霊媒は存在しなくてもいいのではないかと思いたくなる。霊媒は物体にまったく触れないのである。

我々の霊団の統括霊である“聖(セント)ルイ”が我々の質問に次のように答えている。(ルイ九世のこと。一二二六年から四十四年間も王位にあって六十六才で他界した名君の一人で、“聖人”に列せられている。この霊がパリの「カルデック協会」の主宰霊であり、霊団の最高指導霊だった――訳者)

――宇宙に遍満する流動性の半物質体というのは宇宙の大霊からの放射物でしょうか。
「違います」

――やはり大霊による創造物でしょうか。
「大霊を除いて、すべてが創造されたものです」

――その流動体は普遍的要素でしょうか。
「そうです。すべての存在物の基本的原理です」

――電気という、我々が反応によってのみその存在を知っている流動体と何か関係がありますか。
「その基本的要素です」

――その普遍的流動体が我々人間の感覚に訴えるものの中で最も純粋なものはどういう状態でしょうか。
「絶対的純粋性を求めていけば、完全に浄化されつくした最高級の霊にまで行き着かねばなりません。地上においては多かれ少なかれ濃密な物的環境に相応しい形に変質させてあります。その条件下で最も純粋な状態のものを挙げるとすれば、生体磁気でしょう」

――その普遍的流動体は生命の源であると言われておりますが、知性の源でもあるのでしょうか。
「違います。流動体の働きは物質を活性化するだけです」

――ダブルを構成している流動体は、地球圏との係わりにおいては、ある程度まで物質性を帯びた凝縮状態で存在しているのではないかと思われますが、いかがでしょうか。

「その通りです。ただし、おっしゃる通り、ある程度までです。流動体には物質の成分のすべてが含まれているわけではないからです。各天体の物質に合わせて凝縮してあります」

――霊が固体の物体を動かせるのはなぜでしょうか。
「いま述べた流動体の一部に霊媒の身体から抽出した流動体を結合させます」

――テーブルを持ち上げる場合、そちら側のプロセスによって固体化した手足を使うのでしょうか。

「その質問に対する回答は、残念ながらあなた方が想像なさっているメカニズムの確認とはなりません。あなた方が両手を置いているテーブルが動き始めた時、そのテーブルに働きかけている霊は、テーブルを活性化するための成分を普遍的流動体から抽出し、合成エネルギーをこしらえて、言わば充電のようなことをします。

そうした下準備のあと、担当の霊は意念によって放出した自分の流動体を使ってテーブルを引き寄せ、操ります。エネルギーが不足して思うように動かせない時は、複数の他の霊の援助を求めます。霊性の発達がほぼ同等の霊です。

霊は、その性質上、何らかの媒体がなければ鈍重な物質に働きかけることはできません。霊と物質とを結びつけるための媒体です。それがペリスピリット(ダブル)と呼んでいるもので、それが物理的心霊現象を理解するカギです」

編者(カルデック)注――冒頭の一文「その質問に対する回答は、残念ながらあなた方が想像なさっているメカニズムの確認とはなりません」に注目していただきたい。この通信霊は我々が想像しているメカニズムをあらかじめ承知していて、我々の質問がそれを引き出すように順序立てられていることも承知していたので、それとは全く異なる回答になることを、あらかじめそういう言い方で予告したわけである。

――他の霊の援助を求めるとおっしゃいましたが、霊格の低い霊ですか――命令下に置かれている……
「ほとんどが同じ程度の霊と思ってよろしい。そして、自ら援助を申し出ることがよくあります」

――物理現象はどんな霊にでも起こせるのでしょうか。
「この種の現象を起こすことができるのは、物的影響力から完全に脱し切っていない下層界の霊と思って間違いありません」

――高級霊が低級な波動の物体に関知しないことは理解できますが、お聞きしたいのは、高級霊でもその気になれば同じような現象が起こせるのかということです。

「高級霊は倫理・道徳に係わる影響力を行使し、低級霊は物理的な影響力を行使します。高級霊が物理的な力を必要とする時は、それを行使できる者を雇います。荷物運搬人を雇う要領で低級霊を雇うということは、すでに述べた通りです」

――あなたのおっしゃるところによると、普遍的流動体に生命原理が存在し、霊はダブルを構成している半物質的媒体をその流動体から抜き取り、それを手段として物質に働きかける――そういう理解の仕方でよろしいでしょうか。

「それでよろしい。言いかえれば一種の合成エネルギーによって物質に活性を与え、生命原理が動物的身体に宿って生命活動を営むのと同じ要領で、その物体を一時的に生かしめていると理解すればよろしい。

手を置いているテーブルが動き始めた時、そのテーブルを構成している物質は、その間だけは肉体に宿って生きているのと同じように生きているということです。言わば、雇い主である知的存在の言う通りに従います。知的存在(霊)が、人間が手で物を動かすのと同じ要領でテーブルを動かすわけではなく、知的意志の働きかけを受けて、みずから動くのです。

それゆえテーブルが動いた時、それは霊が腕を使って動かしているのではなく、霊が発した指令に従って、一時的に活性化されたテーブルの素材が反応し、自然に動いているのです」

――そうした現象の発生に霊媒はどのような役割をしているのでしょうか。
「すでに述べたように、霊媒が有する流動エネルギーと普遍的流動エネルギーとが化合する。この二種類の流動体すなわち活性化されたエネルギーと普遍的に存在するエネルギーとの合成は、テーブルに生命を付与する上で必要です。

ただし、忘れてならないのは、テーブルに付与されたエネルギーは一時的なものであることです。それを付与した霊による働きかけが終われば、そのエネルギーは消滅します。また、流動エネルギーの補給が不足して現象を支えられなくなった時は、霊の働きかけが終わらないうちにでも消滅してしまいます」

――霊は霊媒の流動エネルギーを使用せずに物体に働きかけることができますか。
「霊は、霊媒が自分が使用されていることを意識していなくても、現象を起こすことができます。同じ意味で、列席者の中にも利用されていながら気づかない人が多くいます。

霊は井戸から水を汲み上げるように列席者から活性化された流動エネルギーを抜き出します。霊媒という特殊な存在が必ずしもその場にいなくてもよい場合があるのは、そういう理由からです。特に突発性の現象の時は、当然、霊媒はいません」

――テーブル自体は自分の働きを自覚しているのでしょうか。つまり思考力がありますか。
「かりに棒切れで知的な合図をした場合、その棒切れに知性があるわけではないのと同じで、テーブルに思考力はありません。一時的に付与された生命力によって、霊による知的な働きかけに従うことができているまでです。動き始めたテーブルが霊に代るわけではありません。それ自体には思念も意志もありません」

――こうした現象を起こす上で最も大切な要素は何でしょうか。霊でしょうか流動体でしょうか。
「霊は働きかける動因であり、流動体はそのための材料です。どちらも大切です」

――霊媒の意思はどのような役割をするのでしょうか。
「霊を呼び寄せること、そして霊が流動体に働きかける時に力を貸すこと、この二つです」

――その霊媒の意思は絶対に不可欠のものでしょうか。
「霊のパワーを増すことになるということで、不可欠というものではありません。霊が意図した動きは霊媒の意思に逆らってでも、あるいは無視してでも、起こすことができます。ということは、霊媒の働きとは別個の、もっと基本的な要因があるということの証明と言えます」

編者注――物体を動かす上で、手を触れるということは必ずしも必要でない。大ていの場合、最初の衝動を与えるために必要であるが、いったん物体が活性化したら、それ以上触れている必要はない。霊媒のパワーないしは物体そのものの性質によってまちまちである。場合によっては最初の接触も必要でないことすらある。我々の会でも、物理現象が生じることをまったく予想していなかった時に、いきなり物体が浮揚したり移動したりしたことがある。

――人間の誰もが霊媒と同じことができるわけではないこと、また、全ての霊媒のパワーが同じでないのはなぜでしょうか。

「それは全て体質の違い、および霊媒の流動体と普遍的流動体との合成の難易度の違いによります。さらには霊媒の霊性と霊団の霊性との親和性が高い場合と低い場合があります。

時には霊媒の体質の中に適当なエネルギーが見出せないこともあります。生体磁気の強い人と弱い人がいるのと同じで、流動体のパワーが強烈な霊媒と弱い霊媒とがいます。さらには、活性化された流動エネルギーがきわめて融和性に富む霊媒もいれば、意志による努力を必要とする霊媒もいます。

出席者の中にもその合成が本人の気づかないうちに自然に行なわれていて、自分が霊媒と同じ役目を果たしていることを知らない者もいます」

編者注――生体磁気が心霊現象の基本要素であることは間違いないが、その働きは一般に想像されているのとは違うようである。と言うのは、強い磁気的体質をした人で小さなテーブルを動かせない人もいるし、反対に磁気的反応を見せない人、たとえば子供などでも、指先をそっと触れるだけで大きなテーブルが動き出すという人もいる。このように霊媒的パワーと磁気力とは必ずしも一致しないところからも、心霊現象には別の要素が加わっていることは明らかである。

――生体磁気の強い人は霊媒的体質の人とみてよいでしょうか。
「そういう体質の人は現象の発生に必要な流動エネルギーを引き寄せることができるので、外的援助なしに現象を起こすことができます。ですから、そういう人はあなた方のいう意味での霊媒ではないにしても、霊がその体質を利用して現象を起こすことは可能です」

――霊が堅い物体を動かす時、その霊は物体の中にいるのですか、外にいるのですか。
「中にいる時もあれば外にいる時もあります。何度も述べているように、霊にとって物質は何の障害にもなりません。全てを貫通します。霊自身のダブルの一部が、貫通する物体と結びつくのです」

――霊はどうやって音を出すのですか。何か物的なものを使うのですか。
「腕も使いませんし、いかなる物体も使いません。ハンマーを持ち合わせないことはご存じでしょう。物体を動かすにせよ音を出すにせよ、そのための道具は意念で合成した流動エネルギーです。物体が動いたことは照明があれば分かります。音がした時は空気がその波動を伝えています」

――堅い物体を叩いたというのなら理解もいきますが、そういうものが存在しない空中から聞こえる――それも明瞭に聞こえるのはなぜでしょうか。

「霊が物質に働きかけることができる以上、テーブルだけでなく空気にも働きかけることができるのは当然です。明確に聞こえるというのは、そういう音をこしらえることができるということです」

――テーブルを動かすのに手は使わないとおっしゃいますが、物質化現象の実験会で両手が出現して、それがキーボードの上を動きながらキーを叩き、音を出すところを我々は見ています。そうした場合、キーの動きは物質化した指が押さえるからではないのでしょうか。その押さえるという動作は、我々が自分の身体を押さえて感じる、その“押さえ”と同じく直接的で現実的なものではないのでしょうか。

「霊の本質およびその行動様式は人間には理解できません。譬えで説明するしかないのですが、それも、およそ十分とは言えません。というのは、人間はどうしても自分たちの行動様式に当てはめて理解しようとするのですが、それは間違いです。

我々霊は、霊という組織体の特質に合った方法で現象を起こす以外に方法がありません。申し上げた通り、ダブルの流動エネルギーが物体に浸透し、霊的化学反応を起こして、一時的に特殊なエネルギーを合成します。(これをウィリアム・クルックスは“サイキック・フォース”と呼んでいる――訳者)

さて、おっしゃる通り、物質化した指先をキーの上に置きます。その時、指先がキーに触れるのは事実です。ですが、キーを押して音を出した時、それは人間のように筋力を使っているのではありません。さきにテーブルを活性化すると言いましたが、それと同じ要領で、指が触れたことによってキーが活性化されます。するとキーは霊の意念の言う通りに動くのです。指先でキーを叩いているように見えても、メカニズムはまったく違うのです。

さらにもう一つ人間に理解しがたいことを申し上げます。それに携わっている霊は、あなた方が想像しているように自分では地上時代と同じように自分の指でキーを叩いているつもりでいるということです。物理現象に直接携わる霊は波動的には地上圏に属していて、まだ地上的感覚で生活しています。ですから、音楽の素人が音が出る仕組みが分からないままピアノのキーを叩くのと同じで、その霊たちは自分たちが起こしている現象のメカニズムを知らないまま、高級霊の言う通りにしているのです。

ですから、彼らにどうやってピアノを弾いているのかと尋ねたら、指で叩いていると答えるでしょう。初めからそう思って弾いているのですから、地上時代と同じ感覚で……ですが実際は弾こうと思うその意念がキーを動かしているのです」

――“超自然的”なエネルギーの存在の証拠とされている現象の中には、明らかに自然法則と矛盾しているものがあります。それを疑問視するのも一理あるのではないでしょうか。

「人間が大自然の法則を知り尽くすなどということは到底あり得ないことです。そうやって大自然に限りがあるかに思う自負心が日一日と崩れていきつつあります。それでもなお人間は自惚れを止めません。大霊は絶え間なく神秘のベールを剥いで見せることによって、人間の知識の狭さを思い知らせているのです。そうしないと、いかなる大学者でも、いつかは知識の無限さにうろたえる時がまいります。

引力の法則にしても、その法則に逆らった動きをしているものならば身の周りにいくらでもあります。弾丸がその一例です。一時的には引力なんか物ともしないではないですか。万物の霊長であるかに誇り、それがいかに愚かしい自惚れであるかを毎日のように思い知らされている人間は、宇宙にあっては実にちっぽけな、そして何も知らずにいる哀れな存在であることを、そろそろ自覚しないといけません」

以上の説明によって我々は次のような重大な知識を確認することになった。すなわち普遍的流動体には生命原理が宿されており、その流動体が心霊現象の主役を演じていること。その流動体が霊の働きかけを受けて、あたかも人間の手で操っているかのように物体を動かしていること。が、同じように見えて、実はメカニズムはまったく異なること。

たとえばテーブルが移動したり空中へ浮揚したりする時、霊が手や腕を使っているかに見えるが実際は霊自身の流動体と霊媒の流動体とで合成した半物質体(エクトプラズム)でテーブルを一時的に活性化し、霊の意思によって操っているということ。

こうした説明を聞いて成るほどと納得がいった現象がある。虚弱そうに見える若い女性がたった二本の指で、ガッチリとした体格の男性を、腰かけているイスごと、まるで羽毛をつまむように軽々持ち上げるのを何度も目撃している。そのパワーの本当の源は見えざる世界にあったのである。

訳注――私自身が高校生時代に心霊実験に出席して強烈な影響を受けているから断言できることであるが、霊の実在を確信する上で物理的現象は不可欠である。しかも、聖ルイの説明をお読みいただけば分かるように、その現象の裏には宇宙の秘密がまだまだ沢山隠されているようである。

直接携わっている霊は確かに低級かも知れないが、その背後には高級霊が控えていて、その低級霊の知らない原理をこうして説明してくれるのは、それが大切な意味を持っているからにほかならない。

もっとも、だからといって安易に物理実験会を催したり、誘われて出席したりするのは危険である。前章の訳注でも述べたが、スピリチュアリズムは地球浄化の大事業として始められたものであって、そのリーダー的な役割を果たす人はみな、そうした使命を授かり、その背後には高級霊による指導と監視の目があり、直接携わる低級霊も霊性の向上のための修行として、同じ高級霊団の監視のもとに置かれている。面白半分に、あるいは興味本位に行なう者にはそうした守護と監視がない。そこに危険性があるのである。

カルデックの時代には原子エネルギーはまだ発見されていなかった。戦争に触発されて急速に発達した物理学は、ついに原子の秘密を発(あば)いた。電子顕微鏡でも正体がつかめないほどの極微の原子核に、地球をも破壊してしまうほどの莫大なエネルギーが潜在していることを人類は知ってしまった。

シルバーバーチは百年早すぎたと言っている。つまり霊性の進化が伴っていないということで、それが悲劇を生んでいきつつある。が、それすら大霊は人間の自由意志の産物として許している。これから先どういう秘密が発かれていくか想像すらつかない。

第5章 アポーツの原理……突発的な場合と実験的な場合
特定の霊媒を用意し、レギュラーメンバーの出席のもとに行う心霊実験会で発生する現象とは別に、霊的なことに何の知識も関心もない人の身辺で突如として発生する現象がある。これを突発的心霊現象と呼ぶ。

中でも頻繁に起こり、しかも最も単純なのがラップである。が、これは風とか動物の仕業である場合もあるので、注意が肝要である。耳の錯覚かも知れないと思った時に、その原因を確認するいちばん間違いない方法は、こちらから合図を出すことである。それに応じたラップがしたら、そこに目に見えない知的存在が働いていると見てよいであろう。

すでに述べたように、物理的心霊現象の目的は常識を超えた現象を見せることによって注意を喚起し、人間とは別個の、目に見えない知的存在すなわち霊が実在することを教えることにある。

同時に、そうした現象の発生に直接携わるのは高級霊ではなく、高級霊が低級霊を雇ってやらせているということも述べた。が、そうした現象の役割が終わったあとに、これから解説するような本格的な目的が用意されていて、現象はあくまでもその目的のための準備的手段であり、その役割が終われば現象は生じなくなる。我々の体験から単純な例を挙げてみよう。

私が仲間たちとスピリチュアリズムを研究し始めて間もない頃のことだったが、論文にまとめるために一緒に会合して相談し合うことがよくあった。そんなある日、いきなり我々の周囲でノックをするような叩音がし始めて、実に四時間にもわたって鳴り続けて、やっと終わった。

初めての体験だったが、どう考えても普通の原因によるものではない。と言って、なぜ空中でそんな音がするのかは、その頃の我々にはまだ分からなかったので、翌朝、当時評判のよかった霊能者を訪ねて、昨日の叩音の話をして、その音を出した霊と交信してほしいと依頼した。

するとその霊能者が

「それはあなたと親しかった霊で、あなたと交信したがっておられますよ」と言う。

「何を伝えたいのでしょうね?」と私が尋ねると、

「あなたからお聞きになってみてはいかがですか。ここに来てますよ」と言う。

そこで私が紙面に質問事項を書くと、その霊能者がトランス状態に入って、自動書記でその霊からのメッセージを綴った。

まず寓意的な名前を綴ってから、我々が書いている論文に重大な間違いがあると述べて、その箇所を指摘し、そこはこのように書き改めるようにと助言し、これからも疑問に思う点があったら、この度のように尋ねるように、と述べてあった。

そういうことがあってから、そのノックするような音は一切聞かれなくなった。なぜか――所期の目的、すなわち我々を驚かせて霊能者のところへ出向かせ、そこで自分の存在を知らせ、その後の定期的な交信関係へと導く目標が達成されたからである。

その後の通信では同じ霊団に属する他の複数の霊からも通信が来るようになり、最初に自動書記通信を送ってきた霊が非常に高い界層の霊で、地上時代も重要な地位にあったことが明かされた。

我々の場合は使命をもった高級霊団の管理下であったから迷惑も危険もなかったが、突発的現象の中には地上時代の恨みつらみを晴らすための場合や、人間を驚かせてうれしがる幼稚な悪ふざけの場合もある。

そうした点について再び聖ルイに尋ねてみた。

――リュ・ダ・ノイヤルで起きたという例の怪現象は、あれは本当にあったことでしょうか。
「実際に起きたことです。想像たくましい人たちによって尾ヒレが付いてはいるが、ある霊が住人の迷惑も考えず面白がってやったことです」

――あのような現象の場合、その家族の中に誰か原因となっている者がいるのでしょうか。
「あの種の現象には必ず攻撃の的になっている人物がいるものです。その人物に対して邪心を抱く霊によって起こされている。目的はその人物を悩ませ、その家にいたたまれなくすることです」

――その場合、現象を生じさせるための霊媒的体質をした人物がいるのでしょうか。
「そういう人物がいなければ、あのような現象は起きなかったであろう。仮に邪心を持った霊がいても、霊媒的体質を持つ者がいないかぎりは大人しくしています。が、そういう体質の人間が現れると、やおら行動に移ります」

――現場にそういう人間がいるということが絶対的条件でしょうか。
「通常はそうです。リュ・ダ・ノイヤルの場合はそうでした。今も述べたように、そういう人間がいなかったらあのような現象は起きなかったであろう。ただ、あの現象に限って述べているのであって、霊媒的体質の人間の存在が必要でないケースもあります」

――そういう現象を起こす霊が霊性の低い霊であるとなると、そのための材料を提供する者も霊性の低い人間で、騒ぎを起こす霊たちとの間に親和性があるということを意味するのでしょうか。

「それは違う、必ずしもそうではない。あくまでも体質上の問題だからです。ただ言えることは、そういう邪霊に使われるようではいけないということです。霊性が高まるほど、引き寄せる霊も高級となる。そうなれば当然、邪霊は近づけないのが道理です」

――そうした物理現象を起こすには、霊媒的素質の人間から出るエネルギーのほかに、物的素材が必要とのことですが、それはどこから摂取するのでしょうか。

「大体において現象が発生している場所、あるいはその近辺の物体から摂取されます。霊が放射するエネルギーの作用でその素材が流動エネルギーとなって抜き取られ、空中へ放射されたものを一箇所に集めて使用します」(J・G・E・ライト著『エクトプラズム』によると、物質化現象に使用する流動体の組成および感触は、その部屋にある織物――カーテン・ジュータン等――に似る傾向があり、極端な場合はその織物の修繕箇所がそのまま現れることがあるという――訳者)

――その種の突発的現象が疑い深い人間を納得させる意図をもって仕組まれることがあるそうですが、それなら当の本人が真っ先にその証拠の前に降参してもよさそうなものです。ところが当人は因果関係が明確でないといって信用しようとしません。霊界側には否定しようのない決定的な証拠は出せないものでしょうか。

「この森羅万象には無限なる大霊の存在と思念の威力を暗示するものが溢れており、人間はそれを刻一刻と目撃しているにもかかわらず、無神論者や唯物論者がいるのはなぜであろうか。イエスが見せた奇跡によってその時代の者すべてが改心したであろうか。造化の驚異を見て人間を超える無限なる知的存在を直観しないような者は、いかに説得力のある現象を見せたところで霊の実在を信じるようにはなりません。

誠実さと真摯さとをもって真理を求める者には、大霊は必ずやその機会をお与えくださいます。人間が少々疑ったからとて大霊の計画の推進には何の支障にもなりません。スピリチュアリズムの発展にとっても何の障害にもなりません。

敵対する勢力の存在には取り合わないことです。絵画に陰影があるように、それが真理をより一層鮮明に引き立たせてくれるのです」

――リュ・ダ・ノイヤル現象の張本人の霊を呼び出してもよろしいでしょうか。何か参考になることが聞けるでしょうか。

「呼び出したければ呼び出すがよい。ただし地縛霊であるから大して参考になる話は聞き出せないであろうが……」

以下はその霊との一問一答――

霊「なぜオレを呼び出した? お前も石を投げつけられたいのか。そうやって平気な顔をしているが、一目散に逃げ出すぞ」

「石を投げられても別には怖くはありませんよ。第一、石を投げることがここで出来ますかね?」

霊「ここでは出来そうにないな。お前にはガーディアンが付いている。そいつが厳重に見張ってるもんな」

「リュ・ダ・ノイヤルには、あなたのイタズラに協力した誰かがいたのですか」

霊「いたとも! オレにとっては大事な道具でな。それに、ここみたいに賢人ぶった道徳の先生みたいなヤツ(聖ルイ)が邪魔することもないしな。オレだって時にはハデに楽しみたくなるんだよ」

「大事な道具というのは誰のことですか」

霊「メードの一人さ」

「そのメードはそうとは気づかずに協力したわけですか」

霊「そうさ、気の毒だけどな。そのメードが一番怖がってたな」

「何か恨みでもあったのですか」

霊「このオレに? オレに恨みなんかあるもんか。お前たちこそ何もかも調べ上げて、それを都合のいいように利用してるじゃないか」

「どういう意味でしょうかね。おっしゃってることがよく分かりませんが……」

霊「オレはただ面白くてやっただけさ。それをお前たちスピリチュアリストが余計なせっかいをして、オレたちのような霊がいることを暴くことをしているということさ。これでまた証拠が一つ増えたわけだ」

「恨みなんかないとおっしゃいましたが、アパートの窓という窓をぜんぶ壊したじゃないですか。あなたがやったことですよ」

霊「あんなの大したことじゃないよ」

「家の中に放り込んだものはどこから持ってきたのですか」

霊「特別のものじゃないよ。あの家の庭にあったものもあるし近所の庭から持ってきたものもある」

「そこにあったものばかりですか。あなたがこしらえたものもありましたか」

霊「オレは何もこしらえていない。合成したものは何もない」

「もしあのような物体が庭になかったら、こしらえることができたでしょうか」

霊「その方が難しかったろうね。が、作ろうと思えば作れるよ」

「では、あのような物体を“投げる”というのは、どうやってやるのでしょうか」

霊「あゝ、そのことか! それはちょいと説明が難しいね。あのメードの電気性のエネルギーをオレのエネルギーにつなぐのさ。オレのエネルギーでは濃度が薄いからだよ。すると物体が動かせるんだ」(この答えは聖ルイが指示したことを後で認めている。本人はよく分かっていない――編者)

「あなた自身のことを少しお聞きしてもいいですか。まず最初にお聞きしたいのは、亡くなられてどのくらいになりますか」

霊「もう長いよ。まるまる五十年だ」

「地上では何をなさっていましたか」

霊「あまり自慢できることはしてないな。汚いことばかりやってた。あの辺りで屑拾いをしたり酔っぱらって歩き回ったりして、ずいぶん嫌われて、いじめられもした。だから仕返しにああやって家から追い出してやるんだ」

「こちらからの質問に対する答えは全てあなた自身が考えたことですか」

霊「指示を出す人がいたよ」

「それは誰ですか」

霊「フランスの王様だったルイだよ」

「今あなたは何をなさってるのですか。これから先のことを考えたことがありますか」

霊「ないね。オレは流れ者さ。地上の人間はオレのことなんか構ってくれないし、祈ってもくれない。放ったらかしだからオレも何もする気がしないよ」(このあとの問答で“祈り”や“話を聞いてやる”ということがいかに大切かが分かる――編者)

「地上時代の名前は?」

霊「ジャネット」

「ではジャネットさん、私たちがあなたのために祈ってあげましょう。こうして呼び出したことがあなたにとって迷惑だったでしょうか、それとも嬉しかったですか」

霊「ま、嬉しいね。あなた方は心優しい、いい方ばかりだ。ちょっぴり真面目すぎるけどね。でも、話を聞いてくれて、それが私にはとても嬉しい」

以上は俗にポルタガイスト(騒々しい霊)と呼ばれている現象の張本人である霊を呼び出して、その意図やアポーツのメカニズムについて尋ねたものである。

これと同じ現象が我々の実験会でも突如発生して驚いたことがある。我々の場合は窓を突き破って投げ込まれたのではなく、いつの間にかその実験室に持ち込まれていた。

これにはアポーツの専門の技術者がいて、我々の質問に答えてくれたものを次に紹介するが、さきのジャネットが何のメカニズムも知らずにやっていたとは違って、技術者らしい説明をしている。

ところが、霊格が一段と高い霊から見るとやはり勘違いしているところがあるらしく、それをエラステスという、かつて聖パウロの弟子だったという霊が補足的に解説を加えている。

――あなた方が物品を持ち込む時は、霊媒がきまってトランス状態にあるのはなぜですか。
「それは霊媒の体質のせいです。この霊媒の場合はトランス状態で持ち込む同じ物体を、別の霊媒の場合は普通の覚醒状態で持ち込むことができます」

――アポーツが起きる時はひどく待たされるのはなぜですか。また約束の品物を持ち込む際に霊媒の物欲を煽(あお)るようなことを言うのはなぜですか。
「時間が掛かるのは、アポーツに必要な流動エネルギーを何種類か用意しなくてはならないからです。また霊媒の物欲を煽るのは出席者を喜ばせてあげるためです」

エラステス付記――この霊はこれ以上のことは分かっていない。霊媒の物欲を煽るのは、本人は出席者を喜ばせるためと言っているが、実際はそれが流動エネルギーの放散を促進するからである。本人は本能的にやっていて、その効果には気づいていない。アポーツは多量のエネルギーを必要とするので、自然にそういうことが必要となる。突発的よりも実験会の方がその必要性が大きく、とくに霊媒によって違ってくる。

――アポーツの発生には霊媒の特殊な体質が不可欠なのでしょうか。例えばこの霊媒よりも速やかに、そして容易に発生させる霊媒が他にいるのでしょうか。
「あの現象には霊媒体質の人間が大きく係わっています。いくつかの特質が必要で、しかもそれらが調和が取れていないといけません。現象の発生を速やかにするということに関しては、同じ霊媒を何度も使って一つのパターンをこしらえるということが必要です」

――出席者による影響のことですが、それが現象の発生を促進したり阻害したりするものでしょうか。
「猜疑心や反抗心を抱いている者がいると阻害されることがよくあります。なるべくなら信じている人やスピリチュアリズムをよく理解している人の方が好ましいです。と言っても、地上の人間の悪意で我々の仕事が完全に阻害されることはありません」

――今回持ち込んだ花や砂糖菓子はどこから取ってきたのでしょうか。
「花はどこかの庭から取ってきます。気に入ったのを選びます」

――砂糖菓子の方は? 売店から取ってきたら店の人は減っていることに気づくでしょう?
「ま、適当なところから頂載します。店の人は気づきません。代わりのものを置いておきますから……」

――でも、あの指輪、いくつかありますが、みな高価なものばかりです。どこから持ってきたのですか。持ち主に悪いではないですか。
「誰も知らない所から頂載しますから、私が取ったことで被害をこうむる人はいません」

エラステス付記――この霊は知識不足のために十分な説明になっていない。物品を頂載することで問題を引き起こしたことは有り得ることで、この霊は“盗み”の咎めを指摘されたくないからあのような言い逃れを述べているだけである。代わりのものを置く以上は形も価値もまったく同じものでなくてはいけない。もしまったく同じものをこしらえて置き代えられるのなら、無理に頂載しなくてもよいわけで、こしらえたものを持ち込めばよいことになる。

――別の天体からでも花を持ってこれますか。
「それは出来ない。私には出来ません」

編者注――ここでエラステスに「他の霊には出来る者がいますか」と尋ねると大気の条件が違うので不可能であるとのことだった。

――別の半球、例えば熱帯地方からだったら持ってこれますか。
「それは出来ます。地球上であればどこからでも持ってこれます」

――今回持ち込んだものを逆に元のところへ持ち帰れますか。
「持ち込んだのと同じように簡単に持ち帰ることができます。どこへでも持って行けます」

――その操作に苦心する事がありますか。そのために疲労を覚えるとか……
「許されてやっている時は何ら苦心することはありません。許しを得ずに勝手にやったら、とても疲労を覚えるでしょう」

エラステス付記――本当は苦心しているのだが、それを認めないだけである。本質的には物質に近いものを操作するのだから大変である。

――難しい点といえばどんなことですか。
「難しいことといえば流動エネルギーが扱いにくい場合です。思うようになりません」

――物体を運ぶ時はどのようにするのでしょうか。手で持つのですか。
「いえ、我々の身体にくるんでしまいます」

エラステス付記――説明が十分でない。身体にくるむわけではない。自分から出す流動エネルギーに膨張性と浸透性があり、その一部を霊媒から抜き取った活性化された流動エネルギーの一部と合成して、その中に物体を包み込んで運ぶのである。従って自分自身の中にくるむという表現は正確でない。

――相当に重い物体でもラクラクと運べるのでしょうか――例えば四キロとか五キロのものでも……
「我々にとって重量は関係ありません。花を持ち込むのは、重々しいものより見た目に気持がいいからです」

エラステス付記――これは彼の言う通りである。十キロのものでも何十キロのものでも同じである。これはあなたたち人間の感覚にとっての重量であって、霊にとっては無重量に等しい。ただ、ここでも彼の説明の仕方に問題がある。合成された流動エネルギーの総量と移動させる物体との間に釣り合いが取れていないといけない。つまり使用するエネルギーが、克服すべき抵抗力と釣り合っていなければならない。このことから推理できるように、花のような軽いものを持ち込むのは、得てして霊媒ないし霊自身にそれ以上の重量のものに必要なエネルギーが見出せない場合である。

――確かここに置いておいたはずのものが失くなっていることがあるのは、霊の仕業である場合も有り得るわけですか。
「よくあることです。あなたたちの想像以上によく起きています。頼めば持ち帰ってくれるかも知れません」

エラステス付記――その通りであるが、持ち帰る時は持ち出した時と同じ条件を必要とするので、よほど特殊な能力をそなえた霊媒がいないと不可能である。それゆえ何かが行方不明になった時は、霊の仕業であるよりも自分の不注意であると考えた方がよい。

――我々が自然現象と思っているものの中には実際は霊の仕業であるものもあるのでしょうか。
「人間の日常生活はその種の出来事だらけと言ってよいほどです。そのように思えないのは、真剣に考えないからです。じっくり考察すれば本質に気づくはずです」

エラステス付記――人間の仕業まで霊の仕業にしてしまってはならないが、霊的な影響力が絶え間なく地上に注がれていて、人間の行為、時には生死に係わることまで経綸するための環境づくりや出来事の発生まで関係していることは知っておくべきであろう。

――持ち込まれた物品の中には霊がこしらえたものもあるのではありませんか。
「私の場合はありません。私にはそういうことは許されていません。高級霊のみに許されていることです」

――先日の実験では幾つかの物品が持ち込まれましたが、実験室は完全に密閉されていたのに、どうやって持ち込んだのですか。
「私と一体となって、つまり私の身体に包み込んで持ち込みました。その辺のメカニズムは要するに“説明不可能”と申し上げるしかありません」

――一瞬見えなくなって次の瞬間に見えるようになったわけですが、どのようにするのですか。
「物体をくるんでいる物質を取り除いたのです」

エラステス付記――厳密に言うと、くるんでいるのは物質ではなく、霊媒のダブルの一部と担当の霊のダブルの一部とで合成した流動体である。

訳注――このアポーツ、日本語で「物品引寄現象」と呼んでいる現象は、訳者にとっても年来の興味あるテーマである。エラステスも、どうやって壁を貫通させるのかと改めて問われて「とても複雑な問題だ」と答え、「貫通させるということは破壊させることになるので、それはできない」と述べている。

しかし、その答えの部分を英語に訳したブラックウェルも注を設けて、「まだ解明されていないが、多くの実験結果からみると、霊は我々に理解できない方法で物体を貫通させることが出来るようである」と述べている。どうやら“貫通”という用語の捉え方に食い違いがあるように思える。『ジャック・ウェバーの霊現象』の中でも、いったん高振動の状態に分解して持ち込み、そこで再物質化すると述べている。が、それ以上のことは人間に教えても理解できないとも言っている。

『これが心霊の世界だ』の中にはキャサリン・バーケルという霊媒の支配霊ホワイト・ホークの説明がある。それによると、物品が分解するまで原子の振動速度を高めていき、分解した状態で運び込んでそれを再物質化するという。

このテーマを考える時にいつも頭に浮かぶのはテレビジョンである。これもいったん映像を分解して電波で運んで受像機の中で再生する。次元を異にする霊界では“人間に教えても理解できない”複雑な操作があるようであるが、基本的には“分解と再生”の原理に基づくと考えてよいように思う。

いずれにしても、霊界へ行けば何でも分かるというものではないらしい。いい加減な霊媒のお告げを信じるのが危険であることがよく分かる。

第6章 物質化現象
心霊現象の中でも取りわけ興味深いのは、言うまでもなく霊がその姿を見せる現象であろう。が、これも、これから紹介する一問一答による解説によって、少しも超自然的なものではないことが分かる。複数の霊による回答をまず紹介しよう。

――霊は自分の姿を人間に見せることができるものですか。

「できます。とくに睡眠中が多いです。覚醒中でも見ることができる人がいます。睡眠中ほど頻繁ではありませんが……」

編者注――肉体が休息すると霊は物的束縛から解放されて自由の身となり、霊姿を見たり霊と語り合ったりする。夢はその間の記憶の残像にすぎない(章末の訳者注参照)。何も思い出さない時は睡眠中に何もなかったかに思うが、実際には霊眼でいろいろなものを見たり聞いたりして自由を楽しんでいる。が、本章では覚醒中のことに限ることにする。

――霊姿を見せるのは特殊な界層の霊に限られているのでしょうか。

「そんなことはありません。低界層から高級界までのありとあらゆる界層の霊が姿を見せることができます」

――すべての霊が自分の姿を人間の視覚に映じさせる力を有しているということでしょうか。

「その通りです。ただし、そうする許しが得られるかどうかの問題と、そうしたいと思うかどうかの問題があります」

――姿を見せる場合、その目的は何なのでしょうか。

「それはその霊によって違ってきます。正当な目的の場合と、良からぬ目的の場合とがあります」

――え? 良からぬ目的の場合でも許されることがあるとおっしゃるのですか。

「その通りです。その場合は“幽霊”に出られた人間にとっての試練として出現が許されています。霊の意図は良くなくても結果として当人にはプラスになります」

――良からぬ意図とはどんなことでしょう?

「怖がらせてやろうとか、時には復讐の場合もあるでしょう」

――正当な意図とは?

「他界したことを悲しみ続けている者を慰めてやること、つまり、ちゃんと生き続けていて、いつも自分がそばにいることを知らせてやること。悩みごとの相談にのってやりたいということもあります。時には逆に自分のことで頼みごとをする場合もあります」

――いつでもどこでも霊の姿が見えるようになったと仮定した場合、人間生活に何か不都合が生じるでしょうか。どんなに疑い深い人間も死後の生命存続の事実を疑わなくなると思うのですが……

「霊はいつでもどこにでも存在するわけですから、それがもし見えるようになったら何かとやりにくいであろうし、やる気が無くなるであろうし、自由闊達な動きができなくなるでしょう。人間は誰からも見られていない方が思うような行動が取れるのです。

疑い深い人間のことですが、たとえ見ても信じない者は信じません。何かの幻影でも見ていると考えます。あなた方がそういう人間のことで心を痛めるには及びません。大霊が良きに計らってくださいます」

――霊の姿が見えると不都合が生じるというのなら、なぜ姿を見せることがあるのでしょうか。

「それは、人間が肉体の死とともに無に帰するのでなく、死後も個性をたずさえて存続していることを証明するためです。そうした数少ない目撃者の証言で十分であり、霊に取り囲まれて気の休まることがないという不便も生じません」

――地球より進化した天体上では霊との関係は頻繁に行われているのでしょうか。

「霊性が高まるほど霊との意識的交信が容易になります。霊的存在との交わりを困難にしているのは、その物的身体です」

――いわゆる幽霊を見て人間が怖がることをそちらから見てどう思われますか。

「霊がいかなるものであれ、生身の人間より危険性が少ないことは、少し考えれば分かりそうなものです。霊はどこにでもいます。あなたのすぐそばにもいます。見える見えないには関係ないのです。何か悪さをしようと思えば、別に姿を見せなくても出来ますし、むしろ見られない方が確実性があるくらいです。

霊だから危険性があるのではありません。危険性があるとすれば、それは人間の考えに働きかけて密かに影響力を行使し、正しい道を踏みはずさせて悪の道に誘い込むことができることです」

――霊が姿を見せた時、その霊と対話をしてもいいのでしょうか。

「もちろん結構です。と言うより、ぜひとも対話をすべきです。名前は何と言うのか、何の用事なのか、何か役に立つことがあれば言ってみるように、といったことを問いかけてみることです。辛いこと苦しいことがあるのであれば、それを聞き出して、力になってあげることができますし、逆に高級な霊であれば、何かいいアドバイスを授けるために出現したのかも知れません」

――そういう場合、霊はどういう方法で対話をするのでしょうか。

「生身の人間のようにはっきりとした言葉で語る場合もありますが、以心伝心(テレパシー)で行う場合が多いです」

――翼の付いた姿で現れることがありますが、実際に付いているのでしょうか。それとも、ただのシンボルなのでしょうか。

「霊に翼はありません。必要ないからです。霊はどこへでも瞬時に移動できます。ただ、霊が姿を見せる場合には何らかの目的があり、それを効果的に演出するために外見にいろいろな装いをすることがあります。目立たない装いをすることもあれば、優雅な掛け布で身を包むこともあり、翼を付けることもあります。それが霊格の象徴である場合もあります」

――夢の中に出てくる人物はその容貌どおりの人物と見てよろしいでしょうか。

「あなたの霊眼で見た通りの人物と思ってまず間違いないでしょう」

――低級霊が生前親しかった誰かの容貌を装って、堕落の道へ誘うということは考えられませんか。

「低級霊でも途方もない容貌を装うことができますし、騙して喜ぶ者がいることも事実ですが、彼らのすることにもおのずから限度があり、やろうにもやらせてもらえないことがあるものです」

――思念が霊を呼び寄せることは理解できますが、ならばなぜ一心に会いたいと思っている人が出現せずに、関心のない人、思ってもいなかった人が出現することが多いのでしょうか。

「そちらでいくら会いたいと念じても、霊によっては姿を見せる力を持ち合わせないことがあります。その霊の意志ではどうにもならない何らかの要因があって、夢にさえ出現できないのです。それが試練である場合もあります。いかに強烈な意念をもってしても免れることのできない試練です。

関心のない人、思ってもいなかった人とおっしゃいますが、そちらで関心はなくてもこちらに関心がある場合があります。さらに、あなた方には霊の世界の事情がお分かりにならないので無理もありませんが、睡眠中に昔の人や最近他界したばかりの人を含めて、実に多くの霊に会っているのです。それが目覚めてから思い出せないだけです」

――ある種の情景が病気中に見えることが多いのはなぜでしょうか。

「健康な時でも見えることがありますが、病気の状態では物的な束縛が緩(ゆる)み、霊の自由の度合が増すために、霊との交信がしやすくなることは確かです」

――幽霊が出たという話がよく聞かれる国とそうでない国とがあります。民族によって能力が違うのでしょうか。

「幽霊とか不思議な音といった現象は地球上どこででも同じように生じます。が、現象によってはその民族の特徴が反映するものがあります。例えば識字率の低い国では自動書記霊媒はあまり輩出しません。従ってそういう国では知的な通信よりもハデな現象の方が多く発生することになります。知的で高尚なものを有り難がりませんし、求められることもないからです」

――幽霊が大てい夜に出現するのはなぜでしょうか。静けさや暗さが何か想像力に影響を及ぼすからでしょうか。

「それは星が夜の方がよく見えて昼間は見えないのと同じです。昼間の太陽の光がうっすらとした霊の姿をかき消してしまうから見えないまでです。“夜”という時間帯に特別の意味があるかに考えるのは間違いです。幽霊を見たという人の話を総合してみられるとよろしい。大半が昼間に見ているはずです」

――霊の姿が見えるのは普通の状態の時でしょうか、それとも特殊な状態の時でしょうか。

「まったく普通の状態でも見えますが、トランス(入神)状態に近い特殊な状態にある時の方が多いです。霊視力が働くからです」

――霊を見たと言う人は肉眼で見ているのでしょうか。

「自分ではそう思うでしょう。が、実際は霊視力で見ています。目を閉じても見えるはずです」

――霊が自分の姿を見せるにはどんなことをするのでしょうか。

「他の物理現象と同じです。自分の意念の作用で流動体の中からある成分を抜き取り、さまざまな工夫を凝らして使用します」

――霊そのものを見せることは出来ないのでしょうか。流動体(エクトプラズム)をまとわないと見えないのでしょうか。

「肉体をまとっているあなた方人間に対しては、半物質体の流動エネルギーの助けを借りないと見えません。流動体は物的感覚に訴えるための媒介物です。夢の中にせよ覚醒時にせよ、白昼にせよ暗闇の中にせよ、見えている姿はその流動体で形態を整えたものです」

――それは流動体を凝縮して使うのですか。

「凝縮という用語はおよその概念を伝える上での類似語ていどのもので、正確ではありません。別に凝縮させるわけではありません。流動体を幾種類か集めて化合させると、特殊な合成物ができます。これが人間の目に映じるようにするのですが、地上にはこれに類するものは存在しません」

――その霊姿は手で触ることができますか。例えば腕をつかむことができますか。

「通常はできません。影がつかめないのと同じです。が、人間の手に感触が残る程度にすることはできます。さらには、少しの間に限られますが、しっかりとした肉体と同じ程度にすることもできます。そんな時は合成物質(エクトプラズム)と肉体との間に共通したものがあることの証拠と言えます」

――人間は本来、霊の姿が見えるように出来あがっているのでしょうか。

「睡眠中(肉体からの離脱中)はそうです。覚醒中は誰でもというわけではありません。睡眠中はさきほど述べた媒介物がなくても見えます。覚醒中は多かれ少なかれ肉体という器官によって制約されています。睡眠中と覚醒中とでは必ずしも同じでないのは、そういう事情によります」

――覚醒中に霊が見える、そのメカニズムはどうなっているのでしょうか。

「その人間の肉体という有機体の特質、およびその人が有する流動エネルギーが霊の流動エネルギーと合体しやすいか否かに掛かっています。霊が姿を見せてやりたいと思うだけではダメです。見せてやりたい人間にそういう適性があることを見極める必要があるわけです」

――そういう能力は訓練によって発揮できるようになるものでしょうか。

「他のすべての能力と同じように、訓練しだいで発揮できます。ですが、なるべくなら自然な発達を待つ方がよい部類に属します。発揮しようとする意欲が強すぎると想像力をかき立てて妄想を生む恐れがあります。霊視力を日常的にいつでも使用できるほどの人は例外に属し、人類の通常の状態では霊視力は働きません」

――人間の側から霊に向かって出現を要請することは可能でしょうか。

「不可能というわけではありませんが、稀です。霊は必ずといってよいほど自分の方から出現します。権威をもって呼び出すには余ほど特殊な霊的資質をそなえていなければなりません」(ここでいう“霊”とは“高級霊”のことである。日本の霊界通信には神名を名のる霊からのものが多いが、神格をそなえた高級霊が“自分は神である”などと宣(のたま)うわけがない――訳者)

――人間の容姿以外の形態で出現することはできますか。

「人間の容姿が普通です。人間の容姿をいろいろに装うことはできますが、基本的には常に人間的形態をしています」

――炎の形態で出現できませんか。

「存在を示すために炎や光をこしらえることはできます。どんな形態でも装うことができるのですから。が、それがすなわち霊そのものと思ってはいけません。炎は流動エネルギーの放射体、いわば幻像にすぎないことがよくあります。それも流動体のごく一部です。どのみち、流動体の現象は一時的な映像の域を出ません」

――“鬼火”とか“キツネ火”とか呼ばれているものが魂または霊の仕業だという説がありますが、いかがでしょうか。

「ただの迷信にすぎません。無知の産物と言ってもよいでしょう。鬼火が発生する原因はすでに明らかになっているはずです」(燐と水素が化合して発する青白い炎――訳者)

――霊が動物の形態を装うことは出来ますか。

「それは出来ないことではありません。が、そんなことをしてどうするのでしょう? それは余ほど低級な霊のすることです。また、たとえ装っても一時的なものです。本物の動物が霊の化身であるかに信じる愚か者はいないでしょう。動物はあくまでも動物で、それ以上のものではありません」

――見えたものが幻影・幻覚であることがありますか。たとえば夢か何かで悪魔を見た場合、それは想像上の産物ではないでしょうか。

「そういうことは時おり有り得ます。たとえば強烈な印象を与える物語を読んで、それが記憶に残っていて、精神的に興奮している場合です。そういうものは実在しないのだという理解がいくまで、それが幻覚として見えることがあります。

しかし、前にも述べたことですが、霊は半物質の流動体を使用してどんなものでもどんな形態のものでもこしらえることができます。ですから、イタズラ霊が信じやすい人間をからかうために角(つの)を生やしたり巨大な爪を見せたりすることもできます。さきほども述べた、高級霊が翼をつけたり光輝を放つ容貌を見せたりするのと同じです」

――半睡半夢の状態において、あるいは目を閉じた瞬間などに顔とかイメージが見えることがありますが、あれも幻覚でしょうか。

「感覚が空(うつ)ろになると霊的感覚が働きやすくなって、肉眼では見えないものが、遠近に関係なく見えるようになります。その時に映じるイメージは往々にして幻覚である場合もありますが、かつて見たある対象物が、音がしばらく耳に残るように、脳に残像を印象づけていて、それが見えることがあります。

霊は、肉体の束縛から解放されると、ちょうど写真のネガに写った影像のように脳に印象づけられたものを見ることがあります。その時、断片的でバラバラになっているものを一つのまとまったものに構成しようとします。それは他愛もない空想的なもので、次の瞬間には、もう少しよく見たいと思っても、崩れていきます。病気の時などによく見る、まったく現実味のない、奇っ怪な幻像もみな、そうした原因から生じていると考えて間違いありません」

訳注――本章の最初の応答のあとのカルデックの“編者注”の中に「夢というのは睡眠中に霊の目で見たものの記憶の残影にすぎない」という一文があるが、この文章だけでは誤解を生じやすい。上の最後の応答の一節が夢そのものの絶好の説明にもなっているように思う。「病気の時などによく見る……」というのを「病気の時や睡眠中によく見る……」と書き換えてもよいほどである。

夢については心理学や精神医学や精神分析学などでもいろいろと説かれているが、こじつけや乱暴な説ばかりで、これまで納得のいくものに出会ったことがなかった。そして上の一節ですっきりとした気持になった。私の体験からもその通りだと思う。

自我のことを“統一原理”と呼んでいる通信があるが、上の回答で「断片的でバラバラになっているものを一つのまとまったものに構成しようとします。それは他愛もない空想的なもので、次の瞬間には、もう少しよく見たいと思っても崩れていきます」とあるのは、霊が物的身体から遊離していて、長年にわたる脳を中枢とした感覚に慣れているために、統一原理としての役目が果たせないのである。

結論としては、本章の最初の“編者注”と最後の回答とを併せて一つにすれば“睡眠中は何をしているのか”“夢とは何なのか”といった千古の疑問への完全な回答となるのではなかろうか。

第7章 生者の幽霊現象と変貌現象
前章では他界した人間の霊がその姿を生身の人間の霊眼に見せる場合と、霊みずからがエクトプラズムという半物質体をまとって肉眼に見せる場合について、そのメカニズムを霊団の通信霊との一問一答によって紹介したが、本章では、今この世に生きている人間、つまり生者の霊が肉体から脱してその容姿を遠距離にいる縁のある人に見せる現象と、生者自身の顔が見る見るうちに変貌して、他界した人間とそっくりになるばかりか、発する声まで同じになるという現象を扱う。

一見すると両者とも奇っ怪な現象のように思えるが、よく調べてみると前章の物質化現象と同じくダブルの特性によるもので、生前と死後とでその反応は変わらないことが分かった。

霊は、肉体をまとっている時も、その肉体を脱ぎ捨てた後も、半物質体でできたダブルという媒体に包まれており、それが条件次第で一時的に可視性と触知性とをそなえることができる。ともかくも実例を挙げてみよう。

さる田舎町に住む女性が重い病気で床に伏していた。ある日の夜の十時頃のことである。寝室に一人の老紳士がいるのに気づいた。同じ町の住人で見覚えはあったが、知り合いではなかった。

その老人はベッドの近くのひじ掛けイスに腰かけ、時おりかぎタバコをつまんでは嗅(か)いでいるが、その目つきはいかにも彼女を見張っているみたいである。

時刻が時刻なので怖くなってきた女性は、一体何しに来たのかと尋ねようとした。すると老人は「物を言ってはいけない」と言わんばかりの仕草をし、さらに「もう寝なさい」と言っているような仕草をする。何度か尋ねようとしたが、そのたびに同じ仕草をくり返す。そのうち彼女は寝入ってしまった。

その後何日かしてその女性がすっかり回復した頃、同じ老紳士が訪ねてきた。こんどは昼間である。衣服は同じで、同じかぎタバコ入れを手にし、態度も同じだった。

間違いないと確信した女性は、病床を見舞ってくれたことについて礼を述べると、老人は驚いた様子で自分は見舞いなんかに来ていないと言う。その夜のことをありありと覚えている女性は間違いないと確信したが、あまり語りたくなかったので「たぶん夢でも見ていたのでしょう」と言いつくろったという。

もう一つの例を紹介しよう。ある町に、なかなか結婚したがらない青年がいて、家族を始め親戚の者は隣の町に住むある女性がちょうど似合いの相手なのだが、と勧めていたが、本人は会ってみる気にもならなかった。

一八三五年のある祝祭日のことだったが、彼の寝室に突然一人の女性が白無垢の装束で現れた。頭には花の冠をのせていて、はっきりとした声で

「私はあなたの婚約者です」

と言って手を差し出した。彼もとっさに手を差し出してその手を取ると、その指には婚約指輪がはめられていた。が、次の瞬間、その姿は消えていた。

驚いた青年は夢ではないことを確かめてから、家族の者に誰か訪ねてきた人はいないかと聞いてみたが、今日は誰も来客はないという返事だった。

それからちょうど一年後の同じ祝祭日のことである。その青年もついにみんなから盛んに勧められる隣町の女性を一目見てみたいという気持になった。

行ってみると折しもお祭り見物から帰ってくる人波の中に、一年前に彼の部屋で見たのとそっくりの女性を見つけて近づいた。装束も同じである。彼が唖然として見つめていると、その女性の方も彼に気がついた。そして真正面から見た瞬間、驚きの声を発すると同時にその場に卒倒してしまった。

意識が戻ってから女性は家族の者に「あの方は私が一年前のこの日に会った人よ」と述べ、かくして始まった二人の不思議な縁は結婚という目出たい結末となった。

一八三五年といえばハイズビル事件の十年余り前のことで、スピリチュアリズムはまだ話題になっておらず、二人ともごく平凡な、そして至って現実的な人間だったという。

次の話に移る前に、きっと出てきそうな疑問に答えておこう。「肉体から霊が脱け出てしまったのに肉体はなぜ死なないのか」という疑問である。

実は、同じく肉体から脱け出るといっても、生者の霊が一時的に肉体から離れる場合、つまり睡眠中とか上の例のような現象は、霊視すると銀色に輝く細い紐(魂(たま)の緒)で結ばれていて、それがいくらでも伸びる。そして、その間に肉体に何らかの刺激が与えられると、瞬時に肉体に戻る。

「死」というのは肉体が老衰・事故・病気などで使用不可能になった時にその銀色の紐(シルバーコード)が切断される現象で、いったん切断されたら二度と生き返れない。

次の例へ進もう。

ローマ・カトリック教会の聖アルフォンソ(一六九六~一七八七)は死後異例の早さで聖者の列に加えられているが、それは他でもない、生前、同時に二つの場所に姿を見せるという“奇跡”を演じて見せることができたからだった。

その聖アルフォンソがかつて無実の罪に沈みかけたことがあった。そしてイタリアのパドヴァで死刑が執行されようとしていた。

その時、スペインへ出張中の息子の聖アントニオが突如その刑場に出現して父親の無実を証言し、真犯人を名指した。

その事実が明確となって聖アルフォンソは濡れ衣が晴れた。その後、聖アントニオがパドヴァの刑場に姿を現した時は間違いなくその身柄はスペインにあったことが確認されたという。

その聖アルフォンソに我々の交霊会に出ていただくことができた。以下はその時の一問一答である。

――あの生者の遊離現象について説明していただけますか。

「分かりました。霊性の進化の結果として、ある一定の段階の非物質化が可能となった者は、今いるところとは別の場所に自分の姿を見せることができるようになります。その方法は、睡眠状態に入りそうになった時に、ある特定の場所に移動させてくださいと神に祈るのです。その願いが許されると、肉体が睡眠状態に入るとすぐ霊がダブルの一部をともなって、死と境を接する状態にある肉体を離れます。

“死と境を接する状態”と表現したのは、魂が脱けた状態は“死”と同じでも、その肉体には曰(いわ)く言い難い絆(シルバーコード)が残されていて、ダブルと魂とのつながりを保っているからです。そのダブルが魂とともに意図した場所に姿を現すのです」

――今のお答えでは、なぜ見えるのか、なぜ感触があるかについての説明になっておりませんが……

「霊が物質による束縛から解き放たれると、物質への特殊な働きかけによって、その霊性の程度に応じて姿を大なり小なり五感に訴えるようにすることができます」

――それには肉体が睡眠状態に入ることが不可欠なのでしょうか。

「魂は、肉体が置かれている位置とは別の複数の場所に行きたいと思えば、自らを分割してそれぞれの場所に姿を見せることができます。

その時、肉体は必ずしも睡眠状態にならなくてもいいのですが、それは滅多にないことです。仮にごく通常の状態にあるかに見えても、大なり小なりトランス状態にあるものです」

編者注――魂が自らを分割すると言っても、我々の概念でいう“分割”とは異なる。魂はあくまでも一つなのであるが、鏡を幾つも置けばその数だけ姿があるように映るごとく、複数の方向に映像を放射することができるのである。

次に変貌現象というのを考察してみよう。これは生者の顔が死者とそっくりの顔に変貌する現象である。一八五八年と五九年に起きた、信ずべき証言のある実例から紹介しよう。

話題の主はまだ一五歳の少女で、見る見るうちに顔かたちが変化して、まったく別人の顔になる。女性とは限らない。男性の場合もある。変貌してしまうと完全にその女の子ではなくなり、顔だけでなく声もしゃべり方も、そして背丈も体重もすっかり変わってしまう。

同じ町の医師が何度も目撃して、それが目の錯覚でないことを確認するためにいろいろと実験し、それを全て記録に残している。さらにその子の父親と他の数人の目撃証言も残っている。

いちばん多く出現したのは二十歳で他界したその子の兄で、身長も体重もかなり違っていた。医師は現象が始まる前にその子の体重を計り、兄に変貌した時にも体重計に乗ってもらったところ、ほぼ倍の重さがあったという。

実験は決定的ともいうべき条件が整っており、目の錯覚とする説は完全に退けられている。では一体いかなるメカニズムによって生じているのであろうか。

変貌現象と言われているものの中には明らかに顔の筋肉の収縮にすぎないと思えるものがある。我々の会でも何度となく観察されているが、その場合は“劇的”といえるほどの変貌は見られていない。若い容貌が老(ふ)けて見えたり、老けた容貌が若くみえたり、美貌が平凡な顔になったり、平凡な顔がハンサムになったりする程度で、男性は男性に、女性は女性にというのが普通で、体重が増えたり減ったりすることは、まずなかった。

ところが上の女の子の場合は、そうしたものとは別の次元の要素が加わっている。どうやら物質化現象やアポーツの原理と同じく流動エネルギーにカギがありそうである。

前章までの解説で我々は、霊は自分の流動体に働きかけて、その原子構造を変化させることによって、一時的にではあるが、可視性と触知性を持たせることができる――言いかえれば、透明で存在が認知できないものを人間の目に見え手で触れられるものにすることができるという基本的原理を学んだ。

さらにもう一つの基本的原理として、生者の流動体も肉体から遊離させてエネルギー化できることも分かっている。

そこで、変貌現象について次のように考えてみてはどうだろうか。

変貌する人間の流動体を肉体から遊離させるのではなく、そのままの状態で蒸気のように気化し、さらに半物質の合成体にして肉体を覆わせる。そして、霊が自らのダブルに合わせる。一種の物質化現象で、その背後では目に見えないオペレーターが何人も働いているはずである。

体重の増減の問題であるが、これは実験会での物理現象の原理で説明がつくであろう。つまり本来の体重は変化していないが、見えざる世界からの働きかけによって、少なくともその間だけ、重くなったり軽くなったりしているものと考えられる。

訳注――霊力の凄さはこれまで本書でもいろいろな形で見せつけられているので改めて付言する必要はないと思うが、『ジャック・ウェバーの霊現象』の中に、上の体重の増減の現象の理解に参考になるものがあるので紹介しておきたい。

「霊媒の浮揚現象」という見出しの章の後半に“思いがけない現象”として次のような叙述がある。《写真No.25には思いがけない現象が写っている。浮揚現象を撮影しようとしていたところ、その“持ち上げる力”が逆の方向に利用されて、椅子が床に降りると同時に、バリバリという何かを破壊するような大きな音がした。ライトをつけてみると、霊媒は無残に砕けた椅子に縛りつけられていた。

霊媒が腰かけていたウィンザー型の椅子は実にどっしりとした造りだった。座の部分は厚さが1.3インチ(三センチ余り)もあったが、それが真ん中で真二つに割れ、四本の脚が支柱もろとも四方に引き裂かれ、肘かけが背もたれからもぎ取られていた。

写真は砕かれかけた一瞬をよく捉えている。霊媒の身体にいささかの緊張感も見られないところに注目していただきたい。

一個の椅子を一瞬のうちにこれほど徹底的に破壊するのに一体どれほどのエネルギーが要るかということも一考の価値がある。力持ちが椅子を持ち上げて思い切り床に叩きつけて、はたして上に述べたような状態に破壊できるか――これは大いに疑問である》

持ち上げる力の例証としてNo.23も掲載しておく。

第8章 見えざる世界の実験室
霊は、流れるような優美な衣をまとっていることもあれば、有りふれた人間的な服装をしていることもあることはすでに述べた。どうやら前者が一定レベル以上の高級霊の普段の衣装であるように思われる。

いずれにせよ、ではそうした衣装をどこから手に入れるのであろうか。とくに地上時代と同じ衣服をまとって出てくる霊は、それをどこから手に入れるのであろうか。衣服のアクセサリーまでまったく同じなのはなぜなのであろうか。あの世まで持って行ったはずはない。そのことだけは間違いない。なのに、実験会に出現してそれを見せ、時には触らせてくれることもある。一体どうなっているのであろうか。

このテーマは、霊姿を見た者にとって、これまでずっと不可解きわまる謎だった。もちろん単なる好奇心の対象でしかない人も少なくないであろう。

が、これは実はきわめて重大な意義を含んでいて、我々の探求によって、霊界と現界とに等しく当てはまる法則の発見の手掛かりをつかむことができた。それなしにはこの複雑な現象の解明は不可能である。

すでに他界している人間の霊が出現した時に生前そっくりの衣服を着ていても、驚くには当たらない。記憶と想念の作用、つまり霊の創造力の産物とみてよいであろう。が、それをアクセサリーにも当てはめるのには抵抗がある。まして、前章の生者の幽霊現象に出てくる“かぎタバコ入れ”のように、その後ふだんの肉体で訪れた時に持っていたものとそっくりだったという事実は、普通では理解できない。

あの時、すなわち老紳士が病臥の女性の寝室を訪れたのは幽体であったことは理解できるが、かぎタバコ入れはどこから持ってきたのだろうか。杖やパイプ、ランタン、書物などを手にしていることもある。

初めのころ我々はこう考えた――不活性の物体にもエーテル的な流動体があるから、それが凝結して、肉眼には映じない型をこしらえることができる、と。この仮説もまったく真実性が無いわけではないが、これだけでは説明しきれない現象があることが分かってきた。

それまで我々が観察していたのはイメージや容姿ばかりだった。そして流動エネルギーが物質性をそなえることができることも知っていたが、それはあくまでも一時的なものであって、用が済めば消滅してしまうのである。その現象も確かに驚異的であるが、その後それよりさらに驚異的な現象に出会うことになった。いろいろあるが、その中の一つを挙げると“直接書記現象”がある。

これについては改めて章を設けて解説する予定であるが、ここで指摘しておきたい点と深く係わっているので、少しばかり言及しておきたい。

直接書記というのは霊媒の手も鉛筆も使わずに自動的に文章または暗号・符号・図などが書かれる現象である。ということは、用意するのは一枚の用紙だけということで、しかもそれを折り畳んでもいいし、引き出しに入れてもいいし、もちろんテーブルの上に置くだけでもよい。そのあと、ホンのわずかな間を置くだけで、その紙面にメッセージや暗号などが書かれているのである。

そのメッセージなどは鉛筆で書かれていたり、クレヨンで書かれていたり、赤鉛筆だったり普通のインクだったり、時には印刷用のインクだったりする。

用紙といっしょに鉛筆を置いておいたのであれば、霊はその鉛筆で書いたという想像が成り立つが、書くための用具は何一つ置いていないのである。となると霊は霊界でこしらえた何らかの道具で書いたことになる。一体どうやってこしらえるのであろうか。

その点の疑問が、例のかぎタバコ入れの現象に関する聖ルイの回答によって解明された。次がその一問一答である。

――生者の幽霊現象の話の中にかぎタバコが出てきます。そして、あの老紳士は実際にそれをかぐ仕草をしているのですが、あの時、我々がふだん香りをかぐのと同じように嗅覚を使っているのでしょうか。

「香りはありません」

――あのかぎタバコ入れは老紳士がふだん使っているものとそっくりだったようですが、実物は家に置かれているはずです。手にしていたのは何なのでしょうか。

「外観だけの見せかけです。かぎタバコを見せたのは老紳士であることの状況証拠として印象づけるためと、あの現象が少女の病気による幻覚ではないことを証拠づけるためです。老紳士は自分の存在を少女に確信させたいと思い、リアルに見せるために外観を整えたのです」

――“見せかけ”とおっしゃいましたが、見せかけには中味がなく、一種の目の錯覚です。我々が知りたいのは、あのかぎタバコ入れは中味のない、ただのイメージだったのかということ、つまり物質性は少しもなかったのかということです。

「もちろん物質性は幾分かはあります。霊が地上時代の衣服と同じものを身につけて霊姿を見せることができるのは、流動エネルギーを使用してダブルに物質性をもたせるからです」

――ということは、不活性の物体にもダブルがあるということでしょうか。つまり、見えない世界に物質界の物体に形体をもたせる根元的要素があるということですか。言いかえれば、地上の物体にも、我々人間に霊が宿っているように、エーテル質の同じものがあるのでしょうか。

「そうではありません。霊は、宇宙空間および地上界に存在する物的原素に向けて、あなた方には想像もできない性質のエネルギーを放射し、その原素を意念で凝結して、目的に応じて適当な形体をこしらえます」

――先ほどの聞き方が回りくどかったので、もう一度直截的にお聞きします。霊がまとっている衣服には実体がありますか。

「今の回答で十分その質問の答えになっていると思いますが……流動体そのものが実体のあるものであることはご存じでしょう?」

――霊はエーテル質の物体をどのようにでも変えることができ、かぎタバコの例で言えば、そういうものが霊界にあるのではなく欲しい時に意念の力で瞬間的にこしらえ、用事が終われば分解してしまう。同じことが霊が身につけているもの――衣服・宝石・その他あらゆるもの――について言える、ということでしょうか。

「まさにその通り」

――問題のかぎタバコ入れは女性の目に見えています。本人は実物だと思ったほど明瞭に見えています。触っても実感があるようにでも出来たのでしょうか。

「そのつもりになれば出来たでしょう」

――そのタバコ入れを手に持ってみることも出来たでしょうか。その場合でも本物と思えたでしょうか。

「そのはずです」

――そのタバコ入れを彼女が開けたと仮定します。そこにかぎタバコが入っていたと思われますが、それを一つまみ吸ったらクシャミをしたでしょうか。

「したでしょう」

――すると霊は形体をこしらえるだけでなく、その特殊な性質まで付与することも可能ということでしょうか。

「その気になれば可能です。これまでの質問に肯定的にお答えしたのはその原理に基づいてのことです。霊による物質への強烈な働きかけの証拠なら幾らでもあります。今のところはあなた方の想像力の及ばないようなものばかりですが……」

――仮に霊が有害なものをこしらえて、それを人間が呑み込んだとします。その人間はその毒にやられますか。

「そうした毒物を合成しようと思えば出来ないことはありません。が、そんなことをする霊はいません。許し難いことだからです」

――健康に良いもので病気を癒すものも合成できますか。合成したことがありますか。

「ありますとも。しばしば行っております」

――そうなると身体を扶養するための飲食物も合成できることになりますが、仮に果物か何かをこしらえて、それを人間が食べた場合、空腹が満たされますか。

「当然です。満たされます。ですが、口はばったいようですが、こんな分かりきったことを延々としつこく聞き出そうとするのは、いい加減お止めなさい。

太陽光線一つを取り上げてみても、あなた方のその粗野な肉眼が宇宙空間に充満する物的粒子を捉えることが出来るのは、その太陽光線のお蔭ではありませんか。空気中に水分が含まれていることはご存じのはずですが、それが凝縮すると元の水に戻ります。ご覧なさい、触ってみることも見ることもできない粒子が液体になるではありませんか。他にももっと驚異的な現象を起こせる物質を、化学者は数多く知っているはずです。

ただ、我々にはそれより遥かに素晴らしい道具があるということです。すなわち意念の力と神のお許しです」

――そうやって霊によってこしらえられ、意念の力によって感触性を付与された物が、さらに永続性と安定性を得て人間によって使用されることも可能ですか。

「可能かどうかと言えば可能です。が、そんなことは霊は絶対にしません。それは人間界における秩序の摂理を侵害することになるからです」

――霊はみな等しく感触性のある物体をこしらえる力を持っているのでしょうか。

「霊性が高いほど容易にこしらえるようになります。が、それもその場の条件次第です。低級霊にもそうした力を持った者がいます」

――出現した霊がまとっている衣装や、我々に差し出して見せる品物が、どうやってこしらえられたのか、その霊自身は知っているのでしょうか。

「そうとは限りません。霊的本能によってこしらえている場合が多いです。十分に霊性が啓発されないと理解できません」

ブラックウェル脚注――我々の身体の細胞は絶え間なく変化しているが、我々は食したものがどのようなプロセスで血となり肉となり骨となっているのか知らないのと同じであろう。

――霊は、宇宙に遍在する普遍的要素から、あらゆる物体をこしらえる原料を抽出することができ、さらにその一つ一つに一時的な実在性と特殊な性質を持たせることができるという事実から推し量ると、文字や符号を書くための材料もその普遍的要素から抽出できることは明らかですから、直接書記現象のカギもどうやらその辺にある――そう考えてよいでしょうね?

「ああ! やっとその理解に到達しましたね」

編者注――これまでの質問は全てこの結論に到達することを念頭に置きながら出してきたもので、「ああ!」という感嘆の言葉は、霊側も我々の考えを読み取っていたことを示唆している。

――霊がこしらえるものは一時的なもので永続性がないとおっしゃいましたが、そうなると、直接書記の文字がいつまでも消えずに残っているのはなぜでしょうか。

「あなたは用語にこだわり過ぎます。私は永続性は絶対にないとは言っておりません。私が述べているのは重量のある物体のことです。直接書記の産物は紙面に書かれた文や図形にすぎません。それが保存する必要があればそのような処置を取ります。霊的にこしらえたものは一般の使用には向かないと言っているのです。あなた方の身体のように本来の物質で出来上がったものではないからです」

訳注①――英文訳者のブラックウェルが最後の脚注で、英国ウェールズ州の“断食少女”を紹介している。が、あまりに簡単で資料としての重みがない。それよりも明治時代に話題をまいた長南年恵(正式にはチョウナントシエであるが、オサナミと呼ばれることが多い)という女性の現象の方が世界的水準からいっても驚異的なので、それを簡潔にまとめて紹介しておきたい。

資料は浅野和三郎氏が実弟の長南雄吉氏に面接して取材したもの。その時には年恵はすでに他界しており、浅野氏は年恵の現象が最高潮だった頃に自分が「涼しい顔をして英文学なんかをひねくっていた」ことを悔やんでいる。

それにしても、それほどの霊能者がなぜ一時代の不思議話で終わったのか。「御一新(明治維新)の世にそんなバケモノ話があってたまるか!」という言葉に感じられる当時の官憲の悲しいほどの幼稚さが原因なのか、それとも私がいつもモノサシにする高級霊団による計画的援助の無さが原因なのか。どうも私にはその両方だったような気がしてならない。

日本の役人や学者の感性の無さは今も昔も言わずもがなであるが、その後その現象による啓発がどこにも見当たらないことも見逃せない事実である。単なる人騒がせの現象には高級霊団は関与しないからである。が、物理現象としては第一級のものだったことは確かなようで、とくに本章の「霊的にこしらえたもので肉体が養えるか」という疑問に対する絶好の回答であると私は観ている。

年恵は一八五八年、山形県の生まれ。驚異的現象が起き始めたのは三十五歳の時で、その後十五年間続いている。ということは欧米でスピリチュアリズムが最も盛んだった一八九〇年代とほぼ一致することになる。

しかし現象が表面化する前から普通の女性でないことで親を悩ませていたようである。例えば煮たり焼いたりしたものは一切身体が受けつけず、生水とホンの少量の生のサツマイモだけで、トイレに行くことがないばかりか女性の生理も三十五歳になっても一切無く、その顔はまるで十二、三歳の少女のようで、大阪の弟の雄吉の家に同居していた頃は、雄吉の妾ではないかとのうわさが立ったほどである。

雄吉がひそかに湯を沸かして、それを冷ましてから「水だ」と言って飲ませることを何度か試したが、そのたびに吐き出し、ひどい時は血まで吐いたという。

さらに年恵が入神(トランス)状態に入ると家屋全体が振動したり、部屋の中で笛や琴、鈴などによる合奏が聞こえ、そんな時はうわさを耳にした人や警察官などが家を取り巻くように集まって、それに聴き入ったという。

また入神した時は態度も声も変わり、普段は無邪気で無学な少女が凜(りん)とした態度で教えを説き、書画を書き、予言をし、それがことごとく適中したという。

年恵は「人心を惑わす詐欺行為」のかどで二度留置場へ入れられている。が、拘留中も身辺に妙なる音楽が聞こえたり、真夏でも年恵だけは蚊一匹寄りつかず、化粧道具は何一つないのに蝶々髷(まげ)はいつも結い立てのごとく艶(つや)々としていた。本人は「神様が結って下さいます」と言っていたという。

圧巻は牢内での霊水の実験であろう。普段は自宅の祭壇に栓をした空ビンを十本、二十本、多い時は四十本も供えて、十分間ほど祈祷すると、パッと霊水で満たされる。赤・青・黄、色とりどりで、それぞれの病名に卓効があったという。

面白いのは、病気でもない者が試しに病名を適当に記した空ビンを置いておくと、それだけは何も入っていなかったという。

拘留されたのは二度であるが、法廷に立ったことが一度ある。結局無罪放免になったのであるが、その理由が霊水の実験だった。神戸裁判所でのことだったが、当時は新築中で、弁護士詰め所は電話室が出来あがったばかりで、電話そのものがまだ取り付けられていなくて空っぽだった。それを使って実験をしようということになり、年恵は素っ裸にされて検査をされた後、裁判長みずからが封印をした二合入りの空ビンを一本手にして電話室に入った。そして二分ほどするとコツコツというノックがしたので扉を開けると、茶かっ色の水の入った二合ビンが密封されたままの状態で年恵の手に持たれていたのだった。

明治四十年十一月のある日、憑(かか)ってきた霊が「近いうちにあの世へ連れて行く」と予言した通り、間もなくあっさりと他界した。五十歳だった。

訳注②――直接書記現象については「改めて章を設けて解説する予定」とある。確かに「直接書記と霊聴」という見出しで扱われているが、意外に簡単に扱っていて「詳しくは第八章を参照」などと述べている。

確かに本章の説明で十分と思われるのでそこはカットすることにしているが、もう一つの「霊聴」を「直接書記」と並べて扱っているところに面白い視点が見られるので、その核心部分だけを紹介しておく。

私が「霊聴」と訳した用語は原典では“スピリット・サウンド”および“スピリット・ボイス”となっている。カルデックはその原因(声の出どころ)を“内的”と“外的”とに分け、内的なものはまるで“声”を聞いているように思えても聴覚で聞いているのではなく、外的なものは直接談話のようにエクトプラズムでこしらえたボイスボックス(声帯と同じもの)を使ってしゃべっているので聴覚に響く。つまり音声で聞いている。

ブラックウェルも「サークルでは出席者全員に聞こえる」と脚注で述べている。

第9章 霊が好む場所・出やすい時刻
昔から霊がよく出没する場所や幽霊屋敷とされているものがあるもので、どこの国でも同じのようである。それに関連した疑問を霊団側に出してみた。

――霊は後に残した者への思いが容易に断ち切れないことがあるようですが、物に対してはどうでしょうか。

「それは霊性の発達程度によって違ってきます。地上的な物件にしつこく執着している霊がいます。例えば守銭奴と呼ばれているような人間は、死後も、ある場所に隠した財産を見張り、気づかれないように守っています」

――地上には霊が自然に引きつけられる場所というのがあるのでしょうか。

「地縛的な状態から脱した霊は、親和性のある霊の世界へと赴きます。“物”から“霊性”へと関心が変化したからです。それでもなお地上のある場所への執着を残している者もいます。それだけ、まだ霊性の発達が低いことの証拠です」

――地上の特定の場所への執着が霊性の低さの指標であるとすれば、それは邪霊の類いに属する証拠とみてよいでしょうか。

「とんでもない。それは間違いです。霊性の発達程度は低くても、性格的に悪くない霊がいます。地上でも同じではないでしょうか」

――霊は廃墟のような場所を好むという言い伝えがありますが、これには何か根拠があるのでしょうか。

「ありません。そういう場所へ行くことはありますが、特にそういう場所を好むからではありません。どこへでも赴きます。そういう言い伝えが生じたのは、廃墟のような場所に漂う哀愁や悲壮感が人間の想像力をかき立てて、霊がさまよっているかに感じるからでしょう。

人間の恐怖心は木の陰を幽霊と思わせ、動物の鳴き声や風の音を幽霊のうめき声と思わせることがよくあるではありませんか。霊はどちらかといえば寂しい場所よりも賑(にぎ)やかな場所の方を好みます」

――そうはおっしゃっても、霊にもいろいろな性格の者がいますから、中には人間嫌いがいて、人里よりも寂しい場所を好む者もいるのではないでしょうか。

「ですから先程も申し上げたではありませんか――霊は廃墟にも行くが、どこへでも行きますと。孤独の中で暮らしているのはそうしたいからであって、それをもって霊は廃墟を好むとする理由にはなりません。断言できることは、霊は寂しい場所よりも都会のような人間が多く住んでいる場所の方が圧倒的に多いということです」

――民間の信仰にはおおむね真理の基盤があるものです。幽霊が出没するとされている場所の起原は何なのでしょうか。

「人間の本能的な信仰心――世界のいずこの国、いつの時代にもある信仰心から生まれたものです。が、今も述べた通り、ある場所の無気味さが人間の想像力をかり立て、何か超自然的なものがそこに生息しているかに考えるようになったまでです。それが幼少時代に語り聞かされた他愛ないおとぎ話や空想的な想像力によって、さらにふくらんで行ったのです」

――よく霊が集まることがあるようですが、何日とか何曜日とか何時といった、霊の好む日にちや時間帯がありますか。

「ありません。日にちとか時刻は人間の都合と必要性から生まれた、地上生活特有の取り決めです。霊にはそういうものは必要ありませんし、ほとんど気にも掛けません」

――霊は夜に出やすいという信仰はどこから来たのでしょうか。

「暗さと静けさから受ける印象が想像力に作用して生まれています。そうした概念はすべて迷信であり、合理性を旗印とするスピリチュアリズムが撲滅して行かないといけません。真夜中(丑三つ時)の怖さはお化け話の中にしか存在しません」

――もしそうだとすると、霊の中に交霊会を真夜中とか特定の曜日を指定する者がいるのはなぜでしょうか。

「それは人間の迷信性を逆手に取って勿体ぶっているだけです。また、オレは魔王であるとか、それらしい仰々しい架空の名を名乗って出てくる霊も、同じく勿体ぶっているだけです。その手は食わんぞという毅然とした態度で臨んでごらんなさい。そんな霊は出なくなります」

――自分の遺体が埋葬されている場所へは行きたがるものでしょうか。

「身体は言わば衣服にすぎなかったわけで、その身体に宿っていたがゆえに苦しい目に遭わされたのですから、それを脱ぎ捨てた後はもう未練はありません。クサリにつながれていた囚人は、解き放たれた後、そのクサリに未練など持たないのと同じです。心に残るのは自分に愛の心を向けてくれた人々の記憶だけです」

――埋葬された墓地で祈ってもらうと特別に感じられるものでしょうか。家庭や教会での祈りよりも霊には届きやすいでしょうか。

「ご存じのように、祈りは霊を引き寄せるための魂の行為です。それに熱意がこもり真摯さが強いほど、その影響力は大きくなります。ですから、聖なる葬儀の行われた墓地での祈りは格別の思いを集中しやすいでしょうし、一方、墓石に刻まれた文字を見て故人への情愛を感じやすいという点でも、故人の遺品と同じように、墓地には祈りの気持を高めるものがあることは事実です。

ですが、そうした条件下にあっても、霊に祈りを通じさせるのは“思念”であり、物的な遺品ではありません。物的なものは祈る側の人間にとって意念を集中させる上で影響力をもつだけで、霊そのものには大して影響はありません」

――そうは言っても、幽霊の出没する場所にはまったく根拠がないわけではないと思いますが……

「すでに述べたように、霊には物的なものへの執着の強い者がいます。そういう霊はある一定の場所へ引きつけられ、引きつける要因が消えるまで、そこに住みついたりすることもあります」

――“引きつける要因”とは何ですか。

「そこへよく行く人間との親和力の作用もあれば、その者と意思を通じ合いたいという欲求など、いろいろあります。が、いずれにしても余り褒めた理由はありません。恨みを抱いて仕返しのチャンスをねらっている低級霊もいます。また、その場所で大きな罪を犯した者が、一種の罰としてそこを徘徊させられている場合もあります。懴悔の念が生まれるまで、その現場を四六時中見せつけられるのです」

――そこにかつての住居があったというケースも多いのでは?

「多くはありません。仮に前の住人が死後順調に向上していれば、埋葬された遺体に用がないように、何の未練も抱きません。特定の人物との親和力の作用による場合を除いては、大体において低級霊が気まぐれに出没しているにすぎません」

――人間がそういう場所を恐れるのは理に適っているでしょうか。

「いいえ。そういう場所に出没して何かと話題のタネをまくような霊は、とくに邪悪な意図があるわけではなく、騙されやすい人間や恐がり屋を相手にして面白がっているだけです。

それに、霊はいたる所にいることを忘れてはいけません。どこに居ようと、どんなに静寂な場所であろうと、あなた方の周りには常に霊がいるものと思ってください。霊が出没して騒がれる場所というのは、出現してイタズラをするのに必要な条件が整う場所にかぎられています」

――そういう霊を追い払う方法がありますか。

「あります。古来その目的で人間がやってきたことは、追い払うより、ますます付け上がらせる結果となっています。

一ばん賢明な方法は、善良な霊に来てもらえるように、人間側が善行に励むことです。そうすれば、そういう低級霊も退散して、二度と来なくなります。善と悪とは相容れないものだからです。心掛けの問題です。善良な心掛けの漂う場所には善良な霊しか来ません」

――善良な人でも霊に悩まされていることが少なくないようですが……

「その人が本当の意味で善良な人であれば、そういう悩みは忍耐力を試し、善性をより強固にするための試練かも知れません」

――いわゆる“悪魔払い(エクソシズム)”の儀式でそういう邪霊は追い払えるでしょうか。

「エクソシズムが成功した話をどれくらいお聞きでしょうか。大ていはますます騒ぎが大きくなってはいませんか。イタズラ霊というのは自分が悪魔扱いにされるのを面白がるものです。

もちろん悪意を持たない霊でも姿を見せたり音を出したりして存在を知らしめようとすることがあります。が、そういう場合の音が人間に迷惑を及ぼすほどになることはありません。死後迷っている霊かも知れません。そうであれば祈りによって救ってあげるべきでしょう。時には親しい間柄の霊が存在を示そうとしている場合もあります。ただのイタズラ霊の場合もあるでしょう。

迷惑を及ぼすような場合は間違いなく低級霊で、することがなくてそうやって遊んでいるだけです。そういう場合は一笑に付して無視することです。何をやっても人間が恐がりもせず大騒ぎもしなくなると、バカバカしくなって止めるでしょう」

第10章 自動書記現象の種々相
数ある霊とのコミュニケーションの手段の中でも“書く”ということが最も単純で、最も手軽で、何かと都合がいい。

と言うのは、きちんと時刻を定めて連続して交信することができ、その間の通信の内容や筆跡や態度を見て、通信霊の性格や霊格の程度や思想をじっくりと分析し、その価値判断を下すことができるからである。

体験を重ねるごとに霊的通信の純度が高まるという点でも、自動書記は好ましい手段である。

ここでいう自動書記というのは、その霊能つまり通信霊からのメッセージを受け止めて用紙に書き記すという能力を持った霊媒を中継して得られるものを言うのであって、霊媒を仲介せず、書くための道具もなしに記される直接書記とはメカニズムが異なる。(第八章参照)

自動書記には大別して三つのタイプがあり、霊媒によっては二つのタイプが交じり合っている場合もある。

①受動書記(器械書記)

本書の初めに紹介したテーブルラップやプランセットによる通信、および霊媒が筆記用具を握って書く通信は、このあと紹介する直覚書記や霊感書記と違って、テーブルやプランセットや霊媒の腕または手に霊が直接働きかけて通信を送るもので、例えば霊媒が手で書く場合でも霊媒自身は何が書かれるのか全く関知しないという点で受動的であり、その意味からこれを受動書記または器械書記と呼んでいる。霊媒の手もただの器械にすぎないと見なすわけである。(テーブルラップは物理現象の部類に入れられるのが普通であるが、符丁による通信が文字に置き替えられて綴られるという点では、確かに自動書記現象でもある――訳者)

この受動書記では手が激しく動いて、握っている鉛筆が手から離れて飛んでいったり、鉛筆を握ったまま苛立(いらだ)ったようにテーブルを叩き、鉛筆の芯が折れたりすることがある。霊媒はいっさい関係なく、そうした動きを呆れ顔で見つめている。

こうした現象が生じる時は決まって低級霊の仕業とみてよい。高級霊はあくまでも冷静で威厳が漂い、態度が穏やかである。会場の雰囲気が乱れていると高級霊は直ぐに引き上げる。そして代わって低級霊が出てくる。

②直覚書記(直感書記)

霊は霊媒の精神機能に働きかけることによって思想を伝達する。手や腕に直接働きかけるのではない。その身体に宿っている魂――霊媒が“自分”として活動するための顕在意識と潜在意識の総体――に働きかけ、その間は霊媒と一体となっている。ただし、霊媒と入れ替わっているのではないことに注意しなければならない。

霊の働きかけを受けて霊媒の精神が反応し手を動かして書く。あくまでも霊媒が書いているのであるが、伝達される思想は霊からのもので、霊媒はそれを意識的に綴っている。これを直覚書記または直感書記と呼ぶ。

③半受動書記

①の受動書記と②の直覚書記とが並行して行われる場合があり、頻度としてはこのケースがいちばん多い。

受動書記では“書く”という動作が先行し、その後から思想が付いてくる。直覚書記では思想が先行し、その後書くという動作が伴う。その両者が同時に起こる、あるいは前になったり後になったりするのを半受動書記と呼ぶ。

④霊感書記

通常意識の状態ないしはトランス状態で自分の精神の作用以外の始源から思想の流入を受け取ってそれを書き記すもので、②の直覚書記ときわめてよく似ている。唯一異なる点は、その思想が霊的始源からのものであるとの判断が明確にできないことで、霊感書記の最大の特徴はその自然発生性、つまり霊媒自身はそれをインスピレーションであるとの認識が定かでない点にある。

そもそもインスピレーションというのは、良きにつけ悪しきにつけ、霊界から我々人間に影響を及ぼす霊から送られてくるもので、日常生活のあらゆる側面、あらゆる事態における決断において関与していると思ってよい。

その意味においては我々は一人の例外もなく霊感者であると言える。事実、我々の周りには常に幾人かの霊がいて、良きにつけ悪しきにつけ、リモート・コントロール式に我々を操っている。

その事実から、守護霊を中心とする背後霊団の存在意義を理解しなければならない。人生には右か左かの選択を迫られる時機、何を言うべきかで迷う時があるものだが、そのような時に守護霊からのインスピレーションを求めることができる。自分と最も親和性の強い類魂であるとの知識に基づいた信念をもって祈り、あるいは瞑想によって指示を仰ぐ。

それに対する霊団側の反応は、最高責任者である守護霊の叡知によって一人一人異なる。まるで魔法のごとく名案を授かるかと思えば、何の反応も得られないこともある。そのような時は「待て」の指示であると受け止めるべきである。

よく耳にする話として、格別の霊的能力があるわけでもなく、また通常意識に何の変化があるわけでもないのに、一瞬の間に思想の奔流を受け、時には未来の出来事の予言まで見せられ、本人はただ唖然としてそれを受け止めるといった現象がある。そして終わってみると、それまでの悩みも苦しみも、跡形もなく消えている。

さらに天才と言われる人たち――芸術家、発明家、科学的発明者、大文学者等々――も高級霊の道具として偉大なるインスピレーションを授かるだけの器であったということであり、その意味では霊媒と同じだったわけである。

訳注――私の母は若い頃から火の玉を見たり神棚の御鏡に神々しい姿が映っているのが見えたりしたというから霊能がかなりあったようであるが、その人生は戦前と戦後とで天国と地獄を味わった、波乱に富んだ人生だった。のちに私の師となる間部詮敦氏と初めてお会いして挨拶をした時は「荒れ狂う激流を必死に泳いで、やっと向こう岸にたどり着いた感じがした」と言っていた。

その母が私にぽっつり語ったところによると、苦悶の極みに達すると必ず白い光の玉がぽっかりと浮かんで見え、それが消えると同時に一切の悩みも苦しみも消えていたという。ところが晩年にある人からしつこく意地悪をされたことがあり、私もそれを知っていたが、母が平然としているので、さすがに母だと思っていた。

ところがある日ついに堪忍袋の緒が切れて激怒に及んだ。それきり意地悪もされなくなったが、同時に「あの白い光の玉が見えなくなった」と寂しそうに言っていた。その後また見えるようになって喜んでいたが、この話から私は、いくら正義の憤怒とはいえ波動が乱れては高級な背後霊との連絡も途絶えることを教えられた。

以下は自動書記の原理に関する霊団との一問一答である。

――インスピレーションとは何でしょうか。

「霊による思念の伝達です」

――インスピレーションは重大なことに限られているのでしょうか。

「そんなことはありません。日常生活のいたって些細なことについてもあります。例えば、どこかへ行こうと思った時、その方角に危険が予想される場合には行かないようにさせます。あるいは思ってもみなかったことを、ひょっこり思いついてやり始める場合もそうです。一日のうちのどこかで大なり小なりそうした指示を霊感によって受けていない人はほとんどいないと考えてよろしい」

――作家とか画家、音楽家などがインスピレーションを受ける時は、一種の霊媒と同じ状態にあると考えてよろしいでしょうか。

「その通りです。肉体による束縛が弱まって魂の活動が自由になり、霊的資質の一部が発現します。そんな時に霊団からの思念や着想がふんだんに流入します」

次の問題として、霊媒の能力が一時的に中断したり急に失われたりすることがある。自動書記現象だけでなく物理現象その他の霊媒でも同じことがある。その問題について一問一答は次の通りである。

――霊媒能力が失われることがあり得ますか。

「よくあります。どんな能力でもあります。が、割合としては、完全に失われてしまうよりも、一時的な中断の方が多く、それも短期間です。再開されるのは中断された時の原因と同じことから発します」

――それは霊媒の流動体の問題ですか。

「霊的現象というのは、いかなる種類のものであれ、親和性のある霊団の働きなしには生じません。現象が生じなくなった時は、霊媒自身に問題があるのではなく、霊団側が働きを止めたか、あるいは働きかけが出来なくなった事情がある場合がほとんどです」

――どんな事情でしょうか。

「高級霊になると、霊媒に関して言えば、その能力の使用法によって大きな影響を受けるものです。具体的に言えば、ふざけ半分にやり始めたり野心が度を超しはじめたら、すぐに見放します。また、その能力を霊的真理の普及のために使用するという奉仕の精神を忘れ、指導を求めて来る人や研究・調査という学術的な目的で現象を求めに来る人を拒絶するようになった時も、高級霊は手を引きます。

大霊は霊媒自身の娯楽的趣味のために能力を授けるのではありません。ましてや低俗な野心を満足させるためではさらさらありません。あくまでも本人および同胞の霊性の発達を促進するために授けているのです。その意図に反した方向へ進みはじめ、教訓も忠告も聞き入れなくなった時に、霊団側はその霊媒に見切りをつけ、別の霊媒を求めます」

――霊が去った後は別の霊が付くのではありませんか。もしそうであれば、霊媒の能力そのものが一時的に休止してしまうという現象はどう理解すべきでしょうか。

「面白半分に通信を送るだけの霊ならいくらでもいますから、高級霊が去ってしまった後に付く霊には事欠きません。が、優れた霊が霊媒への戒めのために、つまりその霊的能力の行使は霊媒とは別の次元の者(霊)によるものであって霊媒自身が自慢すべきものではないことを悟らせるために、一時的に休止状態にすることはあります。一時的に何も出来なくなることによって霊媒は、自分が書いているのではないことを身に沁みて悟ります。もしそうでなかったら書けなくなるはずはないからです。

もっとも、必ずしも戒めのためばかりとも言えません。霊媒の健康への配慮から休息させる目的で中断することもあります。そういう場合には他の霊による侵入の懸念はありません」

――しかし、徳性の高い人物で健康面でも別に休息の必要もないはずの霊媒が、通信がぷっつりと切れてしまって、その原因が分からずに悩んでいるケースはどう理解すればよいのでしょうか。

「そういうケースは忍耐力と意志の堅固さを試す試練です。その期間がいつまで続くかを知らされないのも同じく試練のためです。

一方、その期間はそれまでに届けられた通信を反芻(はんすう)させるためでもあります。それをどう理解しどう役立てるかによって、その霊媒が我々の道具として本当の価値があるかどうかの判断を下します。興味本位で立ち会う出席者についても同じような判断を下します」

――何も出ない場合でも霊媒は机に向かうべきでしょうか。

「そうです、そういう指示があるかぎりは何も書かれなくても机に向かうべきです。が、机に向かうのも控えるようにとの指示があれば、止めるべきです。そのうち再開を告げる何らかの兆候が出ます」

――試練の期間を短縮してもらう方法があるのでしょうか。

「忍従と祈り――そういう事態での取るべき態度はこれしかありません。毎日机に向かってみることです。が、ホンの数分でよろしい。余計な時間とエネルギーの消耗は賢明ではありません。能力が戻ったかどうかを確認することだけが目的です」

――ということは、能力が中断したからといって必ずしもそれまでに通信を送ってくれた霊団が手を引いたとは限らないということですね?

「もちろんです。そういう時の霊媒は言わば“盲目という名の発作”で倒れているようなものです。が、たとえ見えなくても、実際は多くの霊によって取り囲まれております。ですから、そういう霊との間で思念による交信はできますし、また、それを求めるべきです。思念が通じていることを確認できることがあるでしょう。自動書記という現象は途絶えても、思念による交信まで奪われることはありません」

――そうすると、霊媒現象の中断は必ずしも霊団側の不快を意味するものではないということでしょうか。

「まさにその通りです。それどころか、霊媒に対する優しい思いやりの証拠ですらあります」

――霊団側の不快の結果である場合はどうやって知れますか。

「霊媒自身がおのれの良心に聞いてみるがよろしい。その能力をいかなる目的に使用しているか、どれだけ他人に役立てたか、霊団の助言・忠告によってどれだけ学んだか――そう自分に問いかけてみることです。その辺の回答を見出すのはそう難しくはないでしょう」

――霊媒が自分が書けなくなったので他の霊媒に依頼するということは許されるでしょうか。

「それは、書けなくなったその原因によりけりです。通信霊はひと通りの通信を届けた後は、あまりしつこく質問するクセ、とくに日常生活のこまごまとしたことで相談する傾向を反省させる目的で、しばらく通信を休止することがあります。そういう場合は他の霊媒に代わってもらっても、満足のいくものは得られません。

通信の中断にはもう一つ別の目的があります。霊にも自由意志がありますから、呼べば必ず出てくれるとは限らないことを知らしめるためです。同じく交霊会に出席する人たちにも、知りたいことは何でも教えてもらえるとは限らないことを知らしめるためでもあります」

――神はなぜ特殊な人だけに特殊な能力を授けるのでしょうか。

「霊媒能力には特殊な使命があり、そういう認識のもとに使用しなくてはなりません。霊媒は人間と霊との仲介役です」

――霊媒の中には霊媒の仕事にあまり乗り気でない人がいますが……

「それは、その人間が未熟な霊媒であることの証拠です。授かった恩恵の価値が理解できていないのです」

――霊媒能力に使命があるのであれば、立派な人間にのみ特権として与えればよさそうに思えますが、現実にはおよそ感心できない人間が持っていて、それを悪用しているのはなぜでしょうか。

「もともとその人間自身にとって必要な修行として、その通信の教訓によって目を開かされることを目的として与えられています。もしもくろみ通りに行かなかった場合には、その不誠実さの結果について責任を問われることになります。イエスがとくに罪深き者を相手に教えを説いたことを思い起こすがよろしい」

――自動書記霊媒になりたいという誠実な願望を抱いている者がどうしても叶えられない時は、霊団側がその者に対して親愛感が抱けないからと結論づけてよろしいでしょうか。

「そうとは限りません。体質的に自動書記霊媒として欠けたものがあることも考えられます。詩人や音楽家に誰でもなれるとは限らないのと同じです。が、その欠けた能力は、他の、同じ程度の価値のある能力で埋め合わせられていることでしょう」

――霊の教えを直接耳にする機会のない人はどうやってその恩恵に浴することができるのでしょうか。

「書物があるではありませんか。クリスチャンには福音書があるのと同じです。イエスの教えを実践するのにイエスが実際に説くのを聞く必要があるでしょうか」

第11章 霊媒能力の特殊性と危険性
本章では霊媒としての能力が十二分に発揮される段階に至ってからの問題点や危険性について述べておきたい。

自動書記を例に取れば、用紙にきちんとした書体で通信文が書かれるようになったとする。が、ここでいい気になって油断すると危険である。鳥が一人前に飛べるようになって巣立った後、場所もわきまえずに飛び回っていると、ワナにかかったり鳥モチで捕らえられたりするのと同じで、邪霊が鵜の目鷹の目で見張っていることを忘れてはならない。

ラクに書けるようになったということは霊が身体機能をうまく操れるようになったという、言わば物的ハードルを乗り越えたという段階に過ぎず、霊的ならびに精神的修養はこれからなのである。

霊媒としての能力は、自由に発揮できるようになったからといって、無計画に、無節操に使用してはならない。本来は謹厳な使用目的を義務づけられて授かっているのであって、安直な好奇心の満足で終わることは許されてはいない。

本来は最良のコンディションのもとに行うべき実験会を、霊現象の面白さだけを求めて一日中行うような無分別なことをすると、高級霊は四六時中面倒を見てくれているわけではないので、下らぬ低級霊の餌食にされてしまう危険性がある。細かい点については次の一問一答から学んでいただきたい。

――そもそも霊媒的能力というのは病的なものでしょうか。それとも単に異常なものでしょうか。

「異常な状態のこともありますが、病的なものではありません。霊媒にも頑健そのものの人がいます。虚弱な霊媒は別の原因から来ています」

――霊媒能力の使用によって疲労を来すことがありますか。

「いかなる能力でも長時間にわたって使用すれば疲労を来します。霊媒能力も、とくに物理現象の場合は流動エネルギーを多量に使用しますから、当然疲労します。が、休息すれば回復します」

――悪用した場合は論外として、善用した場合でも霊媒能力が健康に害を及ぼすことがありますか。

「肉体的ないしは精神的な反応によって、慎重を期する必要がある場合、もしくは控えた方が好ましい場合、少なくとも余ほどの節制を要する場合などがあります。それは直感的に自分で判断できるものです。疲労が蓄積していると感じた時は控えるべきです」

――人によっては霊媒能力が害を及ぼすことがあるわけですか。

「今も述べた通り、それは霊媒自身の肉体的および精神的状態に係わる問題です。体質的・気質的に過度の刺激を与えるものは避けるべき人がいます。霊媒現象もその部類に入ります」

――霊媒能力が精神異常を来すことがありますか。

「脳障害の素因がある場合を除いては、その可能性はありません。先天的に素因がある場合は、常識的に考えて、いかなる精神的興奮も避けるべきです」

――子供が霊能開発をするのはいかがでしょうか。

「感心しないだけでなく、危険ですらあります。子供のデリケートでひ弱な体質が過度の影響を受け、精神的にも幼い想像力が異常な刺激を受けます。子供にはスピリチュアリズムの道徳的な側面を教えるにとどめ、霊媒現象の話はしない方が賢明です」

――しかし、生まれつき霊媒能力をもった子供がいます。物理現象だけでなく、自動書記能力や霊視能力をもった子供もいます。そういう子供は危険なのでしょうか。

「いえ、危険ではありません。そのように自然発生的であれば、そういう素質をもって生まれてきているのであり、体質的にそれに耐えられるように出来あがっております。人為的に開発する場合とは根本的に異なり、神経組織が異常に興奮することはありません。

また、霊視能力でさまざまなものが見えても、そのような子供はそれをごく自然に受け止め、ほとんど意に介さないので、すぐに忘れてしまいます。成人してから思い出しても、それによって心を痛めることはありません」

――では霊能開発は何歳から始めれば危険性がないでしょうか。

「何歳という定まった年齢というのはありません。身体上の発育によって違いますし、それよりもっと大切なものとして、精神的発達によっても違ってきます。十二歳でも大人より悪い影響を受けない子供がいます。もっとも、これは霊媒能力一般についての話です。物理現象になると身体そのものの消耗が大きくなります。では自動書記なら問題ないかというと、これにも無知から来る別の危険性があります。面白くて、一人でやりすぎて、それが健康に害を及ぼします」

編者注――このあとの通信でますます明確になってくることだが、スピリチュアリズムの現象面に係わるに当たっては邪悪な低級霊に騙されないための才覚と用心を怠らないようにしなければならない。大人にしてそうなのであるから、若者や子供は尚のこと用心が肝要である。

それには精神統一と感情の冷静さによって善良で高級な霊の協力を得ることが必要となる。同じく霊の援助を祈り求めるにしても、ふざけ半分の態度で軽々しくやるのは一種の冒涜的行為であり、むしろ低級霊のつけ入るスキを与えることになる。

こうしたことを子供に忠告しても意味がないから、霊媒的素質のある子供を指導するに際しては、絶対に一人で行わないように厳重に警告しておく必要があろう。

続いて霊媒現象の実際に関する一問一答。

――霊媒がその能力を使用している時は完全に正常な状態にあると言えますか。

「多かれ少なかれ危険な状態にある場合があります。疲労するのはそのためです。だから休息が必要となるわけです。しかし大体において正常な状態にあるとみてよろしい。とくに自動書記の場合は完全に正常です」

――自動書記にせよ霊言にせよ、伝達される通信は霊媒自身の霊を通して届けられるのでしょうか。

「霊媒の霊にも、他の霊と同じように伝達能力があります。肉体から解放されると霊としての能力を回復するのです。このことは生者が幽体離脱して、書くなり話すなりして意志を伝達することがある事実が証明しています。

出現する霊の中にはすでにこの地上か、どこか他の天体に再生している者もいます。そういう場合でも霊として語っているのであって、人間としてではありません。霊媒の場合も同じではないでしょうか」

――その説明ですと、霊界通信というのは全て霊媒の潜在意識が語っているにすぎないという意見を認めることになりませんか。

「その意見が全てであると断定するところに誤りがあるだけです。霊媒の霊がみずから行動することができるのは間違いない事実です。しかしそのことは他の霊が他の手段で働きかけることがある事実を否定することにはなりません」

――では通信が霊媒自身のものか他の霊からのものかの判断はどうすればよいのでしょうか。

「通信の内容です。通信が得られた時の状況、述べられた、ないしは書かれた言葉や用語などをよく検討することです。霊媒自身が表面に出やすいのは、主にトランス状態の時です。肉体による束縛が少ないからです。通常意識の時には、通常の人間的性格とは別の、本来の自我は出にくいものです。

また、質問に対する答えが霊媒自身のものであり得るかどうかも判断の材料になります。私が、よく観察し疑ってかかるように、と申し上げるのはそのためです」

訳注――ここで言う“疑ってかかる”というのは“批判的態度で臨む”ということであって“疑(うたぐ)る”のとは違う。

スピリチュアリズムの思想面の発達に大きく寄与した人々の中には、気の進まないまま、あるいはトリックを発(あば)いてやろうといった気持で交霊会に出席して、霊言で自分しか知るはずのない事実、つまり霊媒を始めその場にいる人々が絶対に知るはずのないプライベートなことを聞かされて「何かある」と直観して、その日を境に人生観が百八十度転換した人が多い。

米国の次期大統領候補とまで目されていたニューヨーク州最高裁判事のジョン・ワース・エドマンズ、英国ジャーナリズム界の大御所的存在だったハンネン・スワッファーなどがその代表的人物で、エドマンズ判事が米国の知識人に、スワッファーが英国の知識人に与えた衝撃は大きかった。とくにスワッファーの場合はシルバーバーチ霊の霊言霊媒だったモーリス・バーバネルを説得して「霊言集」として一般に公表させた功績は百万言を費やしてもなお足りないほど大きい。

いずれの人物も“煮ても焼いても食えぬ”偏屈者で知られていたが、真実を真実として直観し、確信したら真一文字に突き進んだところに霊格の高さがあった。


――現在の肉体に宿っての生活のあいだ消えている前世での知識が霊的自我によって思い起こされ、それが霊媒の通常の理解力を超えている場合も考えられるのではないでしょうか。

「トランス状態においてしばしばそういうことが起きることがあります。が、改めて断言しますが、そういう場合と、我々霊団の者が出た場合とでは、よくよく検討すれば疑う余地のない違いというものが見つかります。時間を掛けて検討し、じっくり熟考なさることです。確信に至ります」

――霊媒自身の霊的自我から出たものは他の霊からのものに比べて見劣りがするということでしょうか。

「必ずしもそうではありません。他の霊の方が霊媒より霊格が低い場合だってあるわけですから、その場合は他の霊からの通信の方が劣るでしょう。そうした現象はセミ・トランス状態でよく見られます。なかなか立派なことを述べていることもあります」

訳注――ここで“セミ・トランス”と訳したのは英文ではsomnambulism(ソムナンビュリズム)となっている。これはもともと心理学の用語で、日本語では“夢遊病”などと訳されている。心理学がこれを病気として扱うのはやむを得ないが、スピリチュアリズムの観点からすれば病的なものではなく、トランス状態の初期の段階なので“半入神”という意味でセミ・トランスとした。

この訳に落ち着くまでに私は同じカルデックのもう一冊の霊の書The Spirits' BooK、マイヤ-スのHuman Personality、それにナンドー・フォドーのEncyclopedia of Psychic Scienceの該当項目を丹念に読んだ。いずれも多くの紙面を割いていることからも、複雑なものであることが窺えた。

カルデックの通信霊はトランスとソムナンビュリズムの相違点を質されて「トランスとはソムナンビュリズムの状態が一段と垢抜けて、魂がより多くの自由を得た状態」と述べ、マイヤースはトランスを次の三段階に分けている。

第一段階では潜在意識(自我)が肉体をコントロールするようになる。第二段階ではそのコントロールを維持しながら自我は霊界へ赴くかテレパシー的に交信状態を得る。そして第三段階で身体が別の霊にコントロールされる。心理学がソムナンビュリズムと呼んでいるのは第一段階に相当する。

フォドーも多くのページを割いてトランス状態とソムナンビュリズムの例を挙げているが、結論としては上のマイヤースの分類法を引用している。

どうやら仰々しい人物を名乗った霊言や自動書記通信はその第一段階、つまり浅いトランス状態で霊媒自身が述べているようである。


――霊が霊媒を通して通信を送ったという場合、それは霊が直接的に思想を伝達したということでしょうか、それとも霊媒の霊が媒介して伝達したということでしょうか。

「霊媒の霊は通信霊の通訳のような役目をしています。(“通訳”の語意についてはこの後の問答であきらかとなる――訳者)霊媒の霊は肉体とつながっており、言わばスピーカーのような役もしています。また、今のあなたと私のような送信する側と受け取る側との間の伝導体の役もしています。皆さんが電信でメッセージを送る場合を想像してみてください。まず電波を伝える電線が必要ですが、それと同時にメッセージを送る者と受け取る者とがいなければなりません。つまり送信する知的存在と受信する知的存在、そして電気という流動体によって伝達されるメッセージ、それだけ揃わないと電信は届かないわけです」

――霊から送られてきたメッセージに対して霊媒の霊が何らかの影響を及ぼすことがありますか。

「あります。親和性がない場合にそのメッセージの内容を変えて、自分の考えや好みに合わせて脚色します。ただし通信霊その者に影響を行使することはありません。つまりは“正確さを欠く通訳”ということです」

――通信霊が霊媒を選り好みすることがあるのはそのためですか。

「そうです。親和性があって正確に伝えてくれる通訳を求めます。親和性が全く欠如している場合は、霊媒の霊が敵対者となって抵抗を示すことさえあります。こうなったら文句ばかり言う通訳のようなもので、“不誠実な通訳”ということになります。

人間どうしでもそんなことがありませんか。連絡を頼んだのにその者が不注意だったり敵対心を抱いたりして、正しく伝えてくれないことがあるではありませんか」

訳注――この部分を訳していて、シルバーバーチがバーバネルを霊媒として使用するために、母胎に宿った瞬間から霊言通信のための準備をしたわけがよく理解できた。

ご承知の方も多いと思うが、シルバーバーチというのは肖像画として描かれているインディアンではなく、“光り輝く存在”の域にまで達した高級霊の一柱で、三千年前に地上で生活したことがあるということ以外、地上時代の名前も国籍も地位も最後まで明かさなかった。すでに意義を失っているからだという。

そのシルバーバーチから発せられたメッセージが、トランス状態のバーバネルに憑依しているインディアンに届けられ、そのインディアンがバーバネルの言語中枢を通して英語で語った。この言語の問題についてはこの後の問答でも出てくるが、シルバーバーチが「英語の勉強に十数年を費やした」と言っているのは、霊界の霊媒であるインディアンのことである。本源のシルバーバーチは思想をそのまま伝達していたはずである。

この三者と司会のハンネン・スワッファー、それに速記録を取り続けたフランシス・ムーア女史などは同じ類魂に属していたはずで、出生前から綿密な打ち合わせが出来ていて、親和性は完璧だったことであろう。シルバーバーチが「私の言いたいことが百パーセント伝えることが出来ます」と言っているのも肯ける。

――霊には“思念の言語”しかない――言葉で述べる言語はない――と言うことは、伝達手段は一つ、思念しかないということを前提としてお尋ねしますが、霊は地上時代にしゃべったことのない言語で霊媒を通してしゃべることが出来るのでしょうか。もし出来るとした場合、その単語をどこから仕入れるのでしょうか。

「今“一つの言語しかない、つまり思念の言語しかない”とおっしゃいました。それがその質問に対する回答になっているではありませんか。思念の言語はあらゆる知的存在――霊だけでなく人間にも理解できるのですから。出現した霊がトランス状態の霊媒の霊に語りかける時、それはフランス語でもなく、英語でもなく、普遍的言語すなわち思念で語りかけます。が、それを特定の言語に翻訳し、その言語であなた方に語りかける時は、霊媒の記憶の層から必要な単語を取り出します」

――そうなると霊は霊媒の言語でしか表現できないことになります。ですが、我々が入手した通信には霊媒自身の知らない言語で書かれたもの、ないしは語られたものがあります。矛盾しませんか。

「基本的な認識として理解していただきたいことが二つあります。一つは、霊の全てが等しくこの種の現象に向いているとは限らないこと。もう一つは、霊側としても、余ほど望ましいとみた時にのみこの手段を選んでいるに過ぎないことです。普通の通信では霊は霊媒の言語を用いたがります。肉体機能を利用する上で面倒が少ないからです」

――こういうことは考えられませんか。書くにせよ語るにせよ、その言語は前世で使っていたもので、その直覚が保存されていたと……

「そういう例も偶にはありますが、通例というわけではありません。と言うのは、霊には遭遇する物的抵抗を克服する力が備わっていますし、必要とあれば取っておきの能力を駆使することも出来るからです。例えば霊媒自身の言語で書いていても、霊媒の知らない単語もあるわけですから、それを書かせるには取っておきの能力が通信霊に要求されます」

――通常の状態では文字の書き方すら知らない者でも自動書記霊媒が勤まりますか。

「勤まります。ただし、その場合には通信霊に技術的な面で普段より大きな負担が掛かることは明らかです。霊媒の手そのものが文字を綴るのに必要な動きに慣れていないからです。絵の描き方を知らない霊媒に絵を描かせる場合にも同じことが言えます」

――教養のない霊媒を高等な通信を受け取るのに使うことは可能ですか。

「可能です。教養のある霊媒でも時には理解できない単語を書いたり語ったりさせられるのと同じです。厳密な意味から言うと、霊媒という機能は、本来、知性とも徳性とも関係ないものです。ですから、差し当たって有能な霊媒が見つからない時は、取りあえず使える霊媒で我慢して、それを最高度に活用します。が、重大な内容の通信を送る時は、なるべく物理的な手間が少なくて済む霊媒を選ぶのは当然でしょう。

さらに、白痴と呼ばれている人の中には脳の機能障害が原因でそういう症状になっているだけで、内在する霊は見た目には想像もつかないほど霊性が発達している場合があります。その事実はこれまでにおやりになった生者と死者の招霊実験で確認ずみのはずです」

編者注――我々のサークルで数回にわたって白痴の生者の霊を招霊したことがある。霊媒に乗り移った霊は自分の身元つまり白痴の身の上を明確に証言し、その上で我々の質問に対して極めて知的で高等な内容の返答をしている。

白痴というのは、そういう欠陥のある肉体に宿って再生しなければならないような罪に対する罰であることが多い。が、脳に欠陥があることが結果的には霊に脳の束縛を受けさせなくしていることになり、それだけに、物的生活によって間違った人生観を抱いている霊媒よりも純粋な霊的通信が得られることがある。


――作詩法を知らないはずの霊媒によってよく詩文が書かれることがありますが、これはどうしてでしょうか。

「詩も一種の言語です。霊媒の知らない言語で通信が書かれるのと同じ要領で詩が書かれるだけです。ただ、それ以外の可能性として、その霊媒が前世で詩人だったというケースも考えられます。霊は一度記憶したことは絶対に忘れません。ですから、我々が働きかけることによって、その霊媒の霊がそれまでに身につけたもので通常意識では表面に出ないものが、いろいろと便宜を与えてくれることがあります」

――絵画や音楽の才能を見せる霊媒についても同じことが言えますか。

「言えます。絵画も音楽もつまるところは思想の表現形式ですから、やはり言語であると言えます。霊は、霊媒が有する才能の中から最も便利なものを利用します」

――詩文であれ絵画であれ音楽であれ、そうした形式での思想の表現は、霊媒の才能によって決まるのでしょうか、それとも通信霊でしょうか。

「霊媒の場合もあれば通信霊の場合もあります。高級霊になるほど才能は豊かです。霊格が下がるほど知識と能力の範囲が狭くなります」

――前世では驚異的な才能を見せた霊が、次の再生ではその才能を持ち合わせないというケースがあるのはどうしてでしょうか。

「その見方は間違いです。反対に、前世で芽生えた才能を次の再生時に完成させるケースの方が多いです。ただ、よくあるケースとして、前世での驚異的な才能を一時的に休眠状態にしておいて、別の才能を発揮させることがあります。休眠状態の才能は消滅したわけではなく、胚芽の状態で潜在していて、またいつか発現するチャンスが与えられます。もっとも、何かの拍子にそうした才能が直覚によっておぼろげに自覚されることはあります」

第12章 霊能者のモラルの問題
訳注――ここで“霊能者”と訳したのは英文版では前章までと同じmedium(ミーディアム)である。これを“霊媒”と訳さなかったのは、日本では霊媒という用語は、物理現象や自動書記ならびに霊言現象における“入神(トランス)霊媒”というニュアンスが定着していて、本章のように同じくミーディアムでも霊視・霊聴・霊感といった主観的霊能を使用する人にも当てはまる内容には“霊媒”では不適切と判断し、限定的に用いるにとどめた。また、人格・識見を兼ね備えた優れた霊能者を“霊覚者”と呼ぶことにしていることも理解していただきたい。

――霊的能力の発達は霊能者自身のモラルに掛かっているのでしょうか。

「そうとは言えません。厳密に言うと、元来、霊的能力は体質に係わる問題であって、モラル的要素とは無縁です。しかしその霊能をいかに使用するかの問題になるとモラルの面が出て来ます。最終的にはモラルの高い低いが霊媒現象の質を決定づけます」

――霊能は“大霊からの贈り物”と言われますが、そうであれば立派な人だけが授かればよいのに、中にはどうみても不似合いと思える人、つまり霊能の使い道を間違っている人がいるのはなぜでしょうか。

「才能はすべて神の恩寵として感謝すべきものです。あなたの言い分は、神はなぜ悪人に良い視力を与えるのか、なぜペテン師に鋭い勘を与えるのか、人を口車に乗せるのがうまい者になぜ流暢な弁舌を与えるのかとおっしゃっているようなものです。

霊能についても同じことが言えます。相応しくないと思える人が霊的能力に恵まれていることがよくありますが、それはその人にとって必要だからであって、それを使用することによって人間的に向上することを目的として授けられているのです。大霊が邪悪な人間には更生の手段を与えないということが有り得るでしょうか。その逆です。少しでも進歩すると、さらに多くの手段を用意なさいます。その手にしっかりと持たせるのです。

ですから、才能というのは、まずは当人がその恩恵に浴するためのものなのです」

――その霊能の使用を誤った時は、それ相当の報いがあるのでしょうか。

「倍の報いを受けます。普通の人より多くの啓発の手段を授かっているからです。目が見えるのに道を間違える人は、目の見えない人が溝に落ちるのとは別の次元の裁きを受けます」

――自動書記霊媒の中には同じテーマ、たとえばモラルの問題やその霊媒の短所に関連した通信が繰り返し綴られる者がいますが、何か特別な意図をもって行われているのでしょうか。

「そうです。繰り返し言及されているテーマについて当の霊能者を啓発し、短所を改めさせようという意図があります。霊団側はその目的のもとに、ある霊能者には自尊心について、別の霊能者には慈悲心について説きます。おのれの欠点に目覚めさせるために警告と忠告を繰り返しておく必要がある、そういう性癖をもった霊能者がいるものです。

野心や我欲のために才能を悪用する者、あるいは自惚れ、独善、軽率さといった欠点によって、せっかくの霊能を台なしにしかねない者には、霊団から折あるごとに警告が発せられます。が、残念なことに、そうした霊能者ほど自分には関係ないと思うものです」

――しかし、霊能者自身のためという意図はなしに、一般的な戒めとして、その霊能者を通して授けている場合もあるのではないでしょうか。つまり一般人への教訓の道具として霊能者を使っているという場合です。

「もちろんです。我々霊界側としては、霊能者を媒介として届ける以外に方法のない人々のためを意図して忠告することがよくあります。もちろん取り次ぐ者がそれを自分への警告として受け止めることもあるでしょう。原則として霊的能力はその霊能者本人の霊性の向上だけでなく、人類一般の啓発のために授けられるのですから、ただ今のご意見はまさにその通りです。

我々は霊能者をあくまでも“道具”と見なし、道具として大切にしますが、決して他の一般の人々より特別に扱うわけではありません。従って体質的に霊的教訓の通路として役立つと見た時は、どの霊能者でも利用します。が、それも現段階での話です。いずれ人類が進化して優れた霊能者が続々と輩出するようになれば、体質だけで選ぶことはなくなり、精神的・道徳的に霊性の発達した霊能者を選ぶようになるでしょう」

――霊能者の徳性の高さが低級霊を近づけなくしているとすれば、間違いなく徳性が高いと思える霊媒を通して信の置けない愚劣なメッセージが届けられたりするのはなぜでしょうか。

「間違いなく徳性が高い、とおっしゃいますが、あなたは霊能者の魂のすみずみまでお見通しなのでしょうか。邪悪性はないとしても、まだまだ軽薄さのような欠点が残っていることがあるものです。その意味でも常に反省を怠らぬように、こちらから時おり警告を発する必要があります」

――優れた霊能を有し、従って大きな貢献をする可能性のある人が誤った道へ外れて行くのを、高級霊はなぜ許すのでしょうか。

「霊団側としては、あらゆる種類の霊能者に正しい道を歩ませるべく指導します。が、それに耳を傾けず、堕落の道を歩み続ける者には見切りをつけます。そして、霊能そのものは劣っても、少しでも徳性の高くある者を、渋々ですが、使用します。それ以上の人材が見当たらないのですから、やむを得ません。偽善者を通して真理が正しく伝えられることは有りません」

――モラルの感覚に欠ける霊媒を通して高等な通信が得られることは、絶対にありませんか。

「そういう霊媒でも、能力的に良いものを持っていれば、今も述べた通り、他にこれといった人材がいないという特殊事情にかんがみて、取りあえずその者で間に合わせます。が、そのうち他に適切な霊媒が見つかれば、すぐに見捨てます」

編者注――注目すべき事実として、高級霊団は霊能者が道徳的に堕落して低級霊の餌食になり始めたら、必ずといってよいほど、大きな事件を持ち上がらせてその過ちを暴くことをする。真面目な求道者がその霊能者に騙されないようにとの配慮からである。高級霊になると、いかに霊能が優れていようと、それには代えられないという見方をするようである。

――では完全な霊覚者とはどういう資質を有するのでしょうか。

「完全? ああ、残念ながらこの地上には完全なものは存在しません。もし完全だったら、この世には存在しないでしょう。“まっとうな”霊能者とでも呼びましょうか。いや、それでもまだ言い過ぎでしょう。まっとうな霊能者にも滅多にお目にかかれません。“完全な”霊覚者だったら邪霊集団も騙そうという考えすら抱かないでしょう。地上で求められる最高の霊覚者としては、常に高級な善霊との親和関係を保ち、せめて邪霊に騙されることが滅多にない者といったところでしょう」

――善霊との親和関係を保っていてもなお騙されることがあるということでしょうか。なぜでしょうか。

「いかに優れた霊能者であっても、高級霊があえて騙されるに任せることがあるのです。洞察力を試すためであり、また、真実と虚偽との見分け方を教えるためでもあります。さらには、いかに優れているといってもどこかに欠点があるわけですから、邪霊のつけ入るスキは必ずあるものです。そこで時おり痛い目に遭わせるのです。

時おり他愛もない通信を受け取るのは、決して油断はならぬとの警告であり、自惚れさせないためです。手回しオルガンの奏者がいくら良い曲を聞かせても自慢にはならないのと同じで、いくら高等な通信を受け取っても自分が偉いわけではないのですから」

――高等な霊界通信を受け取るための最適の条件とはどんなことでしょう?

「動機にやましい点がないこと、我欲と高慢がないこと。この二つが必須の条件です」

――高級霊からの通信がそんなに厳しい条件のもとでしか入手できないとなると、霊的真理の普及の障害となるのではありませんか。

「そんなことはありません。求める者には必ず光が与えられます。取り払うべき地上の闇は不純な心から生まれたものです。高慢と貪欲と無慈悲をなくすることです。そうすれば、格好つけた交霊会など開かなくても、善霊は光明へ導いてくれます。

霊能者に恵まれないまま真理の光を求めている人々には、自分自身の理性を頼りとして大霊の無限の霊力と叡知を学ぶように告げてあげてください。その真摯な求道心はいつかは最高の証しを生み出し、必ずや高遠の世界からの援助にあずかることでしょう」

第13章 低級霊に憑依されるまでの三つの段階
スピリチュアリズムの現象面につきものの問題の中でも第一位にランクされるものは、憑依現象、つまり霊が地上の人間を完全に支配してしまう現象であろう。ただしこの場合の霊は決まって低級霊で、諒解なしに良からぬ意図をもって操っている。

高級霊が憑依する時は、本書で紹介している通信霊のように、人類の啓発という目的をもって、霊媒の諒解を得て書いたり語ったりしている。終われば憑依状態を解き、霊媒は普段の精神状態に戻る。また霊媒自身あるいは立会人に理解力がないとみたら、二度と出なくなる。

これと違って低級霊が悪意をもって取り憑く場合は、いったん目をつけたらしつこく付きまとい、子供を扱うように手玉に取る。そして当人だけでなく、その親族にまで迷惑を及ぼす。

“憑依”というのは概括的な用語で、そのメカニズムと、憑依された人間に表れる霊障によって、三つのタイプに分けられる。まず“付きまとわれる”だけの場合。次が“幻惑される”場合。そして“取り憑かれる”場合である。詳しく解説しよう。

(一)しつこく付きまとわれる

前章の問答の中でも述べられているように、どんなに優秀な霊媒でも低級霊につけ入られて、愚劣きわまる通信を受けたり霊言を述べたりする。この事実から想像がつくように、霊媒や霊能者は常に低級霊や邪霊につけねらわれていると思ってよい。が、その段階ではまだ憑依ではない。かりに波動が合って通信状態に入っても、それは一時的であって、すぐに縁は切れる。いくら用心していても正直な人間ほど人に騙されることがあるのと同じである。また霊団側でも一つの警告として体験させることすらある。これには実害はない。
(ここでは霊的なことに携わっている人に限った言い方になっているが、実際には普通一般の者にも当てはまる。『霊の書』の中に、一人の人間が殺意を抱いた時、それに感応して邪霊が一気に群がってくるという主旨の一文がある――訳者)

(二)幻惑される

(一)のようにしつこく付きまとって、日常生活に支障を来す程度のものに“幻惑”が加わると、さらに深刻となる。邪霊が思念そのものに直接的に働きかけて幻想を生じさせ、正邪・善悪の判断力をマヒさせるのである。

たとえば自分は神の化身であると思い込ませ、それらしき勿体ぶった態度でご託宣を述べさせる。誰が聞いても滑稽きわまる内容なのであるが、その辺の判断力がマヒしているから、本人はみじんもおかしいとは思わずに大まじめで大言壮語をする。

こうしたケースは無知で無学の者にかぎられると思うのは大間違いである。知的職業に携わる者でも、安直に霊能開発などを始めると、こういう醜態をさらす。見えない次元で異常なことが起きていることは明らかで、それが邪霊・悪霊の画策である。

今、この種の憑依を“さらに深刻”と述べたのは、憑依霊によって幻惑されてしまうと、どんなにバカげた話でも大まじめに信じ込み、時には無分別で、不名誉で、危険なことでも平気でするようになるからである。

(一)の段階と(二)の段階は容易に見分けがつく。それはそのまま低級霊の種類の違いでもある。

(一)の段階では“しつこく付きまとわれる”という点が厄介なだけで、本人もその状態を客観的に見つめることができる。そして、こんなことではいけないと判断すれば、危険から逃れることは可能である。

が、人間には見栄がある。異常なことが起きることから自分が特殊な人間であるかに思い始めると、次第に(二)の段階へと移行する。憑依霊の方も狡猾で手練手管に富んでいるから、巧みに思考活動にまで入り込んで、“慈悲心”だの“人類救済”だの“神の愛”といった美辞麗句を吹き込む。当人はすでに魅入られているから、救世主にでもなったかのような錯覚に陥って、大まじめにそれらしいことを口にする。

この際、低級霊にとっていちばん困るのは洞察力に富んだ立会人(司会者・さにわ)が存在することで、自分の画策が見抜かれ、当人が説諭されて理性を取り戻すことを恐れる。そこで自分たちがこしらえた“お告げ”の矛盾に気づかれないようにと知恵を絞る。が、全体としての低劣さ、歯の浮くようなキザな表現は覆うべくもない。

(三)憑依される

最終段階には当人の自由意志は完全にマヒし、人格全体が憑依されてしまう。ただし、この憑依状態にも精神的と肉体的の二種類がある。

精神が憑依されていく場合は、支離滅裂な行為をしながら、それを正常で立派な行為と思っている。(二)の幻惑状態の一種であるが、異なるのは、思考活動だけでなく自由意志まで奪われていることである。

肉体的に憑依されている場合は肉体器官そのものも支配されて、不随意筋まで自由に操られるようになる。メカニズム的には自動書記や霊言現象と同じであるが、憑依している霊の霊格と動機が異なる。

自動書記や霊言の場合は、終了すれば霊は去り、霊媒の人格は通常に戻る。が、邪霊による憑依の場合は、書くもの(ペンやエンピツなど)も持たずに通路上とかドアとか壁に書く仕草を延々と続けるようになる。

かつては異常行動をする者はすべて“悪魔の憑依”とされた。が、“悪の化身”という意味での“悪魔”は存在しない。霊性の進化の程度が低いという意味での低級霊で、その発想に邪悪な要素が強いというにすぎない。

では一体そうした低級霊はいかなる動機から憑依しようとするのであろうか。招霊して聞き質してみたところによると、その憑依霊によってそれぞれ違うようである。

怨みを抱きながら他界した者が霊界から復讐しようとしている場合がある。前世または前前世での怨念が絡んでいる場合すらある。

別にそうした怨念があるわけではなく、困らせてやりたいという、ただそれだけの動機からの場合もある。

地上時代に苦労が多かった者が、幸せに暮らしている子孫が癪に思えて取り憑くこともある。

善なるものに対する憎しみから、真面目に生きている人間を困らせようとする者もいる。同じ取り憑くなら悪事を働く者を選んだらどうかと尋ねたら「悪いヤツらのことは羨ましくは思わんよ」と答えた者がいた。

気の弱そうな真面目人間を選んで取り憑こうとする者もいる。そのわけを尋ねたら「オレは誰かをいじめたくて仕方がないんだ。が、しっかりしたヤツには追っ払われる。この間抜け(取り憑いている人間)にはオレを追い出すほどの徳の力がないもんな」などとうそぶいていた。

さらに又、悪意というほどのものは持たなくても、軽薄なプライドから尊大になり、科学や社会問題、倫理・道徳・政治問題等に関する自分の考えが最高であると思い上がって、それを伝えてくれる人間を求めることもある。

このように人間に取り憑こうとする低級霊への対抗措置や防御措置も、その動機の違いに応じて違ってくる。それを次の一問一答から読み取っていただきたい。

――霊に付きまとわれて困っている霊能者が自分でそれを排除できなかったり、高級霊に援助を求めても何もしてくれず、直接のコミュニケーションが持てないことがあるのはなぜでしょうか。

「高級霊に力が足りないわけではありません。そうした場合、力が足りないのは霊能者自身の方で、高級霊が援助する条件を整えてくれないことが原因です。

もともと霊能者というのは特殊な体質をしていて、霊との関係が容易に出来あがります。その流動エネルギーが使いやすい霊は必ずいます。霊性やモラルの感覚が低いと、当然低級霊が付きまとって、そのエネルギーを大いに利用しようとします」

――ですが、一点非のうちどころのない人格をそなえた立派な霊媒が高級霊からの通信を阻害されているケースがよくあるようですが……

「そういうケースは、罪滅ぼしというよりは一種の試練として、あえて邪霊にそうさせていることがあります。と言うのも、一点非のうちどころがないとおっしゃいますが、そういう人にも心の奥に隠れた不純さが絶対にないと誰が断言できるでしょうか。見かけの立派さの裏に高慢さが潜んでいないと誰が断言できますか。そういう試練には、霊媒のそうした弱点をさらけ出して謙虚さを身につけさせようという意図があります。

完全な人間だなどと言える人間は地上には一人もいません。側(はた)から見ていかに徳が高そうに思える人でも、その魂には必ずといってよいほど隠れた欠点、古くからの欠陥の酵母が潜んでいるものです。

たとえば不正なことは一切せず、人間関係でも真っ正直で尊敬に値する名士として知られている人でも、その実、魂の奥にはそうした表向きの徳性を台なしにしてしまうような高慢さや利己心の残滓(ざんし)が潜んでいることがあるものです。また、側からは分からないところで貪欲で妬み深く、冷酷で毒気のある性格をしている人もいます。普段のお付き合いではそうした面が出ないから気づかれないだけで、魂の奥には巣くっていることがあるものです。

邪霊に付け込まれないようにする最も確実な方法は高級霊の資質を可能なかぎり見習うことです」

――低級霊に邪魔をされて高級霊からの通信が受け取れなくなった場合、それはその霊媒が霊媒として不適格であることの証拠なのでしょうか。

「一概にそうは言い切れませんが、その霊媒に道徳的ないしその他の面で通信にとって障害となる何かがあることを示していることは確かです。その障害は常に魂の中に存在するわけですから、その霊媒はそれを取り除くべく努力しないといけません。願望や祈りを表明するだけでは何にもなりません。病気の人が医者に向かって“健康をください。私は健康になりたいのです”と言っても意味がないのと同じです。健康になるための処方に素直に従ってもらう以外に医者には為すすべがないでしょう」

――では通信の途絶は一種の罰ということでしょうか。

「場合によりけりですが、まさしく天罰である場合があります。通信の再開という形で報われるように努力すべきです」

――邪魔をしている低級霊を向上の道へ導くという方法もあるのではないでしょうか。

「おっしゃる通りです。そこまで考える霊能者は滅多にいないのですが、実はそれこそが大切な責務でもあるのです。優しい心と宗教心でもって低級霊を諭すのも霊能者の役目です。後悔の念が芽生え、向上への道が開けます」

――その場合、人間は高級霊のような影響力がありませんが、どうしたらいいのでしょうか。

「人間を悩ませ邪魔をする低級霊は、波動的には高級霊より人間の方に近いのです。高級霊とはあまりに波動が違いすぎるために、敬遠して係わり合わないようにするものです。

そうした低級霊が人間界への悪さを画策していることが明らかになると、それを思い止どまらせることを仕事とする一団が差し向けられます。影響力が程よく向いている霊の集団です。しかし、諭されてあっさりと手を引くような連中ではありません。まず一笑に付して耳を貸そうとしないものです。

そんな時に重要なのが霊能者自身の判断力です。付きまとわれて、これは低級霊の仕業だと覚って無視する態度に出ると、そのうち霊の方も諦めます。

高級霊ではあまりに格差が大きすぎて、光線のあまりの強烈さに低級霊は目が眩み、恐れをなして退散します。(が、高級霊が去るとまたやってくるために、そこに理解と向上は望めないということ――訳者)

確かに人間は高級霊ほどの霊力を持ち合わせません。波動的にはどちらかというと低級霊に近いのですが、だからこそ低級霊への影響力を行使しやすいということが言えるのです。人間の努力で邪霊が目を覚まし、向上の道を歩み始めるのを見て、高級霊は天界と地上界の間の連帯関係を一段と明確に認識して喜ぶものです。

人間が霊に対して優位に立つか否かは霊性の発達程度で決まります。その意味で、高級霊に影響を行使することはできません。まだ霊界の高い界層まで至っていないが高潔で愛に満ちた霊に対しても、やはり行使できません。が、霊性の発達程度が劣る霊に対しては、その影響力でもって向上への道へ誘(いざな)うことは必ずできます」

――肉体的に憑依された場合、それが精神異常に発展することがありますか。

「あります。原因が世間一般に知られていないもので、(脳の機能障害からくる)いわゆる精神病とは異なる異常を来します。精神病と呼ばれているものの中には低級霊のとりこになっているに過ぎないものがあり、これはその霊を諭して向上の道へ導いてやる以外には治療法はありません。それを薬の投与といった物理的な治療法しか講じないために、本当の精神病になってしまうのです。

地上の医師がスピリチュアリズムの思想を正しく理解すれば、その二種類の異常の違いが区別できるようになるでしょう。すると当然これまでよりも多くの患者を治すことができるはずです」

――スピリチュアリズムには危険性があると勝手に思い込み、それを防ぐには霊界との交信を止めさせるしかないと信じている者がいますが、どう理解すればよいでしょうか。

「霊界との交信を求めている者を止めさせることは出来るでしょうが、突発的に生じる現象を起きなくすることは不可能でしょう。霊が出られないようにすることは出来ませんし、霊力の行使を阻止することもできないのですから。そういうことを言う人間は、まるで子供が手で自分の目を覆って、誰からも見られないと思っているようなものです。

これほど重大な情報をもたらしてくれるものを、一部の不届きな霊能者の行状だけで止めにすることほど愚かなことはありません。スピリチュアリズムを正しく理解しない者によって生じるそうした迷惑を阻止する方法は、止めにするのではなくて、反対に世間一般に知らしめて正しく理解してもらうことです」

訳注――仕事柄、私は霊能者・チャネラー・心霊治療家を自称する人々から面会を求められることが多い。中には謙虚そのものの方もいないわけではないが、大抵の人の口から“地球浄化・人類救済”の大任を担わされているとの“大言壮語”を聞かされる。その一端を担わされている人なら大勢いるに違いないが、自分一人が救世主であるかに思い込んでいる人が多い。そういう人は一種の憑依状態にあることが、本章を訳しながら理解がいった。

スピリチュアリズムというのは地球浄化の大事業そのものであるが、その計画は神界で立てられ、霊界で準備され、幽界の浄化に始まって十九世紀半ばになって地球圏にまで波及してきたもので、やっと緒についたばかりである。幽界の浄化の様子はオーエンの『ベールの彼方の生活』に生々しく描写されているが、幾百幾千とも知れぬ地縛霊(の状態から脱しかけたばかりの未浄化霊)を引き連れて地球圏から引き上げてくる集団に出会った話などを訳しながら私は、「地上の人間一人のすることなんか多寡が知れてる!」と叱るような口調でおっしゃった恩師の間部詮敦氏の言葉を思い出したものだった。霊界では地上より遥かに大きな規模で救済運動が進行していることをご存知だったのである。だからこそ偉ぶった言動がみじんもなかったのである。

この“憑依”についてカルデックが三つのカテゴリーにまとめたものを訳しながら、年来のおぼろげな理解が鮮明になる思いがした。とくに印象的なのは、邪霊集団が人間に悪さを画策していると、それを思い止どまらせることを任務とする霊団が差し向けられるということで、それが不首尾に終わると、後は霊媒や霊能者のモラルの感覚に全てが掛かってくるという。私のもとへ大言壮語をしに来る者は、すでに“幻惑”される状態にまで進行しているのであろう。

ところで憑依の問題を扱ったもので忘れてならないのはカール・ウィックランドの『迷える霊との対話』であろう。その中でウィックランドは、遊び半分でプランセットなどで受信しているうちに憑依され、発狂状態になった例や、幸せそのものの家庭を羨んだ霊に憑依されて母親が発作的に首つり自殺した話などを挙げて注意を喚起している。本章の一問一答を訳しながらそのことを思い出したが、本章で触れられていないタイプの憑依現象として、迷い歩いているうちに人間のオーラに引っ掛かり、それが進行して、その霊の欲求や思念が脳に反応するようになり、いわゆる二重人格・多重人格になってしまうというケースがある。憑依されやすいタイプの場合には十人、十五人と、信じられないほどの数の霊がオーラに入り込んでいることがある。そういうタイプの憑依もあることを知っておく必要があろう。


第14章 霊の身元と霊格の問題
一、生前の身元の証明はどこまで可能か

スピリチュアリズムの難問の中でも霊の地上時代の身元ほど異論の多い問題はない。その原因は、問題の性質上、確実な証拠とすべきものが霊側から提供できないということ、そしてまた、時として適当な氏名を名乗る霊がいるということである。

そうした理由から、霊の身元の確認は憑依現象に次いで、スピリチュアリズムの現象面における難題の一つである。もっとも、身元が絶対に間違いないか否かは二次的な意味しかなく、実質的な価値はほとんど無いということを念頭に置いておく必要がある。とくに高級霊になると尚さらである。なぜか。

霊は、霊性が純化されてそれ相応の界層へと向上進化して行くにつれて、本来の個性は変わらないが、言うなれば霊的資質の完成度の均一性において、互いに融合していく。我々が“高級霊”と呼んでいる段階がそうであるが、さらに進化した“純白霊”になると尚さらで、その段階にまで至った霊について、それまでに数知れず体験したであろう物的生活(地球以外の天体上の生活も含めて)の一つに過ぎない地上時代の姓名などを詮索しても意味はないであろう。

さらに留意すべきことは、霊はその霊性の親和性によって互いに引き合い引かれ合って一つの大きな霊的集団ないしは霊的家族(類魂団)を構成する。そうなると、我々人間との交信において、我々が知っていると思われる名前をその同族の中の誰かから借用して間に合わせることをする。

と言うのも、無数にいる同族霊の中には人類の歴史にその名を残している者よりも、まったく知られていない者の方が遥かに多い。その“無名”の高級霊が人間と交信をして高等なメッセージを送る時に氏名を述べる必要が生じたとしよう。その時まったく知られていない氏名を名乗っても意味がない。そこでそのメッセージの内容に相応しい名前を選んで使用するのである。

従って、かりに誰かの守護霊が“聖ペテロ”と名乗っても、それは必ずしもキリストの使徒だったあのペテロであるとは限らないのである。もしかしたら人類には全く知られていない人物で、今はあのペテロが属している霊団の一人なのかも知れないのである。

その場合、こちらから何という名で呼び出してもその霊が出てくるであろう。と言うのは、霊との交信はあくまでも“思念”で行われるので、ペテロと呼ばれようがパウロと呼ばれようが、その霊が出てくる。すでに交信状態が出来あがっているからである。それゆえ高等な通信に関するかぎり、その通信霊が地上時代に誰であったかは意味がないのである。

それが地上を去ってあまり年月が経っていない霊、つまり地上感覚から脱け切っていなくて記憶も習性もあまり変化していない霊となると、警戒すべきことが二つある。

一つは、そういう霊が歴史上の大人物や神話・伝説上の神仏の名を騙(かた)る場合、もう一つは、肉親や友人・知人の声色や話振りを真似て、人間を喜ばせたり感激させたりして面白がるケースである。

そうしたケースでその霊の身元を確認する方法の一つは、「神に誓ってそのお名前に偽りはございませんね?」と尋ねてみることである。中には平然と振る舞う曲者もいるが、大抵はすぐに怒り出すか、自動書記であれば用紙を破ったりエンピツを放り投げたりする。また平然とした態度を装う者に対しては、その述べるところに矛盾撞着がないかを見極めて、その点を突っ込んでいくことである。たとえば――

ある自動書記でいきなり「私は神(ゴッド)である」と名乗ってきたことがあった。霊媒は嬉しくて、一も二もなく信じた。そこでその霊を霊言霊媒を使って招霊して、さきほど述べたように

「神に誓って神様であることに偽りはございませんね?」と尋ねたところ、少し動揺した様子を見せ、

「神様であるとは言っておらぬ。神の子である」と言い出した。そこで

「では、イエス様でいらっしゃるわけですか。神に誓ってイエス・キリストであることに偽りはございませんね?」と聞き返すと、さすがに畏れ多いと思ったのか、

「イエスであるとは言っておらぬ。神の息子だと言っているまでである。なんとなれば神に創造されたものだからである」と、わけの分からぬことを言ってきた。

低級霊の集団には、世界各地の交霊会に出没しては、出席者と縁故のある霊の声色を使ったり話し方を真似て、感激的な再会の場面を演出することを得意とする者がいる。その場合、名前や住所、家族名などを確かめても何にもならない。その程度の情報なら低級霊にも簡単に入手できるからである。

また証拠などが得られない高級霊の場合の身元の判断の材料は、名乗って出てくる名前や歴史上の史実ではなく、“言っていること”そのものの内容である。

二、霊格の程度と正邪の見分け方

霊の身元の証明は多くの場合、とくに高級霊の場合は二次的な問題でほとんど意味がないとしても、その霊が善霊か邪霊か、高級か低級かの判断はきわめて重大な問題である。というのは、その述べるところが一体何という名の霊からのものであるかは、事情によってはどうでもよいことであるが、その内容つまり何を述べているかということは、それを送ってくる霊の信頼度を計る唯一の手掛かりとなるからである。

今も述べたように、通信霊がいかなる霊格の持ち主であるかは、人間の人格を推し量る時と同じように、その言っていることによって判断しなくてはならない。かりに見知らぬ人々から二十通の手紙が届いたとしよう。その一通一通について文体と内容その他、こまごまとした特徴から、どの程度の人物からのものであるかは大よその見当がつくはずである。

霊からの通信についても同じことが言える。一度も会ったことのない霊からメッセージを受け取ったら、その文体と内容から大よそどの程度の霊格の持ち主であるかの見当をつけるべきで、立派そうな名前のサインがしてあるからというだけで有頂天になってはいけない。霊格はその言葉に表れる――これは間違いない尺度であって、まず例外は有り得ないと思ってよい。

高級霊からのメッセージはただ内容が素晴らしいというだけではない。その文体が、素朴でありながら威厳に満ちている。低級霊になると、やたらに立派そうな派手な用語を用いながら、訴える力がこもっていない。

用心しなければならないのは、知性である。ふんだんに知識をひけらかしているからといって高級霊と思ってはならない。知性は必ずしも徳性ないし霊性の証明ではないのである。非常に霊性の高い霊でも哲学的には深いことを語らないことがあるし、博覧強記で、知らないものはないかに知識を披露しても、霊格の低いことがある。

そうしたことから推察できる事実として、通信霊が地上時代に著名な科学者だったからといって、その後もその分野でますます高度の知識を蓄えているとは限らないことである。霊性の発達が遅れているために相変わらず地上的波動から脱け切れず、地上時代に名声を博した理論をいつまでも後生大事にして、それが進歩の足枷となっていることに気がつかない。

もちろん全ての科学者がそうだと言うつもりはない。ただ、これまでにそうした霊を数多く招霊しており、地上時代の名声は必ずしも霊性の高さの証明とはならないことを指摘しておくまでである。

繰り返すが、霊的通信を受け取った時は、内容的に見て理性と常識に反するものはないか、文章や言葉に品位があるか、偉ぶったところや尊大な態度は見られないか、といった点を徹底的に検証しないといけない。そうした態度に出られて、もしも機嫌を損ねるようであったら、それは低級霊・未熟霊・邪霊の類いと思って差し支えない。高級霊ないし善霊は絶対に機嫌を損ねないどころか、むしろそうした態度を歓迎する。何一つ恐れる必要がないからである。

一問一答

――通信霊の優劣は何を手掛かりに判断すればよいのでしょうか。

「文章(自動書記の場合)ないし言葉づかい(霊言の場合)です。人間の場合と同じです。すでに述べたように、高級霊の述べることには矛盾撞着がなく、全体が善性で貫かれております。善への志向しか持ち合わせないからです。それが高級霊の思念と行為の目的なのです。

低級霊はいまだに地上的感覚に支配されています。その語るところに無知と不完全さがさらけ出されます。知識の崇高さと冷静な判断力、これが高級霊のみの属性です」

――優れた科学的知識は霊格の高さの指標でしょうか。

「そうとは言い切れません。その霊が今も地上的波動の中で生きているとすれば、人間的な煩悩と偏見を留めているはずです。地上を去ってすぐにそうした煩悩を捨て去ることができると思いますか。とんでもありません。こちらへ来ても相変わらず高慢で嫉妬ぶかく、その波動が地上時代と同じように魂を覆っています。

低級霊というのは、ただ単に無知である者よりも、なまじっか知性が発達した者の方が始末に負えないものです。その生半可な知性にずる賢さと高慢とが結合するからです。彼らは大威張りで、怪しむことを知らない人間や無知な人間を標的にして働きかけます。また働きかけを受けた人間もそれを躊躇することなく受け入れます。

無論そうした誤った論説は最終的には真理には勝てませんが、一時的には混乱を引き起こし、スピリチュアリズムの発展を阻害します。霊能者は無論のこと、スピリチュアリズムの普及に携わる人々は、その点をしっかりと認識して、真理と虚偽とを明確に選り分けるように努力すべきです」

――通信霊の中には歴史上に名を留めている聖人や有名人の名を名乗る者が多いのですが、どう対処すべきでしょうか。

「歴史に名を残している聖人や大人物がいったい何人いるというのでしょう? 通信を送る高級霊の中で地上の人間にその名を知られている者の数は多寡が知れています。知られていない霊の方が遥かに多いのです。地上時代の氏名を聞かれても名乗りたがらない者が多いのは、そのためです。ところが、人間はそれでは承知せず、しつこくせがみます。そこでやむを得ず適当な人物の名を使用することにもなるのです」

――それは一種の“詐称”と見なされるのではありませんか。

「邪霊が騙す目的でそういうことをすれば詐称と言えるでしょう。ですが、高級霊がそういうことをすることは、同じ霊格を持つ霊団の中では許されていることなのです。思想上の同一性と責任の連帯意識があるからです」

――そうなると、霊団の一人がたとえば“聖パウロ”だと名乗っても、あのキリストの使徒のパウロだとは限らないということですか。

「その通りです。自分の守護霊は聖パウロだと言われた人が何千何万といる事実を見れば分かるはずです。が、霊格がパウロと同じ程度であれば名前はどうでもいいではありませんか。ですが、あなた方はすぐに地上時代の名前を知りたがります。そこで霊の方では適当な名前を選んで、それを自分の“呼び名”にするのです。それはちょうど地上の家族が同じ姓のもとで呼び名をつけて区別にするのと同じです。時にはラファエルとかミカエルといった大天使の名をつけて、問題が生じない範囲で用いることもあります。

さらに言えば、霊格が高まれば高まるほど、その影響力の及ぶ範囲も広がります。そこで、一人の高級霊が地上の何百何千という人間の面倒を見ることもあります。地上には弁護士というのがいて何十人何百人という人の世俗的問題の処理に当たりますが、それと同じと思えばよろしい。霊的な側面から面倒を見るわけです」

訳注――マイヤースの“類魂説”でいうと、類魂団の親に当たる“中心霊”がいて、それが幾つでも分霊を出して地上その他の天体に生みつけ、その一人一人を類魂の中の誰かに面倒を見させるという。中心霊が全体を統括しながら個々の人間にも守護霊を付けているようである。「一人の高級霊が地上の何百何千という人間の面倒を見る」というのは“統括している”という意味に取るべきであろう。

――通信霊が聖人の名を使うことが多いのはなぜでしょうか。

「通信を受け取る側の人間の信仰上の慣習に合わせて、最も感銘を与えやすい名を選びます」

ブラックウェル脚注――聖人に列せられている名を使うのはカトリック系の国に多く、プロテスタントの国では歴史上に名を残した人物や科学界の著名人の名を用いる傾向がある。

――高級霊は招霊されると自ら出てくるのでしょうか、それとも代理の者を差し向けることもあるのでしょうか。

「出られる場合は自ら出ます。出られない場合は代理の者を送ります」

――その代理の霊は高級霊の代理として申し分ないだけの資格を身につけているのでしょうか。

「高級霊が自分の代理として選ぶのですから、十分にその資格をそなえた者にきまっています。さらに言えば、霊格が高まるほど霊団内の思想に緊密度が増しますから、その中の誰が出ても大して変わりはないのです。

お聞きしていると、地上の歴史に名を残している人物でないとその通信に価値がないかに思っておられる節がありますね。どうやらあなた方は、自分たち地上の人間だけがこの宇宙の住民であるかのように思い込み、そこから先が見えないようですが、そんなことでは、まるで孤島で暮らしている原始人と同じで、その島が全世界であると思い込んでいるようなものです」

――重大な内容の通信の場合であれば異論はありませんが、低級霊が道を誤らせるような内容の通信を送ってくる時に聖人の名を騙るのをなぜ高級霊は許すのでしょうか。

「別に許しているわけではありません。地上と同じで、そういう騙しの行為をした霊は罰せられます。それは確かです。そして又、その騙しの悪辣さに応じて罰が酷しくなることも確かです。

しかし一方、もしもあなた方が完全な人間であれば常に善霊に取り囲まれていることでしょうが、万が一騙された時は、それはあなた方がまだまだ不完全であることの証左であると受け取るべきでして、その場合の責任は人間側にもあることになります。

そういう事態が生じるのは、一つには天の配剤としての試練であり、また一つには真実と虚偽との見分けが必要であることを教えることによって啓発するためでもあります。それでも啓発されなかったら、それはあなた方の霊性が十分に進化していない証拠であり、まだまだ失敗による教訓を必要としていることを物語っています」

――霊格はあまり高くなくても真理の普及と向上心に燃える霊を、通信法の練習の機会を与える目的で、本来の高級霊に代わって出させることはありますか。

「スピリチュアリズムの大計画に基づく交霊会では絶対にそのようなことはさせません。もともとそうした重大な交霊会に出現する高級霊は自らその難しい仕事を買って出るものだからです。中には霊格は高くても、たとえば自動書記であれば“書く”という練習も兼ねることがあり、霊媒の知識の不足もあって、最初のうちは通信内容が粗悪である場合が少なくありません。が、プライベートな内容の通信の場合を除いて、代理の者に書かせることはしません」

訳注――本書の二十年後に出たモーゼスの『霊訓』では、レクターその他の複数の霊が最高指揮霊インペレーターの“書記”をつとめている。また、さらに五十年後に出現したシルバーバーチはインディアンをマウスピースとして使用している。時代とともに変遷しているようである。

――お粗末きわまる通信の中に時としてびっくりするような名文が出てくることがありますが、この不合理をどう理解すべきでしょうか。霊格の異なる複数の霊が入れ替わり立ち替わり書いたように見受けられるのですが……

「低級霊ないしは無知な霊が大した内容もない文章を綴ることがあります。地上でもそうではないでしょうか。文筆家がみな立派な人ばかりとは限らないのと同じです。が、その程度の霊と高級霊とが共同で書くようなことはしません。高級霊からの通信には一貫して崇高さが窺われます」

――霊が間違ったアドバイスをして、それがもとで人間が誤りを犯した場合、そこには必ず意図的な作為があるのでしょうか。

「そんなことはありません。善意に満ちた霊でも真理に無知なことがあり、真実と思い込んで間違ったアドバイスをすることがあります。ただし自分の誤りに気づくと、それからは用心して間違いない範囲に限るようにします」

――間違った内容の通信を送ってくる場合、良からぬ意図に発しているのでしょうか。

「これもそうとは言い切れません。霊でもよく軽はずみなことを述べてしまうことがあるものです。誤解しているわけでもなく、これといった意図があるわけでもないのですが、明確に理解していないことをいかにも分かっているかのごとき態度でまくし立て、煙(けむ)に巻くことがあります」

――霊が声色を使ったり話し方を真似たりすることができるとなると、姿を偽装することによって霊視能力者をごまかすこともできるのでしょうか。

「そういうことが時おりあります。しかし霊言や自動書記でごまかすよりも難しく、しかも高級霊による配慮で、その霊能者を戒める目的で特別に雇われた霊だけに許されることです。その場合、霊自身は高級霊に雇われていることには気づきません。また霊視能力者もそうした軽薄な低級霊が見えてもごまかされていることには気づきません。霊聴能力で話を聞き取り自動書記で綴るのと同じことです。いたずら霊はそうした霊媒能力を逆手に取って偽装した姿を見せるのですが、それが可能かどうかは霊能者自身の霊性の程度に掛かっています」

――騙されないようにするには真面目な心掛けが肝心なのでしょうか、それとも、どんなに真面目な真理探求者でも騙されるものなのでしょうか。

「真面目であればあるほど騙されることが少ないということは言えます。しかし、いかなる人間にもどこかに弱点があり、それが邪霊につけ入らせることになります。本当は弱いくせに自分では強いと思っている人がいます。自惚れや偏見はないと思っている人でも、自分で気づいていないだけの人がいます。霊能者はそうした点を十分に反省せずに霊的な仕事に携わるために、そこがいたずら霊のつけ入るスキとなります。自惚れや偏見を煽ればいい気になって、思うツボにはまることを彼らは知っているのです」

――なぜ神はそういう邪(よこしま)な下心をもつ霊が人間に通信を送ることを許すのでしょうか。

「いかに邪悪な霊からの通信にも教訓を垂れるという目的がもくろまれているのです。そこから教訓を引き出し、それを有益な体験としていくことです。正邪を区別し、それを鏡として自分を映して反省するために、ありとあらゆる程度と種類の通信に当たってみる必要があるのではないでしょうか」

――霊は通信の中に邪な猜疑心を煽るようなことを含ませて、サークルを仲違いさせるようなこともできるのでしょうか。

「根性のひねくれた妬み深い霊は、地上の悪人がするのと同じあらゆる悪事を企むことができます。常に油断を怠らないようにする必要があります。

高級霊が人間に仕置きをする時は、慎重さと節度を弁えた上で行います。決して非難のつぶてを投げるようなことはしません。警告はしますが、そこに優しさがあります。仮に二人のメンバーが今は会わない方がいいと判断した時は、会えなくなるような事情を生じさせて会わないようにします。トラブルや不信を生じさせるような通信は、どんな立派な署名がしてあっても、邪霊の仕業と思って間違いありません。ですから、メンバーの中の誰かを揶揄(やゆ)するようなことを述べている時は用心しないといけません。そして自分自身を厳しく反省し、偏見のないように心掛けることを忘れてはなりません。

霊界通信に関するかぎり、知性と良心に悖(もと)ることのない、上品で寛大で合理的な内容のものだけを受け取ることです」

――それほどまでに邪霊・悪霊がつけ入りやすいとなると、霊界通信はどれ一つとして安心して受け取れないことになりそうですが……

「その通りです。だからこそ理性という判断力が与えられているのです。仮に一通の手紙を読んだ時、それが悪逆非道の人物からのものか、育ちの良い人物からのものか、教養があるかないかは、一読しただけで分かるはずです。霊からの通信も同じです。

遠く離れた古い友人から久しぶりに便りが届いたとしましょう。それが間違いなくその友人からものであることをどうやって確認しますか。筆跡と内容で、とおっしゃるかも知れません。が、筆跡を真似たりプライベートなことを覗き見する者はいくらでもいます。が、直観的判断で間違いなくあの友人だと確信させる何ものかがその文面にはあるはずです。霊界通信も同じです」

――高級霊がその気になれば、邪霊が偽名を使うのを阻止できるのではないでしょうか。

「もちろんできます。が、邪悪性が強い者ほど、その執拗性も強く、しつこく抵抗して容易に止めようとしません。それに、こういうことも知っておいてください。高級霊はその判断力でもって、成り行きに任せる場合と全力をあげて守る場合とがあります。高級霊が全力で守護する場合はいかなる邪霊も無力です」

――そういう差別をする動機は何でしょうか。

「差別ではありません。公正です。言うことを素直に聞いて向上を心掛ける霊能者にはそれに相応しいことをします。言わば高級霊のお気に入りであり、いろいろと援助します。口先だけ立派なことを言いながら実行の伴わない者には、高級霊はまず構いません」

――高貴な人物の名を騙るという冒涜行為を神はなぜ許すのでしょうか。

「そういう質問をなさるのなら、なぜ地上にはウソつきや不敬を働く者がいるのかを質問なさるがよろしい。人間と同じく霊にも自由意志があるのです。そして神の公正は善行についても悪行についても、きちんと働きます」

――そういう邪霊を(悪魔払いのような)儀式で追い払うことはできませんか。

「儀式はあくまでも形式的なものです。大霊を志向した真摯な思念の方が遥かに効果があります」

――ある霊が、自分たちには誰にも真似のできない図形的な標章をこしらえることができると言い、それを用いることによって絶対的な確実性をもって高級であることを証明できると言うのですが、本当でしょうか。

「高級霊であることの標章は説くところの思想とその言葉の崇高性以外にはありません。図形的な標章ならどんな霊にでも似たものを作ることができます。低級霊が幾ら悪知恵を働かせても、その素性を隠すことはできません。幾らでもボロを見せているのですが、それでも騙される人間はよほど物を見分ける目がないとしか言いようがありません」

――低級霊は高級霊の思想まで真似ることができるのではないでしょうか。

「できるといっても、それは映画のスクリーンに映る大自然の風景がまがいものであるのと同じ程度のものです」

――注意して観察すれば化けの皮はすぐに剥がれるということでしょうか。

「そうですとも。騙される人間は自ら騙されることを許しているのです。低級霊が騙すのはそういう人間だけです。本物かニセ物かを見分けるには宝石商のような鑑識眼を持たないといけません。自分で見分けられない時は鑑定家のところへ持って行って見てもらうことです」

――勿体ぶった言説に簡単に参ってしまう程度の人間、つまり思想よりも美辞麗句に弱い人間は、反対に崇高なものは陳腐で下らぬものと見誤りがちです。こうした人間は、霊どころか、人を見抜く目も持たないと思えるのですが、どうしたらよいでしょうか。

「その人が本当に謙虚であれば自分の無力さを自覚して、都合のいい判断は下さないはずです。高慢で、自分がいちばん賢いと思い込んでいる人間は、自らその自惚れを生み出す結果を招きます。

純心ではあるが教養に欠ける者と、知識と教養は豊富ではあるが自惚れの強い者とがいるものですが、案外前者の方が騙されることが少ないものです。邪霊は、その自惚れ屋の感情をくすぐることによって好きに操るのです」

――霊能者の中には霊が接近してくる時の雰囲気で善霊か悪霊かの判断をする人が多いようですが、けいれんを伴った興奮状態やイライラといった不快な反応は、間違いなく、働きかけている霊の邪悪性の証拠とみてよろしいでしょうか。

「霊能者は働きかける霊の精神状態を敏感に察知します。霊が幸福感に満ちていれば霊能者も冷静で心も軽やかで穏やかです。不快感を抱いていれば霊能者もイライラしたり興奮したりします。そしてそのイライラは当然霊能者の神経組織にも悪影響を及ぼします。人間と同じです。心に何一つやましいところがなければ沈着冷静です。腹に一物ある人間は落ち着きがなく、とかく興奮しがちです」

第15章 “招霊”にまつわる様々な問題
訳注――本章は英語でEvocation(エボケーション)となっている。英和辞典を引いてみられると分かるが、語源的には霊にかぎらず記憶や感情などを呼び起こしたり呼び覚ましたりすることで、スピリチュアリズムでは霊を霊媒に乗り移らせて語らせる、いわゆる“招霊会”をさす。

が、そうした概念は人間側の受け止め方であって、霊側としては祈りなどに感応してその人の身辺に来る場合や生者の霊、つまりすでに再生している人間が幽体離脱して出現する場合も念頭にあるようである。カルデックは前置きで低級霊の場合と高級霊の場合とを区別して詳しく論じているが、煩雑すぎる嫌いがあるので割愛した。日本語では招喚・招請・招聘といった用語が居ながらにしてその違いを適確に表現してくれているので便利である。

この招霊ないし降霊の行事は世界でも日本が遥かに先輩格であると断言できる。大嘗祭などにも純粋な形で取り入れられている。もちろん世界各国で太古からあったが、西洋ではキリスト教が広まってからは忌み嫌われ、魔女狩りなどの原因ともなった。キリスト教には死者の霊は最後の審判の日まで墓地で眠っているという信仰があり、それを無理やり呼び起こしてはいけないとの信仰からで、キリスト教によるスピリチュアリズムへの弾圧はすべてそこから発したと言ってもよいほどである。

しかしその信仰が間違っていることが明らかになった今日では西洋でもよく行われるようになり、ウィックランドの『迷える霊との対話』に見られるような地縛霊の救済活動の一環として、霊界側の主導のもとに行われているものもある。

一方、安直に霊を呼び出してお告げを聞いたり自動書記などを受け取っているサークルが、日本でも西洋でもずいぶんあるようである。が、前にも述べたように、スピリチュアリズム活動の一環として霊団の守護と指揮のもとに行われているもの以外は極めて危険であることを、本章の一問一答からしっかり理解していただきたい。


一問一答

――霊は霊能者でなくても呼び出すことができますか。

「誰にでもできます。客観的に姿を見せることはできなくても、ちゃんと近くにいて、あなた方の要望を聞くことができます」

――呼ばれたら必ず出るものなのですか。

「それはその時の霊の置かれている条件によって違ってきます。出たくても出られない事情もあります」

――出られなくする事情はどんなものでしょうか。

「まず第一に本人に出る“意志”があるかどうかの問題があります。次に、すでに再生している場合であれば、その身体の状態(睡眠中か覚醒中か)が問題です。また、再生にそなえて待機している場合であれば、その使命がいかなるものであるかによります。さらには、通信が許されているのにそれが破棄される場合もあります。

現在の霊性の発達程度が地球レベルより低い場合は、通信したくてもできません。また贖罪界に身を置いている場合は、地上の人間にとって有益と見なされた場合にかぎって高級霊の援助を得て出ることが許されますが、通常は出られません。

要するに呼ばれて出るためにはその世界の霊的発達レベルに相応しい霊性を身につけた者でないといけません。そうしないと、たとえ出てもその世界に馴染みがなく、従って親和力によるつながりが取れません。

もっとも、例外として特殊な使命を帯びている者、あるいは高い霊性を有しながら大きな悪行を犯し、その贖罪のために一時的に下層界へ“追放”されている者が出ることを許されることがあります。その豊富な体験的知識が役に立つからです」

――通信が許されていたのにそれが破棄されるとおっしゃいましたが、どういう理由によるのでしょうか。

「その霊自身もしくは呼び出そうとしている人間のどちらかへの試練ないしは懲罰です」

――この広大な宇宙にあまねく散在する霊や他の天体上で生活している霊が、どうやってこの遠い地球からの呼び出しに応じられるのでしょうか。

「その霊をよく知っている親和性のある他の霊が前もって察知し、あなた方の意図を伝えます。が、その連絡はあなた方には説明できない霊界特有の方法で行われます。霊の思念による伝達は人間には理解できません。強いて言えば、招霊に際してあなた方が発する思念の衝撃波が、どんなに遠く離れていても一瞬の間にその霊に届き、それが電気ショックのように意識に伝わります。そこでその霊は注意をその方向へ向けます。地上では“話された言葉を聞く”わけですが、こちらでは“思念を聞く”とでも表現しておきましょうか」

――地上では空気が音の媒体をしているわけですが、そちらでは普遍的流動体(エーテル)が思念の媒体をしていると考えてよろしいでしょうか。

「いいでしょう。ただ違うのは、音が伝わる距離には限界がありますが、思念には限界がない――無辺際だということです。招霊される霊というのは、言うなれば、広大な平原を旅している時に突如として呼び止められて、その声のする方向へ足を向けるようなものです」

――霊にとって距離が問題でないことは知っております。ですが、招霊会で時おり驚くのは、呼び出すと同時に、あたかもあらかじめ呼ばれることを承知していてそこに待機していたかのように、間髪を入れず出現することです。

「招霊されることが予知されていた時にはそういうことがあります。前にも述べたように、霊によっては招霊されることをあらかじめ察知していて、正式に呼ばれた時にはすでにその場にいるということがよくあります」

――呼び出す人間の思念は、事情にもよるでしょうけど、その霊に簡単に届くものでしょうか。

「もちろんです。両者の関係が霊的に親和性ないし好感度が高い場合はインパクトが強くなります。親しみ深い声のように響きます。そういうものがない時は“流産”することがあります。霊的摂理にのっとった形で行われた招霊の思念は見事にその霊に突きささりますが、ぞんざいに行われたものは宇宙空間に消滅してしまいます。皆さんでもそうでしょう? ぞんざいな、あるいは無礼な呼びかけられ方をされたら、声は聞こえていても、耳を傾ける気にはならないでしょう」

――お呼びがかかった霊は自ら進んでそれに応じるのでしょうか。それとも仕方なく出てくるのでしょうか。

「高級霊は常に大霊の意志、つまり宇宙を支配する摂理に従います。ただ、“仕方なく”という言い方は適切ではありません。出るべきかどうかの判断を自ら下しますし、そこに自由意志があります。高級霊でも、自分が出ることに意義があると判断すれば必ず出ます。面白半分に呼ばれた時は絶対に出ません」

――要請を拒否できるということでしょうか。

「当然です。もし拒否できないとしたら自由意志はどうなりますか。宇宙の全存在が人間の命令に従うべきだとでも思っていらっしゃるのですか。呼ばれる側の立場にご自分を置いてごらんなさい。名前を呼ばれたらいちいち出なければならないとしたらどうなります? 私が今、霊は要請を拒否できる、と申し上げたのは、人間側の勝手な要請のことであって、出るべきでありながら拒否するという意味ではありません。低級霊が招喚された時は、たとえ嫌がっても、高級霊が強制的に出させます」

訳注――“強制的に出させる”といっても、その関係は高級霊と低級霊との関係だけで成立するものではなく、招霊会の司会者(さにわ)の霊格・霊力がカギとなる。

私は師の間部詮敦氏のもとでさまざまな霊の招霊に立ち会ったが、ワルの親玉みたいのが出た時は恐怖心を覚えたので今でも鮮明に覚えている。霊媒は浅野和三郎氏によって養成された宮地進三という方で、真夏のことなので間部氏は浴衣(ゆかた)姿であぐらをかいて、うちわで扇ぎながら気楽な態度で霊と語っておられた。が、いよいよそのワルが出た時は鬼気迫る雰囲気となった。そして開口一番こう言い放った――

「うーむ、お前には参った。とうとう負けたな。これまでは陰に隠れていて見つからなかったが、今度ばかりはやられた。ところで、まずは一杯酒をくれんか」

すると間部氏は姿勢を正して正座し、手を合わせて瞑目し、

「はい、どうぞ」と言うと、霊はさもうまそうにゴクゴクと飲む仕草をした。むろん本物の酒ではなく、意念でこしらえたものだった。そのあと二言三言交わしてから霊団側に引き渡された。

間部氏は昼間に霊査をして招霊する必要のある霊に目星をつけておき、夜中にそうした処置をしておられた。間部氏の霊力が強かったからこそ霊団側も威力が発揮できたのである。


――招霊会の司会者(さにわ)はどんな霊でも強引に呼び出すことができるのでしょうか。

「とんでもない。霊格の高い霊ないしは同等の霊に対してはそういう権限は許されません。が、霊格の低い霊に対しては許されます。ただし、招霊することがその霊にとって有益である場合に限られます。その場合には霊団による援助が得られるということです」

――悪霊・邪霊の類いを呼び出すことは感心しないでしょうか。呼び出すことは彼らの影響下にさらす危険を冒すことになるのでしょうか。

「悪霊・邪霊の類いはただ威張り散らすだけですから、高級霊団の援助のもとに行うのであれば何一つ恐れることはありません。イザとなれば霊団の方で抑え込みます。彼らの餌食になる心配はありません。ただし、たった一人で行う時、あるいは出席者がいても初心者ばかりの時は、その種の招霊は控えた方がよろしい」

――招霊会では何か特別の雰囲気をかもし出す必要がありますか。

「高級霊との対話を求める上で何よりも大切なのは、目的の真摯さと集中力です。そして高級霊を招聘する上で最も強力な力となるのは大霊への信仰心と善を志向する熱意です。招霊に先立っての数分間の祈りを通して魂を高揚し、高き界層の霊と感応し、交霊会へお出でいただくよう取り計らうのです」

――信仰心は招霊のための不可欠の条件でしょうか。

「大霊への信仰心は必要です。が、真理探求と霊性の向上を志向する真摯なる願望があれば、それは自ずと信仰心を高めることになり、改めて信仰心を意識する必要はありません」

――思念と動機において一致したサークルでは善霊を呼び寄せる力が増すものでしょうか。

「最高の成果が得られるのは、メンバー全員が慈悲心と善意によって結ばれている時です。人間側の思念と感情の乱れほど招霊を妨げるものはありません」

――交霊会の初めに全員が手を結び合って輪を作るのは効果的でしょうか。

「手を結び合うのは物理的行為であり、思念と感情においてつながっていなければ何にもなりません。それよりも大切なのは、お出でいただきたいと願っている高級霊にその願いを発信する上で、全員が思念と動機において一体となることです。人間的煩悩の一切から解放された真摯な求道者が、互いを思いやる心において一体となって忍耐強く努力する時、どれほど素晴らしい成果が得られるか、あなた方はご存知ありません」

――招霊会の日時はあらかじめ決めて表明しておいた方がよろしいでしょうか。

「その方がよろしい。そして、なるべく同じ部屋で催すことが望ましいです。霊が容易に、そして気持ち良く訪れることができます。出席者の真面目さと同時に志操の堅固さも、霊の訪れと交信を容易にします。霊にも仕事があるのです。不意に呼ばれて、人間の下らぬ好奇心のために仕事を放っておいて出てくるわけにはまいりません。

今、同じ部屋が望ましい、と言いましたが、それにこだわる必要はありません。霊はどこへでも行けます。私が言いたかったのは、招霊のために用意した一定の部屋の方が、集まるメンバーの意念の集中が得られやすいということです」

――魔よけとかまじない札を用いる人がいますが、こうしたものに善霊を引き寄せたり悪霊を追い払ったりする力があるのでしょうか。

「今さらそのような質問をなさることもないでしょう。物には霊に対して何の影響力もないことくらい、ご存じのはずです。少し気の利いた霊ならそんな愚かなことは説きません。お守りの効用は信じやすいお人好しの想像の中にしか存在しません」

ブラックウェル脚注――そうは言ってもお守りの力を信じるということが、霊に対してではなく当人の意念の集中力を助け、結果的には招霊の力を増すことになるとも考えられるのではなかろうか。

――霊によってはひどく陰湿な場所や、なぜこんな時刻にと思われる時刻を指定してくることがあるのですが、これはどう理解したらよろしいでしょうか。

「人間を困惑させて喜んでいるにすぎません。そういう注文に応じるのは無意味であると同時に、時には危険でさえあります。無意味というのは、担がれるだけで何も得るものがないこと。危険というのは、霊から何かをされるという意味ではなく、そういう理不尽な指定をされることによって、あなた方の脳に悪影響が及ぶからです」

――霊を招くのに都合の良い日にちや時刻というのがあるのでしょうか。

「物質界の条件で霊にとって重要なことというものは何もありません。日にちや時刻に影響力があるかに考えるのは迷信です。最も都合のよい日時というのは招霊する側(司会者と出席者)に日常的な雑念がなく心身ともに平静な時です」

――そもそも招霊というのは霊にとって有り難いことでしょうか、迷惑なことでしょうか。呼ばれると喜んで出てくるものでしょうか。

「それはその招霊会の性格と動機しだいです。気高い意義のある目的のためのもので、出席者やその場の波動に親和性を感ずれば、気持よく出てくるでしょう。霊の中にはそれを楽しみに待っている者もいるのです。というのも、死後、人間界から見捨てられた気分で悲嘆にくれている者が多いからです。

ですが、前にも述べたことですが、全ては本人の性格によります。人間嫌いもいます。そういう霊はたとえ出てきても不快をあらわにするでしょう。とくに見ず知らずの人間から呼ばれたら、まともには相手にしません。出なければならない理由がないからです。とくに好奇心から招霊された時は、たとえ出ても直ぐに帰るか、初めから出ないこともあります。自分が出ることに何か特別な意義でもあれば別ですが……」

――招霊されて喜ぶのは善霊と邪霊のどちらでしょうか。

「邪霊というのは人間を騙して操る目的で自分から出るもので、招霊されることは喜びません。悪行をとっちめられるのではないかと警戒するからです。ちょうどイタズラをした子供が隠れて出てこないように、呼ばれてもしらばっくれています。が、高級霊が折檻と向上と人間への教訓を目的として強制的に招喚することがあります。

下らぬ目的のための招霊会には高級霊は出たがりません。まったく出ないか、たとえ出ても直ぐさま引き上げます。皆さんでも同じと思いますが、遊び半分の好奇の対象とされることを嫌います。人間は、あの霊はどんな話をするだろうか、地上でどんな生活をしたのだろうかといった、余計なおせっかいと言いたくなるようなことを聞くために霊を呼び出そうとしますが、考えてもごらんなさい。まるで証人席に立たされて尋問されるような立場に置かれるのを快く思うでしょうか。少し目を醒ましていただかないと困ります。地上でされることが嫌なことは霊になっても嫌なものです」

――霊は招かれないかぎり出ないものでしょうか。

「そんなことはありません。霊は呼ばれなくてもしばしば来ております。自らの意志でです」

――自ら進んで出る場合は、その述べる身元も信じられるのでしょうか。

「とんでもない。邪霊はしばしばその手を使います。人間を騙しやすいからです」

――霊を呼び出すのは思念で行うわけですが、自動書記とか霊言その他の現象はなくても来ているのでしょうか。

「現象は霊の実在の証しにすぎません。呼び寄せるのは思念です」

――出てきたのが低級霊だと判明した時、引き下がってもらうにはどうすればよいでしょうか。

「取り合わないことです。ですが、そもそもそういう低級霊につけ入られるような愚かなことをしていながら、それに感応して出てきた霊がどうして簡単に引き下がりましょう? 人間界と同じで、魚心あれば水心です」

――神の御名のもとに招霊すれば邪霊の出現は防げるでしょうか。

「全ての邪霊に通用するとはかぎりません。神の御名の響きでたじろぐ者はかなりいるでしょう。信仰心と誠意をもって唱えれば低級霊は逃げますし、それに強烈な信念が加わればさらに効果的でしょう。ただの紋切り型の呪文を唱えるだけではだめですが……」

――名前を呼ぶことによって複数の霊を同時に招霊できますか。

「別に難しいことではありません。またもし三人ないし四人の自動書記霊媒がいれば同時に三人ないし四人の霊からのメッセージが綴られるでしょう。数人の霊媒を用意しても同じことができます」

――複数の霊を招霊し、霊媒は一人という場合、優先順位はどうなるでしょうか。

「霊媒との親和性がいちばん高い霊が代表して総合的な内容の通信を書きます」

――逆に一人の霊が同時に二人の霊媒を通して自動書記通信を送ることができますか。

「地上でも複数の書記に同時に書き取らせることができるのと同じです」

―― 一人の霊が複数の場所から同時に招霊された場合、同じ質問に同時に答えることができますか。

「できます。高級霊にかぎりますが……」

――その場合、霊は自分を分割するのでしょうか、それとも同時にどこにでも存在する能力があるのでしょうか。

「太陽は一つです。が、その光を全方向へ放射し、桁外れの距離まで届きます。霊も同じです。高級霊から発した想念は閃光のようなもので、一瞬のうちに全方向へ飛散し、どこにいても感得されます。霊性の純粋度が高ければ高いほど遠くまで届き、幅広く飛散します。低級霊は物質性が強いためにそうした能力はなく、一度に一人の質問にしか答えられません。別のところに招霊されている時は出られません。

なお、高級霊が同時に二つの場所から呼ばれた時、双方の霊媒の真摯さと熱意が同等であれば双方に出ますが、大きな差があれば、より真摯で熱意の強い方に出ます」

――再生の必要がなくなった超高級霊でも出てくださいますか。

「出ます。しかし滅多にないものと思ってください。よほど純粋で真摯な心の持ち主としか語り合いません。高慢さや私利私欲が目立つような人間とは絶対に語り合いません。ですから、大変な高級界からやってきたかのような言説を軽々しく吐くような霊にはよくよく注意が肝要です。低級霊ですから」

――歴史上の大変な著名人がいたって平凡な人間の招きに応じて簡単に、そして気さくに出てくるのはどう理解したらよいでしょうか。

「人間はとかく霊を人間的尺度で評価しがちですが、それは間違いです。地上時代の地位は肉体の死とともに消滅します。残るのは善性だけです。そして人間を見る尺度も、同じく霊的な善性のみです。善霊は善が行われる所ならどこへでも赴きます」

――死後どれくらいたつと招霊できるのでしょうか。

「死の直後でもできないことはありません。ですが、霊的意識が混乱していますから、まともな対話はできないでしょう」

――ということは死後しばらくしてからの方が良いということでしょうか。

「大体においてそうです。死の直後は眠りから覚めたばかりの人間に語りかけるようなものです。ですが、別に問題ないケースもあります。むしろ招霊して語りかけてやった方がその意識の混乱状態から脱け出るきっかけとなることもあります」

――死ぬ前は自我意識さえ覚束なかったほどの幼な子が、招霊してみるとしっかりとした知性をそなえていることがあるのは、どうしてでしょうか。

「幼児の魂といっても魂そのものが幼いわけではなく、肉体という産着(うぶぎ)でくるまれているために幼く見えるだけです。死によってその束縛から放たれると、本来の霊としての能力を取り戻します。霊には年齢はありません。幼児の霊が大人のような知性で対話に応じることができるということは、その霊はかつて大人にまで成長した前世があるということを意味します。もっとも、死後しばらくは幼児としての個性をいくらか留めてはいるでしょう」

編者注――死の直前までの状態が死後しばらく尾を引くのは、精神病患者にも見られる。霊そのものは異常ではないのであるが、正常な人間と同様に死んだことに気づかずに地上的波動の中で過ごしているので、精神が正常な働きを取り戻せないでいることがある。その反応は精神病の原因によってさまざまであるが、中には死の直後から完全な精神機能を取り戻す人もいる。

――動物の霊を呼び出すことができますか。

「動物を生かしめている知的原理は、死後“潜伏状態”とでもいうべき状態に入ります。が、それも一時期で、すぐに担当の霊団によって新たな存在の知的原理として活用されます。このように、動物の霊には人間のような、次の再生までの反省期間はありません。これでご質問の答えになると思います」

――すると動物を呼び出して対話をしたという話はどうなるのでしょうか。

「岩の霊でも呼び出してみられるがよろしい。ちゃんと対話をしてくれます。が、それは岩の霊ではありません。いたずら霊です。霊はそこらじゅうにウヨウヨしているのですから、すぐに出て誰の真似でも何の真似でもします」

編者注――同じ理由から、神話上の人物や架空の人物が出てしゃべったというのも、いたずら霊の仕業のようである。

――霊が再生してしまうことは招霊にとって致命的障害ですか。

「そんなことはありません。しかし、招霊された時の肉体が霊にとって離脱しやすい状態であることが必要です。再生した天体が進化しているほど離脱しやすいです。進化するほど物質性が希薄になるからです」

訳注――私の師の間部詮敦氏の実兄の詮信(あきのぶ)氏は霊能の多彩さでは詮敦氏を凌ぐものがあり、日常茶飯事に使っておられた。その詮信氏が育てた物理霊媒の津田江山氏の実験会に出席した時、直接談話現象に「間部(まなべ)です」と言って出現して皆を驚かせた。書にも堪能だった詮信氏は用意しておいた三枚の色紙に真っ暗闇の中で見事な文字を直接書記で揮毫されたが、後でお会いした時に「あの時はどちらにおられたのですか」とお尋ねしたら、福岡の自宅で寝ていたとおっしゃった。幽体離脱して出られたのだった。

――この地上で今生活している人間の霊でも招霊できますか。

「できます。今も述べた通り、他の天体上で生活している霊を招霊できるのと同じです。招霊でなくて幽体離脱して物質化して姿を見せることもできます」(七章および八章参照)

――招霊されている時の肉体の状態はどうなっているのでしょうか。

「眠っているか、うたた寝をしています。そういう時は霊が自由に活動しやすいのです」

――霊が留守にしている間に肉体が目を覚ますことができますか。
「できません。もし何らかの事情で起きる必要が生じた時は、霊は強制的に戻らされます。地上生活中は肉体が“我が家”なのですから。それが招霊されて対話中であれば、理由を述べて対話を中断するでしょう」

――肉体から離れていて、どうやって戻る必要性を知るのでしょう?

「離れているといっても完全に分離しているわけではありません。どんなに遠くへ出かけていても流動性の紐(玉の緒)でつながっていて、それが戻る必要が生じたことを知らせます。この紐は死の瞬間まで切れることはありません」

編者注――この流動性の紐は霊視能力のある人にも見える。霊の話によると睡眠中などに霊界を訪れる霊にはこの紐がついているので、それが霊界の霊と区別する目印になるという。

――睡眠中ないし霊の留守中に肉体が致命傷を受けた場合はどうなりますか。

「そうなる前に知らせを受け、即座に肉体に戻ります」

――では、霊の留守中に肉体が死亡し、霊が戻ってみたら“我が家”に入れなくなっていたというような事態は起きないということでしょうか。

「絶対に起きません。もしそんなことが起き得るとしたら、霊と肉体との合体を支配する摂理に反することになります」

――でも、まったく予期せぬことが突如として起きることも考えられませんか。

「危険が差し迫っている時は、そうならないうちに霊に警告があります」

訳注――現実問題として睡眠中に地震などで死亡することがあるのであるから、そういう問題よりも、ここでは“霊と肉体との合体を支配する摂理”について、もう少し突っ込んでほしかったところである。カルデックの質問の主旨はよく分かるが、回答している霊は別の捉え方をしているように思えてならない。

――生者の霊と死者の霊とでは、対話をする上で全く同じですか。

「いえ、肉体につながっている以上、大なり小なり物的波動の影響を受けます」

――呼び出した時点ですでに肉体から離れている時は何か不都合がありますか。

「ないことはありません。たとえば赴いている先から帰りたくない時が考えられます。まして、招霊会の司会者が全く見ず知らずの人間である場合はとくにそうでしょう」

――普通の覚醒状態で生活している人間の霊を招霊するのは絶対に不可能でしょうか。

「難しいですが、絶対に不可能というわけではありません。というのは、招霊の波動が届いて霊が反応すると、急に眠くなって寝入る人がいます。が、基本的には霊が出て対話をする時は、その肉体にとって霊の知的活動が必要でない時にかぎられます」

――睡眠中に招霊された時、目覚めてからその間のことを思い出しますか。

「ほとんどの場合、思い出しません。実を言うとあなた方も、ご自分では記憶にないでしょうが、何度か招霊されているのですよ。が、その記憶は霊の意識に残っているだけです。時には夢のようにおぼろげに意識にのぼることもあるでしょうけど……」

――誰が招霊するのでしょうか。私のような無名の人間を……

「幾つかある前世では結構名の知れた人物だったかも知れませんよ。ということはこの地上ないしは別の天体上で、あなたには記憶はなくても、あなたを知っている人が大勢いるわけです。そういう人が招霊するのです。たとえば前世であなたがこの地上かどこかの天体上にいる誰かの父親だったとします。その人物が今のあなたを呼び出した場合、出て行くのはあなたの霊であり、その霊が対話をするわけです」

――生者の霊が招霊された時、霊として対応するのでしょうか、それとも通常の意識で対応するのでしょうか。

「それは霊性の進化の程度が問題です。ですが、どっちみち通常意識の状態よりは判断力は明晰で地上的偏見による影響は少ないでしょう。というのは、招霊されている時は夢遊病(セミトランス)的状態に似ており、死者の霊と大差はないからです」

――セミトランスの状態で招霊された場合は通常の状態で招霊された時よりも判断力は明晰でしょうか。

「遥かに明晰でしょう。通常よりは物質による束縛が少ないからです。そうした違いは全て霊が物的身体からどの程度独立しているかに掛かっています」

――セミトランスの状態にある霊が招霊されている時に、遠距離にいる別の人から招霊された場合はそれに応じられますか。

「二つの場所で同時に交信する能力は、物的波動から完全に脱した霊しか持ち合わせません」

――妊娠中の胎児の霊の招霊は可能でしょうか。

「不可能です。妊娠期間中の霊は意識が混濁していて、対話はできません」

編者注――霊は受胎の瞬間から活動を開始するが、意識は混濁している。その混濁は誕生が近づくにつれて増幅し、自意識を完全に失った状態で誕生する。

――招霊された霊に代わっていたずら霊が出現することは有り得ますか。

「有り得るどころではありません。しょっちゅうやっています。とくに興味本位でやっている招霊会ではほとんどがそうだと思ってよろしい」

――生者の霊を招霊することに何か危険がありますか。

「危険が全くないとは言えませんが、問題があるとすれば体調です。何か病気があれば招霊によって悪化する恐れがあります」

――絶対にいけないことといえば、どういうことでしょうか。

「幼児、少年少女、重病人、虚弱体質の人、老人――要するに体力の弱い人は絶対に招霊してはいけません」

――ということは、招霊中の霊の活動が身体を疲れさせるのでしょうか。(この質問に対して、実際に招霊された霊がこう述べた)

「私の霊はまるで柱につながれたバルーンのようです。身体が柱で、バルーンにぐいぐい引っぱられて揺すられます」

――生者を不用意に招霊することが危険であるとなると、死者の霊のつもりで呼び出したら、すでに再生していたという場合も害を及ぼすことになりませんか。

「いえ、その場合は条件が異なります。そういう場合の霊は招霊に対応できる者にかぎられます。それに、すでに忠告したはずですが、招霊会を催す時は、あらかじめ霊団側にお伺いを立てないといけません」

――眠くなるはずもない時に急に睡魔におそわれた時は招霊されていることも有り得るわけですか。

「理屈の上ではそういうケースも十分に考えられます。が、実際問題としては純粋に身体上の反応に過ぎないことがほとんどでしょう。つまり身体が休息を求めているか、もしくは霊が自由を求めているかのどちらかです」

――遠く離れた二人の人間がお互いに招霊し合い、想念を交換し合うという形での交信も可能なのでしょうか。

「まさに可能です。そうした、言うなれば“人間電信”が当たり前の通信法となる日が必ず来ます」

――現在ではできませんか。

「できないわけではありませんが、ごく限られた人だけです。地上の人間が身体から自由自在に離脱できるようになるには、霊性が純粋でなければなりません。霊性が高度な発達を遂げるまでは、そうした芸当は一握りの、純粋で物質臭を克服した魂にしかできないでしょう。そうした魂は現段階の地上では滅多にお目に掛かれません」

第16章 霊に尋ねる質問の規範――尋ねてよいこと・いけないこと
(一)一般論として

――霊は、出された質問には喜んで答えるものでしょうか。

「それは質問の内容によりけりです。向上心から出た真剣な真理探求のための質問には、高級霊は喜んで応じるでしょう。下らぬ質問には無関心です」

――真剣な態度で尋ねた質問には真剣な返答が返ってくると思ってよろしいでしょうか。

「そうとばかりも言えません。一つには返答する霊の霊格の程度によって返答の程度が決まるからです」

――真剣な質問はふざけた霊を追い払いますか。

「ふざけた霊を追い払うのは質問ではありません。質問する人間の霊格です」

――真面目な霊にとって特に不愉快な質問とはどんなものでしょうか。

「意味のない質問、あるいは面白半分から出る質問です。取り合わないというよりは、不快感を覚えます」

――反対に低級霊が特に不愉快に思うのはどういう質問でしょうか。

「彼らの無知あるいは狡猾さがあばかれるような質問です。騙そうとしているからです。そういう気遣いのない質問には、本当かどうかに無頓着に、適当に答えます。どんな質問にでも」

――面白半分に霊界通信を求める者、あるいは俗世的利害関係のからんだ質問をする者はどうでしょうか。

「低級霊を喜ばせるだけです。自分たちも面白半分にやっているのであり、人間を手玉に取って好きに操って喜んでいるのです」

――ある質問に霊が答えなかった場合、それは答えたくないからでしょうか、それとも高級霊から止められるのでしょうか。

「両方のケースが考えられます。その段階では教えてはならないことというのがあります。また霊が知らなくて答えられないこともあるでしょう」

――強く求めれば霊も折れて答えてくれることもあるでしょうか。

「ありません。答えてはならないと判断した場合にしつこく求められると、霊は引き上げます。その意味でも、しつこく返答を求めてはいけないのです。真面目な霊は引き上げますから、代わって低級霊がつけ入るチャンスを与えることになるのです」

――人間から出される問題はどんな霊にでも理解できるのでしょうか。

「そんなことはありません。未熟霊には理解できない問題が沢山あります。しかし、だからといって未熟霊が答えないというわけではありません。地上でも、知りもしないくせに、さも知った風な態度で答える人間がいるのと同じです」

(二)未来のことに関する質問について

――霊には未来の予知ができるのでしょうか。

「もしも未来のことが分かってしまうと人間は現在のことを疎(おろそ)かにするでしょう。なのに人間がいちばん知りたがるのは未来のことです! こうした傾向は間違いです。スピリチュアリズムは占いではありません。もし未来のこと、あるいは何か他のことについて断固として求めれば、教えてくれるでしょう。知恵のない低級霊が(高級霊が引き上げたスキをついて出て)適当なことをしゃべるでしょう。これは口が酸っぱくなるほど言ってきたつもりですが……」

――でも、こちらから要求していないのに霊の方から予言して、事実その通りになったということがありますが……

「もちろん霊には未来のことが予知できることがあり、それを知らせておいた方が良いと判断する場合もあれば、高級霊から伝達するように言いつけられる場合もあります。しかし、将来のことを軽々しくあげつらう時は大体において眉唾物とみてよろしい。そういう予言の大半は低級霊が面白半分にやっていることです。予言の信頼度の判断はありとあらゆる事情を考慮して初めてできることです」

――絶対に信じられない予言はどんな場合でしょうか。

「一般の人々にとって何の役にも立たない場合です。個人的なことは、まずもってまやかしと思ってよろしい」

――そういうまやかしの予言をする目的は何なのでしょうか。

「大ていは、すぐに信じ込む人間の習性をもてあそんで、脅かしたり安心させたりして喜ぶだけです。が、時として高級霊がわざとウソの予言をして、どういう反応を見せるか――善意を見せるか悪意を見せるか――をテストすることがあります」

編者注――たとえば遺産がころがり込むといった予言をして、欲の深さや野心をテストする場合などのことであろう。

――真面目な霊が予言をする時に滅多に日時を明確に言わないのはなぜでしょうか。言えないのでしょうか、わざと言わないのでしょうか。

「両方のケースがあるでしょう。ある出来事の発生を予知し、それを警告します。が、それがいつのことかは時として知らせることを許されないことがあり、時として知らせられないこともあります。分からないのです。出来事自体は予知できても、その正確な日時は、まだ発生していない他の幾つかの事情もからんできます。これは全知全能の神にしか分かりません。

そこへ行くと軽薄な霊は人間がどうなろうと一向に構わないのですから、何年何月何日何時何分に、などと好きなことが言えるわけです。その点から言って、あまりに細かい予言は当てにならないと考えてよろしい。

改めて申し上げますが、我々の霊団は人間の霊的向上を促進し、完全へ向けての進化の道を歩むように指導することを使命としているのです。我々との係わりにおいて霊的叡知のみを求めるかぎり、低級霊にたぶらかされることはありません。人間の愚かな欲求や運勢占いに時間を無駄に費やすのにお付き合いさせられるのはご免こうむります。そうした児戯に類することは、そんなことばかりして愉快に過ごしている低級霊に任せます。

そもそも人間に知らしめてよいことには大霊の摂理によって一定の枠が設けられております。その辺の摂理に通じている高級霊は、返答すべきでないことにはあくまでも沈黙を守ります。そうした事情を弁(わきま)えずにしつこく返答を求めることは、低級霊につけ入るスキを与えることになります。彼らは実にもっともらしい口実をこしらえて、人間が有り難がるように話をもっていきます」

――未来の出来事を予知する能力を授かっている人もいるのではないでしょうか。

「います。物質による束縛を断ち切る力を有している人がいて、その状態において未来の出来事を見ることができます。一種の啓示を受けるのです。そしてその啓示が人類にとって有益と見なされれば、公表することを許されます。しかし、そういう人は例外に属します。一般に予言者と称して災害や不幸を安直に予言している人間はイカサマ師でありハッタリ屋だと思って間違いありません。

ただ言えることは、人類の進化とともに今後ますます予知能力が一般化して行くでしょう」

――人の死亡年月日の予言を得意にしている霊がいますが、どう理解すべきでしょうか。

「非常に趣味の悪い霊の集団で、その程度のことで人間を感心させて得意になっている低級霊です。相手にしてはいけません」

――自分の死を予知する人がいますが、これはいかがでしょうか。

「霊が肉体から離れている間に死期が近いことを感知し、それが肉体に戻ってからも意識に残っているケースです。それほどの人になると、その予知によって恐れを抱くことも戸惑うこともありません。一般に“死”と呼んで恐れているものを、ただの“変化”と見なし、譬えて言えば厄介な重苦しいオーバーコートから軽やかなシルクのコートに着替えるのだと考えます。スピリチュアリズムの知識が普及するにつれて死の恐怖は薄らいでいくことでしょう」

(三)過去世および来世に関する質問について

――霊には人間の過去世が簡単に分かるのでしょうか。

「大霊は、時として、ある特殊な目的のために、いくつかの前世を啓示することを許すことがあります。あくまでも、それを知らせることが当人の教化と啓発に役立つと判断された時にかぎられます。そうした場合は必ず何の前ぶれもなく自然発生的に見せられます。ただの好奇心から求めても絶対に許されません」

――では、こちらからの要求に喜んで応じていろいろと語ってくれる霊がいるのはなぜでしょうか。

「それは、人間側がどうなろうと意に介さない低級霊のすることです。

一般的に言って、特に大切な意味もない過去世を物語る時は、すべて作り話と思ってよろしい。低級霊は前世を知りたがる人間が有頂天になるように、前世では大金持ちだったとか大変な権力者であったかのような話をこしらえて語ります。また出席者も、あるいは霊媒も、聞かされた話をすべて真実として受け止めます。その時、当人のみならず霊自身もけちくさい虚栄心にくすぐられて、そんな前世と現世との間に何の因果関係もないことまでは思いが至りません。実質的には大金持ちや大権力者だった前世より平凡な今の方が向上していると考える方が理性的であり、進化の理論に適っており、本人にとって名誉なことであるはずなのです。

過去世の啓示は、次の条件下においてのみ信用性があります。すなわち思いも寄らない時に突如として啓示された場合、まったく顔見知りでない複数の霊媒によって同じ内容のものが届けられた場合、そして、それ以前にどんな啓示があったか全く知られていない場合。これだけの条件が揃っていれば信じるに足るものと言えます」

――かつての自分がいかなる人物であったかが知り得ないとなると、どういう人生を送ったか、また性格上の長所と欠点についても知り得ないことになりましょうか。

「そうとばかりも言えません。知らされる場合がよくあります。それを知ることが進歩を促進すると見なされた場合です。が、およそのことは現在のご自分を分析すればお分かりになるのではありませんか」

――来世、つまり死後また再生して送る人生について啓示を受けることは有り得るでしょうか。

「有り得ません。有り得るかのごとく述べる霊の言うことは全てナンセンスと思って差し支えありません。その理由は、理性的に考えればお分かりになるはずです。次の物的生活は現在の人生での行いと死後における選択によって決まることであって、今から決まっていることではないからです。

概念的に言えば、罪滅ぼしの量が少ないほどその一生は幸せでしょう。しかし、次の物的生活の場(天体)がどこで、どういう経過をたどるかを予知することは不可能です。ただし、滅多にない例外として、重大な使命を帯びている霊の場合はあらかじめ予定が組まれていますから、予知することは可能です」

(四)世俗的問題に関する質問について

――霊に助言を求めることは許されますか。

「もちろんです。善良な霊が、真摯に求めてくる者を拒絶することは絶対に有り得ません。とくに“生き方”に関して真剣に意見を求める場合はそうです。あくまでも真剣でないといけません。実生活ではいい加減な生き方をしながら、交霊の場では真剣な振りをする偽善者は受けつけません」

――プライベートな悩みごとに関してのアドバイスも求めてよろしいでしょうか。

「アドバイスを求める動機と、相手をする霊によっては、許されることがあります。プライベートな悩みごとは普段から親しく係わり合っている指導霊が最も適切です。指導霊は身内のようなものであり、当人の秘めごとにまで通じているからです。だからといって、あまり甘えた態度を見せると引き上げてしまいます。

街角で出会った人に相談を持ちかけるのが愚かであるのと同じで、いくら善良な霊でも、あなたの日常生活について何も知らない霊に助言を求めるのは筋違いというものです。また質問者の霊格と回答霊の霊格とが違いすぎでも、良い結果は得られません。さらに考慮しなければならないのは、いくら親(ちか)しい指導霊であっても、根本的に邪悪性の強い人間には邪霊がついていますから、そのアドバイスも決して感心したものではありません。何らかの体験をきっかけとして善を志向するようになればその霊に代わって別の、より善性の強い霊が指導霊となります。類が類を呼ぶわけです」

――背後霊は私たちの物的利益のために特別の知恵を授けてくれるものでしょうか。

「授けることを許されることがないわけではありません。事情次第では積極的に援助します。が、ただの金儲けや卑しい目的のためには、善霊は絶対に係わり合わないと思ってください。そういう時に積極的に知恵を授けるのは邪霊です。巧みに誘惑して、あとで欺くのです。

ご注意申し上げますが、霊的浄化のために仮にあなたが艱難辛苦をなめる必要があると見た時、あなたの守護霊や指導霊は、それに対処する心構えを支え、あまり過酷すぎる時に少し和らげることはしても、艱難辛苦そのものを排除するようなことは許されていません。それに耐えることこそあなたのためであり、長い目で見た時はその方が良いからです。守護霊というのは叡智と真の愛情をもった父親のようなものです。欲しがるものを何でも与えるようなことはしませんし、為すべきことを避けるようなことも許しません」

――仮にある人が相続の問題の最中に死亡したとします。そして、その人が残した遺産の在りかが判らず、公正な解決のためにはその人から情報を得る必要があるとします。そんな時、その霊を呼び出して聞き出すことは許されるでしょうか。

「そういう質問をお聞きしていると、あなたは死というものが俗世的労苦の種からの解放であることをお忘れのようですね。地上への降誕によって失われていた自由をやっと取り戻して喜んでいる霊が、多分その霊の他界によって遺産がころがり込むと期待している遺族の貪欲を満たしてやるために、もはや何の係わりもなくなった俗事の解決に喜んで出てくると思いますか。

“公正な解決”とおっしゃいましたが、世俗的な貪欲に燃える者のために大霊が用意している懲罰の手初めとして、その貪欲な思惑の当てが外れるということにも公正さがあっても良いのではないでしょうか。

もう一つの考え方として、その人の死によって引き起こされる問題は、それに係わる人々の人生の試練の一つなのかも知れません。そうなると、どの霊に尋ねても解決法は教えてもらえないでしょう。大霊の叡知から発せられた宿命として、その者たちに課せられた宿題なのですから」

――埋蔵された財宝の在りかを教えてもらうのはいけませんか。

「霊格の高い霊はそうした話題にはまったく関心がありません。が、いたずら霊がいかにも霊格が高そうな態度で、在りもしない財宝の話をしたり、実際に隠されている財宝についてはわざと違う場所を教えたりしてからかいます。

そうした行為を大霊が許していることには意味があるのです。本当の財産は働くことによって得るものであることを教えるためです。もしも隠し財宝が発見される時期が来れば、それはごく自然な成り行きで見つかるように配慮されるでしょう。霊が出てきて教えるという形では絶対に発見されません」

――隠し財宝にはそれを監視する霊がついているというのは本当でしょうか。

「地臭の抜け切らない霊がそういうものに執着しているというケースはあるでしょう。守銭奴が財産を隠したまま死亡して、霊界からそれを油断なく見張っていることはよくあります。それが発見されて奪われてしまうことで味わう無念残念は、蓄財の愚かさを教えるための懲罰です。

それとは別に、地中に住んでいる精霊が自然界の富の監理人のように物語られることがあります」

ブラックウェル脚注――カルデックが編纂の仕事を託された通信には霊団側によって大きく制約が設けられていて、この精霊の問題もその一つであった。ここではノームとかコボールドと呼ばれる地の精のことを指している。人類とは別の進化のコースをたどっている精霊で、鉱夫や霊視能力者によってその実在が証言されている。思うに、世界各地の伝説で語られているフェアリーとかエルフとかサラマンダーと呼ばれている“原始霊(エレメンタリー)”も同系統に属するものではなかろうか。

訳注――もう一冊の『霊の書』にもいくつかの質問が出ているが、その回答には、あまり深入りしないように、といった感じの配慮がうかがえ、「それはいずれ明らかにされる日も来るでしょう」と述べている箇所がある。私見ではそれがほぼ半世紀後のコナン・ドイルの『妖精物語』をきっかけとしてジェフリー・ホドソンの『妖精世界』そしてエドワード・ガードナーの『妖精』となって世に出たとみている。以上の三冊の拙訳はコスモ・テンまたは太陽出版から入手できる。

(五)他界後の霊の状況について

――死後どうしているかを尋ねるのは許されますか。

「許されます。ただの好奇心からでなく、思いやる心、あるいは参考になる知識を得たいという願望に発したものであれば、霊は喜んで応じます」

――霊が自分の死後の苦痛や喜びを語ることは許されているのでしょうか。

「もちろんです。そういう啓示こそ地上の人間にとって大切この上ないものです。死後に待ちうける善悪両面の報いの本質が分かるからです。それまで抱いていた間違った見解を破棄して、死後の生命についての信仰と神の善性への確信を深めようとするようになります。(“神の善性”というと“清浄と穢れ”の観念の強い日本人には奇異の感じを与える。私も訳語に抵抗を覚えるが、“神(ゴッド)”と“悪魔(サタン)”の観念の根強いキリスト教国では“神は善”という捉え方が普通であることに配慮したのであろう――訳者)

スピリチュアリズムの真髄が地上の人間の霊的覚醒にあることを忘れてはいけません。また、そのようにして霊が死後の情報を披瀝することを許されるのは、ひとえにその目的のためであり、さまざまな体験から学んでもらうためのものであることを忘れないでください。死後に待ちうける霊的世界の事情にくわしく通じるほど、現在自分が置かれている、思うにまかせない身の上を嘆くことが少なくなるはずです。そこにこそスピリチュアリズムという新しい啓示の真髄があるのです」

――招霊した霊がすでに他界した霊なのか生者の霊なのかが明確でない時、そのことをその霊から聞き出すことは許されますか。

「許されます。ただし、そういうことに興味をもつ人間への試練として、知ろうとしても曖昧のままで終わることがあります」

――もしも他界している霊であれば、自分の死の前後の状況について明確な証拠性のある証言ができるでしょうか。

「死の前後の状況がその霊にとって格別な意味があれば証言できるでしょうが、そうでなければ語りたがらないでしょう」

(六)健康に関する質問について

――健康についてのアドバイスを求めてもよろしいでしょうか。

「地上生活における仕事の成就には健康であることが第一ですから、霊は人間の健康問題に係わることを許されていますし、しかも皆喜んで勉強しています。しかし、何事にも言えることですが、できの良い霊と悪い霊とがいます。できの悪い霊の言うことを何でも信じるのは考えものです」

――地上で医学者として名声を博した霊だったら間違いがないでしょうか。

「地上時代の名声というのは全く当てにならないものです。しかも死後も地上的謬見(びゅうけん)を引きずっていることがしばしばです。死んだら直ぐに地上的なものが無くなるわけではありません。地上の学問というのは霊界に比べればチリほどのものでしかありません。上層界へ行くほど学問は深みを増します。そういう世界には地上の歴史にまったく痕跡をとどめていない霊が大勢います。

もっとも、博学であるというだけが高級霊の条件ではありません。皆さんもこちらへ来れば、あれほどの大学者が……と思って驚くほど、低界層で迷っている人が大勢いることが分かります。地上の科学の大先駆者だった人でも、霊性において低かった人は、霊界でも低い界層に所属し、したがってその知識もある一定次元以上のものではありません」

――地上の科学者が間違った説を立てている場合、そのまま霊界へ行けばその間違いに気づくでしょうか。

「ですから、死後順調に霊性が開発されて自分の不完全さに気づけば、学問上の間違いにも気づき、潔(いさぎよ)くその非を認めるでしょう。が、地上的波動を引きずっているかぎり、地上的偏見から脱け出せません」

――医者が自分が診察したことのある患者の霊を呼び出して、本当の死因について聞き出し、その間違いを確認することによって医学的知識を広げるということは許されるでしょうか。

「許されることですし、とても有益な勉強になることでしょう。高級霊団の援助が得られれば尚さらのことです。ですが、そのためには前もって霊的真理について行き届いた勉強をし、真摯に、そして不幸な人々に対する純真な慈悲心をもって臨む必要があります。労少なくして医学的論文の資料や収入を目当てにするようではいけません」

(七)発明・発見に関する質問について

――霊が学者の研究や発明に関与することは許されているのでしょうか。

「学問の研究成果が真実であるか否かの確認は、学者の天賦の才に係わる仕事です。人間はあくまでも勤勉と努力によって進歩することが建前ですから、学問も人間自身の労力によって発展しなくてはいけません。努力もせずに結論だけを霊から教わっていては、人間としての功績はどうなりますか。ろくでなしでも労せずして大科学者になれることになりませんか。

発明・発見についても同じことが言えます。しかも新しい発見には有効なタイミングというものがあり、また人間の精神にそれを受け入れる準備ができていないといけません。もしも高級霊にお伺いを立てれば何でも教えてもらえるとしたら、人類の精神的発達に合わせた物事の発生の規律が乱れてしまいます。

旧約聖書にも、神はこう述べたとあります――“額に汗してパンを食せよ”と。この比喩は低次元の界層に属する人類の有るべき姿を見事に表現しております。人間は進化・向上すべき宿命を背負っており、それは努力によって獲得しなければなりません。必要なものが既製服を買うような調子で何の努力もなしに手に入るとしたら、知性の存在価値はどうなりますか。宿題を親にやってもらう小学生のようなものです」

――でも、学者も発明家も霊界からの援助を受けているのではないでしょうか。

「ああ、それはまた話が別です。ある発見がなされるべき時機が到来すると、人類の進化を担当する霊団がその受け皿になってくれる人物を探し、首尾よく地上にもたらされる上で必要なアイディアをその人物の精神に吹き込みます。もちろん本人は自分のアイディアのつもりです。霊団の方でもその人物の功績となるように仕向けます。というのは、最終的にそれを完成させるのは確かに当人だからです。

人類の発達史における発明・発見は全てそうやって地上に届けられてきたのです。といって、誰でもよいというわけではありません。土地を耕す者、タネを蒔く者、そして穫り入れる者と、それぞれに分担が違います。宇宙の秘中の秘を、それを受け取る資格のない者に簡単に授けるようなことはしません。大霊の計画の推進者として適切な者にのみ、その計画の一端が啓示されます。

あなた方も、好奇心や野心から、スピリチュアリズムの目的から外れた、知らずもがなの宇宙の秘密の探求へ誘惑されるようなことのないよう気をつけないといけません。いたずらに神秘主義的になって、挙げ句には失望・落胆の落とし穴にはまってしまいます」

(八)他の天体ならびに死後の界層に関する質問について

――他の天体や死後の世界に関する霊界通信にはどの程度の信憑性があるのでしょうか。

「それは通信霊の霊性の発達程度によりけりです。発達程度の低い霊は自分の国から一歩も出たことのない人間と同じで、何も知りません。あなた方はよくその程度の霊にしきりに尋ねています。よしんばその霊が善性が強くて真面目であっても、その述べていることの信憑性は別問題です。ましてそれが意地の悪い霊だと、ただの想像の産物にすぎないことを、さも知った風な態度で述べます。

だからといって信頼のおける情報が絶対に得られないと決め込むのも間違いです。霊性の発達した霊が、後輩である人間の進歩・向上のために、自分が知り得たかぎりでの情報を喜んで提供することがあります」

――それが間違いない情報であることの証拠は何でしょうか。

「多くの情報をつき合わせてみて全てが一致するということが最大の証拠です。ですが、それ以前の問題として、そういう情報は地球人類の霊性の向上という目的にそって提供されるものであること、したがって、たとえば他の天体の物的ないしは地質学的情報そのものよりも、その天体上の知的存在の霊性面についての情報の方が大切であることを忘れてはなりません。というのも、地質学的なものは、たとえ情報そのものは正確な事実であっても、現段階の地球人類には理解できないでしょう。そんな理解困難な情報は人類の霊性の向上には何の役にも立ちません。どうしても知りたければ、その天体へ再生すればよろしい」

第17章 通信の内容に矛盾が生じる諸原因
霊界から届けられた通信の内容に、時おり矛盾が見出されることがある。その原因とそれが及ぼす影響の大きさは表裏一体の関係にあるようである。

その意味は、我々はともすると霊界を平面的に想像して、霊の言うことならみな同じであるものと考えがちである。が、霊の世界の実情が分かってみると、地上界に近い最低の界層から、物的束縛から完全に解脱した超越界に至るまで、事実上無限の階梯があって、上層界へ行くほど広い視野から眺めるので誤りが少なくなるが、地上の人間に通信を送るのは低界層の霊が多いので視野が狭く、それだけ誤った認識も多くなり、結果的には矛盾点も多いことになる。

では、そうした玉石混交の中にあって本物と偽物、上等と下等を見分けるにはどうすればよいか――本章はその点に的をしぼった質疑応答を集めた。

――同じ霊が二つの交霊会に出て述べたことが矛盾することが有り得るでしょうか。

「その二つの交霊会が思想的に異質であれば支配している霊団が異なるわけですから、その伝達した通信が枉(ま)げられることがあります。通信霊は同じことを述べていても、霊媒を通して届けられるまでに、その場を支配する波動で内容が脚色されるのです」

――その場合は理解できるのですが、二つの交霊がともに高級霊団によって指導されていて、しかも出席者も真摯な真理探求者である場合でも、高級霊の述べることが食い違うことがあるのはなぜでしょうか。

「その霊団が本当に高級霊団であれば、その言説に矛盾撞着は有り得ません。交霊会の出席者とその場の雰囲気で表現方法に違いが生じることがあっても、実質的には同じことを述べているはずです。仮に矛盾していても表面上のこと、つまり言説よりも述べ方の違い程度にすぎません。じっくりと読めば基本的には同じことを述べているはずです。

しかし、出席者の霊格の程度によっては同じ霊でも違った答え方をすることは有り得ます。例えばあなたが幼児と科学者から同じ質問をされたとします。あなたはその二人に同じ答え方をしますか。それぞれに理解しやすい形で答えるはずです。そして質問者はそれぞれに納得するでしょう。ところが表面上は二つの答え方は全く異なります。それでいながら本質的には同じことを述べていることだってあるわけです」

――真面目と思える霊がある思想、時には偏見と思えるような言説を、相手によって適当に言い換え、完全に食い違うようなことすらあるのですが、これはどう理解すればよいでしょうか。

「私たちは出席している人間の理解力の程度に応じて表現を変えなければならない立場にあります。例えば何らかの教説について絶対的な信念を抱いている人を相手にした場合、仮にそれが誤りであっても、それを頭ごなしに論駁せずに、穏やかに、そして徐々に改めさせようとします。すると当然その人の信仰の用語を借用し、その教説に共鳴するところがあるかのような印象を抱かせることもします。そうやって相手をムキにならせず、次の会にも出席しようという気持にさせるわけです。

間違った先入観に急激なショックを与えるのは賢明とは言えません。そういうことをすると、それっきりこちらの教説に耳を傾けなくなります。そこで我々としては、あらぬ反撥を買わないように、出席者の信仰に理解を示す態度で臨むわけです。

さらに言えば、人間から見て矛盾しているかに思えることでも、同じ真理を偏った角度から表現しているにすぎないことがよくあるものです。スピリチュアリズムに係わっている霊団にはそれぞれに大霊からの割り当てがあり、こうして授ける通信が効率よく受け入れられ霊性の進化を促すような方法と状態を工夫して、それぞれの役割分担を遂行しなくてはならないのです」

――たとえ表現上の違いにすぎないとは言え、矛盾した言説は人によっては疑念を生じさせます。そういう矛盾した通信を正しく理解して、これが真実だという確信を得るにはどうすればよろしいでしょうか。

「真実と誤りとを選り分けるには、手にした通信の内容を時間をかけてじっくり検討することです。そこにはこれまでになかった新しい知識の世界が広がっています。まったく新しい考究課題であり、したがって時間と努力を要します。何でもそうですが……

その言わんとするところを真剣に考究し、他と比較検討し、奥の奥の核心に至る――真理というものはそれほどの代償を払って初めて手にできるものなのです。考えてもごらんなさい。これまでの狭い通念を後生大事にし、それに照らして簡単に片づけるだけで、どうしてスピリチュアリズムという果てしなく広大な真理の世界が理解できますか。

こうした霊的教訓が世間一般に広まる日はそう遠い先の話ではありません。本質だけでなく、枝葉末節に至るまで、矛盾撞着のない形で広まることでしょう。が、現段階においては、これまでの誤った概念を打破することがスピリチュアリズムの使命です。それも、一つ一つ片づけていくしかないのです」

――そうした深刻な問題に深く係わる時間も欲求もない者がいる一方には、霊の言うことは何でも彼でも信じる者もいます。そのような形で間違ったものを受け入れていくことは性格に害を及ぼさないでしょうか。

「その人がそれでいいと思うのであればそうすればよろしい。いけないと思えばやらなければよろしい。この自由意志の原理には例外はありません。アラーの神の名のもとであろうとエホバの神の名のもとであろうと、良いものは良い、悪いものは悪いのです。宇宙には大霊という名の神しかいないのですから」

――知的には相当なレベルと思われる霊でも、問題によっては明らかに間違った考えを抱いていることがあるのは、どうしてでしょうか。

「人間と同じで、霊も独断と偏見を抱いているものです。自惚れて実際よりも賢いつもりでいる霊は、真理についてよく間違った考えや不完全な概念を抱いているものです。人間と少しも変わりません」

――矛盾した説の中で最も顕著なのが“再生説”です。再生が霊にとって必要不可欠のものであれば、なぜ全ての霊が同じ説を説かないのでしょうか。

「あなたは、霊も人間と同じで、今の自分のことにしか思いが及ばない者が大勢いることをご存じないのですか。現在の自分の感覚だけで物事を捉え、今の状態が永遠に続くと思っているのです。そうした感覚の範囲を超えた先のことまでは思いが至らず、自分は一体どこから来たのか、この後どこへ向かって行くのかといった観念は浮かばないのです。

しかし、摂理は逃れられません。再生するということを知らなくても、再生すべき時機は必ず到来します。その時になって初めて再生があることを知ります。が、そういう霊的進化の仕組みについては何も知りません」

――未熟な霊には再生問題が理解できないことは分かりました。ただ、そうなると、霊的にも知的にもどうみても低いと思われる霊が自分の前世の話を持ち出して、その間の不行跡を償うためにもう一度再生したいと思っていると述べたりするのは、どう理解したらよいでしょうか。

「霊の世界の事情には地上の人間には理解し難いことが沢山あります。具体的には説明しにくいのですが、例えば地上でも、ある分野の事に関しては造詣が深いのに、別の分野の事については皆目知らないという人、あるいは学問は無くても直観力は鋭い人、判断力は乏しくてもウィットに富んだ頭脳の持ち主など、いろいろなタイプがいるのと同じです。

それに加えて知っておいていただきたいのは、霊の中には自分の優位を保ちたいという浅はかな根性から、人間にわざと教えないでおこうとする者もいることです。つまり人間から真剣に論議を挑まれたら自分の優位が崩れることを知っているので、それを意図的に避けようとして、巧妙に議論をスリ抜けるのです。

むろんそれは低級霊の場合です。が、高級霊による慎重な配慮の結果として、たとえ真理であっても、現段階で急激にそれを広めることはいたずらに目を眩ませるだけで賢明でないとの判断から、わざと差し控えることがあるということです。そして、時と場所と出席者のレベルに応じて小出しにします。

モーゼを通して語られなかったものをキリストが語り、そのキリストを通してさえ時期尚早ということで後世へ持ち越されたものがあります。

あなたの疑問は再生が真実ならばなぜ世界の各民族で早くから説かれなかったのかということのようですが、よく考えてみてください。仮に肌の色による差別と偏見の激しい国で説いていたら大変な反撥を買ったことでしょう。なぜかはお分かりでしょう。短絡的に受け止める者は、今奴隷の身にある者は来世では主人となり、今主人である者は奴隷となるのだと考えて、怪しからん説だということになるに決まっています。

まずは霊界と現界との間にも交信が可能なのだという基本的事実から始めて、徐々にそうした倫理・道徳の思想的問題へと進めるのが賢明です。大霊の配剤について人間はなんと近視眼的なのでしょう! 大霊の認可なしにはこの宇宙に何一つ発生しないのです。人間には到底推し量ることのできない深遠な叡知があるのです。

すでに述べたことですが、改めて申し上げておきます。スピリチュアリズムの思想はいつかはきっと地球上にあまねく広まります。今は統一性がないかに見えても、人間の霊性の発達とともに徐々にその食い違いは少なくなり、最後は完全に消えて失くなることでしょう。そこに大霊の意志が働いており、究極的にはその意志が成就されます」

――誤った教説はスピリチュアリズムの発展を阻害しようという策略から行われているのでしょうか。

「人間はとかく困難もなく手間取ることもなく物事が運ぶことを求めがちです。しかし、よく考えてごらんなさい。どんなに立派な庭にも必ず雑草が生え、きれいに保つには一本一本それを手で抜き取らないといけません。誤った教説は地球人類の霊性の低さが生み出す雑草のようなものです。もしも人類が完全であれば高級霊しか近づかないでしょう。

誤りというのは、言うなれば偽のダイヤモンドのようなものです。見る目のない人間には本物に見えるでしょうが、見る目をもった者にはすぐに偽物と分かります。その見分け方を学びたければ年季奉公に出るしかありません。考え方によっては偽物の存在にも意味があるのです。本物と偽物とを見分ける判断力を養う良い試金石です」

――でも、偽物を信じた者はそのことで進歩が阻害されるのではないでしょうか。

「そういう気遣いは無用です。そもそも偽物をつかまされるようでは本物を見る目がないということです」

――スピリチュアリズムの実践面でのいちばん不愉快な障害は、そうやって霊に担(かつ)がれることです。これを避ける手段はないものでしょうか。

「それに対する回答はこれまでにお答えしてきたことで十分だと思いますが……方法はあります。しかも極めて簡単です。要するにスピリチュアリズム本来の目的に徹することです。そして、その目的とは人類の霊的啓発、これに尽きます。これを片時も忘れないようにすれば、邪霊にたぶらかされるようなことは決してありません。それこそが真実の人の道だからです。

高級霊は人のために役立つ仕事のためには大いに援助しますが、名誉心や金儲けといった情けない人間の野心の満足のためには絶対に手を貸しません。そういう他愛もないことや人間に伝えることを許されていない事柄についてしつこく要求しないかぎりは、邪霊集団に操られるようなことにはなりません。こうした事実からも、低級霊に騙されるのは騙されるようなことをしている人間に限られるということがお分かりになるはずです。

霊団の仕事は世俗的問題に関するアドバイスを授けることではありません。地上人生を終えた後に訪れる霊的人生に自然に順応するための生き方を指導することです。もちろん世俗的問題に言及することがありますが、それはその時点で必要性があると見なしたからであって、そちらからの要請に応じることは絶対にないと思ってください。霊界通信を運勢判断や魔術と同種のような受け止め方をしていると、低級霊につけ入られます。

また霊界の知識の蒐集のようなことにばかり偏っていると霊的存在としての自由意志が硬直してしまい、大霊によって意図されている人間としての進むべき進化の道を歩めなくなってしまいます。人間は自らの意志で“行為”に出なくてはいけません。こうして我々が地上へ派遣されるのは人間の歩む道を平らにならしてあげるためではありません。来るべき霊的生活に順応するための準備を手助けしてあげるためです」

――ですが、こちらから世俗的問題を持ち出したわけでもないのに、霊の方から言及してアドバイスを与えてくれて、それに従ったらとんでもないことになった人もいますが……

「そちらから持ち出さなかったとしても、交霊会でそんな俗っぽい問題を霊側が持ち出したという点が問題です。そちらからそれを許したということであって、結果的には同じことです。それを鵜呑みにせず理性的に疑ってかかる態度で臨み、霊界通信の本来の在り方に徹すれば、そう簡単に担がれることはないはずです」

――真面目な求道者(ぐどうしゃ)がそういう形で担がれることを神はなぜ許すのでしょうか。せっかくの確信をわざと崩すように計算されているみたいです。

「その程度のことで崩れるような信念ではまだ本物とは言えません。そのことでスピリチュアリズムに愛想をつかすようであれば、それはまだスピリチュアリズムを真に理解していないことを示しています。張りぼてだったということです。その種のたぶらかしは、一つには忍耐力の試金石であり、一つには交霊会をご利益の手段に利用する者への懲罰です」
(完)


訳者あとがき
訳者というのは実質的に原書の価値に関して生殺与奪の権を握っていると言っても過言ではない。少なくとも私はその自覚のもとに“いかなる形に訳すのが原典の真価を伝えるか”で腐心しながら翻訳に着手し、途中で“まずい”と感じたら初めから別の形で訳し直すこともある。さらに下訳をしばらく寝かせておいて第三者の読者になったつもりで読み直して、添削を施してから原稿用紙に浄書するといった配慮もする。内容的に大きく訳し変えるということは滅多にないが、下訳の時には気づかなかった文章上の欠陥がよく発見される。

この度のカルデックの翻訳に当たっては、以上のことに加えて“編修”という作業が必要だった。これについては“まえがき”で若干言及したが、口で言うほど簡単なことではなく、大ゲサに言えば、これまでの半世紀に近いスピリチュアリズムとの係わりにおける体験を土台にして初めてできたことだった。

そんな面倒なことをせずに、あっさり全訳すればよかったのではないか――そうおっしゃる方がいるかも知れない。が、カルデックの書が本格的霊界通信の出版物としてはスピリチュアリズムでは最も古い、というよりは早かった――ハイズビル事件後わずか十年あまり後――ということもあって、既成宗教界、とくにキリスト教界からの非難中傷が激しかったようで、カルデックはそれに対する理論武装に大変な神経と紙面を費やしている。

当時としては止むを得なかったとは言え、その後百年余りたった現在、しかもキリスト教よりはるかにスピリチュアリズムに近い神道(かんながら)的信仰が自然に行き亘っている日本において、さらにシルバーバーチやインペレーターの霊訓に馴染んでいる読者が圧倒的に多いであろうことを念頭に置いて読むと、それをいちいち訳出することは、無益であるばかりでなく煩雑すぎて興味を削(そ)ぐ恐れがあるとの結論に達したのだった。

“編者注”としたカルデックのコメント、“ブラックウェル脚注”とした英国人訳者の付言は、ぜひこれだけは、と思うものに制限し、フランス語圏の人にしか知られていない古い例証は割愛したり、代わりに日本人向けのものを“訳注”で補ったりした。

私が、“英国の三大霊訓”と呼んでいるモーゼスの『霊訓』、オーエンの『ベールの彼方の生活』、シルバーバーチの『霊言』集とカルデックの霊界通信の唯一の相違点は、霊媒が紹介されていないことである。それというのも、正確な数字は述べられていないが、相当な数の霊媒を通して得られた通信――カルデックが直接入手したものと他の交霊会で入手されてカルデックのもとに持ち込まれたもの――を総合的に編纂して、テーマ別にまとめ、それにカルデック自身のコメントを付け加えたものを「霊の書」と「霊媒の書」とに大別して出版したのだった。

その通信が霊言なのか自動書記なのかも、いちいち断っていない。私が訳しながら得た感触では自動書記の方が多いようであるが、訳し方は霊言のような語り口調に統一した。現象の原理としてはどちらも同じことなので、たぶんカルデックもあまりこだわらず、また霊媒はあくまでも“道具”であるとの認識から、霊媒の氏名も一切挙げていない。

ついでに付言すれば、カルデックのもとに寄せられた通信の中にもかなりいかがわしいものがあり、イエスを筆頭にナポレオンだのパスカルだのジャンヌダルクだのジャン・ジャック・ルソーだのと、フランスらしい顔ぶれが勢揃いしている。カルデックはそれらを最後にまとめて紹介し、“ニセモノ”と断じている。たとえばイエスの署名のある自動書記通信については「あのイエスが(二千年後の今になっても)こんなキザでぎこちない、そしてバカげた表現しかできないのか」と手厳しく批判し、最後に「これら一連の通信はたぶん一人の低級霊が書いたものである」と一刀のもとに切り捨てている。いずこの国にもこうした手合いの霊界通信があるものである。

さて「霊媒の書」を訳し終えた今、私の胸に去来する感慨を披瀝させていただけば、フランスを中心としてラテン系民族の間でバイブルのように愛読されているこの霊界通信までも自分が訳すことになったことを、身に余る光栄と受け止めているところである。

カルデックの二著の英文版は、“英国の三大霊訓”とほぼ同時期に購入していた。そしてその内容には何の違和感も抱かず、折りにふれ無造作にページを開いて読むということを続けていた。最近でもよく繙(ひもと)くことがある。そんな次第で、「心の道場」から翻訳の依頼を受けた時は何の躊躇もなくお引き受けした。

訳している時もそうだったが、訳し終えた今しみじみと思うのは、「訳して良かった――後世に計り知れない影響をもたらすことは間違いない」という確信である。プライベートなサークルによる自費出版であるから、流通機構に乗った出版物と比較して購買の規模は小さいであろう。しかしこの道、すなわちスピリチュアリズム的真理の普及という仕事は、本当に理解した人が一人また一人と増えることによって広げるしかないのであって、華々しく衆目の的となることは期待できない。本質的にそういうものではないのである。

ある出版ジャーナリストがいみじくも言っているが、ベストセラーというのは普段はロクに文字を読むということをしない者までが「そんなに売れてるなら」という、ただそれだけの理由で買って帰るからあれほど売れるのであって、実際に読まれているわけではない、と。スピリチュアリズムには間違ってもそういうことは起こり得ない。

振り返ってみると私の生涯は十八歳の時の一霊覚者との出会いで決定づけられて以来、半世紀近くにわたる孜々(しし)とした地道な努力の積み重ねであった。その間私を支えてくれたのはやはりシルバーバーチだった。この道は孤独なもので、見慣れた風景が次々と過ぎ去って、道なき道を一人で切り開いて行かねばならない。しかし魂の奥ではアフィニティとの結束がますます強まって、そこに真の生き甲斐を覚えるものである……といった意味の言葉の真実味を味わいながら、人類の宝ともいうべき霊界通信を純粋な形で後世に遺すことだけを心掛けてきた。

そして今六十歳の峠にさしかかった時点でスピリチュアリズム・サークル「心の道場」とのご縁が一気に熟し、カルデックの二著の翻訳の仕事を依頼されると同時に、私が所有する、今はもう絶版となったシルバーバーチの原書全十六巻をはじめ、モーゼスの『霊訓』その他、後世に遺すべき原典三十冊ばかりのものをコピーして保存してくださることになった。真の意味で私の仕事の価値の理解者との出会いが待っていたのである。私にとってこれほど元気づけられることはない。

私がそろそろこの地上生活に終止符を打ってもおかしくない年齢に至って、スピリチュアリズムという名の聖火の若いランナーとの思わぬ出会いがあり、私も負けじと、もう一仕事をしたいと念願しているところである。

最後に、私の原稿をワープロ打ちにする労に当たられた方、出版費用を快く寄付してくださった方々等、本書の出版のために協力してくださった「心の道場」のサークルの皆様に、心からの謝意を表したい。

平成八年六月


近藤千雄