第2章 薄明の世界
第1節 霊界のフェスティバル
1913年9月30日 火曜日

こうして私達が地上へ降りてきて、今なお地上と言う谷間を歩む一個の人間と通信を交わす時の心境はまずあなたには判らないでしょう。同じく霊界にいる者の中でも、私達は余ほど恵まれた境遇に有ることを身に沁みて感じるのです。

それと言うのも、こうして人類の向上の為に役立つ道がある事を自信を持って語れる段階まで来てみますと、善行と啓発の可能性は本当に無限に有るように思えるのです。もっとも、今のところ私達に出来る事は限られております。

あなたのように、神を信じ其の子イエスに身を預ける事によって神に奉仕する者には何一つ恐れるものは無いとの信念を基に、勇敢な私達に協力してくれる者(*)が出てくるまではこの程度で佳しとしなければならないでしょう。

(オーエン氏は英国国教会の牧師で「推薦文」の筆者ノースクリッフ卿が社主で有った新聞The Weekly Des patchにこの霊界通信を連載した事で教会長老から弾圧を受け撤回を迫られたが、それを拒否したために牧師の職を追われた経験がある)

今なお霊魂の存在と私達の使命とメッセージの疑いをはさむ人の為に一言言わせていただけば、私達が美しい霊界の住処を離れて地球を包む暗い霧の中へ降りてくる時は、決して鼻歌交じりの軽い気持ちで来るのではありません。

私達には使命があるのです。誰かがやらねばならない仕事を携えてやってくるのです。そして、その事に喜びを感じているのです。

さてあれから少し後―地上的な言い方をすれば―の事です。私達は、とある広い場所へ案内されました。そこには大きな湖―湖盆と言った方が良いようなもの―があり、其の中へ絶え間なく水が流れ込んでおり、周りにはかなりの間隔をおいて塔のついた大きな会館(ホール)の様なものが立ち並んで居ります。

建築様式も違えばデザインも違い、素材も同じ種類ではありません。ホールの周りには広々とした庭園や森があって、中には何マイルにも広がっているものもあり、そこには各種の動物や植物が群がっております。

大部分は地上でも見かけるものですが、見かけないものもあります。但し私の記憶では、現在は見かけなくても曽ては生息したものが少しは有ると思います。以上が外観です。

私がお話ししたいのは、そうしたコロニーの存在の目的です。

目的は実は音楽の想像と楽器の製造に他なりません。ここに住む人たちは音楽の研究に携わっているのです。各種の音楽の組み合わせ、その効果、それも単に、“音”として捉えるのではなく、他の要素との関連をも研究します。

幾つかの建物を見学して回りましたが、そこに働く全員が明るく楽しそうな表情で私達を迎えて下さり、隅々まで案内して下さいました。

同時に私達に理解できる範囲の事を説明して下さいましたが、正直言ってそれはそう多くはありませんでした。では私達に理解できた範囲の事を説明してみましょう。

有る建物、―見学してみると製造工場と言うよりは研究所と呼んだ方が良いと思いました―の中では地上で作曲の才能のある人間へ音楽的インスピレーションを送る最良の方法の研究に専念しており、又ある建物では演奏の得意な人間、教会音楽の専門家、コンサートミュージック、あるいはオペラの作曲に携わる人間等々の為に各各の建物が割当てられているのです。

研究の成果は体系的に図表化されます。そこまでがここに働く人達の仕事です。その成果を今度は別のグループの人達が目を通し、それをどうすれば最も効果的に地上へ送れるかを検討します。

検討が終わると更に別のグループの人達が実際にベールを通して地上へ送る作業に取り掛かります。まず目標とされる人間が選別されます。すなわちインスピレーションを最も感応しやすいタイプです、そうした選別をするのが得意なグループがいて、細かい検討が加えられます。

全てが整然としております。湖の周りの研究所から地上の教室やコンサートホール、オペラハウス等へ向けて、天上の音楽を送り届ける事に常時携わっている人達の連携組織が有るのです。

こう言う具合にして地上に立派な音楽が生まれるのです…。勿論そうです、地上の音楽の全てがこちらから送られてとは限りません。

それはこちらの音楽関係者の責任ではなく、ベールのそちら側の入口に問題があり、同時にこちら側の暗黒界の霊団による影響もあり、受け取った地上の作曲家の性格によって色付けされてしまう事もあります。

―塔は何の為にあるのでしょうか。

これからそれを説明しようと思っていたところです。
湖は広大な地域に広がっており、其の沿岸から少し離れた一円にさっきの建物(ホール)が建っております。

そして時折あらかじめ定められた時が来ると、それぞれの研究所で働く人の内の幾人か―時には全員―が其々の塔に集まり、集結し終わるとコンサート、まさしくコンサートの名に相応しいコンサートが催されます。

演奏曲目には前もって打ち合わせが出来ております。一つの塔には一つのクラスの演奏者がおり、別の塔には別のクラスの演奏者がおり、次の塔には一定の音域の合唱団がおり、そのまた次の塔には別の音域の合唱団がおります。それが幾つもあるのです。

地上では四つの音域しかありませんがこちらでは音域が沢山あるのです。更に別の塔の人にも別の受け持ちがあるのですが、私には理解できませんでした。私の推測では其々の塔からの音量を適度に調和させる専門家もいるようでした。

其の事よりも私は催しそのもの―コンサート、フェスティバル何でも宜しい―の話に入りたいと思います。私達は湖の真ん中あたりにある島へ案内されました。

そこは美しい木々と芝生と花が生い茂り、テラスや東屋、石または木で出来た腰掛けなどがしつらえてあります。そこでフェスティバルを聞いたのです。

まず最初のコードが鳴り響きました。長く途切れることなく、そして次第に大きくなって行き、ついにはその土地全体―陸も水も樹木の葉一枚一枚までも行き亘っていくように思えました。それは全ての塔にいる楽団及び合唱団にキーを知らせるものでした。

やがてそれが弱まって行き全体がシーンと静まり返りました。すると今度は次第にオーケストラの演奏が聞こえてまいりました。多くの塔から出ているのですがどの演奏が何処の塔と言う区別がつきません。完全なハーモニーがあり、音調のバランスは完璧でした。

続いて合唱が始まりました。其の天上の音楽を地上の言語で叙述するなど、とても無理な話なのですが、でもその何分の一でも感じ取って頂けるかもしれないと思って述べているのです。

簡単に言えば、全ての存在をより麗しくするものがありました。美しいと言うだけではないのです。麗しさがあるのです。この二つの形容詞は意味合いが違うつもりで使用しております。

私達の顔に麗しい色合いと表情が現われ、樹木は色彩が一段と深みを増し、大気は虹の様な色彩をした霞に似たものに変化していきました。それが何の邪魔にもならないのです。むしろ全てを一体化させるような感じすら致しました。

水面には虹の色が映り、私達の衣服も其の色彩を一段と強めておりました。更には動物や小鳥までが其の音域に反応を示しているのです。

一羽の白い鳥が特に記憶に残っておりますが、その美しい乳白色羽根が次第に輝きを増し、林の方に飛んでいく直前に見た時は、まるで磨きあげた黄金の様な色―透明な光あるいは炎のように輝いておりました。

やがて霞がゆっくりと消えて行くと私達全員、そして何もかもが再びいつもの状態に戻りました。と言っても余韻は残っておりました。強いて言うならば“安らぎ”とでも言うべきでものでした。

以上がこの“音楽の里”で得た体験です。私達が聞いた音楽はその後専門家が出来具合を繰り返し討論し合い、ここを直し、そこを直して、これを何かの時、例えばこちらでの感謝祭(*)とか、地上での任務を終えて帰ってくる霊団を迎えるレセプションとか、その他の用途に使用される事になります。

何しろこちらの世界では音楽が全ての生活面に浸透しております。いえ、全てが音楽で有る様にさえ思えるのです。音楽と色彩と美の世界です。全てが神の愛の中で生きております。私達はとてもその愛に応えきれません。

なのに神の愛が私達を高き世界へ誘い、行きつくところ全てに愛がみなぎり神の美を身につける如くに其の愛を身につけなくてはいけないのです。そうせざるを得ないのです。何故なら天界では神が全てであり、何ものにも変えられないものだからです。愛とは喜びです。

それをあなたが実感として理解するようになるのは、あなた自身が私達と同じ所へ来て私達と同じものを聞き、私達が神の愛を少し知る毎に見る事を得た神の美が上下、前後、左右、辺り一面に息づき輝いているのを目のあたりにした時のことでしかないでしょう。

力強く生きなさい。勇気を持って生きなさい。それだけの価値のある人生です。それは私たち自らが証言しているのですから。

では、おやすみ。時折睡眠中に今お話したような音楽の微かなこだまをあなたの霊的環境の中に漂わせているのですよ。それは必ず翌日の生活と仕事の中に善い影響を及ぼしております。
(*霊界でもよく祭日が祝われる話が他の霊界通信にも出てくる。地上を真似たのではなく、逆に霊界の催しが人間界に反映しているのである)

第2節 色彩の館
1913年10月1日 水曜日

昨晩の“音楽の里”について述べた事は、私達が見聞きした事のホンの概略を述べたものです。それに私達は其の里のごく一部しか見学していないのです。

聞くところによりますと実際は其の時想像していたよりもはるかに広いもの、湖を中心として説く山岳地方まで広がっております。その山の地方にも研究所があり、一種の無線装置によって他の研究所と連絡を取りながら全体としての共同研究が休みなく続けられております。

見学を終えて帰り道で脇へ眼をやると、又目新しいものが目に入りました。とても大きな樹木の植林地で、其の中にも高い建物が聳えております。

前の様なただの塔ではなく、色とりどりの大小の尖塔やドームがついており、其の中に大小のホールが幾つもありました。それが一つの建物で、とても高く又広々としております。私達が尋ねると住民の一人がとても丁寧に優しく迎えて中へ案内して下さいました。

そして、まずその壁の不思議さに驚かされました。外側から見ると不透明なのに内側から見ると透明なのです。そして大小のホールを次から次へと回って気が付いたのは、各々のホールの照明の色調が多少ずつ隣のホールと違っている事でした。

基の色彩は同じなのです。ですから別の色と言う感じはしないのですが、其の深みとか明るさとかが少しずつ違っておりました。

小さいホールはほとんど同じ色調をしておりました。其の数多い小ホールを通過していくと幾つか目に大ホールがあり、そこに、それに連なる小ホールの色彩の全てが集められております。

果たして小ホールの一つ一つが一個の色調を滲み出していると断言して良いのかどうか自信はありませんが、思い出す限りではそんな印象でした。見たものが余りに多くて一つ一つを細かく覚えていないのです。

それに、それが初めての訪問でした。ですから大雑把な説明と受け止めて下さい。

大ホールの一つは“オレンジホール”と呼ばれ、そこには原色のオレンジの有りとあらゆる色調―ほんのりとした明るい黄金色から最も深いオレンジ色まで有りました。更にもう一つの大ホールは“レッドホール”と呼ばれ、ピンクのバラの花びらのうっすらとした色調から深紅のバラかダリヤの濃い色調までがホール一杯に漂っていました。

さらには“バイオレットホール”と言うのがあり、ヘリオトロープあるいはアメシストのあの微妙な紫の色調からパンジーのあの濃い色調まで輝いております。

このような具合にしてその他の色彩にもそれぞれのホールが有るのですが、言い落としてならないのは、これ以外にはあなたの知らない色、―七色以外の、いわば紫外色と赤外色もある事で、それは其れは素敵な色です。

そうした色調は一つに融合してしまうことなく、それぞれが独自の色調を発散しながら、それでいて全体が素敵に、見事に調和しているのです。

そうした透明なホールが一体何の為に有るのかと思っておられるようですね。それは各種の生命―動物、植物、それに鉱物、このうち徳の前二者へ及ぼす色彩の研究をするところなのです。これに衣服も含まれます。

私達の衣服の生地と色調は着る人の霊格と性格を反映するからです。自分を取り巻く環境はいわば自分の一部です。それはあなた方人間も同じです。中でも光が一つの要素、重要な要素となっています。私達がホールで見た通り各種の条件下で実験する上でも重要な働きをしているのです。

聞くところによりますと、こうした研究の成果が地球及び他の惑星の植物を担当しているグループへ手渡されるそうです。しかし、全てが採用される訳ではありません。繊細過ぎて地球や他の惑星の様な鈍重な世界には応用できないものもあり、結局はほんの一部だけが地球へ向けられると言う事になるそうです。

残念ですがこれ以上の事は私には述べられません。一つには今述べた環境上制約がありますし、又一つには内容が科学的で私には不向きと言う事でもあります。ただ一つだけそこでお尋ねしたい事を付け加えておきましょう。

そこには原色の全てを一つのホールに一緒に集める事はしません。なぜか知りません。もしかしたら私よりその方面に通じている仲間の人達が考えているように、一緒にしたときに出るエネルギーが余りに強烈なので、特別に設計した建物を、それも多分どこか高い山の中にでも立てなくてはならないものかも知れません。

仲間の人達が言うには、その場合は周辺のかなりの距離の範囲で植物が生育しないだろうと言う事です。更に、私達がお会いした人々が果たしてそうした莫大なエネルギーを処理(コントロール)出来るかどうか疑問だと言っております。

もっと高い霊格と技術が必要であろうと考える訳です。しかし、もしかしたら高い界へ行けばすでにそうした研究所があって、それが今紹介した研究所と連絡が取れているのかもしれません。

こちらの整然とした秩序から判断すれば、その想像はまず間違いないでしょう。

私が其のコロニー、あるいは総合研究所と呼んでもよいかもしれませんが、そこを出て中央のドームが見あげられる少し離れた場所まで来た時、私達のこの度の見学旅行を滞りなく進める為に同伴していた指導霊が私達の足を止めて、出発の時から約束していたお別れのプレゼントをお見えしましょうとおっしゃるのです。

何だろうと思って見つめたのですが何も見えません。少し間を置いてから皆怪訝な顔で指導霊を見つめました。すると指導霊はにっこり笑っておられます。私達はもう一度良く見ました。

やがて仲間の一人が言いました。「さっきここで足を止めて見上げた時、あのドームは何色だったかしら」。すると、もう一人が「赤色だったと思うけど」と言いますが、誰一人確実に覚えている者はいませんでした。

ともかくその時は黄金色をしておりました。そこで「暫く見ていましょうよ」と言って皆で見つめておりますと、なるほど、やがてそれが緑色に変わりました。ところがいつどの辺から緑色に変化し始めるのかが見分けられないのです。

その調子で次から次へと一様に色彩が変化していくのです。それが暫くの間続きましたが、何とも言えない美しさでした。

やがてドームが完全に見えなくなりました。指導霊の話ではドームはちゃんと同じ場所に有るのだそうです。それが、各ホールから有る主の光の要素を集めて組み合わせる事によってそのように姿が見えなくなる―それがその建物で仕事をしている人が工夫した成果の一つだと言う事です。

そう見ているとドームの林の上空にドームは見えないままです―巨大なピンクのバラが出現しました。それがゆっくりと色調を深めて深紅に変わり、其の大きな花弁の間で美しい容姿をした子供達が遊び戯れていたり、大人の男女が立ち話をしていたり、歩きながら話に興じたりしています。皆素敵で美しい、そして幸せそうな姿をしております。

一方では小鹿や親鹿、小鳥などが走り回ったり飛びまわったり寝そべったりしています。花は花弁が誇張して丘陵地や小山等の自然の風景の舞台と化し、その上を子供たちが動物と楽しそうに可憐な姿で遊び戯れているのです。

それがやがてゆっくりと薄れて行き、その内ただの虚空に戻りました。私達はその場に立ったままの姿でそうした光景を幾つか見せて頂いたのです。

もう一つ見せて頂いたのは光の円柱で、ちょうどドームの有る辺りから垂直に伸び、其のまま天空に直立しておりました。純白の光で、その安定した形を見ていると、まるで固形物のように見えました。

その内、先ほどのホールの一つから一条の色彩を帯びた光が斜め放たれて光の円柱に当たりました。すると各々のホールから様々な色彩の光が放たれました。

赤、青、緑、紫、オレンジ―淡いものから中間のもの、そして濃いものまで―いろいろで、あなたの知っているものは勿論、ご存じでないものもいくつかありました。それら全てが純白の光の柱の中間部に斜めにつながりました。

見ているとそれが形を整え始めました。一本一本が道となり、沿道にビルや住居、城、森、寺院、その他が立ち並んで居ります。そしてその傾斜した道を大勢の人が上がって行きます。

一つの道は全部同じ色をしておりますが、色調は多彩でした。それは其れは素敵な光景でした。円柱まで近づくと、少し手前のところで、それを取り囲む様な形で立ち止りました。

すると円柱の頂上が美しい白百合の花のように、ゆっくりと開きました。そしてその花びらがうねりながら反り返って、下へ下へと垂れて行き、立ち止まっている群衆と円柱との間に広がりました。

すると今度は円柱の底辺が同じように開き、丸い踊り場の様な形で、群衆が立ち止っている場所との空間を埋めました。

これで群衆は上へあがる事が出来ます。今や全体が―馬も乗り者も―其々の色調を止めながら渾然となっております。その様子はまるで祝宴か祭礼にでも臨むかのように、多彩な色調をした一つの巨大なパピリオンに集まり行く素敵で楽しい大群衆を見ていると言う感じでした。其の群衆の色調が天井と床つまり歩道に反映し、その全体から発する光輝は何とも言いようのないほど素晴らしいものでした。

やがて群衆は幾つかのグループに分かれました。すると中央の円柱が巨大なオルガンのような音を鳴り響かせました。何が始まろうとしているのかはすぐに判りました。

間もなく声楽と楽器による“グロリア・イン・エクセルシス・デオ”(*)の大音楽が始まりました。高き光の中に増します神―全ての子等に生命を与え、その栄光を子等が耐えうるだけの光の中に反映され給う全知全能なる神よ―と、大体そういう意味の賛歌が歌われ、そしてこのシーンも次第に消えて行きました。多分この後其の大群衆は光に道を後戻りして帰って行ったでしょうが、それは見せて頂けませんでした。確かに、その必要のなかったのです。

さ、時間が来ました。残念ですが、これにて終わりにしなければなりませんね。では神の御加護のあらんことを。(*Gloria in Excels is Deo点なる神の栄光あれ、の意のラテン語で、キリスト教の大小頌栄の最初の句ルカ2・14)

第3節 意念の力
1913年10月2日 木曜日

“イスラエルの民に申すがよい―ひたすらに前進せよ”と、(*)これが私達が今あなたに申し上げたいメッセージです。ひるんではいけません。

行く道はきっと明るく照らして下さいます。全能なる神と主イエスを固く信ずる者には何一つ恐れるものはありません。

(*モーゼが神のお告げに従ってイスラエルの民を引き連れてエジプトを脱出する時、ひるみかける民を励ました言葉であるが、この頃オーエン氏は国教会の長老から弾圧を受けて内心動揺をきたしていた事が推察される)

私が今更このような事を書くのは、あなたの心にまだ何かしらの疑念が漂っているからです。わたしたちの存在を感じ取っておられる事は私達にも判っております。ですが前回に述べたような話が余りにおとぎ話じみて信じられないようですね。

では申しますが、実を言えばこうした天界の不思議さ美しさは、地上のいかなるおとぎ話も足元にも寄れない位、もっともっと不思議で美しいのです。

それに、おとぎ話の中に出て来る風景や建物は、此方で見られるものと似ていない事もないのです。

まだ本の僅かしか見物しておりませんが、その僅かな見聞から判断しても、地上の人間の想像力から生まれるもの等は、其の不自由な肉体をかなぐり捨ててこの展開に光の中に立った時に待ち受けている栄光などに較べれば、まったく物の数ではない事を確信しております。

さて今夜お話したいのは、これまでとは少し趣が異なり、私達新米を教え楽しませる為に見せて下さった現象的な事ではなくして、此方の事物の本質にかかわる事です。

今あたりを見下ろす高い山の頂上に立ったとしましょう。其処から見晴らす光景は何処か地上とは違うのです。例えば、まず空気の澄みきり具合いと距離感が地上と何処か違う事に気づきます。遠いといっても、地上での遠さと違うのです。

と言うのは、其の頂上から地平線の近く、あるいはさらにその向こうのある地点へ行きたいと思えば、わざわざ山を下りなくとも、そう念ずるだけで行けるのです。

速くいけるか遅いかは意念の性質と霊覚次第です。又今おかれている境涯の霊的性質より一段と精妙な大気―とでも呼ぶより仕方ないでしょう―に包まれた地域へ突入できるか否かも、その人の意念と霊格次第なのです。

高級界からお出でになる天使のお姿が私達に必ずしも見えないのはその為です。見え方も人によって異なります。みんなが同じお姿を排するのは、私達の視覚にあったように容姿を整えられた時だけです。

もしその方の後をついて行く、つまりその方の本来の世界へ向かって行きますと、途中で疲労を覚え、ついて行けなくなってきます。霊力次第でもっと先まで行けるものもおりますが。

更にその頂上に立ってみますと天空が不透明に見えるのですが、それは天空そのものの問題ではなくて、霊的な光の性質つまり下の景色からの距離が大きくなるにつれて強度を増して行く性質を持つ霊的な光の問題で有る事が判ります。

ですから、霊力次第で遠くまで見通して其処に存在する生命や景色が見える人もおれば、見えない人もいる訳です。

又見わたせば一面に住居やビルが立ち並んでいるのが見えます。その内の幾つかは私が説明したとおりです。しかしビルと言っても単なる建物、単なる仕事場あるいは研究所と言うのではありません。

その一つ一つの構造からはその建物の性格は疎か、それを建設した人及びそこに住まう人の性格も読み取れない事でしょう。永遠に朽ちることなく存在している事は確かです。
が、地上の建物が何時までも陰気のたち残っているのとは違います。常に発展し、装飾を改め、必要に応じて色彩、形、素材を変えて行きます。取り壊して再び立て直すという手間は要りません。建っている其のままで手直しします。

時の開花による影響は出てきません。崩たり朽ちたりいたしません。其の耐久性はひとえに建築主の意念に掛っており、意念を維持している限り建っており、意念次第で形が変えられます。

もう一つ気がつく事は、小鳥が遠くから飛んできて、完璧な正確さで目標物に留る事です、此方にも伝書鳩の様な訓練された鳥がおります。

でも地上とは躾け方が違います。第一こちらの鳥は撃ち落とされたりいじめられたりする事がありませんから、人間を怖がりません。そこで小鳥を一つの通信手段として使用する事があります。勿論不可欠の手段と言う分けではありません。

他にもっと迅速で盲率的な通信方法が有るものですから。ですが、必需品でなくても美しいからと言うだけで装飾品として身につける事があるのと同じで、小鳥を愛玩道具として通信に使用する訳です。

そんなのがしょっちゅう飛びまわっており、とても可愛くて愛すべき動物です。小鳥も仕事をちゃんと弁えていて、喜んでやっております。

面白い話を聞きました。有る時そんな鳥の一羽が仲間を追い抜い抜こうとして、ついスピードを出し過ぎて地球の圏外に入り込んでしまいました。それを霊視能力のある人間が見つけて発砲しました。驚いた小鳥は―銃の音に驚いたのではありません。

撃とうとした時の意念を感じ取ったのです。―ここは自分の居るところではない事に気づき慌てて逃げ帰りました。感じ取ったのは殺そうと言う欲念でした。

それを不気味に思った小鳥はその体験を仲間に話して聞かせようとするのですが、うまく話せません。それはそうです。何しろそんな邪念はこちらの小鳥は知らないのですから。こちらでの小鳥の生活を地上の小鳥に話しても判ってもらえないのと同じです。

そこで仲間が言いました。―君が話せないような話なら、もう一度地球へ戻ってその男を見つけて、それをどう話して聞かせたらいいのか尋ねて来たらどうか。と。

そう言われて小鳥はその通りにしました。すると其の人間―農夫でした―が“ピジンパイ”と言えば判ってもらえるだろうと答えました。

小鳥はその返事を携えて帰ってきましたが、さてその言葉をどう訳せば良いのか判らず、第一その意味も判らなかったので、自分の判断で次の様な意味の事を伝えました。すなわち、これから地球を訪れるものはそこが本当に自分にとって適切な界であるかどうかをよく確かめてからにしなさい。と。

この話がお訓えんとしているのはこう言う事です。与えられた仕事は、自分の納得する範囲で努力すべき事、―熱心のあまりに自分の立場、あるいは領域を確かめずに仲間を出し抜いてはならない。

さもないと自分は“進んでいる”つもりでいて実はスタートした界より下の界層へ堕落し、そこの最高の者さえ自分本来の界の最低のものより進歩がくれており、仲間として連れ立って行く相手としては面白くないと言った結果になると言う事です。

これなどは軽い小話(エピソート)程度に聞いて頂けば結構ですが、これで私達も時に笑いこげる事もある事、馬鹿げた冗談を言ったり、真面目なつもりで間の抜けた事をしたりすることがお分かり頂ける事でしょう。

ではさようなら。常に愉しい心を失わないようにね。

第4節 死の自覚
1913年10月3日 金曜日

もしあなたが霊的交信の真実性に少しでも疑念を抱いた時は、これまでに受け取った通信をよく検討なさる事です。きっと私達の述べた事に一貫した意図が有る事を意味取られる事でしょう。

その意図とは、霊の世界が、不思議な面もあるにせよ、極めて自然に出来上っている事をあなたに、そしてあなたを通じて他の人々に理解して頂く事です。

実は私達は時折、地上時代を振り返り、死後の世界を暗いものにしていた事を反省して、今地上にいる人々にもっと明るく計画名ものを抱かせてあげたいと思う事があるのです。死後にどんな事が待ち受けているかが良く判らず、従って極めて曖昧なものを抱いて生きておりました。それで宜しいと言う人が大勢おりますがこうして真相に見える立場に立っていると、やはり確固たる目的を目的成就の為には曖昧では行けないと思います。

確固たる来世感を持っておれば決断力を与え勇気ある態度に出る事を可能にします。大勢でなくても、地上で善の為に闘っておられる人々に霊界の実在と明るさについての信念を植え付ける事が出来れば、その明るい世界からこうして地上へ降りてくる苦労も多いに報われると言うものです。

ではこれから、地上の人間がこちらへ来た時に見せる反応をいろいろ紹介してみましょう。勿論霊的発達段階が一様ではありませんから、此方の対応の仕方も様々です。御存じの通りその多くは当分の間自分がいわゆる死んだ人間である事に気づきません。

その理由は、ちゃんと身体を持って生きているからであり、それに、死及び死後について抱いていた先入観が決して容易に捨てられるものではないからです。

そうした人達に対して最初にしてあげる事は、ですから、ここがもう地上ではないのだと言う事を自覚される事で、その為に又いろいろな手段を講じます。

一つの方法はすでに他界している親しい友人あるいは肉親の名前を挙げてみる事です。すると、知っているけどもうこの世にはいません。そこで当人を呼び寄せて対面させ、死んだ人もこうしてちゃんと生き続けている事を実証し、だからあなたも死んだ人間なのですと説得します。これが必ずしも功を奏さないのです。誤った死の観念が執拗に邪魔するのです。そこで手段を変える事になります。

今度は地上の住みなれた土地へ連れて行き、後に残した人々の様子を見せて、その様子が以前と違っている様子を見せつけます。

それでも得心しない時は、死の直前の体験の記憶を辿らせ、最後の眠りのついた時の様子を辿らせ、最後の眠りに就いた時の様子と、其の眠りから醒めた時の様子とを繋いで、その違いを認識させるようにします。

以上の手段が全部失敗するケースが決して少なくありません。あなたの想像以上にうまくいかないものです。と言うのも性格は一年一年じっくりと築きあげられたものであり、それと並行して物の考え方も其の性格に沁みこんでおります。ですから、あまり性急な事をしないように言う配慮も必要です。無理をすると却って発達を遅らせる事にもなりかねません。

もっとも、そんなてこずらせる人ばかりではありません。物分かりがよくて、すぐに死んだ事を自覚してくれる人もおります。こうなると私達の仕事も楽です。

有る時私達は大きな町の大きな病院へ行く事になりました。そこで他の何名かの人とともにこれから他界してくる一人の女性の世話をする事になっておりました。

他の人達はそれまでずっとその女性の病床で様子を窺っていたと言う事で、いよいよ女性が肉体を離れると同時に私達が引き取る事になっておりました。

病室を除くと大勢の人が詰め掛け、皆まるでこれから途方もない惨事でも起きるかのような顔をしております。私達から見るとそれが奇異に思えてならないのです。

なぜかと言えば、其の女性はなかなかできた方で、ようやく永い苦難と悲しみの人生を終え、病に冒された身体からはもうすぐ解放されて、光明の世界へ来ようとしている事が判るからです。

いよいよ昏睡状態に入りました。“生命の糸”を私の仲間が切断して、そっと目醒目を促しました。すると婦人は目を開き、覗き込んでいる人の顔を見てにっこりされました。暫くは安らかで満足しきった表情で横になっておられましたが、その内周囲にいるのが看護婦と縁故者でなくて見知らぬ人ばかりなのだろうと、怪訝に思い始めました。ここはどこかと尋ねるのでありのままを言うと、不思議さと懐かしさが込みあげてきて、もう一度後に残した肉親を見せてほしいと言います。

婦人にはそれが叶えられました(*)ベールを通して地上の病室にいる人々の姿が目に映りました。すると悲しげに首を振って「私がこうして痛みから解放されて楽になった事を知ってくださればいいのに…」とため息交じりに呟き、「あなた方から教えてあげて頂けないかしら」と言います。そこで私達が試みたのですが、その内に一人だけが通じたようですが、それも十分ではなく、その内その人も幻覚だったろうと思って忘れ去りました。(*誰にも叶えられるとは限らない)

私達はその部屋を出ました。そしてその方の体力が幾分回復してから子供の学校へ案内しました。そこにその方のお子さんがいるのです。

其のお子さんと再会した時の感情的シーンはとても言葉では尽くせません。お子さんは数年前に他界し、以来ずっとその学校にいたのです。そこでは今ではお子さんの方が先生格になってお母さんにいろいろと教えていました。ほほえましい光景でした。

建物の中や講内を案内していろいろな物を見せ周り、又友達を紹介しておりました。その顔は生き生きとして喜びに溢れ、お母さんも同じでした。

それから暫く私達二人はその場を離れたのですが、戻って見るとその親子は大きな木の下に腰を掛け、母親が地上に残した人達の話をすると、子供の方はその後こちらへ他界してきた人の事や、その人達と巡り合った時の話、学校での生活の事などを話しておりました。

私達は二人を引き離すのは辛かったのですが、遠からず再び、そして度々、きっと面会に来られるからという約束をして学校を後にしました。

これなどはうまく行った例であり、こうしたケースは少なく有りませんが、又別の経緯(イキサツ)を辿るものが沢山あるのです。

ところで例の母子が語り合っている間、私達は学校の構内を回って各種の教育機器を見学しました。其の中に私が特に目を引かれたものがありました。

直径六~七フィート有ろうかと思われる大きなガラスの球体で、二本の通路の交差する位置に置いてあり、その通路の辺りの様子が球体に映っておりました。

ところが其の球体の内部をのぞくと、花とか樹木とか植物が茂っているだけでなく、それが遠い昔から枝分かれしてきた其の根元の目まで見分けられるようになっているのです。それはさながら地上における植物進化の学習の様なものでした。

ただ地上と異なるのは、そこにあるのは化石ではなく実際に生きており、今も成長していると言う事です。それも源種から始まって今日の形態になるまでが全部揃っているのです。

子供たちの課題は次の様なものである事を教わりました。すなわち実際に其処の庭に成長し球体に反射して見える植物、樹木、花などがどう言う過程を経て進化してきたのかを勉強してみる事です。

知的才能のトレーニングとして実にすばらしいものですが、創造されたものは大体において苦笑を誘うようなほほえましいものが多いようです。
さ、あまり長くなりすぎてもいけませんね。続きは又書けるようになってからにしましょう。神の御恵みを。さようなら。

第5節 天界の祝祭日
1913年10月6日 月曜日

この度の”収穫感謝祭”はまたずいぶん楽しかったではありませんか。あなたは気づかなかったようだけど私達はずっとあなたの側にいたのですよ。忙しくて私達の事を考える余裕が無かったのでしょうけど。地上にいる方々と共に礼拝に参加して何らかのお役にたてるのは嬉しいものです。

驚かれるかもしれませんが、こちらの光明界でも時折あなた方と同じような儀式を行い、豊かな実りを神に感謝する事があります。地上の同胞の感謝の念を補うためでもあり、同時に私たち自身の霊的高揚のためでもあります。こちらには地上のような収穫はありません。ですが、それに相当する他の種類の恵みに感謝する儀式を取り行うのです。

例えば私達は周りに溢れる美と、仕事と向上への意欲を与えてくれる光明と愛を神に感謝する儀式を行います。そのような時は大抵高い界からの“顕現”が見られます。その一つをこれからお話しましょう。

川のある盆地(*)で聖餐式(ユーカリスト)を催していた時の事です。流域に二つの丘が其の川を挟むような形で聳えております。私達は讃仰と礼拝の言葉を述べ、頭を垂れこうした時に必ず漲ってくる静かな安らぎの中で、その日の司祭を勤められている方からの祝福の言葉を持っておりました。その方は丘の少し高い位置に立っておられるのですが、何一つおっしゃらないので私達はどうしたのだろうと思い始めました。

暫くして私達は頭を上げました。まるで内なる声に促されたように一斉にあげたのです。見ると司祭の立っておられる丘が黄金色の光に包まれ、それがベールのように被さっておりました。やがてそのベールがゆっくりと凝縮し、司祭の身体の周りに集まってきました。

司祭はそうした事も一切気づかないような態度で立っておられます。其の時ようやく我に帰り、その光のベールの中から出て私達の方へ近づき“少しお待ちください。高き界から降りてこの儀式に御臨席になっておられるお姿を排する事が出来ます”とおっしゃいました。そこで私達は有難い気持ちでお待ちしていました。

こちらではおっしゃったことが必ず実現するのです。見ると凝縮していた光が上昇して流域全体を覆い、さらに止まることなく広がり続けて、ついに天空を覆い尽くし、おおったかと思うと今度はゆっくりと下降してきて私達を包みました。私達はまさに光の海、―に浸っておりました。浸っているうちに其の光で視力が増し、やがて眼の前に約束の影像が展開するのが見えてきました。

まず二つの丘が炎のように煌々と輝き始めました。良く見ると両方の丘が“玉座”の側部ないしは肘掛となり、その周りがイザヤ書と黙示録の叙述を髣髴とさせるように虹の色に輝いておりました。しかし玉座におられる方の真の姿は私達には見えません。

少なくとも形態を纏ったお姿は見えません。私達の目に映ったのは父なる存在を示す為の顕現の一つでした。その丘の中腹の台地―そこがちょうど玉座の“座”の位置になります―のところに大勢の天使が集まっており側にある大きな揺り籠の中を覗き込む姿で礼拝しているのです。

その揺り籠の中に一人の子供がいて天使団に向かって微笑んでおります。やがてその子供が両手を高々と伸ばしますと、天空から一条の光が差し込んだように見えました。

見るとその子供の両腕の中に黄金色に輝く一個の球体が降りてまいりました。すると子供が立ちあがってそれを左手で捧げ持ちました。それは生命の光で躍動し、きらきらと輝き、燃え盛り、いやがうえにも明るさを増して、ついには其の球体と子供以外は何も見えなくなり、その子の身体を貫いて生き光が放射されているように見えました。

やがてその子は球体を両手で持ち、それを真二つに割り、其の割れた面を私達の方へ向けました。一方にはピンクの光線が充満し、もう一方には青の光線が充満しております。よく見かけると後者は天界の界層が同心円状に幾重にも描かれており、その一つ一つが輝くばかりの美しい存在に満ちあふれております。

その輝きは内側ほど強烈で、外側になるほど弱まりますが、私達の目には外側ほど鮮明に見えます。それは私達の界がそれに近いからです。一番中心部になると光輝が強すぎて私達には何があるのか全然見えません。反対に外側の円は私達の界層である事が判りました。

もう一つのピンクの半球はそれと違って中に何の円も見えませんが、地球を含めた惑星上の動植物のすべての種が見えます。最もあなた方が見ているものとは少し様子が異なり、完成した姿をしております。人間から最下等の海の動物までと、大きな樹木や美味な果実から小さな雑草までがありました。

私達が暫くそれを見つめていると、その子が両半球すなわち壮麗なる天界と完成された物質界とを一つに合わせました。合わさったとたんに継ぎ目が見えなくなり、どっちがどっちだか見分けがつかなくなりました。

処が見る間にそれが大きくなり始め、ついに子供の手から離れて浮上し、天空へ向けて少しばかり上昇したところで止まりました。見事な光の玉です。其の時です。その玉の上にイエスキリストの姿が現れたのです。

左手に十字架を持っておられます。其の一番下の端は球体の上に置かれ、一番上は肩の少し上あたりまで来ておられます。右手で先ほどの子供を支え持っておられます。見るとその子供の額のところに紐状の一本の黄金の環が冠せてあり胸の辺りには大きなルビーのような宝石箱が輝いております。

そう見ているうちの光の玉はゆっくりと天空へ向けて上昇し始め、視界の中でだんだん小さくなって行き、ついに二つの丘の中間あたりの遥か上空へと消えて行きました。

そこで全てが不通の状態に戻りました。仲間たちと一緒に腰をおろして今見たものに感嘆し合い、その意味合いを考え合いました。が、こうではないかと言った程度の事を言いあうだけで、確信を持って述べられる人は一人もいませんでした。其の時ふと司祭の事を思い出しました。光に包まれ、見た目には私達より遥かに強烈な影響を受けたように思えました。

見ると司祭は岩の上に腰をかけておられ、静かな笑みを浮かべておられました。なんだか私達が最後にこうして自分のところへやってくることを見越して、思い出すのを待っておられたみたいでした。司祭は私達にもう一度座るように命じられ、それから先ほどの幻想的シーンの説明を始められました。

実は司祭は既にあの現象について予め説明を受けておられ、それを私達に授け、より高尚な意味、より深い意味については私達自身で良く考え、自分なりの理解力に応じたものを摂取する事になっていたのです。今回のような手段による教育が受けられる時はいつもそうなのです。

ピンク色の半球は私達の界より下層の世界の創造を意味し、青の半球は私達の界および上層界の創造を象徴しておりました。が、両者は“二種類の創造”を意味するのではなく、実は全体として一つであって、二つの半球にも他の小さな区分にも隔たりはないと言う事を象徴していました。子供は始まりと進歩と終わりなき目的を具象化したもので、要するに私達の限りなき向上の道を象徴していた訳です。

ルビーは犠牲を象徴し、黄金の環は成就を象徴し、光球が上昇した事、そこへキリストが出現し片手に子供を捧げ持った事は、現在の私達には到達できない高い界層への向上心を鼓舞するもので有りました。

勿論以上は概略であって、まだまだ多くの意味が込められております。さっき述べたように、それをこれから自分で考えて行く事になっている訳です。私達の慣習として、それをこれから先、折に触れて発表し合い議論し合う事になりましょう。

―どうもありがとう御座いました。ここであなたに尋ねて欲しいと言う依頼のあった質問をさせてくだい。

お書きになるには及びません。あなたの心の中に読み取ることができますから。右の言葉も書かれる前から判っておりました。

Eさんが教会の祭壇で見かけたハトは、私が今述べた類の一種の“顕現”です。あの儀式には目に見えない集会を催されておりました。祭壇の周りに大勢の霊がいて、受け入れる用意のある人にはいつでも援助を授けようと待機していたのです。

その霊達の心の優しさがハトとなって具現して、人を怖がる事なく飛び回っていたのです。進歩の遅れた人にとっては、そうした恐れを知らない純真さを高級霊の目で維持する事は容易にできる事ではありません。その輝かんばかりの崇高さが時として、僅かな餓らも持っている彼らの徳を圧倒してしまい、気の毒な事ですが、疑いを宿すものを怖じ気させる事があるのです。

第6節 念力による創造実験
1913年10月8日 水曜日

私たちからの通信の奥深い意味を理解なさろうとする方にとって大事な事が幾つかあります。今夜はそうした表面を見ただけでは判らない事―普通のものの考え方では見落とされがちな問題を扱う上で役に立ち指針となるものをお教えしようと思います。

その一つは人間界から放射された思念がこちらへ届く時の様子です。善性を帯びた思念には輝きが見られますが、善性が欠けているとそれが見られません。その光輝はもともと本人の体から出ており、それで私達はその色彩(オーラ)を見て霊的性格を判断することができます。

単に明るいとか暗いとか、明るさの段階がどの段階であると言った事だけでなく、その人のどういう面が優れていて、どういう面に欠点があると言う事まで判断します。その判断に基ずいて、長所をさらに伸ばし、欠点を矯正して行く上で最も適当な指導霊を当てがう事になります。

こうして一種のプリズム方式によって性格を分析し、それに基ずいて診断を下します。

これは肉体に包まれた人間の場合であって、こちらではそんな事をする必要はありません。と言うのは、こうした事は霊的身体(*)に関わる問題であり、こちらでは霊体は当然誰の目にもまる見えであり、それがいわば魂の完璧な指標なのですから、その人の霊的性格が全部わかってしまいます。

言い落しましたが、そうした色彩は衣服にも反映しますから、その支配的色彩を見て、この人はどの界のどの程度の人だと言う判断を下す訳です。しかし思念は精神的行為の”結果”ですから、その霊が生活している環境を見てもどういう思念を抱いている人であるかが判ります。

単に見えるだけでなく肌で感じ取ることが出来ます。地上よりも遥かに正確でしかも強烈です。

(日本の心霊科学ではこれを幽体と霊体と神体とに分けているのが常識となっているが、本書では霊体と言う用語を肉体とは別の霊的な身体と言う意味で用いることにする。霊界についても同じである)

こう言うふうに考えていけば私達が強烈な思考を働かせれば、その念が目に見える客観的存在となって顕現する事が当然あり得る事になります。と言う事は、美しいものを意図的に捉えることもできると言う訳です。

―何か例をあげていただけますか。

宜しい。その方が良く分かって頂けるでしょう。

有る時、こうした勉強をしている仲間が集まって、どの程度進歩したかを試してみましょうと言うことになりました。そこで美しい森の空地を選び、全員で有る一つの像を念じてその出来具合を見ました。

私達が選んだのは、後で調べるのに都合が良いように、固くて長持ちするということで象に似た動物でした。象とは少し違います。こちらにはいますが地上ではもう絶滅しました。私達は空地で円座を組み、その動物を想像しつつ意念を集中しました。

すると意外に速くそれが目の前に姿を現しました。こんなに速くできるものかと皆で感心しました。
しかし私達の目には二つの欠点が見えました。一つは大きすぎると言うこと。全員の意念を加減することを忘れたのです。もうひとつは確かに生きた動物では有るけれど、部分的には石像のようなところもあることです。

生きた動物を想像して念じた者が多かったからそうなったので、結局は石と肉と混合の様な、妙なものになってしまいました。他にも挙げれば細かい欠点が色々と目立ちます。例えば頭部が大きすぎて胴が小さすぎました。念の配分が片寄っていることを示すものです。

こういう具合に欠点を知り、その修正方法を研究します。実験してみてはその成果を検討し、再びやり直します。…

そうして捉えた像から注意を逸らして語り合っていると、その像が徐々に姿を消して行きます。そこでまた新たにやってみる訳です。私達は同じモデルは二度と使用しないことにしました。思念の仕方が一つのパターンにはまってしまう恐れがあるからです。

そこで今度は実の付いた果樹にしました。オレンジの木に似ていますが、少し違います。今度は前よりうまく行きました。失敗点の主なものとしては果実が熟したものと熟していないものとがあったこと。それから葉の色が間違っていましたし、枝の長さに、まとまりがありませんでした。こうして次から次へと実験し、その度にすこしずつうまくなっていきました。

あなたにはこうした学習の愉しさや、失敗から生れる笑いやユーモアがある程度は想像して頂けると思います。死後の世界には冗談も、従って笑いも無いかのように想像している人は、いずれその考えを改めて頂かねばなりません。

そうしないとこちらへきてから私達とお付き合いがしにくい―いえ、私達のほうがその方達とお付き合いしにくいのです。でも、そう言う人でもやがてこの世界の愛に目覚め、至って自然にそして屈託なく振る舞う事が出来る事を知り、そうならないとまともに相手にしてもらえなことをさとるようになります。

地上と言うところはそれとは反対のように思いますが、如何ですか。いえ、地上は地上なりに生きていてそれなりの教育を得ることです。そうすればこちらへ来て―タダブラブラするだけ、あるいはもっと堕落すれば別ですが―当たり前に生活すれば進歩も早いのです。そして学べば学ぶほど自由に使いこなせるエネルギーに感応するのです。

―アストリエル霊、昨日来られた方ですが、ここに来ておられますか。

今夜はおいでになりません。お望みであれば、またおいでになりましょう、きっと。

―どうも。であなたにも来て頂きたいですね。

ええ、それは勿論。あの方も私も参りますよ。あなたの為でもあり、同時に私達にとっても、こうして霊感操作をする事が、今述べていることが映像となってあなたの意識に入って来るのが見えませんか。

―見えます。時には実に鮮明に見える事があります。そう言う事だとは思ってもみませんでした。

おやおや、そうでしたか。でもこれでお分かりでしょう、さっきの事を書いたのもそれなりの目的があったと言う事が。あなたはどうもそれがピンとこない。―多分その通りだったでしょう。それは私達も認めます。―と思っておられましたし、一体何を訴えんとしているのかと、いささか不愉快にさえ思っておられた。

ね、そうではなかったかしら。私達はあなたのその様子をみてニコニコしていたのですよ。でもあなたは私達に思念をほぼ私達が念じた通りに解釈しておられましたし、そうさせた私達の意図も、意念と言うものがあれほど鮮明に、そして実感を持って眼前に現れるものである事を判って頂くことにあったのです。

では、さようなら。あなたに、そしてあなたのお家族に神の祝福を。

<現著者ノート>アストリエル霊のメッセージは数多く書かれているが、全体に連続性が見られない。何故か良く分からない。が、結果としては母の通信の合間に割って入る為に、アストリエル霊自身の通信は勿論母の通信の連続性も破壊してしまう。そこでアストリエル霊の通信は日付けの順で出さずに、巻末の第六章にまとめて紹介する。