第1章 暗黒の世界
第1節 霊界の風景
1913年9月23日 火曜日

―どなたでしょうか(オーエン氏の質問)

あなたの母親です。ほかに援助して下さる方が幾人かお出でです。私達は順調に進歩しております。しかしまだ、述べたい事の全てを伝える事が出来ません。それはあなたの精神状態がこちらが期待するほど平静で受け身的でないからでもあります。

―住んでおられる家屋と、今携わっている仕事について教えて下さい。

仕事はその対象となる人間の必要性によって異なります。非常に多種多様です。しかし現在地上にいる人々の向上に向けられている点は一様に同じです。

例えばローズ(オーエン氏の妻)にまず働きかけて自動書記をやらせ、その間の危険から護ってあげる霊団を組織したのは私達です。今でもその霊団が彼女の面倒を見ております。時折近くに存在を感じているのではないでしょうか。多分その筈です。必要とあればすぐにまいりますから。

次は家屋について。これはとても明るく美しく出来上っております。そして高い界におられる同志の方々がひっきりなしに訪れては向上の道へ励まして下さいます。

(ここで一つ疑問が浮かんだ。母達の目にはその高級界からの霊の姿が見えるのだろうか、それとも我々人間と同じなのだろうか、と言う事である。断っておきたいのは、この霊界通信を読んでいかれるうちに読者は、私が明らかに口に出していない思念に対する答えが“イエス”あるいは“ノー”で始まって綴られているのを各所に発見される筈である。その点をご了承頂いて、特に必要がない限り、それが実際に口に出した質問なのか、それとも私の意念を読み取ったものかは断らない事とする)

はい、見えます。その方達が私達に姿を見せようと思われた時は見られます。しかし私達の発達程度と、その方達の私達に対する力量次第です。

では今住んでおられるところ…景色その他を説明をして頂けますか。

完成された地上、と言った感じです。でも、もちろん四次元の要素が幾分ありますから、うまく説明できないところがあります。丘もあれば小川もあり、美しい森もあり、家々もあります。それに、私達が地上から来た時の為に前もって先輩達がこしらえてくれているものもあります。

今は代わって私達が、今しばらく地上の生存競争の中に生き続けなければならない人々の為に、環境をこしらえたり整えたりして上げております。こちらへこられた時には万事がうまく整っており、歓迎の準備も出来ていると言う訳です。

ここで最近私が目撃した興味深い光景(シーン)をお話いたしましょう。そうです、此方のこの土地でのシーンです。私達の住んでいる家からほど遠からぬ広い平地である儀式が執り行われると聞かされ、私達もそれに出席するようにとの事でした。儀式と言うのは、一人の霊が“偏見”と呼ばれている段階、つまり自分の特殊な考えと異なる人々への僻み根性からすっかり卒業して一段と広く充実した世界へ進んでいく事になったのを祝うものです。

言われるままに私達も行ってみました。すると方々から大勢の人が続々とやって参ります。中には馬車で・・・何故躊躇するのですか。私達は目撃した事をありのままに述べているのです。

馬車で来る人もいます。お好きなように別な呼び方をしても構いませんよ。ちゃんと馬にひかれております。御者の言う事がすぐに馬に通じるようです。

と言うのは、地上の御者のように手綱を持っていないのです。それでも御者の思う方向へ走っているようでした。歩いてくる人もいました。空を飛んで来る人もいました。いえ、翼はついておりません。要らないのです。

さて皆さんが集まると円座が作られました。そこへさっきの方が進み出ました。祝福を受ける霊です。その方はオレンジ色の長い礼服を着ておられます。明るいオレンジ色で、地上では見かけない色です。こちらの世界の色はどれも地上では見られないものばかりです。

ですが、地上の言葉を使う他ありません。さて指導霊がその人の手を取って円座の中央の小高い芝生の所に位置させ、何やら祈りの言葉を述べられました。すると実に美しい光景が展開し始めました。

空の色…殆ど全体が青と金色です…が一段と強さを増しました。そしてその中から一枚のベールのようなもの、小鳥や花を散りばめた見事なレースで出来たように見えるものが降りてきました。白いと言うよりは金色に輝いておりました。

それがゆっくりと広がって二人を蔽う様に被さり、二人がそのベールに溶け込み、ベールも又二人と一体となって、やがてその場からゆっくりと消えて行きました。二人ともそれまでとは格段の美しさ、永遠の美しさに輝いておりました。なにしろ二人とも一段界上の光明の世界へと向上して行ったのですから。

それから合唱が始まりました。楽器は見えないのですが、間違いなく楽器による演奏が聞こえ、それが私たちの歌声と融合し一体となっておりました。

それはそれは美しい光景でした。それは、向上していく二人にとってはそれまでの努力を祝福する餞別(ハナムケ)であり、見送る者、二人が辿った道をこれから辿らねばならない者にとっては、一層の努力を鼓舞するものでした。

後で尋ねてみましたら、その音楽は円座の外側にある寺院の森から聞こえて来ていたとのことで、道理で一定の方向から聞こえてくるようには思えませんでした。それがこちらの音楽の特徴なのです。大気の一部と成りきっているように感じられるのです。

お二人には宝石までついておりました。蔽っていたベールが消えた時、祝福を受けた霊の額に金色と赤色の宝石が見えました。そして指導霊…この方にはすでに一つ付いておりましたが、…にも新たにもう一つ左肩についており、それが大きさと明るさを一段と増しておりました。どういう過程でそうなるのかは判りません。

私達の推測をしておりますが、あなたに言えるほどの確信はありません。それに、私達が理解している事を地上の言葉で伝える事自体が難しいのです。儀式が終わると、みんな其々の仕事に戻りました。実際の儀式は今述べたよりも長時間にわたるもので、参加した人たちに深い感銘を与えました。

儀式の最中の事ですが、私たちが立っている位置から丘越しに見える平地の向こう端に一個の光が輝いて見え、それが私達には人間の容姿をしているように見えました。今思うとそれは主イエスではなく、その儀式のためのエネルギーを供給し、目的を成就させるために来られた大天使のお一人であったようです。

勿論私より鮮明にその御姿を拝した人もおられます。何故なら霊的進化の程度に応じて見え方も理解の程度も異なるものだからです。

さて、ここであなたに考えてみて頂きたいのです。こうした話をあなた自身の頭から出たものだと思われますか。それともあなたを通じてあなたの外部から来たものだと思われますか。今日その机に座って腰かけた時、あなたはまさかこうした話が綴られるとは予想しなかった筈です。

私達も予めその点に配慮して先入観を入れないように用心したのです。でも、こうしてあなたと霊的なつながりが出来た途端に、今の話を綴られました。そうではありませんか。

…その通りです。その点は正直に認めます。

そうですとも、では、これでお別れです。あなたとお別れすると言うのではありません。私達はあなた理解出来ない或る意味で常にあなたの側におります。あなたの手を借りて書くと言う仕事としばしお別れと言う意味です。神の祝福のあらん事を祈りながら、ではまた明日まで、さようなら。

第2節 悲しみの館
1913年9月24日 水曜日

あなたとの間に始められたこうした通信が究極に置いてどう言う影響をおよぼすか…其の事を少し遠い先へ目をやって現在のご自分の心理状態の成り行きとの関連に置いて考察して御覧なさい。

私達霊界の者から見た時、これまでの事の成り行きが私達の目にどのように映っていたと思われますか。それはちょうど霧の海に太陽に光が差し込んだのと同じで、霧が次第に晴れ上がり、それまで隠されていた景色がはっきりと、そしてより美しくその姿を見せてまいります。

あなたの精神状態もいずれそうなると私達は見ております。暫くは真理と言う名の太陽に目がくらみ、真相が分かるよりはむしろ当惑なさるでしょうけど、目指すものは光明である事、究極においては影を宿さぬ光だけの世界となる事を悟られる事でしょう。

光は必ずしも有難たがられるものとは決まっておりません。日光で成長するようにできていない種類の生物がいるのと同じです。

そういう人は其れで宜しい。そしてあなたはあなたの道を歩まれる事です。進むにつれてより強い光、神の愛のより大きな美しさに慣れてくるでしょう。光を好まぬ者には、無限の叡智と融合したその光の強さは迷惑でしかないのでしょうけど……。

ではここでもう一つ、神の御光そのものに輝くこの地域で見かけた楽しい光景をお伝えしましょう。

つい先頃の事ですが、私達は美しい森の多い土地を散策しておりました。歩きながらおしゃべりを始めたのですが、それもほんの少しの間でした。と言うのは、全てを聖なる静寂の中に吸い込んでしまうような音楽を感じ取ったのです。

その時です。前方に間違いなく上級界の天使と思われる神々しいお姿が目に入りました。

その方は立ったまま笑みを浮かべて私達を見つめておられます。何も語りかけません。が、その内私達の内の一人に特別のメッセージを持って来られた事を私は感じ取りました。そしてそれがほかならぬ私である事もすぐに分かりました。

私達が立ち止まって待ち受けていますとすぐ近くまでお出でになり、身に着けておられるマント風のもの…琥珀色でした…。を片手で少し持ち上げて私の肩に掛け、手も肩に置き、さらに頬を私の髪を当てて…私より遥かに背の高い方でした。…優しくこうおっしゃいました。

「私はあなた方が信仰しておられる主イエスの命を受けてまいりました。主は全てをお見通しです。あなたはまだ先の事がお判りでない。そこでこれからあなたがおやりになる仕事の為の力をお授けしましょう。実はあなたはこちらでの新たな使命に携わる一人として選ばれております。

勿論そちらにおられる仲間の方々とお会いになろうと思えばいつでもできますが、申し訳ないが暫くお別れ頂いて、これからあなたが新しく住まわれる場所と、やって頂かねばならない仕事の案内をさせて下さい」

天使様がそう言い終わると仲間のものが私の周りに集まってきて頬にキスをしたり手を握ったりして祝福してくれました。皆自分の事のように喜んでくれました。いえ、この言い方はぴったり致しません。嬉しさを十分に言い表しておりません。

先ほどの御言葉の真意を私達が語り合うのをお待ちになってから天使様が再び私に近づき、今度は私の手を取って何処かへ連れて行かれました。

暫く歩いて行くうちに、ふわっと両足が地面から離れ空中を飛び始めました。別に怖いとは思いませんでした。私にはすでにそれだけの力が与えられていた訳です。数々の宮殿のような建物の見える高い山並みの上空を通過し、かなりの長旅の末にようやく降りました。そこは一度も見来た事のない都市でした。

その都市を包む光は決して悪くないのですが、私の目が其の明るさに慣れていない為に周りの事が良く判りませんでした。が、その内大きな建物を取り囲む庭の中にいる事が判ってきました。玄関へ向けて階段状に長い道がついており、その一番上にテラスのようなものがあります。

建物全体が各種の色彩―ピンクと青と赤と黄―の一つの素材で出来ており、それが全体として黄色の様な輝き、柔らかさを持った輝きを見せておりました。其の昇り段を天使の方へ上がって行き入口のところまで来ました。そこにはドアはついておりませんでした。

そこで一人の美しい女性が迎えて下さいました。堂々としておられましたが決して尊大に見えません。実はその方は「悲しみの館」の主人です。こんなところで不似合いな言葉と思われるでしょう。実はこう言う事なのです。

悲しみと言うのはここに住んでおられる方の悲しみではなく、世話を仰せつかっている人間の身の上の事です。悲しみに打ちひしがれている地上の人々の事です。

この館に勤める人はそうした地上の不幸な人々へ向けて霊波を送り、その悲しみを和らげてあげるのが仕事なのです。こちらでは物事の真相に迫りその根源を知らなくてはなりません。

それには大変奥の深い勉強が必要であり、少しずつ段階的に進んでいく他有りません。

今“霊波”と言う用語を用いたのも、それが真相をズバリ言い表した言葉であり、あなたにとって一番理解しやすいと思うからです。
其の女性はとても優しく私を迎えて中へ案内し、建物の一部を紹介して下さいました。地上とはまるで趣の異なるもので、説明するのが困難です。強いて言えば建物全体が生命で脈打っている感じで、私達の意志の生命力に反応しているようでした。

以来そこでの仕事が現段階での私の最も新しい仕事で、とても楽しいものになりそうです。でも私はまだ、地上から届いて鑑識される祈りと、耳に聞こえてくる…と言うよりはやはりこれも鑑識されると言った方が良いでしょう…悶え苦しむ人々の嘆きがやっと分かるようになり始めたばかりです。

私達は其れをいわば感じ取り、それに対する回答をバイブレーションで送り返します。慣れれば無意識に出来るようになるものですが、最初の内は大変な努力が要ります。私にはとても大変な事です。でもその努力にも、携わる者にはそれなりの恵みがあるものです。

送り届けた慰めや援助などの効果は再び跳ね返ってくるものなのですが、勉強していくうちに分かってきたのは、地上と接触を保っているこちらの地域でも、この送り届ける慰めと援助の他は私には何も知り得ない地域があると言う事です。

今のところ私がその仕事に携わるのは一度にほんの僅かな間だけで、すぐにその都市や近郊の見学に出かけます。何処をみても荘厳で、前にいたところよりもずっと美しいです。

今ではかつての仲間を訪ねに行く事があります。会った時にどんな話をするか、あなたにも大体の想像がつくと思います。

仕事も楽しいですが、それに劣らず語り合うのも楽しいものです。あたりは主イエスキリストのもとにおける安らかさに包まれております。そこは暗闇のない世界です。あなたも始めに述べた霧が晴れればこの土地を訪れる事になるでしょう。その時は私が何もかも案内して差し上げましょう。

その内多分あなたも向上して、今度はあなたの方が、あの天使様がして下さったように、私の手を取ってあなたの携わるお仕事を見せに案内して下さることになるでしょう。随分意欲的だと思っておられるようですね。それはそうですよ。

それが母親のそうね、煩悩と言うものかしら。いえ、母親ならではの喜びではないかしら。

では又にしましょう。今のあなたの心の状態を見れば、全てを真実と信じておられるのが分かります。嬉しそうに明るく輝いて見えますよ。それは母親である私にも嬉しい事です。では、おやすみなさい。神よ、安らかに垂れ給え。

第3節 バイブレーションの原理
1913年9月25日 木曜日

聖書の中に主イエスがペテロの事を自分への反逆者であるかの如く述べた部分があり、あなたは其の真意を捉えかねている様子だから、今夜は、十分でないかもしれないけれどぜひその事を明らかにしてみたいと思います。

御存じの通り、その時イエスはエルサレムへ行く途中でした。そして弟子達に対し自分はエルサレムで殺されるであろうと述べます。

その時のイエスの真理は、自分が殺される事によって一見自分達の使命が失敗に終わったかのごとく思われるかもしれないが、見る目を持つ者には…弟子達がそうであって欲しいとイエスは思った事でしょうが…自分の真の目的はそれまでの伝導の道よりもはるかに強力にして栄光ある発展の為の口火を切ることであり、それが父なる神より授かった地上人類の霊的高揚の為の自分の使命なのだと言う事でした。

ペテロは其れが理解できない事を彼なりの態度で示しました。当然であり、無理もないことですが、この事に関しては何時も見落とされている事があります。

それは、イエスは死を超越した真一文字の使命を遂行していたのであり、磔刑(ハリツケ)はその使命の中における一つの出来事に過ぎない。それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような“喜び”の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。

何故ならば、テコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば災いを転じて福となし、神の計画を推進する事になると言う事でした。悲劇をただの不幸と受け止める事が如何に狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の“価値”を理解して始めて分かる事です。

さてイエスは今まさに未曾有の悲劇を弟子達にもたらさんとしておりました。

もし弟子達がその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子達に託す使命が成就されません。そこでイエスは言いました。…「汝らの悲しみもやがて喜びと変わらん」と。そして遂にそうなりました。

最もそれは悲しみの奥義を理解できるようになってからの事です。理解と言っても限られた程度のものでした。が、ある程度の理解は確かに出来たのでした。

こうして文章で綴ってしまえば随分簡単な事のように感じられます。又ある意味では現に単純なのです。神の摂理の基本的原理は全て単純だからです。ですが私達、特に現在の私にとっては、あなたにも判然としないかもしれない重要性を秘めております。

と言いますのは、今の私の生活の大半を過ごしている新しい建物に中での主の課題がそれと同じ事、つまり人間界の悲しみのバイブレーションを喜びを生み出すバイブレーションに転換する事だからです。とても素敵な仕事です。

ですが自由意思の尊厳がもたらすところの数々の制約がいろいろと面倒な問題を生み出します。いかなる人間であっても、その人の自由意思を無視する事は許されないのです。当人の意志を尊重しつつ、当人にとって望ましくもあり同時に相応しい結果、少なくともまずまずと言える程度のものを授けなければなりません。

時にはうんざりする事もありますが、この仕事に携わる事によって強くなるにつれて、そうした念も消えていく事でしょう。ところであなたの質問は何ですか。訪ねたいと思っている事があるようでしたが。

…いえ、ありません。特別な質問はありませんが。

尋ねたいと思われた事がありませんでしたか。あなたにこうして霊感を印象づける方法と関連した事で。

…そう言えば今朝がた其の事をお聞きしようと思ったことは事実です。すっかり忘れておりました。でも大して説明して頂くほどの事でもないように思いますがいかがでしょうか。私は“精神感応”と呼んではどうかと思いますが。

なるほど当たらずといえども遠からずですね。でもピッタリと言う分けでもありません。精神感応と言うのは未知の分野も含めた大雑把な用語です。私達があなたの印象付ける手段は各種のバイブレーションです。本質が其々少しずつ異なります。

それをあなたの精神へ向けて集中するのです。ですが、どうやらあなたはこの種の問題は今あまり気が乗らないようですね。又の機会に改めて述べる事にしましょう。今あなたが関心を抱いているものがあればおっしゃって見てください。

…では、あなたの住んでおられる家と、新しく始められた仕事についてもう少し話して下さい。

宜しい。では出来るだけ分かりやすくお話いたしましょう。

住居は内側も外側も実に美しく設備が整えられております。浴室もあれば音楽室もあり、私達の意念を反映させて行く上で補助的な役割をする道具もあります。

随分広いものです。私は今“住居”と言いましたが、本当はその続きの建物で、その一つ一つがある主の仕事を割り当てられていて、それが段階的に進んでいくように工夫されております。

どの家からでも始めて次の建物へ進む事が出来ます。でもこんな話は人間にはあまりに不思議過ぎて理解する事も信じる事も出来ないでしょうから、もっと分かりやすいものを取り上げてみましょう。

土地は広々としており、その土地と建物との間に何らかの関係、一種の共鳴関係の様なものがあります。例えば樹木は地上と同じ樹木そのもので、同じように成長しておりますが、其の樹木と建物との間に共鳴関係の様なものがあり、

樹木の種類が異なると共鳴する建物も異なり、建物が目的としている仕事の効率を上げる作用を及ぼしております。それと同じ事が森の中の一つのグループについても言えますし、小道の両脇の花壇、各所にみられる小川や滝の配置についても言えます。

全てが驚くべき叡智から生み出され、その効果は“美しい”の一語に尽きます。

実を言うと同じ作用が地上でもあるのです。ただバイブレーションがそれを放射する側もそれに反応する側もともにこちらに比して鈍重である為に、その効果がほとんど目立たないだけです。

でも実際にある事はあるのです。例えば花や樹木の栽培が特に上手な人がいるのをご存じでしょう。それから、花が他家よりも長持ちする家―そういう家族があるものです。

切り花の事です。荒削りではありますが、すべて同じ事です。こちらでは影響力が強力で、受ける側も鋭敏なのです。ついでに言えば、この事は私達が今携わっている仕事で個々のケースを正確に診断する上で良い参考になります。

大気も当然この植物と建物によって影響を受けます。と言いますのは、繰り返す事になりますが、そうした建物は単なる技術で建造されるのではなく、この界の高位の天使の方々の意念の結晶―産物と言っても良いでしょう―であり、従って大変強力な創造的念力によるものだからです。
(其の詳しい原理は第六章でアストリエル霊が解説)

大気は又私達の衣服にも影響を及ぼします。更にはその生地と色への影響が私達の性格その物まで沁みこんでいきます。

ですから霊的に性格が似ている者同士は同じ大気の影響を受けている訳ですから、身に纏っているものも色合いと生地がよく似ておりますが、実際には一人一人その個性の違いによって少しずつ違っております。

更に私達がたまたま位置したその地面の影響で衣服の色合いが変化する事があります。あたり一面に色とりどりの草花が繁茂している歩道や様々な品種の植物の配置具合が異なる場所を通りかかると衣服の趣が変化していくのを見るのは面白くもあり、為にもなり、又見た目にも美しくもあります。

小川が又美しいのです。水の妖精の話はあなたも聴いた事があるでしょう。地上の話ですよ。あれは少なくてもこちらで本当の話です。その場全体に生命がみなぎり、すみずみまで浸透しております。と言う事は生命の存在がそこにあると言う事です。

この事は前にいた界でもある程度は知っておりましたが、この界へ来て辺りの不思議さ目新しさに慣れてくると、そうした事は一層はっきりと認識され、同時にこの調子で行くとこれから先の界は一体どうなっているのだろうかと驚異を抱き始めております。

この界の不思議さ等どこへ行ってもあたり前のように思えるからです。

でも、今日はこの辺で止めにしましょう。この美しい御国の片鱗を見せて下さった神は又別の片鱗を見せて下さる事でしょう。これはあなたへの言葉ですよ。今日はこの言葉で終わりとしましょう。それでは。

≪原著者ノート≫
この日のメッセージの最初の部分を綴っている時、私がその話の流れが読み取れず、纏まりがなく混乱しているように思えたが、いま読み返してみると決してそうではない事が判る。

悲しみのバイブレーションについて述べている事を“神の摂理の基本的原理”についての単なるヒントと受け取り、波動の原理を光や熱の解釈に当てはめるのと同じ推理を行えば次の様になりそうである。

悲しみを生ずるバイブレーションの組み合わせは“置き換え”ではなく、“調整”によって行われる。つまり悲しみに沈む魂へ向けて別種のバイブレーションを送る事によって、悲しみのバイブレーションの内の幾つかが中和され幾つかは修正されて別種のものに変化し、その効果が喜び、あるいは安らぎとなる。

こう観れば、この日のメッセージも興味を持ち、多分人生における悩み事を実際に解決していく方法に光を当てる事になるかも知れない。確かにそれが神の一つの手法なのなのであろう。悲しみを生み出す外的条件が取り除かれると言う意味ではない(極端な場合はそうするかもしれないが)。

別種のバイブレーションを吹き込む事によって悲しみを喜びへと転換してしまうと言う意味である。これなら日常生活でもよく見かける事である。

こうした説は科学的思考に馴染めない人には突拍子もない話に聞こえるであろうし“別種のバイブレーション”が実際に同じ“交換価値”を持つ数種のバイブレーションであるとする説を別に非合理的とは思わない人がいる事であろう。

尚最初に言及しているイエスの言葉はヨハネ第16章20である。


第4節 光のかけ橋
1913年9月26日 金曜日

前回の通信は、あなたにもう少し深入りした感応の仕方を試して見るべきであるとの霊団の一人の要請を受けてやってみたものです。が、説明できるようには成りましたが、説明の内容がまだ十分とは言えません。あなたがお望みであれば引き続き同じ問題を取り上げようと思いますが。

―有難うございます。お願いします。

では、あなたにも暫く私達と共にベールのこちら側から考えて頂かねばなりません。まず理解して頂きたいのは、此方へ来て見ると地上で見ていたものとは全く異なった様相を呈している事―おそらく現在地上にいる人の目には非現実的で空想的さえ思えるのではないかと言う事です。

どんなに小さなことでも驚異に満ちておりますから此方へ来たばかりの人は地上での三次元的なものの考え方から脱していない限り飛躍的な進歩は望めません。そしてそれが決して容易なことではないのです。

さてここで例のバイブレーションと言う用語を使用しなくてはなりません。しかしこれを物的なもののように考えては真相は理解できません。私達の言うバイブレーションは作用に置いても性質に置いても単なる機械的な波動ではなく、それ自体に生命力が宿っており、私達はその生命力を活用してものをこしらえているのです。

言わば私達の意志と環境とを結ぶ懸け橋御の様なものです。突き詰めればすべての現象はその生命力で出来ているからです。環境は私達を始め全存在を包む深い生命力の顕現したもの過ぎません。それを原料として私達は物をこしらえ成就する事が出来るのです。

バイブレーションと言うとなんだか実体のないもののように思われがちですが、それがちゃんとした耐久性のあるものを作り上げるのです。

例えば光明界と闇黒界との間の裂け目(127p参考)の上に橋を架けるのもその方法によります。その橋がただの一色ではないのです。暗黒の世界の奥深い処から姿を見せ、次第に輝きを増しながら裂け目を超え、最後に燦々たる光輝を発しながら光明の世界へと入り込んでおります。

その光明界の始まる高台に掛る辺りはピンク色に輝き、大気全体に広がる何とも言えない銀色、アラバスターと言った方が良いでしょうか。そんな感じの光の中で輝いて見えます。

そうですとも、その裂け目に立派に“橋”が掛っているのです。もし無かったら暗黒の世界から光明へと闇を通り抜けて霊魂はどうやって向上進化してくるのですか。

本当なのです。言い落としておりましたが、恐ろしい暗闇の世界をくぐり抜けてその橋をよじ登り、裂け目を此方側へやってくる霊魂が実際にいるのです。最も数は多くありません。

大抵は其の道案内の任に当たっておられる大天使様の言う事が聴けずに後戻りしてしまうのです。

又こう言う事も知っておく必要があります。そうした大天使様の姿は魂の内部に灯された霊的明かりの強さと同じ程度にしか映らないと言う事です。ですから大天使様の言う事を聞いて最後まで付いて行くには、天使様に対する信頼心も必要となってきます。

その信頼心は同時に光と闇とをある程度まで識別できるまで向上した精神の産物でもある訳です。

実際人間の魂の複雑さは一通りではなく、捉え難いものですね。そこで、もうすこし言葉で表現しやすい話に移りましょう。私は其れを“橋”と呼びました。しかし「目は汝の身体の光である」と言う言葉がありますね。

この言葉を此処で改めて呼んで頂きたいのです。そうすれば、それが地上の人間だけでなく、此方の霊魂についても言える事がお判りになると思います。

私はこれまで“橋”と言う呼び方をしてきましたが、実際には地上の橋とはあまり似ていないのです。第一、幅がそれはそれは広いのです。“地域”と呼ぶのが一番当たっているようです。

私はまだ死後の世界のほんの一部しか見ておらず、その見た限りのものだけを話している事を念頭に置いて聞いて下さいよ。同じような裂け目や橋が他にも―多分数えきれないほど―有るに相違ありません。

其の畝つまり私が橋と呼んでいるものを通って光明を求める者が進んできます。実にゆっくりとした足取りです。しかもその途中には幾つかの休憩所が設けてあり、闇黒界から這い上がって来た霊魂がその内の一つに辿り着くと、そこで案内役が交替して、今度は別の天使の一団が次の休憩所まで付き添います。そうやって漸くこちら側に着きます。

私が属している例のコロニ―での仕事も、地上の救済の他に、そうやって向上してくる霊魂の道案内も致しております。それは先ほど述べた仕事とはまた別の分野に属します。私はまだあまり勉強しておりませんのでそこまでは致しません。そちらの方が難しいのです。

と言うのは、此方の世界の暗黒界にいる者を取り巻く悪の影響力は地上のそれに比して遥かに邪悪なのです。

地上はまだ善の中に悪が混じっている程度ですからましです。此方へ来た邪悪な人間がうっかりその暗黒界へ足を踏み入れようものなら、その途轍もなく恐ろしい世界から抜け出ることの大変さを思い知らされます。想像を超えた長い年月にわたって絶望と諦めの状態で過ごす霊が多い理由はそこにあります。

暗黒の世界から這い上がってきた霊魂が無事その橋を渡りきると天使様が優しく手を取って案内して差し上げます。やがて草木の茂った小高い緑の丘まで来ると、そこまで実にゆっくりとした足取りで来た筈なのに、辺りの美しさに打たれて喜びで気絶せんばかりの状態になります。

正反対の暗黒の世界に浸りきっていた霊魂には、僅かな光明にさえ魂が圧倒されんばかりの喜びを感じるのです。

私は今“小高い丘”と言いましたが、高いといっても、それは暗黒の世界と比べた場合の事です。実際には光明の世界の中でも一番低いところなのです。

“裂け目”とか“淵”とかをあなたは寓話のつもりで受け止めているようだけど、私が述べた通りに実際にそこにあるのです。この事は以前にも何処かで説明があった筈です。それから、何故橋をトコトコ歩いてくるのか、なぜ“飛んで”来ないのかと言うと、まだ霊的発達が充分でなくてそれが出来ないと言う事です。もしそんな真似をしたら、一変に谷底へ落ちて道を見失います。

私はまだまだ暗黒の世界へ深入りしておりません。ほんの少しだけですが、悲劇を見るのは当分これまで見たものだけで十分です。暫く今の仕事に精一杯努力して、現在の恵まれた環境のもとで気の毒な人々に援助してあげれば、もっと暗黒界の奥まで入る事を許されるかもしれません。多分許されるでしょう。しかしそれはまだまだ先の話です。

あと一つだけお話しましょう。―あなたはそろそろ休まなくてはならないだろうからね。霊魂が暗黒の世界から逃れて橋の所まで来ると、後から恐ろしい叫び声や怒号が聞こえ、それとともに狐火のようなものがチラチラと見えるそうです。

私は実際に見ていないのではっきりした事は言えませんが、それは仲間を取り逃がした暗黒界の霊魂が悔しがって怒り狂う時に発するのだと聞いております。要は所詮、善には勝てないのです。いかに小さな善にでもです。が、この事については今はこれ以上深入りしません。

私が今述べたことは私が実際に見たものではなく、又聞き、つまり人から間接的に聞いた事です。ですが、本当の事です。ではお休み。神の御光と安らぎが注がれますように。その御光の中にこそ光明を見出される事でしょう。そうしてその輝きこそ無限に開け行く安らかなる魂の聡明なのです。

第5節 キリスト神の“顕現”
1913年9月27日 土曜日

―もう少し鮮明に感応できないものですか。

これ以上に鮮明にする必要はありません。私達からのメッセージは一応意図した通りに通じております。

つまりこちらで私達の生活ぶりや環境は一応理解して頂けております。ただ一つだけ付け加えておきたい事は、此方へ来たばかりの私達は、まだ霊としての本来の能力を発揮しておらず、あなた方が実感を得ている環境が私達にはモヤのように漠然としか映らず、その状態で最善を尽くさねばならないと言う事です。

―私がこうして書いている姿が見えますか。

見えますとも。但し肉眼とは別のもので見ております。私達に眼は地上の明かりには慣れておりません。こちらの世界の明かりは種類が異なり、内部まで貫通する作用があります。

それであなたの心の中を見てとり、又心に直接働き掛け―あなたそのものに語りかけるのであって、もちろんその左右の耳ではありません。同じように、私達があなたを見る時はあなたそのものを見ており、その肉体ではありません。

肉体は外套の様なものに過ぎません。ですから、仮に私があなたに触れた場合、あなたは其れを肉体的に感じるのではなく、霊的に感じる訳です。私達の感応の具合を理解するにはその点を念頭に置いて、身体や脳と言った器官の奥を見なければいけません。

どうやらあなたは、此方での私達の働きぶりや暮らしの環境についてもっと知りたがっておいでのようですね。こちらに来てからの進歩にとって是非理解しておく必要のある基本的な真理の一つは、神と言うものは地上と同じくこちらでも直接そのお姿を排することはできないと言う事です。

これは必ずしもこちらへやってくる人間の全てが得心してくれるとは限らないのです。皆こちらへ来たらすぐに神々しいお姿を排せる者と期待します。そこで、その信仰が間違っており、神とはそういうものではないと言い聞かされて非常にがっかりします。

神の生命力と崇高さは別にこちらへ来なくても地上に置いて、大自然の内奥を洞察する力を持つ者には明瞭に感得できるものです。こちらでも同じ事です。

ただ異なるのは、生命力により実感があり、その本性を知った者にはその活用が容易に出来ること―あなたに脈動しており、より鋭敏な感覚を身につけた私達には、それを地上にいた時よりも強く感得できると言う事です。

以上は一般的な話として述べたのですが、これにはもう一つ付け加えておく必要があるのは、時折“神の存在”を実感させる現象が特別の目的の為に顕現される事がある事です。ではその一つをお話してみましょう。

有る時、私達は田園地帯のある場所に召集されました。そこには地上時代の宗教も信仰も国籍も異なる人々が大勢集まる事になっておりました。到着すると一団の霊が地上との境界付近の一地域における救済活動の任期を終えて帰ってくるところでした。

地上を去って霊界入りしながら、自分が死んだ事が自覚できずにいる霊を指導する仕事に携わっていた霊の一団です。その方達に連れられて、首尾よく死を自覚した霊が大勢参りました。其々の落ち着くべき界へ行く前にそこで私達とともに感謝の祈りを捧げる為です。年齢は様々です。

年ばかり取って若さも元気もない者、若くてまだ未熟な者などいろいろです。みんな一様に何か嬉しいことを期待している表情です。そして新しい仲間が次々と連れて来られるのを見て、民族による顔かたちの違い、地位や財産の違いからくる色とりどりの服装など不思議そうにじろじろ見つめ合っておりました。

やがて全員が到着しました。すると突如として音楽が押し寄せる波の如く鳴り響いて、その大集団を家族的一体感で包み込みました。その時私達の目に大きな光の十字架が見えました。

其の平野と接する大きな山の背に乗っているように見え、見ているとそれが砕けて細かい光の小片になり始めました。

だんだん判って見ると、それは高級界の天使の大集団で、それが山の上に十字架上に集結していたのでした。其の辺り一面が金色に輝き、遠くに位置する私達にも暖かい愛の息吹となって伝わってきます。

天使の集団がこの低い環境(天使から見て低いと言う事ですが)に馴染むにつれて、そのお姿が次第に私達の視野に明瞭になって参りました。するとです。ちょうど十字が交差する辺りの上方に更に一段と大きい天使のお姿が現れました。

それがどなたであるかは、そこに居合わせた者には直感的に判りました。それはあなたにはもう察しがつくと思いますが、具象体(*)としてのキリスト神の一表現でした。

(*本来は形体を持たない存在が一時的にその存在を示すためにとる形形態。それを見る者の理解度。宗教的信仰・先入観により様々な形態をとる。キリスト神とは地球神界のつまり地球の守護神である。詳しくは第三章で明かされる)

大天使はしばらく黙ってじっと立っておられましたが、やがて右手を高々と上げられました。すると一本に光の柱が見え、それが其の右手に乗りました。

それは一種の通路だったのです。その光の柱の上を別の天使の一団が降りてくるのが見え、手のところまで来ると一旦立ち止り其々に両手を胸にあててこうべを垂れ、拝むような格好でじっとしています。

すると大天使の手が大きく弧を画いて一回転し、その指先を平地へ向けられました。するとその光の柱が私達の方向へ延びてきて、山の頂上と平地との間の架け橋となり、その一番端がそこに集結していた私達の上に掛りました。

見るとその光の架け橋を通って先ほどの天使の一団が降りてきて、私達の真上まで来ました。そこで両手を広げ、一斉に大天使のおられる山頂へ向きました。すると語るとも歌うともつかない大天使のへの賛歌が聞こえてまいりました。

その光景の美しさ、崇高さと言ったら有りません。私達は初めのうちはただただ畏れ多くて黙するのみでした。が、やがて私達も一緒に歌いました。と言うよりは詠唱しました。

それを教えるのが天使様達の来られた目的だったのです。詠唱していると、私達とその山との間に青っぽいピンクの靄が発生し、それが不思議な働きをしたのです。

まるで天体望遠鏡のレンズのように大天使の姿が大写しになり、そのお顔の表情まで見えるようになったのです。同時に、すぐ下に立ち並ぶ天使の一団の姿も同じように大きく映って見えました。が、私達にはその優雅なお顔とお姿が見えるだけで、その真の霊格を読み取るとかはありませんでした。その表情はとても私には述べる事は出来ません。

言葉では言い尽くさない様々な要素が渾然一体となっておりました。愛と慈悲と喜びと威厳とが混じり合っておりました。其の時に私が感じたのは、こうして神と私達とが一体となった時、生命と言うものが実に聖なる遠と差に溢れたものであると言う事です。

仲間の者も同じものを感じ取ったと思いますが、その時はお互いに語り合うどころではなく。大天使のお姿にただ魅入れられておりました。

やがてその靄が大気中の中に融け入ってしまいました。山頂の十字架と大天使のお姿は同じ位置にありましたが、前より鮮明度が薄れ、私達の真上におられた天使の一団も今は去って大天使の上方に見えました。

そして次第に全体が薄れて行き、やがて消滅しました。しかし大天使の存在感はその後も強烈に残っております。多分今回のシーンを見せた目的はその存在感を印象付ける事にあったのでしょう。

私達のように少しでもこちらにいる者に較べて、地上から来たばかりの者には其の見え方は鮮明ではなかったでしょうけど、それでも魂を鼓舞し安らぎを与えるには十分で有ったと思われます。

私達はそれから少しの間其の辺りを散策してから静かな足取りで家路につきました。誰もあまり喋りません。今見たシーンが余りにも印象的だったからです。そして又、こうした顕現にはいろいろと考えさせられるものがあるのです。

その場にいる時にはあまりの荘厳さに圧倒されて全部の意味を考えている余裕はないのです。ですから、後になって段々に考えさせられる事になります。私達は一緒に語り合い、お互いの印象を述べあい、それを総合して、それまで余り理解していなかった事が啓示されている事を発見します。

今回の顕現で私達が最も強い印象を受けた事は大天使様の沈黙の内に語るその威力でした。一言も語られなかったにも関わらず、その動き一つ一つが声となって私達に語りかけてくるように思えたのです。それが何を語っているのかは、実際に声に出しておられないのに、よく理解できました。

今日はこれくらいにしておきましょう。では、さようなら。求める者に主が何を用意されているか、その内にあなたにも判る日が来る事を祈ります。

第6節 暗黒街の天使
1913年9月29日 月曜日

これまでの通信をお読みになるにあたっては、地上より高い視野から観ると言う事が実際にどんなものであるかを、十分に理解して頂く必要があります。

そうしないと私達が述べた事柄に一見すると矛盾するかに思えるところがあって、あなたが不可解に思うことが少なかろうと思うのです。

前回の通信におけるキリスト神の具象体の出現と前々回の巨大な裂け目に橋が架けられる話とは、私にとって皺めて自然につなぐ事が出来ます。と言うのは、実体のあるものとして―勿論霊界の私達にとって実体があると言う事です。

実感を持って私が目撃した暗黒界との間の架け橋は、大天使と配下の霊団が今私達が働いている界と其の霊団のいる高級界との間に掛けた“光の柱”と、実質的には同じ目に見えないエネルギーによる現象だからです。

私達にとって其の具象化の現象が、あなた方人間にとって物質化現象の様なものである事がこれでお分かりでしょう。あれが私達の低い界にいる者には使いこなせない高次元のバイブレーションによって、高級霊がこの“父の王国”(*)の中に二つの土地を結んだ訳です。

どう言う具合にするのかは今のところ推察するほかないのですが、私達のように地上からやってきた者には、この界と一段上の界とを結ぶ事は別に不思議な事とは思えないのです。

(*本書ではキリスト教的表現が其のまま使用される事が多い。これも聖書の中のイエスの言葉で、広義には死後の世界全体、狭義には其の上級界すなわち神界を差す事がある)

あなたにももっともっと私達の世界の驚異について勉強して頂きたいと言うのが私達の願いです。そうすれば地上生活にありながらもそうした事が自然な事に思えるようになるでしょうし、更に此方へ来てから全くの不案内と言う事もなくて済むのではないでしょうか。

地上生活にあってもと言う意味は、つまりは地上は天上界の胚芽期の様なもので、天上界は地上を磨きあげて完成させたものだと言う事を悟ると言う事です。こちらへ来てからの事は言うまでもないでしょう。

そこでこの問題に関してあなたの理解を助ける意味で、私達が大切なものと大切でないものとを見分け区別する、其の分類法についてお話してみようかと思います。

私達は何か困った事が生じると―私達の仲間内だけの話ですが―何処かの建物の屋上とか丘の頂上など、何処か高い処で周囲が遠くまで見渡せるところに登ります。そこでその困りごとを口で述べ、言い終わると暫く、いわば自分の殻の中に退避するように努めます。

すると普段の自分より高い次元のものを見聞きするようになり、大切なものが其の視力と聴力に反応し、其のまま何時でも高い次元に存在し続けるのが判ります。一方、大して重要でないものについては何も見えもせず、それで大切か否かが区別できる事になります。

―判るような気もしますが、何か良い例を挙げて頂けませんか。

宜しい。では、有る婦人の例で“不信感”の為に進歩を阻害され満足感が得られないまま過ごしていた人の話をしてみましょう。その方は決して悪い人ではないのですが、自分自身の事も、周りの人の事も、どうも確信が持てないのでした。

中でも一番確信が持てないのが天使の事―果たして本当に光と善の存在なのか、もしかしたら天使の身分でありながら同時に闇黒の存在と言う事もあり得るのではないかと疑ったりするのでした。
私達はなぜそんな事で悩むのか理解できませんでした。と言うのは、ここでは何もかもが愛と光明に溢れているように私には思えるからです。が、その内分かった事は、その方には自分より先に他界した親戚の人が何人かいて、此方へ来てもその人達の姿が一人も見当たらず、何処にいるのかも分からないと言う事が原因なのでした。

そうと判ってからは私達はいろいろと相談した揚句に、有る丘に登ってその方を救ってあげる最良の方法を教えて下さいと祈ったのです。すると思いもよらない驚くべき事が起きました。

跪いていると丘の頂上が透明になり、私達は頭を垂れていましたから丘を突き抜けて下の界の一部がくっきりと見え始めたのです。其の時私が見た情景―私達5人全員が見たのですから幻影ではありません―は薄暗い闇の中に荒涼とした平地で、一人の大柄な男が岩に背をもたれて立っております。

そしてその男の前にはもう一人、少し小柄な男が顔を手で覆った恰好で地面に跪ついております。それも男性でした。そしてどうやら立っている男に何か言い訳をしているみたいで、それを立っている男が不審の表情で聞いております。

やがて突然その男が屈み、伏せている男を捕まえて自分の胸のあたりまで立ち上がらせ、其のまま遠くの地平線の、ほのかな明かりの見える方向へと、平地を大股で歩いて行きました。

彼は小柄な男を引きずりながら相当な道のりを歩きました。そしてやがて明かりがずっと大きく見える辺りまで来ると手を離し、行くべき方向を指さしました。すると小柄な男が盛んに礼を言っている様子が見えます。やがてその男は明かりの方向へ走って行きました。

私達はその男の後を目で追いかけました。有るところまで来ると大柄な男の方が橋の方角を指差します。それは前にお話したあの橋です。但しそこは例の“裂け目”の暗黒界側の端です。

その時点でも私達は何故こんな光景を見せられるのかが判りませんでしたが、とにかく後を追い続けると、その橋の入口のところに建てられた大きな建物に辿り着きました。見張りの為の塔ではなく、闇黒界からやってきた者には休養と介助を施すところです。

其の塔からは、その男がずっと見えていた事が判りました。と言うのは、その男が辿りつくとすぐに、橋の上の次の塔へ向けて合図の明かりが点滅されるのが見えたのです。

その時点で丘が普通の状態に戻りました。そしてそれ以上は何も見えませんでした。

私達はますます分からなくなりました。そして丘を下りて帰ろうとしました。すると其の途中で私達の霊団の最高指導者であられる女性の霊が迎えて下さり、そしてその方と一緒にもう一人、私達の界のある地域の高い地位の方とおぼしき男の方がおられました。

私達がまだ一度もお会いした事のない方でした。指導霊がおっしゃるには、その男の方は今しがた私達が見た光景について説明する為においで下さったとの事でした。お話によりますと、

小柄な男性は例の私達が何とかしなければと思っている女性のかつてのご主人で、私達からその婦人に早くあの橋へ行き、そこで暫く滞在しておれば御主人がやってくるであろうとの事でした。

例の大柄な男はその婦人ならさしずめ“闇の天使”とでも呼びたがりそうな存在で、闇黒界でも相当な勢力を持つ霊の一人だと言う事です。でもあのシーンからも想像できますように、よい事もするのです。ではなぜ何時までも暗黒の世界に留っているのですか、と私達は尋ねてみました。

その方は笑顔でこう答えられました。「父なる神の王国はあなた方が想像されるより遥かに素晴らしいところです。これまでもあなた方には、いかなる地域もいかなる界層も他と完全に離れて独立し、それ自体で完全と言うところは一つも見当たらなかった筈です。

そのような処は一つも存在しないのです。あの暗黒の天使の本性の中にも各界層の知識と善性と邪悪性とが混ざり合っております。あの土地に留っているのは、一つにはその本性の中の邪悪性のせいで、それが光明の土地に馴染めなくしているのです。

もう一つの理由は、心掛け次第で向上できるのに本人がそれを望まないと言う事です。それは一つには強情さのせいでもありますが、同時に光明を憎むところがあり、あの途方もなく急な坂道を登って行こうとするものを大バカ者だと思っております。

光明界と暗黒界の対比のせいで、其の坂道を登る時の苦痛と煩悶が事さらに大きく感じられるからです。

それで彼はその土地に留るのです。彼のように一種の憂鬱と麻痺的絶望感の為に光明界へ来ようとしない霊が無数におります。

そうかと思うと彼は憎しみと錯乱から残忍性をむき出しにする事があります。あなた方は先ほどご覧になったあの男にも散々残虐な行為を働き、苛めあげておりました。

それも臆病なごろつきに良くみられる残忍さを持ってやっておりました。が、其の残忍性も尽き果てたのでしょう。ご覧になったように、男の懇願が彼の魂の柔らかい琴線に少し触れると、気持ちが変わらないうちに男を放してやり、道まで教えてやりました。

心の奥ではあの愚か者が……と思いながらも、自分よりはましなおろか者だと思っていた事でしょう。」

こうした話は私にとっては始めての事でした。あの暗黒の世界にも少しでも善性があるとは知りませんでした。でも今にして思えば、そうであって当然だと思います。なぜかと言えば、もし完全な悪の固まりであれば私達の居る光明界へ来ようなどと言う心は起きないでしょうから。

―それにしてもこの話は、最初に言われた大切なものとそうでないものとを見分ける事と一体どういう関わりが有ると言うのでしょうか。

善なるものが全て神のものであることは言うまでもありませんが、我々神の子にとっては光明も暗黒界も絶対ではなく、又絶対ではあり得ないと言う事です。両者は相対的に理解しなくてはいけません。

今にして判った事は“暗黒界の天使”が大勢いると言う事です。その人達は魂の本性に何らかの歪んだもの、善なるものへの思考を妨げる強情な処が有る為に、今のところは暗黒界にいるが、その内いつか、永い永い生命の旅路に置いて、もしかしたら今のところは彼らより祝福されている私達を追い越し、神の王国に置いて高い地位を占める事になるかも知れないのです。

ではお休みさない。私達が書いた事をよく熟考して下さい。私達にとっても大変勉強になりました。こうした事が地上にいる人々の多くの方々にも学んで頂ければ有難いと思うのですが。