第11章 愛する弟子ヨハネとの出会い
イエスは天の御父と静かな交わりを持ちたかった。あの忌まわしいトマスがエルダドの家にやってきてからというものは、天の御父との自由な交わりを断たれていたのである。
一人の若者が漁師の歌を口ずさみながら歩いていた。イエスに会うと歌をやめ、挨拶をした。しかしイエスはひとことも口をきかず、挨拶を返さなかった。若い旅人は無視されたことに腹を立てず、黙ったまましばらく一緒に歩いていた。
突然この陽気な若者は話しだした。
「あなたの名前をお聞かせください。私の名はヨハネと言います」
彼のりんりんとした声は澄んでおり、彼の体は痩せぎすでほっそりしていた。一瞬イエスはヨハネを見て深々とお辞儀をした。それでも口をきかなかった。ヨハネはなおも語り続けた。
「私の父はゼベダイといい、ヤコブという弟が一人おります。昨日まで弟と一緒に暮らしてきました。生まれてからずっとです。二人は本当に仲の良い兄弟でした。ですから私たちは、〝双頭の鷲〟と言われたり〝雷の息子たち〟などと呼ばれておりました。私たち兄弟はいつも陽気にふるまっていたからでしょうね。
私たちが歌うとまるで雷のようにやかましく、ガリラヤで船乗りをしている連中の間では評判でしたからね」
イエスは彼の話に笑顔を見せたがなおも平和な沈黙を続けていた。ヨハネは続けて語った。
「私の父ゼベダイは、親戚の家へ行きなさいといって旅に出してくれたのです。兄弟仲が余りよすぎるので、ちっともよそに友だちができないってぼやくんですよ」
イエスはそっぽを向いていたが、そんなことにはおかまいなく、ヨハネは自分の種族のことや家族のことを話し続けた。母が二人兄弟の出世を夢見ていることを話すと、大声をあげて笑った。その笑い声は山々にこだまし、あたかも兄弟の未来が日の出のように明るく輝いているかのように響きわたった。
更にヨハネは、ガリラヤ湖で過ごした日々のことを話した。たくさんの魚を取ったこと、上手に網をつくろったこと、湖上で嵐に泣かされたこと、そして漁師がどんなに苦労の多い職業であるかについてこまごまと語った。そして最後に、母はどうやら私たち兄弟の行く末のことを見間違えたようだ、と言った。
「私はこうして弟と仲よく暮らしていきたいんですよ。昼は船をあやつって魚をとり、夕べに網をつくろい、兄弟と話し合うのがとても楽しみなんですよ」
イエスはひとことも返事をしなかったので、ヨハネは興味深く尋ねた。
「あなたは今沈黙の誓いをたてておられるのですか?」
イエスは頭を横にふった。
「それではどうして黙っておられるのですか? 私が道であなたにお会いしたときに、声のささやきが聞こえたのです。この方に心を開き、今までのことをすべて語りなさい。何一つ隠してはいけませんと。それで私はその声に従って、すべてことを語ったのです」
イエスはヨハネの顔を見かえした。ヨハネの額は広く、両目の上に美しいアーチを描いていて、瞳は星のように輝いていた。愛に満ちた表情はうるわしく、清純無垢な美しさがただよっていた。イエスがついに口を開いた。
その時突然鳥の声がして、若い鳩がイエスの足元に落ちてきた。見ると鳩は病気にかかっているらしく、空中に舞い上がるだけの力を失っていた。イエスはかがんで鳩をつかみ、上着のふところの中に入れてやった。
夕暮れになってから、二人は小川のほとりに腰をおろし、パンを食べ、小川の水を飲んだ。食事をすましてから、岩場の中に安全に眠れる場所を探し、そこで休むことにした。ヨハネにとって全く新しい人生が始まった日であった。
後に同僚の弟子に語ったところによると、その夜、ヨハネがイエスの寝顔を見たときに、その神聖な顔の輝きにうたれ、最愛の弟のことをすっかり忘れてしまう程の衝撃を受けたという。東の空に燃えるような光がさしこんできて、夜のとばりを谷底へ追いやってしまう頃、眠りの井戸からはいだした生き物たちは、新鮮な息吹をみなぎらせながら活動を開始した。
陽光はやさしく山々にくちづけし、遥か彼方にそびえ立つヘルモン山の頂上は光に燃えていた。鳥や獣、そして花々までも自分のやりかたで神を賛美していた。
イエスは立ち上がり、上着の中で温めていた鳩の子を空中に押し上げると、鳩の子は太陽に向かって力強く飛び去っていった。イエスはヨハネの方に向き直って言った。
「この徴をごらんなさい! あの鳩の子が大空に向かって思い切りはばたいている様子を。なにものにも縛られない元気な姿をごらんなさい! 私も昨夜は一晩中あの鳩の様に自由で張りがありました。天の御父と一緒に過ごしたからです」
得も言えぬ静けさが二人をおおった。ヨハネは、まるで閉じ込められていた心の扉が開け放たれ、天国が訪れてきたような心境であった。この瞬間ヨハネの霊は、イエスが自分の師であることを悟った。イエスの言葉は単純であったが、深い意味がこめられていて容易にこなせるものではなかった。ヨハネは思い切って尋ねた。
「どこにあなたの御父がおられたのですか? 昨夜は私たち二人きりで、星も顔を出さない真っ暗な夜を過ごしたではありませんか。そんな中で御父はどうしてあなたを見つけだしたのでしょうか」
「私の御父にとって、おできになれないことはひとつもないのです」
「なんですって?」
ヨハネはイエスの輝きに圧倒され、自分が何を言ってよいかわからなかった。イエスは続けて言った。
「そうですとも。昨日飛び去った鳩の子でさえも、天の御父のお許しがなければ地上に落ちることはないのです」
ついにヨハネは身をひれ伏して叫んだ。
「私は何一つ知らない愚か者です! どうかそのような私に理性と光をお与えください!」
イエスはとうとう語り出した。特に強調したことは、神が自分の御父であることであった。そのことを耳にしても、ちっとも冒涜しているとは感じられなかった。神との交わりがあまりもに美しく、麗しく語られたからであった。
イエスの目はキラキラと輝いており、口から出てくる言葉は、まことに清らかであった。まるで死が敗北し、永遠の生命が燃えるような言葉の中に姿を顕しているようであった。イエスは語り続けた。
「私はあなたと出会ったことが、とても幸せだったのです。実を言いますと、あなたと出会うまでは言葉ではとてもあらわせない程おちこんでいたのです。かけがいのないお方(神)との交わりが断たれていたからです。でもあなたのお話を聞いているうちに、次第に心が晴れてきて、私の心は穏やかになり、天の御父との交わりが再開されるようになったのです」
イエスは再び口を閉ざしてしまった。彼はやはり名もない見知らぬ人間として留まるために、余り自分の過去のことを語ろうとはしなかった。
二人はなおも旅を続けた。ヨハネは必要なことだけを語り、むしろ内面にみなぎってきた霊的歓喜にひたっていた。イエスが言った。
「昨日はとても失礼な態度を示したようですが、あれは、あなたのためを思いやったことなのです」
「えっ! 私のためにですって?」
「そうなんです。私には留まる家もなく、家族と話すこともありません」
イエスは溜め息をついた。ヨハネは不思議そうに尋ねた。
「それはどういう意味なのでしょうか? それがどうして口を閉ざすことになるのですか?」
イエスは答えて言った。
「実はあなたが私のあとについてこない方がよいと思っているんです。私自身が今までに知りえたことは、悲しいことに、私にかかわるところには必ず敵対関係が生まれるのです。息子は父に逆らい、娘は母と対立するのです。
私に本音を言わせてもらえれば、もしあなたが私のあとについてきたいと思うのでしたら、父と母を捨てなければならないのです。昨日私が耳にしたあなたのお話はすべて家族への深い思いやりであったと思います。そのような暖かい家族に暗い影を投げかけるようなことはしたくないのです」
ヨハネはこの言葉に戸惑った。今まで味わっていた喜びが消えうせていくのを感じた。まるで花がしぼんでいくみたいに顔色が変わっていった。
「どうもよく分からないのですが・・・私の兄弟や父母はとてもすばらしい人たちです。どうしてそのような人を失ってしまうのでしょうか?」
イエスは答えて言った。
「無理もないことです。だからこそ、私が口をきかず、あなたとのことを無視したのです。その方が本当の親切であり当を得ているとは思いませんか」
ヨハネはしばらくの間考えこんでしまった。日が暮れ、夕食を食べるまでは、この謎めいた言葉の意味が分からなかった。ヨハネが突然口火をきった。
「あなたのお名前すら伺っていないのに、私はあなたの知恵ある言葉にひきつけられ、一緒にお供したいのです。弟のヤコブもきっとそれを望むと思います」
「あなたの家はどこにあるのですか? 私についてくる者は、そこに住んでいる親、兄弟を捨てなければならないんですよ!」
「私にはその覚悟はできています。弟も私が行くところには、たとえどこであろうと、きっとついてくる筈です。しかもあなたが主人であり預言者であることに気がつくでしょう」
イエスは真面目なヨハネをじっと見つめながら言った。
「ちょっと待ってください。私が預言者かどうかまだ分からないではないですか。ただ心の中に秘められているものを少しだけ語ったにすぎないのです」
「私にはかくせませんよ! 鳥が日の出に引き寄せられるように、私は貴方の知恵に参ってしまったのですから」
イエスは微笑みを浮かべながら言った。
「天の御父があきらかにして下さるまでは、その意味がはっきりしていないのです。過去に味わったこと、つまり〔自分の生命を救おうとすれば、それを失ってしまう、しかも家も兄弟をも失ってしまう〕という体験です。
だから、それが真実であるかどうか、私にも分かっていないのです。子が父に逆らい、母が娘と対立し、家の中が分裂してしまう・・・この意味は、機が熟して天の御父があらわにして下さる時に理解できるのです。その時こそ私の本当の目的と生き方が示されるのです」
イエスは目の前に備えられたわずかなパンとチーズのために感謝の祈りをささげ、夕食をすましてから、二人は眠りについた。月がこうこうと照り輝く頃、再び旅支度をして歩き始めた。
ひんやりとした冷気が肌にしみた。ヨハネはガリラヤ湖畔に面しているカペナウムのことを話した。そこは〝慰めの村〟として知られた町で、いつか預言者がこの町へやってくる、というので名付けられたそうである。その預言者がこの町でたいそうな働きをするので、その名がユダヤだけでなく、エジプトまで知られるようになるというのである。
ヨハネは、このような由緒ある街で生まれたことを自慢した。しかし同時に異教徒が増えてきたことをとても嫌った。たしかにギリシャ人、ローマ人、そして東方アジアから多くの外国人がやってきて、汚れた生活をやっていたのである。ヨハネは言った。
「もしも外国人がそれぞれ母国に帰って私たちだけが残れば、きっと神の目に美しく清らかな町になるでしょうね」
「すべてのものが清くなるとは思いませんがね」
「おっしゃるとおりです。それを保てない弱い人間もおります。異教徒の影響を受けて堕落しないようにと父ゼベダイは随分気をつかってくれました。私たち兄弟は商売のために魚を売るとき以外は、絶対に異教徒とは接触しませんでした。私たちの喜びは、湖上で魚をとることでしたからね。
律法学者の長たらしい説教もうんざりですし、断食や荒行などもいたしません。私たちは心のうちに光を持っていますので、イスラエルの罪のためにどうして肉体をいためつけながら、嘆き悲しまなきゃならないんですか? そりゃ時々父が心配する時もあります。私たちが神を忘れてしまったんじゃないかとね。
でも、丘の上を歩きながらでも神をあがめることができるんじゃないですか? 私たちが石を投げたり、飛び回っていても肉体は生きる喜びを感じ、心では、限りない感謝を沈黙のうちに神にささげているのではないでしょうか」
イエスは言った。
「そのとおりです。だれでも自分に最もふさわしい道を見付けねばなりません。お互いに愛し合い、しかも心を清く保っている限り、だれでも自分流に神を崇めているものですよ。あなたも立派に実行しているではありませんか!」
第12章 偉大な愛
ガリラヤの平原は見渡す限り青い海のようにトウキビが植えられていた。高原地帯はぶどう畑とオリーブ畑で有名であった。三日目の朝になってもガリラヤから立ち去る気配を見せなかった。〝会うは、別れの始めなり〟とは、イエスが前に別のヨハネに言った言葉である。風が冷たかったので、二人はくぼんでいる所に入って、しばらく身をひそめていた。
ヨハネはイエスに頼んで言った。
「私は充分に話しましたから、どうかお話しください」
「私は聞き手にまわりたいのです」
「私は、ただ過去のことをお話しただけですよ」
「私はとても嬉しかったのです。それに慰められました」
ヨハネは草の葉を一枚ちぎってからイエスに示しながら言った。
「あなたのお言葉には、澄み切った真理の響きがあるのです。神秘的というか、この一片の葉っぱでさえも、その背後に働いている神秘性を感じさせるのです。ですからもっとお話を続けてほしいのです」
「そうでしたか」
イエスは指で木の茂った所を指しながら語り始めた。
「この地方での体験から、私は一つの寓話(たとえ話)を思いついたのです。その話は〝争う王様の話〟とでも名づけておきましょう。今も言いましたように、私は、あの山の中で二日間もすごい連中と一緒に過ごしたことがあるのです。彼らは祖国を侵入者から救いだすためには、死をも厭わぬ人々でした。
取税人や脱獄囚もいれば、善男善女もおりました。驚いたことには、職人や子供たちまでも加わっていたのです。そこで私のたとえ話を聞いてください」
〔ある王様が上等のぶどう酒を手に入れようとして軍隊を引き連れてある国を襲ったが、戦いに敗れてしまった。ぶどう畑を持っている国は大変立腹し、侵略した国に毎年貢物(みつぎもの)を収めるように強要した。そのために、負けた国民は飢えに苦しみ、ひどい仕打ちを憎むようになった。
そこで彼らはひそかに武器を作り、攻撃を加える機会をうかがっていた。彼らはついにぶどう畑の国に攻め入り、老若男女を問わず剣にかけて恨みを晴らすことができた。
しかしぶどう畑は荒廃し、多くの人々は飢えと悲しみのどん底に突き落とされてしまった。指導者たちは、互いに相手の国を滅ぼす機会を伺い、両国民は復讐心をもやし、死の影が全体をおおっていた。
そこに一人の預言者が東方からやってきた。彼は神の名においてここに遣わされたことを伝えた。彼は神の子であると宣言した。各々の王は、この預言者にすがって自分に味方するように懇願した。
しかしこの預言者は妙なことを言い出した。『剣をもって立つ者は、剣にて滅びる』とか、『利己を抑えなければ、霊は滅びてしまう』などということを言った。預言者は荒廃しきった国土をよく見るように言った。各々の王は、この土地が少し前までは、ふんだんにブドウとオリーブがなっていたことを思いだした。
余りの荒廃ぶりに驚いて、彼らは涙をながし、これからどうしたらよいか、と尋ねた。預言者は答えた『お互いに愛し合いなさい。これがあなた方に与える新しい戒めである』
意表をつくような言葉ではあったが、二人の王はこの戒めに従った。次第に死の影はうすらいだ。喜びがあふれるようになってきた。それでこの預言者は、この国に住み、王たちの相談相手となった。それで彼は〝平和の王子〟と呼ばれるようになった。土地には再びブドウとオリーブが植えられた。
時がたつにつれて、王たちは栄え、金、銀、と言った財宝はもちろんのこと、穀物、ぶどう酒、オリーブ油を蓄える倉庫がいくつも建てられた。王たちは灌がいを敷設し、多くの家畜小屋を作った。
お互いに戦争をしていた頃は、多くの者は飢え死にしたが、今は豊かになって、飢えというものを知らなくなっていた。略奪や暴力は過去の思い出になっていた。天国の平和が地上にあふれていた。
時は移り変わり、王は息子の代になった。彼らは戦争の残酷なことは知らず、国民の悲惨な嘆きも想像すらできなかった。それでひそかに武器を作り始めたので、かの平和の王子が彼らのおごり高ぶった気持ちをたしなめ、剣を鞘におさめて平和を大切にするように忠告した。
忠告された王は腹を立て、この預言者を国民の裏切り者という名目のもとに死刑に処してしまった。そして再び戦争を始め、多くの国民は飢えと悲しみのどん底に突き落とされてしまったのである〕
私が今話した寓話のように、事態は最初の時よりも一層悪くなってしまったのです。この物語の結末をどうしたらよいと思いますか?」
ヨハネはすかさず言った。
「私たちイスラエルの歴代の王もそうでしたね。列王記や歴代誌(旧約聖書)に詳しく記されているように、何百年もの間、イスラエルは他国の侵略に悩まされてきました。ペリシテ、アッシリア、ペルシャ、ギリシャ、そしてローマは、すべて戦いをいどみ征服し、肥沃な土地を荒らし、多くの若者を殺してしまいました」
イエスは言った。
「そのとおりです。でも私が話した平和の王子はまだ現れません。貪欲な王の手から救い出す神の子がまだ来ないのです。そこで私はとても大切な結末を伝えたいのです。平和の王子が自ら同胞のために命をすてるのです。
おおよそ同胞のため、自分の命を捨てる以上に偉大な愛はありません。
人々は何のために預言者が自分の命を差し出したのかを知るでしょう。みんなはこの預言者の偉大な愛に感動し、どん欲な王を追放し、持っていた剣を鍬(すき)に換え、各々の働きに戻って行くでしょう。そして神の子は最後に『私の平安がいつまでもあなたがたのうちにありますように』と祝福するのです」
長いあいだ沈黙が流れた。ヨハネは言った。
「ああ、なんてすばらしい結末でしょう! でもそれは寓話の中でのことでしょうね」
「もちろんです。でも今日の話は、明日実現するかもしれないのです」
「歴史書には、おおくのすばらしい預言者のことが記されておりますが、ことごとく平和をもたらすことができませんでしたね」
イエスは言った。
「あなたにとってただの話であったかもしれませんね」
イエスはしばらくの間うつむいていたが、再び元気に言った。
「どの時代でも王はどん欲で、戦いを好み、予言者を殺してきましたね。でも平和の王子は、必ず死に際に、選ばれた人々に天国を残していくでしょう。時代がどのように変わり、戦争があろうとなかろうと、彼とともにある者はいつも平安のうちにとどまるでありましょう。そのためにこそ、この預言者は自分の命を捨てたのですからね」
第13章 イエスの変容
イエスとヨハネは旅を続け、森の中を歩いていた。黄色や灰色のさまざまな小鳥たちが軽やかに飛び回り、小枝から小枝へと飛びかっていた。じゃれあっているように遊んでいる様子は旅人の目を喜ばせていた。
しばらく行くと、草むらのなかに、はいずり回っている生き物を見つけた。その生き物がとぐろを巻き、跳びはね、すばやく突進するようすを見ていた。
イエスは言った。
「蛇は、とても変わった生き物ですね。足や羽もないのに、まるで影のように早く動きます。大空の黒雲のように早く、刀のきらめきのように敏捷です」
ヨハネは言った。
「私はこんなはうような生き物は嫌いです。生き物の中でこれくらいこうかつなものはいないからです。それに、先祖のエバをだましたんですからね」
イエスは言った。
「そんなことを言ってはいけません。あなたの愛情を蛇に注いでごらんなさい、蛇のいろいろなことがわかるようになり、ついには、犬のように忠実に従うようになるんですよ」
「そんなことができるんですか?」
「そうですとも。私が昔、砂漠で生活していた頃、一匹の蛇と友達になったのです。その蛇は私が行く所についてきて、眠っている時は私のそばでトグロを巻いているのです。夜中にジャッカルやハイエナなどが近寄ってくると、彼らをにらみ、シュッと言って黙らせてしまうのです」
「この生き物は大変な毒を持っているうえに、裏切りと嘘つきの代名詞みたいに言われているではありませんか」
「ではうかがいますが、敵を殺したり友人を裏切る人間はどうなんですか? 裏切りは蛇だけに見られる特性なんですか? まえにお話した蛇は、砂漠で飢えていた私に食べ物を探してくれました。それだけではありません。最後まで忠実に仕えてくれたすばらしい生き物でした」
「蛇があなたによく仕えたんですって!」
「私はこの生き物と付き合ってから、とてもすばらしいことを知ることができました。生まれつき、どんなに悪いと思われる生き物でも、よい目的のために役立つことができるようになるということです」
「蛇は狐よりもずるく、地をはうものの中でも最も嫌われている生き物ではありませんか。それは否定なさらないでしょう?」
イエスはそれには答えず、黙っていた。立ちあがって大空の黒雲を見上げていた。こうもりの羽よりも小さな雲であった。その黒雲が、見る見るうちに大きくなり、東から西へかけて大空いっぱいに広がっていった。イエスは片手を広げると、一滴の雨が降り注いだ。イエスはヨハネの方に向き直って言った。
「蛇は善悪を知らないどんな野獣よりも賢いのです。一見ずるそうに見たり、残酷に見える生き物を簡単に裁いてはならないのです。同じように、悪人とか不正な人ときめつける高飛車な言葉は、差し控えた方がよいのです。さあ、先を行きましょう」
二人の若者は森の中に雨宿りができるところを探し、そこで休んだ。北風にのって地上を洗いさるような激しい雨が降ってきたからである。夕方になると雨はすっかりあがり青空が見えてきたので、ヨハネは言った。
「あの小屋で休ませてもらいましょうよ」
イエスは何も答えなかった。彼はヨハネから少し離れ、ゆるやかな山の峰を歩いていた。ヨハネはイエスの表情を見て、とっさに彼が深い瞑想にはいっていることを知った。それでもヨハネは独りで家畜小屋の方へ向かい、ちょうどその小屋の持ち主が鍬(スキ)をかついで帰ってくるのに出会った。
ヨハネはぶどう園の持ち主に、その夜は小屋に泊めてほしいといった。最初のうちこの男は、とてもつっけんどんであったが、一枚の硬貨を握らせると態度が変わり、小屋を貸してくれることになった。
遥か山の峰にいるイエスの方を見上げると、なんと灼熱の炎に包まれた彼の姿が目に映った。しかも炎は、彼の姿とともに忽然と消えうせ、夜空に星がきらめく頃になってから、人の影のようなものが見えてきた。ヨハネはこの不思議な光に驚いた。
更に不思議なことに、あのぶどう園の持ち主が、イエスを包み込んでいた炎の光のすぐそばを通って我が家の方へ歩いていったのに、その光に全然気がつかなかったことである。
夜が更けるにつれて暗闇も深くなってきたが、イエスのまわりにある炎の光だけは、こうこうと輝いていた。ヨハネは頭を垂れて祈っていた。余りの静けさに、この世もすべての生き物もすべて消え失せてしまったように思えた。
ヨハネは自分が今、影にしかすぎないこの世から、実在の世界(霊界)に引き込まれていたことを知らなかった。うっとりとして我を忘れ、全存在が喜びにあふれていた。海の引き潮のように、次第に我に帰ってくるのを覚えた。我に帰ったヨハネは、たった一人で暗い野原にいることがとても寂しかった。
重い足を引きずりながら山の峰に登っていった。自分の肩に誰かの手が触れるのを感じた。見上げるとイエスが立っていた。やがて二人が山を降り、家畜小屋へ入った。イエスは感謝の祈りをささげ、パンとイチゴを分け合った。それから深い眠りについたのである。
第14章 人の生命とは
あくる日、太陽が山の上に高くあがる頃、イエスとヨハネは家畜小屋を後にした。近くの井戸で水を汲み上げ、全身を清め、旅で汚れた衣服を洗った。するとゆり籠に入れられた赤子が、向うの方で悲しそうに泣いているのが聞こえた。イエスは子供の方へ近寄ると、この子の母親が家の中から飛び出してきてわめきちらした。
「この子はね、何が悲しいのか一晩中泣いているんだよ。これ以上泣かすんじゃないよ! さあ、汚いこじきめ! あっちへいった、いった、ぐずぐずしていると猛犬がおまえらにかみつくよ!」
彼女があの手この手でおどしても、イエスには全く通じなかった。イエスがやさしく赤子を抱き上げると、たちまち泣き声が笑い声に変わり真っ白な顔に赤みがさしてきた。赤子とイエスは、わけの分からない声を出しながら愉快そうに話し合っているのであるが、ヨハネも母親もその意味が分からなかった。
ただこの二人が見事な友情で結ばれていることだけは明瞭であった。息子が嬉しそうにしていることと、旅人が上等な上着を着ていることを見て、母親の態度がガラリと変わった。どなることを止め、微笑みをたたえながら言った。
「旦那方、どうか家にあがって食事でもしていきませんかね」
イエスは喜んで彼女の申し出を受けた。彼女はとっておきの御馳走を振る舞った。蜜、山羊のミルク、パン、いちじくなどを食べさせてくれた。舌づづみをうちながらそれらを食べている間、赤子はイエスの横でスヤスヤと眠っていた。
赤子の寝顔を見ながら母親は言った。
「この家は呪われているんだよ。この子は、生まれたときから一日だって泣き止む日はなかったんだから、変だよね、今はじめて笑い顔を見たんだから」
イエスはじっと母親の語ることに耳をかたむけていた。初めは無愛想で、つっけんどんな女であったが、次第に自分の傷だらけの過去を話し始めた。彼女の夫は金持ちであったが、とてもケチで、彼女はいつもぼろを着て、ろくな食べ物しか与えられなかった。
そのうえ夫は短気で、他の人と話をしているところを見つかると、なぐる、蹴るの暴力をふるった。それで彼女は、憎しみのかたまりのようになってしまった。それがこの赤子に災いしているのかもしれないと告白した。
イエスは彼女をたしなめて言った。
「昔の愛をとりもどしなさい。もう一度、美しい花を咲かせるのです」イエスは親切な言葉や態度は他人の親切を引き出すのに対して、乱暴な言葉は、将来何倍にもふくれあがって自分に帰ってくることを話して聞かせた。
イエスは彼女に歌う喜びを教え、それにつれて赤子も喜びの声をあげるようになった。歌声は弦楽器やフルートのように美しかった。そんな訳で彼女はとても明るくなり、夫に対してもこのように振る舞うと約束した。
いよいよイエスが別れを告げる時がきた。彼女は悲しそうに叫んだ。
「先生! 先生! どうしてそんなにお急ぎになるんですか、もう少しここに居て下さい」
「神ならぬ人間に先生と言ってはいけません! いつも善意を保っていれば、決して苦しむことはないのです。きっとこの家から災いが消えてしまうでしょう」
「もうしばらくここに居て下されば、きっとあなたのすばらしいお言葉と喜びの歌とで私の夫から悪霊を追い出すことができると信じております」
しかしイエスはもうこれ以上長居することはできないと言った。それに夫の悪を征服できるのは彼女だけであることを話した。もうすでにそれだけの力が備えられていることを納得させた。彼女はイエスに感謝し、パンとイチジクを手にいっぱい持たせた。二人は別れを告げて再び旅立った。
昼ごろには、もう高い所を登っていた。ヨハネの心には、先日山の峰で体験した不思議な光景がよみがえっていた。ヨハネは突然その時のことを話し始めた。
「あなたは輝ける星、そして明るい炎でした。私の目には、暗闇の中でそのように見えました。とても近寄りがたく、ついに地上にひれふしてしまいました」
「それは、あなたの肉眼ではなく、霊の目で見たのです」
「私にはまだその点よく分からないのです。今ひとつ理解がとどかないのです」
「生命は神のうちにあるものです。しかもその生命は、人の光なのです。光は暗闇を照らし、しかも暗闇は光のことを知らないのです。だから肉眼では見えないのです。肉眼には、この世に生まれた人間の内側を照らす本当の光を感じないのです。これは実に不思議なことです。先だっての夜、天の御父と私が交わりをしていたときには、私の霊がいやがうえにも高められ、心から満ち足りていました。あなたの霊眼にそれが映ったのでしょう」
それからイエスは、砂漠にいたときに学んだ多くのことを話した。
「人には、光の形(霊体)というものが与えられています。母の胎内に宿ったときから死ぬときまで、その体は神より光を受けたり放射したりするのです。残念ながら肉眼にはそれを感じないのです。天の御父がすべての生き物に流入された生命を視る力が備わっていないからです」
イエスは砂漠の流浪の民の中で暮らす前に、あらゆる準備が必要であったことを話した。この時期に最も苦心したことは、天の御父から与えられた霊体を、どうしたら自在に動かすことができるかということであった。
ついにイエスは、その方法を会得した。それは、天の御父との交わり(臨在)によって霊の働きが活発になると、霊体を駆使することができる上に、他人の霊体をとりこんで刺激を与え、強烈な光によってその人を新たに作り変えることもできるという。
その方法を会得した者は、どんな忌まわしい病気でも癒すことができるのである。更に、この霊力を身につけたイエスは、彼のうちから発する光によって悪霊をも追い出してしまうのである。イエスはしめくくるように言った。
「悪霊にはさんざんてこずらされましたからね。でもついに、やっつけてしまいましたよ」
イエスの顔は喜びに輝いていた。それからヨハネのもとから少し離れ、黙っていた。急に黙っているイエスの様子を見て、ヨハネは思った。きっと、ナザレで過ごした少年時代のことを回想しているに違いないと。
腹黒い律法学者やパリサイ人から残酷な仕打ちを受けたこと、古老や物識りといわれていた大人から悪意に満ちた罵りの言葉を浴びせられたことなど。深く傷つけられた多感な少年時代は、まさに悪霊との戦いであったからである。(訳者注-当時の詳しい事柄は、『イエスの少年時代』に記されている)
第15章 闇の子と光の子
二人はオリーブとぶどう畑が延々と続く中を通り過ぎて行った。すっぽりと霧につつまれて景色がぼんやりと見えていた。イエスはヘルモン山のこと、ハーブ(薬草)のこと、樹々のこと、乾いた草がどんどん水分を吸い上げることなどを話した。そして彼は植物の生態にちなんだ寓話を次から次へと語った。イトスギ、カシの木、ポプラ、トゲのある植物、ユリの花、ヒメウイキョウ(薬草)、ライ麦、そしてあらゆる食用植物などが題材となっていた。
しかもそれぞれ味方や敵となる昆虫類や他の生物なども豊富に加えられた。彼の話を聞いていたヨハネは、長旅による足の痛みも忘れてしまうほど楽しかった。
話の中心は、大自然に宿る生物がみんな信仰によって生きており、その生命のすばらしいこと、更に、天の御父が生命の営みに必要なものをすべて与えてくださるということであった。ヨハネは言った。
「あなたの寓話の意味は何ですか?」
イエスは答えて言った。
「ああ! 人がみんな、草や花のように信仰によって生きていれば、天国は外にあるのではなく、自分の心の中にあるということを知るようになるでしょう」
ヨハネは二の句が出なかった。『天国は自分の心の中にあり、外にはない』という耳新しい言葉の意味が分からなかったからである。
二人はその夜、貧しい農夫の家に泊めてもらった。二人の客を泊めるために、自分の寝床を縮めるくらい小さな家であった。しかしできる限りのもてなしを惜しまなかった。イエスは持っていた食べ物をみんなで分かち合った。やせこけた農夫はイエスに言った。
「あなたのお言葉で、わしたちのおなかが膨らみましただ。まるで宴会のようでした」
この善良な夫婦は、乞食よりも貧しかった。昔五人の子供を飢えで死なせてしまったことを話した。でも愚痴をこぼさず、神を呪うことも無かった。あくる朝、善良な夫婦に別れを告げて旅立つとき、イエスの霊は歓喜に満たされ、ヨハネに言った。
この夫婦は、神の国から遠くはありません。あなたがお礼に差し出したお金や食べものを受け取らなかったではありませんか。前の晩に泊めてもらった金持ちは、逆に、それを要求し受け取りました。しかも金持ちが泊めてくれたところは、家畜小屋でしたね。なんという違いでしょう! 闇の子と光の子とを見比べてごらんなさい!」
第16章 人の手によらぬ本当の神殿
ヘルモン山の高い傾斜面は、狼、熊、鷲などの生息地である。ピリポ・カイザリア地方の人々にとっては、まさに近寄りがたい荒れ地であり、断崖絶壁であった。しかしイエスとヨハネにとっては実に有り難い所であった。
静寂だったからである。二人はついに目指す目的地にやってきた。そこはバール・ガトという地名で、昔は聖地といわれ、バール神をまつっていた所であった。ローマ軍がそこを通ったとき、ローマの神々の像を岩肌にきざんだ。それを見たヨハネは、シーザーの権力を感じ、心おだやかではなかった。
しかしイエスはそんな偶像には目もくれず、遥かなる眼下に流れている渓流が噴き出している洞穴を見ていた。
緑色の微光がキラキラと光り、水しぶきがあたりの岩に飛び散り、泡だらけの水がゲネサレ湖(ガリラヤ湖の旧称)に向かって流れていくのである。ヨルダンの山岳地帯の中心部は、まさにイスラエルを養う生命の泉であった。
イエスは南の方向に向きを変え、じっと凝視していた。ガリラヤ地方が一望のもとに眺められ、金色に輝いていた。そのど真ん中にガリラヤ湖が青々とひときは美しく横たわっていた。
東の方には、ギレアデやモアブの山々が連なっていた。更に、南西の方向には、ナザレ人にとってはとても親しみのあるタボル山がそびえており、むかし、サウロとヨナタンが死んだ戦場が近くにあることを思い出していた。(訳者注-サウロはユダヤ初代の王でヨナタンは善良な息子であり、ダビデの少年時代のよき友であった)
このときヨハネは、岩山の間を飛び交っているハゲタカを見ていた。ヨハネはつぶやいた。
「死の鳥が舞っている。兄弟よ、ここは悪霊ベルゼブルの巣窟で、とても汚れた場所ではありませんか! ああ、なんとひどい所なんでしょう! バール神の祭司が人間を犠牲として偶像に捧げたところです。(人身御供のこと)何代も何代も、この辺りは人の血で染められ、罪で汚され、恐怖にさらされた所です。さあ、早くここから立ち去りましょう。ここは人間の住む所ではありません」
ヨハネの声は山々にこだまし、むなしく消えていった。再びハゲタカが輪になって彼の頭上を通り過ぎて行った。
静けさが一面をおおっていた。しばらくして、イエスは淡々として言った。
「この世にはいろいろな静けさがあるのです。このあたりの静けさは、とってもすばらしく、神との出会いを実現させる静けさです。そうではありませんか、旅のお方!」
ヨハネがキョトンとしているのを見て、イエスはわざと他人行儀に振舞った。
ヨハネは言った。
「ここは何百年もの間、異教の神々によって汚された所ではありませんか!」
「ごらんなさい! 約束の地が私たちの眼下に広がっているではありませんか。神がお住みになっておられるのです」
ヨハネはどうしても神の声が聞こえず何も感じなかった。彼は孤独と恐怖におびえていた。
イエスは言った。
「もしも私が神の召命を受けたなら、この岩の上を天の御父の神殿とするよう弟子たちに命じるでしょう。
そうすれば、かえって悪霊は追い出され、影のように逃げていくでしょう。聖なる者だけが聖なるものを造りだせるのです。大理石の柱とか、金銀とか、銘木がどうして必要なのでしょうか。この辺りを見てごらんなさい。この山々は、天の御父が自ら切り刻まれた所であり、真心を以て礼拝する者のために用意されている本当の神殿なのですよ」
イエスの言葉が終わるや否や、ヨハネの顔に一条の光がさしこんだ。ヨハネはついにイエスの言っていることが分ってきた。
そうですね! 真心から神を拝む場所なんですね! この約束の地は、一望のもとに見渡せるんですね! やっと分かりましたよ、あなたの幻が見えてきたようです」
ヨハネの叫び声には全く無頓着にイエスは語り続けた。
「もし私が預言者ならば、・・・いや、そんなはずはないが! 私は人の子であり、町の人々のところへやってきたんだから・・・」
彼は再び溜め息をついた。
ヨハネは白雪をかぶった山々や、金色に輝いている眼下の景色をじっと眺めていた。ここにこそ、人の手で造られない本当の教会が横たわっていた。そこは神の御座を象徴する場所であった。永遠の平和がヨハネの霊をおおい、かつての異教の神バールの拝所(うがんじゅ)において、彼は神を見いだしたのである。
第17章 しばしの別れ
二人は果樹園にやってきた。木の根に腰かけて休息をとった。この高台から別れ道が見えた。ひとつはピリポ・カイザリアへ、もう一つは、谷間へ向かう道であった。イエスは言った。
「さあ、ここでお別れしましょう。ちょうど別れ道がありますから」
ヨハネは叫んだ。
「え! お別れするんですか?」
「さあ、ご両親や弟さんのところへ帰ったらいかがですか」
「とんでもありません! 私はもう両親や兄弟、それに友だちもすべてあきらめる決心ができています」
イエスは答えて言った。
「このままですと、まるで私がけしかけたように思われるではありませんか。それに、あなたの家族にそんな重荷を負わせたくありませんからね。今がちょうど潮時です。私は一人旅をして、私の目的をはっきりつかみたいんです」
それから二人はしばらくの間押問答を続けた。そしてついにヨハネは声をあげて泣いた。しかしイエスの顔には抗しがたい強いものが現れており、先生と呼ばれていないものの、その雰囲気は実に権威あふれる威厳にみちていた。
「私はついていきます。あなたの威厳がそうさせるのです。でもどうしても駄目でしたらお名前だけでも打ち明けて下さい。そうすればいつでもあなたを探し当てることができますので」
「それはできません。過去の経験がそうさせるのです。特に愛する者に対してはね。光の子らを愛すれば愛するほど彼らや親戚までも巻き込んでひどい目に合わせてしまうのです。律法学者やパリサイ人、長老などの怒りや軽蔑が向けられるからです。だから、あなたにもそんな目に合わせたくないんです」
ヨハネは自分の頭を地上にうちつけて悲しみの声をあげた。彼の大きな泣き声は、谷間中にこだまして、山々に響き渡った。その音にびっくりして、鳥の群れが木々の枝から飛び立っていった。
イエスは言った。
「私は喉が渇いた」
イエスはヨハネには目もくれず、果樹園のふもとに流れているヨルダン川へ降りて行き、手で水をすくって飲んだ。
ヨハネも川のほとりへ降りていった。そこで腰をおろし、あたりを見回すと、川のよどんだ水面に明るい透かし絵のようなものが映っていた。重苦しい絶望感と深い孤独感におしつぶされて、もう何も考えることができなくなってしまい、ぼんやりと水たまりの表面をじっと見つめていた。水面には、山の景色、人々の群れなどが映っていた。
その光景は次第に大きくなり、雑踏となり、山ぎわで礼拝している群集となったり、町の神殿に群がる人々になったりした。
いつのまにか、だれかと一緒にあちらこちらと歩き回っている光景に変わり、連れの者が、ふとこちらを向いたときに見た顔は、まさしくイエスであった。驚いたヨハネは、余りの嬉しさに、しばらく気を失っていた。自分をとりもどした彼は叫んだ。
「愛するお方だ! また会えるかもしれない!」
イエスは言った。
「先のことは分かりませんよ。前にも言ったように、過去の苦い経験からお互いに一緒に暮らさない方がいいんですよ」
ヨハネは嬉しそうに繰り返した。
「私たちはまた会えるんですよ、私はその幻を見たのです。そうなんですよ!」
二人は坂を登って行った。そして、あのいやな分かれ道のところに来て腰をおろした。イエスはヨハネに言った。
「あなたにお願いしたいことがあります。どうか私のいうことをだれにも漏らさないでください。これから出会う旅の人でさえ言わないと約束して下さい。二人で一緒に過ごしたことは、二人だけの秘密にしてほしいのです。
いずれこのことが知られる時がくるでしょうが、今は黙って欲しいのです。私たちが、どんなに楽しい日々をともに過ごしたか、それはとてもすばらしい友情でした」
ヨハネは固い約束をした。イエスは最後に言った。
「私はあなたのお父さんに負けないくらい、あなたのことが好きです。でもいつものことながら、人を愛し喜びを感じる時には、必ず邪魔者が現れるのです。どうもこれは私の運命のようなものです。
ですから、あなたをその影に入れたくないのです。さあ、あなたは、これからゲネサレ湖畔に帰り、幸せな日々を過ごし、友人と楽しく交わり、妻をめとり、子をもうけ彼らから尊敬される、そして裕福な老後を過ごし、平和な死を迎えるのです」
そこで突然イエスは、さようならも言わないでヨハネのもとを去り、ピリポ・カイザリアの方を目指し、姿を消してしまった。長いあいだヨハネはぼう然と立ちつくしていた。
肩を落とし、別れの辛さを味わっていた。しかし町の方へ向かう道を歩き出した時には、もう悲しみは消えうせ、歌を口ずさんでいた。水面に映ったイエスの顔を思いだし、必ず再会できるという希望を持ったからである。
第18章 異教の町、ピリコ・カイザリア
エルダドの弟、ヤコブは呉服商を営んでいた。彼は出入りする客のすべてに、貧乏は辛いものだと大げさにこぼしていた。しかし彼はひそかに金貸しをして巨万の富を築いていた。一人娘は結婚してしまったので、家には下僕のアサフと二人きりであった。アサフは子供の頃、異邦人に奴隷として売られ、病気がもとで口がきけなくなってしまった。
それでヤコブの下僕となり、どんなに痛めつけられてもペコペコしているだけであった。ヤコブは律法学者とパリサイ人だけには、訪ねて来るたびごとに御馳走を振舞い、贈り物を忘れなかった。自分のために長い祈りをしてもらえれば、どんな罪でも許されると信じていたからである。
イエスがピリポ・カイザリアにやってきた時、例の律法学者とパリサイ人が、町中で長たらしい祈りをしているのが目に入った。そして一人の若者(アサフ)が彼らと一緒に通り過ぎようとしていた。
すれちがいざま、アサフはイエスの不思議な視線を感じた。何かとても強烈なものを感じたので、主人に虐待されてもよいと覚悟を決めてイエスの方へ歩み寄った。イエスは彼に呉服商の家はどこかと尋ねた。身振りでアサフは道を教え、ヤコブの家まで案内した。
ヤコブはイエスが立派な上着を着ているのを見て歓迎した。その上、兄のエルダドから遺産分けとして財布を受け取ったので、上機嫌であった。
しかし、ケチなヤコブは遺産を運んでくれた手間賃を惜しみ、盛んに弁解を始めた。この大金は、そっくり借金の返済のために無くなってしまうとか、乞食にくれてやる小銭にも困っているなどとこぼした。
イエスは言った。
「金持ちというのは大変貧しいのです」
「妙な事をおっしゃいますね」
「金持ちはいつも金に飢えているのです。もっともっと増やしたいと思っているからです。しかも心配の種もつきません。言ってみれば、貧しさと同居しているのです。囚人のように卑しい欲望と恐怖に閉じ込められています。泥棒、戦争、ローマの権威者、税務署などにいつもびくついているのです」
「いやーそのとおりですよ」
ヤコブは溜め息をついてから黙ってしまった。イエスの見詰める目は、何もかも見通して、ヤコブが大金を持ち、帳簿の中までもすべて知られているように感じた。ヤコブはうつむいたまま、兄からの手紙を読み始めた。そこには世にも珍しい治癒力をイエスが持っていることが書いてあった。
ヤコブはその頃、骨の痛みに悩まされ、この不幸な病をなおす手立てが全然見つからなかったので、渡りに船とばかり喜んだ。
「兄の手紙から察すると、あなたは医術の心得がおありのようですね。実際のところ私は無駄口しかたたかない医者なんかちっとも信用してないんですよ。よく言うじゃありませんか、医者は泥棒より悪いてっね。泥棒は人の金か、命かのどちらかを奪いとるが、医者って奴は両方とも奪ってしまうってね」
と言ってゲラゲラ笑った。ロバの泣き声のような笑いが止まってからイエスは言った。
「私は医者ではありません。私はナザレで少年時代を過ごしました。ある年のこと、疫病が流行して人々がバタバタと死んでいきました。そのときカペナウムから一人の医者がやってきて、それは実に献身的な働きをしておりました。
昼も夜もぶっ続けで病人の家をまわり、それこそ飲まず食わずで病人を助けようとしました。しかし疲労が極に達し、ついに亡くなってしまいました。この医者は真心から患者に仕え、自分の生命を捧げたのです。これ以上の美徳がこの世にあるでしょうか。それ以来私は、医者というものを尊敬するようになりました」
ヤコブは、慌てて言った。
「私は医者に金を払っても、ちっとも痛みがとれないんですよ。いつもこの病気で死んでしまうんじゃないかと恐れているのです。でも今度は違います。兄がわざわざ手紙まで添えて、あなたに治療のたまものがあると言ってよこしたのですから安心いたしました。どうか私の病気を治して下さい」
イエスは再三にわたって自分が医者ではないと言ったのでヤコブは冗談だと思った。ヤコブはアサフに夕食の用意を命じた。イエスは手足を洗ってから夕食をすまし、わたのように眠った。長い旅で疲れきっていたからである。
次の朝、日の出の頃に目を覚ますと、ヤコブは丁寧な言葉で彼に挨拶し、今日からは自分の秘書のような役目を果たしてほしいと言った。イエスは賃金をもらわないで仕事を手伝い彼の病気を治すことになった。しかしいつまでもヤコブの家に縛られないことを約束した。
第19章 とけない謎
アサフの心はつねに暗黒に閉ざされていた。しかしイエスとの出会いによって大きな光明がさしこんできた。日の出、日没、星の輝きなどが、全く新しい希望となった。山からカイザリヤに向かって吹き荒れる嵐も、肌に優しく感じられた。
知恵と霊力に溢れているイエスと一緒にいるだけで、長いあいだの苦労も吹き飛んでしまうのである。
アサフの恐怖や苦痛は、傷あとのかさぶたが剥がれるように消えていった。彼はもう主人の暴力の前でおびえなかった。毅然とした態度で主人と対面するようになったので、主人のヤコブも暴力をふるわなくなった。
イエスの面前では体裁を作っていた。モーセの戒律をよく守り、律法学者やパリサイ人に献金し、正しい生活をおくっていると大ぼらをふいていた。ヤコブは長いあいだの経験から、ずるいことを考えていた。ひとつ、この誠実のかたまりのような男を使えば、店の信用も高まり、第一安心して商用の旅にでかけられると考えた。
この目的をはたすために、ヤコブはイエスに苛酷な仕事を与えず、しばらく気ままに暮らすように勧めた。イエスにとってローマが直接統治する町で暮らすのは、全く初めてのことであった。
イエスは町中を歩いて知ったことは、金持ちは豪華な邸宅に住み、盲目の乞食は汚い裏通りにねそべっていて、飢えのために骸骨のようになっていたことである。彼は又、主人に鞭うたれ、手足のきかなくなってしまった多くの奴隷が、街角に捨てられ、物乞いをしたり、生き倒れになって死んでいるのを見た。
町のあちこちで、奴隷が鞭うたれる悲鳴が聞こえていた。たまらない気持ちでそこを通りぬけ立派な道路に出ると、ローマ人が神と崇めるシーザーのために建てられた神殿があった。そのまわりに異教徒たちの神々の像がまつられていた。イエスは、その外観はともかくとして、その像からは何の内面的恩寵を感ずることはできなかった。
むしろローマ人の利益だけを考えて、支配下にある民衆には苛酷な法を強制し、残酷きわまる扱いをしていた異邦人に強烈な反感をいだいた。
それでイエスは、このときから異邦人は相手にしないことを決心し、もしも召命をうけたら、神のよき音信(おとずれ)をユダヤ人にだけに伝えようと思った。町のあらゆる光景を目の当たりにしたイエスはアサフにつぶやいた。
「私の親友ヘリという人が、こんなことを言ってたよ、〔町という所は、毒蛇やひきがえるの巣窟だ、そこには一片のあわれみも、いちるの望みもない。つかの間の喜びと、底なしの絶望があるだけだ〕とね。もうかれこれ七年程前に教えてくれた言葉なんだ。今その意味がようやく分かったような気がするよ」
アサフはイエスの裾をつかみ足元にひれ伏した。アサフはひとことも口がきけなかったので、イエスは彼を抱き起し、一枚の書き板を手渡した。アサフはもだえるように文字を書いた。
「ご主人様どうか私をおいて行かないで下さい。そんなことをなされば私は自殺いたします。この町には暗黒と死だけしかありません。どうか私をあなたの奴隷として連れて行って下さい」
「奴隷はよくない! 私の弟子としてついてくるなら決して重い荷物を追わせるようなことはしない。でも今の私は独りで旅をしたいのだ。アサフよ、今は何の約束もできないよ」
イエスは辛そうに言った。アサフは苦しそうなうめき声をあげたが、これ以上イエスに迫るようなことはしなかった。
イエスが言い終わらないうちに主人が律法学者とパリサイ人を連れて家に入ってきた。ヤコブはお客に食事を用意するように命じた。パリサイ人は、でっぷりと脂ぎっており、律法学者は小柄であった。
イエスは客のため接待した。彼らはたらふく食べたり飲んだりした。彼らの話は、霊的なことではなく、もっぱら商売のことをひそひそと話し合っていた。又パリサイ人は、ヤコブがどんなに立派な人物であるかとお世辞を言い、多くの取引ができるようにしてやると約束した。ヤコブは、とても上機嫌だった。
彼は二人のため、特別な贈り物を手渡してからイエスを呼び出した。上着だけは立派なものを身につけていたので二人の客は丁寧に挨拶をした。そこでパリサイ人は律法学者のことをおだてあげた。
「彼はのう、知識の水がこんこんと湧き出る方じゃ。一滴も無駄なものはないのじゃよ」
それから今度は律法学者がパリサイ人のことを褒めそやした。
「彼は何しろエホバの神に祝福されている御仁でな、天使たちまでも褒めたたえるのじゃ」
客の足元にいるイエスは黙って歯の浮くようなお世辞を聞いていた。調子に乗った律法学者がイエス言った。
「そこの若い方よ、わしらに気がねなどするでない、何でも質問するがよい」
「先生がた、一つだけどうしても解けない謎があるのです。どうして時々悪人が善を行い、聖人が罪を犯すのでしょうか?」
律法学者は妙な質問に顔をしかめながら、それは全く無知のなせる業であると答えた。
イエスは続けて言った。
「私は本当にあったことをお話いたしましょう。ある村に農夫が住んでおりました。妻と七人の子供が幸せに暮らしていました。ある年に凶作にみまわれて、そのあたりは何ひとつ収穫がありませんでした。その農夫は病気になり、家には食べるものが全然ありませんでした。子供たちは今にも飢えて死にそうになりました。
農夫は妻と相談し、金持ちで立派な人だと言われているパリサイ人の家に行けば、きっと哀れんでもらえるだろうと話し合いました。しかしこのパリサイ人は何一つ与えず、こう言いました。
〔豊作のときにたら腹食べて、食物を粗末にしたばちが当たったのじゃ。愚か者はみなこんな目にあえばよいのじゃ、エホバの神はすべて見通しじゃ。せいぜいおまえたちのために神にとりなす祈りでもしてやるからな〕
哀れな農夫と妻は、空手で金持ちのパリサイ人の家の門から帰って行きました。それから賢人として知られている律法学者の所に行きました。きっと妙案を出してくれるに違いない。そうすれば子供たちは死なずにすむかもしれないと思ったのです。この律法学者は仲々の暮らしをしておりました。
ところがこの律法学者も、ひとつぶの麦さえも与えてくれませんでした。しかも彼の与えた妙案とは、豊作のときがやってくるまで辛抱強く待てばよいということでありました。農夫は叫びました。
〔今食べるものがなければ豊作の年が来る前に死んでしまいます!〕
律法学者は、神の慈悲を疑う奴はけしからん、と言って、戸をピシャリとしめてしまいました。しかたなしに彼らは一軒の貧しい売春婦の家にいきました。彼女は彼らの実情を聞いて気の毒に思い、五つのパンと山羊の乳を与えました。その後も穀物や油なども与えたので、一家は何とか生き延びることができました。そしてついに飢饉が去りました」
イエスはここでしばらく沈黙し、彼らに尋ねた。
「この三人のうちで誰が神に愛されるでしょうか? 知識の水がこんこんと湧き出る律法学者でしょうか、それとも天使たちから褒めたたえられるパリサイ人でしょうか? 罪を犯していても、飢えに苦しんでいた人々を哀れみ、隣人を救った売春婦でしょうか?」
しばらくの間ヤコブの客二人は、何も答えなかった。煮えくりかえるような怒りを感じても、返す言葉が全く見つからなかったからである。ついにパリサイ人がヤコブに向き直って言った。
「このお方はどこからお出でになったのじゃ?」
「ナザレからです」
「ああ、悪名高いナザレかね」と律法学者はつぶやいた。パリサイ人は続けて言った。
「して、彼の父は?」
「兄の手紙によりますと、大工であるとか申しています」
「卑しい職業だ」と律法学者がつぶやいた。イエスは彼らに言った。
「どうかお願いです。私は全く無知なのでお願いしているのです。でもこれは実際にあったことですから、どうしてもこの謎を解きたいのです。本当の善と本当の悪についてです」
二人の先生がたは、頭を横にふるばかりであった。イエスは言った。
「神様だけがご存知だという訳ですね。でも私には、どうしても多くを愛した売春婦が神様に愛されるように思えてならないのです」
短刀で胸を刺されたような痛みでパリサイ人と律法学者はもうじっとしていられなかった。
パリサイ人は立ち上がり、大声でどなった。
「この若者めが、汚れた女を引き合いに聖なるエホバの名を汚しおったわい! わしは、もうこれ以上我慢がならんわい! ヤコブや、この冒p野郎をいつまで家においとくのじゃ」
イエスは言った。
「エホバの神はすべてのものをお造りになったと記されています。この売春婦も神の御手によって造られた人間ですから、たとえ迷いの中にあったとしても、立派な神の子ではないでしょうか」
立派な服を着たパリサイ人は、この若者に返す言葉がひとことも見つからなかった。憤然として家を出ようとしたのであるが、ヤコブがそれを遮っておしとどめた。ヤコブは懸命に客を引き留め、イエスにここから離れるように命じた。
律法学者も同じように引き留められた。それで二人の客はヤコブに対し、あの浮浪者を即刻この町から出て行くように言った。ヤコブはそれだけは勘弁してほしいと哀願した。イエスはとても変わっているので、訳の解らないことを言い出すのだと、しきりに弁解した。ヤコブは声を一層和らげながら言った。
「イエスはまるで海から渡ってきた白鳥のような人間です。金持ちを目の仇にしていますが、私は今までこんな信頼のおける人間には出会ったことがありません。ですからこの若者に私の家や財産を全部まかせようと考えているのです。
つまり私の執事というところでしょうか。とにかく私が安心して商売にでかけられるような管理人にしたいのです」
パリサイ人が言った。
「イエスは今にきっとうまいことを言って、あんたをだまくらかすにきまっとるわい」
律法学者も続けて言った。
「あいつはね、あんたが留守をしているのをいいことに、全財産を奪ってとんずらするんじゃないかね」
ヤコブは遮るように言った。
「とんでもございません! 私の兄が彼を信用して、重い金貨の袋を届けさせました。遺産の分け前だったのです。一銭も無くなっていなかっただけではありません。彼は運び賃さえ受け取らないのです。その気になれば、いつでも彼はエルサレムでもアレキサンドリア(アフリカ)でも持ち逃げできたはずです」
パリサイ人は言った。
「ああ、神の名を汚す者は、必ず裏切るものじゃ!」
「腕のいい職人は、これと見込んだ道具を捨てるようなことはいたしません。私も長い間商売のために数えきれない人を使ってきましたが、一度も私がにらんだ眼が狂ったことはありません。このナザレ人こそ完ぺきな人間です。食事だけあてがっておけば、ただで働いてくれる男です。それに言い忘れておりました。彼は奇跡が起こせるのです。
私の甥から悪霊をふんじばって追い出してしまったんですよ。こりゃすごいじゃありませんか。私も彼を説得して、私に取りついている病気を治してもらおうと思っているんですよ」
ヤコブの話を聞いているうちに、二人の客人の顔色が変わった。妬みと混乱が渦巻いていたからである。その上もしかすると、この若造のおかげで今までのようにヤコブから甘い汁を吸えなくなるのではないかと恐れた。そこで律法学者が言った。
「それほどまでにあんたが見込んだ人物なら、それも結構なことじゃ。ではひとつ、その者をここに呼んで、あんたの病気を治すところを見せてもらおうではないか」
ヤコブはアサフを呼んで、すぐイエスをここに連れてくるように命じた。二人はかわるがわるイエスにたずねた。イエスはただ〔はい〕と〔いいえ〕としか答えず、余計なことは一切言わなかった。しびれをきらしたパリサイ人は言った。
「さてさてヤコブの甥のことを聞いて、久々にわしの心が躍ったところじゃ。おまえさんは、本当にすばらしい奇跡をおこしたもんじゃのう」
彼はしつこくその時のことを話すように催促した。ヤコブが言った。
「イエスや、それだけは嘘ではあるまい。兄からの手紙にも書いてあったからね」
「それが一体どうしたと言うんですか。私は医者ではありません」
「おまえさんは、ここで大変世話になっている主人の病気を治すんだろう?」
「いいえ、私はこの異教の町では、そのようなことをしないように決めているのです」
パリサイ人は言った。
「ヤコブや、どうやらこの若者はあんたの友ではない! この気高いナザレ人が、その手でおまえさんの体に触れさえすれば病気が治るというのに、それをしないというのは、おまえさんの友ではあるまいて!」
ヤコブは言葉につまってしまったが、ひとつかみの金貨をイエスに差し出して、どうか自分の病気を治して、もう一度身軽に歩けるようにしてほしいと言った。
イエスは言った。
「そのお金はアサフにあげた方がよいのではありませんか。彼はあなたのために身を粉にして働いているのです。労働に対して賃金を払うのは当たり前ですからね」
もしもこの高利貸しがイエスの言う通りにしていたら、きっと後で、萎えた手足を自由にしてもらえたかもしれなかった。しかしヤコブはケチで強欲な人間だったので、せっかく溜めた金をびた一文でも人にやるのが惜しかった。パリサイ人と律法学者はあざけるような目付きで言った。
「この若造は病気を治せないんじゃ。このほら吹き野郎は、きっと兄の手紙までもごまかしおった」
「そりゃちがいます! 運んできた大金を見ればわかります」
イエスは三人の男を見回してから、ヤコブに厳しい調子で言った。
「あなたがこのアサフにこの金をやらないというのでしたら、この二人の客人にあげて、あなたの求めているものが実現するまで長いお祈りでもしてもらったらよいでしょう。あなたの心がかたくななので、私はもうあなたとはかかわりたくありません。これでお別れしましょう!」
彼の語気に圧倒されたパリサイ人、律法学者の面前で、イエスは足のちりを払い、ヤコブの家から出て行った。ヤコブはすっかり動転し、嘆いて言った。
「生れて始めて信頼できる執事を失った! 金では買えない人物を・・・老後の支えと考えていたのに・・・」
パリサイ人と律法学者は、歯の浮くようなお世辞を連発してヤコブを慰めている間に、アサフは、こっそり、ヤコブの家から逃げ出して、イエスの後を追いかけて行った。
第20章 アサフの真心
アサフは子供の頃から食べ物に飢え、病身であった。それで身体は小さく、疲れやすかった。ヤコブのもとへやってきてからは、いつも杖で叩かれ、びっこを引くようになった。そんな足でイエスに追いつくことは容易ではなかった。しかもピリポ・カイザリアでは、ローマ神殿に参拝する者でごったがえしていた。
ようやく追いついたアサフは、イエスの裾を引っ張って一緒について行きたいという合図をおくった。その顔にはありありとヤコブの家のちりを払い落したいという気持ちがにじみでていた。
イエスは言った。
「ヤコブのもとに帰りなさい。おまえは町の人間だから、それが一番よいのだ。厳しい道をえらびなさい。いばらの道を選べば、良い死にかたができるだろうよ」
イエスは裾を引っ張っているアサフの手を振り払い群衆の中に消えていった。アサフは腰を曲げ、顔を地面に向け、手で自分の服を引っ張りながらうろつき回った。南の方へ向かって歩き始めると、十字路にさしかかった。アサフの指が東に向いていたので、そちらの方へ歩いていくと、見晴らしのよいところにやってきた。
見ると、一本の樹の下にイエスが腰をおろしているのが目に入った。昼過ぎの頃、山頂に白雪をいただいたヘルモン山から冷たい風が吹いていた。アサフはイエスの後ろに回り、そっと裾を引っ張った。
イエスはなじるように言った。
「しつこく私を追い回してはいけない。私は独りで自分の道を見究めなければならないんだ」
アサフはイエスの厳しい口調にたじろいでしまった。その態度は、いつもの愛情溢れるものとは違い、権威ある者の表情になっていた。アサフは仕方なしにイエスの言う通りにしたが、イエスの姿が見えなくなると、再び彼の後についていった。イエスは枯れ葉となってしまった木々のふもとで休息をとった。
天の御父との交わりに入り、数時間が流れた。我に帰ると、そこに足をすりへらし、疲れきったアサフが立っていた。夕闇があたりを覆っていた。アサフはイエスの足元にひれ伏し、しっかりとイエスの足をにぎっていた。顔からは血の気がなくなり、ほとんど意識を失っていた。
イエスは優しくアサフに説得した。
「アサフよ、よく聞きなさい。私と運命を共にすると、必ず悲しい最期がやってくるんだよ。私はおまえを巻き添えにはしたくないんだ。だから私と別れて町へ行きなさい。上着の裾に縫い付けてあった一枚の銀貨がでてきたので、それを持って行きなさい。そのお金で商売を始めれば、何とか命をながらえることはできるだろうよ」
アサフは必死になって砂の上に文字を書いた。
「あなたなしで命をながらえるくらいなら、いっそ共に死んだ方がましである」
と書いてあった。二人はしばらくの間黙っていた。イエスは心の中で悩み、葛藤しながら口を開いて言った。
「私についておいで! 私のために命を失うようなことがあっても、魂は立派に救われるだろうよ!」