第6章 類魂
第1節 意識の集団
類魂(グループ・ソール)はこれを単数と見れば単数、複数と見れば複数でもある。全てに共通する、『霊(スピリット)』の力によりて同系の『魂(ソール)』達が一つに集合するのである。これは多分前にも一度述べたと思うが、脳の中に幾つかの中心があると同一筆法で、心霊的生活に於いても又、一個の霊によりて結び付けられたる幾つかの魂があり、そしてそれ等の魂は、栄養素を右の霊から供給せられるのである。

私が地上生活をしていた時にも、私は勿論或る一つの類魂に属していた。が、自分以外の他の魂と、又全てを養う霊とは、悉く超物質の世界に置かれてあった。もし諸子が心から霊的進化の真相を掴もうとするならば、是非この類魂の原理を研究し、又理解してもらいたい。この類魂説を無視した時に、到底解釈し得ない難問題が沢山ある。なかんずく最大難件の一つは現世生活の不公平、不平等なことで、これは各自の生の出発点に於いて、既に宿命的に決められている。これを合理的に説明すべく、古来かの全部的再生説が唱えられていたのであるが、類魂説は更に一層合理的にこれを説明する。これによれば、現世生活は自分の生活であると同時に、又自分の生活でない。換言すれば、自分の前世とは、結局自分と同一系の魂の一つが、かつて地上で送った生涯を指すもので、それが当然自分の地上生活を基礎付ける事にもなるのである。

現在私の居住する超物質の世界には、無限に近い程の生活状態があるので、私はただ私が知っているだけしか説明出来ない。私は決して絶対に誤謬をせぬと言わないが、大体これから述べる所を一の定理と考えてもらいたいのである。

私は先に帰幽者を大別して『霊の人』『魂の人』及び『肉の人』の三つに分けたが、右の中『魂の人』となると、その大部分は再び現世生活を営もうとする所存は有たない。しかしながら彼等を支配する霊は、幾度でも自分自身を地上に出現せしめる。そしてこの霊が、上から同系の類魂達の結束を行なうので、霊的進化の各階段に置かれたる之等の魂達は、相互の間に盛んに反射作用を営むのである。かるが故に、私が霊的祖先と呼ぶのは、決して自分乃肉体的祖先のことでなく、実に同一霊によりて自分と結び付けられたる、魂の祖先の事を指すのである。同一霊の内に含まれる魂の数は二十の場合も、百の場合も、又千の場合もあり、その数は決して一定していない、各人各様である。仏教徒の所謂業(ごう)(羯磨(かつま))-あれはその通りに相違ないが、しかし大概は自分自身の前世の業ではなく、自分よりはずっと以前に地上生活を営み、そして自分の地上生活の模型を残してくれた、類魂の一つが作った業なのである。同じ筆法で、自分自身も又、自分の地上生活によりて、同系の他の魂に対しての模型を残すことになる。かくて我々は、何れも独立的存在であるが、同時に又、種々の界で連繋的に働いている所の、他の類魂の強烈なる影響を免れないのである。

仏教徒が唱導する再生輪廻説、あれは反面の真理しか述べていない。この反面の真理は、往々全体の誤謬よりも悪影響を及ぼすことがあるから警戒を要する。私自身は決して二度と再び地上に現れることはない。が、自分と同系の他の魂は、私がかつて地上で制作した同一模型、羯磨の中に入ることになる。但し念の為に断っておくが、私の述べる模型は、仏教の所謂羯磨とは全然同一のものではないらしい。大体に於いて個々の魂は一大連邦所属の一王国と観ればよい。

私がかく述べると、論者或は言わん、『魂の人』にとりて一回の地上生活は充分でないと。が、我々がこちらの世界で進化を遂げる時に、我々は同一系統の魂達の記憶と、経験との中に入り込めるのである。我々は必ずしも自身で幾度も地上生活を繰り返さなくてもよい。

私はこの類魂説が、一般的通則として規定さるべきであるとは極言しまい。が、私が知れる限り、私が経験せる限りに於いて、それは断じて正確である。

それは兎に角、このスペキュレエション(諸子は恐らくそう呼ぶであろう)は、これを天才の場合に適用した時に甚だ興味が深い。我々よりも以前に地上に出現した魂達は、精神的にも又道徳的にも、自然我々に何等かの印象を与えるに相違ない。従ってある特殊の類魂の内部で、或る特殊の能力が連続的に開拓されたとしたら、最後にはきっとその特殊の能力が、地上の代表者の上に顕著に現れる。即ち幾つかの前世中に蓄積されたる一切の傾向が、驚嘆すべき無意識的知識となりて、一人の地上の代表者の所得となる。かの非凡な音楽家、その他の天才児の出現を最も合理的に説明するものは、この類魂説以外に絶無ではないかと思う。

我々は死後の世界に於いて、次第に進歩を遂げれば遂げる程、一層この類魂の存在を自覚して来る。そして窮極に於いて、我々はその類魂の中に入ってしまい、仲間の経験を自己に吸収するのである。かるが故に、私の魂としての生活は当然二重である。即ち、一つは形の世界に於ける生活、他の一つは主観の世界に於ける生活である。

地上の人達は、私の提唱するこの類魂説を、直ぐには受け容れようとせぬかも知れぬ。彼等は恐らく死後の世界に於ける不壊の独自性に憧れるか、又は神の大生命の中に、一種の精神的気絶を遂げるのを理想とするか、大抵そうした傾向に出るであろう。ところが私の類魂説は、その中にこれ等一切の要素を含んでいる。我々は個性の所有者であると同時に、又全体の一員でもある。一部分であると同時に又全部分でもある。第四の世界(色彩界)から第五の世界(光焔界)に進むに従って、一つの存在の内面に於けるこの協調生活のいかに美しく、又いかに楽しきかがしみじみと判って来る。これによりて生命の深みと強さとは一段と加わり、これによりて地上生活に免れざる利己的精神-自己の物質的生命を維持する為には、間断なく他の物質的表現を破毀して行かねばならぬ、かの残忍酷薄性-からの解説が初めて実現する。

前にも一言した通り、第四の世界に到達した時に、各自は初めて類魂の真相が判りかけ、その結果ここに一大変化を遂げることになる。彼は一歩一歩に経験の性質、精神の威力を探り始める。その際もしも彼が『魂の人(ソールマン)』であったとすれば、時としてとんでもない誤謬に陥り易い。これは非常に大切な問題であるから、詳しく説明を加えておく。彼が類魂達の智的並に情的の経験に通暁して来るのは結構であるが、時として類魂中の或る一部分に作りつけの雛型に逢着することがある。うっかりすると、彼はその雛形の中に嵌り込んでしまい、幾千萬年に至りて、一歩もその中から踏み出せない。右の『雛型』というのは、つまり地上生活中に築かれた宗教的信条と言ったような種類のもので、全ては迷信的空想が生み出した、単なる夢であり、幻であるから、勿論そこには何の進歩も発達もあり得ない。謂わば章魚(たこ)の触手に吸い付かれた形で、二進も三進も行かないのである。

かかる境涯が進歩の大敵であることは、ここに断るまでもないであろう。モウ一つ別な譬喩(たとえ)を引こうなら、それは一種の智的牢獄で、そこでは過去の地上の考が、金科玉條として墨守(ぼくしゅ)されているのである。向上の途に於ける魂達が、客観的にその境涯を考察するのは差し支えない。しかし断じてその中に引き留められたり、又拘束されたりしてはならない。

(評釈)マイヤースの通信中、この類魂の説明は特に重要無比の一節であるから、読者の精読を希望する。マイヤースも述べている通り、地上の人間生活にありて、何人も逢着する最大の疑問は、一見因果律を打破するような人間生活の不公平、不平等なことである。これを合理的に説明し得ざる哲学は、哲学としての価値がなく、これをきれいに解釈し得ざる宗教は、宗教としての役目を果たさない。なのでインド式の全部的再生説が提唱されたのでもあろうが、これには理論的にも、又実験的にも見逃し難き欠陥がある。同一の魂が再び胎児として母胎に宿り、下らない未成年期の二度の勤めを行なうということは、進化の法則違反であり、これを大自然の一般的法則と考える訳には行かない。又我々が霊媒を機関として他界を調査する時に、再生の為に籍を失ってしまったという実例にぶつからない。全部的再生説が総体の真理を掴んでいない証拠である。

なので全部再生説の反対論者は、今尚依然として『子供を創造するのは人間の父母だけの仕事である』と主張するのであるが、この父母万能説が、理論的に到底容認し難き欠陥を有していることは前述の通りで、その結果今日のような忘恩的、怨嗟的、自暴自棄的の危険思想の発生を促したのである。『誰も頼みもしないのに、こんな貧乏な家庭に自分を勝手に生みつけやがって・・・・』そう言った不平不満が現代の青年子女の精神的堕落の最大原因を為していることは確かで、そしてこれに対して、父母万能説は当然責任を負わねばならないのである。同時にこの説は、心霊実験の上からも確実に否定し得るのである。新時代の指導原理を以って任ずるものは、いまさら何の暇ありて、そんな非論理的、非科学的、又非道徳的な主張に未練を残していられよう。

不敏ながら私も心霊学徒の席末を汚すものである。従って私の最大関心事の一つは、いかに幽明交通の活用により、這間の真相を明らかにするかにあり、年来実験を重ねた結果、最後に思い切って提唱することになったのが、取りも直さず私の所謂『創造的再生説』である。それは事実全部的再生説に訂正を加えたものであるから、『再生』という文字を踏襲したのであるが、実を言うと必ずしもこの文字を使わなくともよい。寧ろ『創造的地上降臨説』とでも命名した方が正当であるかも知れない。私の調査した所によると、超現象の世界には、各自の自我の本体-所謂本霊がある。そしてその本霊から分かれた霊魂-所謂分霊は沢山あり、それぞれ違った時代に地上生活を営んでいる。これ等の分霊中、普通地上の人間を直接守護しているのは、その人間と時代も近く、又関係も最も深い或る一個の霊魂で、それが私の所謂守護霊である。即ち守護霊というのは、多くの分霊中の最も親密な一代表者を指したので、無論同一系統に属する他の霊魂とても、悉く連動的関係にあることは言うまでもない・・・・。

以上が私の『創造的再生説』の梗概(こうがい)であるが、今マイヤースの『類魂説』を読んでみると、表現の方法に多少の相違があるのみで、その内容は殆ど一から十まで同一であると謂ってよい。ここに一個の中心の霊があり、それから幾つかの魂が分かれて、それぞれ違った時代に地上生活を営んでいる。霊的進化の各階段に置かれたるこれ等の魂達の間には反射作用が行われ、謂わば連帯責任を有っているのである。なかんずくそれ等の類魂の中で、自分と最も関係の深い魂-霊的祖先がある。『自分の前世とは結局自分と同系の魂の一つが、かつて地上で送った生涯を指すもので、それが当然自分の地上生活を基礎付ける事になる・・・』マイヤースはそう説いている。

マイヤースは『守護霊』という文字を特に使用していないが、私の所謂守護霊説の内容は、マイヤースも立派にこれを認めている。自分の地上生活の模型を残し、自分の作った前世の業を伝えている類魂の一つ-これが私の守護霊以外の何者であり得よう。

私は無論マイヤースと同じく、この『創造的再生説』に固執するものではない。理論的又実験的にこれを打破し得るものがあったら、いつでも歓んでこれを撤回するに躊躇するものでない。殊にその名称などは、よりよきものが見つかり次第、いつでもそれに改めてよいと思っている。しかしながら、今日こうしてマイヤースの類魂説を紹介するにつけても、この説が恐らく今後人間界の定説となるのではないかと考えられる。


第7章 光焔界-第五界-
第1節 第五界への誕生
第四界の居住者が、やがて死の準備にとりかかる時期が来る。この死は人間の死とは全然違う。進化のこの道程に達した魂は、既に形態、外貌、幻像等の完全なる支配権を有っている。しかし支配権だけではまだ足りない。モウ一つ上の階段に進もうとするには、そこに一つの解脱が要る。外でもないそれは『形態の破毀』と称する、面倒な過程を首尾よく通過することである。ここでいよいよ外貌、形態、色彩、感情等への永の訣別を告げる。つまりそれ等のものが必需品として、又生活条件として、存在の価値を失うのである。

魂はここで又もや無意識状態に陥る。かくていよいよ第五界に誕生した時には、姿に包まれていた時代の性質の一部は同時に消え去っている。

一体全ての界の中間には、必ず一の沈黙時代、湮滅(いんめつ)時代がある。古代人はこれを冥府(ヘーズ)と呼んでいた。ここで魂は暫く中憩をやる。が、次第次第にその意識が回復し、底光する永遠の海の上に、過去の各界に於ける自己の一切の経験、自己の閲歴の骨子を為せる一切の光景が、歴々と写し出されて来る。彼は自己の有する統一原理、自己の霊(スピリット)の光で一々これを点検する。すると、その人の天分次第で、智的並に情的の種々の欲求がむらむらと浮いて来る。彼はその時、上昇か下降か、二つの中その一つを選ばねばならなくなる。つまり彼の霊が上からこれを促すのである。この際全ては前世に於ける経験の多寡によりて決まる。彼は絶対の意思の自由を許される。が、無理をすることは出来ない。止むに止まれぬ絶対必要の一途を選ばねばならない。『肉の人』ならば、夢幻界の入り口で、再び物質世界に下降するを常とする。又『魂の人』ならば、色彩界の入り口に達した時に、しばしば夢幻的形態の第一部に降るのもある。

しかしながら、もしも過去世の検閲が幸に満足すべきものであってくれれば、彼は意を決して第五界に上昇する。すると俄然として周囲の静寂が破れる。全てを包む猛烈なる心霊的暴風雨の中に、彼の色彩と形態とに対する欲求が微塵に砕かれ、そして同時に自分自身のある部分をも、一時放擲(ほうてき)することになる。但し一層完成した第六界に達すれば、その放擲されたる部分は再び自己に戻って来る。

(評釈)ここに至りて、地上の人間の想像はそろそろ貧弱を感ずる。何の形態も色彩も、又感情もない生活は、文字の上で理解が出来るとしても、実質的にはちょっと見当がとれ難い。マイヤースは自己の体験から、しきりにその真相を伝えようとしているらしいが、これだけの推薦では、殆ど何物をも我等に教えない。恐らくこれは何人にも至難の業であろう。

第2節 第五界の象徴
『生命の書』を書くのには、各章毎に多少の象徴法を採用する必要がある。なので自分は『光焔』の一語をこの第五界の表現に使用した。ここで魂は独り自己のみならず、その属する類魂の全てに通暁する。彼はやはり彼であるが、同時に又その他の全てでもある。彼は、最早人間の想像するような形の内には生活しない。が、彼は依然として一の輪郭の内に生活する。その輪郭はその所属の類魂の過去の一切の思想、感情等によりて作られるもので、言わばこの大集団を動かすところの大火焔である。

この第五界に住む時に、その経験はいかにも雑多であり、いかにも複合性を帯びているので、或る意味に於いては、何やら統一性を失ったようにも見える。彼の生活は言わば燃える火の生活である。絶大なる智情の飛躍もあれば、無限の自由と甚大なる不自由の交錯もあり、そして無辺際なる、種々の水平線の瞥見も伴い、要するに彼にとりて最も厳格なる訓練の時代である。思索の悩み、想像の呻き-ドウやら自己の心は存分に活動する暇なく、他の類魂達の烈しき生活の情熱が、その全身に燃え移ると言った生活。-要するに彼はかくして層一層、その統一原理たる霊(スピリット)の活動の中に近付きつつあるのである。

兎に角今までに全く類例のない、猛烈な幸福、歓喜、悲哀、絶望の感じが、彼の生命の中に注ぎ込まれて来るのであるが、それにも係わらず、彼は依然としてそれから離れている。彼は決してこの激越性の嵐の中に巻き込まれはしない。要するに彼はその嵐を自覚しているが、しかしその上を乗り切っていると言った状態である。

この意識の第五階段に於いて、魂は連続的に自覚している。そこには何の間隙も休息もない。彼は意識の諸々の階段に居住する類魂達の智情両面の生活に接触して、その苦楽に浸るのである。そしてその最高潮に達した時には、自我の出発点たる本霊の境域に迫りて、その光明に浴することも出来る。さればとて彼は決して自己の独立を失った訳ではない。彼は或る意味に於いて、自己の傑作の醍醐味に浸る所の独りの芸術家である。次第に進展し、変化する創作の新鮮味の中に、到底筆舌に絶する、かの一種不可思議なる至楽境を見出して、無上の幸福を満喫するのである。これは真の創造的天才者が、極めて微弱ながらも、その地上生活中に、時として味わうことの出来る境地である。

この第五界の境涯は人間の心を以ってして、よく想像は出来ても、到底如実に把握し得る状態ではない。ここに至りて自己の存在の意義が、初めてはっきりと腑に落ちる。神、宇宙、人生-その真面目が何やら彷彿として判りかけて来る。が、最後の神秘の解決は依然として一の宿題として前途に残される。

兎に角この第五界は、或る面白からぬ一面を有ちつつも、実に素晴らしい存在である。が、『魂の人』は容易にこの世界を後にして、第六界へと前進することは出来ない。それは彼一人の問題ではない。他の類魂が肩を並べて意識の同一水準線に達するまで、そこに待たねばならない。何となれば、それが永遠の織物に編み込まれるべき模様の完成を意味するからである。そうしておりながらも、彼は同系の他の幼稚な魂達-自分よりも遙かに濃密な物質に宿りて経験を積みつつある類魂-の情的生活に通暁する。これを要するに彼は自己を養い、自己を導く統一原理-本霊-の直属の全生活と密接不離の関係に置かれる。その関係は独り人間には限らない、同一系統の世界に属する一切の花、虫、鳥、獣その他の潜在生活とも共鳴するのである。

(評釈)私が言ったら、マイヤースの第五界は幽界の上層を指しているものと考えられる。この境涯の魂は地上に免れざる利己主義、個人主義からの、全部的解放を以って眼目としているらしく見える。それが日本神道の所謂和魂の大成であろう。枝葉の点に疑問は免れないが、大体に於いて首肯される説明振りである。なかんずくこの世界の居住者が、自分よりも進化の後方を歩みつつある類魂の情生活に通暁するということは、私の交霊実験の結果から見て、特に興味深く感ずる。これは蓋(けだ)し『生』の問題を合理的に説明すべき大切な鍵ではあるまいかと思う。

第3節 類魂の組織
類魂の組織構造は、是非共これを明瞭に理解しておくべきである。類魂の統轄体たる『霊(スピリット)』が、生命と光明とを賦与するものは、進化の様々の階級に置かれたる、各種各様の生物である。その代表的なものを挙げれば、草木、花、鳥、虫、魚、獣、並に人間の男女などである。つまり本霊はたった一つで、様々の世界、様々の意識の階段に於ける魂達を養うのである。尚本霊の威力は他の天体の生物にも延びる。何となれば霊としては、ありとあらゆる形式に於ける、無尽蔵の経験を積まねばならぬからである。これ等の魂達は次第次第に進化し、そして最後に融合する。目的の完成は、所属の一切の魂達がこの第五界に達した時である。かくていよいよ彼等全てが、個性即全性、差別即平等の実相に徹底したとなれば、彼等は直ちに第六界に前進する資格が出来る。その時こそ一切の紐の断れる時、一切の心の糟粕(かす)の放棄せらるる時で、所属の魂達の間に思い切った淘汰改易が行なわれる。彼等は肩を並べて再び冥府入りをやる。そしてその状態に於いて、後に見棄てた過去の閲歴の全てを回顧点検する。

(評釈)マイヤースはあくまで『霊(スピリット)』の一語で押し通しているが、とりも直さず、それは私の所謂自然霊の一つ、日本の神道で言えば地の経綸に当たる神々の一柱である。日本神話の天孫降臨なども、この見解に基づく時に初めてその真義が判って来る。枝葉の点につきての疑問は別として、私はこの見解一つでも、マイヤースの霊界通信が容易ならぬ価値を有っていると思う。

第8章 光明界-第六界-
第1節 純粋理性
光は多くの色から成立するが、しかし無色である。霊(スピリット)は多くの魂から成立するが、しかし喜怒哀楽の心の模様の上に超越している。かかるが故に、霊は当然白色を以ってその象徴とする所の第六界に属する。

意識のこの階段に於いて、最も勢力あるは純粋理性である。人間界に知られている情緒煩悩等は、ここには影も形もない。白色こそは、完全に均整の保たれたる純理の表現である。この最終の経験の要領に入り行く魂達は、悉くこの均整の所有者である。彼等には形態上の智慧、その他無尽蔵の秘密の智慧が備わっているが、そは偏に不自由なる境涯の下に、幾回となく地上生活を繰り返し、幾千萬年かに亘る多大の星霜を閲して後、初めて獲得された経験の集積なのである。彼等は善と悪との知識と共に又善悪を超越した、彼岸の知識をも具えている。彼等は勝利者なるが故に、正に人生の君主である。彼等は今や何等の形態をも必要としない。彼等は単なる白光として存在することが出来る。彼等はいよいよ神霊の域に到達したのである。

この第六界の存在の目的は、一神即多神、一霊即多魂の統一同化の完成であるといえる。いよいよこの目的が達成されたとなれば、個々の生命を包含せる霊は、首尾よく彼岸の神秘の中に歩み入り、以って人生窮極の目的たる無上智の進化を成就する。

(評釈)ここに至りてマイヤースの通信は、結局深遠なる東洋思想とぴったり一致してしまっている。霊界通信もここまで来れば、全く見上げたものと思う。この際心ある人士の甚深なる反省考慮を希望して止まぬ。世界の神国を以って自任する日本の思想信仰界は、あまりにも低級卑俗、同時にあまりにも非論理的、非科学的の空言浮辞に耽り過ぎてはいないかと思う。

第9章 超越界-第七界-
第1節 神的実在の一部
ここで再び上昇か下降かの選択の必要が起こる。第六界の上層に達した魂が果たして大飛躍をなすの準備があるか。果たして『時』の世界から『無時』の世界へ、『形』の存在から『無形』の存在へ移り行く準備があるか。これは実に一切の問題の中で、最も困難なる問題である。初めてこの難問題に直面した時、よく肯定的答案を与ふべき準備ある魂は、真に数える程しかない。

私はこの第七界が、『有形から無形への通路』であると言ったが、しかしこの『無形』の意味を曲解してはならない。私の所謂無形とは、形態を以ってそれ自身を表現する必要のない存在の意義である、と解釈してもらいたい。兎に角第七界に入る魂こそは、真の彼岸に入るのである。彼は神、宇宙の本体と一体になるのである。

但し宇宙の本体との合同は、決して寂滅を意味する事と考えてはならない。汝は依然として独立的存在である。汝は言わば大海の一波浪である。汝は漸く実在の中に歩み入りて、あらゆる外形の迷を放棄したのである。が、汝の霊には、物質界並にエーテル界に於ける、永い永い経験の結果として、或る不可知の要素が加味されている。そればかりは何物にもかえられず、又何事を以ってしても滅ぼし得ない、一の貴い特質である。

事実、第六界から第七界への進入は、物的宇宙からの脱出である。汝は独り『時』の流れの外に脱出したのみならず、又宇宙の最後の物的存在からの脱出でもある。が、或る意味に於いて、汝は依然として宇宙の内部に留まっている。汝は全体の一部、換言すれば神の一部として、丁度太陽のような働きをしている。汝の光は物的宇宙の瀰漫するが、しかし汝の霊は、完全に物質から離脱して、永遠の大霊の中に君臨している。宇宙に即して、しかも宇宙と離脱するということが、恐らく人生一切の努力の最終の目標であるらしい。

私は今極度に切り詰めた言葉で、永劫の時の中に起こる人生を描き、かの不可思議なる『無時』の観念を伝えるべく試みた。もしも汝が神的実在の一部として、一旦彼岸に歩み入ったとすれば、汝は神の想像の全部に通暁する。汝は一秒時として無自覚でいることなく、地球の歴史の一切は、悉く汝の意識の中に入る。同様に汝は一切の天体の歴史にも通暁する。宇宙の萬有は、全部汝の偉大なる想像の中に包含される。過去、現在、未来、あるもの、あったもの、あるべきもの-これを要するに生命の全体が、永遠無窮に汝の薬籠中のものとなる。

真の彼岸、真の超越界は到底筆舌に絶する。これを書こうとするさえ、傷心の種子である。

『召さるるものは多く、選ばれるものは少ない』-これは実に至言である。地球生命の存続中に、彼岸に到達するものは極めて少数である。ある一群の魂達はよく第六界に達するが、多くはそこがとまりである。その中特殊の使命を帯びて、物質の世界に降るものもある。要するに『無時』の彼岸に歩み入るには、彼等は尚無力であり、不完全なのである。

(評釈)ここに至りてマイヤースの通信は、いよいよ大飛躍を試みている。私の訳筆は成るべく一字一句をありのままに伝えるべく努めたので、自然読みにくい所が出来たかと思うが、玩味されたなら、彼の言わんとする所は、ほぼ推測に難しくないと思う。私としては、この際わざと蛇足的説明を控える。

第10章 宇宙
仏教徒は宇宙を夢幻視し、泡沫視する。成る程その中に張り詰めてある蜘蛛網に引っ掛かり、その中の全てを支配する法則に拘束され、その中に充ち充ちている物質、又は超物質的エーテル体に制御せられている間は、宇宙は夢幻的であり、非真実的であるに相違ない。

夢幻は虚偽を意味し、欺瞞を意味する。魂がそれ自身を何等かの形態の中に表現する以上、当然その形態の為に拘束されない訳には行かぬ。彼は形態の牢獄の中に監禁された囚人である。従って到底真理は掴み得ない。私が挙げた七大世界の中で、最初の五つの世界は、結局形態の世界であるから、その視界は勿論局限されている。丁度目隠しを施された馬と同じく、彼は自己の環境につきて、極めて不完全なる観念を有するに過ぎない。自分の前面に展開されたる、特殊の道路しか見えないという所に、非真実性の主因が存する。仏教徒が宇宙を夢幻視するのは、或る意味に於いては全く正しいと言える。

しかしながら涅槃の中に入りて寂滅を遂げるのが、それが人生至高の目標であると主張するのは当たらない。少なくとも、その主張には危険が伴っている。釈迦の真意もそこにはないらしく思われる節がないではない。彼は宇宙からの離脱、換言すれば宇宙の非真実性から離脱した、無条件の存在を以って目標としているらしい。

事実、我々が第七界に於いて、大本源の無上意思と一体となった時にのみ、初めて宇宙の真実性を悟り得るのである。宇宙が魂(ソール)を拘束し、霊(スピリット)を拘束している間は、宇宙の真実性は判らない。首尾よくその拘束から離脱して、純粋叡智の絶対自由の中に住するに及びて、初めてその真実性を悟り得る。

一旦その境涯に到達したとなれば、我々は全体としての宇宙の真面目が掴めるのである。隠の極、現の極、小の極、大の極、一切の見透しがつく。全体的観念と同時に、局部的経綸が判って来る。その時我々は一の預言者でもあれば、又一の賛美者でもある。全ての生命、全ての経験は自家の所有に帰する。物的宇宙も真実であるが、同時にその奥に控えている他の反面-心的宇宙も又真実であることが判る。我々は決して寂滅に帰したのではない。我々はただ全体的調和の中に自我性を没却したまでである。我々は神の創造の賛美者たる資格に於いて、依然として個性を有っている。

我々は物的宇宙の局部的経綸に当たる所の、無数の霊達から、大小一切の相(すがた)につきての完全なる印象を受ける。かかるが故に、我々は初めて真正の意義に於いて生きているのであって、断じて涅槃的失神状態に捕えられてはいない。我々は現在の宇宙の破壊、創造、生命、寂滅-これを要するに、永遠に亘りて行なわれる一切の宇宙の経綸につきての瞑想の中に、世にも活発なる生活を享受しつつあるのである。諸子は『宇宙』という言葉の中に含まれる、二次的存在を忘れてはならない。その会得さえ出来れば初めて生命の真義が掴める。

宇宙には物的原子と同時に、心霊的原子がある。心霊的原子は物的原子の内にも、又外にも存在して、生命の種々相を造る。物的原子がどこまで微細に赴いても、その中には必ず心霊的原子が宿りて、これを左右する力を有っている。最後にこの心霊的原子は、物的原子から脱出して、宇宙の大本体の中に帰するが、これは決して滅亡を意味しない。それは一にして同時に多、全体にして同時に個体なのである。

かかるが故に、宇宙が夢幻的であるというのは、結局汝が宇宙の張り詰めている蜘蛛網、形態の中に捕われている事を意味する。一旦これ等の遮蔽物の外に超脱しさえすれば、宇宙は徹頭徹尾真実性を有っているのである。

(評釈)ステッドの通信中に、こんなことが書いてある。『私達は現在欧州に起こりつつある、諸々の運動を観望しているが、それは丁度芝居を見物する気持である。幽界から観て初めて事物の真相が判る。事件の起こりは、常に大衆の動きであって、故人の働きではない。運動の頂辺に立つ人達は、全然周囲の事情によりて左右され、その他の群衆に比して、格別善くもなければ又悪くもない。ただ一層目立つだけのことである。天下公共の仕事に於いて、全部の人間は自分以外の或る力-先天的に人類に具えつけられている、或る力と考えとによりて、勝手にこき使われる操り人形に過ぎない・・・』これは現世の楽屋ともいうべき幽界から、欧州の国家社会の動向を覗いて見た感じであるが、もし我々が宇宙最奥の楽屋-マイヤースの所謂第七界に歩み入れて、座附の脚本作者である神と一体となり、以って宇宙の内部を覗いて見たとしたら、恐らく同様の感を催すに相違ないであろう。踊る訳者も、それを観ながら泣いたり笑ったりする見物人も、共に皆脚本作者の方寸の裡から湧き出でた操人形、夢幻といえば夢幻であるが、真実といえば真実である。マイヤースの説明は、ほぼその間の消息を伝え得て遺憾なきに近いと思う。