第1章 不思議な世界
第1節 挨拶
私はこれから人間の所謂『他界』『彼岸』『死後の世界』などと称している、不思議な世界につきて、詳述を試みようとするのであるが、かくいう私とても、勿論知識と経験とに限りがある。私はただ私の観た事実を物語ろうとするだけのものである。もしも私の用語が冒涜的であったり、生前人の所説の単なる繰り返しであったりしたら、偏に諸子の肝要を希ふ次第である。
思うに私とあなた方(霊媒その他)とは、同一目的の為に働きつつあると信ぜられる。我々は人間の心霊的知識の総量に、何物かを加え得れば甚だ有り難いと念願しているのである。お互いにセンセーションを巻き起こすような目覚しい仕事は、我々の力量にないかも知れぬが、しかし少なくとも我々は、我々の思惟(しい)以上に限りなく展開されている、広大無辺なる世界の存在につきての知識を推し進めることに、多少の貢献は為し得るであろう。
私がこれから伝達しようとする所は、悉く私自身の他界における知識の発表である。私には私が知っている事実だけしか物語れない。霊魂がこちらの世界で自身を見出す境涯は、千種万様であるが、何れも皆生気躍如として働いている。実際霊魂は肉体を離れてこそ、初めて真に生きていると称して良いらしい。我々肉体の無いものから観れば、鈍重な肉体に包まれて酔生無死の物的生活を営みつつある地上の一部の人達の霊達は、果たして生きているか否かが疑わしい位のものである。
(評釈)これだけの所では格別マイヤースらしい面目は充分に現れていると言えぬが、しかしその純真率直な好学的態度は、さすがにやはりあの人かと首肯される。偏狭なる自己の小経験を以って全てを律せんとする頑愚な所有者の到底及び難きところである。
第2節 永遠の謎
人間は果たして何れより来り、何れに向かって去るか?-これは古来多くの驚くべきスペキュレエションの材料となった題目であるが、しかしながら、何故に人間が創造されたか、何故に物質的宇宙が、永遠に大空を横切りて旋転しつつあるか、又何故にその原質がただ姿を変えるのみで、毫末(こうまつ)も消滅することがないのか、等の諸問題を真正面から解決せんと試みたものは極めて少なかった。
『目的のなき大きな機械』-これは実に十九世紀の科学者達が、宇宙に向かって書き下ろした碑銘である。これには『何故か』の疑問を挟むべき余地がない。従ってそこには目的成就がない。物質のみが唯一の実在であり、そして運動と生命の、無気味にして単調なる機械的ドラマが、無際限に演出されつつあるということになる。
無論真理は何人にも捕え難い。が、右の不景気千萬な結論を下した人達に至りては極度に真理を捕え損ねていると思う。心が有形の物質を離れて立派に存在することさえ承認出来れば、生存の神秘に対して何等かの意義を発見することは、決して絶望ではないと信ぜられる。
先ず我々は出来るだけ簡潔な言葉で、この宇宙の永遠の謎に定義を下したい。不取敢我々は次の諸項を、学術的仮説として採用したい。即ち-
一、仮相と実相とがある。
一、大別すれば物質、魂、霊の三つの相がある。
一、表現あれば必ずその根源がある。
一、神とは即統一原理である。
一、物質は微より極微へと無限に分解する。
一、全て再び霊に返る。
右に述べた霊(スピリット)とは、結局大我から岐えた小我、個々の有する最奥の心のことである。小我には勿論個性がある。しかしそれは人間的意義の個性ではない。創造者と何等かの区分性を有っているという意味の個性心しかない。換言すれば、ただ本来の相違である。本源に繋がれている末梢なのである。
かの神秘論者は、好んで自己内在の神を説きたがるが、これは全然謬見である。『神』は無上の心であり、あらゆる生命の背後に控える大精神であり、一切の存在の出発点たる大本体である。宇宙の歴史に於けるあらゆる行為、あらゆる思想、あらゆる事件は、皆この大本体の中に含まれている。万能の観念はそこから生じた。然るに自己の霊を指して『神』とするのは許し難き僭越(せんえつ)である。
大我から岐れ出でたる、これ等無数の霊-小我は何れも皆同一物でない。そして我等の殆ど凡ては、最初は単純素朴なる萌芽でしかない。彼等が完成の域に達するまでには限りもなき表現形式をとりて、無数の経験を自己に集積せねばならぬ。それなしに完全なる智慧は到底獲らるべくもない。が、一旦全ての完了した暁には、彼等はここに初めて神的属性を獲得し、一切を超越して大我の中に入り、宇宙の大本体の一部となるであろう。
かるが故に宇宙萬有の出現の理由は、これを『霊の進化』という言葉に包含されると思う。不自由の中に、束縛の中に、自己の理想の完成を求むる所の発達が行なわれるのである。即ち霊は何等かの形を執ることによりてのみ、円熟大成を期し得るものである。我々の出生もこれが為であり、我々が幾多の世界、幾多の境涯を通過せねばならぬのも、又これが為である。同時に又物的宇宙に間断なく生長し、拡張して、一層充分なる活動の舞台を小我に与えるのである。
繰り返して言うが、萬有存在の目的は、程度と種類を異にせる各種各様の『物』の中に、『心』が進化を遂げることである。心は表現によりて発達するのであるが、宇宙は無限に拡張進展するから、心も同様に無限にその威力を増大し、かくて実在につきての真の観念が獲得される。地上に宿るところの小精神は、神の表現の中にありて最低級のものである。彼等は出来るだけ早く、有意義なる統体の一部たることを学ぶべきである。
(評釈)マイヤースが宇宙人生の目的を霊の進化と観じ、又心と物との相対関係も、いとも明瞭に道破したことは当然の事ながら、快哉を叫ばざるを得ない。従来欧米人士の言説には、しばしばこの点につきての誤謬があり、我々をして眉を顰(ひそ)めしむるものがあったが、ここに至りて初めて溜飲の下がるを覚える。又マイヤースが一部の神秘論者の迷妄を説破しているのも頗る痛快である。神は自己の内にあるだの、自己は神なりだのという言葉は、兎角秩序と階梯を無視し、従って進化の法則に外れた、精神的○(漢字不明)睡剤となる傾向が非常に多い。これを標語としている宗教者流、霊術者流、何れも揃いも揃って、皆純然たる穀粒しに終わるのを観れば、思い半ばに過ぎるであろう。マイヤースの所謂『神の表現の中にありて最低級』である所の地上の人間は、これからが勉強のしどころ、修行のしざかりである。然るに碌に勉強も修行もせず生青白い顔をして、自分は神だと済ましこむに至りては、全く以って沙汰の限りである。
第2章 七つの世界
次に述べる所は、各自の魂が順次に通過すべき世界の行程表である。
(一)物質界
(二)冥府又は中間境
(三)夢幻界
(四)色彩界
(五)光焔界
(六)光明界
(七)超越界
各界の中間には、悉く冥府又は中間境がある。それぞれの魂はこれで何れも過去の経験を回顧検閲して今後の方針を定め、或る者は上昇し、或る者は下降するのである。
第一の物質界は所謂物質的関係に宿りて、一切の経験を積む境地である。こうした経験は、必ずしも地球上の生活には限られない。或る者は数多き星辰の世界に於いて、同様の経験を積むのである。無論それ等の世界の住人の肉体は、地上の人間のそれに比して振動数の多いのも又少ないのもあるが、大体これを『物質的』という文字を以って表現して差し支えなき種類のものである。
第三の夢幻界というのは、物質界で送った生活と連関せる仮相の世界と思えばよい。
第四の色彩界に於いては各自は漸く間隔と絶縁し、主として意念によりて直接に支配せられることになる。ここではまだ形態が付随している。従って一種の物質的存在には相違ないが、しかしそれは非常に稀薄精妙な物体で、寧ろこれを『気』とでもいうべきであろう。この色彩界はまだ地球、又はそれぞれの星辰の雰囲気内にある。
第五の光焔界に於いて、各自の魂は初めて自我の天分職責を自覚し、同時に自己と同系に属する、他の魂達の情的生活にも通暁し得ることになる。
第六の光明界に於いて、各自の魂は初めて自我の本体-本霊から分れたる類魂(同系統の魂達)の智的生活に通暁し得、同時に地上生活を送りつつある、同系統の魂の情的生活にも通暁することが出来る。
最後の超越界は無上の理想境である。本霊並に本霊から分れたる類魂は、悉く合一融合して大我、神の意念の中に流れ込む。そこには過去、現世、未来の区別もなく、一切の存在が完全に意識される。それが真の実在であり、実相である。
(評釈)死後のマイヤースも、やはり西洋の心霊家らしく、全てを七つの界に分類しているが、これには確かに多少の無理があるように思う。冥府又は中間境は各界の中間に必ず存在するという以上、当然この外に四つの界を殖やすべきで、表面的に強いて七つに並べたところで仕方がないではあるまいか。又夢幻界、色彩界、光焔界の区別も余りに煩瑣(はんさ)で、いささか分明を欠く虞はないか。夢幻といい、色彩といい、又光焔といい、何れも仮相であって、結局感情の歪みの所産に過ぎない。各自の区別はただ程度の相違に過ぎないようである。
かく考えた時に、やはり私の試みつつある分類法、即ち全てを物質界、幽界、霊界、神界に大別する方が、実際的に甚だ簡明直截(ちょくせつ)であるかと信ずる。試みにここに掲げた七つの世界を、私の分類法に割り当てたら、次のようになるであろう。
(一)物質界-(1)物質界(主として欲望の世界)
(三)夢幻界
(四)色彩界
(五)光焔界
(三と四と五)-(2)幽界(主として感情の世界)
(六)光明界-(3)霊界(主として理性の世界)
(七)超越界-(4)神界(主として叡智の世界)
冥府又は中間境は、要するにどっちつかずの過渡期であるから、これを一の独立界として取り扱わぬ方が正当であろうと思う。もしドウあってもそれを表示したいというなら、各界の中間にそれぞれ亜幽界、亜霊界、亜神界と言ったような名称のものを挿入すればよいかと思う。これを要するに各界の分類法は、取り扱うものの便宜上決められるもので、これを粗く分けようと、又細かく分けようと、それはめいめいの勝手である。決して数などに拘泥すべきではあるまいと信ずる。仏教徒の霊界通信の中には、超現象界を百八界に分類するものなどを見受けるが、これも無論本人の主観の現れに過ぎないと思う。
ここに甚だ面白いのは、マイヤースの類魂説である。彼は生前からこれを唱えたが、死後の通信にも依然これを主張している。類魂(グループソール)とは結局同一自我(本霊)の流れを汲める同系統の霊魂達を指すので、私の提唱せる創造的再生説は、又もやここに一の有力なる支持者を見出した訳である。尚この類魂につきては、先へ行って詳しい説明がある。
第3章 夢幻界
第1節 第三界
私は先ず新帰幽者の群・・・・私達の住む死後の世界の岸へと、昼夜のけじめなく押し寄せる、かの澎湃(ほうはい)たる生命の波浪につきて、定義を下しておきたいと思う。生と死とは、結局同一の意義を有つ。私は生だの死だのという言葉を聞くと、変な気持に襲われる。近頃の私はモウ大分言葉の無い、単に思想のみで生きる生活に慣れてしまったのである。
ごく大雑把にいえば、新帰幽者は大体三つの範疇に分けられると思う。即ち-
(一)霊の人(スピリットマン)
(二)魂の人(ソールマン)
(三)肉の人(アニマルマン)
無論これ等は更に幾つにも区分し得るが、兎に角右の三用語だけは銘記することが良いと思う。何となれば、その何れかに属することによりて、各自の前途の相場が決まる訳であるから・・・・。
これから私は各界の状況を分類する。
第一が取りも直さず地上生活。
第二が冥府と称せられる過渡の世界。
第三が地上生活の心影又は反射で生きている生活で、一部の人士はこれに『常夏の国(サマーランド)』などという名称を与える。が、私としてはこれを『夢幻界』と呼びたい。
第四は地上そっくりの形態を保持しているが、しかしその体質は、次第々々に精妙稀薄の度を加えつつある生活である。ここでは物質界との連絡が強い。
第五は精神的要素の勝った生活で、所謂類魂の中に混じり、同一系統に属する他の霊魂達のあらゆる経験-但しそれはただ情的行為だけに限る-に通暁する。類魂につきては別の機会に説明する。
第六は『時』の内と外とに跨る自覚の生活である。時の測定を形態を帯びて送った生涯を以って尺度とする。この中には極度に隠微な形態の生活、又程度の差こそあれ、要するに一種の私物の生活が含まれるのである。
最後に来るのが第七の境涯、ここで前進中の魂がその本霊と融合するのである。この至福境に於いて体はいよいよ超越の世界に歩み入り、不滅なる文字の意義が初めて判って来る。もうここでは物質とすっかり絶縁してしまい、又時とも絶縁する。そしてあらゆる生命の背後の大精神、神と合一し、又あらゆる世界の生活に於いて、汝と連繋を保っていた汝の本霊と合一する。
(評釈)大体前節の繰り返しのようなもので、別に言うべきこともない。但し帰幽者を三種類に分類したのはいささか良い思いつきであろう。結局『霊の人』とは超越味のある人、『魂の人』とは人間味の脱けない人、『肉の人』とは動物的本能の奴隷となっている人のことらしいが、成る程そう分類すればされないこともないらしい。
第2節 記憶の国
物的地球はあたかも鏡裏の映像に似ている。それは鏡面に投げられる影によりてのみ真実である。かるが故に、その認識は個々の視覚の性質次第で決まる。土塊に包まれたる地上の人間は、勿論一の仮相であるから、物の視方が非常に一方的で、地球をば単に迅速に回転する一の円球としか観じ得ない。肉体放棄後に於いても、彼は往々地上生活の根本的性質の実性を悟り得ないで、愚かにも生前の空夢に憧れる。で、これ等の霊魂が帰幽後に於いて逢着するものは、大体地上生活そのままの光景である。が、それは結局彼の記憶が造り出したる、一の夢の国に過ぎないもので、彼の地上生活を構成していた、様々の事件が、再びまざまざと彼の眼前に現れて来る。要するに彼は他愛もない嬰児であって、自分が置かれている新世界の現実が少しも判らないで、ポカンとして暮らしているのである。
この程度の嬰児霊が、往々うつらうつらとした夢見心地で、地上との通信を行なうことがある。彼等はしきりに自分の夢見つつある、記憶の国を物語るべく努める。が、勿論そんなものは地上の光景と全然同一である。一部の人士はこれに対して、『常夏の国(サマーランド)』という名称を与えるが、全く上手い名前である。兎も角も彼は肉体の羈絆(きはん)から離脱してはいるので、その心の働きが遙かに自由となり、自分の好みに応じて面白い記憶の国を捏(でっ)ち上げる力量を具えている。彼は本能的に地上生活の楽しかった箇所のみ寄せ集め、苦しかった箇所は皆省いてしまうから、ここに素晴らしい極楽浄土然たる別世界が出来上がる。彼の得意と満足とは以って察すべしである。が、勿論それは単なる夢の世界で、死後の世界の実現でも何でもない。暫くはそれで満足していられるが、やがて精神的自覚の味が来て、一切は烟散(えんさん)霧消し、自分の置かれている新しい環境に初めて目が覚める。従来霊界通信と称せられたものの大部分は、実にこの夢幻境の描写に過ぎない。
私はこの記憶の国からは夙(つと)に離れ去っているが、私達の境涯から眺めると、その世界は甚だしく非現実的で、謂わば映像の又映像と感ぜられ、面白くもおかしくもない。その幸福はのんべんだらりとした植物性の幸福、周囲の出来事に全然没交渉なる頑是なる小児の満足に過ぎない。
(評釈)交霊現象の実地体験者にして、初めてここに述べてあることがしっくり腑に落ちるかと思う。南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生疑いなしとか、キリストの前に懺悔さえすれば必ず天国に行けるとか、いうような暗示を受けて帰幽した霊魂達を呼び出してみると、彼等の多くは依然たる呉下(ごか)の旧阿蒙(あもう)で、マイヤースの所謂記憶の国、つまり単なる自己の空想で造り上げた単調気味の境涯に収まり返り、安価な自己陶酔に耽っていることを発見する。進んで悪事を働くよりか、これでもまだマシかも知れぬが、しかしそこに何等の進歩も、向上も、又努力も見出されない。宗教はアヘンだ、という言葉があるが、全く既成宗教の大部分にはそう言った趣が幾分無いともいえない。消極的の効能はあっても、積極的の働きは頗る乏しい。今後の人類、少なくとも国家社会をリードしようとする識見力量の所有者にとりて、そろそろ既成宗教があき足らなく感ぜられるに至った所以であろう。幼弱な自己陶酔に耽るには世の中が少し進み過ぎたようだ。
第3節 冥府又は中間境
冥府(ヘーズ)という言葉は、いささか不愉快な連想をもたらすかも知れぬが、実は一の準備的中間地帯と思えば何でもない。肉体の崩壊直後に於いて、何やら身体各部の一時的脱臼と言ったような期間が続く。私はイタリイで客死したが、その頃の私は非常に心身の倦怠を感じていた。それ故か冥府は私にとりて、至極結構な安息の場所、半醒半夢の薄明るい保養地であった。そして人間が熟睡によりて気力を回復すると同じく、私は冥府生活の期間中に、すっかり精神的又理智的能力を回復してしまった。全て各自はその性質次第で、冥府と称する顕幽両界の中間帯に於いて受ける影響が、それぞれ異なるらしい。
(評釈)大体よく死の直後の休養期を説明している。私が試みた無数の招霊実験の結果からいえば、その休養時代は人によりて中々長く、五年、十年、二十年になっても尚うとうと眠っている者が少なくない。それ等の霊魂は先ず適宜の覚醒法を講じてからでないと、地上との交通は不可能である。職業的霊媒の中には、誰でも直ぐに招霊し得るようなことを言うものもあるが、勿論それは嘘である。気をつけないと一杯喰わされる。
第4節 夢の国
右の冥府滞在中に、各自の魂はその不純性の幽的形態から離脱し、今度は夢幻界特有のエーテル体に宿ることになる。前にも述べた通り、ここは反映の反映、夢の地上生活を再び夢見る境涯であるから、ここに留まる限り、各自に平和と満足とを満喫し得る。が、この種の平和には早晩倦きが来る。何となれば楽しき夢の国には、何等の進歩も、又何等の変化も見出されないからである。試みに思え、見るもの、聞くもの悉く地上そっくりの境地である。成る程そこには金銭上の心配もなければ、又その日その日のパンを獲る為の苦労も要らない。そしてそのエーテル体は、太陽の光とも又違った一種の独特の和かい光で温められる。お負けにそこには元気も生命も充実し又何の苦痛も格闘もない。例えてみれば、それは丁度沼の中の生活である。あまり静寂で、そしてあまりに窮屈で、終いには誰でもウンザリして来る。誰でも奮闘、努力、強い刺激、広い眼界が望ましくなって来る。この自覚が起こった時こそ、彼の前進の合図である。昇るか、降りるか、兎に角いずれにか動き出すのである。
(評釈)前に述べた記憶の図の再説に過ぎないから、別に取り立てて言うべきこともない。しかしこの生活を沼の中の生活に譬えたのは、頗る面白い観方であると思う。
第5節 肉の人
肉の人とは結局原始人型の人間のことである。その種の人間は勿論、死後に於いてもその器量相当の境地を選ぼうとする。彼は濃厚鈍重な肉体に包まれた地上生活が恋しくて堪らない。従って彼の行先は、通例元の地球上であるが、稀に他の天体に向かうものもあるとの事である。数ある天体の中には地上よりも一層濃厚な物質の世界もあるらしい。
無論それ等の天体の或物には人類が住んでいる。しかし彼等の物質的肉体は、地上の『時』とは違った『時』に支配され、別のリズムの中に生きているから、身体各部の振動数が地上のそれよりも迅速であったり、又は緩慢であったりするので、必ずしも地球の人類の感覚には映じないであろう。私は彼等を指して人類と呼んだが、それは彼等の生活状態、又彼等の体的構造が大体地上の人間と同様に出来ているからである。
(評釈)他の天体の生物を説いている霊界通信は、他にも少なくない。ステッドの通信中にもそれが見出される。我々はこれに対して、暫く傍観の態度を執るより外に致し方がない。これは肯定すべき充分の資料が、まだ揃っていないと同時に、又これを否定すべき何等の学術的根拠もない。ただ現在として、この種の問題を認識するのが、時期尚早であることは確かである。理論的にも又実験的にも、一分一厘隙間のない死後の世界の存在につきてさえ、まだ心の眼を開こうとしない連中が、多数を頼んでしきりに愚論を逞しうする現在ではないか。他の天体にまではまだちょっと手が延ばされていない。
第6節 途中の休憩所
私は夢の国、記憶の国には進歩がないと述べたが、それには一面からいえば多少の語弊がある。実はただ進歩がないように見えるというまでの話である。冥府を過ぎてあの境涯に入った魂は、暫くの間至極平静な状態に置かれ、何等の煩悶も焦燥もないのであるが、やがて時が来ると、暫く潜んでいた欲望が、又もや暴れ出して折角の楽しい夢を破ってしまう。一時は肉の人にとりて、夢の国程結構な境涯はないように見える。何となれば一切の欲望が、何等の苦労も、何等の努力もなしに、易々と遂げられるからである。しかしその結果、飽満の感じの起こるのも又割合に早い。飽満の次に来るものは決まり切って倦怠であり、新しい生活がしきりに望ましくなり、こんな途中の休憩所が、たまらなく退屈に感じられて来る。要するに現世的空夢にも結局限度があることが判って来て、ここに進歩が遂げられる次第なのである。
多くの『肉の人』は、まだまだここですっかり解脱するまでには至らないであろう。夢の国で味わった快楽を、モウ一度地上の肉体に宿って、しんみり味わい直してみたいと考えるであろう。その結果彼は再び下界に降りる。が、それは上昇せんが為の下降である。夢の国に於ける十二分の経験の結果、彼の自我性の中の、より高尚な部分が呼び覚まされている。従ってその分霊が地上に再生するに際し、今度は『肉の人』ではなくて、『魂の人』になっているかも知れない。少なくともその動物性は、いつの間にやら飽くほど減らされており、従って生まれ変わった彼は、前世よりもずっと高尚な地上生活を営むことになるという次第である。こんな次第で『常夏の国』というのは、つまり地上生活の夢の世界、回顧の世界であり、決して冥府でも、地獄でも、又極楽でもないのである。徹底的に地上生活のおさらいをするから、日頃胸底に仕舞い込んであった一切の思想、感情、欲望等が充分に整理され、又満足され、ここに一歩向上の途へと進み得る段取りとなるのである。
(評釈)人為的の戒律は兎角『べからず』主義で固めてあるが、大自然の戒律は甚だ大規模に出来ているらしい。『やたらに抑えたところでとてもダメである。欲望などというものは、これを満喫させれば自然に収まるものだ・・・・』大体そう言った筆法であるらしい。そこへ行くと、人間界でも苦労人と言われる人達程、這間の呼吸を呑み込んでいる。そしてよく『若い内には道楽もちょっとは仕方がないさ。しかし深みに落っこっちゃいけないぜ・・・』などと忠告する。マイヤースの描いている『夢の国』の生活も、そう考えた時に、大いに意味がある。私自身の心霊実験から推定しても、死後の世界は、決して在来の宗教者流が描いているような、あんな一本調子の窮屈極まるものではないらしい。
第7節 感官の牢獄
諸子の環境は、見方によっては諸子自身の創造にかかると言ってもよい。何となればそれは諸子の神経、諸子の感覚が捕え得るだけの狭い、縛られたる環境だからである。諸子は決して精神的に充分まだ解放されてはいないのである。
もしも諸子にして自我意識を奥へ奥へと誘導し、五感とは全く絶縁した、形態抜きの純理の世界に入るべく自身を訓練することに成功したとすれば、物質の世界などは勿論、全部消えて見えなくなる筈である。しかしそれは現在の諸子には到底出来ない。それは今後無尽蔵の経験を積んだ暁に於いて、初めて期待さるることである。
兎に角諸子は、その死後に於いて高級の世界に進めば進む程、その智能は次第に増進し、物の形などは自分の意のまにまに、ドウにでも左右し得るようになる。換言すれば形の中に生命を宿す術が上手になるのである。調度彫刻師が粘土をひねりて、ある形像を造るが如く、諸子の心はよく形の中に生命と光とを集め、かくて自己の意念の欲するまにまに、自己の環境を造り上げて行くのである。勿論最初の諸子の意念は、地上の経験と記憶とに限られているから、折角造り上げたものも、結局地上に見出されるものの複写に過ぎない。それを離脱するには諸子の精神の発達向上に待たねばならない。
一言ここで注意しておきたい事は、この夢幻界の程度での諸子には、まだ意識的に自己の環境を造る能力が備わっていないことである。諸子の内的意念が類魂の中に伝わり、その援助で諸子の気付かぬ間に、自分の置かれる環境が、いつしか出来上がっていると言った次第なのである。諸子はまだまだ個人的束縛から脱し得ない。地臭を帯びた、不自由な魂であり、従ってその働きが頗る鈍いのである。
(評釈)各自の魂の向上発達する順序をば、正面に諄々と教えているところが甚だ嬉しい。現代人は最早かの旧式な既成宗教の愛用する無上道、又は気休め式暗示にはかからない。こんな風に説かれて初めて成る程と肯かれる。と同時にこの一節は、数ある霊界通信を紐解く者にとりても良い指針である。これを以って臨めば、霊界の通信者の発達程度がほぼ見当がつく。殊に末尾の夢幻界につきての注意などは、良い参考資料だと思う。私の入手した霊界通信にも同一時を伝えている。
第8節 平凡人の境涯
肉体に包まれて現世の旅を続ける男女は、言わば大地と大空との中間に懸けられた階段を昇りつつあるようなものである。彼等は二つの神秘-『生』と『死』との中間に彷徨っている。下方を覗くのも気味悪いが、上方を仰ぐのも又眼が眩む。で、通例は自己の踏みつつある足場にのみ注意を払って、踏み外さぬ用心に一生懸命である。従って彼等の中の最も優れたものでさえ、その眼界は通例極めて狭く、五、七十年の人生の行路の前と後とに広がれる地域につきては、殆ど何等考慮を費やすの余裕を持っていない。
死の関門を通過した無数の霊魂達とても又同様である。無論彼等にとりて人生の意義は遙かに高まり、且つ大規模にもなっている。が、旧態依然、彼等も尚神秘と神秘との中間に懸かっている。従って霊界の通信の多くは、単にその人の置かれたる身辺の実況の描写たるに留まり、深く人生を指導すべき、深みも鋭さも具えていないのを通例とする。
試みに私が一弁護士の傭書記の地位に自身を置いて、死後の世界の描写を試みたと仮定する。法律書記であるから、法律事務以外の事は殆ど何事も知らない。従ってよし彼が他界に目が覚めたところで、その報告する所は、結局現在の俗務の続き、もしくはその複写以外であることは出来ない。何となれば彼の心の眼には、それだけの感受性しか具えていないからである。無論長年月を閲する暁には、この人物にも霊的意識が開けて来るが、私の知れる限り、この種の人物は通例地上に向かって通信を送ろうとはせぬものである。彼は自分自身の心の貧しさをよく自覚している。彼には到底霊媒から借りた地上の用語を以って、死後の世界の驚嘆すべき状況を描写すべき力量がない。従ってこの種の人物は永久に沈黙を守り、死の黒幕に彼方からのくしびな響き-神の無限の想像の中に秘められたる内面の世界の音信-をば少しも漏らさぬことになるのである。
右の如き人物は、実に他の無数の平凡人の代表者である。彼は自己の特殊の業務の遂行には、少しも差し支えなき俗人の典型で、人生の窮極の目的が何であるかは、只の一度も考えてみる余暇もなければ又能力もない。目隠しされて目的地点に走る駄馬と同様に、彼の一生は揺り籠から墓場へと、ただ一筋に走ったまでである。その生涯は単調そのもので、何等目星き出来事もなく、月並極まる喜怒哀楽の繰り返しに過ぎない。が、研究題目として、こう言った人物の他界に於ける生活こそ大切であると思う。何となればこの種の人物が、人類の大部分を占めるからである。
所で、ここに疑問が起こる。この種の人物は死後一転瞬にして、偉大高邁なる大預言者になるか?それとも人間の所謂進化の法則に従いて、一歩々々向上の途を辿るか?
もしも彼氏が死によりて一躍大預言者、又は大天才に早替わりしたとすれば、それは全然別人格であって、元の彼氏ではない訳であるから、死後の生存ということは成立せぬことになる。やはり彼氏は彼氏として、牛の歩みのノロノロした進化の道程を踏み行くのが当然であり、又事実でもある。死後の世界につきての彼氏の見解は元のまま狭く、又その好きも嫌いも元の通りの特色を帯びている。これを一言にして尽くせば、彼氏は死んでもやはり生前の彼氏なのである。この種の人物に向かって、高尚にして霊的な生活を望むのは、そもそも無理な注文である。彼氏は精神的にはまだおしめに包まれた幼児である。従って死後の世界でこの種の人物を取り扱うのは、丁度現世で赤ん坊を取り扱うのに酷似している。成るべく強い風にも当てないで、大事に看護介抱を加えてやると言った按配なのである。
死後彼等はまず過去の記憶の快き夢に浸るのを常とする。それが究極の目的でも何でもない。そうした期間に、次第に前進向上の英気と能力とを培養されるのである。
無論優れた霊魂-教会人はこれを天使等と呼ぶが、私から言えば単に賢い魂に過ぎない-はそういった下らない夢幻境に置かれるようなことはない。彼は稀薄精妙なるエーテル体に包まれて、広大無辺なる空間を縦横自在に駆け回り、驚くべき活発な生活を営むのである。が、普通平凡の霊魂達が、そうした境涯に置かれたら、一度に眼が眩んで気絶してしまう。
かくいう私などは、ホンの少しばかり普通よりも進歩した境涯に置かれて居るので、平生死の関門の所に控えて新来者の見張り役、案内役を務めることになっている。途中二、三の準備的境地を経て、やがて我々が新来者を案内するのは、決まり切って夢の国、記憶の国である。何人にも自分自身の中に、その地上生活の全部を回想し得る能力が備わっている。そして彼の渇望するのは日頃親しめる環境であって、決して現世離れのした瑠璃のうてなや、金銀の調度でも何でもない。平常見慣れた地上の山河-それが懐かしくて仕方がない。無論そんなものが実際的には幽界に存在しない。が、本人が望めば、それ等の幻影は自由自在に出来上がる。
それなら何人がそう言った幻影を造ってくれるのか。外でもない、それは優れた霊界居住者達の役目である。彼等は容易に、新来者が日頃地上で親しめる光景を具象化する能力を有っている。その原本は勿論新来の霊魂達の記憶の中に見出される。が、単に原本の複写に止めるというような、下手な真似は決してしない。或る程度までこれを理想化し、日頃地上で見慣れた光景に似てはいるが、しかしそれよりも遙かに美しい景色を造り、その中に新来者を置くのである。夢の国、記憶の国は決して実在の世界ではない。が、新来者自身にとりて、それは立派な実在境に相違ない。ここで彼は日頃愛せる親戚故旧とも会合して、情話を交えることにもなるのである。
前にも述べた通り、この夢の国、記憶の国こそ、実に平凡人の為に設けられた一の保育場である。弱々しい植物の若芽を育てる為の温床であり、そしてその園丁の役目を務めるのが、とりも直さず優れた霊魂界居住者-先達連なのである。
夢の国、記憶の国はかく大体に於いて地上生活の複写ではあるが、しかし又地上生活と相違した箇所もある。なかんずく顕著なのは業務の相違である。ここには地上生活に於けるが如き機械的の業務がない。地上生活にありては人間は肉体の奴隷であり、従って『暗』の奴隷であった。ところがここでは、食物並にその相当物件である所の金銭の要求が全然ない。ここでは食物に相当する無形の栄養素が、無尽蔵に存在している。これでは何人も『光』の従僕たらざるを得ない。換言すれば生計の為にあくせくしないで、極めてのんびりした気分で、恣(し)に心の糧を貪ることが出来るのである。
地上生活で一番恐ろしかったのは飢であった。ところが、その飢の心配が失せたというのは、何と素晴らしい特徴ではあるまいか!
が、食物以外にも、まだまだ考えねばならぬ大切な要件がある。飢の次に来るのが『性』の問題である。この性の要求までが、果たして肉体の崩壊と同時に消失したか?
これに対する私の答は大体に於いて『ノー』である。性欲は決して肉体と共に消失はしない。が、その発展の様式が変わっている。これはこの過渡期に於いて解決を要する最大要件の一つである。
性的欲望にも色々の種類があり、従って一般にも言われないが、ここに一例として、試みに地上生活中に淫蕩な性的経歴を有する男(又は女)の場合を挙げることにする。全て肉体を失った者の心の働きは、一層先鋭化するを常とするので、従って死後の淫蕩心は、生時よりも一層強烈である。そして淫蕩心は淫蕩心を呼ぶことが、地上よりは遙かに自由な為に、ここに性的楽園ともいうべきものが出現する。記憶の及ぶ限り、想像の及ぶ限りの淫蕩な相手が無数に集まって、痴態の限りを尽くすことが出来るのである。地上とは異なって金銭も要らない、努力も要らない、警戒も要らない、又見栄や外聞の顧慮も要らないのである。
それがあまりにも容易であり、安価であり、又豊富でもあるので、ここに必然的に襲来するのが恐ろしき飽満感である。飽満の極は決まり切って嫌悪となる。いかなるその道の猛者でも、最後には必ずウンザリする。努力の伴わぬ満足には決して永続性がない。ところが、ここに甚だ困るのは、厭で厭で堪らぬ淫蕩の相手が、容易に離れようとしないことである。糯(もち)にかかった小鳥のように、もがけばもがく程ますます粘着する。
こんな次第で、『夢幻界』の最終の状態は、ダンテの所謂煉獄的境涯である。およそ天下に何が苦痛だと言っても、飽満の苦痛程深刻なのはない。不満足も苦痛であるが、満足の苦痛は更にそれ以上である。
勿論これはホンの一例に過ぎぬ。全てを律する一つの通則というべきものはなく何人も『冥府』及び『夢幻界』に於いて、それぞれ異なった方式の試練に会うのである。で、中にはその欲望を満足すべき何等の機会を与えられないのもある。例えば冷酷にして利己的な人物の中には、往々暗く寂しい所に縮まり込み、欲望満足の快夢に耽ることを許されないでいるのを見出す。つまり死の打撃が、一層彼を内へ内へと追い込んだのである。『万事休す』-彼は死の瞬間にそう思い込んでしまった。従って彼は外界との一切の接触を失ってしまった。こんな人物はその陰惨な損失の観念が抜けない限り、いつまでも暗黒の夢魔の中から脱出し得ないであろう。
兎に角大概の人の魂は、暫くは夢幻の状態に生活するを常とする。人類の大多数はその死に際して、物質が実在であるという観念にあまりにも強く支配されている。彼等には新生活に対する心の準備が充分に出来ていない。彼等は猛烈に地上の生活を理想化したような境涯を望んでいる。かるが故に、彼等の生活欲というのは、結局過去の生活を生活することである。これでは私の所謂夢幻界に入るより外に途がないではないか。彼等は地上生活に於いて、上等な葉巻を喫(の)みたく思った。夢幻界では只でその葉巻が喫める。彼等は地上生活に於いて思う存分ゴルフを遊びたく思った。これも容易に夢幻界が満足させてくれる。が、これはただ最も強烈な地上の欲望が生める、空夢以外の何物でもあり得ない。暫くすれば、この果無(はかな)き快楽は彼等を満足し得なくなる。その時こそ彼等が考える時、新しき未知の世界を望む時である。かくていよいよ向上飛躍の準備が成りて、今迄の愉快なる、しかし甚だ茫漠たる夢が俄然として消える。
(評釈)帰幽後に於ける平凡人の境涯がどんなものであるかを、極力説明しようと試みているところが甚だ嬉しいと思う。霊媒を通じての通信のこととて、その表現法は頗る蕪雑で、冗漫であるが、マイヤースが何を言わんとしているかは充分に諒解される。兎に角一段の高所から達観する人物にして、初めて道破し得る貴重なる通信であることに何人も異存はないであろう。
第4章 意識
地上生活にありて、意識とは朝な朝な眼を覚ますと共に点もされる一つの燈火である。健康がすぐれぬ時にその光力は弱いが、年齢が若くて元気に富めば、その光は煌々と燃え上がり、眼に入る一切の物体に輝きを与えて、歓喜幸福の源泉たらしめる。
この毎日の意識は年齢と経験とによりて、色々に変化する。年々歳々意識は決して同一でないが、その微妙なる推移に気の付くものは、或は滅多に居らぬかも知れぬ。ところで、この人間の意識の本体、つまり物質の世界を見、聞き、又触れることを得せしむるものは一体何者か?他なし、それは『自我』なのである。この不思議な存在は、機会を見て別に説くが、要するに各種々々の諸要素の合計である。死んで肉体を棄てた時も、又死後幾つかの階段を経た暁に於いても、(無論その間に重要な変化を遂げるのは事実であるが)依然として支配権を握るのは自我である。彼岸に於ける自我は、肉体と称する一の王国をして、統一と均衡とを獲せしめた、一切の物的要素、肉、血、脳、細胞、複雑なる神経網等-を脱ぎ棄てた、一個の身軽な旅人である。そして、肉体の代わりとして、遙かに精巧な一つの形態を有っている。この形態にも又一種独特の立派な交通機能が備わっており、彼はこれを用いて、盛んに自家の精神的栄養物を摂取することが出来る。既に述べた通り、彼岸の居住者の有する機関は非常に稀薄であり、又微妙であるから、無論肉眼には見るよしもなく、地上の科学者達の提供する、どんな精巧な機械にもかからない。
ところで、この新形態にはどの部分が痛いとか、痒いとかいうようなことは絶対にない。精神の働が非常に加わりて、統制力を増した結果、精神的の苦痛は経験しても形態が精神を悩まし、形態が支配者の位地に立つというようなことは到底ないのである。これを観ても死の彼岸に於いて、いかに彼が重要なる進歩を遂げたかが明瞭であると思う。が、他方を観れば、彼の前途はまだまだ遼遠である。完成の目的地点に達するまでには、彼は無数の境涯を通過し、無数の生活を経験せねばならないのである。
ごく大雑把に言えば、彼がその長い生命の道程中に発揮すべき意識は二種類に分かれる。外でもない、甲はスピリット又は上魂、乙は自我性又は下魂である。そしてその何れにもそれぞれ異なれる表現形式があるのである。
或は又見方によりては、全てを意識の階段と考えても良いかと思う。即ち階段の一つ一つこそ、出発点から終点迄に至るまでに、彼が通過せねばならぬ、各種の生活の代表なのである。但しそこに果たして終点があるか、ないかは私には言い得ない。私が最終というのは、単に私の視界の局限を指すに過ぎないと承知してもらいたい。そして私の所謂下魂と称するのは、各階段にありての実際的、又は顕在的自我意識であり又スピリット又は上魂と称するものは、結局上方から射す光と思えばよい。この光は何れの階段をも照らし、一切のその中に包容する。かるが故に魂とは単に一部分であり、経験の収集者であり、あらゆる生命の背後に控える『神秘』の小なる代表者でしかない。
自我がこの意識の階段を上昇すればする程、ますます他の同類の魂達と接近する。一つのスピリット(上魂)によりて養われる類魂の数は、或時は千、或時は百、又或時は二十位しかないかも知れぬ。何れにしても、他の同類の魂につきての自覚は階段の上方に進めば進む程増大する。時とすれば、彼等は他の魂達の記憶の中に潜り入り、それ等の経験を洞察し、全てを自家薬籠中のものとなすことも出来る。然らば何故に上方に進むにつれて、心と心との感応道交の度が高まるのか?他なし統一原理である所のスピリットは、間断なくより大なる調和をもたらし、従ってより大なる統一をもたらす傾向を有っているからである。かくてこれ等種々雑多の個性の所有者達は、次第々々に、相交錯して、経験も心も一体となり、遂には従来夢想だにしなかった知能の水準線に到達する。
いうまでもなく意識の階段の下方に沈淪しているものは、尚人間的臭味を帯びた思想、習慣等から離脱しない魂の所有者達である。彼等の或者は地上生活中には非常な大学者であったのもある。が、知識は必ずしも賢者を造らない。偉大なるインドのヨガ僧、優れたる中国の大儒、神聖なるキリスト教の長老等にして、尚且つ長年月に亘りて、第三乃至第四の世界に停滞を余儀なくせしめらるるものがある。それ等の人達は所謂下魂の好標本で、従って幾多の弱点がある。彼等は地上に於いて抱懐せる思想の鋳型から脱け出づる力なく、旧態依然として昔の夢に捕えられ、多くの謬念謬想に膠着する。例えばインド僧はインド哲学の宿弊に捕えられて、いたずらに物と心との分離を夢み中国の儒者は中国思想の旧套を追いて、暗中模索式の宇宙観に耿るの類である。
一見すれば、彼等としては恰もその宿望を達したかの如く見える。が、事実は意識の階段の低部に固着しているに過ぎない。自分ではそれが涅槃であり、解脱であり、大悟徹底であると考えるであろう。豈(あに)図らんやそれはただ自分だけに通用する涅槃であり、解脱であり、大悟徹底である。彼は依然として自我性を有し、依然として地上生活中に造り上げた自己陶酔式の空夢にこびりついている。要するにそれは沈める沼の生活である。そこには退歩もないが又進歩もない。彼は少しも宇宙の物的様式との接触を有っていない。故に彼には単なる陶酔があるのみで、経験が乏しい。永久に自我の牢獄の裡に監禁さるる所以である。
私は既に述べた、階段の上部に到達した魂は、よく統一原理たるスピリットの裡に合同し、遂には差別世界の彼方に歩み入りて、神秘的実在と融合一致するであろうと。その時に、彼等はもとより形態を棄て、一切の外部表現を行なわぬことになる。が彼等はいたずらに自己陶酔式の観念に耽る代わりに、無形にしてよく有形の宇宙と接触を保ち、我等の想像だも及ばざる智的、又霊的の活動を続ける。この境涯こそ真の涅槃であり、真の天国である。彼等は細大漏らさず物的宇宙の秘奥に通じ、天体の変遷も、地球の歴史も、悉く彼等の叡智の鏡裏に映ず。之を要するに彼等は宇宙の一部にして、同時に又全部なのである。
意識の各階段を上より照らすスピリットは、結局神の思想の個性的一表現と観ればよい。このスピリットは、時としてその自身の中に縮まることもあるが、又時として神と魂との接触の役目をすることもある。私の所謂『霊の人』の出現はその結果である。開闢以来この種の人物の地上出現は、恐らく総計百人には達しまい。この種の人物の特徴は、肉体の中に包まれながら、よく直接に神からの強烈なるインスピレーションに接し得ることである。『霊の人』にして初めて永遠の真理を語り、又これを行なうことが出来る。この種の人は肉体の放棄後、しばしは冥府(ヘーズ)に止まるであろうが、『夢幻界』などには断じて停滞しない。迅速の各階段を突破して、容易に宇宙の実在の中に融合する。
(評釈)不自由なる霊媒を通じて受け取った霊界通信の常として、表現法は何やら舌足らずの言葉の如く、痒い所に手が届かぬ憾(うら)みは免れないが、その内容は誠の立派なものと思う。向上の途上に於いて、自我の発揮する諸々の意識を、多くの階段に譬えての説明は大変にうまい。殊に同類の魂達の相互の共通性を説いている点は、幽明交通の実際に触れた人達の、何れも共鳴する点であろう。同一自我(本霊)から分かれた多くの類魂達の感応道交とは、私の所謂霊の中継放送である。我々の背後の守護霊の知識と能力には限度がある。が、これを中継として奥へ奥へと霊的調査の歩を進むる時に、しばしば偉大深遠なる啓示に接することが出来る。我々心霊学徒は、出来るだけその方面の開拓に当たらねばならない。それで初めて神秘の扉が開ける。二十世紀人は、単なる小主観の揣摩憶測的遊戯三昧には、モウうんざりしている。
マイヤースがインド僧達の空夢を説破している辺も甚だ痛快である。『物と心との分離を夢みる』所にインド思想の始末に行けない迷妄がある。日本人中にもその影響を受けて、生きて現世の穀潰しとなり、死して幽界の厄介者となっているものが中々多い。『単なる陶酔があるのみで経験がない』とは実に至言である。口では偉そうなことを述べても、さて実際の仕事にかけて何も出来ないのでは、どうとも致し方がないではないか!真の心霊主義者は、決してそんな邪道に陥ってはならない。活社会の活事業にどれだけの貢献を為し得るか-それで人間の値打ちは決まる。
第5章 色彩界-第四界-
第1節 『魂の人』-形像破毀
夢幻界にありては何れも皆一種のエーテル体を有っているが、肉体に比すればそれは遙かに稀薄精巧である。そしてもしも汝が理智的、道徳的に発達しているなら、汝はいつしか、もっと意識の階段を昇りたいという欲求に駆られる。稀にそっくりそのまま地上に再生して、現世の葛藤を経験するものも絶無とは言わないが、それは寧ろ例外である。地上に向かうのは、単に中心の上昇意識から分裂した断片であり、一念であるにしか過ぎない。
さて右の上昇意識がやがて帯びるのは、従来よりも更に一段精巧な一種のエーテル体で、そしてその入り行く先は、地球付属の上層エーテル界なのである。エーテルという文字は甚だ拙いが、他にこの地球の稀薄なる放射体に命ずべき適当な言葉がない。何卒エーテルとは物質の祖先、つまりその根源素であると記憶してもらいたい。
ところで『魂の人』が、主として形態に包まれて生活する間は、まだ他界の所属であると覚悟せねばならない。無論それにも多くの階級、多くの表現形式があり、それぞれのエーテル体は皆その振動数が異なる。そしてそれが精巧であればある程精神的、理智的の透覚が鋭く、従って一切の思索想像の大極、神につきての把握力が加わって来る。
夢幻界の彼岸にありては、無論汝は物的地球の根源である所の一つの世界に生活する。これを一言にして尽くせば、この物的地球は、精巧なエーテル体に包まれた、優秀な魂の所有者達が生活する、他の一つの美しき世界の模写、甚だ醜く燻(くすぶ)った模写、でしかない。諸君は地上の画家達が試みる傑作の模写が、いかに原作の魂を捕え得ないかを知るであろう。寸法は正しい。色彩も線も立派である。が、その中に溌剌(はつらつ)たる生命が宿っていないので、これに対する時に、妙に気色が悪くなるものである。物的地球はつまりそれである。非常に優れた原作の下手な模写に過ぎない。時とすればそれは妙に歪み、ひねくれ、時とすればただ朦朧たる輪郭を示すに過ぎない。その中に何の生気もない。真生命はその中に少しも現れていない。
私が今述べた微妙な内面の世界には、某所に種々雑多の形態を具えた存在物があるが、遺憾ながら、地上にその類例がないので、これを言葉に言い現すことが出来ない。但し顕幽の風物間には、そこに多少の類似点がある。例えば花がそれである。但し内面の世界の花は形も、色も、又光も到底地上のそれの比でない。物的波動の中には、とてもそんな色や光は含まれていない。我々としても、単に思想でこれを言い現し得るのみで、とても言葉を以っていかんともする事は出来ない。何となれば人間の言葉は、我々にとりて既に時代後れであり、廃語となっているから・・・・。
但し上の世界に住む魂にとりても、まだまだ努力精進の必要があり、又地上の悲とは違った悲、地上の歓びとは違った歓びを味わうの必要がある。その悲しみも、歓びも共に霊的精神的のもので、地上人には想像し得ないが、兎に角この二つの練磨によりて彼等はこの世界の上境に導かれるのである。
第2節 形態の聖化
霊魂が意識の階段を降りる代わりに、成るべく上方に昇ろうと心掛けるようになると、従来とは打って変わった新しい知覚、新しい能力が授けられる。
地上生活にありては、平凡人の平凡なる自我は、主として肉体の欲求によりて支配せられ、霊的の閃きは、極めて稀に人間の頭脳の闇を照らす位のものである。それが自我に与える印象たるや甚だ微弱である。ところが第四界となると、ずっと強烈に魂の深部に透徹する。何にしろその知能が地上の人間よりは遙かに鋭くなっているので、感受性も加わり、又精神統一の力量も増している。その間地上生活の記憶などはしばしば放擲(ほうてき)され、専ら新しき世界の生活に没頭する。無論魂がまだ形態を離れぬ間は、宇宙の律動に服するので、従って彼は或る形式の『時』の支配を受ける。即ち『時』と『形』とが一つの象徴(シンボル)となって彼を支配するのである。
一面から言うと、この色彩界は『形像の破毀』の時代ともいえる。意識のこの階段に於いて、彼は無数の経験の結果、あらゆる物体のいかに夢幻的であるかを知り、次第に形態の統制が上手になって来る。最初は形態によりて左右され勝ちであるが、次第に上魂の活用によりて、任意に自分の姿を破毀し、同時に又一切の周囲の形態から離脱することをも覚えて来る。
無論器量次第で、各自の経験には雲泥の相違があるのは言うまでもない。優秀な『魂の人』はどしどし向上進歩するが、多くの平凡人は、生みのうねりが高くも又低くもなるように、容易に目立った進歩は出来ない。しかしそれでも幾分ずつは前進する。
さて優れた『魂の人』が何より先に感ずるのは、自分の置かれた世界が、千万無量の色と、光と、音との不思議な世界であることである。そこには人体とは全然異なった形態が見出される。それは想像だも及ばないような光と色との合成体で、その輪郭は意識の深所に印象された、その人物の過去の行為によりて様々に違う。したがってそこには、世にも珍怪不思議を極めた姿もあれば、又世にも優婉(ゆうえん)美麗を極めた姿もある。醜の極、怪の極、美の極、麗の極、それは到底筆舌に尽くす限りでない。
この多彩の世界では、どの姿も皆極度の烈しさを以って振動している。これは心がそれ自身を直接形の上に現すからである。従って我々は、他人の思想を聴き取ることが出来る。最初は一時に一人だけだが、暫くすると、極めて分明に一時に多数の思想を聴き取り得る。或る意味に於いては、それは地上と同じく形態の世界であるが、ただこの形態の世界は、その規模が比較にならぬ程巨大であり、そしてこれを受け取る『魂の人』の性質次第で、いかようにも感ずる。慨して全ての物が、地上に比して遙かに流動性を帯び、非実体的である。
この多彩界を養う光と生命とは、地上のそれ等に比して遙かに純潔であり、その振動数も途方もなく迅い。従ってもしも『魂の人』が、強烈なる敵意を懐いて他を呪えば、光と色とで出来上がった相手の体は、或る程度壊滅もし兼ねない。なのでこの世界では、防衛光線を造る方法が講ぜられるのである。かつて現世生活中互いに憎み合ったりしたものが、もしもこの世界で会合したとすれば、必ず昔の憎念が呼び覚まされるので油断がならない。何となれば愛も憎しみも、共にその関係者を引き寄せる働きがあるからである。こうして各自は、永遠の綴織の中に、間断なくそれぞれ特殊の模様を織り込んで行く。
こんな次第で、各自はその世界に於いて、再び喜怒哀楽を経験するのであるが、無論地上の喜怒哀楽とは趣を異にする。それは一層精巧であり、又一層精神的であり、その欲求が大きければ大きい程、遂げられぬ時の失望も、又遂げた時の満足も共に比較にならぬ程強大である。
(評釈)私の所謂幽界生活の中堅ともいうべき境涯の模写である。説いて必ずしも尽くしているとは言い得ないが、心を潜めて玩味すれば、さすがに棄て難い箇所がある。この界の住人を光と色との合成体であると説き、他人の思想を聴き取ることが出来ると説くあたり、さすがに要領を得ていると思わせる。
第3節 第四界の知覚
以上説いた所は、ほんの超物質的生活の輪郭に過ぎない。詳しく言ったら、それは種々雑多の状態に分かれるのである。一例を挙げれば、ずっと上方に於いては、表現形式が幾通りにも分かれる。即ち一つの霊魂が沢山の姿を有っており、進むにつれて甲から乙へと移って行く。その間の消息は実に隠微を極め、よほどの超科学者でも、容易に真相は掴めない。ただそこには一つの動かすべからざる鉄則が厳守される。他なし汝が同一振動数の形態を有する者のみを感知し得る事である。故にもし異なる振動数の形態所有者と交通を試みようと思えば、自分自身を統一状態に導き、それと波長を合わせるより外に方法がない。そうしさえすれば、上の段とも下の段とも、臨時に交通が可能である。我々として下の方は冥府まで降りる。冥府の霧の中へ入って、そこで地上の人間とも接触するのである。これが為に我々は、しばしば地上人の夢の中に巻き込まれ、上層界に於ける経験の記憶を、一時喪失してしまうのは困ってしまう。よくよく調子の良い時でもなければ、興味ある、又有益な通信は送れない。我々は地上の記憶・・・、しかも往々他人の記憶の繭の中に包まれて、辛うじて平凡な事件を伝え得る位のことになる。それは丁度巣の内部で蜜に浸った蜜蜂が、半昏睡状態に陥ったのにそっくりである。
兎に角光明世界の居住者の近くはよほど鋭いものなのだが、残念ながら、その観念を地上人に伝える事は非常に困難である。幽界の住人からの発意的通信が少ないのも、主としてそれに原因する。大体地上人は、我々から観れば幽霊みたいなもので、よほどの信念と愛情を以って、真剣に求めてくれなければ、成る程と首肯されるような、はっきりした通信は送り得ない。念の為に断っておくが、地上の人間が確証を求むることは合法的である。これが為に他界の居住者の感情を害したり、苦悩を増させたりするようなことはない。
一体人間には、自分が一度も経験したことのない、新しい音、新しい色、又新しい感覚等を想像する力はない。従って我々が第四界で経験する無尽蔵の音も、色も、感覚も、人間には到底想像し得ない。地上の人間は半分眠って暮らすのである。人間が覚醒している時ですら、その意識には一分間に約四、五十回位の無意識の隙間が出来る。この点に於いて人間は、海峡の闇夜を照らす灯台にそっくりである。咫尺(しせき)を弁ぜぬ闇が海面を蔽うている。と、時に一閃の火光が大空を横切り、瞬間的に波間を照らす。人間の意識とは要するにそんなものらしく私には見える。肉体を棄て、意識の階段を上昇するに連れ、人間は次第に闇から脱出する。つまり光が一層強まり、且つ持続性を加えて来るのである。第四界に達すればもう随分明るい。無意識の間隙がずっと減少する。何となれば、その使用する機関が遙かに精妙の度を加え、又その智能の働きが遙かに敏活となり、かくて霊と魂、との結合が比較にならぬ程しっくりとなるからである。盲目の狗児(いぬころ)がそろそろ目が見え出すのである。私はもう一度闇夜の海面の譬喩を借りる。海面は殆ど間断なく灯台の光で照らされ、真っ暗闇の場面はもう滅多に見られないのである。光景一新という所である。従ってかの言葉と称する原始的な、粗末な音波を用いて、この比較にならぬ程鋭利俊敏な意識の世界に起こりつつある、千変万化の実相を伝える術もなかろうではないか!我々が経験しつつある活発々地の思念の強さ、激しさ-これに比すれば地上の人間の頭脳の緩慢なる運動、又現世的葛藤に臨みて巻き起こさるる粗雑な情熱などは、全然問題にならないのである。試みにナメクジやカタツムリの智的活動と、人間のそれとを比較してみるがよい。そうすれば大体第四界の精神的活動と、人間界のそれとの相違が判るであろう。
我々の空間に対する観念は、全然あなた方のそれとは違う。ここで無線電信の譬喩を持ってくれば、幾分かはその概念を獲られるであろう。我々はほんの一瞬精神を統一すればよい。そうすると我々の姿は忽ち出来上がり、そしてその姿は忽ち無限の空間を横切りて、自分と波長の合った友人の所へ現れる。距離の長短などは全然問題でない。そして我々はいとも容易に対話を交える。無論それは言葉でなくただ思想の対話なのである。会見が終わった時、又その姿から思念の生命(分霊)を抽出すれば姿は忽ち消える。無論こうした仕事の出来るのは、同一世界に属する住人間のみに限る。律動の合わないものとは、そう容易く仕事が運ばない。
私がこの念力の働きにつきての一小例を掲げたのは、我々がいかに一歩宇宙の大生命力に接近したかを示したく思ったからである。我々は次第にいかにして形態の内と外とに生くべきかを習得しつつある。我々は次第に念の流動性に気が付いて来つつある。我々はこの念が、いかに完全に一切の表現の培養素たるエネルギーと、生命力とを支配するかを理解している。
(評釈)前節で不充分と思われたところが、大分この一節で補充されている。念力のいかに不思議力を有っているかは、地上生活に於いても認知し得ないではないが、しかし念力の本場は、何と言っても死後の世界である。マイヤースのこれに関する説明は、ほぼ至れり尽くせりと言ってよかろう。なかんずく人間の意識をば、暗夜を照らす灯台に譬えたなどは非常に面白い。人間としては忌々しいが、しかしそれは確かに事実であろう。又霊界の居住者間に行われる通信法の説明も、非常に巧妙適切を極める。『死後愛する人達は同棲しますか』などという質問をしばしば受けるが、同棲と否とが他界にありて全然問題でないことは、この一節を味読すればすぐ氷解されるであろう。