トップ 郷土資料館 仏閣 神社 石碑 その他史跡
青石古墳 公智神社 御旅所 丸山城址 銭塚地蔵 戦没者慰霊碑

■国道176号線は、新明治橋で有馬川を跨いでいる。新明治橋の宝塚側の国道沿い南に銭塚地蔵がある。地籍は「下山口字春道」となっている。境内には下山口自治会の管理する共同墓地がある。この地は、戦国武将・山口五郎左衛門の夫人が落城後に遺児とともに移り住んだといわれる春道の里である。今は、すぐ傍にある「山口春道公園」にその名前の名残りをとどめている。
■お堂前の「銭塚地蔵尊之由来」の案内標識には、以下の記述がある。
『 戦国時代、丸山の山頂に城を構え、この地方を支配していた多田源氏の一門・山口五郎左衛門時角は、天正6年(1578年)中国地方に兵を進めた織田信長の武将たちの手によって滅亡の運命をたどりました。その際、夫人の貞樹さまは、ひそかにここ春道の里に身を隠し二人の遺児を養育しました。
 夫人は賢婦人の誉れ高く、平素から物を濫費することを戒め、倹約を旨とし、子供たちを厳しく躾けました。ある時、垣根を修繕しようと穴を掘ったところ、多くの銭が出てきました。「武士たる者、勤ずして銭を得ること家門の災い。ましていわれのない財を得ることはできない。そのまま土中に埋めなさい」という徹底した教育振りだったと伝えられています。母なきあと二人の遺児たちは母の戒めを堅く守り、立身出世して銭を埋めた場所に地蔵さんを祀り、銭塚地蔵尊と名付けて供養したと伝えられています。
 子供の成長、学業増進、家内安全、商売繁盛、息災延命を授かる霊験あらたかな地蔵尊です。また、境内には山口五郎左衛門時角の碑が建てられています。
 なお、東京都台東区の浅草寺境内にも銭塚地蔵尊が祀られていますが成長した遺児の一人が江戸表に出て浅草に居を構えた際、父母の菩提を供養して建立したと伝えられています。 (「有馬郡誌」「摂津誌」「金龍山縁起正伝」より)』

■境内入ってすぐのところには、江戸中期の義太夫太夫の竹本増太夫の墓碑と西国巡礼供養塔が残されている。
■8月24日の地蔵盆には、お堂の扉が開かれ、本尊の地蔵尊にお参りができる。境内横の空地では詠歌踊りも奉納される。
地蔵堂の正面には銭塚地蔵尊の石碑と紅白の幟が立っている 山口村誌掲載の高さ約二尺(60.6cm)の「銭塚地蔵尊像」 境内の山口五郎左衛門時角の碑。遠くに居城のあった丸山が見える。

 銭塚地蔵のサイトをアップする前後に東京出張の機会を得た。浅草寺境内にあるという銭塚地蔵の分家を訪問する絶好のチャンスである。永いサラリーマン生活中に何十回となく東京出張があったが、浅草は結局訪れたことはなかった。この際ぜひ浅草寺に参拝しようと思い立った。 
 出張二日目の早朝7時に鶯谷のホテルを出て浅草に向う。地下鉄銀座線の浅草駅から地上に出るとすぐの所に雷門がある。何故か郷愁を覚えるその佇まいは、テレビなどでたびたび目にしているせいだろうか。
 雷門と大書した大提灯をくぐると、情緒たっぷりの仲見世が本堂に向って立ち並ぶ。どの店も閉まったままの早朝の参道には人影もまばらである。仲見世が途絶えた先に壮大で迫力のある宝蔵門が待ち受けている。宝蔵門をくぐると正面に本堂である観音堂の大伽藍が参拝者を圧倒する。
 本堂左の影向堂、六角堂の前を通り、銭塚地蔵の目印の赤い幟旗を捜すが見当たらない。境内を出て右手の先に赤い幟の一群があった。浅草の銭塚地蔵は、正確には浅草寺境内あるとは言いがたい。
 何故か民家風の建物の続きにお堂がある。山口のお堂前の幟と同じロゴの銭塚地蔵尊の文字に気分が和らぐ。お堂の右手に「カンカン地蔵尊」が祀られ、以下の注意書きがある。
 「カンカン地蔵尊は古来より付随の小石で御身をごく軽くたたき、お願い事をするお地蔵様であります。刃物や石で御身を削ることは、おやめ下さい。浅草寺」
 お地蔵様から削り取った一片を財布に入れておくとお金が貯まるという迷信を信じた心ない参拝者に削り取られて、今やカンカン地蔵様は無残な姿になりはてている。