静振の研究


 海洋気象台時代の日高の研究業績の中で特筆すべきものは静振に関するものである。
 静振とは、湾や湖などの水面がその形や大きさによって決まる固有の周期の振動を呈することを言う。簡単な形状、たとえば矩形や円形の湖の静振は比較的容易に求めることができるが、日高はこれを大阪湾をはじめ、洞爺湖、諏訪湖などのやや複雑な形状や水深変化のある場合について求めている。

 ここで時代背景を見ておく。日高が東大を出て中央気象台に入った1926年、Schroedinger は後に彼の名で呼ばれることになる波動方程式を用いて水素原子のエネルギー準位の導出に成功している。この波動方程式は、物質に粒子と波動の二重の性質があることを示すものである。これより以前の20世紀初頭、Einsteinは「光量子仮説」を発表した。これは従来波動と考えられていた光が粒子的性質を持つという画期的なものであった。さらに de Broglie は逆に電子に波動の性質を持たせた「物質波」という概念を提出した。このように20世紀の初めには、微視的現象において物質が粒子と波動の二重性を持つことが知られるようになり、これに基づいて「量子論」が発展して来たのであるが、Schroedinger の波動方程式はこの概念を集大成したものと言えるだろう。
 このような物理学の大変革のさ中に、日高は中央気象台に入り、さらに神戸の海洋気象台に赴任したわけであるが、後年、当時の心境を述懐した文章がある。ここに見られるように、神戸における日高の仕事は当初「我世に破れたり」とも思われたものが、「静振」の研究によって救われ、やがてそれが大きな業績となって行くのであるが、特にこの後半を理解するためには、Schroedinger の波動方程式と静振との類似性をもう少し詳しく見ておいたほうがよかろう。
 Schroedingerの波動方程式は以下のように導かれる。ある粒子にその状態を表わす「波動関数」を対応させる。「状態」というのは、その粒子の位置や運動量、エネルギーなどの特定の値の組と考えておけばよかろう(実は量子論では不確定性原理により、たとえば位置と運動量は同時には決まらないのだが、本稿ではこれについては触れない)。ともかくその状態は波動関数ψによって表わされる。
 次に、その粒子の運動量をp、エネルギーをEとすると、先に述べた de Broglie の「物質波」の仮説から
ih~ =Eψ
−ih~ =pψ
が導かれる。ここでh~=h/(2π)、hはプランク定数である。
 ここで、古典力学のエネルギー保存則を考える。
E= +V
ここでmは粒子の質量、p2/(2m)は運動エネルギー、Vはポテンシャル・エネルギーである。この式は、波動関数ψを用いて次のように表わされる。
ih~ +Vψ
これがSchroedingerの波動方程式である。特にEが一定の場合には
(E−V)ψ=−
というxに関する2階の微分方程式となり、これはψの境界条件(boundary condition)に関して解かれる。境界条件は、たとえば解領域が(a≦x≦b)のとき、ψ(a),ψ(b)を与える、などである。
 非常に簡単な場合として次のものを考える。
=−ψ
  境界条件:x=0においてψ=0、x=1においてψ=0

 これの解は
  ψ=ansin(nπx)、ただしn=0,1,2,・・・
であることが容易にわかる。
 これは弦の振動を表わす解である。また、境界条件を少し変えれば管の中の気柱の振動(つまり笛)にも適用できる。要するに1次元の線形振動の解である。これを2次元に拡張すれば静振の解ともなる。この解のnは、弦や管では振動の腹や節の数を表わし、振動モードとして基本振動(n=1)の整数倍のものだけが許されることを示している。量子論ではこれが「量子数」となる。つまり量子数が基本状態の整数倍のとびとびの値だけが許されるのである。このように、波動方程式からとびとびの「固有状態」を求めるというスタイルは、弦や管や静振でも量子論でも基本的には全く同様なのである。
 ところで、寺田寅彦の学位論文は「尺八の音響学」であるという(こちらも参照)。一方、大阪湾の縦式単節静振(日高孝次、「海と空」1931)には Honda, Terada, Yoshida and Isitani: Secondary Undulation of Oceanic Tide. journ. Coll. Sc. Imp. Univ Tokyo, Vol. 24, 1907 が引用されており、寺田の潮汐副振動への関心を窺わせる。このように、弦や管と海面湖面の振動は共通点も多く、両者に関心を寄せる学者は古くからいたのであろう。しかしながら、日高の時代には量子論という形でこれが再び脚光を浴びるのである。

 前置きが長くなったが、本題に入り、大阪湾と洞爺湖について日高の用いた手法を見て行く。

大阪湾の縦式単節静振(「海と空」1931)

 ここでは、大阪湾を長軸の一端から他端に向かって次第に深くなっている楕円形の海として取り扱っている。そして、水位の方程式を満たす解を(無限の)冪級数展開を用いて表し、方程式および境界条件から各冪の係数間の関係を求め、固有値方程式を導く。そこから、大阪湾の縦式単節静振(すなわち、n=1のモード)および双節静振(n=2)を求めている。
 ここで日高は、固有振動の大体の値を、矩形の海において水深が一様な場合と水深が変化する場合との比較によって類推し、それを元に計算を進めている。
 つまり、固有値方程式を直接解くのではなく、間接的に得られた第一推定値から出発するのである。高次の方程式を直接解くことの困難を回避した秀逸なアイディアと言うべきか。

 この論文の中で、日高は「尚以上の積分方法に関しては・・」として自身の論文 Mem. Imp. Mar. Obs. Vol. IV, No.2 (1931) に触れている。そしてその論文は Lamb "HydroDynamics" 6th edition にも紹介されている。この本は初版が実に1879年というもので、長い間、流体力学の標準的な教科書としての地位を保ち続けた名著であるが、その1932年刊の第6版に、 Rayleigh や Goldstein といった錚々たる名前と並んで日高が紹介されている(pp209)。因みにこの本に名前が載っている日本人は、Nagaoka(「長岡原子モデル」の長岡半太郎)、Terazawa(「自然科学者のための数学概論」の著者、寺沢寛一)と Hidaka の3名だけである。しかも日高の1931年の論文が Lamb の1932年の版に逸早く紹介されているのである。 Lamb は当時すでにかなりの高齢であったはずである。その老大家が極東の新進学者の論文にそんなにも早く目を向けている。いや、日高の業績がそれほどに大きかったと見るべきだろうか。

 この後、日高は1934年にエルテル「不規則な形状の湖沼の自由振動を計算する新法」(海洋時報第六巻第二号)を発表している。これは「量子力学を湖沼の静振に応用したものである。」という文章で始まるもので、明らかに量子論の影響が見てとれる。

「静振決定の新方法」(海と空Vol16.3 1936年、海洋気象台彙報第六十号 1936年)

 日高はここで、1次元水路に「Ritzの方法」を適用している。これは現在では「Rayleigh-Ritz法」と呼ばれることの多い(たとえばC.A.ブレビア著「境界要素法入門」培風館,ISBN4-563-03173-9)方法と本質的に同じものである。
 そこでは、先に自ら「Christal の方法」を適用した山中湖の静振についてこの方法を適用し、前者に比べて「可成り操作が簡単」なことを示している。
 また「洞爺湖の静振の理論的研究」海洋気象台彙報第九十六号(1936年)では洞爺湖を中央に島がある円形の湖で一部に水深変化があるものとして「Ritzの方法」を適用している。
 ただ、日高はRitzの原論文を「文献」として掲げている。それらは1908から1909年頃の、タイトルを見る限りドイツ語の論文である。当時の学者としてはドイツ語の素養は当然だったのかも知れないが、当時よりさらに30年近くも前のこれら文献を日高はどこで読んだのだろうか。海洋気象台にそれらが揃っていたのだろうか。
 松平康男は書いている。
海洋気象台には地学の内外の専門書や関係学会誌が揃っており、気象、海洋関係の新刊書も次々購入され、東京の気象台図書館よりも希書が蔵されているとも言われた。
「海と空」誌の回顧談、「海と空」第50巻第2〜3合併号

 そこから察すると日高が読んだRitzの論文も海洋気象台の蔵書の中にあったものかも知れない。

 さて、筆者は大阪湾の縦式単節静振にRitzの方法を適用してみた。すると、日高の結果とほぼ同等のものがかなり容易に得られた。
 1936年の論文が「静振決定の新方法」となっているように、日高はこの頃になってようやくRitz法を知ったのであろう。もし「大阪湾(1931)」の頃に知っていたなら当然そこでもこれを用いたであろうと思われる。
 前に見たように、「大阪湾(1931)」では(無限の)冪級数展開を用いている。そして高次の方程式の解を得るために、矩形の場合における水深変化の影響から間接的に得られた第一推定値から出発するという(秀逸と言えば秀逸な)方法を援用している。
 これに対して、Ritz法では方程式は比較的低次で、たとえば双節静振までなら2次方程式を解くだけである。解関数 ξmexp(mξ) に日高が気付かなかったとはちょっと考え難い。また積分に Simpson法を使うとしても、日高は山中湖(「新方法」)や「洞爺湖」でこれを行っているし、20分割程度でも(積分自体の精度はやや劣るものの)固有周期はほぼ正確に求められるから、手計算がそれほど困難とも思えない。かなり高次の方程式を間接的な第一推定値から出発して、(Microsoft Excellの「ゴールシーク」のような)繰り返し計算によって解くほうが余程手間がかかりそうに思われる。

 ところで、Rayleigh "The Theory of Sound"のペーパーバック版(1945 by Dover Publications Inc.) 2分冊のうち Volume One には Robert Bluce Lindsay という人の書いた "Historical Introduction" が添付されているが、それによると、「後にRitzによって一般化され、Rayleigh-Ritz法として知られるようになった」手法を Rayleighが最初に発表したのは1873年の "Proceedings of London Mathematical Society" という。つまりRitzからもさらに三十数年を遡ることになる。そのように古い起源を持ち、さらにRitzによって完成された手法に日高はこの時期になって着目したわけであるが、Lindsayも述べているように、この手法は量子力学にも適用されているものである。そこに前述の日高の述懐との関連を想起せざるを得ない。

 宇田道隆「日本海洋学会創立当時の思い出」(日本海洋学会20年の歩み 1961)によると、「日本海洋学会」が創立された時、「神戸の学会」との関係をどうするかについて議論があったようである。結局、神戸は「海洋気象学会」として別に存続することになるのだが、このとき岡田武松は「神戸が数学的で、こちらはいくらか実際の海臭くて相補(コンプレメント)になろう」と述べたという。昭和12年(1937)というから、日高の「新方法」「洞爺湖」からは日も浅い。この「神戸が数学的」というのは勿論、日高の存在を意識したものであろう。碩学の岡田でさえ、日高の数学の才に一目置いていたことが窺われる。であるなら、日高がこの頃になってようやくRitz法を知ったとしても、驚くべきことではなかろう。純粋理論的な分野はいざ知らず、海洋や地球物理学などの分野には、この種の数学はまだ波及していなかったのではないか?そのような数学に日高が着目することになったのも、量子論などへの憧憬があったればこそ、とも思えるのだが。

 この頃の日高の研究の特異性は、日高自身の著書「海洋学との四十年」の中の以下の記述からも推察される。
博士号と帝国学士院賞をうける
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 学士院賞の授賞式は、近親者の同席で行なわれるが、慣例で妻もその両親も出席した。帝国学士院長は桜井錠二先生で、私の接待役は寺田寅彦先生であった。岡田先生はもちろん、堀口先生もわざわざ神戸から駆付けて出席された。斎藤実総理大臣が、私の参考品が陳列してあるところに寄ってこられ、また数式のぎっしりつまった論文をみて{つまり海流の問題ですな」と私に語りかけられたのを覚えている。
 本多幸太郎先生は、私と同じ湖海の振動について御研究なさった方であるが「この頃、こういった問題も、大分難しくなったものだな」と言われたと聞いている。
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第六回太平洋学術会議
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 バークレーのヨット・ハーバーには、ワシントン大学の観測船「キャタリスト」が展示されていて、これをシアトルから回航して来たグットマンという青年学者は、私に「君はいつもすごくむずかしい論文を書くね。僕には判らない」と語った。
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 このように(当時としては)数学的に難解な日高の研究の理解者にはどのような人達がいたのだろうか?既に述べたように Sir Horace Lamb は Hydrodynamics sixth edition で逸早く日高を紹介しているわけだが、日本国内に目をやると、まず、当時京都帝国大学教授だった野満隆治を挙げるべきだろう。ふたたび日高「海洋学との四十年」から引用する。
壷井伊八さんのこと
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 私が京都帝国大学の野満隆治先生と学術雑誌「海と空」で盛んに論戦をしていたのはこの頃であった。先生はその頃既に六十才近くでいられたが、きわめて活発に海流や津波の理論を京大紀要に発表された。また私の論文の不備を指摘されたこともある。私も若気の至りで全力を挙げて先生に対して論戦を張りよく失礼なことを申上げたものである。
 或る日先生は当時京大総長をしていられた東洋史の羽田享先生と私の処に来られ、満面に笑みをたたえ乍ら「日高さん。もうこの位で止めましょう」といわれた。私も大いに恐縮してその後再び先生と論争をしなかった。

 そのように盛んに論戦をするというのは、お互いに相手の手の内がわかっている証拠である。「僕には判らない」などと言う相手とは議論になるはずもない。一方、全く分野の異なる(例えば量子論などの)研究者とも、議論はなかなか噛み合わないだろう。同じような分野で同じような意識を持つ同士のみが、議論の相手足りえるので、その相手はライバルであると同時に良き理解者なのである。
 なお、上に引用した部分の直後に、壷井伊八なる人物についての記述が続いている。
 昭和九年四月海洋気象台に壷井伊八なる若手の秀才が就職して来た。三高、東大出身で大変まじめな人であった。神戸の人で明治四十五年生れだからこの頃二十二才位、毎日黙々として地下室で気象観測機器の検定をやっていた。よく出来る人なので、私は物理や数学がわからないときには、地下室に降りて壷井さんに聞いたものだ。彼はやおら向き直って徐々に口を開いて意見を述べてくれた。
 彼は私の仕事にも大変興味をもっていて、自分でも湖海の振動、津波、海の波浪などの論文を書いた。みな数学の遊びみたいなものでなく、実用価値の高いものが多かった。彼は昭和十年の初めから胸の病で健康が優れなかった。それでもよく研究に精進、多くの論文を書いた。・・しかし、同十二年九月十日突然喀血し、十月二十九日不帰の客となった。
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 彼の研究は昭和九年三月から十一年二月、つまり僅か二ヶ年の間になされたものであるが、それでも二十八篇ある。内二編は英文で、特に「平滑なる周辺を有し細長からざる湖水の自由振動」という論文は優れている。
・・

 この人もまた、日高の良き理解者であったものと思われる。早世が惜しまれる。

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