ih~ | =Eψ |
−ih~ | =pψ |
E= | +V |
ih~ | +Vψ |
(E−V)ψ=− |
=−ψ |
海洋気象台には地学の内外の専門書や関係学会誌が揃っており、気象、海洋関係の新刊書も次々購入され、東京の気象台図書館よりも希書が蔵されているとも言われた。 |
博士号と帝国学士院賞をうける ・・ 学士院賞の授賞式は、近親者の同席で行なわれるが、慣例で妻もその両親も出席した。帝国学士院長は桜井錠二先生で、私の接待役は寺田寅彦先生であった。岡田先生はもちろん、堀口先生もわざわざ神戸から駆付けて出席された。斎藤実総理大臣が、私の参考品が陳列してあるところに寄ってこられ、また数式のぎっしりつまった論文をみて{つまり海流の問題ですな」と私に語りかけられたのを覚えている。 本多幸太郎先生は、私と同じ湖海の振動について御研究なさった方であるが「この頃、こういった問題も、大分難しくなったものだな」と言われたと聞いている。 ・・ |
第六回太平洋学術会議 ・・ バークレーのヨット・ハーバーには、ワシントン大学の観測船「キャタリスト」が展示されていて、これをシアトルから回航して来たグットマンという青年学者は、私に「君はいつもすごくむずかしい論文を書くね。僕には判らない」と語った。 ・・ |
壷井伊八さんのこと ・・ 私が京都帝国大学の野満隆治先生と学術雑誌「海と空」で盛んに論戦をしていたのはこの頃であった。先生はその頃既に六十才近くでいられたが、きわめて活発に海流や津波の理論を京大紀要に発表された。また私の論文の不備を指摘されたこともある。私も若気の至りで全力を挙げて先生に対して論戦を張りよく失礼なことを申上げたものである。 或る日先生は当時京大総長をしていられた東洋史の羽田享先生と私の処に来られ、満面に笑みをたたえ乍ら「日高さん。もうこの位で止めましょう」といわれた。私も大いに恐縮してその後再び先生と論争をしなかった。 |
昭和九年四月海洋気象台に壷井伊八なる若手の秀才が就職して来た。三高、東大出身で大変まじめな人であった。神戸の人で明治四十五年生れだからこの頃二十二才位、毎日黙々として地下室で気象観測機器の検定をやっていた。よく出来る人なので、私は物理や数学がわからないときには、地下室に降りて壷井さんに聞いたものだ。彼はやおら向き直って徐々に口を開いて意見を述べてくれた。 彼は私の仕事にも大変興味をもっていて、自分でも湖海の振動、津波、海の波浪などの論文を書いた。みな数学の遊びみたいなものでなく、実用価値の高いものが多かった。彼は昭和十年の初めから胸の病で健康が優れなかった。それでもよく研究に精進、多くの論文を書いた。・・しかし、同十二年九月十日突然喀血し、十月二十九日不帰の客となった。 ・・ 彼の研究は昭和九年三月から十一年二月、つまり僅か二ヶ年の間になされたものであるが、それでも二十八篇ある。内二編は英文で、特に「平滑なる周辺を有し細長からざる湖水の自由振動」という論文は優れている。 ・・ |