野満隆治との論争

 「海と空」第50巻記念号(1975)に載っている松平康男の「『海と空』誌の回顧談」にこんな一節がある。

又日高さんが若い頃静振の論文を発表された所、京大の野満教授がその反駁論文を寄せられたので、それを掲載した所日高さんから私の論文は1頁半位だのにその倍もの長文の反論をしたと気分を害して私に申し出があった。そこで更にその反論を投稿して下さいと申した所すぐ原稿がもらえた。これなら編集にこと欠かぬと思っていた所、技師幹部から京都大学の教授の論文なんか掲せない様にとの注意をうけ、野満さんから更に原稿をもらうことを中止したこともあった。

 この「論争」は「海と空」第13巻第7号と第9号(1933)で展開されたものである。以下ではこれを時間軸に沿って再構成してみる。

 当時京都帝国大学教授の野満隆治は、「京都帝国大学紀要第16巻第2号」に「吹走流発生に関する優秀なる理論」(日高、「海と空」第13巻第7号)を発表した。これは「氷塊が浮かんでいる場合に関するフェルドスタッド(J.E.Fjeldstad)の吹走流の理論に対する反駁を含むものであった。すなわち、「氷塊が浮かんでいる海面においては速度に比例した反力が作用するというフェルドスタッド等の仮定に対し野満教授は、加速度に比例する反力が作用するとすべきであると結論されたが、同教授の方法では積分することが困難であると付加されている。」(日高、同上)
 日高はこれを読み、(1933年)4月末、「大阪湾で海洋観測をやっていた際」(日高、第13巻第9号)、「あの計算を行った」(同)。「あの計算」とは、野満が「積分困難とした」野満の条件について、実際に積分を行ったのである。ただしこの解は「無限個数の連立微分方程式や無限項数を含む行列式の根を求むることなどであって、矢張りとても実用にはならぬ」(野満、第13巻第9号)というものであった。「無限項数を含む行列式の根を求むる」というのは「大阪湾の縦式単節静振」と同様の考え方で、当時の日高はこのスタイル一点張りのようにも見える。
 同年5月、日高と野満は帝国学士院会館の常任太平洋学術調査委員会で会って、この時日高はこの件について野満に質問したが、野満は「『いや、あれは私の方法では解決不可能といふのではない。数学的形式的には前論文発表の時から既に立派に解いて居る。然し只実算が困難で実用にならぬ』と明答しておいた」(野満、第13巻第9号)。これに関しては日高も同様のことを述べている(日高、第13巻第9号)。
 しかるに、日高の「あの計算」が第13巻第7号に載ることとなった。この時、日高は「その後6月5日私は南西諸島の海洋観測を行う為に春風丸にて神戸を抜錨、(中略)航海中は多忙で神戸に残して来た原稿のことなど忘れていた。『積分困難』なる語を撤回しなかったのはこの理由によるのであって、故意に書いたのでは決してない」(日高、第13巻第9号)。ここで「『積分困難』なる語を撤回しなかった」というのは、野満の原論文に"can not apply" とあったのを、日高が当初そのように理解していたことを言う。そしてこれは、5月の常任太平洋学術調査委員会で既に訂正されていた訳である。
 これを受けて野満は第13巻第9号に寄稿し、5月に日高に述べたことを再度述べた上で、「前論文発表の時から既に立派に解いて」いた野満自身の解を披瀝した。なお、これは「同氏は8月号と希望されたが編集の都合上」(日高、第13巻第9号)第9号に掲載されたという。
 そして同じ第9号に、日高は上記の顛末を記し、「『積分困難』なる文字を削っておくべきだったと思うが(中略)これは確かに私の不覚で、この点は野満氏に申訳ない次第と考える。同時に、氏がこの優秀な解式を発表されたのを喜ぶ次第である。」としている。ただ、その上で日高は、自身の発表した解を野満が「矢張りとても実用にはならぬ」としているのに対して、その事実は認めつつ、「理論物理学者は随分と数計算に耐えない問題を扱っている。然しこれは決して空理では終わらぬ。歴史的踏台として将来斯界の発展に貢献しているのである。」と反駁している。さらには「ポアンカレの理論」等々を持ち出して堂々たる論陣を張っている。

 これは松平の記述とは大分違うという印象を受ける。
 まず、そもそもの発端は野満の論文にある。松平は単に「又日高さんが若い頃静振の論文を発表された所」としている。たしかに「海と空」への寄稿は日高に始まるわけだが、それは以前に発表された野満論文へのいわば反論として始まっているわけである。
 また、野満と日高の食い違いは、野満原論文中の"can not apply"という言葉を日高が「積分困難」と解したことに始まっている。単なる言葉の解釈の食い違いであって、「科学的論争」とは言い難い面がある。むしろ「子供の喧嘩」の感さえある。
 このように、松平の記述には客観的に見て正確さを欠く所があり、このため「技師幹部から京都大学の教授の論文なんか掲せない様にとの注意をうけ」という記述にも疑念が生ずる。むしろ「技師幹部」はこのような「子供の喧嘩」で紙面を汚すな、と注意を促したのではなかろうか。

野満隆治「氷海内の海流に関し日高孝次氏に酬ゆ」(「海と空」第13巻第9号)要旨
 吹送流発生に関する理論。
 運動方程式は
  ∂w/∂t+iλw=(k/ρ)∂2w/∂z2   (1)
 ここで
  w=u+iv
    u,v:x,y方向の流速成分。
  λ=2ωsinφ (コリオリ因子)
    ω:自転角速度
    φ:緯度
  k:仮粘性係数
  ρ:(海水)密度
  z:水深(海面から下向きにとる)
  i:虚数単位
 野満以前に Fjeldstad は表面(z=0)において速度に比例した反力を考えた。
  ∂w/∂z−rw=−iT/k,z=0    (2a)
 ここで
  T:風圧
  r:比例定数
 野満はこれに対して、加速度に比例した反力を主張した。
  k∂w/∂z−σ∂w/∂t=−iT, z=0    (2b)
 ここで
  σ:氷の面積密度
 問題は運動方程式(1)を境界条件(2a)および海底(z=h)において
  w=0、z=h     (3)
 初期条件
  w=0、t=0     (4)
のもとに解くことである。

 野満の採った方法は以下のとおりである。
 wを定常部分w1と減衰部分w2に分ける。
  w=w1−w2     (5)
 w1としては Ekman の定常流を採用する。
  w1=K sinh(a(h−z)), a=(1+i)(ρλ/(2k))1/2, K=iT/(ka cosh(ah))   (6)
 このときw2は微分方程式
  ∂w2/∂t+iλw2=ν∂22/∂z2, ν=k/ρ   (1')
 を満足し、次の3条件に適するものでなければならない。
  k∂w2/∂z−σ∂w2/∂t=0, z=0    (2')
  w2=0、z=h     (3')
  w2=0、t=0     (4')
 (1')および(3')を満足する解は
  w2=Σn=1nsinβn(h−z)exp(−(νβn2+iλ)t)   (7)
であるが、条件(2')より
  −kβ cos(βh)+σ(νβ2+iλ)sin(βh)=0    (8)
 これはiを含むから、βは当然複素数である。したがって(8)はβの実部と虚部の連立方程式である。
 何らかの方法で(8)からβを求めれば、
  An={<w1>(σ/ρ)sin(βnh)+∫0h<w1>sin(βn(h−z))dz}
         /{h/2−sin(2βnh)/(4βn)+(σ/ρ)sin2(βnh)}  (9)
ただし、
  <w1>=Σm=1AAmsin(βmh)
は海面における定常流で、既知である。

 野満は、(8)でβを求めることや、(9)でAnを求めることが「実行頗る困難であるから暫く発表を保留した」としている。つまりここに、日高が「積分不能」と解釈した発端がある。
 しかし、どの程度に困難であろうか?今、(8)式中の虚数項の係数λはコリオリ因子で、〜10-4というかなり小さな値である。そこでλ=0の場合を考えてみる。このとき(8)は次のようになる。
  cosγ−cγsinγ=0      (10)
 ただし
  γ=βh,  c=σν/(kh)=σ/(ρh)    (11)
 これが実数解を持つことは容易にわかる。このためには、(10)を次のように書き換える。
  cotγ=cγ
 グラフを描いて y=cotγ と直線 y=cγ の交点を求めれば良い。γ>0の側では、区間[0,π/2],[π,3π/2],[2π,5π/2],・・・にひとつずつ解があり、γ<0の側では[−π/2,0],[−3π/2,−π],・・・にひとつずつ解があることは容易にわかる。
 一方、(10)には純虚数の解は存在しない。何故なら、γ=iα とおくと
  cothα=−cα
となるが、y=cothα のグラフはα>0の側ではy軸およびy=1を漸近線とし、α<0の側ではy軸およびy=−1を漸近線とする。これと y=−cα とはc>0である限り交わることはない。
 実数でも純虚数でもない解は、確認していないが、たぶんなさそうに思われる。こうして、λ=0の場合の解が実数に限られるなら、λ〜10-4のように小さい場合には、解は複素数になるとしても実数に近い(虚部は小さい)であろうと推論できる。つまり
  γ=α+iδ,  |δ|≪|α|     (12)
と考えて良いであろう。そこで、(8)を(11)のγを使って書き換え、
  γcosγ−(cγ2+iλ/h)sinγ=0
γに(12)を用いて、δの高次の項を省略すると
  αcosα−cα2sinα+(h/k)λδcosα=0                (13.1)
  δ{(1−cα2)cosα−(1+2c)αsinα}−(h/k)λsinα=0      (13.2)
 これらはδに関して1次なので、どちらかから容易にδを消去して、αだけの方程式を得ることができる。もっともλも微小量なので、(13.1)中のλδも高次の微小量として省略すれば、これは(10)式と同じものになる。つまりこの場合解の実部はλ=0の場合の実数解で代用しても近似的には正しい。そして(13.2)によって虚部δが求められる。

 以下にこれを試算してみる。まず、(13.1)でλδの項を無視した方程式は、野満も述べているように「図解法なり暗探法なり」で解くことになるが、ここではカンニングして、Microsoft Excell の「ゴールシーク」機能を利用した。
 c=0.01とすると(これはσ/ρ〜1としてh=100mの場合に相当する)、0付近の解として
  α=-4.95367, -1.5962, 1.546869, 4.511591
が得られる。
 次に(13.2)によってδを求めるが、今、たとえばλ=2ω=1.45444×10-4(つまり緯度90°での値)を用いる。kの値は不明であるが、これを変えていくと以下のようになる。
α-4.95367-1.59621.5468694.511591
δδδδ
0.10.0277650.087994-0.09357-0.03276
10.0027760.008799-0.00936-0.003278
100.0002780.00088-0.0094-0.00033

 このように、k>0.1 の広範な値に対して、|δ|≪|α|という条件を満たす解が得られる。すべての解についてこれが可能かどうかはわからないが、かなり希望は持てる。
 このようにいくつかのγ(したがって(8)式のβ)が得られれば、後は(9)式の計算だけである。これはかなり面倒ではあろうが(特に手計算では)、「頗る困難」と言うほどではないように思われる。
 一方で日高の「無限項数を含む行列式の根を求むる」という手法は、たしかにちょっとやる気になれない。