なんばりょうすけの
おぼえがき日記 (3)

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1998

[8-24]
[7-20]『ダ・ヴィンチ』8 月号の記事「宮台真司にシンクロし、自殺したA君の絶望」に対する私のコメントについて、A 君の友人という方(仮に K さんとします)から不快感を表明するメールを頂きました。

読み返してみると、確かにあまりに冷たく突き放したような表現で、 A 君を馬鹿にしたようにもとれる表現です。生前の A 君と関係のあった人が見れば不快に思うのも無理はないと思います。個人のホームページとはいえ、そういう立場の人が見ることが有り得るということについて配慮が欠けていました。申し訳ありません。

しかし、単に発言を撤回しただけでは態度としてはむしろ不誠実だと思いますし、誤解が誤解のままになってしまうのは私にとって苦痛です。K さんからは発言を削除して欲しいという訴えがありましたが、話し合いの結果、ああいうふうに書いた私の真意について誤解のないように説明することをお許し頂けたので、以下に私があの記事をどう受け止めてコメントしたのかを説明します。


『ダ・ヴィンチ』 7 月号の巻末の予告にあった表題を見てまず「あまり読みたくない記事だな」と思ったし、実際 8 月号の記事を読んでもあまりよい気持ちはせず、どちらかというとイライラした、というのが正直なところです。少なくとも「悲しい」とか「かわいそう」とは思いませんでした。

良識的な宮台ファンなら「自殺せず生き延びてくれれば語り合う機会もあったもしれないのに!」などと感じるべきなのでしょうか? あるいは宮台原理主義過激派を自称するファンなら「彼の自己決定に口を挟む余地はない。」の一言で終りにすべきでしょうか?

あの記事を読む限りでは A 君は死にたくないのに死なざるを得なかったわけではないようです。言い換えると「自分はこの世界に生きるに値しない」と思ったのではなく、「この世界は自分にとって生きるに値しない」という認識から、自分の意志で死を選んだのだと思います。

もちろん A 君は私に「自分」や「世界」について何かメッセージを伝えるために死んだのではありません。私と A 君は単に無関係なのです。外的な要因が誰かを死に追いやったのならば「自分が同じ状況に置かれたら」と想像し、その誰かの痛みに共感することに意味はあるとは思います。が、A 君の死についてはそのように共感することは困難だし、共感したくないとも思いました。

A 君の死については「同情」だとか「悲しみ」だとか、共感に基づくような感情はあまりわかなかったのはそういう理由だと思います。もちろん、生前の A 君と関係のあった人にしてみれば、A 君の方から一方的とも言えるやり方で自分との関係を断ちきられたわけですから、彼の世界観に対する共感というのとは別の意味で色んな感情がわき起こることと思います。でもそれは私の感情ではありません。

ですから、自分でない誰かになりきったり、誰かの立場を代弁したりする言葉ではなく、私の個人の立場から発する言葉としては実際「いるんですね、そういう人」という程度が適当だろうと思いました。少なくとも自殺ではなく他の行為ならばその程度のコメントになるでしょうから、相手の意志を尊重するという意味でも、死んだ A 君に対しても同じような態度で望むのが適当だろうとも思いました。

色々書きましたが、あのコメント自体は上に書いたような考察の結果から書かれたものではなく、ほとんど無意識的に自分が表現したい気持ちを言葉にした結果です。そのときの心の動きを理屈で追いかけると上のようになるということです。


しかし、K さんにも指摘されたのですが、そもそもなんでコメントする必要があるのか、という批判もあってあたりまえだと思います。無関係な A 君の死について下手にコメントして A 君に関係ある人を傷つける危険を犯すのは愚かではないか、と。

実際愚かで傍迷惑な行為をしている思います。でも、無関係とは言いながら、黙ってはやりすごせない何かを感じてしまったのもまた事実なのです。

K さんは私宛のメールの中で『ダ・ヴィンチ』の記事について「確かに宮台氏の言葉の引用が多々あったかもしれません。だからって、宮台氏の信奉者だのと言わないでほしい。」とおっしゃっていました。私も A 君を「信奉者」というのはおかしい気がします。

「宮台氏の信奉者」(例えば私のような)は、 A 君とは世界観をある程度共有しているとは思いますが、なにしろ「信奉者」なので宮台氏の言葉に打ちのめされつつも、救いを感じたり知的興奮を覚えたりして、宮台氏の次なる言葉を心待ちにしてしまうような人、というふうに私はイメージしています。

一方の A 君は「宮台氏」を「信奉」しているのではなく、宮台本をガイドブックがわりにして自分の世界観を確認していただけなのではないかと思います。

確かに A 君は「信奉者」からは程遠いのですが、しかし、世界を指さし「無意味」と言い「誰かが真理を知っているなどと思うな」と言う、その宮台氏を「信奉」してしまうという矛盾を抱えている「宮台氏の信奉者」に比べれば、その態度と宮台氏の言葉との整合性という点で A 君は(A 君自身の意志に関わらず)より「宮台的」に見えてしまいます。

「宮台的」になればラクになれるんじゃないか、世界や自分を肯定できるんじゃないか、と思って宮台氏の言葉をむさぼり読む「信奉者」が、宮台っぽさの純度を高めていくと、やがては A 君の境地に到達してしまうのだとすれば、まるで悪い冗談のようです。

私が A 君に共感できない、共感したくない、というのはそういうことです。自殺という結論に対して「なんでそうなるんだよ!」と文句の一つも言いたくなる一方で、そうなるわけない、と確信もできず、気持ち悪さが残ります。そういう気持ち悪さに対する反応を抑制して、何事もないかのように記事紹介だけする、というのは私にはできませんでした。

それでああいう形で言葉にして無害化してやり過ごしかけたわけですが、悪いことはできないもので、結局 K さんのメールに打ちのめされて、またこの気持ち悪さに直面するはめになってしまいました。

最近の『ダ・ヴィンチ』 での宮台氏の発言に、アノミーは死を選ぶ正当な理由にはならない、というような話がでてきますが、もうひとつ納得できずにいます。

[8-2] 無自覚な共同性
前回の掲示板の話ですが、結構反響がありました。概ね掲示板のイヤさという点には同意するものでしたが、「なんばさんこそ NetNews に戻るべきでは」みたいな鋭いツッコミもありました。うーん、耳が痛い。。。春頃に一時的に fj.soc.men-women に少しだけ投稿してましたが、最近はどうも気力がなくて戦闘モード?に入る気にならないんですよ。

日記に書きたいネタも色々溜ってるんですが(「意味と強度」のはなしとか「性的弱者」のはなしとか)、なかなか文章にするだけの気力がでてこなくて、だいたい頭の中でぐるぐる考えながら眠くなって寝ちゃったりとか、そんなんばっかし。

それとやっぱり、投稿してどうするんだ? っていう意味の問題もあります。今までは自分を鍛えるためとか、問題に対する理解を深めるため、とかそういう意味付けで気力を補うようなことをしていましたが、最近はそういうふうには意味を感じられないのです。

以前は「逃げちゃダメだ!」的に自分を奮い起たせて積極的に NetNews の議論にコミットしていたし、構造鳥瞰掲示板で大月隆寛とケンカした時も胃が痛くなるような思いをしながら書込みしてたんですが。

さて、宮台真司補完計画 での論争相手の佐藤さんが、ゲーム物言い壇の掲示板に「掲示板の宿命について」という投稿をしていました。
(thanx! > テラゾーさん)

だいたい私と似たようなことを言っていたのですが、共同性に対して共同体のメンバーが無自覚な点を問題にしているところが鋭いです。

そう、逆に自覚的であれば、佐藤さんが例に挙げたような「みんなが思ったことをそのまま言っただけで袋叩き的な構図ができてしまった」という問題は事前に回避できる可能性があるのです。

実際似たようなケースで、チャットで常連が集まって、袋叩きにならないように誰がどういう反論記事を書くか、事前に協議しておいて穏便に事を運んだ、という経験があります。こういうのもそれはそれで気持ち悪い気もしますが、共同体の外側にいる人たちに配慮するのは共同体の責任だと思います。もちろんこういう事前協議、根回し的な行為は共同性を確認し共同体を維持する方向に機能するのですが。

[7-25] 掲示板とか欲しいですか?
Windows98 日本語版も発売になった今日このごろ、皆さんいかがお過ごしでしょうか。ていうか、早速アップグレードなんかしちゃいましたか?

ちなみにこの日私は一念発起して、

しました。WindowMaker 超かっこいい! 今までは Win95 モドキの fvwm95 使ってましたが、Win95 も過去の OS になったので変えてみました(って NeXTstep も本当に過去の OS だけど。。。)
NeXT モドキというと最近 Linux のディストリビューションでよく見かけるAfterStep がありますが、こいつはどうも中途半端(見た目は NeXT っぽいけど、触り心地がかなり違う)で敬遠してきました。でも WindowMaker はいいです。もうラブラブです。

オタクな話はこれくらいにして、このホームページに掲示板とか欲しいっていう要望がたまに来ます。掲示板の管理(というか掲示板荒し対策)が面倒なら宮台メーリングリストを作ってはどうかって話もあります。

こういう要望に対して私は今まで以下のような理由で否定的な回答をしてきました。


気持ち悪いんじゃないか: いきなりひどい言い様ですが、学生時代にいくつかの電子的なコミュニティに関わってきた経験からすると、「気持ち悪い共同性」とでも呼びたくなるようなイヤな雰囲気ができることがよくあります。

知らない人のいるところで内輪ネタで盛り上がったり、ネチケット (ネットのエチケット)を守らない奴を激烈に攻撃して盛り上がったり、あと勝手に兄弟増やしてくれる女の子が出現したり、ってそれはどうでもいいか。

特に外からの攻撃に対して一致団結しがちというのがとてもイヤなのです。なんというか、相互理解が得られないという悲しむべき状況の中で、盛り上がる、時には怒り狂う、というのが気持ち悪いです。

喧嘩は外でやればいいんじゃないか: 喧嘩、といったら失礼ですが、宮台掲示板ともなるときっと議論や論争がすごいことになるに違いありません。ていうか、ファンクラブノリだけで議論もしない宮台掲示板なんて意味ないです。え? 意味より強度? うるさーい! オレは意味がないとイヤなの。文句ある? あるよね、ゴメン。。。

意味のあるなしはさておき、例えば宮台ファンといった偏りのある連中が集う掲示板で議論するのってどうも無理がある気がします。昔宮島さんがやってた構造鳥瞰掲示板なんてのもありましたが、いくら掲示板オーナーが「ここは中立でオープンです」みたいに宣言してみても、対立する立場から議論をふっかけたりするのは抵抗ありますよね。

どうしても純粋に議論というよりは共同体に対する攻撃ととられがちです。私くらい宮台ファンになってくると宮台に対する攻撃が自分の痛みになってしまうくらい(もちろんこれは宮台主義者としては間違った態度ですが)ですから、それを仲間同士で危機感を補強しあって熱くなるのは避けたいです。感情のもつれで議論が発散すると一気に議論がつまらなくなりますから(喧嘩のヤジウマにとっては面白くなるのだけど。)

で、本当にオープンな議論をしたいのなら、NetNews でやればいいんじゃないかと思うのです。もちろん NetNews でだってひどい喧嘩はしょっちゅうなのですが、ここは議論をする場なんだという前提が共有されているので、無茶をする人は敵味方関係なく叩かれます。仲間内で「だよねー」的になれ合いの議論モドキをするくらいなら NetNews で泥沼の論争を繰り広げるほうが色んな意味で面白いと思うのですがどうでしょう。


とはいえ、「でも他の宮台ファンがどんな人なのか知りたい」という声もありました。確かに私自身は宮台ファンの方々からメールを頂いて、そのうち何人かは継続的にメールをやりとりして世間話や、時には議論もするというのに、それらの人たちの間には何のコミュニケーションもないというのは不公平、ていうかオレって卑怯?

そこでとりあえずリンクのページ を作ります。まだ内容は空ですが、私にメールを下さる方で、リンク掲載希望の方はそのように明記してください。ホームページがない方も、メールアドレスのみのリンクも受け付けます。リンク掲載に際してコメントがあればそれも一緒に載せます。

[7-20] ハッピーフォビア
7/12 に、東京在住の彼女(重度の宮台ファン)と一緒に西葛西の講演会に行ってきました。生宮台は約2年ぶり2回目(初体験は96 年の関西大学のイベント。)

講演の詳細はまたまとめるつもりですが(って、関西大学のイベントのレポートも結局まとめてませんが。。。)、宮台氏は少年法改正問題、児童ポルノ規制法案問題、学校・専業主婦問題、などについてお話ししていました。

で、スタッフ席に怪しいナリをした若者(茶髪にサングラスで今時の若者風だけど、妙に大柄で健康的)がいるなぁと思っていたら、このホームページにも何度も情報提供メールをくれた、及川さん( 『週刊金曜日』『創』『噂の真相』に執筆経験がある怪しい高校三年生。近く『SPA!』の中森文化新聞で紹介されるとの情報もあり)でした。

この人、自分でこのページにタレコミしといて、『噂の真相』に「インターネットでこんな情報が駆け巡っている!」とか書いちゃう楽しい人なんですが、宮台の側近?みたいに振る舞っていてなかなかあなどれません(笑)

質疑応答の時にせっかくなので手を挙げて質問したのですがこの時に「徳島から来ました」と言っておいたのが幸いして? 講演会終了後、宮台氏に声をかけて頂きました。短い時間でしたが、ホームページの運営についてお礼の言葉を頂いたり、世間話(「お互い太りましたねぇ」とか) をしたりして楽しかったです。

ここ二週間ほど、この宮台氏との再会や、その他色々幸せなこと、楽しいこと、どきどきすることなど、かなり濃度の濃い日々が続いたのですが、ちょっと疲れてしまいました。怖くなってしまった、というのが正解なのかな?

刺激が多いとそれに対するリアクションを自分の中で捌ききれなくてじれったくなります。幸せな刺激に流されて「らしくない」反応や行動をとってしまうのも何か腑に落ちない感覚が残ります。そして、幸せはいつまでも続かない、という過去の経験からの強迫観念にも似た思いに襲われます。幸せの終りは当然怖いのですが、幸せな時期にとった態度と、幸せでなくなった後の自分の感覚の不整合の予感がより不安です。

幸せな自分は本当の自分なのか? 信じられない、という感覚。時には幸せに抵抗する必要もある、という考え方は間違っているのでしょうか。

[6-28] 寄生獣問題その他
先月はじめごろからずっと書こう書こうと思っていながら書きそびれていたことなんですが、『学校的日常を生き抜け』で、どうしても納得いかない点があったので「ボクは殺してもいいのか? ─『寄生獣』のラストを巡って ─というのを書きました。『寄生獣』をまだ読んでなくてネタバレはイヤ、という人はうっかり読んでしまわないようにしましょう。

結局宮台氏の言いたいことについてはオッケーなんですが、引き合いに出す部分が違うんじゃないか、というような内容です。

[6-14] の広末ネタについて結構反響がありました。どうもありがとうございます、ていうか、なんだかご心配かけてしまったようで申し訳ありません。このところちょっとばたばたしていたのでお返事が遅れていたのですが、これから順次お返事します。

[6-27] 世界を革命する力を! (政治的に正しいLinux主義 その2)
先週の土曜日にTokyo Linux Fairに行ってきました。とても盛況で、濃ゆくて誇らしげな人たちの熱いトークも聞けて、たいへん満足しました。なんか茶髪の怪しいにーちゃんがいるなと思ったらおごちゃん(日本Linuxユーザ会理事長)でした。びっくり。あと、質疑応答の時間に名前を名乗って質問したので、後で GNUstep 関係の ML でご一緒していた人が声をかけてくれて、色々お話できました。やっぱり、こういう集まりって楽しいですね。

(Java な人たちもそうですが、)Linux な人たちの集まりは単に趣味な人の集まりというわけではありません。単に自分の趣味というよりも、自分の好きなものが世の中に認められていくのが快感なのです。もっと言うならば、Linux で世界が変わるかもしれない、Linux 革命に何らかの形で(開発者としてでなくても、生き証人として)自分も関わりたい、という想いがあるのだと思います。もちろんぼくもそういう気持ちなのです。

このあたりが、Linux コミュニティが他のハッカー的なサブカルチャーとは違う部分だと思います。仲間で盛り上がれればそれで OK 、ではないのです。

このページを読んでいて、ボランティア活動とか、社会運動とかやっているアナタ! Linux はいいですよ! Linux とエンゲージすれば世界を革命する力を手にいれることができるのです!

Windows なんて使ってていいんですか?[1] 便利だから Windows を使う、みんなが使ってるから Windows を使う、ということ自体は何も悪くないです。買春それ自体が悪くないという程度には。でも Windows を使うことがあなたのポリシーに矛盾しないかどうか是非一度考えてみて欲しいのです。

って、 [6-7] で言ってたのと逆のことをやってるようですが、なんというか、まずは人と違ったことを敢えてやれるだけのポリシーのある人に使ってもらうしかないと思うんですね。確かに Fair の盛り上がりからしても Linux ユーザーは凄い数がいるんですが、その内実は専ら理系の職業の人たちで、文系の人ってまだまだ全然少ないです [2]

さらに言うと女の子が少ないのもなんとかしてほしいです。こんなことフェミニストが聞いたら眉をひそめそうですが、やっぱり女の子の役にたつってなると、現実に開発者も気合いの入りが違ったりもしますので。

とにかく、Linux は一年以内に大ブレイクすることは間違いないでしょう。先日は『週刊プレイボーイ』ででかい記事が出てましたし。宮台真司も週プレに出てから一年ほどでブレイクしましたし、教祖・おごちゃんも茶髪だし(笑)。


[1] え? Windows 使ってて何が悪いの、って? そのへんは 中村正三郎の Hot Corner!や、がんばれ!!ゲイツ君などをご覧下さい。どちらもかなり口調が激しい傾向がありますが、宮台ページを見てるようなアナタなら読んで不愉快というほどのものではないでしょう(笑)
[2] ちなみに前回ここでLinuxの話を書いた時の反応は「彼氏が Linuxやってる」という女性のメールが一通来ただけでした。あ、文系じゃないけど名取さんの宮台ページにもLinuxの話を書いてたっけ。


[6-14] この想い彼女にとどけ!
まず最初に、 [5-31] で紹介した 赤川さんの件ですが、どうやら学者の仕事が見付かったようです。なにはともあれおめでとうございます。

今日は広末涼子の話をします。宮台は「広末は安全・人畜無害」みたいな事を言っていますが、ぼくにとっては広末は危険極まりない存在です。宮台が言いたいのは少女幻想を安心して投影できる対象として広末はとてもよくできている、というようなことでしょうけど、それについてはその通りだと思います。しかし、そうであればこそ「少女の現実」をおそるおそる受け入れようとする(ぼくのような)気の弱い男の子にとって、広末の存在は誘惑に満ちたとても危険なものであるはずです。ていうか、一言で言うとたましいに悪いって感じ?!

はじめて広末のグラビアを見たとき、それこそ魂を持っていかれそうな衝撃を受けました。それまでだったら気に入ったアイドルのグラビアの載ってる雑誌は速攻買いだったんですが(おかげで読みもしないヤンジャンを何冊買ったことか)、この時ばかりはどういうわけか買えませんでした。

理由は自分でもよくわかりませんが、怖かったんです。ハマるのが怖かった、というか、この先広末が色んな雑誌のグラビアに載るだろうし、写真集も出るだろうし、テレビにもいっぱい出るだろうし、一度これに手を出したらそういうのをずっと追いかけていくんだろうか、追いかけずにはいられないんじゃなかろうか。いくら追いかけても手が届くわけじゃなかろうに、それって辛いんじゃないか。って、説明するとこんなふうにしか言えないんですが、それだけじゃない、何か名状しがたい怖さを感じていたのです。

以来、雑誌の表紙に、あるいは年末に紀伊国屋で売ってるカレンダーに広末をみつけるにつけ、まともに顔を見れない状態になっていました。胸が締め付けられるような痛みを感じて、半ば反射的に目をそらしてしまうのです。

当時つきあっていた彼女がその様子を見てえらくご立腹で、「ポスターに頬擦りして『ヒロスエ好き好き〜』とかやられたほうがまだマシ」などと言われたりしました。

で、今ではリハビリの甲斐あって、広末が出てるヤンジャンとか、週プレとか、『non-no』とか、『中学一年コース』とか、『ゆかた本 '97 夏 (日本ヴォーグ社)とか、ためらうことなく買えるようになりました、ってハマってるじゃん!

しかも『ゆかた本』なんて去年の夏に買って、未だに書店のビニール袋未開封の状態で持ってるし、他の雑誌類も一度開いてすぐ本棚に戻してるし。なんなんでしょう?

何より不気味なのは、こんだけ広末に心揺さぶられながら、グラビア以外のインタビューとかそういうのは一切読まない(というか読めない) こと。出演してる映画とかドラマとかもほとんど見る気ないし、なんかまるで広末のことを人間扱いしていないみたいですね。

そう、確かに人間扱いしてないんです。というか人間であって欲しくない? つまり象徴なんです、ぼくの中の少女のイメージの。象徴だから自己主張したり、人間的だったりしちゃだめなんです。だってそうでしょう? たとえば天皇が戦争責任とか言われても、そんなことぼくにはわかんないよ!とか激しく心情吐露しちゃったりしたらマズいでしょ? 象徴ブチコワシでしょ?

しかし最初に広末を見て感じたあの怖さ、ぼくが目をそらして直視できなかったものの正体は何だったのでしょう?

いつの頃からかぼくの心の中には、言葉もろくに交わしたことのない女の子に過剰な思い入れを抱くことにブレーキをかける仕組みが構築されました。古きおぞましき欲望は封印されたかに見えました。不器用ながらも女の子とつきあえるようになりました。でも、「愛してる」の一言を、どこか違和感を感じながらしか言えなかったのも事実でした。

幻想のカケラが、愛ってコミュニケーションを越えたなにものかではないのか、コトバに汚されない気持ちこそ本物なのではないか、という思いがまだ微かに残っていたのだと思います。広末を見たとき、ぼくはその微かに残った幻想が増殖し続ける癌細胞のように心の中に広がっていく予感に恐怖したのかもしれません。

うゎ気持ち悪っ、愛とか語ってるよ。やだなー。

それはそれとして、なんで「恐怖」なのか、陶酔とか歓喜とか、あるいは発情とかじゃなくて恐怖なのか、という点が全然不明確ですね。これじゃ結局なんにも言ってないのと同じじゃないの? そのへん、なんとなくわかってはいるけど今は書く気になれないので、今日はこれでおしまい。

[6-7] 政治的に正しい Linux 主義(その1)
たまには政治の話でもしましょう。

Linux [1] が流行っています。パソコンマニアが苦労を楽しむ、あるいはお勉強のために、OS のインストールや環境設定に苦労する、という状況を脱して、使える道具として Linux が選択されたり、あるいは Linux を使える道具に仕立ててビジネスにしようという動きも活発になりつつあるようです。ここ徳島でも春あたりから書店などで TURBO Linux や Redhat や Slackware のパッケージを見掛けるようになりました。

昔は「UNIX ユーザーはなんでもフリーソフトで済ましてしまうから商売にならない」みたいに言われていたのが、Linux に関しては商用のビジネス系アプリケーションが出て来るようになりました。またサーバー用途としてはゲリラ的には(フリーソフトの導入は自己責任でやらなくてはならないので上司の承認を得られないことが多々ある)相当使われているそうです。

また、映画『タイタニック』の CG の多くは Linux で作成されました。DEC が「タイタニックを沈めたのはDEC です」と CG に DEC のワークステーションが使われたことを宣伝していますが、実際には(マシンは確かに DEC 製ですが) DEC の純正 OS ではなく Linux が使われていたのです[2]

こういう動きは、昔から Linux の開発を支援したり、Linux コミュニティを盛り上げてきたりした、多くのボランティアの努力の結果だと思います。実際 Linux のコミュニティでアクティブな人たちは、単に仲間内で盛り上がろうというレベルを越えて、Linux の良さをいかに多くの人に伝えるか、いかに普通の人に Linuxを使ってもらうか(= いかに Linux を普通の人にとって魅力的な OS 環境にするか)という視点で活動していました。そしてそういう視点の政治性をはっきり自覚もしていたのです。

政治と言えば、最近の若い人は政治に関心がない、選挙にいかない、などと批判的に言われることが多々ありますが、バカバカしい話ですね。「政治に」関心がある人が選挙で投票する、という状況のほうがむしろ問題です。

Linux コミュニティのボランティアたちの多くは業界の「マイクロソフト一党独裁」に反感を持っていますが、「業界に」関心のある人にアピールするような活動よりも、「使える道具に」関心のある人にアピールすることに注力してきました。日本の政党の政治家はどうでしょう? 「政治に」関心のある人ではなく「快適な生活に」関心のある人たちにアピールするような活動をしているでしょうか?


[1] Linux (日本のユーザーグループのホームページはこちら[Join JLUG!] )は、Linus B. Torvalds (torvalds@kruuna.helsinki.fi)さんを中心としたインターネットのボランティアプログラマたちが作ったフリーの UNIX 互換 OS です。

OS としては Windows NT と同等以上の機能と性能を持った OS で、フリーソフト(自己責任のもとで自由に複製・使用してもよいソフト)ながら信頼性・安定性に定評があります。

ちなみに『宮台真司とその思想』は、ずっと Linux で作っています。

[2] 「タイタニックをリアルにしたのは Linux だった!」 『LINUX JAPAN』 Vol.7 1998


[5-31] つまらないモノですが。。。
まずは悲しい?お知らせから。

社会学者の赤川学さん(セクシャリティ関係の研究者で「オナ学者赤川」として一部で有名。 [B.1996c] ではオナニーについて、 [B.1996d] では AV についての論文があります)が、現在勤務中の大学を辞められるそうで、 ご本人様のホームページにて求職中です。希望職種には「風俗ライター」とか「パソコンの使い方講習」とかもありますが、せっかくの人材ですので、是非とも社会学者か社会学系の文章を書く仕事に就いてほしいです。

新着情報 [5-31] で紹介した『超コギャル読本』の二つの宮台評論記事は、こういう記事が出てくる事自体が宮台の仕事が一つの節目を向かえたことのあらわれなんだと思います。

二つの記事が共通して批判しているのは、宮台がいくら理を説いたところで人は(少なくとも今の日本人は)愚かな吹き上がりをやめようとはしないのではないか、この国は緻密な行政理論や法理論に基づく言説が政治的実効性を持つような国ではないのでは?、というものです。

少女売春について、小浜氏の「「人性」のしょうもなさについての文学的、人間論的な認識を深め、広めること」が大事、という主張は全くもっともなことだと思います(でも宮台の「政治的な」言論を思想的につまらないとか言ってみてもしょうがないのでは?)。しかし、それは少なくとも誰かが「思想」として頑張って広めるような性質のものではないでしょう。

日常的なコミュニケーションの中での実感でしか人間論的な認識なんてものは深められないと思います。もちろん思想家や評論家は実感に言葉を与えることで認識を加速することはできますが、それに先立って「人性」のしょうもなさについての忌憚のないコミュニケーションが多くの人の間で実際になされてなくては無意味です。

宮台が問題にしているのはむしろ、そのようなコミュニケーションが阻害されがちな状況をどうにかしようということです。言い換えれば小浜氏の言うような「人間論的な認識」はシステムの安定化要因ではあっても、システムを望ましい状態に移行させるための最初の一撃ではありません。

実際、法律や行政のタテマエがオヤジ世代の脆弱な「人間論的な認識」を保護してきたわけですから、社会のタテマエの傘を取り払わなければ彼らが「人間論的な認識」を深めるようなコミュニケーションにコミットせざるを得ないような状況は生まれません。宮台が専ら上からの改革に期待し、官僚がそのまま流用できそうな言葉のライブラリを提供しているのはそのためなのではないでしょうか。

まぁ、こういう議論自体も全く思想的じゃないし、つまんない ですよね。ホームページのタイトルが『宮台真司とその思想』なのに思想的じゃないのはダメ?

[5-21] 不安な足元
いろいろ忙しくて、また 2 週刊以上間があいてしまいました。仕事で英語の仕様書を読んでその概要を文書にまとめるというのをやっているのですが、私の場合英語を読むのは日本語を読むのに比べて3倍はエネルギーを消耗するので、家に帰るともう文章を読み書きする気力が残ってなかったりします。

今日は健康診断で血を抜かれてふらふらしてるのでさっさと帰ってきました。残業すんなとも言われているし。

そういうわけで色々メールを頂いてますが、お返事できてません。ごめんなさい。ここ二ヶ月ほどは返信率が 20% 以下じゃないかな? 以前はほぼ 100% 返信してたんですが。。。頂いたメールは捨てずに全部とってあるので気長に待っててもらえるとありがたいです。

言い訳はこのくらいにして、最近の宮台ですが、いろんなところで自らの方針転換を口にしています。以下『ダ・ヴィンチ』 6 月号の「宮台真司の世紀末相談の話から簡単にまとめます。 かつての宮台はオヤジ世代が引きずっている幻想を徹底的に打ち砕くことで不安を煽る戦略をとっていたといいます。「アンタが地面だと思っているものは、実は地面ではない」と。

オヤジ世代が幻想にしがみつくのは、傷付き不安だからこそなのですが、傷付いた彼らを癒してしまっても癒しを必要とするような社会の問題は手付かずに残ってしまうから、敢えて社会の問題をどうにかしない限り拭えないような不安へと追いつめるのだというのです。

が、しかし、北風と太陽の寓話ではありませんが、結果的にはオヤジ世代はよりタチの悪い幻想にしがみつき、淫行条例やテレクラ規制を成立させることになってしまった、と宮台は反省しています。

地面が崩れてしまったからといって浮遊してられる奴らばかりではないので、たいていの人は別の地面を求めてどこかに着地します。着地する先が前の地面よりマシかというと、それは自明ではありません。

以前であれば着地までは面倒見ない、空中で不安に明け暮れる人を癒すのも自分の仕事ではない、というのが流儀だった宮台ですが(少なくとも私はそう思ってました。補完計画を参照)、ここにきて、「癒し」や「個人的実存」を問題にしようとしています。『終りなき日常を生きろ』 [B.1995a] 「まったり生きれないボクはどうすればいいんだ!」というイケてなさげな少年の叫びに対して宮台の口から返事が返ってくるのでしょうか。

私自身はどうかというと、結局中途半端なところに着地してしまいました。うまくいけば輝かしき未来を手にできる可能性がありそうで、うまくいかなくてもまったりできるかな、と思っていたのですが、結局問題を先延しにしていただけだったかもしれません。今になって再び、より切迫した状況で(あの頃はもうこれ以上切迫した状況はないかと思っていたんだけど)選択を迫られそうな気配です。。。

[5-5] 会社的日常を生きぬけ!
[4-22] で予告した通り、ゴールデンウイークに東京に行ってきました。せっかく東京に来たんですが、渋谷で社会学的フィールドワークはやらなくて、吉原で 90 分総額 30000 円(インターネット割引価格)もやらずに、神保町の本屋巡りと秋葉原巡りをやってきました。

神保町では徳島ではまだまだ手に入りづらそうな本を買ってきました。 実はまだ買ってなかった宮台の新刊『〈性の自己決定〉原論』『学校的日常を生きぬけ』、宮台の対談記事が載っている『木野評論』、あとがき目当てで『終りなき日常を生きろ』文庫版を購入。このうち『学校的日常を生きぬけ』は秋葉原の喫茶店やら帰りの新幹線やらでちびちび読みつつ読了しました。 『新人類、親になる』三浦展(小学館)は連休前にご本人様? より「読んでね」ってメールを頂いていたので購入。まだ読みかけですが、参考文献に宮台本( [B.1997a] [B.1995a] [B.1994a] [A.1997y] )が! ちなみに三浦氏は『色と欲』 [B.1996d] にも書いている(「欲望する家族・欲望された家族」)人です。

あのプチ論壇系ライター佐藤賢二宮島理両氏が書いてる『ポケモンの魔力』 大月隆寛 + ポケモン事件緊急取材班(毎日新聞社)も買いました。これもまだ読みかけ。

秋葉原にはパソコン関係のパーツショップが目当てで行きました。下調べとかほとんどせずに行ったのですが、ソレ系の人の後を尾行したり、ソレ系の人の沸き出し口を逆トレースしたりしたら全然オッケーでした。そうやってたどり着いたお店の一つぷらっとホームでちっちゃいキーボードを購入。これでキーボードの横にカップヌードルとか安心して置けます。

同じくぷらっとホームにて、かな漢字変換プロセッサWnn6 for Linux/BSD を購入。今までずっとフリーの Wnn4 を使っていたのですがこいつの辞書は文系の語彙があまりに貧弱で、特にこういうホームページを書いてるとストレスが溜りまくってナイフで殺傷とかしたくなるんですけど、今度の Wnn6 はなかなかナイスです。大学時代フーコーの 『性の歴史』を打ち込んでいた(そんな写経みたいなこともしてました)時に散々登録した単語もほとんど最初から登録済 (でも「獣姦」は未登録でした)。今も Wnn6 で入力してますがなかなか快調。これでホームページの更新頻度もアップか?(東スポ調)

その他おみやげ用のエロ LDなど購入して徳島に帰りました。ニュースステーションでやってましたが、今年は連休最終日前日がラッシュのピークだったみたいですね。4日に帰れば楽勝かと思って帰りの予約とらなかったのでえらい目にあいました。毎年毎年込むって言ってるのに休みの最終日に帰るなんて愚かな民衆め!とか思ってたらこんなことに。。。なんとか今日の昼には帰ってこれました。

久々に非日常に明け暮れた連休でしたが、明日から(っていうかもうあと5時間後)はまた会社的日常が始まります。今月から目標管理とかいうのが実施されて自分が上司と相談して立てた目標スケジュールに対して達成度を細々と評価されちゃうのです。目標は先月立てたのですが、その時は連休にこんなに遊ぶつもりじゃなかったから連休疲れとか考慮に入れてなかったなぁ。逆に連休中に資料読んだりするつもりでいたんだけど。大丈夫か俺?

[4-30] 諸君! ネタ最終回

前回続きは明日とか言っていながら結局三日かかってしまいました。 『諸君!』ネタももういいかげんウンザリなので、最後に二点だけ反論? しておしまいにしましょう。

まず小田氏の学校に生徒の隠れ家を作ってもイジメの温床になるだけという主張。宮台の「生徒たちの隠れ家作り」というのは具体的にはホームベース制のことですが、小田氏の思っているような教師は絶対に立ち入ってはいけないような閉鎖空間ではないです。

ホームベースというのは、クラスをなくして生徒が授業のある教室に出向いて授業を受けるシステムを採用した学校で、生徒の荷物を入れるロッカーなんかが置いてあったりする部屋のことのようです。といっても、殺風景なロッカールームではなく、休み時間にくつろげるようにテーブルやソファがあったりもするようです。

細かいことは私もよく知らないのですが、ホームベース制を導入している中学校を紹介している以下のページを見る限り、小田氏の言うような閉鎖的な施設ではないと思います。

以上のようにホームベース制というのは従来のようなクラスをなくすことが前提です。小田氏はどうも、今の満員電車状態の学校にそのまま不透明で閉鎖的な空間を作るというようなイメージを描いているようですが(そんなことをすれば確かにイジメの温床になるかもしれません)、それは宮台氏の提案するものとは全然違うものです。

宮台氏の主張はクラスをなくすことに加え、個人カリキュラム制を導入して学校生活について自己責任で自己管理させようというものです。

それによってイジメの原因となるストレスを低減できるし、誰かが誰かをイジメようとしても他の大勢がそれに同調する理由もなくなるし、イジメなんかやってると損(好きな人と過ごす自由や嫌いな人から離れる自由があるのに、イジメのように嫌いな人にわざわざ関わっていくのは不合理)なので、イジメは起こりにくくなると考えられるし、現にクラスをなくした学校ではイジメは激減しているのです。

最後に、『週刊読売』 の小田氏の再批判の中から、 宮台氏の主張する伝統というのは御都合主義的つまみ食いだ という主張について。

小田氏は武家娘の不義密通は断罪されていたと言って宮台氏が夜這いの風習を持ち出すのは御都合主義と言うのですが、これはむしろ小田氏のほうが御都合主義的だと思うのですがどうでしょう?

だいたい武士なんて支配階級だし、人口比的には少数派なんですからそこで不義密通が禁止だったとしても、大多数の民衆の文化的伝統とは関係ないと思うのですけど。

武家娘の不義密通がダメなのは別にそれが明るい家庭環境を壊すからではなくて、女が男の(父もしくは夫の)所有する財産であり、不義密通は財産権の侵害になるからではないでしょうか。もっともそれが財産権の侵害になりうるのは一族の血統に価値を見出せるような階級に限られるはずです。

あと江戸時代の儒教思想というのも武士階級だけのものだったはずだし、それも支配階級にとって都合がいいからという理由でわざわざ導入されたものだったと思うのですが(日本史は中学以来御無沙汰なので記憶は怪しい。。。)。

小田氏の論拠はともかくとして、じゃあ宮台の言う「伝統」ってなんなんだという疑問はあると思います。江戸時代から続いていれば伝統なのか、それとも弥生時代までも遡るのか、逆に近代の価値観が新たな伝統とならない理由はあるのか、等。

宮台氏が自身を伝統主義者だと言うのは、半分くらいは伝統でないものを伝統だと思い込んだ上で議論する人達に対するアテツケで、宮台氏がどんな伝統を正統なものと見做しているかは割とどうでもいいことだと思います。

宮台的な「伝統主義」は、どちらかというとある種の伝統が近代以前に存在しないというところにポイントがあるように思います。つまり、伝統的に存在しない考え方に人が従うには、従うことが合理的になるような権力システムが必要で、そういうシステムが立ちゆかなくなれば、人は元々自明でない考え方にいつまでも従う理由がなくなるだろう、ということです。

いまいちまとまりの悪い文章になってしまいましたが、今日はこのへんで。。。

[4-27]
上司が退職したショックを(なぜか)『少女革命ウテナ』のサントラ CD で慰める今日この頃ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?

しかし40近いオジサンの不在にこんなに心揺さぶられるのは不覚か? でも、私にとって、30代後半って本音の言葉が通じるぎりぎりの世代って気がします。ショックだったのはむしろ、そんなつもりでいたクセに、上司の退職の決意を全然気付けなかったことなのかも。

さて、宮台関係の記事紹介は新着情報に書くようにしちゃったので、今日は『諸君!』ネタの続き + 小ネタ、と思ったけど今むちゃくちゃ眠いので小ネタだけ。続きは明日。

『荒川強啓のデイキャッチ』 [P.1997l] ネタ。宮台氏はネットのエッチ画像のマスク(可逆変換モザイク)を外すのが大好きで、ありとあらゆるマスク外しに精通 しているとのこと。「CP マスクは引き出し勝負」?
(thanx! > 匿名さん)

[4-22] そういや連休ってあるんだ
ちょっと忙しかったので更新してる余裕がありませんでした。よく考えたら連休はじまっちゃう前に講演会情報なんかは up しとかなきゃまずいよな、と思ってがんばって早起きして更新しました。

連休は東京に遊びにいくかも。 Loft Plus One いけるかなー。5/8 のノッポさんのおしゃべり&工作ライブ とかすごく見たいけどこれはちょっと無理かな。。。

今日はちょっと前回の続きとか書けませんが、今週中にもう一回更新するかも。

[4-13] 泣きたくなる誤解
新年度と言うことで日記と新着情報のページをリセットしました。古いやつへのリンクは各ページの上の方にあるのでよろしく。

個人的に色々ありまして、またまた更新が滞ってしまいました。メールのお返事も溜りまくってます。申し訳ありませんが、新しく受けとるメールの返事を優先させたいと思うので、先月受けとったメールの大半にはお返事できそうにありません。ごめんなさい。

えらく間が空いてしまったので今更って感じなんですが、『諸君! 』ネタにケリをつけとこうと思います。

中森明夫も宮台本人もあの対談には爆笑したとのことですが、私はむしろ怒りを覚え、その後に悲しくなってしまいました。確かにあの対談のデタラメぶりはもう笑うしかない、という部分が大半ですが、気になる部分もあったし、ホームページの読者からも「確かにあれはひどいけど、賛同する部分もある」というメールを頂いたりもしたので、笑ってすますわけにもいかんなぁ、と思いました。

さて、事実関係の間違いや誤解などの指摘は『週間読売』『SPA!』で本人がきっちり済ませているので、もう少し別の方向からフォローします。

[3-9] では「小田氏はまだまともな読解力を示しているように見えます」と書きましたが、これは「小田氏はただの勘違いだけではなく、もっとタチの悪い誤解をしているようです」に訂正します。

まず、小田氏の統計的にはニュータウンのほうが犯罪発生率が少ない。ニュータウンにはストレスはあるが、それが非行増加の要因になったことも、快楽殺人の遠因になったこともない。という主張について。

とりあえず氏の拠り所とする地域毎の犯罪率・非行率という統計が、犯罪が発生した場所でカウントされるものなのか、検挙された犯罪者の居住地でカウントされるものなのか疑問はあるのですが、これはおいておきましょう。(法務総合研究所のホームページも見ましたが地域毎の細かいデータは見つかりませんでした。犯罪白書か何かを買わないとダメ?)

ここでは犯罪率が問題とされていますが、これは論点がズレて いると思います。宮台氏は単に犯罪を問題としているのではありません。宮台氏の郊外化・学校化批判は、それらの現象が単に子供の犯罪一般の増加を招くと言っているわけではなくて、犯罪事件や、それに対する子供たちの反応から、もっと根本的に深刻な事態、少なからぬ子供が社会から離脱しつつあるという事態を問題としているのです。

確かに子供を巡る社会の危機的状況は、昨今のナイフ事件にも見られるように犯罪事件の形で表出することもあります。そこに人の注目も集まるので宮台もそこを足掛かりにして危機的状況を訴えるのですが、犯罪統計上は問題的な傾向はより一般的な傾向に塗りつぶされてしまうかもしれません。

むしろそのような状況は、直接的な逸脱行為や違法行為以上に、日常的なコミュニケーションの中で問題になり、社会の安定を損なう要因になるのではないでしょうか。親と子の、教師と生徒の、上司と部下の、警察官と市民の、政治家と有権者の、それらの間でかつては成り立っていた(あるいは成り立っていたと信じることができた)コミュニケーションが、これからは成り立たなくなるとすれば、それが犯罪に直接繋がらなくても問題です。

ニュータウンのストレスが非行や快楽殺人の原因にならない、という部分ですが、これもズレた感じがします。小田氏が非行と言った場合、イジメや自殺は含まれているのでしょうか。また、イジメも含めて学校内での問題の中には表沙汰にならない形で処理されているものも多いはずです。いわゆる快楽殺人に関しては宮台は問題にしていないはずですが、それはそれとしても、快楽殺人自体日本では極めて少ないのに、その要因について一般的にどうとは言えないと思うのですが。。。

次にこれも小田氏のホラービデオやポルノビデオは犯罪社会学的に犯罪の誘引になるという主張について。

とりあえず、小田氏は宮台氏が「ホラービデオやポルノビデオは犯罪とはなんの因果関係もない」と主張しているかのように言っていますが、言っていません。酒鬼薔薇事件の頃から宮台氏が繰り返し使っている「引金と火薬」の例えにも現れているように、宮台氏はメディアと犯罪は無関係とは思ってないし、規制を全面的に否定しているわけではありません。

問題は単に規制するだけでは、規制を強化したり規制の範囲を広げたりしても無駄ということです。これについて小田氏は宮台は因果関係を逆転させた詭弁を使っているかのように主張します。つまり宮台は規制の強いアメリカのほうが規制の甘い日本よりはるかに犯罪が多いと言っているが、アメリカは犯罪が多いから規制を強化しているのだ というようなことを言うのです。アメリカは犯罪が多いから規制を強化している、というのはいちいちもっともですが、問題は規制を強化しても犯罪防止に成果が上がったという事実が確認されてないことのほうです。

ですから小田氏がせっかく「分化的接触理論」というのを持ち出してきても、これも論点がズレているわけです。
(ところで「分化的」で正しいんでしょうか? 小田氏の解説だと「文化的」のような気がするのですけど)

ポルノやホラーが「寝た子を起こす」ように機能するのは当然としても、問題なのはそれを規制してどうなるかです。匿名性の高い様々な情報チャネルが存在する今時の世の中では下手な規制では問題的な情報はアングラ化して地下(といってもかなり敷居の低い地下)で流通することになります。そういう情報に今までたいして問題なく接していた人たちの中には一緒に地下に潜ってしまう人も少なからずいるでしょう。

小田氏が主張するように「猥雑な地域のほうが犯罪は多い」(これ自体は正しいでしょう)わけで、アングラの世界に入ってしまうと、普通の世界よりもいろんな逸脱に対する敷居が低くなってしまい危険です。

また、アングラの世界では程度や質、方向性の違った情報が同時に混ざりあって流通していることがよくあります。美少女ヌード見たさに怪しいホームページを訪ねたら、より過激なチャイルドポルノとか、少女の死体写真、なんかを見つけてしまうことも実際あるのです。これは小田氏が引き合いに出す「分化的接触理論」の観点からも非常にマズイのではないでしょうか?

また宮崎学氏によると風俗産業の規制はたいして機能してないばかりか、警察に妙な利権が生まれる結果になっているそうです。
(「突破者」宮崎学のホームページ、以前は見れてたはずなのに今は見れません。どうなっているんでしょう?)

と、このへんでそろそろ時間です。ちょっとケリはつきませんでしたね。『諸君!』ネタは、あともう一回やってケリをつけます。

それが待てない方は是非新刊の『学校を救済せよ』を一読することをお勧めします。小田氏が誤解しているような様々な事柄について、宮台氏は本当はどう思っているのか、どうしたいのか、が分かる一冊だと思います。とはいえ中川八洋氏だけは絶対分かんないんだろうなぁ。。。


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