なんばりょうすけの おぼえがき日記 (2) |
[1997-9-19] までの日記はこちら。
先週は古い知り合いの結婚披露パーティーなるものに出席していたので、更新はお休みしていました。『諸君!』ネタが途中だったのですが、早々と『週刊読売』3/22日号に宮台の反論を紹介する記事が掲載されました。同じ記事に囲み記事で小田晋の再反論が載っているというのはちょっと邪道な気がしますが。。。詳しくは後ほど。
このところバカみたいに本を買っています。会社が赤字でたいへんなので安心して大きな買いものができなくて、本くらいしか買えないというのもありますが。
上野千鶴子の『発情装置』も買いました。なかなか面白くて徹夜で読了してすっかり発情、いや、興奮しました。なんて思ってたら後書きにしっかり「本書はもちろん「発情装置」ではない」 などと書かれていて、やられたって感じ。
もちろん「発情装置」というのはフーコーの用語「性的欲望の装置」 (訳:渡辺守章)に由来する考え方で、平たく言うと我々の多くが本能的なものと信じている性的欲望のありようが近代の歴史的産物である主張するものです。
『発情装置』を読んでいて知的興奮もありましたが、それ以上に心に突き刺さる数々の言葉に打ちのめされがちでした。「愛されないわたしは不完全。他者のいないわたしは無だ」(「〈対〉幻想を越えて」)という感覚は上野によれば専ら女に植え付けられた観念だといいます。そんなの男の僕だってそうだよ!と思っていると、次のように反撃されてしまいました。「(対幻想は)男を「一般的な他者」としての女に、「カテゴリーとしての異性」につなぐ」(同上)。
このところ宮台がよく使う言い回しに「自尊心を維持するには他者からの承認が必要」というのがありますが、男の場合、いや、少なくとも私の場合、「女性から」「男性として」承認されないということがただごとではない不安を呼び起こすという、かなりイヤな感覚が巣食っています。
もっとイヤなのは、ささいなことで「男性として」承認された幻想を抱けてしまうところ。こっちはそれはあくまで幻想と分かっている気でいても、そういう雰囲気に敏感な女性に「そんなつもりの笑顔じゃないのよこれは!」みたいな態度をとられたり、それでひどく落ち込んだり。
「女なら誰でもいいんじゃない?」「私が好きなんじゃなくてあなたが寂しいだけでしょ?」「自分がかわいそうなだけでしょ?」「なんでそう簡単に人を好きになれるの?」ここまで言われて返す言葉もありません。「そうじゃない!ボクはキミが好きなんだ!」と臆面もなく言えたら、今よりもっと幸せだったのでしょうか。
相変わらず時間の使い方が下手なもので、メールの返事も遅れまくっています。申し訳ありません。3月ということで、もうメールが届かなくなってしまった人もいらっしゃいますが、この場を借りてお詫びします。またメールが出せるようになりましたら是非御連絡下さい。
「連絡が欲しい?それは私が女だから?」いや、そんなことはな、ないんだあぁぁぁぁぁ。。。
仕事忙しいしあんまり気が進まないんですが、ことによっては 『Boys Be...』を読んだ時に感じるあの憤りパワーに匹敵するすごいパワーが得られるのでは、などと思って先ほど会社帰りに買ってきたのでした。が。。。
で今読んでる最中なんですが、のっけから宮台が言ってもいないことをデッチあげてくるので思わずのけぞってしまいました(意図的ではない? いや、筑波大学教授ともあろう人がこうまで宮台の言葉を誤読できるだなんて、考えるのも恐ろしいことです。)
ちょっと時間がないので頭の方だけ簡単にデバッグしておきます。
中川: 実は、宮台氏はこの酒鬼薔薇という殺人鬼に対して大変な共感を持っているんですね。彼の言葉に従えば、犯行声明文は中学生にとっての聖典、つまりバイブルであるとなる。
宮台は少なからぬ中学生があの声明文に共感を示しており、一部の中学生の間では声明文が聖典視される危険性を警戒せよ と言っているのです。この人いったい何を聞いているのでしょうか。
中川: そもそも彼の社会学は、日本全体の社会解体を最終目的としているようですが、その有効な手段として学校解体を狙っていて、この事件を格好の材料と考えているようです。
死ね死ね団か何かなんでしょうか、宮台は? 宮台が繰り返し語っているように、彼の主張は社会が安定に営まれるためには (今となってはもはや)有害な幻想を解体しよう、というもので、幻想一般を解体すべしというものではないし、ましてや日本全体の社会解体などとなえたりはしていません。しかし社会システム論が体制擁護的で保守的だと非難されたことはあっても、社会解体を目論むアナーキズムだと非難されたことが今まであったでしょうか?(マジで疑問)
中川: 酒鬼薔薇の登場をきっかけとして、いまこそ全国の中学生は学校解体に立ち上がるべきだ、とさかんに呼びかけている。
呼びかけていません。 マスコミが中学生に FAX などを送るようにと呼びかけるように、マスコミに対して働きかけたという事実はあるようですが、中学生が学校をどうこうせよ、とか、今こそ立ち上がれ、世界を革命するためにとか、そんなことは一言も言ってません。そもそも宮台は学校改革の障害は臆病な教師と心配症の親にあると主張しているわけで、そちらをどうにかすることが肝心なのです。ですから、件の『透明な存在の不透明な悪意』では、立ち上がれ、文部省と言っているのですが。。。
とはいえ私も宮台の言説を一言漏らさずキャッチしているわけではないので、ひょっとすると一言くらい言っていたのかもしれません。なにしろ、言ってないことの証明は言ったことの証明に比べると全く簡単ではありません。この件について、真相をご存知の方は是非とも出典をお教え下さい。証拠文書・ビデオテープ等の現物、もしくはそのコピーの提供も歓迎します。
中川: そして、そうした彼の奇怪な論調の大前提となっているのが、酒鬼薔薇聖斗は精神障害者であることを否定しよう、という考え方なんですね。
宮台が重視するのは酒鬼薔薇が精神障害者であることよりも、 精神障害者でない多くの中学生が彼に共感したという事実であり、酒鬼薔薇当人が精神障害者であることを否定もしていなければ、それを前提にもしていません。
はぁ、これでやっと 1 ページです。1 ページの中からここに列挙したバグを取り除くとほとんど何も残らないんですけど。。。しかも、ただの勘違いというレベルのバグばかりでなんの面白みもありません。
しかし他人の文章を満足に読解できない人が大学でどんな仕事をしているというのでしょうか。いや、仮にも大学教授ともあろう人が、いくらなんでもそんなはずはナイ!
これがひょっとして狂った受け答えで徹底してボケ倒す、彼一流の ギャグパフォーマンスを演じているのだとしたら?狂気の精神科医と共に狂気の極みを演じるというきわどいパフォーマンスを?
だとすればこれって、かなり悪趣味とはいえ、かなりイケてる部類のジョークだと思いますね。実際一言一言がいちいち笑えてよかったですョ。
もう面倒臭くなって今は、残りをざっと眺めただけなんですが、それでも中川氏の発言だけではなく小田晋の発言も含めて、あちこちバグだらけなのがアリアリです。時間がないので続きはまた今度。
パッと見た感じでは中川氏が首尾一貫してボケ倒しているのに比べると、小田氏はまだまともな読解力を示しているように見えます。まだこちらのほうが反論のしがいもありそうな気配。
同業者で東大教授の上野と、テレクラで関係の偶発性に身を任せて知り合った見知らぬ女性とじゃ、扱い方も違うだろう、という御意見も頂きました。いや、全くその通りだと思います。
ここでの宮台氏の主張を簡単にまとめると、
それにしても田原氏、どうしちゃったんでしょうね。まぁ、性急に結論を求めてイライラするのは昔からですが、今回は妙に些細なことでキレちゃって進みかけてる話を引っかき回して止めてしまうし、なんなんでしょうね。特に宮台氏にはカミツキまくって、宮台氏も二人の間に座った河上氏も苦笑い。宮台氏に「当たり前じゃないですかそんなこと!」とか怒鳴られちゃったのがよっぽどムカついたのでしょうか?
宮台氏は「刀狩りには条件付賛成」とのことですが、田原氏がキレまくったおかげで、その条件というのをちゃんと聞けませんでした。とほほ。
ちなみに番組終了後、数人の方から朝生に関してメールを頂きましたが、みなさん田原氏のキレっぷりに呆れてらっしゃるようです。
現役教師陣はどうもダメでした。まともそうだったのはプロ教師の会の河上氏と教師歴33年の吉村さんくらいでしょうか?
今月の勘違いその一。「ナイフの正しい使い方を教えなきゃ」って、そんなの知らなくて間違えてるんじゃなくて、ヤバい使い方が自分の目的に合致するからそういう使い方をするんだよね。
森岡氏の反論メールの要点は以下の通り。
私の再反論(というか疑問)の要点は、
なんかこういう議論をするたびに私の血中イケてない濃度が上昇して婚期を逃しかねない(?)勢いなんですが、しょうがないですねもう。
あと [2-20] の件、どうも事実らしいという情報を頂いております。うーん、私だったら上野千鶴子だろうが田嶋陽子、はちょっとイヤだけど、いや、とにかく毒食らわば皿まで、じゃなくて、なんというか。。。
とにかく、テレクラ修行でもう解脱しちゃった(参照:
[A.1997ae] 他)から今は選ぶ権利があるというのではまるで麻原のようではありませんか!彼の中でその矛盾はどう決着しているのか、そのあたりに甘さを感じますね!
「2/1 に大阪のイベントで上野千鶴子と対談した宮台は対談後上野に 「今夜わたしの家に泊まっていかない?(はぁと)」 と誘われたがタイプじゃないので誘いを断ったらしい」という怪情報が寄せられています。
が、私はこれは(宮台本人が藤井誠二に語った、とまで言われていても)ガセだと断言します。私の知っているシンジ君はそんな好き嫌いをする人じゃありません!
あと私が以前別ルートで聞いた宮台氏の女性の好みに関する情報と照らし合わせると、上野千鶴子がタイプではない、というのは納得いかないところかも?
なんか不幸な事って重なるものですね。不幸と言っても直接私の身に何か起こるっていうんではなくて、知らなければよかったこととか、忘れたままでそっとしておいて欲しかったこととか、そういうことを知ってしまって辛い、っていう感じのことなんですが。
不幸と言えば新井将敬が自殺してしまったそうですね。新井将敬はインターネットブームの割と早い時期からホームページを持ってて、自分の本を書き写して? 公開してました。文章もどこか哀愁が漂っていたし、作りも手作りらしい素朴でいいかげんだったり、なかなか好感が持てるページだったと記憶しています。同時期にホームページを持っていた畑恵のページがいかにもプロに金払って作って貰いました的なデザインでイヤな感じだったのと対照的でした。
研究会に出していた論文を取り下げて博士過程進学の望みが絶望となり、かなり壊れていたその頃の私は、彼のホームページに感銘を受けて彼の元に弟子入り?してみようかとか馬鹿なことを考えてたりしたものです。
私は自殺一般に対しては別に否定的ではありません。でも、ああいう状況での自殺は究極の証拠隠滅だと思われても仕方がないと思うのですが。とにかく死んでしまったものはどうしようもないですね。とりあえず御冥福をお祈りします。
今調べてみたら
新井将敬ホームページ はなくなってました。いつからなくなってたんでしょうね? 残念です。
まるで宮台が予言が成就するがごとく中学生による凶悪犯罪が目立つ今日この頃ですが、中央教育審議会の小委員会の座長の木村孟氏が、座長試案(中間報告よりもさらに前の段階のもの)というのを公表しました。
その内容の大枠は自己決定能力や「正義感、倫理感」を身につけさせたいのだけど学校では対応しきれないので家庭が「しつけ」をしっかりやってくれという話。具体的には「電車で老人に席をゆずることから始めよう」だとか。。。なにそれ?
「キレやすい」というのを単純にストレスに対する耐性が低いと見るのは間違いでしょう。問題は「キレやすい」人が何を楽しいと感じ、何を耐え難いと感じるか、ということのはず。神戸の事件の時宮台氏がしきりに指摘したように、学校や学校化した社会の耐え難い環境という問題もあるし、オウム事件の時宮台氏が問題にした「終りなき日常」というテンションの低い不透明な世界という問題もあるでしょう。
耐え難いことが少々あっても、忘れてしまわないくらいの頻度で楽しいことがあれば、そんな無茶はやらないと思うのですけど。
このところの騒動に対して「刀狩り」というのは論外として、既存のシステムを温存したままの対策では無理があるでしょうね。「子供の出すサインを見逃さない」なんてのは誰でもできることじゃないだろうし、教員採用試験ってそんな才能を評価するものではないだろうし。スクールカウンセラーでも増やしましょうか?
だいたい「少年の心の病センサー」を手に入れてサインをキャッチしたところでどうするんでしょう。パターン青、使徒です!とか叫ぶんでしょうか。あちこちでサインが出まくってる事態そのものが異常なわけです。交通事故が増えたからって医者増やしたところで根本的な問題解決にはなりませんよね。
ところで『新世紀のリアル』やっと入手しました。忙しくてまだ読めてません。宮台真司×上野千鶴子のラブラブテープも頂いている(thanx! > 匿名さん)のですが、これもまだ聞けてません。。。
このところ大雨や雪(!)などで休日も家にこもりがちだったのですが、今日は久しぶりに外出しました。『終りなき日常を生きろ』 [B.1995a] が、新しい赤い帯(宮台の顔写真、コメント、サイン付き)が付いて平積みされてました。が、よく見ると初版第一刷って。あれっ??
これまた久しぶりに新聞を読むと森岡正博氏が『まぼろしの郊外』の書評を書いています。森岡氏はその内容を評価しつつ最後に苦言を呈しています。曰く、
「私がいちばん不満なのは、この社会を生きる著者自身の生が見えてこない点だ。モラルも、女子高生の実態も、オヤジ批判も、もう十分だ。いま必要なのは、宮台や森岡やあなたたちひとりひとりが、この終りなき日常の中で、自分自身の生をどこまでも掘り下げていくことじゃないのか。」なるほどと思いつつ、ちょっと疑問も。あの本を読んで、あるいは宮台氏の日頃の活動を見聞するにつけて、森岡氏は「宮台真司の実存」が気になって仕方がない、というのはいいとして、それを見せること、あるいは晒すことにどんな意味があるのか、というのがよくわかりません。
ロジックだけじゃなくてスピリッツを見せてくれ、ということかと思うのですが、宮台氏の立場はどちらかというとスピリッツで覆い隠される壊れたロジックを暴くという点に重点をおいているわけです。ゆえに宮台は自分のスピリッツをあまり前面に出さない(それでも私などから見ると随所に滲み出ていると思うのですが)スタイルをとるのですが、そういう態度が「ロジックがあればスピリッツなどいらない」というメッセージとして誤解して受けとられがちなのは確かに問題かもしれません。
でも、スピリッツを晒して何が伝わるのか、それで社会がどうなるのか、ということはよくよく考えないといけない気がします。未だに、作家の「生きざま」が人々に希望を与える、などということを期待できるのでしょうか。
ちなみに『まぼろしの郊外』の巻末には著作リストがあって、ここの著作リスト にまだ載せてないのもあります。
『新世紀のリアル』 はまだ買ってません。結局大阪では本屋に立ち寄らずに帰ってしまって、 『18歳未満『健全育成』計画』 もこっちの本屋でたまたま見つけて買いました。ちなみにこの本まだ読みかけです(鼎談は読了)。
あと去年の年末に買った、ちくま学芸文庫から出ている 『売春の社会史』 (Vern & Bonnie Bullough 著、香川壇ほか訳) を読んでます。原書は 1987 年なのでもう 10 年も前の文献ですが、内容は、古代ギリシャから現代の先進各国までの売春と売春を巡る言説や制度の歴史とそれらの社会学的な分析、現代の売春問題についての政策的な議論などです。
そもそもこういう歴史的にも地理的にも異なる社会を通じて売春を論じる場合、売春の定義からして難しいというのは重要で、西部邁のような「売春が悪なのは歴史が証明している」みたいなものいいはデタラメだというのがたいへんよくわかります。ちなみにこの本の著者は歴史学の権威ということですが、売春を巡る問題に対処する現実的な政策は自由売春を合法化(ただし年齢制限あり)と強制売春の禁止であろう、と、結論しています。
今日から 4 日まで帰省します。去年のうちに返信できなかったメールが何通か残ってしまいました。ごめんなさい。あと、去年のうちに出ていた宮台関連書籍で紹介できなかったものがいくつかありますが、帰省先でモノを GET してきてから書きます。
今年の抱負みたいなものを少し。今年は多分本業のほうが死ぬほど忙しくなりそうなので、更新は結構苦しいかもしれません。議論、論争などはしばらくまともにできそうにありません。申し訳ない。でも本当に自分の気分転換(現実逃避?)だけの目的で軽い文章を書いたりもするつもりなのでよろしく。
『SPA!』 12/31-1/7 合併号の「中森文化新聞」には、宮台氏の新年ブレイク宣言なるものが。
「97年、私の使命は「まったり革命前」の扇動から「革命後のゴミ掃除」に変わった。98年は、自明な言説をくり返す世直しモードを脱し、本当の困難に立ち向かう。期待せよ!」ということで期待しましょう!!
このため、10 月以降私からのメールに返信して頂いた皆様のメールの一部が、私が気がつかないうちに私が既に退会したプロバイダ宛に届いていることが先ほど判明しました。
結果的に多くの方のメールを2ヶ月以上無視したまま放置してしまいまして、本当に申し訳ありません。返信できなかった皆様には年内にお詫びも兼ねて返信します。
また、最近私からメールを受けとった人で、From: が
rna@po.aianet.or.jp になっていた方は、返信の際は rna@cyber.email.ne.jp 宛にお願いします。本当に申し訳ありませんでした。一応コンピュータはプロのはずなのにとんでもないタコミスで皆様に御迷惑をかけてしまいました。返信が途絶えて「なんばはいつからこんなに不人情なやつになったのか」とか、「これだから宮台ファンは」などと、憤慨された方もいらっしゃると思いますが、私にもまだ人情くらいは残っているのですけど、頭のネジが数本抜け落ちていたようです。。。
宮台情報についてはまた後ほど整理して書きたいと思います。
[3-26] に「今年は宮台の年になる」とか書きましたが、実際そうなった、と言ってもいい気がします。酒鬼薔薇事件がきっかけで大ブレイクしたのは少し複雑な気分ですが、他の文化人が軒並ゲームオーバーしてしまった事を考えれば必然という気もします。
あの忌まわしい事件を「利用し尽くせ!」とばかりに「世直し」のためのスプリングボードにしてしまう宮台のポジティブさは『ナントカ革命』の 100 倍凄いので、ポジティブシンキング系の人にも見習って欲しいところ。
イメージ戦略なのか何なのか、軽めの言動も多い最近の宮台ですが、超多忙な毎日だし、気分転換に(?)女装するくらいは許してしまいましょう(個人的には女装より着ぐるみのほうが似合うと思った。。。)。
このところの金融不況で、「「まったり」とか言っててこれじゃん」とか文句言う人もいるかと思いますが、こういう時こそ不安を煽るようなメッセージには警戒しておく必要があるでしょう。
私は経済関係は全然わからないので、メディアに流れるメッセージをちゃんと分別できてる自信はないですが、当たり前だった事が当たり前でなくなってマズイことになっているとする「ネガティブ派」と、今までがおかしかっただけで今の事態が当たり前で真っ当だとする「ポジティブ派」のメッセージがあると思います。
本当のところはどうか私には分かりませんが、宮台にハマって色んなアタリマエを相対化されてしまった私にしてみると「ポジティブ派」の言葉のほうに共感を感じます。「家のローンが残ってるのに。。。」と落ち込んでいる山一の社員には同情はしますが、この狭い日本でサラリーマン風情が家とか建てる方が不自然、って感覚は生まれてこのかたずっと借家住まいの私の偏見でしょーか?
これ読んでるような人に今更こんなこと言うのもなんですが、とにかく宮台の言葉(特に最近の新刊 [B.1997a] , [B.1997b] , [B.1997c] に収録されているようなもの)は世紀末の不安のカタチが見えなくて辛い人たちにはオススメです。ショックもありますが、気付きもあるし、(最終的には)癒しもあると思います。
でも気付きの勢いであまり目をキラキラ輝かせて周囲に訴えかけたりしないよーに。怪しいです。あと、不安不安とか言ってても、不安を解消するより、みんなで不安を共有してる感じが気持ち良くて仕方がない人も多いので、「これが答だ!」と張り切って、みんなのモヤモヤを宮台理論でスッキリ説明してあげてもあまり感謝されないこともありがちかも。さりげなく、うまいことやりましょう、布教活動は(笑)。
とりあえず、What's New に書いた以外の最近の宮台氏の仕事を簡単に紹介すると、
『制服少女たちの選択』 は増刷(第 8 刷)されているようで、徳島の本屋にも『世紀末の作法』 の隣などに沢山平積みしてありました。
月刊 プチ論壇
(宮島氏のとこ) に、岡田斗司夫氏へのインタビューが載ってます。宮台氏に言及している部分もあり。
よく Web の日記に個人的なことをつらつらと書き連ねる人がいるのですが、そういうのってすごく羨ましいです。どうも私にはそういうのができません。
うかつなことを書くと、Net 関係の知り合いにバレてしまったり、場合によっては人に迷惑がかかったりしかねないから、ということもありますが、そのへんは Web 日記に勤しむ方々も事情はそう変わらないハズだし、なんなんでしょうね。
もっと個人的な日常生活の場面で、宮台的なものの見方がこんなふうに役立った、みたいな事を書いた方が、反宮台派の人たちに色々理解してもらえるきっかけになったり、、、はしないか。
でもなんか私がここに書くことって結構抽象的だし、「もっと生活者の視点で物事を見なさい」とか言われかねませんね(実際そういうメールを貰ったことはないけども。)
ちょっと仕事が忙しくなってきたので、あまりまとまった文章が書けません。連休もたまった家事とかをなんとかする貴重なチャンスなので、あんまり使えなくて、結局夜中にこれを書いてたりするし。
もっともこの連休はなんか欝々としていて昼間っから布団にくるまってたりで家事もあまりはかどらなかったけど。
でも今日はいい店を見つけました。ナイフとエアガンとレンタルビテオと古本とエログッズの店。うちの近所にこんな店があるとはね。本当にいい店です。いきなり店のオヤジと話し込んでしまった。。。
で、そこで買ったのが 『完全失踪マニュアル』樫村政則 (太田出版) スタンス的には 『完全自殺マニュアル』 鶴見済 (太田出版) とほとんど同じで、リセット主義とでもいうもの。
この手の本にめくじら立てる人は多いですが、私自身はこういうのを読むとホント気分が楽になるんです。こういう資料を元にシミュレーション、っていうか妄想にふけるうちに、それだけでスッキリするんですね。で、妄想終盤には、やっぱりそれって自分の望む結末ではないなって気になって、大きくため息ついて、明日も日常を生きる覚悟ができるというわけ。
あ、今気付いたけどこれってまるっきり夏エヴァですね。でも私は女の子の首絞めたりしないから、そこが違う、って首絞める相手もいないや。
え? せっかくいい店見つけたのに結局買ったのが古本だけじゃ何にも変わらないじゃないかって? だって、エログッズいいのなかったし。。。
『週刊宝石』の女装グラビア [A.1997z] の件、宮台氏はあちこちでネタにしています。それらの話を総合すると。。。
撮影前夜に宮台がしたこととは?: 撮影に備えてスネ毛を全部剃ったのだが、調子に乗ってあそこの毛も全部剃ってしまったとか。。。 (あれからだいぶ経ちますが、もうちゃんと生え揃ったのでしょうか?)
グラビアには別のバージョンがあった: 女子高生の格好の他に人妻の格好でも撮った。一つは「清楚な人妻」もう一つは「淫乱な人妻」で、後者のバージョンではバナナはくわえるわ股間はまさぐるわ凄いことに。
人妻バージョンは非公開: 「淫乱な人妻」バージョンは、表に出ると公務員の品位保持義務に抵触するおそれがあるため、宮台が自宅に秘蔵写真として所有しているとのこと。
それを見た速水由紀子は。。。: 「淫乱な人妻」バージョンを見た速水由紀子は「これが表に出たら別れる」とコメントしたとか。
宮台の母親は。。。: 女装グラビアの件は親には黙っていた宮台だったが、『荒川強啓のデイキャッチ』 でネタにしたため親バレ。さっそく母親に呼びつけられ叱られてしまった宮台だった。が、最後に母親がポツリと「よく見ると私の女学生時代に似てるわね」と漏らしたというオチ。
そして宮台自身は。。。: 自分の写真を見て欲情してしまう自分に気が付いて「なんてこった」というセリフになったとのこと。
『ダ・ヴィンチ』 の新連載 「宮台真司の世紀末相談室」 [A.1997ae] 、いきなり初回から、自己改造セミナーに連れていきなさい、みたいな回答が出てきました。さすがです。初回ということで「相談原論」と題して宮台は回答者としてのスタンスを明らかにしています。
身の上相談的なものに対して相談する本人の「相談する理由」というメタな問題に迫ること自体は以前宮台自身もやっていた( [A.1997g] )し、それほど珍しくない気もしますが、分析手法に(似非も含めて)心理学的なものではなくて、社会学的なものを持ってくるところが新しいと思いました。
最近(といってももうかなり経ちますが)いくつかの講演会の記録を頂いています。地方在住でなかなか講演会に行く機会のない私としては実にありがたいです。面白そうな話については今後日記の中で紹介していきます。
西部退席事件について、宮台がLOFT/PLUSONE で語った話によると、番組終了後心配になった宮台は西部を探しにいったところ、すでに酔っ払ってヘロヘロになった西部を発見。そんな西部に「みぃやだいクン、これからはキミのじだいだよぉ」と声をかけられたとか。。。
他に女装事件の裏話とかありますが、それはまた後ほど。
情報提供や励ましのメールも頂いてるのでちょっとがんばらねば、とも思うのですが、新しい環境の中にも居場所がだんだんできてきたことで、こういう場所で発言する気力がそがれてるな、という実感があります。
まぁ昔から(といってもここ 6,7年のことだけど)パソコン通信とか NetNews とかに投稿しててもあんまり長続きせずフェードアウトして、でも、また一年くらいするとムラムラと投稿意欲が出てきて、っていうのの繰り返しでしたから、ここ一年くらいはちょっと異常だったかもしれない。
なんて書きつつも、リニューアルした 構造鳥瞰 の掲示版を見て、またムラムラしてたりして。
今日 NHK 教育の 『未来潮流』 に宮台がでていました。出演者のとりあわせがなかなか面白くて、香山リカ、佐藤学、黒沼克史、河合隼雄。これが朝生だったら荒れそうな予感がしてしまうけど、 NHK だからそうはならないようにするはずだけど、どうするんだろう?と思っていたら、宮台は四部構成の一つにだけでてきて香山と対談しただけだし、全員が顔をつき合わせることは結局ありませんでした。
まぁ、宮台は以前黒沼の仕事を「びっくりルポ」と批判していた [B.1997a] (= [N.1996a] )し、香山も8月の朝生で河合が 『世界』 97年3月号に書いた「援助交際で心は傷つかなくてもたましいに悪い」というような主張について「オカルトっぽい」とコメントしてるし、しょうがないんでしょうか。。。
内容的に興味深かったのは、最近の子供たちは、やたらみんなに好かれないと不安で、他の大勢に嫌われても理解してくれる親しい友人が最悪一人でもいれば自分はダイジョーブとは思えなくなっている人が多い、というような話。
親友とわかりあうという感覚が信じられなかったり、自分を晒すような関係が怖かったり、あるいは他人に自分を晒すようなマネを望むのは厚かましいと思ってしまうのか。
恋人同士でもやたら会ったり連絡とりあったりしないと安心できない、「逢えない時が愛を育てる」みたいな感覚が全然ない人が増えているというのもありました。
どっちの感覚も伝染性がありそうでやっかいです。そういう感覚の人とつきあっていると、自分を全然信頼してもらえないみたいでこっちまで不安になってしまいます。河合隼雄が言っていたように体当りで頑張って信頼関係を作っていけばどうにかなるというのは嘘じゃないとは思うけど、それを誰がやるのか、どういう立場の人がやれば体当りされた側がする側の気持ちを正当なものとして認められるのか、難しいところだと思いました。
震災の危機の中で親子の絆を確かめあえた、みたいな話も番組ではでていましたが、そういう明確な不安を互いに共有しあえるような特殊な状況ではそんなの割と当たり前という気がします。実際当時私が住んでいた下宿は震度 4 か 5 程度だったのですが、飛び出してきた住人同士、世代も違うし日頃は全然つながりがなかった人たちだったけど、その場では妙な連帯感ができていたし。
あと、ちょっと押えておきたいのは、最近家族幻想、学校幻想批判の仕事が多い宮台の、幻想一般を否定するのではなく、どんな幻想に頼るかを自分で選択できるようになるのが大切、という主張。宮台の言葉
(に限らず相対主義的な言説一般についても)をニヒリズムっぽいものとして享受している人には誤解して欲しくない部分だと思いました。
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