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宮台シンジ
補完計画

このページは佐藤賢二氏による宮台評論 ●緊急提言:宮台真司先生を「裸の王様」にするなに対するフォローとしてなんばりょうすけによって書かれた。

佐藤氏の評論は宮台真司とその言葉の関係の評論というよりは、宮台の言葉とそれに共感する人達との関係の評論という側面が大きい。このようなスタンスからの評論は非常に重要であろう。佐藤氏の議論は具体的には宮台の 女子高生の扱い方(無論、彼の言論の中での、だ)をめぐるものだが、小林よしのりの「大事件への危惧」(宮台真司は「オウム的」か? を参照)とは違った、より本質的な危惧である。

私のフォローも佐藤氏のスタンスに従い、宮台真司をどう読むか、宮台真司への誤解はなぜ起こり、そしてそれはなぜ問題なのか、という点を、宮台の早口の語りを補完する形で論じようと思う。

なお「補完計画」の出典は言わずと知れた 新世紀 エヴァンゲリオン である。


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宮台シンジの場合

宮台真司は決して普遍的な人間一般や社会一般について語るような思想家ではない。彼が社会学者であるということは多くの人が考えている以上に重要なことであろう。

社会学者としての宮台は、あくまで特定の〈社会〉を研究対象とし、同時にその特定の社会に生きる我々にメッセージを発する。しかし、宮台のメッセージを受けとる我々にとってその特定の〈社会〉は〈世界〉として実感されている。「世の中こんなもんだ」という感覚は少々歴史や地理を知ったところで容易には変えられない。むしろ自分の偏狭な世界観でそれらを解釈した挙げ句「ほら、やっぱり世の中こんなもんじゃないか」と納得して自分の世界観を自己強化してしまうことだってありがちだ。

宮台もやはり特定の〈社会〉に生きながら、ある世界観をもって生きている。しかし社会学者としての訓練を積んできた彼は、自分の〈世界〉に対する思い込みを相対化して見ることができ、記述することができる。無論、それでも彼は誰もがそうであるように〈世界〉の中で生きることしかできない。「女子高生がエッチに見えるのは社会学的条件がそう見せるに過ぎない」と解っても女子高生にエロスを感じる自分は根本的には変わらないのだ。

しかし、相対的な視点があることを知るということは、「エッチな目で見ちゃダメだ!」「最低だ、僕って。。。」などと思い込むことでよりいっそう女子高生にエロスを感じてしまい、ますます自己嫌悪に陥るといった悪循環を断ち切る契機にはなる。その点で相対化した視点で分析し、記述し、それを伝えることには意味があると言えるだろう。

そしてそれが重要な点である。社会学者の発するメッセージが、それを受けとる悩める人々に直接的に及ぼす作用というのはその程度でしかありえない。それ以上は詩人なりミュージシャンなり心理学の臨床家なりのやるべき仕事だろう。それでは、宮台の言論活動はその程度のことのためなのか?それとも彼がいつか言っていたように「デタラメを粉砕する快感に打ち震えるため」[1]だけに?

いや、宮台には社会をどうにかしようという意志が間違いなく、ある。しかし、彼自身も言うようにもあるように今時たかが一知識人の発言の力などたかが知れているし、だから彼自身行政への働きかけなどの具体的な活動もしている[2]。それでも宮台がメッセージを発し続けることには意味がある。行政を動かすためには世論作りが必要だし、宮台がどうしようとそれとは別に社会をどうにかしたいと思い、実際そうするであろう人たちはいるわけで、そういう人たちに対する専門家としての影響力を確保することも大事だ。

宮台は強い。膨大な知識と経験や、よく回る口、出てくる言葉のセンスゆえではない。あくまで自分が専門家として勝たなくてはならない、そして実際勝てる土俵の上で戦うからこそ強いのだ。あらゆる問題を過剰に一般化し、うかつに人の土俵に上がり込んでしまうような論客は宮台の前ではひとたまりもない。

しかし、その強さゆえにそれにタダノリしようとする輩や過剰な期待を膨らませて期待はずれを食らう輩は必然的に出てくるだろう。だがそれは宮台の問題というよりはむしろ彼らの問題であり、社会の問題でもあるのではないか。


[1] 「激白 女子高生に殺されたい!」 [A.1996g] での、自分が女子高生関係の論争に関わることの実存的意義についてのコメント。
[2]「戦後50周年 100回記念スペシャル」 [P.1995a] での発言など。



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私のこと好き?

一部の女子高生たちはメディアでの宮台の発言に相当ムカツク という。佐藤氏もこの点を問題にしているし、小林よしのりもこの点を指摘して悪戯っ子のように笑う。では一部の女子高生たちは宮台の何にそんなにムカツイているのだろう? 一部の[3]女子高生たち言い分を以下に引用しよう。

比較的わたしたちの年齢に近い先生たち、特にサングラス二人組は、私たちのことを、理解してるよ的な言い方をしていますが、全然わかってないよ、今の女の子たちの気持ちをわかってない。データとか歴史とか説なんてことは私たちには全然関係ないことだよ。

私たちの学校は偏差値が低くって、どちらかというとイケイケの子が多いんだけど私たち高二生クラス全40人の中で援助交際でセックスまで経験のある子なんて二人しかいないよ。

もの知った顔でわけわかったようなこと言わないで、今の子供たちはそんな子ばっかりじゃないってちゃんと言って下さい。

「激論!“援助交際”とニッポン!」 [P.1997b] より。
17歳の女子高生からの FAX



柳川さんらは自分たちも発言ができるということで参加したのだが、実際はパネラーがしゃべり続けるばかり。しかもパネラーたちは、女子高生はみんなウリ(売春)をしていると最初から決めつけて議論していた、と柳川さん。女子高生を十把ひとからげにして進められた話に腹が立ったのだという。


「ウチらがやってるって決めてんの?」
「ウチらにはカンケーねぇんだよ」


“ブルセラ・ルポの第一人者”と言われる藤井さん、テレクラなどの今の風俗を研究対象にしている社会学者の宮台さんの2人は問題の『朝まで生テレビ』にも“女子高生派”という形で出席した。しかし「ブルセラをはやらせたのは自分のせいだ、と偽悪的なこと言うし、ワケわかんないことベラベラしゃべったり」と、逆に女子高生たちにムカツカれてしまった。

いずれも 「女子高生」というブランドを捨てて 『月刊・お好み書き』 1996年11月1日号より。

これらの反発に対して宮台自身が正面から反論したことは一度もなかったと思う。「激白 女子高生に殺されたい!」 [A.1996g] では「ゴメン」と謝ってさえいる。だからといって宮台が負けて女子高生が勝ったなどと思ってはいけない。

いろんな理由から宮台は「女子高生」とケンカをするつもりはないだろうから女子高生に対する返答の言葉は穏やかだ[4]。しかし、よく読めば「私たちのことをわかってない!」という文句に対して「あなたたちのために仕事をしているのではない」というミもフタもない返事でもある。

宮台は決して自分の口からは言わないであろうことなので、私がここではっきり言っておくが[5]、上にあげたような女子高生たちの反応は一言で言えば勘違いに過ぎない。勘違いして期待した結果、期待はずれに直面させられ、憤慨しているのだ。たかが社会学者である宮台に何を期待しているのか、と言いたい。

朝生にFAXをした女子高生の「データとか歴史とか説なんてことは私たちには全然関係ない」というのは全くその通りだ。実際あの場では彼女たちの気持ちとは全然関係ない話をしていたのだから。しかし、なぜ彼女たちは朝生で彼女たちの気持ちについて語られるべきだと考えたのだろうか。

上にあげた一部の女子高生たちの反応を見ると、「こんな格好をしていてもホントはちゃんとしている私」「自分で選択してこんなことをしている主体的な私」「そんな私をわかってほしい!」という自意識が透けて見える気がする。そういう自意識は実は「逸脱した」子らに対する差別意識の上に成り立っているのだが、それを批判してもたいして意味がない。むしろ、なぜ彼女たちはわかって欲しいのか、そして実際にはなかなかわかってもらえないのか、が重要だ。

彼女たちは、メディアにあふれる「女子高生」という記号によって「ほんとうの私」が隠蔽されてしまう現実にイラだつ。もちろん彼女たちは「女子高生」の台頭にイラだつあまりマヌケな言葉を撒き散らすバカオヤジを真面目に相手にするつもりは毛頭ないだろう。しかし、それだからこそオヤジの敵は女子高生の味方であって欲しいのではないか。オヤジの天敵のような宮台がメディアに現れることで、イラだつ自分たちが救われることを期待したのではないか。

期待しているからこそ期待はずれは起きる。最初から何も期待していなければメディアが何を言おうとそんなものは毒にも薬にもならないはずだ [6]。宮台によれば、実際いわゆるブルセラ少女たちの多くは、テレクラやデークラから垣間見える風景を現実として受け止め、それに対して適応的に振舞ったのであって、マスメディアに踊らされたわけでもないし、マスメディアが代弁する世間の論理に反抗したわけでもない。

宮台は確信犯的にブルセラや援助交際を煽る。これを宮台は「毒に対して対抗するために毒を打っちゃえ、みたいな」[7]と説明する。それは「女子高生」という記号をインフレのうちに解体するためだ。それによって「女子高生」神話に疎外される人たちが救済されると考えるからだ。

「女子高生」は、「精神的にも肉体的にも純粋であるべき」という無茶な要求が先行するからこそ、民俗学的に見ても年相応であたりまえな行動 [8]が、ことさら「性的に奔放」であったり「したたか」であったりするように見える。オヤジたちが「女子高生」に興奮するのも憤慨するのもこの落差にヤラレているのだ。悲劇的なことに、この落差こそがオヤジ側にとっての「女子高生」の価値を高騰させ、「純粋であれ」という要求をますます無茶なものにしている。

「純粋であれ」という無茶な要求を不当なものとして拒むのを「不純」となじられるだけならまだしも、「馬鹿だから純潔の価値もわからずメディアにのせられている」などと思われれば腹も立つだろう。また、その無茶な要求をせっかく素直に受け入れても、メディアの流すいまどきの「女子高生」と一緒にされて「どうせオマエもヤってるんだろう?」などと思われてはたまったものではないだろう。

どちらにせよ「女子高生」という記号に邪魔されて現実の女子高生たちの「あたりまえの自分」や「ほんとうの自分」を認めてもらえないという状況は同じだ。しかし、前者が「誰にも迷惑かけてねーだろ、何が悪い!」とすごんでみれば後者が迷惑し、後者が「一部がおかしいだけで、私たちはちゃんとしている!」と主張すれば前者が差別される。実に困った状況だが、女子高生と「女子高生」の落差がなくならない限り、彼女たちの問題は根本的には解決されることはないだろう。

落差をなくす方法には二通りある。一つは現実の女子高生を、あるべき「女子高生」へと矯正すること。もう一つは「女子高生」という記号を解体すること。宮台は「女子高生」という記号の日本の伝統に合わない不自然さ、現代の日本の社会が道徳によって子供たちを矯正する能力を失いつつあることの必然性、などを考慮して後者を選ぶのが合理的な選択だと判断する。

宮台は女子高生たち(そして、「女子高生」に悩む僕たち男の子も!)を「社会的に」救おうとしている。その動機の部分はオヤジたちがデタラメな方法で救おうとしているのが我慢ならないだけかもしれない。しかしなんにせよ彼女ら(そして彼ら)が救われることを望んでいるのは確かだ。そして、一部の女子高生たちに「みんな君のことを悪く言うけど、ほんとは君は悪くないんだ」などと言って慰めてみたところで「社会的に」は問題は何一つ解消されない。

もちろん個々の女子高生の悩みをどうにかするためにそういうメッセージで彼女らを癒す人はいてもよい。そして手っ取り早く癒されるために女子高生たちがそういったメッセージをメディアに求めるのも仕方がないだろう [9]。しかしそれは宮台の仕事ではないのだ。


[3] 援助交際をしていない女子高生は一部というよりはむしろ大半だろうが、宮台の発言に対していちいちムカツキを表明せずにはいられない女子高生は一部であろう。続く引用からもわかるように、女子高生を十把ひとからげに扱うのがムカツクのだそうなので、「一部」であることをくどいほど強調しておいた。:-P
[4] もっとも取材中に出会った個々の女子高生とはほとんどケンカのようなやりとりもするらしい( [B.1994a] を参照)。
[5] まったく余計なお世話である。おまけに無茶苦茶エラそう。
[6] もっとも、街で見知らぬオヤジにあからさまなエッチな視線を向けられるのは、そのつもりのない女子高生にしてみれば無条件にムカツクことかもしれない。しかしそれをメディアの責任にされても困るのだが。
[7] 「【特別鼎談】性商品としての女子高生誕生を語る
自意識なき自分に悩まない、新世代の登場」

『別冊歴史読本 特別増刊 04 「女子高生」解体新書』 [A.1995c]
より。
[8] これについては佐藤氏が ※増補の増補:援助交際女子高生は本当に新しいか? の「●民衆はいつの時代も「ヤリまくり」だった!?」で触れられている。

宮台自身も同様のことを随所で述べている( [B.1996c] での説明など、ネタも佐藤氏と全く同じ)のだが、それがもはや自明のことであるかのように(そりゃ社会学者にしてみればそうなのだろうが)、この事実に関しては極めて早口でしか語られていないとは思う。

[9] もっとも「甘ったれるな! メディアはアンタらのためにアンタらを話題にしてるわけじゃねーんだ!」ぐらいは言いたい気もする。言っても仕方がないことだとはわかっていても。。。





次回、

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終らない世界


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