宮台真司 著書・雑誌記事・出演番組一覧 (基本的に私が視聴したもののみです。ほぼこれで全部ですが、コメントがいいかげんなのは今後更新していく予定です。)
著書
1997 | 1996 |
1995 | 1994 |
1993 | 1992 |
1991 | 198x
1997
[B.1997a]
『世紀末の作法』
発行:リクルート ダ・ヴィンチ編集局、発売:メディアファクトリー
93 年秋以降に執筆された新聞・雑誌向けの原稿(インタビューなどは除く)をまとめたもの。朝日新聞の連載 「ウォッチ論潮」 [N.1996a] 、ダ・ヴィンチの連載 「殺したい誤解」 [A.1997d] (共に 96-97年)、ヤングチャンピオンの連載(94-95年) を軸に、様々な一般雑誌、企業の PR 誌、などのために書かれた単発原稿、他の作家の著書の解説などから成る。極最近の原稿(最も新しいもので 97 年 6 月のもの)も含まれるが、淳君殺害事件に関連するものはまだない。
90 年代以降の若者たちの急速な変化と、それに伴い大人達が感じる不透明感の上昇に対応して、宮台はすみやかで効果的に自らの分析と主張を伝達するために、この 3 年ほどは行政機関などでの講演、同書に掲載された各種の連載、単発原稿、などの執筆活動を、単行本の書き下ろしより優先してきたという。
折々の事件、社会現象などと、それに接した宮台のその時々の反応の記録でもあり、深く掘り下げた分析結果の報告というよりは、問題点の指摘や問題提起に重点を置いており、その分読者に対して訴えかけるような内容となっている。
過去三年間に宮台が雑誌等に執筆した依頼原稿のうち、原稿用紙 30 枚以上のものを収録したもの。それぞれの初出は以下の通り。
- 「社会学的フィールドワークの目的」 [A.1996i]
- 「青森のテレクラ少女たち」(『創』 1995年1月号)
- 「テレクラの民俗誌」 [B.1996d]
- 「東京都淫行条例とテレクラ規制への疑問」 (『[淫行条例]十三の疑問』 に大幅加筆)
- 「郊外化と近代の成熟」 [B.1996c]
- 「インターネット時代の暗黒面」 [A.1996a]
- 「いまどきの恋文」(『小説TRIPPER』 1997年春季号)
- 「成熟社会の差別論」 [A.1997ab]
- 「「良心」の犯罪者」 [A.1995b]
- 「酒鬼薔薇聖斗のニュータウン」 [A.1997x]
「まぼろしの郊外」というタイトルからはわかりにくいが、これらの論考に一貫して共通するテーマは、人々がもはや幻想を共有できない不透明な成熟社会において、あらゆる幻想を捨て去るのでもなく、特定の幻想を共有することに固執するのでもなく、「共生」するためにはどんな可能性があるのか、という点である。「郊外」は、かつて幻想に支えられて成立しながら、後続する世代の抱く幻想を分化する方向に機能し、結果的にかつて共有されていた幻想を打ち砕いてしまうような、近代社会が成熟していく場を指し示すキーワードである。
女の子の恋愛感覚の変化から少年による猟奇殺人まで、表面に出てくる現象は様々であるが、根底にあるのは「郊外」的な問題であり、それが「郊外」的な問題であるがゆえに、そこに気付かずに問題に向き合うことは問題を増幅する結果になりかねない。
宮台の目標は我々の社会を成熟社会のより安定したステージ ―― 「共生」する社会 ―― へとソフトランディングさせるところにある。「共生」の具体的な可能性は、問題領域により様々な困難があり、その処方箋は (特定の幻想の共有可能性に賭ける人たちが期待するような)包括的なものとはならない。だからこそ、今この時代に社会の問題を論じるならば、宮台的に自らを個々のフィールドに投じつつ抽象度の高い分析を行なう方法を身につけることが不可欠であろう。
1990 年夏の有害コミック規制運動に端を発し、97 年末に施行された東京都「買春」等処罰規定に至る一連の「青少年の健全育成」を目的とする市民運動や、それに呼応する行政の動きを詳細にわたって検証し、批判するルポ。巻末に約30ページにわたって宮台真司、宮淑子、藤井誠二による鼎談「目的を果たせなかった計画について語ろう」が収録されている。帯にも宮台のコメントがある。
室生忠と五人の識者との対論集。今なお物議を醸す「終りなき日常を生きろ」というメッセージの真意を自ら明らかにし、後に繰り返し口にすることになる「ウソ社会」のモチーフが語られる。信仰・ボランティア・社会運動に身を投じる人達に多く見られる「実存の問題」と「社会の問題」を区別できない愚かさとは何か、徹底的な相対主義とはどういうものなのか、更に相対主義の中でもなお可能な宗教の形態はどういうものなのか。宗教的社会変革の可能性を信じる室生氏との間に漂う緊張感の中で今までになく広がりのある議論が展開される。
一応は観念絵夢というマゾの AV 男優の著書なのだが、実際には観念の持ち込んだ思想書(?)マゾバイブルの企画をめぐって行なわれたいくつかのインタビューの記録がメインである。そのなかで、宮台真司の観念絵無に対するインタビューの記録 「マゾは権力への意志である」 は思想書? としてのマゾバイブルの中核をなすものとなっている。
思想かぶれっぽい意味不明の観念の言説を宮台が明晰に分析する、というよりはむしろ宮台のマゾ理解に観念の言説をひきこむ形で宮台が自説を展開するといった感じだ(これは実際喋っている分量にもあらわれている)が、観念は初めて自分が理解されたと実感できたらしくすっかり舞上がってしまったらしい。他のインタビューや彼の自筆テキストと比較しながら読むと、宮台の洗脳力の凄さがわかる。
内容的には、マゾ分析・イジメ分析として深いものになっている他、宮台が自身の小学生時代の「転校してもドブに突き落されたりとか」の、いじめられっこ体験について語っているのが注目される。テレクラにはまった過去(後に [A.1997a] でも語られた)にも触れている。
12人の論者が戦後日本の欲望と消費を論ずる。宮台は『「テレクラ」の民俗誌』と題する 43 ページにわたる論文を寄せている。この論文の特徴は、テレクラ、Q2、伝言ダイヤルなどの電話風俗の歴史が詳細にわたって記述されているところ。それらがいつどのよ うに生まれ、いかにして売春メディアと化し、少女たちを巻き込んで きたのかが分析されている。
特に、電話風俗に対する規制がどのように機能し、なぜ結果として裏目に出てしまったのか、に関する分析は「援助交際肯定派」とみなされがちな宮台のスタンスの根底にある論理を理解する上で重要である。
宮台が「なぜ今、淫行処罰規定を問題にするのか?」「少女売春はなぜ増えているのか?」の二つの記事を執筆。
有名なキーワードをタイトルとしたこの本は「オウム完全克服マニュアル」として出版された。内容は『宝島30』7月号の記事 (別冊宝島 229 「オウムという悪夢」 [A.1995b] にも収録されている) に多少加筆したもの。オウム事件が結局は神なき社会における「終りなき日常」(ブルセラ世代が適応した世界観)と、「輝かしき共同性」(オウム世代が夢想した世界観)との対立から生じたと結論し、オウム事件を繰り返さないためには、「終りなき日常」を生きる知恵こそが必要であると説く。
「女性達の「断念」にこめられたもの」と題した解説は [B.1997a] にも収録されている。
隠蔽される少女たちの性の実態を暴き、虚偽に満ちた識者たちの論理を徹底的に批判する。前半は、いわゆるブルセラ女子高生たちの実態をめぐる議論だが、後半、一転して予期的人格システム論による「新人類」「オタク」「宗教」分析が展開され、本題はむしろここにある。社会学的な分析という立場をやや踏み越えて宮台自身がブルセラ問題の真の問題はどこにあると考え、どう対処すべきものと考えているかは、あとがきの少ないスペースで簡潔に語られている。
統計調査と社会システム理論による分析によって80年代の若者文化 - サブカルチャーをめぐる様々な言説(メディア論、オタク論 etc)を検証・批判し、その正体を暴く。近代日本のメディアコミュニケーションの歴史を踏まえ、80年代若者たちの文化に起こった様々な事件の歴史的必然性を論じる。
11 人(宮台の共同研究者を含めると13人)の若手研究者による日本のサブカルチャー関係の論文集。巻頭の「サブカルチャー神話解体序説」を宮台らが書いている。「サブカルチャー神話解体序説」は 『サブカルチャー神話解体』 [B.1993a] の内容を要約したような内容。
私はまだ全部は読んでいないのですが、社会学的なものの見方を 『社会学の理論でとく 現代のしくみ』 [B.1991a] に比べて軽めのテーマを通して味わえる本だと思います。
7 節 17 章からなる論文集。若手を中心とした 17 人の社会学者がそれぞれ各章の執筆を担当している。この中で「世界はどこへ向かっているのか」という節に、「権力――何が東欧改革を可能にしたか」と題して宮台が書いている。『権力の予期理論』 [B.1989a] の権力理論の基本をわかりやすく解説した上で、社会主義、法治主義といった社会体制の違いを人称的権力、奪人称的権力、汎人称的権力といった権力様式の違いとして把握し、東欧の民主化、中国の民主化運動の失敗、日本の近代化といった政治的事件を、それぞれの社会が伝統的に持っている権力的に機能する動機付けの要素(シンボリック・メディア)の違いがもたらした必然的な結果として読み解かれる。
社会における「権力」の概念にゲーム理論的な図式の上で明確な定義を与え、社会が自らを再生産する仕組みである「権力」の構造を、日常的に感じられる権力体験から国家権力のなりたちに至るまで、統一的な理論で解明する。
雑誌記事 1997 | 1996 | 1995 | 1992 |
特集記事の最後に、「作られた幻想から家族は解脱すべき対象になりつつある」と題した 1 ページ足らずの文章を寄せている。
96年5月号から97年4月号まで全12回の連載。各号のタイトルは以下の通り。
- 第1回(第25号・1996年5月号)
- 凡庸な人権主義者の「性の商品化批判」
- 第2回(第26号・1996年6月号)
- 「コギャルの物欲主義」を笑う愚か者たち
- 第3回(第27号・1996年7月号)
- 世界を素朴に生きられると信じる「バカ男」たち
- 第4回(第28号・1996年8月号)
- 「幸せな家族」の中で素敵な子は育たない
- 第5回(第29号・1996年9月号)
- コギャル売春の背後に隠れたものこそ問題だ
- 第6回(第30号・1996年10月号)
- 低年齢の性と浮気こそセックスレスの処方箋
- 第7回(第31号・1996年11月号)
- 快楽主義者が増えるとセックスレスが増える
- 第8回(第32号・1996年12月号)
- メディアでの自己防衛を試みる臆病者たちの群れ
- 第9回(第33号・1997年1月号)
- 「マスコミ悪玉論」の陰に覆い隠されてしまう問題
- 第10回(第34号・1997年2月号)
- インターネット化がもたらす「ゆるい社会」を生きる知恵
- 第11回(第35号・1997年3月号)
- 価値伝達よりメカニズム改革を! 規制主義より動機背景の操縦を!
- 第12回(第36号・1997年4月号)
- 援助交際報道をめぐる米国マスコミの勘違い
特別企画・日本への直言の中の一論文。ちなみに特集の最初の論文は西部邁。「日本の危機」という特集のテーマに対して宮台は国家としての日本の危機ではなく「社会の危機」について論じ、日本における「社会の危機」の本質は動機付けのメカニズム(インセンティブシステム)の機能不全にあるとする。
成熟した社会では多くの人が「まったり」生きることを選択するのは必然だが、全員が「まったり」してしまえば社会は沈没してしまう。そんな社会を維持するために「まったり」できない損な役回りを演じる人材を確保するにはどうすればよいのか?
宮台はここでは具体的な処方箋を提示しないが、その方法論は「動機を調達する」ことであるとし、この観点から、平等主義的な民主主義教育も、効率主義的な能力的エリート主義教育も、過渡的な近代に依存した価値観を説教することも、処方箋にはなり得ないと主張する。
半裸で空手! 着グルミで踊る! ガクラン着て女子高生を肩車! などいまだかつてないショッキングなパフォーマンスを繰り広げるばかりでなく、インタビューでも自分のヤバい過去を語りまくり。わざわざ専門書のあとがきとかを追っかけてきた私の立場は?!(宮台に偏見のある人には)驚きのエピソードが満載だが、たった 5 ページの記事ではそれぞれのエピソードの詳細までは書かれていないのは残念。オウムシスターズの長女との婚約発表で話題の苫米地英斗と学生時代ディベートしたってあたりは詳細が知りたいところ。
恋愛特集号の一コーナー。「男の気持ちを解説してくださった方々」の一人として宮台が登場。「本命の彼女がいても“据え膳”には手をだしてしまうんでしょうか。男の人って、セックスと恋愛を本当に分けて考えているの?」という質問に対して、「自分以外の女性と関係すること自体が許せないのか、すぐにバレるような言い訳をする無神経さが許せないのか、基準がハッキリしていれば彼に対してもっと毅然とした態度がとれるはず」など、男の気持ちをどうこう言う前に自分の気持ちをハッキリさせろ、と言わんばかりの辛口のコメントもちらほら。
「特集・『エヴァンゲリオン』とは何だったのか!? ―― 村上龍はじめ識者が多角的に読み解く未曾有のアニメ問題作の正体」の中の一記事。エヴァに散りばめられた新人類世代好みのネタや手法とは別に、エヴァには今の子供たちに訴えるものがあり、それは「シンクロ率」というキーワードに集約されるという。
紙面が足りないせいか、先日終了した朝日新聞での連載「ウォッチ論調」の「シンクロ率の低い生 「現実は重い」感覚」(97年2月 26日夕刊4面)に比べて「世界の謎」「自分の謎」という言葉の意味するところがわかりにくいのが残念。
記事の半分弱が「若者のメディアやサブカルチャーに精通している気鋭の社会学者」宮台真司のコメントで構成された「エヴァ現象」分析になっている。宮台は、エヴァは不透明な社会の中で自分が生きているという端的な事実を肯定することの難しさを克服する物語であるとし、「シンクロ率」を自己肯定の度合を示すメタファーとして捉える。しかし、エヴァが自己肯定だけで終ってしまい、社会とどう関わりどう捉えるかにまで踏み込んでいない点が不満だという。
ちなみに宮台は TV 版はリアルタイムで見ていたとのこと。主人公と名前が一緒で親近感があったとか。
特集「BOY'S Life これが僕の生きる道」の中の 2 ページの記事。「成熟した社会」への適応が女の子たちに比べて 15 年は遅れてしまった男の子たちの未来を語る。現状は女の子的な生き方を獲得したストリート系の男の子(プリクラやたまごっちにハマるのはこっち)と、いわゆるオタクな趣味にのめりこむオタク系(エヴァンゲリオンにはまるのはこっち)の両極は、「成熟した社会」に適応できているが、多くの普通の男の子は救済ツールを持たないままその中間層に位置して苦しんでいると言う。しかし最近はテクノ系のクラブがこれらの中間派(のストリート系に近い側?)の救済ツールとなっているらしい。
また、クラブで踊って現実にシンクロ(適応)できるのがストリート系なら DJ はむしろオタク系に近く、現実にシンクロできないハンディが新たな救済ツールを開発する動機となり、そこからエヴァンゲリオンのようなものが生まれてくるのだと言う。最近は「現実」の側にもそうした力を持ったシンクロできない男の子たちに対する歩み寄りが見られ、結局全体的にみて男の子は救済されつつあるのではないか、と結論している。
『SAPIO』 5月14日号の「新ゴーマニズム宣言」(小林よしのり著)でのハゲ疑惑その他に対する反論(?)を取材したもの。渋谷センター街の真中で前髪をあげて「ニヤリ」と微笑む宮台の写真が見もの。「(小林は)頭悪いの丸出しだから反論する気にもなれない」と言う宮台だが、小林のどこがダメなのか要点を押えて指摘。小林らの言う(「国民国家」の)共同性がもともとフィクションに過ぎないのを小林はわかってない、HIV 問題で懲りたはずなのに自分を支持する若者のヤバさを小林はわかっていない、多数派の象徴である女子高生に囲まれたくてしょうがないのではないか、など、毒舌も交えてコメント。
「中森文化新聞」 Vol.135 より。『STUDIO VOICE』 Vol.259 の宮台の記事 [A.1997j] に絡んだ裏話。同誌の編集者から同号の特集「BOY'S Life これが僕の生きる道」向けに原稿執筆依頼のあった中森明夫は 「通過儀礼なき時代を男の子はいかに生きるか――「三人のシンジ」の場合」 を書いた。「三人のシンジ」の一人はもちろん宮台真司。しかし、やはり同特集に [A.1997j] を寄稿していた宮台氏に「配慮」した編集者が中森の原稿を宮台に見せると主張。これに中森が反発したため、中森の原稿は編集サイドの意向で掲載を見送られた。(なお同原稿は 「中森文化新聞」同号に掲載された。)
宮台の書いたこの記事は、このような事前検閲がなぜ起こるのかを分析し、事前検閲を「無能者の保身」と断じる。一方、ブルセラ論争の開戦前夜に宮台の原稿を通すべく尽力した M 記者の例をあげて、有能な編集者がいかに停滞したコミュニケーションに対立を持ち込み、社会を動かしたかを語る。
淳君殺害事件を巡る宮台真司と香山リカの緊急対談。地域社会のニュータウン化の問題性、「酒鬼薔薇」顔写真公開の逆効果(ダーティーヒーロー化)、主婦たちに対する救いの必要性、少年の問題行動だけではなくあちこちで(宮台ファンにも!)見られる短絡的・衝動的な行動パターンの問題、今回の事件についてメディアで語ることの難しさ、などについて語られる。
二人のやりとりはかなり息の合ったものだが、香山から宮台へのやや批判的な指摘もあった。
それは、処方箋を短絡的に受け止めて問題を起こす人がいる以上、システムだけ変えてもダメなのではないかというもの。これに対して宮台は、処方箋は根本的には世代交代を待たないと効いてこない、下の世代の良い根を伸ばすためにシステムを変えるのだが、その結果疎外される上の世代に対するケアは別に必要だと答えた。
現在進行中の不定期(?)連載。各回のタイトルは以下の通り。
- 第一回:(6月23日号)
- 爆発する韓国テレクラ「電話房」、その現状と背景
- 第二回:(7月25日号)
- 酒鬼薔薇事件に寄せて(上)、乖離する現実と識者
- 第三回:(8月1日号)
- 酒鬼薔薇事件に寄せて(中)、千載一遇のチャンス
- 第四回:(8月29日号)
- 酒鬼薔薇事件に寄せて(下)、専業主婦サルベージ
著名人の女装させて写真を撮ってしまうというコーナーに、宮台が登場。当然のごとく女子高生に扮した氏の恍惚とした表情はマニア必見。
特集「いま、なにが差別表現なのか」の中の一論文。異なる複数のカテゴリーを包括するようなカテゴリーで認識(例えば男も女も「同じ人間」という認識)され告発されるとき、異なるカテゴリー間の期待や行動の差異は差別を構成する。
異なるカテゴリーを包括的カテゴリーで捉え直す限り差別はなくならないが、差別告発する立場もカテゴリーを用いる限り、別の包括的カテゴリーで捉え直せば差別告発の対象となり、原理的には差別は必ず起こり得る。
ゆえにカテゴリーは相対化されるのが望ましいが、一方ではアイデンティティーを形成するような、相対化できないカテゴリーが存在する。宮台は、そのようなカテゴリーに属する人たちが互いに侵しあわない「共生」(棲み分け)が目標となるべきであり、それを可能にするのは「共同性」ではなく「公共性」の確立であり、「公共性」は異なる共同性の間の試行錯誤の調停の伝統の中でしか確立しないとする。
鈴木光司のエッセイ集『新しい歌をうたえ』の書評。 日本の父親には(今も昔も)「父性」がない、だから「父性」を発揮するには母親以上に子供に関わらなくてはならない、とする鈴木氏の主張に対し、宮台は同意しつつも、自分から子育てに関わる父親(鈴木氏も、宮台自身も)が、良い親に恵まれていた事実を考えると、逆に良い親に恵まれない子は良い親になれるのか、という疑問を表明する。そして、子供は親を選べない以上「親業教育プログラム」は必要だ、と結ぶ。
神戸小学生殺害事件(いわゆる酒鬼薔薇事件)について各界の識者の見解をまとめたもの。執筆者は、鎌田慧、福島章、下村哲夫、宮台真司、山中康裕、野田正彰、小田晋、大澤真幸、影山任佐、妙木浩之、中澤正夫、菅佐和子、伊藤友宣、金盛浦子、小林剛、菱村幸彦、堀内一男、内海静雄、石原一彦、福田垂穂、山折哲雄。宮台は「注目すべきは中学生のストレス」と題する 8 ページの記事を書いている。
神戸小学生殺害事件(いわゆる酒鬼薔薇事件)について各界の識者の見解をまとめたもの。
中森文化新聞 VOL.124 の中での対談。
藤井良樹との対談。韓国テレクラ視察に関するものだそうです。
「特集・インターネット時代の文化的見取図」の中の一論文。インターネットがグローバルコミュニケーションを促進するという幻想を、多対多のコミュニケーション一般における問題性という観点から批判する。多対多のコミュニケーションは NTT の伝言ダイヤルなどを始めとして日本では 10 年前から存在し、その暗黒面が明らかになっている。インターネットの普及に伴う多対多のコミュニケーションの一般化は、例えば「買春はいけない、とみんな思っているはずだ」と思う、といった公共的な予期に基づく信頼関係を侵食し、近代社会システムの成立条件を覆してしまう。世間のタテマエが通用しなくなった社会を生きざるを得ない若い世代には、世間に蔓延しているすでに通用しないタテマエの繰り返しにしか見えない倫理的なメッセージは決して届かないばかりか、「ウソ社会」のイメージをますます強める結果にしかならない。
そんな「ウソメッセージ」しか発することのできない「老人たち」に対しては、彼らの「実存」の問題と「社会」の問題を混同しないように警告を発し(終りなき日常を生きろ!)、「ウソ社会」の現実にスポイルされた若者たちのためには「自己決定能力」を養えるシステムを作る必要があると訴える。
ブルセラ・テレクラ・デートクラブ。ごく普通の少女たちの間で平然と行なわれる買春行為。買春をめぐるオトナたちの通念から発せられる様々な言説の嘘は少女たちを決して守らない。少女たちの現実を知り尽くした二人が買春合法化を軸に少女買春問題に真に有効な対策とは何かを論じる。
藤井良樹の取材による特集記事。1985年から1996年までの東京におけるデートクラブの歴史、デートクラブ女子高生達の座談会、新宿の有名デートクラブの店長へのインタビューなどに続き、二人の対談が掲載されている。都市的現実に適応したデートクラブ女子高生たちに救いのなさを感じつつもそれを肯定して生きることの難しさを語りあう。
私はまだ読んでいませんが、サンサーラのホームページの中( こちら) に紹介があります。
「サブカルチャー神話解体」 [B.1993a] の少女マンガ論をベースに有名人(含む香山リカ)や少女漫画家のコメントなどを交えて、少女漫画がいかにして女性の欲望を育んだかをまとめた記事。通読していませんが、主として宮台真司のコメントで構成された前半 4 ページはおおむね「サブカルチャー神話解体」 [B.1993a] の要約といったところ。
どうでもいいけどにやけた宮台の顔写真はなんだか佐野史郎みたいでかなり嫌。
「中森文化新聞」 vol.119 (編集人 中森明夫)の、「朝生女子高生大論争総決算!!」というテーマで宮台真司、藤井良樹、柳川圭子がそれぞれ、朝生女子高生(「女子高生とニッポン!」 [P.1996e] に出席した女子高生をさすらしい)らとの討論会を終えての感想などを書いている。宮台にしては珍しく? 感傷的な雰囲気の文章。「馬鹿オヤジのデタラメを粉砕する快感に打ち震えるために、同じようにオヤジにムカつく女子高生をダシにしてきた」とまで断言している。
目的も理由も根拠もなく「ただ生きる」女子高生と、何をするにも「他なるもののため」という言い訳なしではできないくせに言い訳さえあれば平気で他人を傷つけるオヤジを対比し、宮台自身もまた捨て切れない「他なるもののため」というエゴが「ただ生きる」者たちによって粉砕されることを切望する宮台の胸の内は「女子高生に殺されたい」という刺戟的な表現で語られる。
宮台の「三人の師匠」のうちの一人、小室直樹との対談。なかなか濃い内容なのでまた改めてコメントを書きます。
村上龍が『ラブ&ポップ』を上梓した時期の対談。
朝生に超ムカついた女子高生が女子高生による討論会開催を決定、宣戦布告に訪れた女子高生たちに宮台が踏みつけられる、というグラビア。バックに宮台の事務所のものと思われる本棚が写っているそうで、宮台の蔵書の一部をチェックできるとのこと。
マニア写真家 アリカワ氏との対談。自意識の葛藤を失ったかに見える女子高生たちの「ゆるさ」、それを打ち破り女子高生に愛の可能性を予感させるためのテクニックとは。。。
「終りなき日常を生きろ」 [B.1995a] の元になった宝島30 1995年 7月号の記事を再収録したもの。
その他同書には浅羽通明、呉智英、小林よしのり、切通理作など、様々な知識人やジャーナリストの記事が収録(一部書き下ろしあり)されていてお得。
宮台が素人売春の歴史と現在を軽快に語る。日本の現状において「売春は悪い/悪くない」という議論はクダラナイと断じ、そのような良識論が現実には犯罪的に機能する(問題の隠蔽、アングラ化)のを抑止するのが社会学者としての自分の立場だと強調する。
茶髪で活躍する人物を紹介するグラビアに登場。「ブルセラ問題の資料の山」のある事務所での写真が掲載された。同記事に掲載された宮台のコメントは [B.1995a] (p.98) にも引用されている。
読書生活についてのリレーエッセイをこの号で担当。本の紹介など。
いわゆる団塊ジュニア世代(1970〜75年生まれ)の若者達が生きる世代固有のコミュニケーション環境を、主にその直前の新人類世代(1960年前後生まれ)との比較によって分析する。新人類世代が「他人の目を気にする奴ら」であったがために多様なサブカルチャーを作り上げたのに対し、団塊ジュニアは「視線への鈍感さ」ゆえに新人類世代の遺産にタダ乗りする。他者との比較ではなく、自己の「快−不快」原則に忠実に従うのはある意味では合理的な振舞いだ。
こういう合理性を、宮台は「ラスト3%を詰めない」と表現する。仕事でも趣味でも最後の3%を詰めて100%にするのにかかるコストはそれまでに比べて一見すると割に合わないくらいに多大なものになる。それでも他人につっこませないためにラスト3%を詰めるのが新人類世代(や、この世代のオタク) であり、あくまで割の合う範囲で97%仕上げて後はやめてしまうのが団塊ジュニアの感受性だという。
好きなことを好きなだけやるという自由を互いに尊重し合い他者に干渉しないという態度は、コミュニケーションの「島宇宙化」をもたらすが、宮台はそれは複雑な社会システムにおける後戻りできない必然的な流れだという。そして、今日の団塊ジュニアに見出される現象は、後の時代に訪れるかもしれない様々な危険を前もって教えてくれる「実験台」なのだと。
特集「YMO環境以後」の中の「YMOチルドレン25人の宿命 わたしにとっての、あの時代とは・・・。」というコーナーに寄せられた一文。YMOを(ついでにフランス思想も)オシャレだと思うのは勘違いの田舎者だとか、YMOに「高偏差値高校出身的」なイヤらしさを感じていたなどと言った挙げ句、そのイヤらしさは自分も同じか、なんて言ってみたりで、STUDIO VOICE 系のオシャレなライター達には随分反感を買ったらしい。
新聞記事 1997 | 1996 | 1993 |
神戸新聞社に送られた土師淳君殺害事件の挑戦状と犯行声明文の文面が漫画や映画からの引用だらけだったという記事に、「若者の生態に詳しい」社会学者として宮台がコメント。「メディアの影響と、過剰に意味づけするのは間違い」と真っ先にクギを刺しつつ、犯人像に見られる現実感が希薄で人を傷つけることも自分が死刑になることも生々しく感じることができないところは「今の若者っぽい」と指摘。メディアからの引用については「面倒臭いから借りただけ」なのでは、と、そっけない。
現在進行中の連載対談。
- 96年4月23日・夕刊
- 宮台真司×三浦俊彦 「格闘技」
- 96年6月25日・夕刊
- 宮台真司×枡野浩一 「コギャル語」
- 96年8月27日・夕刊
- 宮台真司×佐藤まり子 「ヒーリング」
- 96年10月24日・夕刊
- 宮台真司×酒井冬雪 「コマダム考現学」
- 96年12月17日・夕刊
- 宮台真司×山田美保子 「視聴者トーク」
- 97年2月25日・夕刊
- 宮台真司×鶴見済 「リセット文化」
- 97年4月24日・夕刊
- 宮台真司×莊口彰久 「クラブ」
- 97年6月26日・夕刊
- 宮台真司×中森明夫 「総オタク化現象」
- 97年8月26日・夕刊
- 宮台真司×岡田斗司夫 「エヴァともののけ姫」
「自身も茶髪にしている東京都立大の宮台真司・助教授(社会学)の話」として、原告にエールを送るコメントが載っているそうです。
折々の社会現象と、それに呼応して論壇に溢れる様々な言説を分析・批評する。夕刊にて月一回、一年間の連載。各回の表題を以下に。
- 第一回 (96.04.25)
- 『平準化幻想 「過剰な規範性」こそ問題』
- 第二回 (96.05.29)
- 『新しいイノセンス 新少女が示す実存形式』
- 第三回 (96.06.26)
- 『ウソ社会 「本音」とタテマエの二重性』
- 第四回 (96.07.30)
- 『大学で学ぶ 高まる「実利教育」の需要』
- 第五回 (96.08.28)
- 『死の自己決定 個の選択へ開かれた道を』
- 第六回 (96.09.26)
- 『共同性から共生へ 他者拒む伝統社会』
- 第七回 (96.10.30)
- 『90年代の逆転本塁打 弱者は建前利用』
- 第八回 (96.11.27)
- 『多元的な自尊心 異者と交わり自信回復を』
- 第九回(96.12.25)
- 『現実の虚構化 現実隠蔽「プラス発想」』
- 第十回 (97.01.29)
- 『情報化/消費化社会の可能性』
- 第十一回 (97.02.26)
- 『シンクロ率の低い生 「現実は重い」感覚』
- 第十二回 (97.03.27)
- 『恥ずかしい国日本 虚構の歴史にすがる』
出演番組 1997 | 1996 | 1995 |
3時間50分にわたる宮台の講義、と言うと言いすぎか? 宮台の発言にはこの問題についての宮台の主張と論拠が集大成されている。援助交際を始めとする青少年の問題行動がより危険な形で行なわれることを防止するにはどういう対策が有効でありうるのか、淫行条例のような対策が無効であり逆効果であること、淫行条例のようなものを作る側の無知と安易さなどについてほぼ完全に宮台の主張が通った形になっていた。
具体的には、低年齢(自己決定能力がまだ期待できない年齢)の性については法的規制が必要。ある年齢以上(自己決定能力が期待できる年齢)の買春は合法化すべき。
低年齢と買春可能な年齢との間には性についての自己決定能力を養うような教育プログラムを実施する。具体的には的確な情報提供と、当事者間のディスカッション、指導者として少年たちに信頼されるに足るだけの経験と知識を持ったスペシャリストを養成し投入する。
その他非常に濃い内容だったが、社会問題としての援助交際についての話題がほとんどで、する側の当人やその周囲の人の「実存の問題」としての援助交際については、精神科医が二人もいながらあまり語られなかったように思う。
無論そういう問題は朝生で討論しても討論する側としてはしょうがない話だし、上述のような教育プログラムの中でこそ語られるべきことではあろうけど、試聴者の側から見れば「なら私はどうすればいいの?」という落ち着かない気持ちに対しては応えられていないという感じはした。
番組終了近くの女子高生からの「統計なんて関係ない、私たちの気持ちを代弁していない」という電話と、それを受けた会場の拍手の意味はそのあたりにあるのだろう。
宮台は「パート1. 「私」をめぐる若者の状況」にて香山リカと対談。
神戸の小学生殺害事件に絡んで呼ばれた宮台だが、いきなり 『週刊宝石』 [A.1997z] の女装グラビアの紹介からスタート。
毎週金曜日のゲストが宮台真司。番組開始(4:30)から 30 分くらい、ニュースをネタにコメント、つっこみ、つっこまれ、近況報告など。最近では女子高生や風俗関係のニュースには自動的に宮台コールが。。。
97年10月から時間枠が拡大し、宮台と視聴者の電話トークのコーナーもできるとのこと。
余暇時間の使い方についてのコメント
イジメ問題に関するもの。私は直接見てませんが、 [A.1996a] などで言及されています。 (ビデオに撮っている方がいらしたら是非ご連絡お願いします。)
イジメ問題に関するもの。これも私は直接見てませんが、 [A.1996a] などで言及されています。 (ビデオに撮っている方がいらしたら是非ご連絡お願いします。)
これについてはいずれまとまった評論を書くつもりです。番組の概要などはテレビ朝日の朝生ホームページ( こちらです)を参照のこと。
「オヤジ狩り」に代表される少年・少女たちによる大人世代への暴力事件。かつての家庭内暴力、校内暴力とは違った意味を持つこの社会現象を分析する。
女子高生などに出演依頼をしてブルセラビデオを制作販売していた男が逮捕された、という話題。宮台は撮られる女子高生の側の認識の甘さに問題があるとコメントしている。正しい情報提供(男が個人的に見るだけで、外には出さないとか、顔にはモザイクかけるから、とか言っていても、とられてしまったビデオはどうにでもされうるし、実際そういうケー スが多いなど) をし、撮られた女子高生が無知から(本人にとって)望ましくない選択をしないような教育が必要だとする。
天皇制とオウムをキーワードに戦後日本について討論したもの。 『ゴーマニズム宣言』を読む限り、小林よしのりにはどうもこの時の宮台に対する印象が悪かったらしい。客席から反論? してきたおじさんをやりこめてしまったり、西部邁の、取材で会った女子高生に売春をやめろと言うべきだ、という非難に対して「フィールドワークもしないでね、エラ(そうな、と言いかけて)、勝手なこといっちゃだめなんだよ」などとサックリ言ってしまったり、宮台大暴れ。
インターネット |
[I.1996a]
毎日新聞 1996 年 1 月 7 日 14面の翻訳記事らしい。内容はデートクラブに集う女子高生や女子中学生の実態レポート。後半に少しだけ宮台真司のコメントがある。
なぜ女子高生たちが、自分の父親ほどに年をとった男性とつきあってまで、お金を欲しがるのか、という問に対して、宮台は彼女たちの「衝動買い」が原因と指摘する。学校に行っても家に帰っても良い大学にはいり良い会社に入るために勉強しなさいと言われてばかりの彼女たちにとって安心していられる居場所は街しかない。街での買いものによって彼女たちのストレスは発散されるのだ、とのこと。
Child Research Net に公開された、『季刊子ども学』 のバックナンバーからオンライン化されたもの。
岡田斗司夫 責任編集 のオンラインマガジンの記事。宮台が好きな人も嫌いな人も読めば納得の内容です。
アメリカのアジア関係の情報誌のサンプルページ。これは 1994 年のバックナンバーからオンライン化されたもの。
内容は、日本のセクシーブーム、ということで、ジュリアナのお立ち台でストリップさながらの大胆な格好で踊る女性たちを例にとり、日本文化の中でかつては「淫ら・汚い」とされてきたものが「セクシー」でファッショナブルなものとして若い女性に受容される最近の傾向についての報告と考察。
ジュリアナブーム、ボディコン、巨乳アイドル、ヘアヌード写真集、ブルセラショップなどの社会現象に言及し、若い女性たちの性に対する過激なふるまいを問題とする。
この中で、心理学者の Nobue Nakamura (って誰でしょう?) が、過保護な親に育てられた子供が自己という感覚を欠いたまま育ち、自己確認のために、性的に過激なふるまいに及ぶという主張が紹介される。
それに対立する意見として宮台真司の意見が紹介される。彼の意見では、ジュリアナ通いの女性たちは決して自己確認に動機付けられてはいない、セクシーブームはメディアに乗せられた単なる競争である、とする。
社会慣習を決定するものとして、メディアが地域共同体にとってかわってしまった現状で、メディアが「セクシーが今の流行り」と宣言した結果、単に気持ちいいという理由だけで若い女性たちがこぞってセクシーにふるまったのたど宮台は主張する。
(しかし、なぜメディアがセクシーブームを宣言しなくてはならなかったのか、また、女性たちがそれに乗ることがなぜ気持ちいいのか、については特に言及されていない。)
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