なんばりょうすけの
おぼえがき日記 (4)

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1999

[3-28] 一体何があったのか?

ETV の『教育トゥデイ』で川人先生(参照: [9-20] )を発見したのですが、何か変なのです。何と言うか、 目の輝きが違うんですね。笑顔が妙ににこやかだし。テレビをつけてしばらくは誰だか分りませんでした。見た瞬間から「絶対おれこの人知ってる!細胞」は発火しっぱなしだったのですが。

かつて集中講義や学会で見た川人先生は、醒めた目付きで飄々としていて、超クールな科学者、というイメージだったので、すっかり戸惑ってしまいました。一体何があったのか!?

[3-27] 久々に朝生を見て

久々に朝生を見てたら日の丸君が代ネタでした。なんか話聞いてると反対賛成どちらもみんな、自分の都合とか自分の気持ちとかそんなことばっかり話しているようです。国歌や国旗っていうのが国民である自分達の所有物であるかのような視点がそもそものマチガイのような気がするのですが。

国歌や国旗は他国との関係性の中で意味付けられていくものだと思うし、実際日の丸が事実上国旗として国民に受け入れられてるっていうのも、そういう意味でのことなのでは。

私だって今さら国旗変える必要はないと思います。韓国とかアジア諸国に対するイメージ云々を言うなら、国旗変えるなんてセコいことよりも、戦争責任問題関係で先にすることがいっぱいあるはず。それをやらずに来た日本、というイメージが日の丸に重ねられているのであって、国旗だけ変えても今度は新しい国旗が、うわべだけで誠意がない国を象徴する旗として見られるだけでしょう。

[3-13] 最近要チェックなマンガ

毎週マンガ雑誌を 4 誌(スピリッツ、ヤンマガ、マガジン、チャンピオン)買っている私ですが、今一番注目度が高いのはヤンマガですね。私が中学生の時に流行っていた『BE-BOP-HIGHSCHOOL』がまるでサザエさんのごとく続いているこの雑誌から、これは! という連載を紹介します。

『ユキポンのお仕事』東和広 [おすすめ!]
ぐーたらな独り暮しの女性に飼われる一匹のネコ(ユキポン)が主人公なんですが、このネコがかわいい! 一話完結で、だいたいは飼主にほったらかしにされて、バイトにでかけてはひどい目にあって帰ってくるというお話です。でてくる人の顔がみんなほのぼのとしていてよいです。ごちゃごちゃした絵柄も妙なあたたかみがあって好感がもてます。今時珍しいマンガらしいマンガです。

『アゴなしゲンとオレ物語』平本アキラ [大人気!?]
運送業を営むゲンさんとその従業員ケンヂ君のお話。まずゲンさんの一度見たら一生忘れられそうにないほどの強烈な顔面が印象的です。怖いです。気持ち悪いです。特に ヒゲの剃り跡の質感 がたまりません。

マンガ自体は、ナンセンスで馬鹿馬鹿しくて、おまけにたいてい汚ないお話が多いのですが、無茶苦茶笑えます。同じダメなおじさんが主人公のギャグマンガでも、バカボンパパには家庭がありましたが、ゲンさんは奥さんに逃げられて独り者ですし、今狙ってる女性はいきつけのソープ嬢だったりして、ダメさ加減にも妙なリアリティがあるところが現代的。

こんなダメなゲンさんの下で働くケンジ君もかなりダメで、良識派ですが気が弱そうでオドオドしているのですが、ゲンさんの横暴さにたまりかねたときのキレっぷりが見事。

あと、なにげに出てくる『餓狼伝』ネタとかも見逃せません。

ネットにファンページもあります。 アゴなしゲンとオレ物語ファンクラブをどうぞ。

『おやすみなさい』小田原ドラゴン [オタク魂!]
主人公の上野鉄郎はこれまたいけてない男性。いつもオドオドしていて、アイドルオタクで、童貞で。。。でも本当はいい人なんです。ネタとしてはアイドルネタ、ブルセラネタ、テレクラネタ、エロ本ネタ、通販ビデオネタ、童貞ネタ、など、情けなくてトホホなネタばかりですが、お話的には「いい話」というところに妙な味わいがあります。

ところで、ミラーボール工場って本当にあんなふうなの?

『闘破蛇烈伝 DEI48』前川かずお、原案協力: 島久 [理解不能!]
「異色格闘巨編」ということなんですが、ただの格闘マンガではありません。主人公の少年、破武男(はぶお)はイジメられっ子の高校生ですが、実は琉球最高の格闘術「裏手(うらでい)」の真正継承者だったのです。この裏手、ただの武術ではなく、繋ぎ女(つなぎめ) と呼ばれる特別な血筋の女性とセックスすることによって技(全部で48あるらしい)が伝授されるというとんでもない武術なのです。

こう書くと、繋ぎ女と継承者の間でのラブストーリーで盛り上がったりするマンガかと思うかもしれませんが、とんでもありません。繋ぎ女たちは真剣なのです。愛だ恋だの甘ったるいことは関係なく、いかに技を伝授するかだけが問題なのです。もちろんクライマックスは伝授、すなわちセックスシーンなわけですが、これがなんとも間が抜けているのです。登場人物の真剣さに比例して不思議な可笑しみが溢れ出してくるのです。

問題はこれを作者がどこまで真剣に描いているのかがわからないところです。ギャグなのか? トンデモなのか?

少なくとも形式上は上昇型のストーリーマンガですから「技の伝授」は主人公の成長を表す大事なシーンで、カッコよくて、盛り上がって、感動的なシーンでなくてはなりません。実際作者は、カッコよさ、盛り上がり、感動、といった要素を表現してはいるようなのですが、出来上がったシーンは、どう考えても可笑しい、としか言い様がないのです。これは作者が意図して計算し尽くされたギャグなのでしょうか? それとも作者は自分の表現が醸し出すこの可笑しみに対して全く無自覚的なのでしょうか?

作中にはフェミニストが見たら噴飯ものの表現も多々あるのですが、作品全体に流れるあの可笑しみを考えると、それはむしろ家父長制的な性道徳に対する風刺なのではないかという疑念さえ出てきます。私としては、この過剰に性的でありながらエロティシズムの欠落した謎のマンガを、ぜひとも 速水由紀子氏に批評していただきたいのです。

どれも現在連載中で、ヤンマガの中では人気も高そうなものです。 『ユキポンのお仕事』 以外は単行本が出ていますので、連載を見てもなにがなにやらわからない方は単行本を買いましょう。

[3-2] ミッフィーの真実

ミッフィーと言えば世界三大無表情キャラの一つ[1]ですが、あのちっちゃい目[2]と × 型の口がかわいらしくって大好き、という人は多いですね。

しかし、あまりに無表情なので、表情にバリエーションはないの? と疑問の向きも多いと思います。だいたいあの×口はどうなってるんだろう、あれでごはんとかたべれるんだろうか? などと不思議に思う人もいるかもしれません。

実はミッフィーのあの × 型の口は物を食べるときには四方向に開くのです!![3]

この事実はオランダの子供達なら誰でも知っていることなのですが [4]、日本のメディアでは(その口を開いた様があまりに不気味ということなのか)常に隠されてきました。講談社のビデオライブラリでもミッフィーの食事のシーンは全てカットされているのです。

マスメディアによるこのような情報操作は私たちのミッフィーの本当の姿を知る権利を侵害しており、極めて遺憾に思うのです。


















というのはウソ!!

本当は開いた口は ○ 型のようです。
 ∩ ∩        ∩ ∩
 || ||	      || ||
(・x・)  →  (・o・)
こんな感じ。
(参照: 「ミッフィーとがっこう」 『ブルーナのビデオ絵本館 第2集』 Dick Bruna (講談社))


[1] 残り二つはゴルゴ13 と綾波レイ。
[2] テーマソング「ミッフィーのうた」では「丸い目」と歌われているが、ああいうのを丸いと言っていいのか?
[3] ラビット夫妻(ミッフィーの両親)など、大人の場合は六方向。
[4] ミッフィーの原作者 Dick Bruna はオランダの絵本作家


[2-7] コトバとモノ自慢

色々コメントしたい事件とかなくもないんですが、まあ私のコメントで世の中どうなるってものでもないと思うし、個人的なストレス発散企画を先にやっちゃいましょう。どんな企画かというと、最近読んだ本と最近買ったモノを自慢しちゃうというイヤな企画。まずはコトバのほうから、と思ったのですが、時間がないので今回はモノ自慢だけ。

あ、やっぱりその前にちょっとだけ。『ダ・ヴィンチ』 今日買いに行きましたが、徳島ではまだ売ってませんでした。 「世紀末相談」 [A.1997ae] 次回で最終回だそうで、しかも文章は暗かったと聞くし、先週の『デイキャッチ』 [P.1997l] でも ギャグが寒かったとの噂も聞きますし、朝日カルチャーセンターの 講義をすっぽかしたり(うっかり他の講演会とダブルブッキングしてしまったらしい)、なんか最近宮台氏壊れてないか? というわけで、ちょっと心配な今日この頃。

さて、気をとりなおしてモノ自慢。

Happy Haking Keyboard (HHK) は PFU の出してる究極にちっちゃいキーボードです。ホームページはこちら。秋葉原の秋葉館で 2 万円ちょいで買いました。PS/2, Sun, Mac 用のケーブル付き。秋葉館は本来 Mac のお店なので(新型 G3 Mac も置いてました)宮台も来たことあるかも?

以前もちっちゃいキーボード買ったって書きましたが、HHK はさらに小さくて、面積は文庫本2冊分くらい。以前のキーボードはノートパソコン用のキーボードの部品を使ったものでキータッチもそういう感じでしたが、HHK はキーストロークも普通だし(ちょっとふにゃけた感じがしなくもないが)、小さいキーボードにありがちな不当に小さくされてしまっている可愛そうなキーがないのがよいです。UNIX 使いが好んで使っているそうですが、Linux で Meta キーを使えるようにするのにちょっと手間がかかりました。

キーボードに 2 万円は高い、とは思うし、台湾製の 3000 円のキーボードを 2 年に一個くらい潰しては買いするほうが多分得なんだろうけど、これってやっぱり愛ってやつ? 専用ソフトケースも買っちゃうかも。

もう一つモノ自慢。デジカメ買いました。 Nikon COOLPIX 900 です。新宿ヨドバシカメラにて型落ちで 5 万円くらいになっていたのを購入。デジカメは初めてなんですが、反応が少しトロいのと電池を無茶苦茶食うのが辛いですね。COOLPIX は店頭で色々触ってみて画像の書き込み速度が速いのと、やっぱり Nikon ということでレンズが良さそうなので決めました。でも電池の減りがこんなに凄いとは知らなかった。最近はなるべく液晶ファインダーは切って撮ってます。

デジカメの画像をパソコンに転送するキットが 1万2千円くらいであったのですが、どうせ Windows (もしくは Mac)用だし、と思って買わないでいたんですが正解でした。こうも電池の減りが速いと転送中の消費電力さえケチりたくなります。

で、結局どうしているかというと、I-O データ機器の PC カードドライブ(のバルク品)とデジカメのメモリを PC カードドライブに挿すためのアダプタをFLIP-FLAP から通販にてあわせて1万2千円で購入。これは SCSI に繋いで、ドライブに挿した ATA フラッシュメモリカードをハードディスクとして読めるというもの。お店の人は保証できないって言ってましたが、ちゃんと Linux からでも使えます。ms-dos ファイルシステムとして mount すればオッケー。

[1-26] 世紀末の「常識」?

1月21日の『読売新聞』朝刊の[論点]ネット社会の病理を洗う「みんな仲良し」主義の弊害」を読みました。議論の中心命題は「匿名性」ではなく、日本の 「共同体主義的コミュニケーション文化」です。

「みんな仲良し」に象徴されるように、他者を共同体の一員であるがゆえに信頼するという作法は、他者が共同性を共有していることをアテにできなくなった現代では、現実から解離した危険なものになる、というような話だと理解しました。

見知らぬ他人は当然仲間じゃない、という現実からすれば、例の伝言強盗事件は、「メディアの特性以前に、 生活常識の問題」と言います。

でもちょっと気になることが。宮台氏の挙げる「常識」は、「対面販売で売られていない薬を飲まない」「知らない人間の車には乗らない」というものだけど、そこまで言うなら 「知らない人間とセックスしない」なんてのはどうかしら? というツッコミが入っても当然だと思うんですね。

「知らない人とセックスする」のは「知らない人間の車には乗る」程度かそれ以上には危険なんですが、どのくらい危険かと言えば、日本だとそんなに危険じゃないと思うんです。もちろんそれは、日本人の多くは未だに共同体的メンタリティの持ち主だからでしょうけれども(日本がまだ経済的に豊かな国だからということもありますが)。

もちろんこれから先、知らない人間が危ない人間である可能性は高まっていくのが時代の流れだろうし、いくら警戒しても警戒しすぎることはないのかもしれません。でも、それならそれで宮台氏は、今までさんざん「擁護」してきた少女たちの振る舞いに対して警鐘を鳴らす側に回ってもよいのではないかという気もしてきました[1]

言うまでもなく、従来メディアが伝えてきた援助交際の「危険性」は、的外れであったり(暴力団絡みの事件が起る![2] とか)、一面的であったり(被害者の「逸脱」にばかり注目して、加害者の逸脱ぶりを見ない[3])で、どうしようもないのが多かったのが現実でした。

それもそのはずで、それらの言説が伝える「危険性」は実のところ「オヤジ」の実存の危機を表しているに過ぎず、少女の「危険」を 気遣うフリをして、その実、逸脱した少女を家父長制の反逆者と見做し、 制裁をちらつかせて威嚇しているだけ、というシロモノ。要するに、少女のことなんて何も考えていない。

もちろんこういう言説に効果はないしむしろ逆効果。オヤジの言う「危険」は脅しクサい、ってことは本当は「安全」でオッケー、という読みを誘発してしまうことだってあるでしょう。

本当に少女たちのためになるような情報はちゃんと流通しているのでしょうか。不勉強なもので少女向けメディアとかほとんどチェックしてないんですが、『ハッピー・マニア』とか読んで、世の中にはストーカー野郎とか自己中野郎とかがいるんだなぁ、ってことを学習[4]してたりするんでしょうか。


[1] もちろん宮台的には、教育改革など社会の仕組みの方に手を入れて、援助交際の動機付け要因を減らせば(長期的には) オッケー、という考えもあるかもしれませんが。
[2] 参照: 宮台真司は「オウム的」か?
[3] このパターンは援助交際に限らず売春関係を扱う報道ではよくありますが(半年ほど前の『ザ・スクープ』 の出張風俗の特集とか)、そういう「客の暴力は売春に伴う当然のリスク」みたいな扱いには、「セックスを許したのだから、何をやっても許される」という加害者側にありがちな心理と通底するものを感じます。
[4] もちろんこの「学習」というのはお勉強することじゃなくて、パブロフの犬のアレみたいな「学習」。


[1-7] またいつもの繰り返し

例の事件ですが、なんか伝言ダイヤル絡みってことでまた騒ぎになってるみたいですね。10 年程前に伝言ダイヤルにハマッた私としては、「伝言ダイヤルが悪い!」みたいな論調はどう考えてもおかしい、としか思えないんだけど。

これって「家に泥棒が入るのは窓があるからだ! 扉があるのも問題だ!」って言ってるようなもんですよね。ちゃんと戸締りしろって。伝言ダイヤルとかテレクラが危険といってもその程度のことじゃないかな?

伝言ダイヤルに限らず、不特定多数が匿名で出会うメディアでは、あくまでその場だけで楽しむとか、会うときは友達と一緒に会うとか、リスクを減らして楽しむやり方はあります。より高度な技としては相手を遠目から観察して見極めるとか、やばそうな誘いはうまく断るとか。

要は知らない人と会う時のリスクを自覚していれば、その人のスキルによってリスクを十分減らすやり方は色々あるはず。問題は、リスクに対する自覚がない人の存在や、リスクを減らす方法が広く認知されていないことのほうでしょう。そういうのって、伝言とかやらなくても、問題ありありって気がする。

もっとも、家に窓や扉が必要な程に、この社会に伝言ダイヤルが必要なのか、という話はあるでしょうね。実際ああいうものは、必要ない人には全然必要ないわけで、そういう人から見れば、なくしゃいいじゃんって話になるんでしょうね。

でも、ああいうものを必要としている人が少なからず、それも至るところにいるとして、その必要が満たされることで社会が安定している側面があるのなら(私はそう思う)、より多くの人が伝言ダイヤルのようなメディアに対するメディアリテラシーを身につけることが望ましいんじゃないかと思います。

小林よしのりとかは何て言うんでしょう。「大人になれ派」なんだから、「あんなんひっかかるほうが悪い」って言ってくれたらいいけど。

[1-1] 新春読書自慢

年末に更新するはずが思いっ切り年越してしまいました。とりあえず今年の抱負みたいなことを言いますと、もっと思ったことをすぐに、そのまま言葉にして、こういうところに書けるようになりたいですね。

人があまり言ってないことを言わないと意味がないとか、人より芸があるところをみせたいとか、読んでる人に楽しんで欲しいとか、間違ったことを言いたくないとか、そういうことを気にしすぎてなかなか思ったようにものを書けなくて、結構それがストレスになっていた気がします。

これってでも結局、人と同じことを言ってる人とか、芸のない人とか、読者を楽しませる気がなくて一方的に語る人とか、間違ったことを平気で言う人とか、そういう人たちに対して私が異常にムカツクタチなので、その裏返しなんですね。今年はもうちょっとおおらかになれるといいのですが。

さて、ここ二三日の間、テレビも面白くないし遊び相手もいないので本ばっかり読んでました。『土壇場の経済学』 青木雄二、宮崎学(南風社)は、読んでて妙に元気になれました。青木の作品『ナニワ金融道』は全巻そろえてるくらいだし、宮崎氏は以前宮台氏と対談してたし、最近ホームページを読んで、興味をもっていたので買いました。

『トンデモ一行知識の世界』唐沢俊一 (大和書房) は、馬鹿馬鹿しさ炸裂の一冊。寒い夜は布団のなかでこういうのを延々読んでいたい気分です。

FOR BEGINNERS (85) フーコー』 C・ホロックス/文、Z・ジェヴティック/絵、白仁高志/訳 (現代書館) は、イラストが面白過ぎるので購入。内容はフーコーの生涯に沿って彼の思想の概要、その批判、などを簡潔な文章と印象的なイラストで解説するというもの。フーコーの私生活に関してエリボンの伝記には出てこなかったネタ(私が忘れてるだけかもしれないけど)もちらほら。飲酒運転で事故りまくったり、授業料稼ぐために援交したり、気に入らない作家をぶん殴ったりとか。

この本は現状のフーコーの言葉の受容のされ方、使われ方に対する痛烈な批判で終わります。いわく、「理性からの解放どころか、彼の著作は拘束服のように自由を妨げるものになってきた」「今日、 フーコーの語りは、陳腐な、もしくは、政治的に正しいバージョンの歴史を支持するのに使われるだけである」

次は宮台氏が都立大の大学祭の講演でダメなフーコー研究者たちはこれを見習え! と絶賛した『檻のなかのダンス』 鶴見済(太田出版)。今年はこれを読みながら年越しました。

私たちの社会が生き苦しいのは、「ドリル」(反復訓練。フーコーの言うディシプリンに相当)でカラダを意味ある行動へと縛りつける様々な制度(学校の建物の構造、時間割り、体育、受験制度)で閉じ込められた監獄社会に住んでいるから。そこから脱獄するには踊れ! という内容。

なお鶴見氏のいう「ダンス」は、適当に体を揺らしたり、手足をブラブラさせたり、とにかくデタラメに体を動かすようなのも「ダンス」のうちに入ります。逆に学校のフォーク・ダンスとか、昔のディスコとか、誰かにちゃんと踊っているかどうかチェックされるようなのは「ドリル」のうちに入ります。服装も飾らず踊りやすい機能的な服装がよいとされ、ドレス・ダウンが合言葉だとか。都立大の講演で宮台氏は「日本ではドレス・ダウンが「おしゃれに着崩す」と解釈されて一つのモードになってしまったが、これはマチガイ」とも。

私はダンスっていうのはまだ全然ダメです。踊ったのは 2 年ほど前、当時付き合っていた彼女に引っ張られて電気グルーブのコンサートに行ったのが最後です。そのときはまわりにあわせて適当に踊っていたんですが、常に自分の踊りって変? リズムからずれてない? とか気になってしょうがなかったです。常にアタマがカラダにチェック入れてる感じ。

最初に『檻のなかのダンス』の話を聞いた時は、「ダンスじゃなきゃいけない? ゲームとかじゃダメ?」と思ったんですが、読んでみて、中途半端に達成感とかそういう目的性がある分、ゲームはイマイチかもなぁ、と思いました。でも私の場合、格闘ゲームの楽しさの半分くらいは「とにかく動いてるから気持ちいい」ってところがあって、そのせいかあまり真面目に必殺技とかコンボとか練習しないので、格ゲーのゲームシステムの進化についていけず、ヴァンパイア・ハンターあたりからもう全然上達しなくなった覚えがあります。

あとは 『これが答えだ!』『[よのなか]』 を読みましたが、これについては新着情報 [1-1] に書いたので詳細は略。

ありがたいことに 『これが答えだ!』 の巻末の 「宮台真司ホームページ案内」 で当サイトが紹介されました。 「宮台真司公認ホームページ(みたいなもの)です。」とのことですので、トップページのタイトルもそのようにさせて頂きました。

1998

[12-28] ネットはヴァーチャル空間か?

最近話題のドクター・キリコ事件ですが、自殺云々についてはあんまり書くことがないのでおいとくとして、西垣通・東大社会科学研究所教授(情報社会論)が「インターネットでは実名発言を原則にすべきでは」というようなことを言ってたことについて何か書きたいと思っていましたが、また今度にします。

とりあえず思ったのは、全部実名になったら個人の思想・信条に対する監視がとても簡単に(地球上のどこからでも、過去数年に遡ってでも) できるようになるってことですね。

[12-21] ハマって何が悪いのか?

『原理主義BBS』 で、「宮台教祖化」を懸念する声があがっていて、それに関連して特定の思想だの思想家だの「ハマる」っていうことについて色んな意見が出ていました。一行返事は窮屈なのでここに私の考えをまとめておこうと思います。

一言で言うと、 「ハマることを「選択」した事を忘れないなら、怖れずハマるべし」

「ハマって抜けると一皮むける」的な形のハマり肯定論は岡田斗司夫も言ってたと思いますが、これはそういうこともあるだろうけど自明じゃない、と思います。つまり、ハマり方とかハマった人の自尊心のあり方によっては、反動で反対側の極端に行ってハマった対象に対する熱烈な批判者になったりもするようです。

元オウム信者なんかで激しく教祖を非難するアレですね。こういうのは逆ハマりとでも言うのでしょうか。これは対象に拘るという意味ではまだハマってる状態とも言えます。

ハマり方が問題と言いましたが、これはつまりハマることで変容していく自分に抵抗を感じて「何故ハマったのか」と自問した時に、自分の中でどう決着をつけるかがカギになるのではないかということです。

「何故ハマったのか?」に対して、「よくわからないけど気持ちいいからハマっちゃえ!」って感じならきっと大丈夫だと思うんです。ハマりたいからハマった、ということを自覚し、それを忘れないなら、ハマった結果を自分で引き受けることができると思うのです。

「何故ハマったのか?」に対して、「それは 真理だからだ! ハマったのではない、 真理に目覚めたのだ!」とかなると、これはもう自己責任で選択したという自覚もへったくれもないでしょう。こうなると私の基準で言うところの「心酔」のレベルに達しています。

この違いはハマらない他人との関係にも影響すると思います。ただ「ハマってるだけ」の人にとっては「選択したわたし」と「選択しないあなた」の関係でしかないものが、「心酔」している人にとっては「正しいわたし」と「間違っているあなた」の関係になってしまいます。

私は「ハマるな、自分を見失うな」的な姿勢を信じません。そうやって身をかがめ、真理に近付くために真理ならざるものから身を守るべくガードを固めても、偽りの気付きで垣間見た偽りの真理は避けられないのではないかと思うのです。そうなると今度は自分で固めたガードで偽りの真理をかたくなに守ることになりかねません。こういうのは「自分を見失わない」ことを誇りに思っている人ほどヤバそうです。

むしろ、変化を怖れず変化を選択していこう、という姿勢のほうが、危ないところに飛び込む危険も増えるけど、危機から脱出するチャンスも増えるのではないでしょうか。そういう意味で私は自覚的な「ハマり」に対して肯定的です。

もちろん、自覚的に「ハマらない」ことを選択する、「ハマらない」ことが一般によいことだからでなく、ハマりたくないからハマらない、というのもアリだと思います。でも「ハマらない」人は大抵「ハマり」はよくない、あるいはみっともないことだと思って「ハマらない」ようにしている気がする。。。

[12-3] 合理的?

会社の同僚で、国会議員の選挙の時に一緒にやってる最高裁の裁判官の信任投票?の時に必ず全員にバツをつけるという人がいます。この人、結構変り者なので(本人にその自覚はなさそうだが。。。)、ひねくれてるだけなのかと思ったら、要はこういうことでした。

その人は、とりあえず今の世の中は気に入らない、バツをつけずに出すということは現状維持ということだから、変化を期待して絶対バツをつけたほうがよい、というのです。もちろん、個々の裁判官の良し悪しを判断できれば悪いのだけにバツをつけたらいいんですが、十分な情報を持たないし、わざわざ情報を集めるほど関心があるわけではないから、全部バツをつけると決めてしまうほうがラクで間違いがないと。

これって無茶苦茶なようで結構合理的な選択かもしれませんね。もちろん、現状から変化したら現状より悪くなる可能性もあるわけですが、いきなり独裁制になっちゃうとかない限り、次回以降の選挙で良くなるまで全部バツをつけ続ければオッケーですね。

頑張って情報集めて判断しなくてもいいから「まったり」生きる人にもオススメ? まぁ選挙なんか行かずにもっと楽しいことすりゃいいんだけど、ヒマならバツつけに行くのも悪くないかも。

[12-2] 人に優しいってなんだろう

このところ会社(パソコンソフトの会社です)で先輩と激しく議論になることが多いです。その過程で思ったことを色々書きかけていたのですが、いまいちまとまりませんでした。

誰にでも使える道具がユーザーに優しい道具と言えるのか? 選択せずに選べる自由が優しさなのか? 選択を迫ることは押し付けがましいのか?

どうも私の考える製品仕様は啓蒙主義的で押し付けがましいらしいです。そうなのかな? 単に私の人格がそうだという話なら納得するけど。

[12-1] ダメですね

今日も過食気味。せっかく3食は少なめにしても、帰宅してからパン一つ、ドーナツ一つ、ベビースターラーメン一袋、サラミソーセージ一本、ナチュラルポテト一カップ(どうでもいいけどナチュラルポテトおいしいです。きらさないようにいつも二カップずつ買ってます)とか、ばりばり喰ってたらダメでしょ。

このところ体調が徐々に悪くなっているのは明らかなのになんでこうなっちゃうんだろう。最低。

『世紀末BBS』 で紹介されていたサイト think or dieを読みました。よく見たら以前宮台ページを検索してて見付けていながら忘れてたページでした。改めて読んでみると本当におもしろいです。他人の日記ページを一年分まとめ読みするのなんて久しぶりです。

でもよくできた日記を読むのは楽しい反面憂鬱になります。特にこのサイトの筆者みたいに職業とか世代とかが近いと一層辛いです。やっぱりどうしても自分の自堕落ぶりと比較しちゃうので。

客観的に見ると自分だって無茶苦茶自堕落なわけじゃないんですけど、なんか許せないんですね。というよりは、それを許さない正しい自分、という自己イメージに執着しすぎるのでしょうか。結局は「自分は正しい」「自分はサイコー」「自分は強い」っていう思い込みの裏返しなんでしょう。(私について「必要以上に自己肯定感に乏しいのではないか」と評した方がいらっしゃいましたが、こういうことなんです。心配無用、というか心配する価値もないです。)

[11-29] 人殺しはいけないの?
以前、酒鬼薔薇事件関連のテレビ番組で中学生が「なんで人を殺しちゃいけないのかわからない」と言うのを聞いて大江健三郎がブチキレてその中学生をナイフでメッタ刺しにした(一部誇張あり)という事件があったそうですね。

この番組は私は見てなかったんですけど、とりあえずこの話を聞いた時に私は 「だって人殺しオッケーってことになってたら面倒じゃん、色々さ」というふうに思いはしたのですが、答えとしてはこれじゃダメなんでしょうね、きっと。

稲場振一朗さんの答え は、中学生の問いを額面通りにとるならば、確かに模範解答って気がするのですが、私だったらああいうふうに答えられても納得しないと思います。

「君は誰を殺したいんだ」っていうのを軸に論理展開してますが、この第一歩が「なぜ人を殺してはいけないの? 」と問いかけてしまう中学生の気持ちというか気分と言うか、そのあたりを汲み取ってない気がします。

例の番組の中学生がどうだったかは知りませんが、「なぜ人を殺してはいけないの? 」っていうのは、具体的に人を殺したいという訴えではないんじゃないかと思います。むしろ、「ボクが殺されたら誰か困るの?」ってことなんじゃないかと思うのです。

学校なんかでは、「人の命は尊い」「人生は素晴らしい」「未来は明るい」「世のため人のために生きろ」みたいな価値観を大人たちから押しつけられる子供たちですが、中学生にもなれば、そういうメッセージが胡散臭いのは気が付きますよね。

以前及川君が『週刊金曜日』だったかどこかで、「若者は死に馴染みがないから人の生き死にに対する現実感がないとか言ってる大人は間違っている。都内で電車通学している学生なら「人身事故」が日常の風景になっている。」というような事を書いてました。

人身事故に限らず、震災が起きてもサリンが撒かれても子供の首が切られても、当事者の周辺はともかくとして、メディアが騒ぐほどには日常の風景は変わらないほどに日本の社会は安定しています。メディアだって日が経てば何事もなかったかのように他のどうでもよさそうな話題で盛り上がります。

人が死んでも回り続ける社会、他人の死が自分とは関係ない社会、自分の死も他人とは関係ない社会。そんなリアリティーと世間の「人の命は尊い」というメッセージの落差が、ああいう問いを生む背景になっていると思います。

そうだとしても、自分が大切に思えるなら、あるいは誰か大切な人がいるなら、稲葉さんが説くような「相互不可侵条約」的なルールに従う意味を認めるでしょう。でも、それさえ結構怪しいんじゃないかとも思います。自分が死んでも誰かが本気で悲しんでくれるとは思えないような人が少なくないからこそ、エヴァンゲリオンのシンジ君のような AC 系キャラが共感を呼ぶんですよね。

少なくとも、条件付きでしか人から愛されないと思ってるような人にとっては、誰の命も無条件に大切であるかのようなルールに違和感を感じずにはいられないと思うのですが。

[11-16]
随分遅くなりましたが、10/31 下北沢らぷらすにて行われたイベント「性の自己決定と売買春」(いわゆる「性革命(セックスリボリューション)」)の顛末。。。は、まだ書けてません!!

『掲示板』なんかにちょくちょく書き込んでおきながらこんなこと言うのもなんか全然説得力ないですが、今かなり忙しいです。日曜出勤しなきゃいけないくらい。やっと自分達の仕事が (ちょっとだけ)日の目を見そうなので。

そんな感じなのでまたしばらく更新できないと思います。でも、新着情報についてはもう速報性はそんなに望まれていないと思うし、いいかな。ミホさんとこの掲示板もあることですし。

[10-26]
先週は桜井亜美原作の映画 『イノセントワールド』 を見ました。正直言ってあまり期待してなかったのですが、これが意外とよかったです。もっとも映画はほとんど見ない(映画館で見るのは 夏エヴァ以来です。。。)私には、映画としてのできがどうとかいうのはよくわかりませんが、感想を少しだけ書きます。

映画では原作と違い「援助交際ネタ」というイメージはほとんどなく、「援助交際」も「精子ドナー」も舞台装置の一部として扱われています。こういう扱いは今時公開される映画としては正解でしょう。本当は、失われた承認の記憶を探し求める主人公たちと、世間にシンクロできず自己肯定感に乏しいその父(精子ドナー)の「癒し」がテーマです。

この父のキャラが妙に 他人事でないように感じられて、かなり涙腺を突かれました。ラストシーンは落ち着いて考えると、あんまり筋が通ってない気もするのですが、その時点でかなり心を揺さぶられてたので、見事にノせられてしまいました。ぅー。。。

さて、問題のシーン ─ 宮台映画初出演(援交オヤジ役で) ─ ですが、迫真の演技、っていうか目がマジっぽくて怖すぎ。。。って感じで「最低の客」を見事に演じきってくれていました。但しセリフは一個、時間にして 10 秒弱ですが。でも濃ゆい。「また、逢えるかなぁ」とか言ってルーズソックス片方脱がして持って帰るの。怖いよー。。。ファン必見。


徳島でも 『週刊読書人』 売ってる本屋ありました。あ、前回の新着情報で先々週の記事のまとめをあとでやるって言ってましたけど間に合いませんでした。また次回という事で。

あ、、『正論』 の話も、また今度とかいってまた書けなかった。いまさらいいかな、とも思いつつ、とりあえずまた今度。

[10-10] クラッシュ
MO 一枚壊してしまったショックでふらふらです。一見データ残ってるっぽいけど FAT が飛んでるからこりゃ無理かな。元々バックアップ用のディスクだったので致命的なデータ損失はなかったんだけど。年に一回くらいはコンピュータ絡みでひどい失敗[1]をやっちゃう私ですが、こんなんで大丈夫なんだろうか、プロとして。こんなんじゃプロ失格だ、プロフェッショナルっていうのは甘くないんだ、と、『ゴルゴ13』を読む度に思うのでした。

こういうちょっとしたことがきっかけになって自己肯定感がぐんぐん低下しちゃうんですけど、大丈夫ですかね?


[1] C ドライブ崩壊事件('95), ハードディスク炎上事件 ('96), フロッピードライブ炎上事件('97)


[10-4] つれづれ
和歌山の保険金詐欺事件の容疑者が逮捕されましたね。うちはテレビ和歌山が映るのですが、特番やってます。他局に比べて容疑者についての地元での噂がみょうに事細かに報道されていたりします。なんかゾッとしますね。まぁ事件の内容のほうが 100 倍ゾッとするんですけど。

『正論』 で小田晋がまた吠えまくってるそうですが、今はそんなの読むより楽しいことは色々あるよな、って気分なので批評その他はまた今度。
(thanx! > たまさきさん)

今朝やっと『SPA!』の成宮記事を読みましたが、あれ 「中森文化新聞」の記事としてはそんなヒドイ記事かなぁ? 私は当事者間の個人的な事情を把握してないので、宮台氏にどういう迷惑がかかってるのかわかりかねますが、とりあえず公の場でどうこう騒ぐことじゃないと思うので、当事者間で仲直りするなり絶交するなりほとぼりがさめるまで口きかないなりしたらそれでいいんじゃないかと思います。

昨日今日と久々に良い天気でした。このところの台風だの大雨だのですっかり溜っていた家事をこなすだけで疲れちゃったので新着情報とコミュニケーションリンクの更新は明日か明後日の夜になります。

[9-26] 原爆って超感動的だよねー
彼女から誕生日のプレゼントに『NHKスペシャル「映像の世紀」オリジナル・サウンドトラック』をもらいました。私が大学時代のホームページに「映像の世紀」ネタを書いてたのを彼女がおぼえてくれていたからなのですが、そのページ、今は見えなくなってるので改めて書いてみます。

NHKスペシャル『映像の世紀』は、'95年に放送された番組で、実際その当時に撮影された映像で 20 世紀を振り返るという主旨の番組でした。ほとんど当時のフィルム(大部分はモノクロ)とそれを説明するナレーションと BGM だけ、という構成で、歴史に対して現在の視点からの分析や意見や主張というものが全くないのが特徴でした。

そのような構成が映像そのもののインパクトを引き立てる効果もあって、とても見ごたえのある番組になっていました。音楽も映像が伝える歴史の重みに負けないような気合いの入った音楽で大好きでした。が、それが番組の BGM になると、えもいわれぬ違和感があったのでした。

とくにすごかったのは広島原爆投下のシーン。原爆のキノコ雲がたちのぼるシーンにあのかっこいいメインテーマのクライマックスが重なっちゃうと、「うおぉぉぉっ!!」って感じで、ものすごく「感動的」です。でも、それでいいんでしょうか? どうも違和感感じてしまうのですが。

ライナーノーツを読んでみると作曲の加古隆は「良いも悪いも含めて歴史を創ってきたのは "人間" です。メインテーマは、その人間の存在に想いを馳せながら、100年という壮大な歴史のロマンを謳いたいと思いました。」なんて言っています。歴史を創った人間の営みには善悪を越えた魅力があるということでしょうか。メインテーマのタイトル「パリは燃ているか」というのもヒトラーの言葉ですね。

ということで、あの「感動的」な原爆投下シーンは意図的な演出なのでしょう。違和感を感じるのは戦後教育で植付けられた偏見? でも、ドラマ仕立でもジャーナリストの主張を軸にしたドキュメンタリーでもないあの番組の淡々としたスタイルとのミスマッチは否定できないのでは。

[9-23] RE: コミュニケーション中毒?
本当はロリコンの話を書くつもりだったんですがまとまらないので、山下さんの 「コミュニケーション中毒?」についてちょっと書きます。

確かに宮台の言葉に触れて、 コミュニケーションできないボクは 最低だみたいな強迫的な思い込みを持ってしまう人っているでしょう、っていうか他人事じゃないです。宮台の言葉には、ショック療法的な効果を狙ってるからか、言葉の力が強すぎるせいか、「価値観の硬直」を誘いかねないものがあるのは確かです。

しかし、宮台の主張するのは、価値観が多様化した社会では、個人がどんな価値観を持つかというのはコミュニケーションの中で繰り返される試行錯誤で主体的に選択されるしかないし、価値観の違う者同士が共生していくにはコミュニケーションが大事なんだ、というようなことで、コミュニケーションそのものに価値があると言っているわけでも、もちろん「コミュニケーションが量的に多いほうが幸福だ」と言っているわけでもないですね。

以前西葛西のイベントでの質疑応答の時の宮台氏は「コミュニケーションは人間の性(さが)ではない、だからこそ子供たちがコミュニケーションによる承認を得られるシステムがないと、子供たちはコミュニケーションから離脱して脱社会的な生き方を選んでしまう」というような話をしていました。

孤独 = 脱社会的、は必然ではないでしょうが、承認の記憶もない孤独は自傷的になったり脱社会的になったりしがち、とは思います。

P.S.:
ちなみに、根本敬に理解のある女性なら一人知っています。。。(村崎百郎は嫌いらしいですが。)


[9-22] スター(秘)報告を巡る二つのコラム
先日クリントン大統領(AC系大統領としても有名)の素敵な日常を伝える報告書がネットで公開されて話題になりました。早速葉巻を買いに走った方も大勢いることと思います(いるのか?)。

今回の出来事について私が毎日チェックしているサイトの一つZDNet Japanに、対照的な二つのコラムが載っていました。

Threlkeld のコラムは、要するに、スター報告書へアクセスが殺到したのは愚かな大衆が無料ポルノ小説を読みたがっただけだ、今回の件でネットワーク性能不足があったとしても、愚かな欲望に応えるための投資よりも先にやるべき大切なことがあるはずだ、と主張しています。

一方 Dvorak のコラムは、Dvorak はスター報告書はその内容を一般マスメディアの保守的なフィルターをバイパスして市民に伝えるために、ネットという飛び道具を使って公開されたのだ、それは「真実よりも政治的正しさを重視している」という印象を持たれ信頼を失っているマスメディアに代わって、ネットがより信頼できるメディアとして認知されたという事件なのだ、と主張しています。

Dvorak の主張は今回の事件に限れば、やや大風呂敷かな、とも思われますが、本質的で鋭い指摘だと思います。自己責任で分析コストを負担するかわりに信頼性の怪しいメディアに依存しなくてすむ、という可能性が開かれている、というだけで状況は一変します。例え大半の市民には分析コストをかける暇も能力もないのが現実だとしても、その可能性が開かれているだけで、マスメディアは自分に都合のいい嘘をつき通せると信じることが困難になるはずですから。

マスメディアが倫理的であるよりは利己的で合理的であろうとする動きが止まらないとしても、ネットに自由が残っている限り絶望する必要はないのです。

Threlkeld の主張は正論と言えば正論ですが、みんなが倫理的になれば平和になるんだ的な胡散臭さがヤな感じです。なんというか、大衆は愚かと言いながら、大衆がどこまで「愚か」なのかという点では見通しが甘すぎます。ニヒリスティックなロマンチストって感じで。

それに、愚かな欲望を刺激するからといって、その情報に価値がないのでしょうか? 問題に目を向けさせるきっかけとしてスキャンダラスな現実を突き付けるというのは実際有効ですし、他に有効な手段がないことさえあるかもしれません。沖縄少女暴行事件を発端とした運動なんか、「少女」が「性的な」暴行を受けたのでなければあんなに盛り上がったでしょうか? 実際、過去に中年男性が米兵に撲殺された時には決してあんなふうには盛り上がらなかったのです。

[9-21] 秋の日記強化週間
今週は私が 28 歳の誕生日を迎える実にめでたい?週なので 秋の日記強化週間ということにして、日記を毎日更新するつもりです(大丈夫かなぁ。。。)

さて、『世紀末的 BBS』繁盛してますね。読んでて、色々書きかけたんですが、基本的に相手に失礼なことばかり書きたくなるタチなので、没にしました。以前掲示板は気持ち悪いって書いたけど、自分の気持ち悪い部分が触発されるのが気持ち悪いだけかもね。

『〈性の自己決定〉原論』のミホさんのインタビュー、改めて読み返したら、なんか話しかけづらくなってます。だって私、性的弱者だしね(笑)

ミホさんは自分の体験から「今だけでいいから好きだって言ってくれ」とかいう男を「底が浅い」と断じていたけど、私には私の経験から得たこんな格言があります 「ベッドの上での好きよ! は 7 割引き。」 でも 7 割引いた残りでも「好き」って言われりゃやっぱり気持ちいいんです。

[9-20] いいよね、脳とか宇宙とか
どうも最近また洗脳系の話題がちまたを賑わせているようですね。まぁ、つきあってる彼氏とかに、突然 脳とか宇宙とか ((c)花田憲子)の話をされても困っちゃいますよね。でもそこはそれ、そういう時こそあなたの愛情が試されるのです。読書の秋でもあることですし、ここは一つがんばってあなたも脳とか宇宙とかの話ができるようにお勉強しましょう。

まずは脳のほう。絶対外せないのは 『ビジョン ─視覚の計算理論と脳内表現─ デビッド・マー (産業図書)ですね。1970年代に書かれたものですが、脳を情報処理システムとして研究するという方向性(計算論的神経科学)を提示してその後に大きな影響を与えた一冊です。35 歳の若さで白血病で世を去ったマーの遺作でもあります。

一応専門書ですから数式とかも出てきます。 微分方程式もわからん奴に脳とか宇宙とか語る資格なし!とは申しませんが、あんまり楽して解ろうってのも誉められたもんじゃないです。けど、とりあえず第一部の「思想的序説」と第三部の「エピローグ」の仮想対談のところだけ読んでおくのもいいかも。

ちなみに私とこの本の訳者の乾敏郎先生の顔がとてもよく似ている、と昔一部で話題にされたことがありますが、私は認めませんよ!

もう一冊お勧めは(といっても未だに読み終わってないけど) 『脳の計算理論』 川人光男 (産業図書) です。 『ビジョン』は古典的名著の部類ですが、これは比較的最近(1996年)に書かれた計算論的神経科学の基礎から先端的話題までを含んだ研究者を目指す人向けの本格的入門書です。

私は川人先生の授業を受けたことがあるのですが、語りが超クールな人で、いっぺんにファンになりました。クールで、それでいて何げにアグレッシブで、宮台ファンになるような人ならきっとハマるタイプだと思います。もっとも一緒に授業を受けていた院生(女性)には 「説明抜きでペラペラ話して何言ってるかわかんないから嫌い」 とムカつかれてましたが、この辺のキャラも妙に宮台っぽいですね。

ちなみに上の二冊には 快楽物質がどうとか、 脳内麻薬がどうとか、そういう話は 一切ありません

さて、宇宙のほうですが、とりあえず物理学を解ってないとどうにもならないと思うので、ランダウ=リフシッツの理論物理学教程シリーズ (東京図書)でもお勧めしておきましょうか。

えっ、宇宙ってそういうことじゃないって? じゃあ『月刊天文ガイド』 (誠文堂新光社) を一年ほど定期講読してみますか? えっ、それも違うって?

[9-6] いろいろお詫びとお礼
夏休み中にアクセスカウントが 5 万ヒットを突破しました。みんな大好きよ!((c) 優月まりな)  随分遅れてしまいましたが、こういう時って何か記念企画とかあったほうがいいんですかね。なんばりょうすけのサイン入り『終りなき日常を生きろ』プレゼントとかどうでしょう (これはあんまりか?)

入社してから初めて仕事が山場を迎えるという状態になっていて、時間的にも心理的にも余裕がありません。とりあえず月曜日にひと山越えるのですが、一月くらいで次の山が来るので当分余裕なさそうです。申し訳ありません。

おまけにちょっと欝入ってるし。このところ仕事にノッてる状態が続いて割と調子よかったのですが、ノッてはいてもできたものがもう一つがんばりが足りないって感じだし、次々に自分に頭の足りなさ加減を思い知らされるし(「コンピュータはプログラマの知能の鏡である」 Gerald M. Weinberg)。

かなり前からコミュニケーションリンク のほうにご応募をさらに二件(みなさん宮台ファン・イケてない のカテゴリをご指定です(苦笑))頂きました。どうもありがとうございます。が、載せるの忘れてました(冷汗)明日載せるのでご勘弁を。。。


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