ホスピタル ★★☆
(The Hospital)

1971 US
監督:アーサー・ヒラー
出演:ジョージ・C・スコット、ダイアナ・リグ、バーナード・ヒューズ、リチャード・ダイサート


<一口プロット解説>
ジョージ・C・スコット演ずる医師の勤めるある総合病院で、医師や看護婦が不可解な状況で死ぬ。
<入間洋のコメント>
 10年以上前になるが、喉が腫れて久々に総合病院なるところへ行ったところ、「白い恐怖」ペニシリン注射が怖くて逃げ回っていた子供の頃の病院の記憶と仕組みが全く変わっていて戸惑ったことがある。というよりも、右も左も分からない小生はまるでピエロであったという方が正しい。2時間以上も待たされた挙句、医師がしたことと言えば喉に1度軽く触れただけであり、書類に何かを書き込んで一言も言わずに小生に手渡すが、こちらは何をすれば良いのかまるで見当がつかなかったのでこの書類をどうすれば良いのかと尋ねると、どこそこのカウンターに行って処方箋を貰えというのがその回答であった。そこで、言われた通りに処方箋受取りカウンターを捜したが、施設内の案内が悪くそれがどこにあるのか皆目見当が付かなかった為、病院中をウロウロして青息吐息の状態でようやくそのカウンターを見つけた。ところがカウンターの中を見ると、コンピュータ端末を睨んでいるオタクのようなスタッフと、プリンターの前に立ってプリントアウトされた用紙をしきりにチェックしているスタッフしかおらず、IT業界と見間違う光景がそこには拡がっていた。恐る恐るオタクスタッフに、持ってきた書類をどうすれば良いか尋ねると、ラベルすら貼られておらず何の為にそこに置かれているのかも分からないような箱に入れろということであった。言われるままに箱に書類を入れ、再び長い時間待たされた挙句、またもや何の説明もなく処方箋が手渡されたので、とうとうプッツンした小生は喉が腫れていることも忘れて「いったいどんな病院を運営しているのだ」と大声で怒鳴っていた。総合病院のこのような官僚化された運営形態は、恐らく1980年代に始まった医療制度改革によりアメリカ式の病院運営方式が導入された結果であるということかもしれないが、率直に言って患者側から見ればこれでは改革ではなく改悪であろうと思わざるを得なかった。

 そもそも第一に、アメリカにおける医療制度の問題は既にイヴァン・イリッチのような知識人が批判していたように、大きな問題を抱えていたはずである。医療に関する問題点の1つとして、病院が総合化されればされる程治療様式が断片化するということが挙げられる。たとえば、ある特定の医師が担当する範囲はここからここまでという線が明確に定められ、過度な専門化が進行する。勿論、ド素人の自分にも医療にはある程度の専門化は不可避であろうことは理解出来る。しかしながら、病院の専門化が同時に人間の体の各器官とパラレルな病院機能の分割化を意味するならば、最大の矛盾は次の点にある。すなわち、人間の身体の個々の器官が全て100パーセントフル稼動すればそれで健康になるかと言えば必ずしもそうではなく、個々の器官の最大能力の総和イコール健康度ではないということである。或る高名な生理学者が、個別の器官が100パーセント完璧に自らの役割を果たすことが可能ならば、それは個々の器官を統合する上位レベルからの干渉が全く存在しないことを意味するが故に、むしろ病気だと述べている。すなわち、上位レベルでのフィードバック機構が破壊され、個々の組織が100パーセントフルの能力で勝手に機能してしまうことは、健康どころではなくそれこそが病気であるということになる。これはあくまでも個人的な想像だが、恐らく癌などもそのような現象の1つの出現形態ではなかろうか。また、たとえば熱が出るという現象は悪い兆候だと考えられがちだが、実は熱が出ること自体は生体が自身の恒常性を維持しようとする正常反応である。ところが、個々の現象面だけにとらわれた見方をすると、熱=悪と見なされ熱を下げること自体が目的であるような錯覚に陥る。つまり、ここには総体としての人間の身体という見方が欠落している。かくして、人間の体とは単に個々の器官の算術的総和ではないにも関わらず、病院の総合化及びそれに伴う専門化は人間の体を個々の要素に分解還元する大きな危険性を孕んでいる。「ホスピタル」という映画は、総合病院の持つこのような危険性を、思い切りブラックなコメディによって糾弾する映画であり、その切れ味は手術用のメスであるスキャルペルのように鋭い。

 「ホスピタル」のストーリーは、ジョージ・C・スコット演ずる医師が勤める総合病院で、医療ミスが原因であるかの如く次から次へと医師や看護婦が不慮の死を遂げるが果たしてそれは何故かというような構成により展開される為に、一見すると殺人ミステリーのようにも見える。しかしながら、主演のジョージ・C・スコットが演じているのは、自殺妄想に取り付かれた医師であり探偵などでは全くないことからも分かるように殺人ミステリーは体裁だけであり、真のテーマは、総合病院にはびこる官僚主義や専門分化の狭間を縫っていとも簡単に殺人を犯すことが可能であることを示すことによって総合病院の問題点を明快に抉り出すことにある。実は犯人は、この病院に入院している頭が少々いかれた元医者(バーナード・ヒューズ)であるが、この人物は元医者であったこともあり総合病院という組織の穴をよく知っていて自らの手を直接下さないようにして病院のシステム自体が殺人を犯すように仕向ける。要するに一人の患者に対して何人ものスタッフがわずかずつ関与する総合病院の体質の間隙を巧みに利用すれば、殺人さえ可能であることを示すことによって、病院機能の過度な専門分化がいかに危険なことであるかがブラックに描かれている。一言で言えば、各患者の健康状態を一人の全的な人間として把握しているスタッフなど一人もいないという総合病院の体質を皮肉っているのである。たとえば、この頭のいかれた元医師は、棍棒で殴って昏睡状態に陥らせた医師を、どの部門の所属であるかが判然としないようなマージナルな領域に寝かせておいて、静かに死が訪れるまで放置させておく。大勢の医師や看護婦が周囲を徘徊しているにも関わらず誰も彼の存在に気付かないのは、昏睡状態にある医師を一人の人間として見ている者は誰もいないからであり、外科の医者は外傷がない患者は自分の責任範囲ではないと考え、内科の医者は意識が朦朧として横たわっている患者は内臓疾患を扱う自分の担当ではないと考えるからである。

 勿論いかに大きな問題があろうが、まさか総合病院で誰にも気付かれないように次から次へと殺人を犯すことは実際には不可能であり、要するにこの映画には途轍もなく大きな誇張があることになるが、脚本がパディ・チャイエフスキーであると聞けば成程と頷く映画ファンも多いことだろう。彼の代表作は本書でも取り上げる予定の「ネットワーク」(1976)であるが、様々な社会問題を、カリカチュアと言えるほど迄に誇大化或いは時には歪曲して、子供にでも分かるように提示することにかけては彼の右に出る者はいない。実を言えば、初期の頃は「マーティ」(1955)や日本劇場未公開であるが小生が好きな「The Bachelor Party」(1957)のようなデルバート・マン監督のマイルドな作品を手がけていたが、ノルマンディー上陸作戦で最初に戦死した兵士を英雄に祀り上げて軍の宣伝に利用しようとする途方もないストーリーを描く「卑怯者の勲章」(1964)以来、社会問題を誇張して描く彼のスタイルが顕著になる。しかも彼の書いたシナリオは、扱っているテーマもさることながら強烈な会話に特徴があり、「ホスピタル」ではジョージ・C・スコットがチャイエフスキーの激烈なセリフを烈火のごとく捲くし立て、オスカーを受賞しながらも受け取りを拒否した「パットン大戦車軍団」(1970)でのパットン将軍役においてよりも遥かに凄まじいパフォーマンスを繰り広げている。かくして「ホスピタル」という映画は、ブラックコメディという形式により総合病院の持つ問題を百倍にも千倍にも誇張して描いた作品であり、ジョージ・C・スコットの鬼気迫るパフォーマンスと共に見る者に必ずや強烈な印象を与えるはずである。アーサー・ヒラーが監督しているが、テーマ的にはシドニー・ルメットが得意とする分野であり、ルメットに監督して欲しかった気もする。同じくチェイエフスキーが脚本を担当している前述の「卑怯者の勲章」(1964)を除くと、「ある愛の詩」(1970)やコメディなどのライトタッチの作品が多いアーサー・ヒラーであっても強烈且つ辛らつな作品に仕上がっているのは、むしろチャイエフスキー色が色濃く出ているということだろう。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

1999/04/10 by 雷小僧
(2008/10/17 revised by Hiroshi Iruma)
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