オリエント急行殺人事件 ★☆☆
(Murder on the Orient Express)

1974 US
監督:シドニー・ルメット
出演:アルバート・フィニー、ショーン・コネリー、イングリッド・バーグマン、リチャード・ウィドマーク

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<一口プロット解説>
オリエント急行の社内で、アメリカの実業家(リチャード・ウィドマーク)が12箇所ナイフで刺され殺されるが、列車にはかの名探偵エルキュール・ポワロがたまたま乗り合わせていた。
<入間洋のコメント>
 映画ファン或いはミステリーファンであれば、アガサ・クリスティの有名なミステリー作品「オリエント急行殺人事件」のトリックを知らない人はまずいないものと思われるので、いらぬお節介かもしれませんが、とりあえず、このレビューは、世間一般に言うところの「ネタバレアリ」ですと一応定石通り警告しておきます。いずれにしても、この作品については、既に「ナイル殺人事件」(1978)のレビューでかなり詳しく個人的な見解を述べたので、まず最初にその部分を抜書きしておきます。そちらを既に読んだ人は、以下の斜体部分は読み飛ばして結構です。

@折角オリエント急行という実にムード溢れる舞台が設定されているにも関わらず、作品開始30分で主人公達を乗せたオリエント急行は雪の中で立ち往生し、同時に映画自体の進行も立ち往生してしまいます。それが、たとえ原作に忠実な展開であったとしても、映画化としては列車を雪の中にストップさせるべきではなかったというのが個人的な見解です。なぜならば、小説というメディアにおいてならばともかく、視覚が優先される映画というメディアにおいては、雪の中に列車を立ち往生させてしまうのなら、ロンドンのどこかの豪邸に舞台が設定されていても全く構わなかった印象を与えざるを得ないからであり、折角オリエント急行といういかにもエキゾチックな香りがムンムンと立上る舞台が用意されていながらも、そのような独自の素材が全く生かされていないように見えざるを得ないからです。すなわち、未知の大陸をひた走るオリエント急行の中で発生する殺人事件とはいかにも魅力的なプロットであるにも関わらず、列車とともにプロットが雪の中で立ち往生してしまっては魅力も即座に色褪せてしまいます。また、東洋(オリエント)への玄関口インスタンブールから西ヨーロッパへと向かうオリエント急行の車内が舞台として選択されていますが、原作がどうであれ、西ヨーロッパからイスタンブールへ向かうオリエント急行に舞台を設定した方が効果的であったような印象を受けます。なぜならば、少なくとも西洋のオーディエンスに対しては、その方がいかにもこれからエキゾチックな世界であるオリエントへ向かう雰囲気が醸し出せるはずだからです。

A(同じシドニー・ルメットが監督し、)同じく12人のメインキャラクターが論争を繰り広げる「十二人の怒れる男」(1957)が、あれほど素晴らしい密室映画に仕上がっていた1つの理由は、個性溢れる12人のキャラクターが丁々発止と各自の個性をぶつかり合わせる点に求められますが、「オリエント急行殺人事件」にはそのような個性のぶつかり合いがほとんど見られないのです。しかし、それは、シドニー・ルメットの責任であるというよりは、「オリエント急行殺人事件」というミステリー作品の持つ構造上の問題に帰せられるべきだというのが個人的な見解です。すなわち、エルキュール・ポワロ(アルバート・フィニー)が各乗客を順番に尋問し最後に乗客全員の前で謎解きをするという展開によって示されるように、作品の構成そのものによって、ラストの種明かしに至るまでは、常にポワロとそれ以外の人物一人の間での会話しか許されておらず、会話以外に他に頼るものが多くはない密室劇にとっては大きな弱点を抱え込まざるを得ないような構造が、「オリエント急行殺人事件」というミステリー作品には最初から孕まれているのです。すなわち、乗客全員が犯人であるというネタが早々と割れないよう、乗客同士のインタラクションが極端に制限されている点が、この手の密室映画としては致命的だということです。たとえ原作通りであったとしても、もともと大人数の登場人物が一度にワンシーンに登場することの少ない小説とは異なり、ナレーターを登場させない限り個人の思考をオーディエンスに分かるよう外面化することができない映画というメディアの中では、このことは由々しき問題となり得るのです。その点をもう少し詳細に説明してみましょう。主要登場人物の中で、犯人でないのはポワロとオリエント急行を経営する鉄道会社社長(マーティン・バルサム)のみであり、それ以外の乗客は、全員が共謀者同士です。従って、犯人ではないポワロと鉄道会社社長のどちらも立会っていないシーンに登場する全ての人物は、そこに居合わせた全員が犯人であることを知っているはずです。それような前提がある中で、そこで交される会話がこれから行われんとする殺人計画とは全く無関係な話であったり、自分達がまるで犯人ではないことを示唆するような内容であったとすれば、それは単にオーディエンスを欺くためのみに設けられたシーンであったと見なされても文句は言えないはずです。というのも、今から重大な殺人事件に関与せんとしている人々の間で脳天気な旅先の話など交換されるはずがないからです。一方、もしそのようなシーンで、これから実行される殺人計画を暴露する会話が少しでも交わされれば、ストーリーの半ばにしてオーディエンスにトリックがバレてしまいます。つまり、その時点でミステリー要素は消失してしまうことになります。このジレンマを解決する手段は少なくとも2つあります。1つはテレビシリーズ「刑事コロンボ」のごとく、最初から潔くトリックをバラしてしまい、焦点を謎解きからいかに探偵が犯人を追いつめるかに逸らしてしまう方法です。しかしながら、そのような展開が選択された場合には、最早その作品をミステリーと呼べるかには疑問の余地が残るでしょう。もう1つは、殺人計画を知らない第三者を常に居合わせるようにする方法です。勿論、「オリエント急行殺人事件」は「刑事コロンボ」ではなく、後者の手段が選択されなければならず、そうであるとすると、乗客の全員が犯人であるという前提があるために、ほとんどあらゆるシーンにポワロか鉄道会社社長が登場しなければならない結果になります。従って鉄道会社社長がほんの飾り役に過ぎない以上、常にポワロとそれ以外の人物がコンビで登場せざるを得ないのが構造上の必須要件であることが分かります。それと同じことはミステリー色を持つ他の映画でも時々見かけ、たとえば「スティング」(1973)で有名な最後のサプライズシーンの伏線を張るために第三者的な登場人物(チャールズ・ダーニング)が導入されていることはそちらのレビューで述べました。そのような構造上の問題点を抱えているが故に、「オリエント急行殺人事件」では、折角登場するオールスターキャストも、アルバート・フィニー扮するエルキュール・ポワロの尋問に答える単なるアンサーマンと化さざるを得なくなり、ほぼ全員がカードボード的なパーソナリティしか有していない結果に終っているのです。たとえばマイケル・ヨーク+ジャクリーン・ビセットのカップルはほとんど顔見せとしか思えず、各年代を代表する女優さん達に関してこのようなことを言うのは気が引けますが、アカデミー助演女優賞に一応は輝いたイングリッド・バーグマンにしてもローレン・バコールにしてもバネッサ・レッドグレーブにしても、個人的には皆似たり寄ったりの人物であるようにしか見えません。これでは「十二人の怒れる男」のような緊張感も醸成されず、ミステリーに必要なサスペンスを維持することすらできないはずです。


 上の文章は、8年近く前に書いたものであり、今から考えてみると、@に関しては言い過ぎであったと考えています。というのも、「オリエント急行殺人事件」ほど有名なミステリー作品ともなれば、いかにシドニー・ルメットが監督であるといえども、原作にこだわるのであればそれほど簡単に内容を改竄するわけにはいかなかったであろうはずだからです。しかし、たとえ「オリエント急行殺人事件」と同様に有名なアガサ・クリスティ作品である「アクロイド殺人事件」ほどに顕著ではないとしても、それは同時に、「オリエント急行殺人事件」というマテリアルが、映画化には全く向いていないことの証拠になるかもしれません。確かに、小説であればオリエント急行が雪の中で立ち往生しようがプロットの進行が立ち往生したようには見えないとしても、視覚面に大きな比重がかかる映画というメディアの中では、やはり軽快なストーリー展開が立ち往生したような印象を受けざるを得ないところがあります。つまり、さっそうと突っ走るオリエント急行の持つダイナミズムが、急にしぼんでしまったように見えるということです。そのことは、列車の走る方向に関しても当て嵌まり、少なくとも心理的なダイナミズムからすれば、オリエントに向かう方がより雰囲気が盛り上がったはずだと思われます。そもそも、この作品くらい有名になると、映画化作品を見るのはたとえ初めてであったとしても、原作を読んだ読まないに関わらず、内容を知っている人も多いはずであり、単純なミステリー要素だけでそのようなオーディエンスの十全な興味をつなぎ止めておくことは困難であるはずです。であるからこそ、「オリエント急行殺人事件」には、会話のダイナミズムとオリエンタルな雰囲気が余計に要請されるはずにも関わらず、私見ではそれが足りないように見えざるを得ないのです。そのようなわけで、むしろ原作にこだわらずに、自由にアレンジした方が結果は良かったかもしれません。Aに関しては、今回再度見直してみましたが、やはり以前と全く同じ印象を受けました。殊に、エルキュール・ポワロ(アルバート・フィニー)が12人の乗客を順番に尋問するシーケンスには、ポワロばかりが雄弁であるだけに一層、同じルメットの「十二人の怒れる男」に典型的に見出される会話のダイナミズムに全く欠けるきらいがあります。また、ラストの謎解きシーンでは特に、明らかにアルバート・フィニーは、オーバーアクティングであるように見えます。勿論、エルキュール・ポワロというキャラクターには思わせぶりな一面があるからということかもしれませんが、文章で読む場合と、映像で見る場合は自ずとイメージが変わるのであり、アルバート・フィニーの扮するポワロは大袈裟過ぎてほとんど滑稽にすら見えます。

 ということで、8年も前に書いた文章に関するコメントはこれくらいにしますが、かくして個人的にそれほど評価する作品ではないにも関わらず、わざわざもう一度ここに取り上げるからにはそれなりの理由があります。その理由とは、とりあえず原作、映画化の区別は置くとして、「オリエント急行殺人事件」という作品には、ミステリーとしてはどうにも奇妙であるような印象を以前から持っていましたが、それがなぜであるかが最近おぼろげながらも分かったからです。まず、「オリエント急行殺人事件」の持つどのような点がミステリーとして奇妙に見えるかについて説明しましょう。それは単に、乗客全員が犯人であるという、「アクロイド殺人事件」にも勝るとも劣らないミステリーとしての反則が平然と侵されている点においてのみではありません。勿論、これから説明する点は、もしかすると個人的な思い込みにすぎないかもしれませんが、どうしても「オリエント急行殺人事件」には、オーソドックスなミステリーのイメージには全くそぐわないところが感じられるのです。元来個人的にフィクションは好きではないにも関わらず、ミステリー小説はSFとともに昔はよく読んでいた覚えがあり、たとえばガキンチョの頃は、江戸川乱歩の明智小五郎シリーズは貪るように読んでいたし、記憶にほとんどないとはいえ、勿論有名なコナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズもかなり読んだはずです。残念ながらアガサ・クリスティに関しては、あまりにも強烈な印象を受けた前述の「アクロイド殺人事件」以外は、何を読んだか定かには覚えておらず、「オリエント急行殺人事件」に関しても読んだかどうかすらよく分からない状態にあります。他にも海外ではクロフツやエラリー・クイーン、国内では松本清張から始まって西村京太郎のような俗っぽいところまでかなり読みました。これらのミステリー小説の読書体験を通じて、小生の心の中には、1つの典型的なミステリー像が形成されたわけですが、その典型的なミステリー像から「オリエント急行殺人事件」はどうにも大きくはずれ過ぎるのです。では、どのようにはずれているのでしょうか。まず第一に、ミステリーに登場する犯罪者といえば、犯罪のプロであるのが普通であるというイメージがあります。たとえば、明智小五郎シリーズの怪人二十面相やシャーロック・ホームズシリーズのモリアティなどです。勿論、ミステリー作品には、怪人二十面相やモリアティのような犯罪のプロばかりが登場するわけではないとしても、探偵の持つ知力に勝るとも劣らない人並みはずれたインテリジェンスを持つ極めてずる賢い犯人が登場し、そのような悪漢が仕掛ける巧妙なトリックを名探偵が見破り見事に打ち破ってこそ、そこに緊張感溢れるスリリングな面白さが生まれるはずです。従って、肝心な相手が月並みな一般ピープルでは、何人束になってかかってこられようが、ヒーローである名探偵が全く引き立たず、それではミステリーそのものが成立しないのです。つまり、ミステリーというジャンルには、そのようなインテリジェンスに溢れた好敵手が、理想的ともいえる完璧な状況で仕掛けたトリックを、名探偵が徐々に打ち破っていくところに妙味があるのだと個人的には考えています。ところが、そのような図式を「オリエント急行殺人事件」は見事に破壊するのです。次に、それについて、ルメットによる映画化に即して詳しく説明しましょう。

 勿論、「オリエント急行殺人事件」に登場する犯人の中には、ウェンディー・ヒラー演ずるドラゴミロフ夫人や、マイケル・ヨーク+ジャクリーン・ビセット夫妻のような貴族や、ショーン・コネリー演ずるアーバスノット大佐のような軍人も含まれるので、必ずしも単なる一般ピープルばかりが登場するわけではないとしても、少なくとも犯罪という意味では素人さんばかりが犯人であるという前提になっています。つまり、この点からして既に一般的なミステリーとは違う印象を与え、大袈裟にいえば世紀の名探偵エルキュール・ポワロの知恵比べの相手としては彼らはあまりにお寒い限りで、勝負は最初から見えているようなものなのです。そもそも戦争を仕掛けようとしているわけではないので、人数が多ければ多いほど、ほころびが発生する可能性が増え、逆に不利になるとすら考えられます。しかも、ポワロと鉄道会社社長(マーティン・バルサム)以外の唯一の犯人でない登場人物であるドクターが謎解きシーンで指摘するように、12人の犯人達は、エルキュール・ポワロという世紀の名探偵がたまたま同じ列車に乗り合わせるという予期せぬ事態に直面して、殺人計画を悟られないようにするために自分達の素性や行状に関して次々と嘘や韜晦で糊塗せざるを得なくなり、結局ポワロはかくして彼らが用いざるを得なくなった嘘や韜晦をあばくことで事件を解決するのです。つまり、ポワロは、犯罪のプロが理想的ともいえる完璧な状況で仕掛けたトリックを見破って事件を解決する必要などどこにもなく、犯罪のド素人+不利な状況という犯人達の二重苦に付け込んで、いわば陽動心理作戦を思う存分駆使して事件の真相を暴くに過ぎないのです。このようなあり方が、演繹や帰納を駆使し、物的証拠や状況証拠をコンピューターのように素早く処理することによって事件を解決するシャーロック・ホームズのあり方といかに異なるかは言うを待たないところです。「オリエント急行殺人事件」の持つ、オーソドックスなミステリーであればはぐらかしとしか見えないこのような側面は、早くも殺人事件が発覚するシーンで明瞭になります。このシーンでは、ポワロと車掌(ジャン・ピエール・カッセル)は、アメリカの実業家ラチェット(リチャード・ウィドマーク)の個室の様子がおかしいのでドアを開けようとしますが、内側からチェーンがかかっているので、無理矢理押し破って中に入ります(上掲画像中央参照)。オーソドックスなミステリーであれば、オーディエンスはここで「うむむ!走行中の列車の中で発生した密室殺人事件か、これは面白そうだ」と思うはずです。ところが、この期待はすぐに裏切られます。なぜならば、ラチェットの個室は密室などでは全くなく仕切りドアがあり、マスターキーさえあれば口やかましい夫人(ローレン・バコール)が占めている隣の個室から簡単に忍び込めることが明瞭になるからです。実際、このやかまし夫人は、昨夜男が部屋に忍び込むのを見たなどとポワロにのたまうわけです。これならば、むしろ犯人達はドアのカギをかけずに、正面から堂々と賊が入ったように見せかけるようにしておいた方が、やかまし夫人が不自然な言いつくろいをしなくてもすむ分、まだマシであったのではなかろうかと思えるほどです。しかしいずれにしても、「オリエント急行殺人事件」の展開の中でそれ以上にミステリーファンの首を傾げさせるであろう点は、ポワロがラチェット殺人を5年前の少女誘拐殺人事件(因みに、「翼よ!あれが巴里の灯だ」(1957)の英雄であるリンドバーグの息子の誘拐殺人事件を素材にしているようです)に結び付ける重要な証拠となる少女の名前が書かれた紙片の燃えさしを、小道具を巧みに利用して解読し、それによって作品の転回点ともなる重大な手掛かりを掴むところでしょう。一見すると、このシーンではシャーロック・ホームズばりの緻密な科学捜査が行われているかに見えますが、実はそれは外見に過ぎません。なぜならば、自分達の素性が割れるネタと化すことが必定であるはずの極めて重要な証拠は、復元ができないよう完全に抹消せねばならないとするミステリー小説のABCに気付くほどラチェットの秘書(アンソニー・パーキンス)が利口でなかったのは単なる偶然であり、ポワロは、ここでも犯人の一人が慌てていたために残した証拠に付け込んでいるに過ぎず、確かに捜査方法の外見だけを取り上げればシャーロック・ホームズばりの科学捜査であるように見えるとしても、肝心の証拠の存在そのものにオーソドックスなミステリーに見られる論理的な必然性がほとんど見出せないからです。勿論、だからと言って、そのような状況に置かれても、そのような単純なミスや見落としを犯すはずはなかろうと主張したいのではなく、そのような状況に置かれれば普通の人間であればミスを犯すのがむしろ当然です。しかしながら、現実世界とフィクションたるミステリーの世界は違うのであり、犯人が理想的ともいえる完璧な状況でトリックを仕掛けるのがミステリーの1つのお約束であると考えていると、このシーンはあまりにも偶然性に支配され過ぎ、オーソドックスなミステリーたるには必然性が全くないように見えざるを得ないのです。つまり、登場する犯人に対してミステリーとしての扱いがフェアではないということです。さらに、オーディエンスに対してもフェアではないとすら言えるかもしれません。オーソドックスなミステリー映画の中で、犯人が重要な書類をライターの火で焼いた上で、念入りにトイレに流すシーンをよく見かけますが、なぜそうするかというと、犯人は犯罪者としてベストプレイヤーであるという前提があるからであり、それとは対照的に、ラチェットの秘書はそれをせず、いかにも犯罪者としてはズブの素人であるかのごとく、重要な証拠品をむざむざ犯行現場に残してしまうのです。かくして、解決に至るトリガーとなるミステリーとして肝心要の証拠が、ストーリー上全く必然性のない物的証拠から得られているのです。そして、それ以後のストーリー展開は、前述の通り、緻密な犯罪捜査が繰り広げられるというよりは、犯人達が急ごしらえに粗製乱造する嘘と韜晦(英語やドイツ語或いはロシア語の語句や綴りの違いによる言葉遊びまで含まれています)に含まれる矛盾を、心理戦術を駆使してあぶり出すことに終始するのです。ここまでで、「オリエント急行殺人事件」というミステリーが、シャーロック・ホームズなどのオーソドックスなミステリー作品の流儀といかに異なるかが、より明確になったのではないでしょうか。

 では、次になぜそうなのか、或いはなぜとまでは言わないにしても、どのような背景で「オリエント急行殺人事件」という作品はそのような展開になっているのかが問われなければなりません。これについては、ロナルド・R・トーマスという人が書いた「Detective Fiction and the Rise of Forensic Sience」(Cambridge University Press)が参考になったので、それに言及しながら説明することにします。尚、この本の対象とされているのは原作のみであり、映画化に関する言及は一切ありません。ところで、本のタイトル中に含まれる「Forensic Science」とは、いわば法廷訴訟に用いられる犯罪科学というような意味であり、指紋照合、遺体の写真、ポリグラフなどの科学的な装置を駆使した犯罪捜査科学を指します。たとえば刑事ものの映画やテレビ番組で「鑑識」に回してくれというような文脈で「forensic department」などの用語が使われているはずです。ロナルド・R・トーマスは、まず19世紀及び20世紀初期のオーソドックスなミステリーの隆盛の背景には、この「Forensic Science」と呼ばれる新たな犯罪科学の出現が照応すると述べます。19世紀及び20世紀初期のミステリーとは、探偵小説の草分けとも見なされているエドガー・アラン・ポー(江戸川乱歩は、この大作家の名前のもじりであることは誰でもご存知のことでしょう)やチャールズ・ディケンズの諸作品、或いは個人的には???と思われるところはありますが、ナサニエル・ホーソーンの「七破風の家」から始まって、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズにまで至ります。ロナルド・R・トーマスは、当時の探偵小説の焦点は、犯罪科学と同様、犯罪現場に刻印された真理を読み取ることにあると述べています。すなわち、ホームスが有名な拡大鏡を利用して捜査をするのは、犯罪が行われた現場に残された、通常は見えないとしても客観的に残された爪あとを、徴候として腑分けして取り出すためなのです。従って、ここにあるのは「オリエント急行殺人事件」のポワロが駆使する心理戦術などではなく、あくまでも物的な証拠が第一とされるのです。従って、ロナルド・R・トーマスはそこまで述べていませんが、まさに犯人の心理が全く問題にされているわけではないので、このような時代のミステリーに登場する犯人自身は理想的に行動することが前提とされねばならないのです。大袈裟にいえば、犯人の主体的な存在を無にして、物的なパズルの解法が展開されていると見なしても差し支えがないということかもしれません。かくして、オーソドックスなミステリーに登場するシャーロック・ホームズのような名探偵は、他の登場人物が語る、外見からはいかにもよくできたお話(ナラティブ)を信用しない、というよりもそれが本当であろうが嘘であろうが、他の登場人物の言説を捜査の重要な手掛かりとして利用しない傾向があります(脚注引用1)。これは明らかに、他の登場人物達の嘘や韜晦を逆手にとる「オリエント急行殺人事件」のエルキュール・ポワロの態度とは全く異なります。人間が提示する証言を軽く見るこのような傾向は、当時の英米における法廷での実践とパラレルであるとロナルド・R・トーマスは述べます(脚注引用2)。そして、それは指紋照合、写真、ポリグラフなど、19世紀に急速に発達した視覚に関わる新技術に大きく依存しているのです(脚注引用3)。さらに、ロナルド・R・トーマスは、主要な論点として、ベネディクト・アンダーソンやエリック・ホブズボームを持ち出して、このような当時の傾向を、国民国家の生成発展に結び付けようとしているようですが、さすがにそれは「オリエント急行殺人事件」のレビューとしては大袈裟になるので詳細には立ち入らないことにします。

 以上がコナン・ドイルまでのオーソドックスな探偵小説に当て嵌まるポイントになります。これに対して、アガサ・クリスティは、完全に20世紀に入ってからの作家であり、彼女が活躍する頃までにはミステリーを巡る状況も大きく変わっています。実は、このような状況は何もイギリス出身のアガサ・クリスティにのみ当て嵌まるのではなく、異なった仕方であるとはいえ、アメリカでも同様に19世紀的なパラダイムからのテイクオフが見られます。そのことは、ダシール・ハメットのサム・スペードや、レイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーローを見れば明瞭になります。これらのハードボイルド探偵達は、19世紀的なパラダイムの理想的な体現ともいえるシャーロック・ホームズが持つ科学性のいわばアンチテーゼであるかのごとく登場するのです。拡大鏡を手にして物的証拠を集め回るサム・スペードやフィリップ・マーローの姿など、誰にも想像できないはずです。確かに物的証拠を完全に無視するわけではないとしても、そのことはエルキュール・ポワルにも同様に当て嵌まるとロナルド・R・トーマスは考えているようです(脚注引用4)。すなわち、客観的な物的証拠にこだわる科学性よりも心理面に、或いは事件のパズル的な解決そのものよりもいかに事件を丸くおさめるかという交渉面に焦点が置かれるのです(脚注引用5)。従って、「オリエント急行殺人事件」では、ポワロは、最後の謎解きで2つの解法を提示し、どちらを選択するか鉄道会社社長の判断に委ねるのです。或る意味で、探偵小説が政治化しつつあると見なしてもよいかもしれません(脚注引用6)。また、シャーロック・ホームズシリーズにフロイト的な精神分析が紛れ込むとはとても考えられませんが、「オリエント急行殺人事件」では何度かそのような言説が語られます。この事実はやはり、19世紀的ではなく20世紀的な言説に「オリエント急行殺人事件」が支配されている証拠と言えるのではないでしょうか。ここまで述べてきたことをまとめると、ミステリーのあり方そのものが、シャーロック・ホームズシリーズと「オリエント急行殺人事件」では大きく異なるということであり、従って「犯人が、理想的ともいえる完璧な状況で仕掛けたトリックを、名探偵が徐々に打ち破っていく」などというシャーロック・ホームズシリーズ的なオーソドックスな図式をそのまま当て嵌めて「オリエント急行殺人事件」を見ると、どうしても違和感を感じざるを得なくなるのです。そして、まさにこのようなパラダイム変換があったからこそ、乗客全員が犯人であったなどという、オーソドックスなミステリー作家が聞いたならば卒倒しそうなネタを堂々と開陳できたのです。

 誤解の生じないよう最後に1つだけ指摘しておくと、かくして19世紀的なオーソドックスなパラダイムを打破する意図があった点では一致するとしても、ヨーロッパ産のエルキュール・ポワロと、アメリカ産のサム・スペードやフィリップ・マーローの間には大きな懸隔が存在します。すなわち、脚注引用4にあるようにアメリカのハードボイルド私立探偵には、実存的な個人といういわばモナド的な側面が強烈に見出されるのに対して、エルキュール・ポワロには、多数の国家から構成されるヨーロッパという地政学を背景とした、外交官的な特徴が見られるのです。一言でいえば、前者が個人の不協和が撒き散らされる世界であるとすれば、後者は全体の調和が求められる世界であるということになるでしょう。ポワロの持つ外交官的な特徴は、「オリエント急行殺人事件」においても、「ナイル殺人事件」においても見出せます。ある意味で、19世紀から20世紀の前半にかけての国際政治の縮図のような側面がポワロという人物には見られるのであり、そのような点においてアメリカのハードボイルド探偵小説には見られない華やかさがアガサ・クリスティの作品には垣間見られるのです。それに関連してエピソードを1つ紹介すると、ヒッチコック御用達の映画音楽作曲家であったバーナード・ハーマンが、インスタンブールからオリエント急行が発車し全力疾走するシーン(上掲画像左参照)のバックグラウンドに流されるリチャード・ロドニー・ベネットの手になる優雅なワルツを聞いて、「違う!違う!あれは死の列車なのだ」というような批判の言葉を思わず知らず発したそうですが、ニューヨーク生まれのハーマンは、明らかに「オリエント急行殺人事件」の持つヨーロッパ的なエッセンスを全く理解していなかったようです。個人的に言わせてもらえば、アメリカのハードボイルト探偵小説の映画化であればまだしも、あのシーンのバックグラウンドミュージックは、ハーマンお得意の神経を逆撫でするような不協和な音楽であってはならず、やはりリチャード・ロドニー・ベネットが作曲したような統合化された調和が身振りされる優雅なワルツである必要があるのです。ということで、何度も述べる通り、個人的には「オリエント急行殺人事件」は映画化としては成功作とはとても見なせないと考えていますが、アルバート・フィニー、ローレン・バコール、マーティン・バルサム、イングリッド・バーグマン、ジャクリーン・ビセット、ジャン・ピエール・カッセル、ショーン・コネリー、ジョン・ギールグッド、ウェンディ・ヒラー、アンソニー・パーキンス、バネッサ・レッドグレーブ、レイチェル・ロバーツ、リチャード・ウィドマーク、マイケル・ヨーク、コリン・ブレイクリーと次から次へとスターが登場する超オールスターエンターテインメント作品としては、何はともあれ少なくとも一度は見る価値があると評せるかもしれません。また、これまで述べてきた通り、オーソドックスなミステリー作品を見る見方は捨てた方が良いであろうことを最後にもう一度強調しておきます。


脚注引用1:つまり、語り(ナラティブ)の一貫性に対する探偵(入間註:シャーロック・ホームズのこと)の疑いは、それが「科学的な」仕方ではなく語りとして理解されると、(それを語る)人物の一貫性に対する疑いにまで拡大される。
(The detective's suspicion of the integrioty of narrative, that is, extends to a suspicion of the integrity of persons when they are understood in narrative rather than "scientific" terms. p78)

脚注引用2:(ホームズの)このような疑いは、証人による証言に対して矮小化された価値しか認めなかった(18)世紀後半の英米の法廷実践と、個人の真のアイデンティティを同定する過程で物的証拠や専門的な助言に与えられつつあった犯罪科学における発生途上の権威に、完璧に対応するのである。
(These suspicions coincide perfectly with the diminished value placed on the testimony of witnesses in Angro-American courtroom practice in the latter half of the century and the rising authority in forensic science that was being accorded to material evidence and expert advice in the process of fixing an individual's true identity. p78)


脚注引用3:これらのミステリー小説に登場する探偵たちは、19世紀における見る技術の革新をもたらした視覚技術の入念なネットワークの文学的な表現であると考えられる。
(We might think of these fictional detectives as the literary embodiments of the elaborate network of visual technologies that revolutionized the art of seeing in the nineteenth century. p120)


脚注引用4:これらの探偵たちの仕事は、科学者としての仕事から、嘘で固められた文明機械に反抗して自己を主張するサム・スペードのような実存的な孤独者としての仕事か、或いは密かに国際的な連携を調停しようとするエルキュール・ポワロのような内偵としての仕事に変化した。
(The task of these detectives is transformed from that of the scientist into either that of an existential loner (like Spade) asserting himself against the fraudulent macinery of civilization, or an undercover agent (like Poiret) secretly negotiating an international alliance. p275)
※「either that of an existential loner」とありますが、文脈上「that of either an existential loner」として解釈しました。


脚注引用5:「マルタの鷹」や「オリエント急行殺人事件」において、判決の結果を左右する手段として指紋照合のような技術が際立って瑣末に扱われている点は、現代世界において国民国家的なアイデンティティが理解される新たな交渉的なあり方と照応する。
(In The Maltese Falcon and Murder on the Orient Express, the conspicuous insignificance of technologies like the fingerprint in determining the outcome of the case corresponds to the new, negotiable terms in which national identity is being understood in the modern world. p274)


脚注引用6:国家政策の兵器庫に蓄えられる武器として犯罪科学が際立ち洗練されるにつれて、探偵小説において犯罪科学が占める位置は、犯罪科学がそれまで常に関与してきたより大きな政治的な論点に取って代わられるのである。
(As forensic science becomes a more explicit and sophisticated weapon in the arsenal of national policing, its place in detective fiction is supplanted by the larger political issues with which forensic science has always been implicated. p274)


2009/01/12 by Hiroshi Iruma
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